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高い身体能力、豊富な運動量と卓越した戦術眼で、攻撃的なチームの中盤の守備を一手に引き受けた“クロード・マケレレ”。 1993年、ナントでキャリアをスタートし、クラブでの活躍が評価され、1995年7月のノルウェー戦で代表デビューを果たす。 また、95−96シーズンではチャンピオンズリーグで準決勝進出に貢献。 その後、オリンピック・マルセイユを経て、98−99シーズンよりスペインのセルタ・デ・ビーゴへ移籍。 2000年には名門レアル・マドリードへ引き抜かれ、超攻撃的なスター集団の中において、中盤の守備を担うハードワーカーとして活躍し、00−01、02−03シーズンのリーガ制覇、01−02シーズンにはチャンピオンズリーグの制覇に貢献。 当時のチームメイトから「彼こそ、俺たちのバロンドールだ」という、最大級の賛辞が送られた。 2002年ワールドカップ日韓大会に出場するが、出場機会に恵まれず、チーム全体の不調もありグループリーグで敗退する。 02−03シーズン終了後、サラリーの問題などもありレアル・マドリードを退団。 後のインタビューで、自身の仕事に敬意を払われなかったことが問題なのであり、当時のレアル・マドリードの会長、フロレンティーノ・ペレスに「どんなに金を積まれても、私は出て行く」と言ったと述べている。 その後、ロシアの石油王、ロマン・アブラモヴィッチが新オーナーとなったチェルシーへ移籍し、持ち前の守備力でレアル・マドリード時代と同様の活躍を見せ、04−05、05−06シーズンにリーグ連覇を果たした。 EURO2004以降代表から引退を表明していたが、2006年ドイツ大会のヨーロッパ予選で、フランス代表は予選敗退の危機を迎え、ドメネク監督の希望によりジダン、テュラムとともに代表に復帰し、予選通過に貢献する。 本大会では、全7試合にフル出場し決勝進出の立役者となったが、決勝戦でPK戦の末にイタリアに敗れ準優勝に終わる。 大会終了後、代表引退を明らかにしたが、EURO2008の予選でドメネク監督に招集され、モウリーニョ監督を巻き込み騒動となった。 本大会にも招集されたものの、チームはグループリーグで敗退となり、改めて代表引退を発表。 大会終了後、パリ・サンジェルマンへ移籍し、10−11シーズン終了後に現役を引退。 代表引退の記者会見の席で、フランス代表としてはメジャーなタイトルを得られなかったことについて「フランス代表のユニフォームを着ることができたことが、私のトロフィーだ」と語ったが・・・。 本当のトロフィーは、この綺麗な奥さんではないだろうか(笑)。 |
伝説の選手(MF)
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引退した伝説に残る選手達。MF編。
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卓越した戦術眼、正確で強烈なシュート、相手守備網を引き裂くスルーパスで赤い悪魔の攻撃を牽引した“ポール・スコールズ”。 少年時代は、クリケットでも優れた才能を発揮していたが、14歳から名門マンチェスター・ユナイテッドのユースに所属し、1993年7月にプロ契約を結ぶ。 トップチームデビューとなったのは、1994年9月21日に行われたリーグカップのポート・ヴェイル戦であり、その3日後に行われたイプスウィッチ・タウン戦でプレミアリーグデビューを果たし、チームは敗れたものの、スコールズ自身は初ゴールを記録。 94−95シーズン、リーグ戦で17試合に出場し、5ゴールを挙げチーム内で確固たるポジションを掴みつつあった。 このシーズンを最後にマーク・ヒューズが去り、エリック・カントナが長期の出場停止を受けていたため、シーズンの開幕当初はFWとして出場し、公式戦通算14ゴールを挙げ、ユナイテッドは、リーグ、FAカップ優勝に大きく貢献。 マンチェスター・ユナイテッドはこれが2度目のダブル達成となり、イングランドで初めて2度のダブルを達成したクラブとなった。 中心選手として臨んだ97−98シーズンは無冠に終わったが、98−99シーズンでは、プレミアリーグ、FAカップ、チャンピオンズリーグのトレブルを達成。 ニューカッスル・ユナイテッドとのFAカップ決勝では、ゴールを決め、チャンピオンズリーグの準々決勝インテル戦では、アウェーゴールを挙げるなどの活躍をしたが、決勝戦は累積警告で出場停止となった。 代表デビューは1997年オールド・トラフォードで行われた南アフリカ戦。 1998年ワールドカップフランス大会のメンバーにも選ばれ、初戦のチュニジア戦では終了間際にゴールを決めた。 全4試合に先発出場したが、チームは決勝トーナメント1回戦でアルゼンチンにPK戦の末敗退。 