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旅行記

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長崎旅行記Pt.10(Final)

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JR長崎駅前からバスに乗って西彼杵半島、外海、(これを「そとめ」と読む)へ向かう。 市内から途中にある、バス桜の里ターミナルで一度乗り換えなければならず、面倒くさい。 
飲み物を買って、備え付けのテレビを見ながら待っていると、目的地へ行くバスが来た。 ローカル線である事は否めず、バス自体も旧式であり、最近良く見られる「ノンステップバス」ではない。 周りを見渡すと、乗客は少なく、お年寄りばかりである。 
腰が曲がったお婆さんも乗り込んでくる。 段のあるバスを乗り降りするのは実に不自由だ。 お年寄りが降りる際、実にスローな動きでお金を払い、降りて行く。 それを我慢強く運転手はじっと見守り、安全を確認して発車する。 見ているこっちがなんか苛々してくる。
こういう路線なのだから、ノンステップバスにすべきだと思うのだが、やはり、営業的に最新のバスを導入しても採算は取れない。 将来、この路線も廃線になる運命なのであろうか。

最初の訪問先は、 遠藤周作文学館である。 バスは、だんだん海沿いを走り、太陽がキラキラ海を照らす。 しかし、ここも、島原半島同様、山が海に迫るような地形で、平地が実に少ない。 作物の収穫も、少ないであろう。
バスは、黒崎地区を過ぎた。 黒崎地区へは、帰りに寄ることにして、遠藤周作文学館のあるバス停「道の駅」に近づいてきた。そろそろだなと思って、停留場のアナウンスを良く聞かず、停車ボタンを押してしまった後、一つ手前の駅だと言うことに気がついた。
「間違いです!」と、いうのも恥ずかしいので、そのまま降りてしまった。 「まぁ、一つ手前なので、さほどの距離はないし、天気も晴れていて海を見ながら歩くのも心地が良い。」と、恥ずかしさを隠すために、一人強がって歩き始めた。
何故、こんな僻地に、こんな立派な施設があるのか、不思議がる人もいるであろうが、実は、「深い河」と並ぶ遠藤氏の代表的作品の一つである「沈黙」の舞台がこの外海である。 
「沈黙」は、日本へやってきた外国人宣教師が、繰り返される拷問に負けてしまい、自らの信仰を捨てて、日本人の名前と罪人の未亡人と子供を与えられ、日本人として生きた彼等の栄光と挫折を描き、神とは、信仰とは何かを問うすばらしい作品である。
この小説は、実際にあった歴史上の事実を小説化したもので、主人公のポルトガル人宣教師、ロドリゴのモデルは、イタリア人のジュゼッペ キャラであり、もう一人は、ポルトガル人宣教師のクリストバン フェレイラ(モデルと同人)である。 フェレイラは、沢野忠庵、キャラは、岡本三右衛門と言う名を与えられ生涯母国に帰ることはなかった。
館内には、氏が生前使っていた机や椅子、そして生の原稿等が展示されている。 感想を書くノートを覗いてみる。 修学旅行生などがいろいろ感想を書いてあったが、その中で、ある教師は、この小説を教材に使っており、この文学館訪問を以前から希望し、遠藤氏への思いを切実に綴られていたのが特に気を引いた。

文学館を後に、次の出津(しゅっつ)町へ向かう。 道は下り坂となる。 どうも、文学館のある辺りが山の頂上に当たるようである。 距離にして2km位はあろうか。 下ると言うことは、戻るときは昇りなる訳で先が思いやられるが、目的地に向かって歩いてゆく。 
ここには、カトリック出津教会、ドロ神父記念館、歴史民族資料館等、見るものがあるが、時間は余りないので、歴史民族資料館にある、「沈黙の碑」を見るだけに留めた。 遠藤氏の言葉「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりにも碧いのです」と、刻まれている。
フランス人のドロ神父は、鎖国が解かれた後、来日し、大浦天主堂で司祭をした後、外海に赴任し、村の人にパンやそうめんの作り方を教え、布教活動をした。 その為か、ローマ法王庁の日本人枢機卿(法王のサポート役)がこの町から二人も輩出しているそうだ。

