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ペップはシティへ

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マンチェスター・シティは、来シーズンからジョゼップ・グアルディオラ監督が就任することを正式に発表した。

今シーズン限りでバイエルン・ミュンヘンを退団し、プレミアリーグに挑戦することを明らかにしていた同監督の新天地がついに決まった。

『ガーディアン』によると、グアルディオラ監督の年俸は、バイエルン時代の1700万ユーロ(約22億4000万円)から2000万ユーロ(約26億3000万円)と300万ユーロのアップ。

自身が目指すサッカーに適した選手の加入を望むであろう資金として、シティがグアルディオラ監督に託すのは、最低でも1億5000万ポンド(約261億8000万円)にのぼる。


バルセロナ、バイエルンで数々のトロフィーを獲得し、今や世界の監督人事はグアルディオラを中心に回っていると言っても差し支えないであろう。

まぁ、この2チームなら私が指揮を執ってもグアルディオラの半分ぐらいのトロフィーは獲れたんじゃないかな(爆)。


しかし、監督一人の年俸でJリーグ何チーム分の選手が雇えるのやら・・・(苦笑)。

昨年のJリーグチーム総年俸1位は、G大阪の10億3880万、2位の浦和が9億9580万、チャンピオンチームの広島が7位の6億3620万なので、ほぼチャンピオンシップに出場したJリーグのトップ3チーム分の選手と同等の価値ということか・・・(苦笑)。

下の方なら鳥栖、仙台、新潟、湘南、山形、松本、甲府の7チーム分に相当してしまう(苦笑)。

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スペインのサラマンカ出身で、選手時代はレアル・マドリードで活躍し、スペイン代表に選もばれた経歴を持つ“ビセンテ・デル・ボスケ”。

1984年に現役生活に終止符を打ち、レアル・マドリード・カスティージャで指揮を執るなど育成の責任者として、現在トップで活躍するイケル・カシージャスなどを指導。

トップチームの監督が解任されるなどで、急遽ピンチヒッターとして起用され、監督代行として1994年の数ヶ月、1996年には1試合指揮を執った。

1999年11月、新監督のジョン・トシャックが解任した後、クラブはデル・ボスケを「代行監督」ではなく「正式な監督」として後任に据えることとなった。
リーガ・エスパニョーラでは苦戦を強いられたものの、チャンピオンズリーグでは2シーズンぶりとなる優勝に導いた。
翌00−01シーズン、フロンティアーノ・ペレスが会長に就任し、「銀河系」政策が幕を開け、リーガ・エスパニョーラでは圧倒的な攻撃力で4年ぶりに王座を奪還。
さらに翌01−02シーズンは、スーペルコパで早々にタイトルを獲得すると、チャンピオンズリーグでは流れるような美しいサッカーを披露して勝ち進み、準決勝で永遠のライバルであるバルセロナを破り決勝に進出し、決勝戦でレヴァークーゼンに勝利し、クラブ創立100周年を華々しく飾った。
02−03シーズンにはUEFAスーパーカップに勝ったのを皮切りに、トヨタカップでも優勝。
チームの結束を脅かしかねない強烈な個の力を束ね、リーガ・エスパニョーラでも追走するレアル・ソシエダを振り切り優勝を飾った。
しかし、リーガ優勝を達成した翌日、クラブ首脳部は突如デル・ボスケとの契約を更新しないことを発表。
これはデル・ボスケがフェルナンド・イエロを始めとする選手たちと共にクロード・マケレレの年俸アップを要求していたこと、新しい「銀河系」デビッド・ベッカムについて不要だと意見したことが原因と見られている。
会長ペレスは「デル・ボスケは疲労を見せていた。正直に述べるが、我々は、彼は将来的に適切な監督ではないと考えている。デル・ボスケの経歴は伝統的なもの。我々はより戦術を重要視した人物を探している。我々が築いているチームは違うキャラクターを持った監督によって、より強力になるだろう。」などと語ったのでが・・・。
ペレス自身が提唱した「ジダネス、パボネス政策(スター選手とカンテラ出身の選手の融合)」の成功はデル・ボスケの手腕によるところが大きく、国内外のスター選手とカンテラ出身の若手選手が混在したロッカールームを巧みにまとめ上げ、一つのチームとして機能させていた。
また何があっても動じず冷静沈着であり、選手たちの人望も厚かった。

デル・ボスケ解任以降の迷走は言うまでもない・・・。

2004年のEUROでグループリーグ敗退に終わったスペイン代表の次期監督候補に挙げられていたが、本人は興味を示さず、トルコのベシクタシュの監督に就任するが、シーズン途中で解任された。

