世界の中堅国

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主役になる機会は少ないが、名脇役のように欠かせない国です。
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兵器輸出国

スウェーデンの兵器メーカーであるボフォース(Bofors)は、第二次世界大戦期の37mm対戦車砲や40mm機関砲などの優れた兵器を製造した。

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また、有名なドイツの88mm高射砲もクルップ社とボフォース社が生産提携して開発されたものから発展したとされる。

ボフォース社は、1646年にスウェーデンのカールスコーガに設立された鉄工所を前身とし、この会社で最も有名なのは、経営者であるアルフレッド・ノーベル。

ノーベルは、ボフォースを鉄工所から、研究開発に基づいた現代の大砲・化学工業メーカーに発展させることに成功した。

実質2年あまりしか経営に携わっていないが、彼の資金力と研究開発は、その後のボフォース社の発展に非常に大きな役割を果たした。

1930年代に、ボフォースによって開発された40mmの高射機関砲は、第二次世界大戦の対空戦闘に決定的な役割を果たすこととなり、アメリカの艦載対空兵器の中で日本の航空機を最も撃墜したのは、ボフォース社製の40mm機関砲であるといわれている。


そんなスウェーデンは、フットボール界にも優秀な兵器(アタッカー)を送り出してきた。

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ミランで活躍し、「グレ・ノ・リ」トリオと呼ばれたグンナー・グレン、グンナー・ノルダール、ニルス・リードホルムを中心に、1948年のロンドンオリンピックで金メダルを獲得、1950年のワールドカップブラジル大会では3位、1958年に自国で開催されたワールドカップで準優勝を遂げるなど、欧州屈指の強豪として名を馳せた。

その後は、予選突破がやっとの中堅国にまで落ち込んでいたが、1992年の自国開催のEUROでは、グループリーグでイングランド、フランスといった強豪を抑え準決勝へ進出。

準決勝では惜しくもドイツに屈したが、国際大会で久々の上位進出を果たした。

1994年ワールドカップアメリカ大会でも、トマス・ブロリン、マルティン・ダーリン、ケネト・アンデション、ヘンリク・ラーションの活躍で3位に入るなどの活躍を見せ、近年もフレドリク・ユングベリ、ズラタン・イブラヒモビッチ、キム・シェルストレームなどの攻撃陣を抱え、EUROでは2000年から3大会連続で出場し、ワールドカップでは2002年日韓大会でアルゼンチン、イングランド、ナイジェリアが同居する「死のグループ」と呼ばれたグループリーグを突破。

2006年ドイツ大会でも、グループリーグを突破し決勝トーナメントへ進出している。

しかし、今年行なわれる南アフリカ大会のヨーロッパ予選では、スカンジナビア半島のライバルであるデンマーク、ポルトガルの後塵を拝し、久々に本大会出場を逃した。

アルプスの小国

大国、ドイツ、フランス、イタリアに囲まれているスイス(他にもオーストリア、リヒテンシュタイン)。

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公用語もドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンジュ語の4つが用いられている。

スイスはご承知の通り、永世中立国として多国間で戦争が起こっても、常に中立の立場であることを宣言し、他国からそれを保障および承認されている。

1815年のウィーン会議で、国家としての「永世中立国」が認められ、第一次世界大戦でも武装中立を維持したため、1920年に国際連盟の本部が設置され、続く第二次世界大戦時にも四方を柩軸国のドイツイタリアに囲まれながらも武装中立を維持していた。

