小雪家の人々+α

千里の道も一歩から。すべての道はローマに続く。そんなわけで、マイペース。

思い出の話

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40年前なら

またちょっと思い出話。
何度も書いてきた、クリニックにお勤めしていた時のお話です。

Hさんという、70歳を少し過ぎた男性の患者さんがいました。
咽頭癌で、外来にいらしていた方でした。
Hさんが30代の頃、奥様は29歳で亡くなられ、以来男手ひとつで2人の娘さんを育ててきた方でした。
「再婚の話もあったよ。でも、娘に『お父さん不潔〜』って言われたらやだろ〜」と、ちょっと照れたように言っていました。

地方に芸能人を呼ぶために、公演の手配などをしたりする、興行師のお仕事をされていた所為か、ちょっとおしゃれで、若い頃はもてたのだろうなぁ、という顔立ちの男性でしたよ。

何が気に入って貰えたのか、「もう40若かったら、小雪さんにプロポーズするんよね〜(←九州人)」と、何度か言っていただいて、内心「もう40若かったら、私もそのプロポーズ受けたかも」などと思っておりました。
いい方だったんですよ。

近くの河川敷である花火大会の夜、自宅に来ていただいたことがありました。
Hさんのことは、家でもよく話していたので、母がHさんの好きそうな食事を用意してくれて、河川敷までは行かず、当時は家の屋上からも花火を鑑賞することができたので、食事の後でゆっくり見ることにしていました。
何度かお話をしていた時に、Hさんの好物は聞いていたので、母が用意してくれた食事は、Hさんの好きなものばかりだったはずなのに、あまり食べてくれません。
体調が悪そうな様子もないのに、変だな〜と思っていたのですが、その日は花火を見た後は泊まっていただいて、翌日は都内をあちこち『デート』いたしました。
銀座の街をぶらぶらして、お茶などしている時に、「いやあ、昨日のウニはいいウニだったなぁ。これはいいものを用意してくれたなぁと思ったんよね」と言われたので、「でも、あまり食べませんでしたよね」と言ったら、「初めてのお宅で、あんまり食べたら恥ずかしかろ〜」とちょっと赤くなっていました。
彼女の家に初めてお邪魔する彼氏の気分、だったみたいです。

粋な雰囲気のおじいちゃんでしたから、きっと若い頃は女遊びもしたのでしょうが、守るべきルールはきちんと守れる、そんな人に見えました。

その後、Hさんも慶応大学病院に転院され、手術を受けることになりました。
実家が九州で、娘さん達はなかなかお世話に来れないということだったので、入院中のお洗濯など、お見舞いを兼ねて、お手伝いに行かせて貰いました。
咽喉に穴を開けられ、プラスチックの管を入れられて、お話することもままならない状態でしたが、身振り手振りで会話しての日々でした。

退院後は、実家で静養すると福岡へ帰られ、私は退職し、自分の体調を理由に3ヶ月ほど入院しました。
私の退院後、入院していたためにご無沙汰していた旨を手紙にして送ったら、娘さんから「亡くなりました」とお返事がありました。



京介に出逢った時、Hさんに似ているなぁと思ったんですよね。
40若い頃のHさんは、こんな感じだったのかもしれないなぁ、と思いました。

きっと、70を過ぎたら、京介も素敵なおじいちゃんになっているのかもしれませんね。

外国の人にまつわる、もうひとつの思い出話。

20代の半ば頃、飲み会の帰りのこと。
新宿駅のホームで、二人連れの外国人の男性に、「○○行きの電車は、この電車でいいですか?」と、片言の日本語で聞かれました。
私が帰る駅の、ひとつ手前の駅名でした。
「この電車で大丈夫ですよ」と応えると、来た電車に一緒に乗り込むことに。
片方の男性が親しげで、あれこれと話し掛けてきました。
パキスタンから来ていること、お友達と何人かで住んでいること、日本の物価は高いこと、等々。
せっかく話し掛けている人に、無下な態度も取れないので、にこやかに対応していたら、食事に誘われてしまいました。
悪い人ではなさそうだし、何しろ飲み会の帰りで酔っていたし、で、「いいですよ」と応えてしまった私。
後日の約束をして、彼等は降りて行きました。

酔いが冷めてから、慌てたのはもちろんです。
断るにも連絡先は分からずです。
でも、冷静になるとひとりで行くって、いくら無鉄砲な私でも、結構不安。
まず、英会話には自信のある友達に電話をしましたよ。
事情と、一緒に行ってくれないかという話をすると、彼女は「私は白人しか相手にしないから」という返事。
「なんて失礼なやつ!」と思ったものの、そんな相手に構ってもいられず、即別の友達に電話です。
次に電話した友達は、英会話は出来ませんでしたが、「いいよ」という返事をくれたので一安心。

