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ディフェンスラインの左右両サイドに位置するサイドバック。 年々、重要性が高まってきたポジションであり、サイドにおける守備はもちろん、攻撃時には前線まで駆け上がり、ドリブルで切り込んだりクロスボールを上げチャンスメイクをし、時には自らフィニッシュまでも行う。 当たり前のことであるが、守備能力に加え、ピッチを激しく上下動するための豊富な運動量やスピード、サイドを突破する技術、クロスを上げる精度の高いキックが求められる。 守備を重視するチームなどでは、本来はセンターバックの選手をサイドにも配置し、ディフェンスラインの4人ともセンターバックの選手が起用される場合も珍しくない。 しかし、これがブラジルとなれば話は別。 もともと攻撃好きの選手達であり、自ら進んでディフェンスなどやりたがらないのでないかと思われる国民性(笑)。 『一応、君はディフェンスのポジションなんだけど、自由に攻撃に参加してもいいよ』とでも約束しないと、誰もディフェンスをやらなくなる可能性大である(笑)。 当然ながら、過去の歴史を見ても非常に攻撃的なサイドバックの選手が多数存在する。 いや、攻撃的ではないサイドバックなど、いないのではないか・・・(笑)。 システム的にサイドバックという概念が定着した1950年代以降。 1958年、1962年大会連覇に貢献したニウトン・サントス、ジャウマ・サントスに始まり、1970年大会でキャプテンを務めたカルロス・アウベルト。 その流れは脈々と受け継がれ、システムによってはウィングバックとして、ポジションの関係でMFとして出場する選手もいたが、ネリーニョ、ジュニオール、ジョジマール、ブランコ、ジョルジーニョ、レオナルド、カフー、ロベルト・カルロス、マイコン、ダニエウ・アウヴェスらがカナリアの両翼を担ってきた(太字はワールドカップでの得点者)。 まぁ、どこを相手にしても圧倒し、ボールをキープできるブラジルだからこそ、成せる業なのかもしれないが・・・。 彼らが日本代表だったら、攻撃に参加する時間を与えてもらえないかもね・・・(笑)。 その前に、サイドバックなどやらせず、センターフォワードだな(爆)。
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世界の強豪国
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世界の強豪国はこんな国。
日本が越えれる日は来るのだろうか・・・。
日本が越えれる日は来るのだろうか・・・。
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世界最古のフットボール協会であるThe FAは1863年に創設された。 そのため、正式名称には定冠詞で称され、国名がついていない。 FAは、近代フットボールのルール制定に大きな役割を果たし、その後世界各地へ普及するのに多大な貢献を果たしたため世界中から尊敬の念を込め『フットボールの母国』と呼ばれているイングランド。 1872年11月30日には、スコットランドにおいて、世界で最初の国際試合を行った。 それはFIFAやUEFAが設立される、ずっと以前のことである。 そのため、イングランドはフランス人が中心となって設立したFIFAへ加盟するものの『我こそが母国であり、世界最強』を自負していたため、ワールドカップへ参加することはなかった。 しかし、FIFAから脱退していたイギリスの各協会は、FIFAへ1946年に再加盟し、長い沈黙を破り、第二次世界大戦後に開催される1950年ブラジル大会へ参加する事を決定した。 連合王国を構成するイギリスの各協会は、特例として1949年から1950年にかけて行われたイギリスの国内大会の1位と2位のチームが参加することとなった。 1位がイングランド、2位がスコットランドであったが、スコットランドは優勝チームで無いことを理由に参加を辞退した。 『母国』イングランドは、優勝候補の1つに数えられたが、大会の2戦目でアメリカに0−1で敗れると、続くスペインにも0−1で敗れ、1次ラウンドで姿を消すとともに、世界中に赤っ恥を晒すこととなった。 アメリカ戦の敗北は考えられないことであり、新聞に結果が記載されると、印刷ミスであるとして新聞社に抗議の電話が殺到した。 