Formula 1

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A・セナが大好きでした・・・。
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川の流れのように

センター試験も来週に迫り受験生は、まさにラストスパートですね。

警告!

この記事は、受験を控える方にとっては、あまり縁起がよろしくありませんので、閲覧をお控え下さい。

ヨーロッパGPは、同じ国が年2回レースを行うとき、1国1開催の原則を回避するため、「ヨーロッパ」の名を冠して開催される。
そのため開催国は年代によって異なり、当初は他地域で開催するはずのレースがキャンセルされた時など、緊急の代価開催としてヨーロッパ内のサーキットを利用して行われるグランプリであり、その開催は不定期であった。
しかし、1995年以降ミハエル・シューマッハの活躍と人気を受け、ドイツのニュルブルクリンクでの開催が定番となっていた。


2007年、予選でルイス・ハミルトンがクラッシュを起こしたが、検査の結果出場許可が出された。
決勝は、スタート直後に大雨が降り、各チームのピットは大忙し、路面は雨水であふれ滑りやすい状態になり、第1コーナーで6台がコースアウトするなど大波乱の展開となった。




セーフティカーですら、恐る恐るの運転です・・・。

燃えているか〜

1994年、この年F1は大きな転機を迎えた。

サンマリノGPでアイルトン・セナが事故でこの世を去り、新たにベネトン・フォードをドライブした若きミハエル・シューマッハーがチャンピオンに輝いた。

ベネトン・フォードはこの年、ピットでの作業タイムで他チームを圧倒し、大きなアドバンテージを得ていた。


しかし、第9戦のドイツGPで事故は起こった。



この年から導入された「再給油」のためヨス・フェルスタッペンがピットインし、再給油中にガソリンの給油口からガソリンが漏れ出し、そのガソリンが高温のエキゾーストパイプにかかり・・・。




幸いにもドライバーとメカニックを含めて軽傷で済んだが、火災の原因は、チームが不正に給油口を改造した事があったため、チームにはペナルティが課せられた。

ライオン・ハート

ライオンのような走りで、アイルトン・セナ、アラン・プロスト、ネルソン・ピケら歴代チャンピオンとともに一つの時代を彩ったナイジェル・マンセル。
イメージ 1


その走りは、まさに獲物を狙うライオンのようにアグレッシブかつチャレンジで、常に100%でのドライブであったため、時にマシンは火を噴き、宙を舞い、コースアウトを見せたが、そのドライブは人々の心を熱くし、多くのファンに愛されてきた。




ロータス

カートやイギリスF3を経て、1980年にロータスでF1にデビュー。
デビュー戦で、ガソリンタンクから燃料がしみ出し、それがレーシングスーツを通して背中に炎症を作ったが、その痛みに耐えてマシンを走らせた。
しかし、ロータス在籍時のマンセルは、後に暴れん坊といわれる時と比べると精彩がないシーズンを送ることになる。しかも理解者でもあったチーム監督のコーリン・チャップマンが1982年12月に急逝してしまい、その後を継いだピーター・ウォーとは非常に折り合いが悪かった。
1984年のアメリカGPでは自身初のPPを奪ったものの、チェッカー目前で壁にタイヤを当てミッションを壊してしまい、自らマシンを押してチェッカーを目指すも、途中で力尽き気絶してコース上に倒れてしまったという逸話もある。
結局ロータス在籍実質4年で、何度か表彰台には登るが優勝することはできず、アイルトン・セナの加入により押し出される形でチームを去ることになった。
これがきっかけで不仲となったとされる。