そして迎えた当日、彼はひとりで来ていました。
私が友達を連れて行ったのには、ちょっとがっかりした顔をしましたが、三人で上野に行きました。
連れて行って貰ったお店で、彼は「友達には、『日本人の女の子が、パキスタン人なんか相手にするわけがない。きっと彼女は来ない』と言われた」と話してくれました。
ちょっと、「白人しか相手にしない」と言い切った友達のことが、頭を過りました。
彼は、まだ片言にしか日本語が話せないことや、日本語の読み書きは全然出来ないことなどを話していました。
町工場の鉄工所で働いていることや、お友達の仕事の話なども、話していました。
食事代を出してくれたので、「お土産に」と、うさぎ屋さんでどら焼を買って、渡しました。
また会えたらと言われて、住所を教えてくれました。
その日は、それで別れました。

なんだかそのままにしてしまうのも、「日本人の女の子はアジア人は相手にしない」という偏見を持っているように思われるのは癪に障るような気がして、手紙を書くことにしたんですよね。
彼が日本語の読み書きが出来ないことは承知で、全文ひらがなの手紙と、手作りのひらがな表(ローマ字表記付き)を添えて、「にほんごがかけるようになったら、おへんじください」って。
彼の、日本語の勉強の足しになるかな、と思ったのと、「みんながみんな、偏見を持っているわけじゃない」と伝えたかったのと。

彼からの返事は、思いの外早かったです。
何故なら、日本語の出来るお友達に読んで貰い、英語で返事を書いてきたから。
「日本語でって書いたじゃん(T_T)」と思ったけど、彼は必死だったようです。
どう読んでも、ラブレター以外の何物でもない内容でしたよ。
それはそれは、日本の男性には書けないような、熱烈な手紙に、下手な親切心は仇になると悟った私です。

ラブレターの返事を、日本語で書いたら、それをお友達に読んで貰うことになるだろうことは、前の手紙のことを考えても分かります。
でも、英語で、偏見などではなく、ただそういうつもりはないと書く能力が、私にはありませんでした。
日本語で書けば、彼に恥をかかせることになり、拙い英語では、うまく表現することが出来ず、私はその後の返事を書くことが出来ませんでした。

彼は、人種に対する偏見で、私が返事を出さなかったと思ったのではないか、それが気掛かりです。

英語が出来ない私の、苦い苦い思い出です。

英語が話せたら・・・

また、ちょっと思い出話。

以前記事に書いたクリニックにお勤めしていた時、そこの院長先生のアメリカ講演を聞いて、わざわざこちらで治療したいと、日本に来られた患者さんがいました。
当時、50代位の女性で、原発は乳癌で、あちこちに再発をされた方でした。
フランシスというお名前から、「フランさん」と呼ばれていました。
フランさんは、ひとりでクリニックの宿泊施設に泊まりながら、毎日治療を受けていました。

私は英会話ができないので、身振り手振りの会話で、フランさんの言うことはなんとなく理解できる程度。
スタッフも、院長以外の常勤の人には、「英語は任せて」な人はいませんでした。
時々来る、ヨガなどを教えてくれる方が、唯一の通訳さんの状態。

そんなある日、フランさんが「富士山を観に行きたい」という話を始めました。
というか、「もう観に行く」と決めている様子でした。
「誰と行くの?」と、例の身振り手振りで聞いたら、「ひとりで行く」と言う答え。
地理には不案内で、病気も持っているし、体力的にも大丈夫なのか、なんだか彼女が心配になってしまった私は、英語もできない癖に「じゃあ、一緒に行きます」ということに。
フランさんはとても喜んでくれました。
予算を聞いて、民宿の手配をして、行きの電車は同じ時間では行けなかった(私は仕事が終わってから追うことになっていた)ので、乗り換えや電車の時間を説明して、富士吉田の民宿で落ち合うことにしました。

何しろ会話がまともに出来ないので、英和と和英の分厚い辞書を荷物に入れて行きましたよ。

当日、フランさんは午前中に出発し、ひとりであちこちを歩き、私は夕方仕事が終わってから向かい、着いたのは夜遅くだったような気がします。
民宿なので、自分達で布団を引く時に、フランさんにあれこれ指示されて、「お母さんみたい」だと言ったら、アメリカに娘さんのいる彼女は、「お母さんはみんな同じようなものなの」だと言っていたのが印象に残っています。

翌日は富士吉田の町をあちこち歩きました。
残念ながら、お天気に恵まれず、綺麗な富士山を観ることは出来ませんでしたが、富士の湧き水の綺麗な池を観たり、田舎道を歩いたり、お蕎麦を食べたり。

夕方になって、帰る時、観光シーズンだった富士吉田の駅は、とても混んでいました。
来た電車にわれ先に乗り込む人の波に、彼女は馴染めないようでした。
当然座れるはずもなく、見た目には健康そうに見える彼女に席を譲ってあげて欲しいとも、当時の私には言えず、混んだ電車の中で立っていると、彼女が「どうして日本の男性は女性に席を譲らないのか?」と言ったんですよね。
とても、素朴な疑問、という感じで。
混んだ電車の中では辞書を出して話すことも出来ず、日本にはレディーファーストという習慣はないのだと、上手に説明することが出来ませんでした。
私がうまく説明することも出来ずにいるうちに、会話の内容を察した男性が席を譲ってくれ、なんだか催促してしまったような気持ちになりましたよ。

