冷凍庫からネタを
(冬の厳しさにネタが不足したので、すでに凍ったのを解凍してまな板に載せました、下痢しないように)
経済学から視た未来社会の在り方。(特に日本社会の)1970年作(大学の学校祭で)
現代社会は、未来社会に向かって、組織の規模に於いて、大衆化と機能的文化
(ベッドダウン、工業地帯、サービスルゾート等)、法制的には、一元的価値支配と
細則化を、アンビバレンツ(二律背反)として、無意味に繰り返し、拡散していくよう思える。
それは、世界の均質化・画一化と個別分散化、構造的多種化が、弁証法的な歴史展開を、
価値的になし崩しにして、エントロピーの増大へと流れていくのだ。 しかし、それは、
経済的なポテンシャルの減少をかならずしも意味しない。経済生産性というものは、
物的多様化と絶えまざる物象化への緊張を媒介として、機能的なビュロクラシー志向性を持つ
生産技術によって、又益々、操作可能な市場の反応性を取り込み発展する。つまり、ここで、
日本的な社会構造を考えてみるに、対象化して認識した世界動向から抽出した歴史進行のパターンは
一般的な歴史上での技術的上昇(ソストウ的な概念によるが)による社会構造の変化の概念としては、
ソ連の計画経済が法制的、所有概念の変革によるマルクス経済イデオロギーによって生まれたのとも
異質なものを持っているように思える。つまり、技術的可能性にうらづけられ促進された
大衆的社会状況の発生と核家族化への進行、その技術的可能性は、神話的イデオロギーによって
選択的に支えられている。ソ連は、公共的な管理技術の理念として、アルキシズム、それは、
党とプロレタリアの分離した過渡期的なプロレタリア独裁、つまりスターリニズムとして、
神話的なイデオロギーによって支えられてきた。経済学的には、資本蓄積のための民衆統合の故の
イデオロギーである。そして、アメリカの神話は、経済自由主義なのだ。貧富が生まれることは
関係なく。先に勝ち得た物質文明の目先の豊かさを誇示し、その価値観を他者に押し付けてきた。
それと平行して、日本はエコノミックアニマルと呼ばれ、高度経済成長と成し遂げたが、今や、
公害という経済外的な災いを受けつつある。しかして、日本の経済学者は、公害を外部不経済とか、
マイナスの公共財とかで、経済学の中での技術的分析用具とカテゴリーで片づけてします。
今や他の諸国家が [神話 → 権力としての技術 → 大衆]の段階的ビュロクラシー構造
を持っているのに、日本のは、[技術 → 権力としての神話 → 大衆]という方法になる。
つまり、権力が、シンボルとしてみえなくなり、国家と民衆とが両方、疎外されているのだ。
そして日本の経済学者は、公害を技術として片づけられるとする。全く幻想で、ナンセンスだ。
正常な経済のフィードバックが誰も知らないところで、切られている。 つまり、経済的には、
構造的多様さによって、生産経済が発展し、機能的に経済主義的に一元化支配される道筋を裁ち、
[大衆 → 価値としての神話 → 技術 → 大衆]の回路が、 探られなけばならない。
つまり、経済的分権化と機能的多様化へと将来の日本社会の在り方も変えていかなくてならない。
前者は、後者によって裏づけなければならないが、後者は、現存の支配秩序の大きな前提としての
経済的な意味の家族を単位としているが故に困難が予想できるし、エネルギー概念を、
経済だけでなしに、情報、年齢、イデオロギー、セックスにまで価値として広げるでしょう。
前者は、コミニュティ概念の復活と再構成、地方分権化、政策のプランからデザインへの
方法的根拠、企業構成の大衆化をも含むあり方が追求されなけば、ならないだろう。
(完)