次に、坂を昇り、先に訪問した遠藤周作文学館を通り、黒崎地区へ向かう。 4〜5kmはあろうか。 海を見ながらの風景も段々と飽きて来た。 冬とは言え、日差しがあるので歩き続けると結構、暑さ感じる。 
上り坂は、結構、疲れるが、しかし、歩いて大正解であった。 実は、頂上辺りから下っていく途中で、「ここは日本か。」と思わせる風景を目の当たりにすることになった。
それは、すべてが十字架からできているキリシタン墓地であった。 こんな広大な敷地が、十字架だらけなのである。 そこで、予定にはしていなかったが、この黒崎キリシタン墓地を訪れることにした。
墓碑には、名前が刻まれているが、苗字の後に、ポルトガル語による洗礼名が続き、最後に日本人名が刻まれている。 周りは綺麗に草が刈られ、生花と造花で飾られ、美しい。
フランシスコ ザビエルが来日して450年以上が経っているが、この風景を見て、改めて外国人宣教師の強い使命感と信仰心に驚き、そして、これは、歴史そのものだと感じ入った。

次に黒崎教会へ向かう。 正面に美しい白いマリア像があり、注意を引く。 そして、その下には、教会の由緒書きが記されている。 そこには、イエズス会のスペイン人神父、カブラル師がこの地で布教活動されたこと等が記されている。 入り口を入ろうとしたとき、二人の品の良さそうなご夫人2人が出てこられ話している。 「カブラルさんて、バリニャーノさんに叱られて、直ぐに帰った人だよね。」「そうそう、バリニャーノさんが一番偉かったのよ。」 ぬ、ぬ、ぬ。良く勉強しているなぁ。カブラル神父は、日本の布教長であったが、日本人を蔑み、食事も日本食を拒否し、牛肉ばかりを食べていたらしい。 当時、日本では、肉食の習慣はない。 当時の日本人は、「農業に役に立つ、牛馬を食らうとは何事だ。」と言う考えだったらしい。 日本人が、肉食の習慣を持つようになったのは、キリスト教の宣教師の影響かも知れぬ。
カブラルは、日本国内では、一番偉かったが、バリニャーノは、アジア地区の責任者である。 どちらが聡明な人物であったかは、一目瞭然で、バリニャーノは、カブラルの行動、考えに到底受け入れられないものと判断したのであろう。

黒崎教会を後にし、枯松神社に向かう。 案内板があって、何故か分からぬが、勝ってにすぐそばにあると決めかかっていたのが間違いだったのか、歩けど、歩けど着かない。
結局、4、50分は歩いたであろうか。 この神社の祭神は、日本の神でなく、サン ジワンという神父である。 これは、隠れキリシタンが、神社と見せかけて、密かにキリスト教を信仰していた聖なる場所である。
ここには、結晶片岩でできた大きな岩があって、この周りに隠れキリシタンが集まっていたという。 この神社には、小さい木造の神殿があるが、賽銭箱や神社には欠かせない鳥居がない。 
これを考慮すると、やはり本来の神社と言う性格のものではなく、隠れ蓑の存在であることは明白だ。
隠れキリシタンは、鎖国の期間長い年月を経て、隠れて信仰して来た為にキリスト教の教義からはずれてしまい、全く別の宗教となった。 黒崎地区には、現在も200戸余りの隠れキリシタンを続けている人たちがいるそうである。
徳川時代300年も隠れて信仰した為に、カトリックでもなく、プロテスタントでもなく他の地区、平戸や生月の隠れキリシタンとのつながりも無く、独自の宗教となった。
外国人神父達も、正当なカトリックに戻そうと努力したようであるが、これを拒否し、独立した宗教になっているそうである。 若者はどうせ離れていくものも多いであろうから、この宗教も、いずれは無くなって行くであろう。

