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1対1に絶対的な強さを誇り、決して大柄ではないが空中戦に強く、鋭い読みと巧みなポジショニングでカテナチオの中心を担った“ファビオ・カンナバーロ”。 1991年、ナポリの下部組織からトップチームに上がり、キャリアをスタートさせる。 デビュー当初から、激しく熱い守備を見せ、多くのサポータの心を掴み、若くしてチームの象徴となった。 しかし、ナポリは極度の財政難に陥り、主力選手の流出が避けられない状況に陥り、カンナバーロ本人は「たとえセリエBだろうがCだろうがナポリの為ならプレーする」とクラブオーナーや幹部に訴えたが、高額なオファーが舞い込んできたためナポリからの放出が決まる。 95−96シーズンよりパルマへ移籍後、これまでの1対1の強さに加え、インターセプトの技術、先読みの能力を伸ばし、より完璧なDFへと成長を遂げる。 ジャンルイジ・ブッフォン、リリアン・テュラムとともにリーグ最高といわれる守備陣を形成し、自身の評価を世界的なものとする。 98−99、01−02シーズンにはコッパ・イタリアを制し、98−99シーズンにはUEFAカップも制覇した。 1997年1月、北アイルランド戦で代表デビューを飾り、1998年ワールドカップフランス大会で、アレッサンドロ・ネスタとの最強コンビで鉄壁な守備を見せたが、準々決勝で優勝したフランスを無失点に封じ込めたが、PK戦で敗退。 2000年EUROでも素晴らしいプレーを連発し、決勝進出をかけたオランダ戦でのガゼッタ紙の評価点はディフェンダ−では異例の9点(10点満点)をマーク。 優勝まで後一歩まで迫りながら、フランスに延長戦の末破れ、またもタイトル獲得はならなかった。 2002年ワールドカップ日韓大会でも予選リーグで素晴らしい能力を発揮したが、累積警告から出場出来なかった決勝トーナメント1回戦で疑惑の相手に敗れさった。 大会終了後、満を持して念願のスクデットを獲得する為、インテルへと移籍する。 しかし、監督との確執もあり、本職でないサイドバックやボランチなどでプレーし、本来の能力を発揮することは難しかった。 一時評価をおとしたカンナヴァーロであったが、04−05シーズンよりユヴェントスに移籍しその輝きを取り戻す。 パルマ時代の同僚である、ブッフォン、テュラムなどと鉄壁の守備陣を形成し、セリエA最少失点およびスクデット獲得に大きく貢献(後にカルチョスキャンダルにより剥奪)。 ユヴェントスの守備は世界一と、アーセン・ヴェンゲル、ジョゼ・モウリーニョも絶賛した。 代表では、引退したマルディーニからキャプテンを引き継ぎ、2004年EUROではまさかの予選敗退を屈したが、2006年ワールドカップドイツ大会では抜群のパフォーマンスでチームを牽引し、自身代表100試合目となった決勝のフランス戦でPK戦の末、見事ワールドカップを高々と掲げる事に成功した。 大会MVPの投票ではジネディーヌ・ジダンに次ぐポイントを集めた。 ワールドカップなどでの功績が認められ、2006年のバロンドールを受賞。 DFの選手としてはフランツ・ベッケンバウアー、マティアス・ザマーに続く3人目の受賞となり、両者はリベロといわれるポジションであり、純粋なストッパーとしては史上初の受賞である。 EURO2008ではキャプテンとして、守備陣の柱としての期待されていたが、練習中にタックルを受けた際、左足を負傷し出場することは絶望的となった。 しかし、手術後もチームに帯同し、練習中に味方選手を叱咤激励したり、ボールや飲み物を運ぶなど献身的に働いた。 2009年、3シーズンを過ごしたレアル・マドリードを離れ、古巣ユヴェントスと1年契約で復帰。 09−10シーズン終了後、UAEのアル・アハリ・ドバイと1年契約。 4度目となった2010年ワールドカップ南アメリカ大会では、衰えは顕著であり低調なパフォーマンスに終始し、チームもグループリーグで敗退となり、大会終了後に代表を引退。 代表136試合を誇り、これはイタリア代表の最多出場である。 2011年6月にアル・アハリを退団した後、7月に膝のケガが完治せず現役引退。
