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飛び出しの良さと長い手足を生かし、安定したゴールキーピングボールだけでなく、ボールを扱う技術に優れ、左右どちらの足でも安定したキックが出来、前線へのフィードにも優れており、攻撃の起点になった“エドウィン・ファン・デル・サール”。 台頭した時期と、味方のバックパスに対し、GKが手を用いた対応が禁止されたのが同時期だったことから、新タイプのGKとして象徴的な存在である。 オランダの名門、アヤックスでキャリアをスタートさせると、程なくして頭角を現し93−94シーズンからリーグ3連覇を果たし、94−95シーズンではクラブに4度目となるチャンピオンズカップ優勝をもたらした。 翌シーズンも決勝に駒を進めたが、ユヴェントスにPK戦の末、惜しくも敗れ連覇はならなかった。 ボスマン判決の影響により、若く才能溢れるチームメイトはビッグクラブの標的となり、既に優秀なGKとしての評価が確立され始めたファン・デル・サールも1999年にイタリアの名門、ユヴェントスに移籍することとなった。 ユヴェントスでは、初のイタリア人以外の正ゴールキーパーとなったが、不調で本来の実力を発揮できず、イージーミスを連発してしまった事や、イタリア代表のブッフォンが加入したことでポジション確保が困難となり、2001年にプレミアリーグのフラムに移籍。 その後03−04シーズンで、突如素晴らしいパフォーマンスを発揮し、ヨーロッパ屈指のGKとの呼び声を再び手中にした。 この活躍により、05−06シーズンからはマンチェスター・ユナイテッドへ移籍。 不動の正GKとしてゴールマウスに君臨し、ピーター・シュマイケル移籍後、マンチェスター・ユナイテッドの守護神探しにようやく終止符を打った。 06−07シーズンからの3連覇を含む4度のリーグ制覇、07−08シーズンではチャンピオンズリーグ決勝でチェルシーと対戦し、試合はPK戦にもつれ込みチェルシーの7人目ニコラ・アネルカのシュートをセーブし、マンチェスター・ユナイテッドに9シーズンぶり、3度目の優勝へ導いた。 翌08−09シーズン、10−11シーズンにも堅守の要としてファイナルへ進出したが、ともにバルセロナに完敗を喫した。 10−11シーズン限りで現役を引退を表明し、チャンピオンズリーググの決勝戦が最後の舞台となった。 オランダ代表には1995年にデビュー以来、2度のワールドカップと4度のEUROに出場。 1998年ワールドカップ、2000年EUROではともに準決勝でPK戦の末敗退し、ビッグタイトル獲得には一歩届かなかったが、130試合出場はオランダの最多記録となっている。 また、EUROでもフランス代表のリリアン・テュラムと並び、最多出場試合数(16試合)を誇る。
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伝説の選手(GK)
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引退した伝説に残る選手達。GK編。
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最後尾から味方を鼓舞し味方の士気を高め、俊敏性に優れ判断よくゴールを飛び出し、ピンチを未然に防ぎ、赤い悪魔と恐れられたベルギーの守護神“ジャン=マリー・プファフ”。 1970年、16歳でベルギーのベベレンでキャリアをスタート。 ベルギーでも弱小であったクラブを、78−79シーズンのリーグ制覇に導く活躍を見せる。 82−83シーズンより、隣国西ドイツの名門、バイエルン・ミュンヘンに移籍。 ゼップ・マイヤーの後継者としてゴール・マウスを任されると、その期待を裏切らぬ活躍を見せ、84−85シーズンからのリーガ3連覇をはじめ、多くの勝利に貢献した。 1988年には母国へ戻り、リールセ、トルコのトラブゾンスポルと渡り歩いて、36歳で現役を引退した。 ベルギー代表では1976年5月のオランダ戦でデビューを飾り、1980年のEUROで準優勝、1986年メキシコ大会でベスト4進出に貢献。