一時間一本のバスが来た。 長崎へ戻ってお土産にカステラを買う。 カステラの語源は、Castilla(カスティーリャ)である。 オリジナルのお菓子は、ビスコッチョと呼ばれるもので、大して美味しいとは思えぬ。 
しかし、日本人は、オリジナルのものを改良し、より美味しいものを作った。 このオリジナルを改良し、より以上のものを作る日本人の能力は今も昔も変わらぬ。 
今でこそ、液晶は、当たり前のものであるが、オリジナルは日本ではない。 電卓競争でカシオに負けたシャープは、消費電力の少ない液晶に目をつけたが、サンプルを手にした時に同封されてきた手紙には、「これは、あなた方が希望されている製品になるものではない。」と書かれていたそうだ。 これ以降のことについては、説明の必用はあるまい。
Castillaとは、首都、マドリッドのある、スペインの中央から北部に当たる地域のことで、かつては、独立国であった。 当時は、スペインはさまざまな国に分かれていて、カスティーリャ国とバルセロナのあるアラゴン国が合併して今のスペインの基礎が出来上がった。 
これは、政略結婚によるもので、カステーリャの女王、イサベルとアラゴンの王子、フェルナンドが結婚してスペインの基礎を作る。 そして、800年もの間、アラブ系、回教徒に支配され続けたイベリア半島は、力をつけたスペインによって、その当時の支配者が排除され、カトリック国として歩むことになる。
そして、イサベルがコロンブスを保護し、彼の計画に理解し、支援したことから、アメリカ大陸の発見と共に、そこを領土化し、「日の沈むことのない国」と言われた大国スペインになって行く。

カステラは2本買った。 でも、結局、この2本は、他人の胃袋に納まることはなかった。 

長崎旅行記はこれで終了。 昨年末に行ったのではあるが、旅行記をまとめるには、随分と長く掛かってしまった。 
直ぐに、書けると思っていたが、どうも、書き続けていくと、「これが足りない」、「ここがちょっと調査不足」とか考えてしまい、参考文献を読み直したり、新しい文献を探したりと、予想以上に時間を費やしてしまった。
まぁ、ちょっと、マニアックでアカデミックな内容であるので、読んでもらってはいても、コメントがなく、反響は皆無である。 一抹の寂しさは覚えるが、仕方あるまい。

(写真)
黒崎のキリシタン墓地
枯松神社

長崎旅行記Pt.9

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硫黄の噴煙を背にして、車を島原へと走らす。 途中、雲仙普賢岳噴火してできた平成新山が見える。 ここは、まだ火山活動が活発なのか山頂付近では数々の煙を噴き上げている。
雲仙地獄で轟々と音を立てていた様が脳裏に浮かぶ。 頂上ではあのような激しい音をきっと立てているのであろう。 
国道57線を更に下っていくと火砕流が発生した、水無川を通過する。 文字通り、水は全く無い。 水無川とはよく言ったものだと感心しながら、島原市へ到着。 すぐさま、島原城へ向かう。

随分、立派な城である。 この島原城は、松倉重政が、新しい領主として赴任し、新たに造った城である。 半島には、前の領主、有馬家の居城であった日之江城があったが、そこには住まず新たに島原に城を造った。
廃城となっていた、原城そして前領主の居城であった日之江城をぶっ壊し、そこにあった材料を運んで新たに城の建築に当たった。 建築に駆り立てられた半島の住民はさぞかし迷惑であったろう。
わざわざ新た城を造るというのは、自らの力を誇示したかったのである。 松倉重政がどういう人物であったか良く理解できようか。 農民から絞るだけ絞り、人を牛馬のように使い、殺すというような悪政を執っていた領主なんぞには、この城は立派過ぎる。 まさに「身分不相応」である。