第二次大戦後、設立された国際連合には長きに渡って加盟していなかったが、2002年9月に行われた国民投票の結果を受け、190番目となる加盟国となった。

ジュネーブには国際機関の本部が数多く置かれ、ローザンヌにはIOC本部がある。

そして、スイス最大の都市チューリッヒにはFIFAの本部があり、悪党どもが夜な夜な悪だくみを・・・(笑)。



そんなスイスが1934年大会の初参加からワールドカップで作った記録・・・。

1934年イタリア大会

1回戦      ○ 3−2オランダ

準々決勝     ● 2−3チェコスロバキア


1938年フランス大会

1回戦      △ 1−1ドイツ

1回戦再     ○ 4−2ドイツ

準々決勝     ● 0−2ハンガリー


1950年ブラジル大会

1次リーグ    ● 0−3ユーゴスラビア

1次リーグ    ● 0−2ブラジル

1次リーグ    ○ 2−1メキシコ


1954年スイス大会

グループリーグ  ○ 2−1イタリア

グループリーグ  ● 0−2イングランド

グループリーグ決 ○ 4−1イタリア

準々決勝     ● 5−7オーストリア


1962年チリ大会

グループリーグ  ● 1−3チリ

グループリーグ  ● 1−2西ドイツ

グループリーグ  ● 0−3イタリア


1966年イングランド大会

グループリーグ  ● 0−5西ドイツ

グループリーグ  ● 1−2スペイン

グループリーグ  ● 0−2アルゼンチン
 

1994年アメリカ大会

グループリーグ  △ 1−1アメリカ

グループリーグ  ○ 4−1ルーマニア

グループリーグ  ● 1−2コロンビア

決勝トーナメント ● 0−3スペイン

7大会に出場し、6勝2分14敗。

特筆すべきは、これまでの全22試合で失点しており、

連続試合失点記録を保持している。



ワールドカップは、スイスの前に熟練者であっても困難なルートと呼ばれる、マッターホルン北壁のごとく立ちはだかった。

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しかし、国際連合加盟がきっかけになったわけではないだろうが、スイスは突如生まれ変わった(笑)。

2006年ドイツ大会

グループリーグ △ 0−0フランス

グループリーグ ○ 2−0トーゴ

グループリーグ ○ 2−0韓国

準々決勝    ▲ 0−0ウクライナ

12年振りに出場したワールドカップで、なんと4試合全てで無失点・・・。

惜しくも準々決勝でPK負したが、これまで試合のたびに失点を重ねてきたのが、ウソのような堅守ぶりを発揮。



開催国となったEURお2008では、グループリーグ敗退の憂き目にあったが、近年ユース育成に力を入れ、先のU−17ワールドカップでも初優勝を飾り、大国といえど隙あらば一泡ふかす力をつけつつある。




2010年南アフリカ大会へも、組み合わせに恵まれたとはいえ、1位で予選通過し2大会連続での出場となった。




『クララが立った!』ではないが、『スイスが勝った!?』とは、もう言わせない(笑)。

不屈のシャムロック

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これまで、日本と同じ3度のワールドカップに出場しているアイルランド。

国土は北海道を一回り小さくし、人口は大阪府の約半分ほどの小国である。

有望な選手は少年期より、イングランドやスコットランドのチームのユースにスカウトされ海外に渡ってしまうため、代表選手には国内でプレーする選手がほとんどいない。

国内リーグの規模や予算も小さく、トップの数チームを除けばセミプロ状態のチーム・選手が殆どである。

殆どの代表選手は、国内リーグを経ずに直接イングランドのプレミアリーグ、またはその下部組織から選手生活を始める。

何人かの代表選手はイングランドで生まれ、イングランドで育った選手であるが、アイルランド系の選手を積極的に発掘するという方針により多くのイギリス国籍の選手もアイルランド代表に招集されている。

2002年ワールドカップ直前キャンプにおけるチーム内の衝突も、アイルランド系英国人である監督のミック・マッカーシーとその出自に不満を抱くアイルランド生まれでアイルランド育ちであるキャプテンのロイ・キーンとの対立であった。

国内リーグの人気は低く、殆どのアイルランド人は隣国のプレミアリーグのリヴァプールやマンチェスター・ユナイテッド、もしくはスコットランドのケルト系チームであるセルティックの戦いに熱狂している。

現在のアイルランド共和国に相当するアイルランド26州が、英愛条約によってアイルランド自由国としてイギリスから分離したのは1922年。

それ以前はアイルランド島全島で、統一された協会アイリッシュ・フットボール・アソシエーション(IFA)と「アイルランド代表」を有していた。

しかし、アイルランド26州がイギリスから分離したため、これらの地域では英愛条約締結直後にアイリッシュ・フットボール・アソシエーションから分離した協会が設立された。

これがフットボール・アソシエーション・オブ・アイルランド(FAI)である。

一方でアイリッシュ・フットボール・アソシエーションは、イギリスに残ったアルスター6州で存続したため、それまでの協会と、その協会によって編成されていた「北アイルランド代表」に分かれた。

アイルランド自由国では独立後も、条約容認派と反対派によってアイルランド内戦が引き起こされ情勢が安定しなかったため、ナショナルチームによる国際試合は、1926年3月21日に初めての国際試合がダブリンで開催された。