また、2006年にはメキシコ代表がドイツ・ワールドカップで敗退した直後に後任の座をオファーされ、本人も光栄なこととしながらもこれを断っている。
2006年夏に行われたレアル・マドリードの会長選挙で、候補のファン・パラシオスの選挙公約で監督に指名されていたが、僅差でラモン・カルデロンに敗れたためレアル・マドリード復帰はならなかった。

TV解説者を経てEURO2008終了後、スペイン代表監督に就任。
2010年南アフリカ大会のヨーロッパ予選では、圧倒的な攻撃力で10戦全勝で本大会出場を決めた。

本大会でも優勝候補筆頭に挙げられるのは必然であり、その中での手腕が注目される。

目新しい戦術などは持ち合わせていないが、人身掌握術に長けており、スター選手を気持ちよくプレーさせることに秀でている。



監督経歴

1994    レアル・マドリード(スペイン)※監督代行

1996    レアル・マドリード(スペイン)※監督代行

1999−2003 レアル・マドリード(スペイン)

2004−2005 ベシクタシュ(トルコ)

2008−現在 スペイン代表


獲得タイトル

★レアル・マドリード
 リーガ・エスパニョーラ優勝2回
 スーペル・コパ優勝1回
 UEFAチャンピオンズリーグ優勝2回
 UEFAスーパーカップ優勝1回
 トヨタカップ優勝1回



真価はワールドカップで・・・!

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旧ソビエト連邦・ウクライナのキエフ出身で、選手時代は主にディナモ・キエフで活躍し、ソ連代表に選もばれた経歴を持つ“ヴァレリー・ロバノフスキー”。

1968年に現役生活に終止符を打ち、1969年に2部リーグに所属するドニプロペトロフスクで指導者としてのキャリアをスタートさせ、1971年にチームを1部リーグ昇格へ導き、その手腕が注目される。

1974年、古巣であるディナモ・キエフの監督に就任すると、アメリカ遠征の際たまたま観戦したNBAの試合で、そのプレッシングに興味を持ち、帰国後これをヒントにスピード溢れス選手を揃え、広いエリアをカバーさせるプレッシング理論を編み出し、選手の選考にもスポーツ科学を基にした考えで、身体的な能力の高さを重要視する。
70年代には、オレグ・ブロヒン、80年代にはイゴーリ・ベラノフというバロンドールを獲得する名アタッカーを擁し、国内では強豪の地位を確立し、ヨーロッパの舞台でも1975年、1986年の2度ヨーロッパ・カップ・ウィナーズカップ優勝に導いた。

ディナモ・キエフの監督だけでなく、ソ連代表監督を1975〜1976年、1982〜1983年、1986〜1990年に兼任。
1976年のモントリオールオリンピックで銅メダル、ディナモ・キエフ出身者や所属する選手で固めた1988年のEUROでは、決勝でオランダに敗れたが準優勝へ導いた。
『試合中のエラーが18%以下なら強いチームのはず』という発言からも、コンピューターを駆使したデータを重視し、時間もスペースもない近代フットボールに対応するため、幾パターンも用意されたプレーを選手達に覚えさせた。

1990年ペレストロイカの影響でソビエト連邦が崩壊し、ロバノフスキーも母国を離れ、UAE、クウェート代表監督を歴任。

1996年、独立した母国ウクライナのディナモ・キエフ監督に復帰するとアンドリー・シェフチェンコに代表される若くスピード豊かな選手達を擁し、チャンピオンズリーグの舞台で97−98シーズンベスト8、98−99シーズンはベスト4へと導いた。
2000年、ウクライナ代表監督も兼任し、迎えた2002年日韓大会の予選ではプレーオフでドイツに破れ、本大会進出はならなかった。

2002年5月7日、ウクライナリーグのメタルググ・ザボロージャ戦後に倒れ、同13日にこの世を去った。
その死を悼み、その年のチャンピオンズリーグ決勝戦では黙祷が捧げられ、ディナモ・キエフのホームスタジアムはロバノフスキー・スタジアムと改名され、翌2003年にミランの一員としてチャンピオンズリーグ優勝を果たしたシェフチェンコは恩師の墓前に優勝メダルを捧げた。


そして、ロバノフスキーは我々にこんな言葉を残した。

コーチは芸術家である。コーチはミスをしてもよい。さもなければ進歩がないであろう。


科学や規律を重んじ、簡素で実利だけを追求しているような印象のロバノフスキーであるが、一方で『勝利は二の次、内容こそ全て』とも発言し、彼自身の理想を体現するチームを目指していたのではないだろうか。