そして、1952年“聖地”ウェンブリースタジアムに当時世界最強と呼ばれた“マジック・マジャール”ハンガリーを迎えたイングランドは、3−6と歴史的大敗を喫し、翌年雪辱を誓って乗り込んだアウェーでの一戦でも1−7と史上最大の失点差で敗れ、一連の敗北はイングランドが世界最強の座から完全に凋落したことを世界へ知らしめることとなった。 1966年、プライドと威信を賭けた自国で開催されるワールドカップにおいて、B・チャールトンを中心に決勝で西ドイツを破り初優勝を果たし、なんとか面目を保った。 しかし、その後は1990年イタリア大会で4位になったのが最高であり、1998年、2002年大会には優勝経験国でありながらシード国から外されるという屈辱も味わった。 1977年からUEFAチャンピオンズカップでイングランドのクラブが6連覇を果たすのだが、イングランド代表は70年代後半から80年代、国際舞台で低迷を続けた。 それに呼応するようにフットボールは暴力の道具に利用され、スタジアムはフーリガンで占拠され1985年のヘイゼルの悲劇、1989年のヒルズボロの悲劇で多くの犠牲者を出すこととなった。 世界から尊敬を集めた『母国』は、世界一の『ならず者』の烙印を押されるようになったしまった。 W1930年 不参加 W1934年 不参加 W1938年 不参加 W1950年 1次リーグ敗退 W1954年 ベスト8 W1958年 1次リーグ敗退 E1960年 不参加 W1962年 ベスト8 E1964年 不参加 W1966年 優勝(自国開催) E1968年 3位 W1970年 ベスト8 E1972年 ヨーロッパ予選敗退 W1974年 ヨーロッパ予選敗退 E1976年 ベスト8 W1978年 ヨーロッパ予選敗退 E1980年 ベスト8 W1982年 2次リーグ敗退 E1984年 ヨーロッパ予選敗退 W1986年 ベスト8 E1988年 ベスト8 W1990年 4位 E1992年 ベスト8 W1994年 ヨーロッパ予選敗退 E1996年 ベスト4(自国開催) W1998年 ベスト16 E2000年 グループリーグ敗退 W2002年 ベスト8 E2004年 ベスト8 W2006年 ベスト8 W:ワールドカップ E:EURO ワールドカップと並ぶ大会であるEUROでは、これまで決勝にも進んだことがなく、『母国』としてのプライドが進化を妨げてきた。 イングランドにとって、ワールドカップ、EUROともに準々決勝がなかなか越えられない壁となっている。 そして、2008年に行われるEUROの予選では、引き分け以上で出場が決まるクロアチアとの最後の試合で敗戦を喫し、出場を逃してしまいプライドとともにライオン・ハートは傷つけられた。 自ら外へ飛び出さず、長きに渡って自らが最高の存在だと信じてきたイングランド。 その間に大陸の各国は進化をとげ、それを知るころには手遅れになっていた。 しかし、狭い中からフットボールをジッと見つめてきたことで、フットボールの深さを知っている事も事実である。 海に囲まれたイングランド、大陸を知らず。されどフットボールの深さを知る。 かな・・・。
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この国では、様々な娯楽が存在するため他の強豪国のように『娯楽=フットボール』とはいかない。 F1やル・マン、パリ・ダカールラリーに代表されるモータースポーツ、ツール・ド・フランスが開催される自転車、全仏オープンのテニス、凱旋門賞の競馬等々世界有数の大会が開催されている。 そして、意外にも柔道はJUDOとしてお家芸である日本の競技人口を上回る人気がある。 そんな背景もありレ・ブルーの愛称で呼ばれる代表チームは、ホームであっても熱烈なサポートを受けてきたわけではなかった。 特に花の都パリでは、フランス人気質である超個人主義に加え、都会意識が高く気取ったパリジャンは、スタジアムでも熱狂的な一体感を生み出すことはなかった。 これまでフランスが獲得したタイトルは少ないが、ワールドカップには12回出場して優勝1回を含め、ベスト4以上が5回もある。 ヨーロッパ選手権にも6回出場し2回の優勝を含め、ベスト4に4回進出している。 本大会へ出場すれば、高い確率で好成績を収めるが、予選で敗退してしまう脆さも持ち合わせている。 