ウィリアムズ

1985年にウィリアムズへ移籍し、ヨーロッパGPでようやく初優勝を果たす。
72戦目での初優勝は、当時の最遅記録だった。続く南アフリカGPでも優勝し、急激に頭角を現す。
ウィリアムズは、1983年最終戦からホンダエンジンの供給を受けており、その戦闘力が高まった1986年は一気にチャンピオン争いに加わる事になったが、チームメイトのネルソン・ピケとの関係は険悪であり、互いの情報交換は一切なかった。
マンセルは最終戦オーストラリアGPを迎えた時点でランキングトップに位置しており、チャンピオンをほぼ手中に収めていたが、決勝では左リアタイヤのバーストにより、リタイア。
この際、280km/hでの走行中のバーストにもかかわらず、クラッシュすることなくコントロールし、マシンを停止させている。
結局あと一歩の所で王座を逃すこととなった。
1987年はイギリスGPで地元観客の大歓声を受け、怒涛の追い上げで30秒近い差を逆転し優勝するなど、ここでもチャンピオン争いを展開。
この年、最多の6勝を記録するが、リタイアも多く、勝てないレースでもコンスタントに入賞していたピケにランキングではリードを許すことになる。
第15戦の日本GPにおいて、逆転の可能性を掛けて挑むが、予選1日目に大クラッシュ。
背中を痛めたことでこのレースと最終戦を欠場に追い込まれ、2年連続で王座を逃す。
1988年はホンダがマクラーレンへのエンジン供給に切り換えた事により、ウィリアムズは非力なジャッドエンジンでの戦いを余儀なくされ、チームメイトのリカルド・パトレーゼとともにマンセルも大苦戦を強いられた。
更に、病気で2戦欠場して、結局出場した14戦中12回もリタイアしてしまった。
しかし、2回の完走では2回とも2位表彰台を獲得する。

フェラーリ

1989年からは、フェラーリへ移籍。
エンツォ・フェラーリから直々のオファーを受けた最後のドライバーと言われている。
病床のエンツォは、オファーを出す立場ではなかったとの説もあるが、マンセル自身はエンツォと数回に渡って会食をしており、直々のオファーを受けたとも言っている。
前年に続き、マクラーレンのプロスト・セナが圧倒的に強かったが、孤軍奮闘。
開幕前、マクラーレン圧倒的有利の下馬評の中、開幕戦ブラジルGPで優勝。
新技術であったセミオートマチックを搭載したマシンのデビュー戦にして初勝利でもあった。
その後はマシントラブルに泣かされ、チームメイトのゲルハルト・ベルガー共々、リタイアが続いたが、ヨーロッパラウンドに戻ってからは、毎レース表彰台に登る。
そして第10戦ハンガリーGPでは、予選12番手から追い上げ、シーズン2勝目を挙げた(1位走行中のセナをトラブルなしの同一周回で抜いたのは、この年はマンセルのこの時のみであった)。
一方で第13戦ポルトガルGPでは、ピットを逆走(ピットを通りすぎてしまった為にバック走行、レギュレーション違反)の後の黒旗(失格を意味する)を3周にわたって無視し(逆光で旗が見えなかったと弁明)、最終的にアイルトン・セナと第1コーナーの飛び込みで接触事故を起こし、出場停止を受ける一幕も。
失格しながらも走行を続け接触事故を起こし、しかも相手がギリギリの所でチャンピオン争いに踏みとどまっていたセナだったこともあり、この接触はかなりの波紋を呼んだ。
1990年にはチームメイトがアラン・プロストとなるが、プロストの移籍前には良好だった関係は、イタリア語が出来るプロストが順調な成績を収める中、自身が精彩を欠いていたこともあって、チームの主導権が完全にプロストに移り、芳しくなくなった。
そんな中、第8戦母国イギリスGPでリタイア後、突然の引退を表明するが、その後これを撤回して古巣ウイリアムズで復帰する。