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伝説の選手(DF)
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引退した伝説に残る選手達。DF編。
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抜群のキック精度を誇り、中長距離のパスで攻撃を組み立て、プレースキックの名手としても知られ、あらゆる局面でキッカーを担当し、強烈なシュートは「牛をも殺すシュート」と呼ばれた“ロナルド・クーマン”。 1980年にフローニンゲンでキャリアをスタートさせ、1983年アヤックスに引き抜かれ、高い得点能力で存在感を発揮すると、同年4月のスウェーデン戦で代表デビューを果たし、ヨーロッパを代表するリベロとして活躍をみせた。 84−85シーズンにはリーグ優勝を果たした。 1986年にはライバルのPSVアイントホーフェンへ移籍し、在籍した3シーズン全てでリーグ優勝を果たし、87−88シーズンにはUEFAチャンピオンズカップでも優勝を果たした。 また代表でも、グーリット、ファンバステン、ライカールトらとともにEURO1988で優勝を果たし、母国に初めての国際タイトル獲得に大きく貢献した。 1989年、その活躍が評価され、母国の英雄ヨハン・クライフ率いるバルセロナに移籍。 『ドリームチーム』の中心として活躍し、リーガ4連覇を達成するとともに、91−92シーズンにはクラブの悲願であったUEFAチャンピオンズリーグ優勝に大きく貢献。 サンプドリアとの決勝戦では、延長後半10分に決勝点となる強烈なFKを叩き込み、このゴールは現在もバルセロナサポーターの間では、伝説のゴールとして語り草になっている。 また、ワールドカップでは、1990年イタリア大会、1994年アメリカ大会にそれぞれ出場し、攻守の要としてチームを支え、優勝候補に推されながらもタイトルには届かなかった。 1995年に母国のフェイエノールトへ移籍し、2シーズン在籍した後に引退。 引退後は指導者としてキャリアをスタートさせ、05−06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグで、ベンフィカの監督として前年度覇者のリヴァプールを破るなどチームの躍進に貢献、準々決勝でこの大会で優勝したバルセロナに敗れるも、カンプ・ノウでの2ndレグでは大きな拍手に迎えられ凱旋を果たした。 06−07シーズンには、PSVアイントホーフェンの監督に就任し、アヤックス、AZとの壮絶な戦いを征し1年目にして見事リーグ優勝を果たした。 07−08シーズン途中にバレンシアからオファーを受け、シーズン序盤にして移籍することが決定。 就任早々に中心選手であったベテラン選手を戦力外にするなど改革に乗り出したが、クラブは低迷を続け、コパ・デル・レイでは優勝を飾ったものの就任後24試合で僅か4勝と惨憺たる成績で、4月のアスレティック・ビルバオ戦で大敗を喫し、翌日に解任が決定した。 バレンシア監督在任中、多くの主力選手を冷遇し、自らの要望で獲得した選手に規律面などで優遇するなど、不公平な対応によって人間関係を悪化させチーム内の信頼及び統率を著しく失い、自らのキャリアに大きな傷を残すこととなった。 バレンシアからのオファーは、後々バルセロナの監督就任へ向けたキャリアアップのために受けたとされるが、バレンシアでの失敗により、これが難しくなった。 09−10シーズンからAZを指揮し、オランダスーパーカップを初制覇し幸先の良いスタートを切ったかに見えたが、その後UEFAチャンピオンズリーグでの早期敗退、リーグ戦の不振が原因で同年12月に解任された。