最初に名を馳せたのは、1958年スウェーデン大会であった。 『ナポレオン』と呼ばれたレイモン・コパ、13得点を挙げ大会得点王(1大会での最多得点記録)になったジュスト・フォンテーヌを擁し、準決勝でブラジルに敗れたが3位となった。その後しばらく低迷の時代が続き、1966年大会には出場したが、1次リーグで敗退。 そして、2大会連続して予選敗退を喫する。 復活の兆しが見えたのは、1978年アルゼンチン大会。 1次リーグで敗退したが、優勝候補相手に若い選手達が堂々の戦いを挑んだ。 前回大会で経験を積んだ若手が順調に成長をみせ、コパに続いて『ナポレオン』と呼ばれたミシェル・プラティニを中心に華麗なパスをつなぎ、1982年スペイン大会、1986年メキシコ大会でともに準決勝で西ドイツに敗れたが、「シャンパン・フットボール」と呼ばれ賞賛された。 その中間年に地元で開催されたEURO1984では、プラティニ自身が得点王になるなどの大車輪の活躍を見せ、母国に初めてのタイトルをもたらした。プラティニが引退すると、またも低迷期に入り、またも2大会連続で出場を逃してしまう。 特に1994年アメリカ大会では、エリック・カントナ、ジャン・ピエール・パパンらを擁しながら、残りホーム2試合で勝点1を取れば出場できる状況から連敗を喫し、出場を逃してしまう。 最終戦のブルガリア戦はロスタイムに失点を喫し、敗退したことで『パリの悲劇』と呼ばれている。 この2試合のうち1試合でも、パリではなく他の都市で行われていれば・・・。 1998年、フランスで2度目のワールドカップが開催された。 これまでフランスの社会はアフリカ、アジア、ヨーロッパから多くの移民を受け入れてきたが、これまでのフランス代表は、フランス人(白人)を主体にチームを構成してきた。 しかし地元で初優勝を狙うため、これまでの伝統を放棄し、多くのアフリカやカリブ海、旧植民地からの移民もしくは子孫の選手が選出された。 その数は、メンバーの約半数にも及び、フランス代表の変質は、国粋主義者から批判を受け、監督のエメ・ジャケも脅迫にさらされた。 しかし、アルジェリア系移民のジネディーヌ・ジダンを中心とした彼らの活躍で、フランスは初めてワールドカップ優勝を勝ち取ることで批判をかわした。 優勝を決めたフランス代表がシャンゼリゼ通りに凱旋すると、通りはトリコロールに身を包んだ市民で埋め尽くされ、熱狂の渦と化した。 この優勝で初めてフランスは一体となり、ジダンもまた『ナポレオン』の座を継承した。 そして、EURO2000でも安定した試合運びで勝ち進み、決勝戦ではイタリアに先制を許すも、試合終了間際に同点に追いつき、延長戦のゴールデン・ゴールで16年振りとなる2度目の優勝を果たし、ワールドカップ、EUROを制覇し真の黄金時代を迎えた。しかし、2002年日韓大会では優勝候補に挙げられながらも、ジダンの負傷でチームは精彩を欠き、まさかの1次リーグ敗退となった。 EURO2004でもベスト8に終わり、一時代を築き上げた選手たちが引退すると、さらに低迷し2006年ドイツワールドカップでは予選敗退の危機に陥った。 一度は引退したジダンが代表に復帰すると、フランスは息を吹き返し、予選を突破し本大会でも予想外の躍進を見せ、決勝戦まで勝ち進んだ。 しかし、その輝きはロウソクの最後の灯火であり、ポストジダンという難問を先送りにしたに過ぎなかった。 EURO2008では、その答えが出せるのか楽しみである。 フランス革命後のフランスをまとめあげ、全ヨーロッパを侵略し、一時はヨーロッパを席巻したナポレオンはこんな言葉を残している。 レイモン・コパはポーランド系移民、ミシェル・プラティニもイタリア系移民であった。 ジネディーヌ・ジダンを含め3人の『ナポレオン』は、国外から流星のようにやってきて、フランスフットボールに光を当て、輝かせたのである。 そしてピッチの上だけでなく、フランス人が近代フットボールの発展に大きく関わってきた事実も忘れてはならない。 FIFA初代会長のロベール・ゲラン、同3代目会長でワールドカップ創設の功労者ジュール・リメ、ヨーロッパ選手権をアンリ・ドロネー、ヨーロッパチャンピオンズカップをガブリエル・アノーがそれぞれ提唱し、重要な役割を果たしてきた。