第二期ウィリアムズ

1991年、ウイリアムズはエイドリアン・ニューウェイとパトリック・ヘッドの合作、FW14を投入。
序盤には3戦連続リタイヤを喫したが、レースを重ねるごとにマクラーレン・ホンダのセナを凌ぐ速さを見せ、第7戦フランスGPから3連勝するなど、猛烈な追い上げを見せた。
しかし、第5戦カナダGPではスタートから終始トップを走行しながら、最終ラップでストップ。
レース終了後にマシンを調べたところエンジンが掛かりギアも入ったため、本人は否定しているが「マンセルが観客に手を振った際、誤ってマシンのキルスイッチに触れたのでは」という説も囁かれた。
その後も、第11戦ベルギーGPでトップ走行中にストップ。
第13戦ポルトガルGPでは、トップ快走中のタイヤ交換作業直後にスタッフが右後輪のナットを締め忘れ、脱落。
その後、自チームのピットレーン外で再装着作業を行ったことが、レギュレーション違反とされ、失格処分を受けている。
続くスペインGPで優勝し、逆転の可能性を残し挑んだ第15戦の日本GP決勝で、10周目セナの後ろを走行中にコースアウトし、リタイア。
このことで王座はセナのものとなり、三度王座を逃す結果となった(ちなみに鈴鹿でコースアウトする直前、マンセルはピットに無線でI`m cruising now.と言っていたらしい)。
速さではセナとマクラーレンを上回っていたものの、マシンの信頼性に難があったことに加え、チームやマンセルのイージーミスが致命的な敗因になったと言われている。
また何度もチャンピオンを逃した様子から、「無冠の帝王」の代名詞の一人にあげられるようにもなっていた。
ウィリアムズは、アクティブサスペンションなどを搭載したハイテクマシンFW14Bで序盤から圧倒的な速さを見せる。
マンセルは、前年のセナの開幕4連勝を上回る開幕5連勝を記録するなど、連戦連勝。
第11戦ハンガリーGPPにおいて、2位に入り、遂に念願のワールドチャンピオンに輝いた。
最終的に16戦中14回のPP、計9勝を記録しているが、これは1988年にセナが記録した13PP、8勝の記録を塗り替える当時の最多記録だった。
しかし一方で、ウイリアムズとの契約のもつれや年俸の高騰などを理由に、パトレーゼと共にチームを離脱することとなった。
マンセルはチャンピオンを決めた僅か2戦後、イタリアGPで引退会見をすることとなった。
ウイリアムズのオーナー、フランク・ウイリアムズは既にこの時に、自チームのマシンなら誰が乗ってもタイトルを取れると確信しており、プロスト、セナもウイリアムズに熱烈なラブコールを送っていた。
マンセル自身も周囲も、マンセルがプロストかセナとコンビを組むとなれば、ほぼ確実に揉めるだろう、と予想していたことだった。
『私の力の及ばない理由により、今シーズン限りでのF1からの引退を決めた』と発言し、会見をしたイタリアGPの後、マンセルはインディへの移籍を発表した。

F1復帰

翌1993年にはアメリカのCARTに参戦し、ルーキーながら5勝を挙げチャンピオンを獲得し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーにも輝いている。
しかし、ここでもチームとの契約トラブルなどから翌1994年シーズン終了後に離脱へと至る。
1994年シーズン中、日程に影響のないフランスGPに、事故死したセナの代役として、古巣ウイリアムズからスポット参戦でF1復帰。
ラスト3戦にも参戦し、日本GPでは豪雨の中ジャン・アレジとの長い3位争いで一歩も引かぬバトルで健在ぶりを示し、最終戦オーストラリアGPではPPを獲得、決勝でも優勝を記録し、健在振りを発揮した。
翌1995年、本格的にF1に復帰するつもりだったが、ウィリアムズはマンセルより若くて給料の安いデビッド・クルサードを選んだため、結局マクラーレンと契約を結ぶも、コックピットが狭いとの不満を漏らし開幕から2戦を欠場。
第3戦から参戦するも、マシンのポテンシャルが低いことにモチベーションを失い、シーズン途中で離脱を表明し、事実上F1から「引退」した。