フランさんはその旅行をとても喜んでくれて、後にアメリカに帰ることになった時にも、迎えに来たご主人に、その時の話をして「彼女がアメリカに来ることがあったら、旅費を出してあげたい」などと言ってくれました。

けれど、私は、まともに英語も出来ないのに、「一緒に行く」なんて言ってしまって良かったんだろうか、とずっと考えていました。
ちゃんと、いろいろ説明してあげたかったし、もっと、いろいろお話してみたかった。

私がクリニックを辞めて、自分の体調の問題で入院していた時、同期で仕事をしていた男性がお見舞いに来てくれ、「フランさんが亡くなったよ」と教えてくれました。

いつか、ちゃんと話が出来るようになったら、もう一度会いたかったのに。

その後、自分は英会話をちゃんと出来るようにはならなかったけど、子ども達には、話せるようになって欲しくて、小春には、幼稚園の時から英会話をやらせています。
結局、子どもにはやらせたいって、自分の持っているコンプレックスなんですよね。

英語が出来ない私の、苦くて、ちょっと甘い、忘れられない思い出です。

親子煮の思い出

昨日の夕飯のおかずは、親子煮でした。

親子丼の上に乗っているようなものですが、小雪家では鶏肉の大きさが唐揚げ用に切れたお肉を使っているので、ちょっと大きくて、見た目のボリュームがあります。

小雪家では、「思い付かない時(または、面倒な時)の親子煮」と呼ばれている定番メニューです。

親子煮をすると、思い出すことがあります。

小春が小学生の頃、時々遊びに来るお友達がふたりいました。

ある日遅くなってもいいと言うので、「じゃあ、送って行くから、夕飯食べて行く?」と言って、親子煮を出したことがありました。

なんだかいたく気に入ったらしく、「今度お母さんに作ってもらおう」と喜んでくれたんですよね。

ふたりとも、それぞれの家庭のご事情で、母子家庭で、いつもお母さんの帰りは遅かったようでした。

ひとりの子は、お母さんが夜勤(介護のお仕事をされていたので)の時は、ひとりで留守番をするのだと言っていました。

きっと、親子煮の味よりも、みんなでわいわい食べたのが、美味しく感じさせたのではないかな。

その後も、たまたま我が家でご飯を食べて行くことになると、「親子煮がいい」と言ってくれましたよ。

今、片方のお友達は、中学に入ってから荒れてしまったようですし、もうひとりの子も、クラスが違って遠退いてしまったようです。

いろいろな家庭があるけれど、あのふたりのお友達が、なんてことはない家庭のメニューを、美味しく感じられるような夕飯時を過ごしていてくれたらいいな〜、と思います。

昨日も行った、いつものショッピングモール。
アフタヌーンティーでの出来事で、ちょっと思い出したことが。
まだ小太郎がベビーカーを使っていたような頃、といっても今の小哲くらいの頃の話。

小織さん(母)と叔母と、小雪家の3人(小春と小太郎と私)で、お墓参りに行った帰りに、いつものショッピングモールにわざわざ途中下車して拠りました。
その頃、何度か行ったことのあったお気に入りのお店に行くと、少し広い席に案内してくれながら、ウェイターさんが小太郎を見て、「大きくなりましたね〜」と言います。
「え? 小太郎を記憶してもらえるほど頻繁には来てないけど」と思ったけれど、誰かと間違えてるのかも、と思って会釈をした私。
その日帰ってから、その話を京介にして、「覚えているとしたら、すごいよね〜」などと言ったものでした。

が、それ以来、そのお店に行くと、そのウェイターさんだけ、「いつもどうも」とか、声は出さなくても、明らかに個人的に挨拶をしてくれるんですよね。
小春も「お母さん、なんかすごいね」というくらい、毎回ちょっと馴染み客のように声を掛けてくれるんです。
ところが、京介が一緒だと、私にだけ挨拶をして、京介は無視。
というか、「今日はいたのか」という顔をする。
私が独身女性だったら、ちょっといい気になるところでしたが、明らかに京介の機嫌が悪いのが見てとれたので、いい顔もできずでした。

そのうちそのウェイターさんは辞めたのか、見掛けなくなりましたが、「あれは何だったんだろう」と時々思います。
変な感じの人なら、こちらも警戒しましたが、普通の、感じのいい男性だったんですよね。

その人がいなくなってからは、同じくらいの頻度で同じお店に行っていますが、もちろん誰も声を掛けてはくれません。
お客さんを大切にしたいなら、その家族ごと、じゃないと、家族に不穏な空気が流れる、というお話でした。

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