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08月09日(土):
去る8月2日、昭和の漫画界から、また一つ灯火が消えました。
『おそ松くん』や『天才バカボン』、『ひみつのアッコちゃん』などの作者で、
ギャグ漫画というジャンルの確立に、多大なる功績を残した赤塚不二夫さんが72歳で亡くなりました。
コミカルなキャラクターや、強烈なギャグを繰り出し、
漫画だけじゃなく、他分野にも数多くの影響を与えた人だということは、
今更記すまでもないのでしょうが、今や漫画やイラストなどでは、当たり前になった
『2頭身キャラ』や、お笑い界でも使われるような『一発ギャグ』などに、
その片鱗を見出すコトも容易だと、改めて気づかされました。
ボク自身は、連載している漫画などを読んだ年代よりは若いので、
『漫画』として読んだ記憶はないものの、TVで、『バカボン』なんかは観ていたし、
まれに本人が出演する場面では、その破天荒なキャラクターに驚きもしつつも、
好ましく思っていたものです。
(実は、今の仕事に就いたとき、研修中に少し関連の仕事もしたので、少し愛着もありました。)
さらに7日に執り行われた葬儀では、親睦の深かったタモリさんが弔辞を捧げ、
その内容にも、心を揺るがされました。
とても美しく、かつ飾らない素敵な言葉だったと思うので、以下に前文を記しておきたいと思います。
「8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、
ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。
われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。
あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、
私達世代に強烈に受け入れられました。
10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。
何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーで
ライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。
その時のことは、今でもはっきり覚えています。
赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。
この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。
終わって私のとこにやってきたあなたは
「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。
それまでは住む所がないなら、私のマンションにいろ」と、こういいました。
自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。
それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。
しばらくは毎日、新宿の『ひとみ寿司』というところで夕方に集まっては、
深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。
いろんなことを語ってくれました。
お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。
あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。
そして、仕事に生かしております。
赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、
相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。
あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。
その裏には強烈な反骨精神もありました。
あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。
金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。
しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔は
はるか年下の弟のようでもありました。
あなたは生活すべてがギャグでした。
たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、
出棺のとき、たこちゃんの額をピシャリと叩いては
「このやろう逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。
あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。
それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、
また時間は、前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。
この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。
すなわち「これでいいのだ」と。
いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。
軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。
どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。
最後になったのが京都五山の送り火です。
あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、
一生忘れることができません。
あなたは今、この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、
ニコニコと眺めていることでしょう。
そして私に「お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ」と言っているに違いありません。
あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。
私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。
それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気が
たまらなかったのです。
あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。
しかし、今お礼を言わさせていただきます。
赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。
私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。 平成20年8月7日、森田一義」
こんなにも相手のことを慮り、互いの間柄を端的に表現しつつ、悲しみと寂しさを滲ませながらも、
個人の意思を反映させ、決して湿っぽくさせない弔辞は、とてもスバらしく、そのことがかえって
涙を誘いました。
加えて言うなら、この数時間後、タモリさんは、『笑っていいとも』の生放送を、
何事も無かったかのように、いつもと同じく笑ってこなしたというコトです。
・・・スゴいなぁ。コワいくらいシビアにストイックに生きてるんだなぁ、と感心しました。
自分の大切な人がいなくなった時、これだけ気高くやりこなすことが、果たして出来るだろうか。
こんな素敵な2人の大人の師弟関係に、しみじみと感じ入った夏の日でした。
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