F1とCARTで2年連続チャンピオンを獲得した唯一のドライバーとなった。



Tail to Nose


Side by Side


マンセルのためにあるような言葉であった・・・。

イメージ 1

Ending


1994年シーズン、念願であった当時最強のウィリアムズ・ルノーへの移籍を果たすが、新車FW16は当時のウィリアムズの武器であったアクティブ・サスペンションやトラクション・コントロール・システムなどのハイテク技術が、ルール変更により禁止され、開幕直前一ヶ月前まで完成を待たなければならず、空力を重視したマシンは非常にナーバスなマシンに仕上がっていた。
特にアクティブ・サスペンションはマシンの神経質な部分を補っていたため、ハイテク禁止はウィリアムズにとって大きな痛手となった。
開幕戦のブラジルGPでは、ピット作業でシューマッハに逆転され、シューマッハを追う中でスピンを喫しリタイヤ。続く第2戦パシフィックGPでも、スタート直後にミカ・ハッキネンに追突されてリタイヤ。両レースとも予選ではPPを獲得していたが、結果的にはリタイアに終わる。
そんな中迎えた第3戦サンマリノGPは、予選から重大事故が多発。
予選1日目には、可愛がっていた同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし、鼻骨を骨折。
そして予選2日目には、ローランド・ラッツェンバーガーの、F1における12年ぶりの死亡事故が発生し、異常な雰囲気で迎えた決勝の5月1日。
セナは第1戦、第2戦同様PPからスタートしたが、開幕2連勝で波に乗るミハエル・シューマッハの猛追を受ける。
そして運命の7周目、超高速コーナー「タンブレロ」において、時速310kmで突如コントロールを失う。
マシンはそのまま直進してコースアウトし、コンクリートウォールに激突し大破した。
蘇生処置を施されつつヘリコプターでイタリア・ボローニャ市内のマジョーレ病院に搬送される。
セナは現地時間午後6時3分に脳死状態に陥り、午後6時40分、事故発生から約4時間後に死亡した。



事故に至った原因は、今なお確定していない。
しかし前日の走行でセナがタンブレロ・コーナーの路面状態の悪さを大会関係者に問いただしており、大会関係者に対する非難も高まった。
また、当事故の現場は、1987年にネルソン・ピケがクラッシュでコンクリート壁に激突し大怪我を負ったほか、1989年にはゲルハルト・ベルガーが当事故現場至近で大クラッシュし、その直後にマシンが炎上する事故も発生するなど、大きな事故が度々発生していたにも関わらず、サーキット全体の安全対策が見直されていなかった事も批判を集めた。
事故発生の瞬間、タンブレロ・コーナーでセナのマシンがそのまま直進するようにコンクリートウォールに激突した事から、セナのドライビングミスによる説は早くから否定され、ステアリング系統などセナの車にトラブルが発生し、コントロール不能に陥ったという説が有力視されている。
事故時にセナが搭乗していたFW16は、イタリア検察庁に事故原因究明の証拠品として押収され、司法の手により当時のウィリアムズの関係者ら数名が事故についての過失責任を問われることとなるが、レース中の事故に法的責任を問えるのか、といった論点も絡めて、責任の所在を求めることは混迷を極めた。
事故から10年以上を経た2005年5月30日、イタリアの裁判所は過失を問われていた当時の関係者全員について、ようやく過失責任なしという判断を下し、無罪が確定した。
これにより、セナの事故原因は不明のまま幕を閉じた。

アイルトン・セナという偉大なドライバーを中心軸として、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケとのライバル関係、そして新鋭のミハエル・シューマッハに名脇役であったゲルハルト・ベルガーやリカルド・パトレーゼなど全てのドライバーがセナの存在により輝いていた。


そして、数字だけでは語れない数々のドラマが存在していた・・・。



アイルトン・セナ F1での記録


1984年 トルーマン ハートン  TG183B TG184 14戦0勝 PP0・FL1 9位

1985年 ロータス ルノー    97T      16戦2勝 PP7・FL3 4位

1986年 ロータス ルノー    98T      16戦2勝 PP8・FL3 4位

1987年 ロータス ホンダ    99T      16戦2勝 PP1・FL3 3位

1988年 マクラーレン ホンダ  MP4/4     16戦8勝 PP13・FL3 チャンピオン
 
1989年 マクラーレン ホンダ  MP4/5     16戦6勝 PP13・FL3 2位

1990年 マクラーレン ホンダ  MP4/5B     16戦6勝 PP10・FL2 チャンピオン 

1991年 マクラーレン ホンダ  MP4/6     16戦7勝 PP8・FL2 チャンピオン

1992年 マクラーレン ホンダ  MP4/6B MP4/7A 16戦3勝 PP1・FL1 4位

1993年 マクラーレン フォード MP4/8     16戦5勝 PP1・FL1 2位

1994年 ウィリアムズ ルノー  FW16        3戦0勝 PP3・FL0 −


アイルトン・セナ語録


「僕達はいつも限界で闘っている。マシンも人間もだ。それがモーターレーシングであり、F1なんだ」

「理想を語ることは簡単だが、自ら実践するのはすごく難しい。だからこそ、とにかく、どんな時でも、ベストを尽くして生きなければならない。その結果、うまくいく時もあれば、そうでない時もある。間違いを犯すこともあるだろう。でも、少なくとも、自分自身に対しては誠実に、そして、自らの描いた夢に向かって、精いっぱい生きていくことだ。」