ヨーロッパ年間最優秀選手に贈られるバロンドールを創設したのも、フランスのフットボール誌であった。 フランスがワールドカップに優勝したことも影響し、日本でもフランス国立のユースアカデミーであるクレールフォンテーヌ国立研究所を真似るようになった。 ここにフランス中の優秀な選手が集められ、出身者には、ニコラ・アネルカ、ルイ・サハ、ウィリアム・ギャラス、ティエリ・アンリがいる。 しかし、日本には移民を受け入れてきた社会も歴史もなく、ほぼ単一民族国家である。 所詮、真似は真似でしかない・・・。
そのプロジェクトは、オシムも危惧していた事である。 |
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音楽史上に残る作曲家や演奏家を多数輩出し、ベルリン・フィルなど世界的なオーケストラも多く、中でも『三大B』と呼ばれる偉大な音楽家を生み出し、尊敬を集める存在であるドイツ。 しかし、フットボールではワールドカップで王国ブラジルに次ぐ成績を残し、3度の優勝を誇りながらも肯定的に捉えられる事が少ない国である。 ドイツ人は体格的に恵まれ、屈強な選手が多いため「パワープレー」のイメージがつきまとう。 ファンタジーあふれるプレーよりも、全員が規律を守り、よく動くフットボールを好み、『質実剛健』という言葉がよく似合う。 そして、『ゲルマン魂』と形容される驚異的な粘りで逆境に立たされても、決して勝負を諦めない闘志で幾度も奇跡的な勝利を収めてきたにもかかわらず・・・。 最初に優勝を飾ったのは、1954年スイス大会。 大会の注目は、プスカシュ、コチシュ、ヒデクチ、チボール等の名手を擁し、“マジック・マジャール(魔法を使うマジャール人)”と呼ばれ、世界中から恐れられていたハンガリーであった。 西ドイツ(当時)は1次リーグでハンガリーと対戦。手の内を知られないためと今後の組み合わせを考え、控えメンバーを中心に臨んだ西ドイツは、3−8粉砕されるが、ハンガリーのエースであるプスカシュを危険なタックルで負傷に追い込んだ。 当時の不思議なレギュレーションで1位通過したハンガリーは、決勝トーナメントの1回戦で強豪ブラジルを破るが、この試合は『ベルンの激闘』と呼ばれる荒れた試合となり、試合が終わってからも乱闘が続いた。 準決勝でも優勝候補の一角、ウルグアイと延長戦までもつれ込む激戦をなんとかものにし、決勝までたどり着いていた。 一方、西ドイツはユーゴスラビア、オーストリアを楽々下し、万全の状態で勝ち上がっていた。 決勝は、負傷をおしエースのプスカシュを復帰させたハンガリーが前半10分までに2点リードを奪うが、ここから西ドイツの代名詞である『ゲルマン魂』を見せ、前半のうちに同点に追いつくと、後半終了間際に決勝ゴールを挙げ、初優勝を飾った。第二次世界大戦での敗戦後、国民に勇気と希望を与える勝利ではあったが・・・。 名手を揃え、戦術に革命を起こし、優勝するに相応しいハンガリーの優勝を横取りした西ドイツは最初のヒールとなった。 2度目の優勝は、地元で開催された1974年西ドイツ大会。 瓦礫の中でボールを蹴り、ワールドカップ優勝のラジオ放送に胸を躍らせた少年達が中心となっていた。 しかし、ここでも注目を集めたのは、ヨハン・クライフを中心に“トータル・フットボール”で世界を席巻したオランダであった。 西ドイツは、苦しみながらもキャプテンのフランツ・ベッケンバウアーを中心にしぶとく勝ち上がり、決勝戦でオランダと対戦した。 キックオフから西ドイツは一度もボールに触れることなくPKを献上し、開始早々2分に先制点を許してしまう。 前半25分に疑惑(後に倒された選手が反則ではなかったと告白)のPKを得て同点に追いつくと、前半終了間際にG・ミューラーがゴールを決め、勝ち越す。 後半オランダの猛攻を凌ぎ、そのまま逃げ切り2度目の優勝を飾った。世界に衝撃を与え、現在の戦術にも大きな影響を与えたオランダ。 オランダが勝っていれば、フットボールがより攻撃的で魅力的になっていたと言われている。 ここでも見事にヒール役を演じて見せた。 東西冷戦時代に終わりを告げ、東西ドイツ統一へ動き出し西ドイツとして最後の大会となった1990年イタリア大会。 グループリーグを余裕で突破し、決勝トーナメント1回戦で宿敵オランダを破り最難関を突破した西ドイツは、準々決勝のチェコスロバキア戦をPKの1点を守りきり、準決勝のイングランド戦ではFKが壁に当たりGKの頭上を越えるラッキーなゴールで先制し、追いつかれるがPK戦の末決勝へ駒を進めた。 