城から降りて、武家屋敷へ向かう。 道の中央に川が流れている。 洗濯、洗い物に使われた用水のようで、最近の映画、吉永小百合、竹中直人主演の「幻の邪馬台国」でこの通りが1シーンとして登場する。 
同じようなものが大和郡山市の紺屋町にも見られる。 紺という文字が表しているように、そこでは通り中央に流れる川は、染色用に使われていた。 
そろそろ、日が暮れてきているので、長崎へ戻ることとした。 途中、あの悪名高い諫早湾干拓用の潮受け堤防を走る。 両方が海である。 なにかオランダの大堤防を思い出させるもので、これと同じくちょうど中間地点で車を駐車できる。 道路を横切る高架橋を渡って両方の海を眺めも、干拓事業工事は、ここからは良く伺えない。
恐らく、まだ、進んでいないのであろう。 しかし、一度決めたものだからと言って、何も何が何でも実行する必要は無いと思うのだが。 後に、不要だという結論になれば、計画を中止すればいいだのと思うのだけれど。 どうして、こうも意固地になるのだろう。

しかし、良く走った。 約300Kmのドライブであった。 翌日は、長崎最後の日となる。 西彼杵半島へ向かう予定である。 

(写真)
*武家屋敷の通り
*諫早湾干拓潮受け堤防

長崎旅行記Pt.8

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原城から、雲仙へ向かう。 途中に有家キリシタン墓碑があるので、そこへ立ち寄る。
ここは、この有家の地にある墓碑を一堂に集めて公園化したものであるが、公園いうほどのものでもない。 有家は、かつて口之津などと同様にキリシタンが多く、セミナリオなとの学校があったことでも知られる。
さて、ここで、一つの驚くべき事を発見。 ここに到着した際、「有家キリシタン公園」案内版と一緒に、「妙香古墳」という案内板も同時にあり、古代史ファンとしては、興味津々でここを訪れることにした。
最初は、まぁ、どうせ、ちょっとした丘のようなものだけで、何も見るものはないであろうと考えていたが。。。そ、そこには何と驚くべきものが置かれていた。
二つの石像が、飛鳥にある「猿石」にそっくりなのだ。 ただ、案内板には、飛鳥の猿石よりも、韓国全羅北道益山郡にある弥勒寺の猿石の方に似ているとの結論が出たとの事。 まぁ、どっちに似ているとしても、どうせ半島の影響があったのは確かなのだから。
しかし、島原半島にもこのような石像があることに驚く。 因みにこのような猿石と呼ばれる石像があるのは、前述の2箇所とここだけだそうである。

珍しいものを発見し、驚きながら車を雲仙に進める。 時間があれば、ゆっくりと湯につかるところであるのだが、のんびりできない。 車中に硫黄の臭いが入ってくる。 温泉が沸いているのだと実感する。
すぐさま「雲仙地獄」を見学する。 あたり一面水蒸気が沸いている。 所々で、「ボッ」、「ボッ」温泉がと噴出す音がしている。 硫黄の臭いも歩いていると慣れてくるのか、余り気にならなくなってきた。 
「地獄めぐり」のコースの一つに「キリシタン殉教碑が立っている。 解説として、「キリシタンが厳しい弾圧を受けていたころ、幕府は改宗を迫る手段として、温泉の熱湯をかけるというひどい仕打ちをおこなったいました。」と、書かれているが、一体どんな仕打ちなのかこれでは判らぬ。
あまりにも、簡潔に書かれすぎていて、これでは全く実感が湧かない。 それで、自分なりに歴史上どのような弾圧されていたのか調べてみた。