「なぜ人生には、不幸なことが起きるのか、それを理解するのが最も難しいことなんだ。愛する友達や家族を亡くせば、なぜ、自分が、こんなに辛い目にあうのかと思うだろう。でも、それは僕ら人間にはわからない。それを理解するには、人間の心はあまりにも小さすぎるんだ。だから、僕達は、ただその苦しみに耐え、悲しみを乗り越えるために、より強くならなければならない。しかし、数年後、数十年後になって、その時の悲しみの意味がわかることもある。」

「もし、誰かが、僕の活動や僕のやり方、僕の話し方や行動やふるまいに、特別なものを感じ、そこに何かポジティブな面を、見出したとするなら、その人は、僕自身の真実の姿を、受け入れているんだと思う。僕はレーシング・ドライバーであり、スポーツマンだ。『できると信じればやれる』という、大きな信念を持った男なんだ。そして、僕はいつでも、自分の心に従って生きている。だから僕のファンの人達は、僕という人間の内面を見ているのだと思う。表面的な姿ではなくてね。そして、僕は、そういう人達を、決してがっかりさせたりしない。絶対に裏切らない。なぜなら、僕は、僕以外の何者にもなれないから……。」

「例えば今の僕は、着実に上昇し、あと少しで大きな成功をつかもうとしている。だけど、仮にそれをつかんだとしても、頂点に到達したわけではない。自分には、まだまだ可能性があるはずだ。もっともっと、高いところに昇る力が……本当の頂点がどこなのかはまだわからないけど…… 僕が選んだ道、僕が歩いてきた道には、まだ続きがあるはずなんだ。そして、そのずっと先に頂点がある。」

「注意深く考えた上で、自分はできる、そしてどんなミスも犯さないんだと、信じられるかどうかがすべてなんだ。慎重に考えてね。」

「もし自分が生きるんだったら、思う存分、密度の濃い生き方をしたい。僕は密度の濃い人間だから……。そうじゃないと、人生が台なしになってしまう。だから、僕はひどいケガをして病院で唸っているのも好きじゃない。もし、事故で命を失うようなことになるんだったら、一瞬に終わってほしいね。」

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Turning


1988年にはホンダエンジンを獲得したマクラーレンに移籍し、アラン・プロストとのF1史上最高ともいわれる最強タッグはシーズンを席巻し、16戦で15勝をあげ10度の1−2フィニッシュを記録した。
セナはこのうち、当時史上最多勝記録となる8勝を挙げ、7勝を挙げたプロストを下し、第15戦日本GPで自身初のチャンピオンを決めた。
しかし、第13戦ポルトガルGPでプロストに幅寄せしたことで2人の間に溝が出来始めていた・・・。

1989年は第2戦サンマリノGPで、シーズンの初勝利を飾るが、このレースでセナは「1コーナーを制した者が優勝の権利を有する」というプロストとの紳士協定を破り、一周目の2コーナーでプロストを追い抜いてしまう。両者の見解の相違であったが、このことで2人の溝は決定的なものとなり、チームにとって大きな問題となった。
この年セナは6勝を挙げたが、リタイヤが多く、優勝以外でも堅実な走りを見せたプロストがシーズンをリードして迎えた第15戦の日本GPにおいて、両者がシケインで接触してストップしてしまう。
セナは復帰するもシケイン不通過で失格となり、プロストがチャンピオンに決定した。
セナは、当時FIA会長だったジャン・マリー・バレストルから「危険なドライバー」と見なされ、スーパーライセンス剥奪の危機に陥いり、ライセンスが発行されたのは、年が明けた後だった。