相手はイタリアで、アイルランド自由国代表は0−3で敗北したが、これが新興国家アイルランド自由国代表の第一歩であった。


その後アイルランド自由国は、1937年に「エール」に、1949年にはイギリス連邦から完全に独立して「アイルランド共和国」に国名を変更した。

この間も国際大会への挑戦が続いていたが、ことごとく退けられていた。

アイルランドが大きな国際トーナメントの本戦に初めての出場を果たしたのは、1988年のEUROであった。

この時はグループリーグで敗退したが、1990年ワールドカップイタリア大会では、初出場ながらもベスト8に進出。

グループリーグ

1−1 イングランド
  
0−0 エジプト

1−1 オランダ

決勝トーナメント1回戦

0−0(PK5−4) ルーマニア

準々決勝

0−1 イタリア

ちなみに、この時の1大会4引き分けは、1978年大会の西ドイツと並び、1大会での最多引き分け記録である。


1994年アメリカ大会では、在米のアイルランド系移民の後押しを受け、前回で苦杯を喫したイタリアを下すなどグループリーグを突破したが、決勝トーナメント1回戦で敗れた。

グループリーグ

1−0 イタリア

1−2 メキシコ

0−0 ノルウェー

決勝トーナメント1回戦

0−2 オランダ


1998年フランス大会は出場を逃したが、2大会後の2002年日韓大会の予選では、ポルトガル、オランダと同じグループという激戦区の中、オランダを蹴落として出場を決めた。

更に本大会のグループリーグでは、またしてもグループリーグを突破し、決勝トーナメント1回戦でもスペインをあと一歩のところまで追い詰めた。

グループリーグ

1−1 カメルーン

1−1 ドイツ

3−0 サウジアラビア

決勝トーナメント1回戦

1−1(PK2−3) スペイン

3大会に出場し、全てでグループリーグを突破し決勝トーナメントへ進出している。

13試合を戦い、その内8試合でドロー(PK戦含む)。

内スコアレスドローが3試合、残り5試合が1−1。

1−1の全てが先制されながら、しぶとく追いつき、ドローに持ち込んだものである。



2006年ドイツ大会の予選では、フランス、スイスなどと同組になり、イスラエルの躍進で激戦区となった結果、2位とは勝ち点1差の4位で敗退しているが、2010年南アフリカ大会の予選では2試合を残し、因縁のイタリアに次ぐ2位をキープ。

このままいけば、プレーオフ進出となり、2大会ぶりにアイリッシュが帰ってくるかも知れない。
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強豪国に比べれば、地味な存在ながらも、出場すれば毎回強豪国と互角の戦いをみせ、その熱い闘いは観ている者を魅了する。

同じ3回出場でも、どこかの国とはえらい違いである(爆)。

記録は残せないが、記憶に残る戦いを演じてくれるのがアイルランドである。

13試合戦って通算10ゴールと1試合平均1ゴールにも満たないが、ゴールを決めた時間帯を見てみると。

前半はわずか2ゴールに対し、後半に8ゴールと圧倒的に多いのがわかる。

その内、残り時間20分間で挙げたのが6ゴール。

さらにその内、残り10分間で4ゴールを決めており、最後の最後まで勝負を諦めないしぶとさがある。






アイルランド代表のシンボルであり、胸のエンブレムを飾るシャムロック

このシャムロックには、アイルランド人が持つフットボールへの

『情』、『魂』、『愛』が宿っている。

アステカの花

記念すべき第1回のワールドカップ・ウルグアイ大会(1930)にも出場し、ブラジル(18回)、イタリア・ドイツ(16回)、アルゼンチン(14回)に次ぐ、13回もの出場を誇るメキシコ。