EURO2000予選のスコットランドとのプレイオフでは、1stレグで2ゴールを挙げる活躍を見せ、トータルスコア2−1で勝利し、チームを本大会出場へ導いたが、本大会ではグループリーグで敗退。 2002年ワールドカップ日韓大会にも、全5試合に出場したが、準々決勝で優勝したブラジルに惜敗。 EURO2004では、準々決勝で開催国のポルトガルにPK戦で敗退。 大会終了後、家族との生活とマンチェスター・ユナイテッドでのプレーを優先させるため、代表からは引退。 新しく監督に就任にした、スティーブ・マクラーレンから、代表に復帰するよう説得されたが首を縦に振ることはなかった。 イングランド代表として、通算66試合に出場し、14ゴールを記録するとともに、2000年の6月のスウェーデンとの親善試合で退場処分となり、ウェンブリー・スタジアムで行われた国際試合で退場した、最初で最後のイングランドの選手となった。 キャリアを通じ、120枚以上のイエローを受けている。 05−06シーズンの後半、目が霞むという視力障害に陥り、原因は不明であり、現役を引退しなければならない恐れもあったが、克服しシーズン最終戦のチャールトン・アスレティック戦に出場を果たした。 2006年10月22日のリヴァプール戦に出場し、デビューから12年目で公式戦500試合出場を達成した9人目の選手となり、節目の試合となったリヴァプール戦ではゴールも決め華を添えた。 2008年4月23日のバルセロナ戦で、チャンピオンズリーグ通算100試合出場を達成し、セカンドレグではチームを決勝進出に導く唯一のゴールを挙げ、チェルシーとの同国対決となった決勝戦では、試合中に鼻骨を骨折したが交代する87分までプレーし、PK戦の末にチームは3度目となるチャンピオンズリーグ優勝を果たした。 この年の9月にイングランド殿堂入りを果たした。 2009年4月22日のポーツマス戦で公式戦通算600試合出場を果たし、2010年3月6日のウォルヴァーハンプトン・ワンダラーズ戦でプレミアリーグ通算100ゴールを達成した。 2011年5月、シーズン終了とともに現役引退を表明し、マンチェスター・ユナイテッド一筋で17シーズンプレーし、リーグ優勝10回、FAカップ、リーグカップ優勝それぞれ3回、チャンピオンズリーグにも2回優勝し、ヨーロッパ覇者として臨んだトヨタカップ(1999年)、クラブワールドカップ(2008年)にも優勝し、90年代中盤から今に至る黄金時代を支えてきた。 そして、11−12シーズンからは、コーチとしてクラブに留まる事が発表された。 バルセロナのグアルディオラ監督は、「ユナイテッドのすべての選手の中では、スコールズを選びたい。彼はあの世代の最高のMF。私も彼と一緒にプレーしてみたかった」と語り、シャビとイニエスタもスコールズのファンである事を公言しており、イニエスタは10−11チャンピオンズリーグ決勝戦後にスコールズとユニフォーム交換をしている。
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高い戦術眼と卓越したパスセンスを備え、常に闘争心溢れるプレーでチームを鼓舞、長期に渡って偉大なるキャプテンとして活躍した“ブライアン・ロブソン”。 イングランド古豪ウエスト・ブロムウィッチ・アルビオンで育ち、1975年4月12日ヨーク・シティ戦にてリーグデビューを飾る。 ここで経験を積み、1980年2月のアイルランド戦で代表デビューを果たし、2度に渡り膝の故障を経験する不運もあったが、それでも3度のワールドカップで活躍するなど代表通算90試合に出場し、その内65試合はキャプテンとしてチームを牽引(歴代3位)し抜群の存在感を示した。 ワールドカップ初出場となった1982年スペイン大会の緒戦フランス戦で、試合開始27秒でゴールを挙げた。 更に1989年12月13日に母国で行われたユーゴスラビア戦では、開始38秒でゴールを決めウェンブリー最速得点記録も保持している。 1981年に、当時長きに渡ってリーグ優勝から遠ざかっていたマンチェスター・ユナイテッドへ移籍。 マンチェスター・ユナイテッドでは3度のFAカップ優勝、1度のカップウィナ−ズ・カップを制し、強豪復活に大きな役割を果たすと92−93シーズンには、キャプテンとしてチームを牽引し実に26年ぶりとなるリーグ優勝を成し遂げた。 彼の存在が、その後チームを支えるベッカム等に多大なる影響をもたらした。 1994年よりプレーイング・マネージャーとしてミドルスブラに移籍。 1996年の現役引退後もチームの監督として活躍し、2度のプレミア昇格とFAカップ決勝進出の功績を残した。 その後、ブラッドフォード・シティ、古巣のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン、シェフィールド・ユナイテッドの監督を務め、2009年からはタイ代表の監督を務める。
