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【調査13】
大山国民学校奉安殿 所在地:神奈川県伊勢原市大山355 現状:大山阿夫利神社 社務所内祖霊社 概要:木造 備考:神奈川県における戦没者や死亡者の合祀の場として、紀元2600年(昭和15年)に記念落成。 当時の奉安殿からは、屋根・鋳金はほぼ変えられているというが、下部の造りの木質と現在の
外観の木造の質が違うことから、かつての奉安殿は、すっぽりと覆い隠されているように伺える。
例年、春先に慰霊大祭が行われているという。
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【調査12】
川中島国民学校奉安殿 所在地:神奈川県川崎市川崎区大師前駅2−13−16 現状:若宮八幡宮 本殿 概要:木造(本体は、コンクリート造) 備考:若宮八幡宮が戦争で焼けてしまい、昭和20年(戦後)初頭に地元の人々が大勢で 川中島国民学校から移設したという。
本殿内に奉納されている奉安殿は、菊紋付きの両開き鉄扉の重厚な造りに圧巻される。
扉の中は、御簾が下がっており、その奥には御真影が飾られている。
本殿内は撮影不可なので、背面からの撮影のみであるが、参考に掲載する。
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【調査11】
池雪国民学校奉安殿 所在地:東京都大田区東雪谷5−8−10 現状:長慶寺内 稲荷社 概要:コンクリート造 備考:全コンクリート造りで扉には鉄板が張られている。 扉が開かれており、中を伺うことができる。内部は3段の棚があり、御簾が下がっている。
以前は、墓地の中に隠すようにしておさめられていたという。
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【調査10】
鷹番国民学校奉安殿 所在地:東京都目黒区目黒本町1−1 現状:清水稲荷神社 概要:コンクリート造 備考:昭和14年に完成。 敗戦時、寄贈者が自宅内に引き取ったが、昭和27年に現在地へ移設された。 屋根は黒く、本体は朱塗りであり、非常に珍しい。
平成5年に目黒区教育委員会による奉安殿の経緯が書かれた碑が建てられている。
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ポンペイ(旧南洋庁ポナペ島)
市の警察署隣のテニスコート裏の私宅にて(2013年3月16日撮影)
海外における「奉安殿」調査 第1弾!!
「幻の奉安殿」を確認。
1914年10月、第一次世界大戦の際に、日本は4隻の艦船をポンペイに入港、無血で占領した。大戦終決後の1920年には国際連盟によって、日本の委任統治(C式委任統治)が認められた。
日本の占領政策はこれまでの支配と異なり、同化政策をとったが島民に日本国籍は与えられなかった(婚姻は別)。同時に当地での農業、漁業を中心とする殖産興業が推進された。特に1922年に南洋庁支庁の設置により、日本からの移民も多数ポンペイに入植し、1945年の終戦時点では13,000人を超す日本人が居住していた。これはパラオ、サイパンに次ぐ三番目の規模である。
日本海軍は1940年に守備隊を初めてポンペイに駐屯させたのに続き、太平洋戦争開戦後の1942年には本格的な警備隊を配備した。それ以後も陸軍、海軍が兵力を補塡して、西のチューク島にあった海軍の一大拠点の防備を担った。
これに対しアメリカ軍は1944年2月15日の大規模な空襲に始まり、5月にかけてポンペイに攻撃を加え、コロニア市街は大きな被害を受けた。チュークの基地が空襲で機能を失い、主戦場がマリアナ、フィリピンに移った同年6月以降、ポンペイは輸送の途絶した状況になったが、鮮魚や芋等の食料自給が可能であったことと、それ以後大きな攻撃を受けなかったことから、終戦までの1年余り比較的平穏な状況が続いた。
1945年の太平洋戦争終了により、アメリカの占領が始まり、1947年に国連の信託統治領としてアメリカの統治が始まった。ポンペイはパラオ、ヤップ、チュークとともに四つに区分けされた地区の中心として、当初から政庁が置かれた。アメリカの統治方針は「zoo theory」と揶揄されるように、経済的な援助はするものの、産業育成による自立支援は行わなかった。
1965年、アメリカは国連の要請を受けて、ミクロネシア議会の発足を認めた。当初、議会はマリアナ、マーシャル、パラオを含めた形でサイパンにおいて開催され、ポンペイに移ってくるのは1977年のことである。1978年には現在の4州で連邦を構成、1979年には憲法が制定され自治政府が誕生した。1986年11月に独立してからは、ポンペイは連邦の首都機能を有している(以上、Wikipediaより、引用)。 |