監督経歴

1969−1973 ドニプロペトロフスク(旧ソ連)

1974−1990 ディナモ・キエフ(旧ソ連)

1975−1976 ソ連代表

1982−1983 ソ連代表

1986−1990 ソ連代表

1990−1994 UEA代表

1994−1996 クウェート代表

1996−2002 ディナモ・キエフ(ウクライナ)

2000−2001 ウクライナ代表


獲得タイトル

★ディナモ・キエフ
 ソビエトリーグ優勝7回
 ソビエトカップ優勝6回
 ウクライナリーグ優勝6回
 ウクライナカップ優勝4回
 UEFAカップウィナーズカップ優勝2回
 UEFAスーパーカップ優勝1回

 

テレ・サンターナ

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ブラジルのミナスジェライス州出身で、選手時代は右ウイングとして活躍し、ブラジル代表に選もばれた経歴を持つ“テレ・サンターナ・ダ・シウヴァ”。

所属していたフルミネンセではスター選手であったが、同じポジションにガリンシャ等の名手が揃っていたため、ブラジル代表に選ばれたのは僅か3試合しかなかった。

1967年に現役生活に終止符を打ち、フルミネンセの育成部門で指導者としてのキャリアをスタートさせた。

1969年にフルミネンセのトップチームの監督に就任すると、翌シーズンにはアトレチコ・ミネイロの監督に就任し、1971年に第1回のブラジル全国選手権優勝に導いた。
その後、国内の名門であるサンパウロ、グレミオ、パルメイラスの監督を経て、1980年ブラジル代表の監督に就任。

1981年に過去のワールドカップ優勝国を集め、ウルグアイで開催されたコパ・デ・オーロでは惜しくも準優勝であったが、その後のワールドカップ南米予選を無敗で突破し、本大会へ向けたヨーロッパ遠征でもイングランド、フランス、西ドイツを破り、優勝候補の大本命に挙げられた。
本大会でも、『黄金の中盤』を中心とし、優勝候補の名に恥じない攻撃的で魅力的なフットボールを展開し、ブラジル国民だけでなく世界中を魅了した。
しかし、2次リーグのイタリア戦に思わぬ落とし穴が待っていた。
引き分け以上で準決勝進出ができたのであるが、それまでの攻撃的な戦い方を貫いた結果、復活したパオロ・ロッシにハットトリックを決められ敗退した。

その後、サウジアラビアのアル・アーリの監督に就任するが、1985年からブラジル代表の監督に復帰し、翌年のワールドカップ・メキシコ大会でも魅力的なフットボールを展開し、準々決勝のフランス戦は『ハリスコの芸術』と呼ばれ、両チームともに死闘を尽くした末、PK戦で敗退した。

1988年にアトレチコ・ミネイロの監督に返り咲き、フラメンゴを経て、1990年低迷する名門サンパウロの監督に就任すると、チームは快進撃を続け、1991年には全国選手権で優勝を果たし、翌年のコパ・リベルタドーレスを制し、トヨタカップでもヨハン・クライフ率いるドリームチーム、バルセロナを下し、世界一の称号を手に入れた。
翌シーズンもコパ・リベルタドーレスに優勝し、2年連続で南米代表としてトヨタ・カップで来日。
1993年は、ミランとの激闘を制し、2年連続で世界一にも輝いた。
しかし、1996年に体調を崩し、闘病生活を余儀なくされ、2006年に感染症などのため、この世を去った。

フットボールの二面性を象徴する“自由”と“規律”をあわせたフットボールを指向し、早くからコンピューターによる分析に力を入れる一方で、ブラジル人の特性を活かした即興性あふれるプレーも欠かすことが出来ないと理解していた。



そして、テレ・サンターナは我々にこんな言葉を残した。

我々がフットボールに期待することは芸術的なプレーで、観客が真に満足できるのは美しい試合である。


監督経歴

1969−1970 フルミネンセ(ブラジル)

1970−1971 アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)

1973    サンパウロ(ブラジル)

1977−1978 グレミオ(ブラジル)

1979−1980 パルメイラス(ブラジル)

1980−1982 ブラジル代表

1983−1985 アル・アーリ(サウジアラビア)

1985−1986 ブラジル代表

1988−1989 アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)

1989−1990 フラメンゴ(ブラジル)

1990−1995 サンパウロ(ブラジル)