その内の2回、ベスト8へ進出しているが、いずれも開催国として出場した1970年、1986年大会である。

そんなメキシコが、ワールドカップで最多記録を保持しているのが、通算最多敗戦記録である。
これまでに22敗(決勝トーナメントでのPK戦敗退を除く)を記録している。

北中米というライバルがいない地域で、出場回数が多いゆえの記録であるが、決して弱小国というわけではない。

ちなみに、日本は3大会で6敗しているので、いずれはこの記録を破る可能性大である(笑)。


もっとちなみに、韓国が7大会で13敗、アメリカが8大会で16敗で先行している(笑)。


話をメキシコに戻すと、最近の4大会ではグループリーグを突破しながらも、決勝トーナメント1回戦が壁になっている。


決勝トーナメント1回戦の成績


1994年アメリカ大会
グループリーグでは4チームが勝点、得失点差で並ぶ激戦をイタリアを抑え、1位で通過しながらもブルガリアにPK戦の末敗退。

1998年フランス大会
ドイツに先制しながらも、逆転を許し敗退。

2002年日韓大会
イタリアを抑え、グループ1位で突破するものの、アメリカに0−2で完敗。

2006年ドイツ大会
アルゼンチンに延長の末1−2と惜敗。

存在感を発揮しながらも、常に惜しいところで敗退が続いている。

ヨーロッパやアフリカの国に比べ、体格で劣るメキシコであるが、しっかりとパスをつなぎ、豊富な運動量で南米やヨーロッパの強豪とも互角に渡り合ってきた。

もちろんボールを扱う技術にも優れているのだが、何かが足りない・・・。

どこ国のサポーターからも嫌われることのない、明るい国民性が勝負に徹しきれず、仇になっているのか・・・。





こうなれば、数千人の競技人口を持つ、お得意のルチャリブレの代表格、ミル・マスカラスのようにマスクをつけて、空中殺法や関節技を身につけるしかないかな(笑)。


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同じマスクマンでも、これではダメ(笑)。







残る手段は、必殺のカニばさみと背中パス。













1990年大会は、予選にも出場していませんが、たしか・・・。

次回の開催国(アメリカ)を本大会へ出場させたいがために、ユース年代の大会で年齢詐称があったとかの理由で、FIFAは予選へ出場させなかった。





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花を咲かせるまでに数十年を要し、成長の遅さに、100年(1世紀)に1度開花するという誤った認識から、センチュリー・プラント(Century Plant)という英語別名がつけられているテキーラの原料にもなっている『竜舌蘭』のように、ワールドカップ優勝という『花』はいまだ咲かない・・・。



メキシコは、これからも出場し続けて、強豪相手に大健闘しながらも、大会を去って行くんでしょうね〜。
大航海時代となる15世紀半ばから16世紀にかけ、ポルトガルは先駆者的存在であり、ヨーロッパで最初に日本などの東アジアと接触を持った国であり、日本史にも大きな影響を与えた国である。

1486年10月10日、ポルトガル国王ジョアン2世は、アジアに至る交易路を確立するため、アフリカ周回航海の遠征にバルトロメウ・ディアスを任命した。

1487年8月、リスボン港を出港した艦隊は、1488年南緯29度付近(現南アフリカポート・ノロス)で嵐に遭遇し13日間漂流。
嵐がすぎ陸地から離れたことに気付き、陸地に近づくため東進するが、陸地に到達しないため、北上を試みると西側に陸地が現れ、気付かないうちにアフリカの南端を通り過ぎていたのである。
2月3日モッセル湾に上陸をもって、『アフリカ南端到達』としている。
その後、アガラス岬、グレート・フィッシュ川を巡り、そのまま行けばインドに到達する事が判明したため、引き返す途中の5月に「喜望峰」を発見した。

1488年12月、16ヶ月以上にも及んだ航海を終えリスボン港に帰港。
ディアスは、ジョアン2世にその苦難の航程から「嵐の岬」と報告していたが、東方への道を開くという成果に喜んだジョアン2世が「喜望峰」として名称を変更させた。

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ディアスの功績として「喜望峰発見」はもちろんであるが、ヨーロッパ人として初めてアフリカの南端に到達し、その後インドを始めとするアジアへの道筋を確実にし、アラブの商人を介さずにインド・アジアと直接交易を可能にした点である。

半世紀後の1543年、時は戦国時代、ポルトガル人が種子島に漂着し、南蛮貿易が始まったとされる。
織田信長、豊臣秀吉は基本的に南蛮貿易を推奨したため、ポルトガルよりもたらされた火縄銃はそれまでの戦を変え、ガレオン船は交易の礎となった。

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さて、そんなポルトガルであるが、フットボールの世界では、他のヨーロッパ諸国に遅れること1960年代にようやく檜舞台に立つ。
チャンピオンズカップで、ベンフィカ・リスボンが60−61、61−62と連覇を果たし、大航海時代のライバルであったスペインのレアル・マドリードから覇権を受け継ぎ、62−63、64−65、67−68シーズンにも決勝まで駒を進めた。

その間に行われた1966年ワールドカップ・イングランド大会で、ようやく予選の壁を打ち破り初出場を果たすと、準決勝で地元イングランドに敗れたが、3位という好成績を収めた。