これで3大会連続で決勝の舞台に立ち、決勝の相手は前回と同じ、マラドーナ率いるアルゼンチン。 勝負を決めたのは、怪しげな判定によるPKであった。残り時間5分という緊迫した場面でキッカーのブレーメは機械のような冷徹さでゴール左へ流し込み、このまま西ドイツが虎の子の1点を守り3度目となる優勝を飾った。前回大会で戦術を越える存在であったマラドーナを意識するあまり敗れ去った西ドイツは、今回はマラドーナ自身のケガもあり完璧に封じ込めた。 しかし、創造力と無縁のチームは『史上最も退屈な王者』と評され、この試合を観たヨハン・クライフが「まるでハンドボールのようだった」と戦いぶりを皮肉った。 優勝を飾りながら、いつもヒール(悪役)の扱いをされてきたドイツ。 ワールドカップに16回出場し、ベスト4以上に進んだのは11回と70%近い驚異的な確率で、この数字はブラジルの55%をも凌駕する。 憎いほど強いヒールである。 やはり2度の世界大戦を引き起こした歴史が、世界の人々に根強く残り、嫌われているのだろうか? いつか、世界一のヒールではなく、世界最大のビール祭り「オクトーバーフェスト」のように世界中が楽しめるフットボールを見せる日がくるのか・・・(笑)。
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ブログのタイトルにあります“美しく勝利せよ”はフットボール界の重鎮であるヨハン・クライフの言葉である。 彼の発する言葉は、神の啓示であるがごとく、フットボール界に多大な影響を及ぼしてきた。 しかし、フットボールの“美しさ”を定義するのは非常に難しい事である。 個人の嗜好や感覚の領域であり、さらにその国の国民性であり、ひいてはその国の歴史的な背景が多大に影響する。 フットボールに“美しさ”が欠かせない国、ブラジルでは『フットボールは芸術である』と言われ、ほとぼしる情熱、受け継がれた熱い血と愛と喜びによって成立する。 1970年、ワールドカップメキシコ大会でブラジルは、ペレを中心に前人未踏の3度目の優勝を飾り、この時のセレソンこそ歴史上、最強のチームと言われている。 そして“美しさ”と“強さ”を両立したこのチームが、ブラジルの美学を固定化することとなった。 ブラジル人にとってフットボールは、絵画や音楽などの芸術と同じく“美しく”“楽しい”ことが定義であり、その上で“強さ”がなければならない。 ブラジルではそれが理想のフットボールではなく、むしろ最低条件なのである。 その例が1982年スペイン大会と1994年アメリカ大会それぞれのセレソンの評価である。 82年『黄金のカルテット』を擁し、攻撃的に臨んだセレソンは、2次リーグでイタリアの前に沈んだ。一方94年のセレソンは決勝で宿敵イタリアをPK戦の末下し、24年振りの優勝を遂げた。 しかし、ブラジル国民の評価は圧倒的に82年のセレソンの方が高い。 その理由は、ただ一つ82年のセレソンがブラジルらしい攻撃的なフットボールを展開し、国民を魅了したのに対し、94年のセレソンはヨーロッパナイズされた守備的な戦いをしたからである。 そして、ブラジルと対極に位置するのは、現世界王者のイタリアである。 イタリア人のカルチョに対する美学は、「0−0の試合こそ理想のゲーム」であり、両チームが一つのミスを犯さなかった試合に“美しさ”を求め、かなり特異である。 相手の攻撃を「耐え忍ぶ」姿勢に美学を感じ取り、同じヨーロッパでもオランダやフランスのように人数で圧倒して相手の隙(弱点)を攻めゴールを奪うことやドイツや北欧のように身体能力の高さによる力業でゴールを奪うことを“美”としないのがイタリア人である。 ファッション、美食、荘厳な建築物に数々の芸術作品から享楽的なイメージがあるイタリア人であるが、ことカルチョに関してはマゾヒスティックと言えるほど、耐え忍んだ末の勝利にこそ喜びを見出す。 結果重視、守備偏重の戦術で、地獄から一瞬にして天国へ昇り詰める勝利を愛する精神性を持つ。 守備偏重の副産物として、イタリアには一人の力で奇跡を起こす力を持ったファンタジスタが生まれる。 彼らは自国の堅牢な守備によってイマジネーションと戦術眼を鍛えられ、守備偏重の土壌と奇跡を願う祈りがファンタジスタを育てる。 このパラドックスがイタリアの真髄であり、“美しさ”である。 |