獲得タイトル

★アトレチコ・ミネイロ
 全国選手権優勝1回
  
★サンパウロ
 全国選手権優勝1回
 コパ・リベルタドーレス優勝2回
 トヨタカップ優勝2回
 

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ラファエル・ベニテス

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スペインのマドリード出身で、現在イングランドの名門リヴァプールの監督を務める“ラファエル・ベニテス”。

レアル・マドリードの下部組織などに所属したが、度重なるケガのため、若くして現役を引退。

引退した翌年からレアル・マドリードのカンテラで指導者の道を歩み始め、その後は主に国内の2部リーグでキャリアを積み、97−98エストレマドゥーラ、00−01テネリフェで2度の1部昇格へ導いた手腕を買われ、01−02シーズンから強豪のバレンシアの監督に就任する。

当時無名であったベニテスの手腕を疑問視する声も多かったが、就任直後のシーズンでリーガ・エスパニョーラで優勝を果たした。
03−04シーズンには、再びリーガを制覇し、UEFAカップとあわせ2冠に導いたが、フロントとの対立によりバレンシアを退団する。

辞任会見から2週間後、ベニテスは海を渡り、イングランドのリヴァプールと契約を結ぶ。
04−05シーズン、リーグでは周囲の期待を裏切り、早々と優勝争いから脱落するが、UEFAチャンピオンズリーグでは快進撃を見せた。
ホームのアンフィールドで熱狂的なサポートを受け、優勝候補のユヴェントスやライバルであるチェルシーなどの強豪を撃破し、決勝の地イスタンブールへチームを導く。


伝説となった決勝の相手は、イタリアのミラン。
前半開始早々に先制点を許すと、前半だけで3点のリードを許し、誰もが諦めかけた状況の中、一人諦めの悪い男がいた。
ベニテスは諦めることなく、メンバーを替えシステムを変更し、後半の戦いに臨む。
ポジションを前目に替えたスティーブン・ジェラードを基点に反撃し、54分、56分、60分と立て続けにゴールを奪い同点に追いつく。
前半は沈んでいたリヴァプールサポーターは勢いを取り戻し、スタジアム中に『You'll Never Walk Alone』が響き渡った。
その後、試合は膠着状態となり、90分を終えて3−3。
延長戦でも決着がつかず、勝負の行方はPK戦へ。
先攻のミランは、セルジーニョが枠外に外し、続くピルロもGKにストップされ追い込まれたが、リヴァプールの3人目リーセも失敗。
GKのデュデクがミランの5人目であるシェフチェンコのキックをストップし、激闘に幕を降ろした。
土壇場で逆転され、悲嘆にくれるミランと奇跡的な勝利に歓喜するリヴァプールとで、くっきりと明暗が分かれた。
チャンピオンズカップ時代を含め、21年振り通算5度目のビッグイヤーを手にし、ビッグイヤーを永久保持する権利を獲得した。


翌05−06シーズンでは、FAカップを獲得。
3年目となった06−07シーズンでは、再びチャンピオンズリーグ決勝に駒を進めるが、2年前の雪辱に燃えるミランの前に敗れた。
カップ戦で好成績を収める中、リーグ戦では就任後5位、3位、3位とライバルの後塵を拝する格好になっており、今シーズンも優勝は絶望的であり、アメリカ人オーナーとの関係は決して良好とは言えない。
チャンピオンズリーグでも、グループリーグ序盤の3戦で1分2敗と不振を極め、解任の危機に陥ったが、そこから見事に3連勝(得点16、失点1)を飾り、地獄から生還した。
決勝トーナメントの1回戦の1stレグでも、アンフィールドの熱い声援を背に、イタリア国内で無敵を誇るインテルに2−0と先勝した。

ヨーロッパでの戦いには、無類の強さを誇っている。


ベニテスは決して一人ではない。世界で最も熱いサポーター達がついている・・・。

監督経歴

1995−1996 バリャドリード(スペイン)

1996−1997 オサナス(スペイン)

1997−1999 エストレマドゥーラ(スペイン)

2000−2001 テネリフェ(スペイン)

2001−2004 バレンシア(スペイン)

2004−現在 リヴァプール(イングランド)

獲得タイトル

★バレンシア
 リーグ優勝2回
 UEFAカップ優勝1回
 
★リヴァプール
 FAカップ優勝1回
 UEFAチャンピオンズリーグ優勝1回
 UEFAスーパーカップ優勝1回
 

アーセナルのベンゲルマンチェスター・ユナイテッドのファーガソンのように長期政権を確立させるためには、89−90シーズン以来遠ざかっているリーグチャンピオンが必要不可欠である。

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