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小柄な身長ながら、厳しいマンマークと凄まじい闘争心で多くのスター選手を苦しめた“ベルティ・フォクツ”。 少年時代から地元のVfRビュットゲンにてキャリアを積み、1965年に名門ボルシア・メンヘングラッドバッハへ加入。 同年8月14日ボルシア・ノインキルヘン戦にてトップデビューを果たすと、すぐに不動の地位を確立させ34試合に出場、このシーズンはリーグ13位に終わるものの、シーズンを重ねる事に順位を上げ69−70シーズンにはクラブ悲願のリーグ制覇に多大なる貢献を果たす。 翌66−67シーズンには連覇を達成し、74−75シーズンからのリーグ3連覇を含め、5度のリーグ優勝をチームにもたらした。 72−73シーズンにはドイツカップ優勝、UEFAカップ決勝では惜しくもリヴェプ−ルに敗れ、クラブ初の欧州カップは逃したが、このタイトルはその後74−75、78ー79シーズンと2度手中にする事になる。 76−77シーズンでは、チャンピオンズ・カップで決勝まで勝ち進み、ヨーロッパチャンピオンまで後一歩の所で、またもリヴァプールに苦渋を飲まされたが、クラブ黄金期の立役者として絶大な存在感を示した。 代表デビューは、1967年5月3日ユーゴスラビア戦。 翌年より代表でも不動の地位を確立させ、出場した3度(1970年、1974年、1978年大会)のワールドカップで、全19試合にフル出場し、特に地元開催であった1974年西ドイツ大会の決勝では、前評判では圧倒的に不利との予想を覆し、オランダのエースであったヨハン・クライフを封じ込め、母国に2度目の優勝をもたらした。 1978年アルゼンチン大会のオーストリア戦を最後に代表を引退、そして翌年には現役を引退。 引退後は西ドイツUー20代表監督、A代表ではベッケンバウァーのアシスタントコーチを務め、1990年よりA代表の監督に就任。
EURO1992で準優勝、EURO1996では母国を優勝に導いた。 しかし、ワールドカップでは1994年、1998年大会ともに準々決勝で敗退となり、その責を取り辞任。 その後、バイヤー・レバークーゼン、クウェート代表、スコットランド代表、ナイジェリア代表監督を歴任し、現在はアゼルバイジャン代表監督を務める。 |
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80年代から90年代にかけ、ハードなマークと冷静な判断力で相手のエースをシャットアウトしてきた“ユルゲン・コーラー”。 地元のクラブチームであるTBヤーン・ランプシャイムでキャリアをスタートさせ、83−84シーズンにバルドホフ・マンハイムへ移籍。 1984年4月7日、カイザー・スラウテルン戦でブンデスリーガデビューを果たした。 87−88シーズンからは、当時のブンデスリーガの強豪であった1FCケルンへ移籍。 クリストフ・ダウム監督の下、国際レベルのディフェンダーに成長を遂げ、1989年に名門バイエルン・ミュンヘンへ移籍し、ブンデスリーガ優勝に大きく貢献し、着実にドイツを代表するプレーヤーへと成長を遂げたいった。 1991年、イタリアへ渡り、ユヴェントスへ移籍を果たすと、マンツーマンディフェンスを重視するジョバンニ・トラパットーニ監督の下、全幅の信頼を獲得し、世界最高のストッパーと称され、セリエAで最優秀外国人選手賞を獲得する活躍を見せ、92−93シーズンのUEFAカップ優勝に貢献。 しかし、1994年に就任したマルチェロ・リッピ監督の下では冷遇され、スクデットを置き土産にドイツへ帰国。 母国に戻り、ボルシア・ドルトムントへ移籍し、95−96シーズンのブンデスリーガを制すると、翌シーズンのチャンピオンズリーグで決勝に進出。 決勝では、古巣のユヴェントスを倒し、雪辱を果たす。 01−02シーズンを最後に選手生活から引退を決意、引退試合となった2002年UEFAカップ決勝のフェイエノールト戦では、退場処分でピッチを去った。 