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GKとしてはやや小柄な体格であったが、驚異的な反射神経と身体能力でそのハンデを補い、ファインセーブを連発した“ミシェル・プロドーム”。 1977年にスタンダール・リエージュでトップデビューを果たし、81−82、82−83シーズンのリーグ連覇に貢献。 1986年にKVメヘレンに移籍後、87−88シーズンには決勝でオランダのアヤックスを下し、チーム初となる国際タイトルとなるカップウィナーズカップ優勝に貢献し、1988年にはUEFAスーパーカップのタイトルも獲得し、88−89シーズンには41年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。 1979年に代表デビューを果たしたが、当初は偉大な先輩ジャン=マリー・パフの控えであり、1980年代後半からレギュラーを獲得し、ワールドカップには1990年イタリア大会と1994年アメリカ大会の2回出場。 アメリカ大会で、好守を連発してベルギーのベスト16進出に貢献し、大会最優秀ゴールキーパーに与えられるヤシン賞の初代受賞者となった。 予選リーグの対オランダ戦では、戦前の予想では攻撃力に勝るオランダ優位の予想が多数を占める中、後半に入りベルギーが先制点を挙げる。 しかし、ここから試合終了までの時間はデニス・ベルカンプを中心としたオランダ攻撃陣が怒涛の反撃を見せ、ロングシュート、ミドルシュートとありとあらゆる方法でベルギーゴールに襲い掛かったが、プロドームがファインセーブを連発しその全てのシュートを最後まで防ぎ、ベルギーは見事因縁の隣国対戦に1−0の勝利を飾った。 なお、2006年ドイツ大会まで、プロドーム以外のヤシン賞受賞者はすべて優勝、または準優勝のチームから選出されており、決勝トーナメント1回戦で敗退したプロドームが、いかに大きなインパクトを彼が与えたかを物語っている。 ワールドカップ終了後、94−95シーズンからポルトガルの名門ベンフィカに移籍し、1999年に40歳で現役を引退した。 ベルギー代表通算58試合出場。 グラウンダーのシュートの対応に、やや難があったように思うが、セカンドボールへの反応の速さは尋常ではない! 00−01シーズン途中の2001年1月にスタンダール・リエージュの監督に就任し、01−02シーズン終了まで務めた。 さらに2006年から2シーズン、スタンダール・リエージュの指揮を執り、07−08シーズンにリーグ優勝に導き、最優秀監督賞を受賞。 2008年にKAAヘントの監督に就任している。
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ゴールキーパーとしての資質に加え、圧倒的な威圧感でゴール前に君臨し、鬼のような形相で怒鳴りつける姿は、相手はもちろん味方からも恐れられた“オリバー・カーン”。 ユース時代には、フィールドプレーヤーを目指した頃もあったが、旧西ドイツの名GKであるゼップ・マイヤーに憧れGKへ転向する。 カールスルーエのユースを経て87−88シーズンブンデスリーガでデビューを果たすものの、数年間はサブGKであったが90−91シーズンにレギュラーの座を掴むと、ブンデスリーガやUEFAカップでの活躍が認められ、1994年に名門バイエルン・ミュンヘンへ移籍する。 移籍した初年度は、味方DFと衝突し膝の十字靱帯を切断する大ケガに見舞われたが、翌年からは期待通りの活躍を見せ、コンスタントにレベルの高いパフォーマンスを見せ、バイエルン・ミュンヘンのGKコーチで憧れの存在であったゼップ・マイヤーの下、ワールドクラスのGKへと成長を遂げていった。 バイエルン・ミュンヘンの在籍した14シーズンでリーガ優勝8回、ドイツカップ優勝5回、ドイツリーグカップ優勝6回と名門の守護神の名に恥じない活躍を見せた。 98−99シーズンのチャンピオンズリーグ決勝は、大会史上に残る名試合と呼ばれ、終了直前のロスタイムにCKから2失点を喫し、マンチェスター・ユナイテッドに逆転負けを喫し涙をのんだ。 2年後の00−01シーズン、カーンの活躍により、再びチャンピオンズリーグの決勝戦へ駒を進め、PK戦でバレンシアを破り、2年前の雪辱を果たすとともに、クラブに25シーズンぶりとなるヨーロッパチャンピオンのタイトルをもたらした。 2001年11月に行われたトヨタ・カップで南米代表のボカ・ジュニアーズを延長の末に下し、世界一にも輝いた。 バイエルン・ミュンヘンとの契約が切れた2008年限りで現役を引退。 2008年9月2日、ミュンヘンで引退記念試合が行われ、21年間の現役生活に終止符を打った。 ドイツ代表では、ワールドカップを4回経験しているが、1994年アメリカ大会にはボド・イルクナー、1998年フランス大会にはアンドレアス・ケプケと、共に世界レベルのGKの存在が大きくサブに甘んじた。 代表のレギュラーとして初めて国際大会に出場したのはEURO2000。 