黄金期の中心となったのが、当時ポルトガル領だったモザンビークで生まれ、黒豹の愛称で呼ばれたエウゼビオである。
同じ時代にプレーしたペレとも並び賞されたストライカーで、現役通算727試合に出場し715ゴールを記録した。
大航海時代が残した遺産のおかげで、ポルトガルはようやくフットボールの檜舞台に立つことができた。

しかし、エウゼビオが引退した1970年代に入ると再び低迷し、ワールドカップ、EUROでは予選敗退が続いた。
1984年のEUROで久々に国際舞台に立ち、準決勝へ進出する健闘を見せ、2年後の1986年ワールドカップ・メキシコ大会に出場するものの、その後は続かなかったため、突発的な印象しか残せなかった。

中堅国と呼ぶにもおこがましい状況で、ポルトガル国民の期待を背負ったのが、1989年、1991年のワールドユースで連覇を果たした、ルイス・フィーゴ、ルイ・コスタパウロ・ソウザ、フェルナンド・コウトを中心とするゴールデン・ジェネレーション(黄金世代)と呼ばれた選手たちであった。

この才能あふれる選手たちがヨーロッパ各国のリーグで経験を積み、最初に迎えた国際大会であるEURO1996で、華麗なパス回しとアタッキングフットボールで観客を魅了したが、決定力不足により準々決勝でチェコの前に涙を飲んだ。

次のEURO2000では、グループリーグでイングランド、ドイツのワールドカップ優勝経験国を破り、堂々の首位でグループリーグを突破。
FWのヌーノ・ゴメスの活躍で、準々決勝のトルコ戦にも快勝し、迎えた準決勝の相手はワールドカップを制したフランス。
ヌーノ・ゴメスのゴールで先制するが、後半に追いつかれ、一進一退の攻防は延長戦に突入。
終了間際に不運なハンドでPKを献上し、それをジダンに決められ、事実上の決勝戦と呼ばれた戦いに敗れ、『黄金世代』が円熟期として迎えた大会で惜しくもタイトルを逃した。

2002年ワールドカップ日韓大会では、フィーゴ、ルイ・コスタらのコンディション不良からグループリーグを突破できぬまま大会を去った。

開催国として迎えたEURO2004では、初戦のギリシア戦に敗れグループリーグ敗退の危機に陥った。
このためルイス・フェリペ・スコラーリ監督は世代交代を敢行し、C・ロナウド、デコ、リカルド・カルヴァーリョら『黄金世代』に代わる新戦力にチームの命運を託した。
彼らは期待通りに活躍し、グループリーグを突破し、準々決勝でイングランド、準決勝でオランダを破り、決勝で再び顔を合わせたギリシアを破り、『黄金世代』のストーリー完結に戴冠の時が来たと思われたが、再びギリシャに敗れ準優勝に終わった。

大会終了後、『黄金世代』の中心であったルイ・コスタ、フェルナンド・コウトが代表引退を表明し、世代交代は加速していった。

フィーゴら一部のベテランと若手が絶妙に噛み合い、2006年ワールドカップ・ドイツ大会ではエウゼビオ時代以来40年ぶりとなるベスト4進出を果たしたが、またもジダンのPKの前に敗れ去った。

近年こそワールドカップ・やEUROの常連国となり、その華麗なプレーは多くの人々を魅了し、世界的な強国として知られるようになったが、ワールドカップ出場はドイツ大会を含めて4回のみである。

フィーゴ、C・ロナウドを筆頭に、セルジオ・コンセイソン、シモン・サブローサ、リカルド・クアレスマなど優秀なサイドアタッカーを多く輩出する国としても知られる。

しかし、タイトルを獲るためには絶対的なストライカーが必要である。

2010年南アフリカ大会の予選は、今年佳境を迎える。

現在、グループ3位と苦戦が続くポルトガルであるが、進化した翼であるC・ロナウド水先案内人となり母国を『喜望峰』へ導けるのであろうか?

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3月には最大のライバルと目されるスウェーデンをホームに迎える。

苦戦が続く嵐(予選)を乗り越え、喜望峰(本大会)へ到達する事が出来れば、華麗さにしぶとさを兼ね備えた新しいポルトガルが観られるかもしれない。



ちなみにポルトガル料理は魚介類を多用し、米の消費量はヨーロッパ最多である。

勝負弱さ、ストライカー不足とともに、レベルは違うがかの国と良く似ている・・・(笑)。

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