西ドイツ(当時)代表には、1986年9月のデンマークでデビューを果たし、地元で開催されたEURO88では、準決勝のオランダ戦でマークするマルコ・ファン・バステンにマークを外され決勝ゴールを決められ敗退となったが、その後のイタリアワールドカップ予選、本大会、EURO92における対決では完全に封じ込め、ファン・バステンが『最も嫌なDF』に挙げている。 1990年イタリア大会では、決勝トーナメントから出場し、4試合で2失点と堅守で優勝に貢献。 その後も、EURO92(準優勝)、1994年アメリカ大会(ベスト8)、EURO96(優勝)、1998年フランス大会(ベスト8)に出場し、歴代3位となる通算105試合に出場した。 ボルシア・ドルトムントで獲得したチャンピオンズリーグなどと合わせ、獲得できるほとんどのタイトルを手にした数少ない選手である。 引退後は、ドイツU−21代表監督、バイヤー・レバークーゼンのスポーツディレクター、MSVデュースブルク監督などを歴任したが、いずれも良い結果を残すことは出来ず、全て短期間で退いていた。
2008年の夏より、ドイツ3部に所属するVfRアーレンの監督に就任してたが、わずか3ヶ月で辞任し、同クラブのスポーツディレクターに就任している。 |
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鋭い読みによるカバーリングで相手の攻撃の目を摘み、絶妙のタイミングでの攻撃参加から正確なロングフィード、強烈なミドルシュートまでも兼ね備えていたイタリア史上屈指のリベロである“ガエタノ・シレア”。 1972年、アタランタでMFとしてキャリアをスタートさせ、同年9月に19歳の若さでカリアリ戦にてセリエAデビューを果たす。 デビューシーズンから20試合に出場し、リベロとしてポジションを確立させた。 その活躍が認められ、1974年には名門ユヴェントスに移籍。 コッパ・イタリアのヴァレーゼ戦でデビューを飾ると、その後はチームに欠かせない存在となり、ほとんどの試合に出場し、この年のスクデット獲得の立役者となる。 その後、引退するまで14シーズンに渡り名門のレギュラーとして出場し続け、実に552試合に出場、2008年にアレッサンドロ・デル・ピエロに抜かれるまでチームの歴代最多出場記録を現在も保持していた。 セリエAに397試合出場し、その内148試合連続出場も果たしている。 守備の要に位置し、その間カードの累積も、致命的となるケガをすることもなく、カテナチオの要として君臨した。 獲得したタイトルは、スクデットの7度をはじめ、ヨーロッパでもUEFAカップ(76−77)、カップ・ウィナーズカップ(83−84)、チャンピオンズカップ(84−85)の主要なタイトル全てを手中にした初の選手となった。 84−85チャンピオンズカップ決勝のリヴァプール戦では、試合開始1時間前にヘイゼルの悲劇と呼ばれる暴動が起こり、シレアはキャプテンとして群集に対しスピーチを行い、騒動の沈静化を求めた。 イタリア代表では、1974年9月29日Uー23で国際デビューを飾ると、当時の代表監督であったエンツォ・ベアルツォットの目にとまり、1975年12月30日のギリシャ戦で22歳にしてA代表デビューを飾った。 以後11年間プレーし、78試合に出場、その内10試合でキャプテンを務めアズーリを牽引。 初めてのワールドカップとなった1978年のアルゼンチン大会では、全試合に出場し4位となり、1982年スペイン大会では母国を44ぶりの優勝に導いた。 1986年メキシコ大会にも出場し、大会終了後に代表を引退した。 87−88シーズンを最後に現役を引退、その後は盟友ディノ・ゾフの依頼を受けユヴェントスのアシスタントコーチに就任。 第2の人生が始まるはずだったが、就任してわずか1年3ヶ月後の1989年9月3日、次にユヴェントスがUEFAカップで対戦するG・サブジェ(ポーランド)の視察を終え空港に向かう途中、交通事故に巻き込まれ、36歳という若さでこの世を去った。 ピッチの内外問わず、温厚で紳士的な性格であったシレアは、生涯で一度も退場処分を受けることなく、人望も厚く敵味方問わず多くの人々に愛された。 |




