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皇民化教育

 皇民化教育とは、一般には、日本人化(ヤマト化)を図った教育の在り方をいう。
とりわけ、日本のアジア、太平洋戦争時に大東亜共栄圏を仮想して日本の天皇を中心とした国体をアジア諸国に
教育を通じて強要したことを指す。
 その中身は、植民地にした国々とその時期により、若干の違いがある。アジア地域での主な国々は、朝鮮、中国、台湾、沖縄である。
 まず朝鮮においては、朝鮮教育令、教育勅語の強要、神社神道の強要(一村一神社の奨励)、創氏改名、皇国民の誓詞などである。
 また中国においては、満州神社、皇国神廟、満州の教科書、皇居遥拝などである。
 さらに台湾では、国語家族の表彰、神社参拝の推奨、奉安殿の参拝、教育勅語の暗誦、改名の推奨などである。
 そして沖縄では、方言札、改名の推奨、奉安殿の設置、教育勅語の強要などである。
 
 (出典:国際教育事典、wikipedia等に加筆修正)

御真影

 御真影(ごしんえい)とは、高貴な人の肖像画や写真を敬っていう語である。
 日本では特に戦前における天皇と皇后の写真を指す。御真影・御影などと通称されるが、正式には「御写真」という。
 
 宮内省から各学校に貸与され、奉安殿教育勅語と一緒に保管された。四大節(元旦・紀元節天長節・明治節)には講堂の正面に飾り、児童(生徒)・職員一同が遙拝した。
 下付は強制ではなく、各学校からの請願の上、その学校が「優等」とされた場合に下付されることとなっていた。
 
 宮内省から「貸与」されている物だけに、慎重な取り扱いが要求され、学校が火災で焼失した時にそれを取り出せなかったということで校長が自殺した事件も起こった。
 また、生徒たちに直視すると罰が当たって目が潰れるという理由で、見ることを禁じる場合もあった。安全のため、学校ではなく町村役場で保管した例もあった。
 御真影にこうした役割を担わせたのは、森有礼・初代文部大臣によるところが大きいとされる。
 
 こうした下付が始まった時期は1874年以後だが、当初は講堂などに掲げられていた。1891年に教育勅語とともに尊重に奉るように定められて以後は、より丁重な扱いをされるようになった。1920年代からは、土蔵や奉安殿に置かれる例が多くなった。
 
日本が第二次世界大戦で敗れると、1945年9月27日昭和天皇がアメリカ大使館にダグラス・マッカーサーを訪ねた際に、アメリカ陸軍の写真班によって昭和天皇とマッカーサーが並んで撮影された。これは、9月29日の新聞各紙の朝刊の紙面を飾り(政府は即発禁にしたが、GHQが撤回させた)、昭和天皇がマッカーサーの隣に直立不動の姿勢で普通に新聞に写っていることは、国民に大きな衝撃を与えた。
 戦後には天皇の写真や映像はテレビや新聞にもよく見かけるが、戦前は新聞に載ることは少なかった。日本では、1950年代まで古新聞が落とし紙(トイレットペーパー)に利用されており、天皇の写真が掲載されている古新聞が落とし紙に使われることが不敬と考えられたためだとされる。
 
 第二次世界大戦の敗北に伴う御真影の回収に当たっては、新たな御真影と交換するという前提で回収された。しかし、それ以後に新たな御真影を下付された学校は、1952年の秋田県の私立敬愛学園高校(現在の
国学館高等学校)だけである。
 
(出典:大辞泉、大辞林、日本国語大辞典、国史大辞典、wikipedia等に加筆修正)
 

奉安殿

 奉安殿とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物である
 御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語(1890(明治23)年)が制定された後である。
 奉安殿の成立もしだいに増加する下賜数と管理規定の厳重化により、この時期と推測される。全国的には、
1935(昭和10)年以降に実施され、御真影はますます神格化された。
 また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もある。
 
 四大節(昭和天皇が即位した1927年に明治節が制定されると、このうち新年宴会を除く4つの祝日(四方節、
紀元節、天長節、明治節)を四大節(しだいせつ)と呼んだ。)祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影に
対しての最敬礼を奉る事と教育勅語の奉読が求められた。
 登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。
 
 当初は、講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていた。しかしこの奉安所の場合、校舎火災や
地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、また実際に関東大震災や空襲、
校舎火災の際に御真影を守ろうとして殉職した校長の美談がいくつか伝えられている。このため、さらに万全を期すために、校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、また独立した「奉安殿」の建築が進められていった。
前者の校舎一体型は旧制中学などに多く、後者の独立建築型は小学校に多く見られた。
 
 建築物としてみると、実に様々なバリエーションが存在する。ギリシャ建築風や鉄筋コンクリート造、レンガ
の洋風建築から旧来の神社風建築など、意匠を凝らした物が多い。
 小形ながら頑丈無比の耐火耐震構造、さらに威厳を損ねぬよう荘厳重厚なデザインになるようにとの苦心の
跡が垣間見えるようである。
 実際に、1933年(昭和8年)には奉安殿の建築デザインに関するコンペも開かれている。
 しかし、このような頑丈な小建築には「湿気がこもる」という短所を持っており、御真影に染みを作ってしまい
学校が始末書を提出する羽目に陥ることもしばしばあったため、空気溝が施されるようになった。
 
 日本が第二次世界大戦で敗れた年の1945年(昭和20年)12月15日、GHQの神道指令のため、奉安殿は廃止された。奉安殿の多くは、戦後に解体・もしくは地中に埋められ、御真影も全て奉還された訳ではない。
 しかしながら、解体を免れた奉安殿は現在でも全国各地に少数ながら残っており、倉庫として使われていたり、荘厳な外観を生かして神社や納骨堂に転用されていたりする。
 また沖縄の旧美里尋常高等小学校の奉安殿は半壊状態ながら、「戦争遺跡」として文化財に登録されている。
 
 戦前に建築された古い校舎・講堂を持つ学校では、校舎内に設けられた「奉安庫」が残る所もある。
奉安殿は、校舎内に作られることも、校舎外に独立して作られることもあったがいずれも校長室、職員室、宿直室その他に近い清浄な位置に設けられることとされた。
 そのうちのりは最小で、奥行85cm、高さ1.5m、幅1.2mは必要であるとされた。構造は鉄筋コンクリート造、壁厚25cm以上、片開または両開の完全な金庫式二重扉を設け、耐震耐火構造とし、内外防熱防湿のために石綿材料を施し、内部はさらにキリまたはヒノキ板張りとし、御真影を奉安する棚の高さは50cmほどのところに設けることとされていた。
 
 (出典:日本国語大辞典、大辞泉、大辞林、日本大百科全書、Wikipedia等に加筆修正)
 

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幻の奉安殿
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