1990年、プロストはフェラーリに移籍したが、3年連続で争うこととなった。
最終的にセナは6勝を挙げ、2度目のチャンピオンに輝くが、第15戦日本GPにおいて、スタート直後に両者が接触しリタイヤするというものだった。
2年連続の接触による結末は、非常に後味の悪いものとなった。
翌年、セナはこの接触が故意によるものだったと認めており、前年の接触をプロストの故意によるものと捉え、報復の意図があったことを示し大きな批判を受けることとなった。

1991年、第2戦ブラジルGPで悲願の母国初優勝を達成。ギアボックストラブルにより、終盤に6速のみでの走行を余儀なくされた中での勝利だった。
これを含め、当時の新記録となる開幕4連勝を記録するが、その後ウィリアムズが巻き返し、ナイジェル・マンセルとのチャンピオン争いを繰り広げることとなった。
第10戦ハンガリーGP直前、本田宗一郎が死去。喪章を付けて挑んだこのレースで、セナはポール・トゥ・ウィンを達成、6戦ぶりに頂点に立った。
チャンピオン争いは、第15戦日本GPまでもつれれこむが、このレースでマンセルは10周目に1コーナーでスピンアウトしリタイヤしたため、セナが3度目にして生涯最後のチャンピオンを獲得した。
ウィリアムズのマシンは、中盤以降速さではマクラーレンを上回っていたが、信頼性に乏しかった。
一方のセナは16戦中15戦完走、入賞14回と勝てないレースでもポイントを積み重ねていた。
シリーズは、この年から全戦のポイントで争われており、結果的にはこれがセナに追い風となった。

1992年は、ウィリアムズ・ルノーが開幕から圧倒的な強さを見せ、マクラーレンは劣勢を強いられた。
第6戦モナコGPでは、終盤にF1史上に残るナイジェル・マンセルとのバトルを制して同年初勝利を飾るが、シーズンを通して優勝3回、PPも1回に留まり、リタイヤはF1参戦中2番目の多さとなる7回を記録し、ランキングも4位とシーズンを通し不本意な結果となった。
また、この年をもってホンダが活動を一時休止することとなった。

ホンダが去ったマクラーレンは、ベネトンと同じフォードV8エンジン搭載のマシンで、ウィリアムズ・ルノー陣営と比べて絶対的に不利な情勢と見られていた。
ウィリアムズへの移籍が叶わなかったセナは、マクラーレンのマシンに不満を抱いており、1993年の休養もほのめかしていたが、結果的に第7戦カナダGPまでを1戦ごとの契約で走り、第8戦フランスGPにて正式にシーズン契約を結び、全戦に出走した。
開幕戦の南アフリカGPでは予選・決勝共に2位と戦前の予想を覆す健闘を見せ、続く第2戦ブラジルGPではレース途中の豪雨も味方となり、デイモン・ヒルを追い抜き、優勝。
続くヨーロッパGPでも、大雨の中オープニングラップで前を行く4台を鮮やかに抜いてトップに立ち2連勝と予想外の奮闘を見せた。
第6戦モナコGPでは、シーズン3勝目を記録しグラハム・ヒルを上回る同GP6勝目を達成。
また1989年からの同GP連勝記録を5に伸ばした。
その後、ウィリアムズが本調子となり、セナは優勝はおろか表彰台にも立てないレースが続き、シーズン全体で見ればマシン性能差は大きく、プロストはおろか新人のヒルの後塵までも拝すことになる。
第13戦イタリアGPでのリタイアでセナはこの年のタイトル獲得可能性を失い、続く第14戦ポルトガルGPにて、プロストのチャンピオンが決定した。
しかし、第15戦日本GPで王座を手中にしてこの年限りの引退を決めていたプロストに最後の意地を見せ、予選2位からスタートの第1コーナーでPPのプロストを抜き去りトップに立ち、雨の中優勝を飾る。
最終戦オーストラリアGPでは、この年初めてとなるPPを獲得し、レースでも、タイヤ交換時以外はトップを譲らずシーズン5勝目、通算では41勝目を記録。これが生涯最後の勝利となった。
そのオーストラリアGPの表彰台では、長年の確執を終わらせるかのように、両者が立ち並び握手をする一幕も見られ、一つの大きな時代の終焉を迎えた。


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