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史上最高のセンターハーフの1人で、強靭な下半身から放つシュートは強烈で、PKのスペシャリストとしても名を馳せた“ヨハン・ニースケンス”。 戦友であるヨハン・クライフとファーストネームが同じことから「もう1人のヨハン」と呼ばれた。 ヘームステーデ・ハーレムでデビュー後、1970年にアヤックスへ移籍。 移籍当初は、右サイドバックとしてプレーし、同年11月の西ドイツ戦で代表デビューを飾る。 アヤックスでは70−71シーズンからのチャンピオンズカップ3連覇や71−72、72−73シーズンのリーグ連覇に大きく貢献し、ヨハン・クライフらとともに黄金時代を築き上げた。 1974年、スペインのバルセロナへ移籍し、リーガ優勝は果たせなかったが、攻守にわたる活躍と闘志溢れるプレーで活躍。 同年に西ドイツで開催されたワールドカップでは、ヨハン・クライフを中心とする「トータル・フットボール」の中軸として準優勝に貢献。 決勝戦では、西ドイツに逆転されたものの、先制となるPKを決めている。 続く1978年アルゼンチン大会では、クライフが出場辞退したチームを牽引し、2大会連続の準優勝へと導いた。 大会終了後、当時フットボール不毛の地と言われていたアメリカへ渡り、ニューヨーク・コスモスでフランツ・ベッケンバウアーとともにプレーし、1980年と1982年にはリーグ優勝を果たした。 1シーズン、オランダのフローニンゲンでプレーした後、再び渡米し、選手生活の終盤はスイスでプレーした。 引退後は指導者としての道を歩み、1999年にはオランダ代表のアシスタントコーチに就任。 00−01シーズンからはエールディヴィジ・NECナイメヘンの監督を務めたが、2004年12月に成績不振により解任された。 2005年12月にはオーストラリア代表のアシスタントコーチに就任。 2006年からは、2シーズン古巣のバルセロナのアシスタントコーチとして復帰し、契約期間は3年間であったが、チームが2年連続でリーグタイトルを逃した事などにより、ライカールトとともに解任された。 その後、オランダB代表監督を経て、現在はガラタサライのアシスタントコーチを務める。
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抜群のリーダーシップと的確な戦術眼でピッチに君臨し、ピッチ上の監督とも称され、様々なポジションをこなした“フィリップ・コクー”。 1988年、当時2部のAZアルクマールでデビューを飾る。 登録のポジションはMFであったが、FW、DFとしてもプレーできるオールラウンダーとして、1990年からはフィテッセでプレー。 さらに1995年には、少年時代から憧れていたアヤックスのライバルである、故郷の名門PSVに移籍。 チームの核として、12ゴールを挙げる活躍を見せ、惜しくもリーグ優勝は逃したものの、カップ戦に優勝しUEFAカップでもベスト4進出の立役者となった。 翌シーズンには全試合出場し、リーグ優勝に貢献する。 その活躍が認められ、1996年4月のドイツ戦で代表デビュー。 1998年フランス大会では、全7試合に出場。 試合ごとに異なったポジションでプレーし、ベスト4進出の原動力となった。 大会後、インテルからの誘いを断り、リーガ・エスパニョーラのバルセロナへ移籍。 ルイス・ファン・ハールに連れられて続々入団する他のオランダ人が活躍できない中、セカンドキャプテンとして毎試合のようにフル出場し続け、チームを攻守にわたって支えた。 03−04シーズンまでで、タイトルは98−99シーズンのリーガ優勝1回だけであったが、その献身的なプレーぶりからバルセロナのソシオからは退団後でも絶大な人気を誇る。 2000年にベルギーとの共催で行なわれたEUROでも全試合に出場し、中盤の低い位置から攻撃陣を支え、準決勝でイタリアに惜しくもPKで惜敗し、タイトル獲得はならなかった。 04−05シーズンより古巣のPSVに復帰し、これまでの経験を活かし、若いチームを牽引し、3連覇を達成。 04−05シーズンは、チャンピオンズリーグでも大躍進を果たし、準決勝で惜しくもミランにアウェーゴールの差で敗れ、決勝進出は逃したが、自身は2ndレグでゴールを決める活躍を見せた。 2006年ドイツ大会のヨーロッパ予選ではチーム2位の4ゴールを決め、2度目となるワールドカップ出場を果たす。 大会終了後、現役引退を表明するが、クラブ側の慰留により翌シーズンも現役続行を発表。 大会では全4試合に出場するものの、決勝トーナメント1回戦でイエローカードが16枚も飛び交うポルトガルとの大乱戦の末0−1で敗退。 07−08シーズンよりUAEのアル・ジャジーラでプレーし、現役を引退。 引退後は代表のアシスタントコーチを務め、指導者への道を歩み始めている。
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