しかし、この大会では実力を発揮することができず、ドイツはグループリーグで敗退した。 2002年日韓大会には、チームをまとめるキャプテンとして出場。 ドイツは、ミュンヘンで行われた予選のイングランド戦で、マイケル・オーウェンのハットトリックなどで5失点を喫し1−5で完敗するなど、苦戦の末の本大会出場ということもあり、下馬評は思わしくは無かった。 しかし、ワールドカップ本大会でカーンはファインセーブを連発し、グループリーグ・アイルランド戦の1失点と決勝戦のブラジル戦の2失点に抑える活躍もあって、準優勝の好成績を収めた。 決勝戦ではブラジル代表のジウベルト・シウバとの接触プレーにより靭帯損傷の大怪我を負うが、そのままプレーを続行する気迫を見せ、同大会中のプレーの数々は多くのファンを魅了した。 この活躍により、ワールドカップでGKとして初めてのMVPを獲得した。 カーンにとって実質3度目の国際大会となったEURO2004では、カーンは実力を発揮したものの、ドイツは2大会連続でグループリーグ敗退となった。 大会後に就任したユルゲン・クリンスマン監督の方針により、代表のGKはローテーション制となり、地元で開催されるワールドカップに向け長年のライバルであったイェンス・レーマンとレギュラーの座を争う形となったが、2006年4月7日、クリンスマン監督から正式にレーマンが正GKであると発表された。 これにより「正GKとしてワールドカップに出場できないのなら代表を引退する」と以前から公言していたカーンであったが、「たとえ試合に出られなくても貢献できることはある」と自身でコメントし、サブGKとして参加。 準々決勝のアルゼンチン戦や準決勝のイタリア戦では、延長戦に突入する前のインターバルでレーマンを含めた他のチームメイトを励ますなど必死にチームを盛り上げる姿を見せ、ドイツ国内のみならず世界中で大きな感動を呼んだ。 そして2006年7月8日に行われた3位決定戦では先発出場。 ケガのため欠場したバラックに代わって主将を務めるとともに、好セーブを連発してチームの勝利に大きく貢献した。 そしてこの試合後、代表引退を正式に表明し、有終の美を飾った。 ベンチにいても存在感は非常に大きく、決勝トーナメント1回戦のスウェーデン戦後、スウェーデンのGKのアンドレアス・イサクションは、自分のユニフォームをレーマンではなくカーンのユニフォームと交換した。 カーンは多趣味で知られ、ゴルフと株式投資、読書。 大学の通信教育で経済学を学んでいた時期もあり、株式投資にはかなり深い知識を持ち、ニュース番組にコメンテーターとして出演したこともある。 また、鉄道模型も趣味としており、ワールドカップで来日した時に日本の模型店で『500系新幹線『と『JR九州787系』の電車模型を購入している。 愛車はフェラーリでスピード狂、スピード違反で切符を切られたことが何度かある・・・。 |
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長身を活かしハイボールに強く、足元のシュートへの反応にも秀で、偉大なる先輩レフ・ヤシンの後継者として80年代から90年代ソ連の不動の守護神として活躍した“リナト・ダサエフ”。 1975年、生まれ故郷のボルガ・アストラハンでキャリアをスタートさせ、すぐに頭角を現し、2年後に名門スパルタク・モスクワに引き抜かれる。 11シーズンで2度のソ連リーグ優勝に貢献する。 1979年9月に行われた東ドイツ戦でソ連代表にデビューすると以後、不動の守護神として1982年、1986年、1990年の3度のワールドカップでソ連のゴールマウスを死守した。 特に1982年のスペイン大会では、2次リーグでポーランドに得失点差で敗れ、惜しくも準決勝進出を逃した。 1988年のEUROでは、決勝でオランダに敗れたが、安定した守備でチームを準優勝に導く原動力となった。 大会終了後、ペレストロイカの影響で国外への移籍が解禁になり、外貨獲得政策も後押しし、スペインのセビージャへ移籍。 1988年11月のレアル・マドリード戦でリーガデビューを果たし、2シーズンの間守護神として活躍するが、タイトルには恵まれず、89−90シーズン終了後現役を引退した。 スペインに渡ったときには、キャリアのピークにさしかかったところであり、国外移籍があと5年早く解禁されていればと、惜しまれる。 クラブでの名声を得ることはできなかったが、ソ連代表として97試合に出場し、オレグ・ブロヒンに次ぐ歴代2位の記録である。 自由を許さなかった国故か・・・。
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