有馬直純の家臣であった、パウロ内堀作右衛門は、直純が棄教し、日向に配置換えになった際、付いていくのを拒み、有馬に留まって、信仰を守っていたが、家族全員が捕らえられた。 1627年2月21日の事である。
まず、次男のアントニオが呼ばれ、父であるパウロ内堀作右衛門は、「子供の指を何本切ろうか。」と尋ねられ「ご随意に。」と答え、次男の真ん中の指を三本ずつ切られた。
長男バルタザールも、同じ刑を受けたが、三男のイグナシオは、右手の指一本を切られると、地の滴るのを見て満足し、左手の指がもう一本切られるとそれを見て微笑し、刑吏たちは恐れたという。
後に、子供達は、海中に投げられては、引き上げられる繰り返しの拷問が行われ、パウロ内堀作右衛門は三人の子供を失った。 その後の2月28日、彼と彼の妻が雲仙へ連れて行かれた。
彼らは連れて来られるや直ぐに雲仙岳火口で、裸にされ、首に縄を巻かれ、熱湯の中に沈めたり、引き上げたりされた。 その日ここでは、16人が殉教し、遺骸は石を結わえられ火口へ掘り込まれた。
次いで5月1日、10名が拷問を受けた。 この日、全員が祈ることをさせないよう猿轡を口に嵌められ、熱湯を受けながら、「立て」、「座れ」の命令に従わされた。 この拷問は6時間も続けて受けたものもいた。 彼らの死骸もまた火口に放り込まれた。
1629年、8月5日、男37名、女27名のキリシタンが雲仙へ連れてこられた。 彼らは裸にされ、首に石をかれられ、熱湯を昼夜かけられた。 そしてこの拷問が何年も続くと脅され、数人を除いて棄教した。 
その中で、19歳のシメオンは、拷問に耐え、ここで数少ない殉教者の一人である。 彼は、首にささえる事もできないような重い石を吊るされ、煮えたぎった熱湯を注がれた。 
気を失うとすぐに小屋へ連れられ、また同じような拷問を受けた。 そして、傷の中に蛆が湧き、家へ帰されたが、家で息を引き取った。 18日も続いた拷問だった。 ここでは、30名がこの拷問で棄教した。
人間を人間とは思わないこのような所業は、地獄絵さながらである。 封建社会に生きることがどれだけ辛いということであろう。 いい時代に生きていることを実感する。

(写真)
*湧き出す温泉
*妙香古墳の石像

長崎旅行記Pt.7

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島原半島は火山による火山灰に覆われ米作に向いた土地ではない。 また、山が海岸線に迫っている地形で農業用の土地は不足していると言えようか。 
当時島原の領主は、大和生まれの松倉重政で、当初は筒井順慶に仕えていた。 後に、秀吉の旗本の地位にあったが、関が原の合戦にて巧妙に家康に取り入り、島原を与えられることとなる。 そして、この事は、島原の民にとっては不幸なことであった。
彼は、三代将軍、家光から「キリシタンの取り締まりが緩い。」と叱責を受け、以後、彼はキリシタン弾圧に力を入れるようになる。 もちろん、こうしたのは、我が身かわいさ故に他ならない。
彼の弾圧は、すさまじいものであった。 当初は、火あぶり等の処刑であったが、キリシタン達は喜んで殉教していった為に、棄教させるために拷問を行うようになる。 女子供でさえも容赦はなった。 子供が拷問に遭うのを見て棄教した母親もいたようだ。むしろ、この方が人間らしいとも思えるのだが。
裸にされ、鉄の鋏で指を捻じ曲げられる。 顔、体に「切」「支」「丹」と書かれた真っ赤に焼かれた鉄の鏝で焼かれる。 真っ赤に焼けた鋏で肉を細かく切られるという方法で指を切られ骨を砕かれる。
炭火の上で両手両足を取られ、回転させられながら口から煙が出るほど炙られる。 片方の鼻に灰を押入れ、もう一方の鼻には硫黄を竹につめそれを吹き付けられ、息の根は止まり顔は爛れた。
生まれてきたばかりの嬰児の頭で瀕死状態の祖母の顔を何度も叩く。 まったく、人間が人間を苛めるほど醜いことはないが、よくもまぁこのような拷問を考え出したものだと呆れてしまう。 拷問を考案することに快感さえ覚えていたのではないか。
このような、弾圧が行われ、外国人宣教師はいなくなり、一応、この地での表向きのキリシタンはいなくなっていった。 

原城は「島原の乱」の舞台になった所である。 一般的には、天草四郎時貞が率いたキリシタンによる一揆とされている。だが、果たして実際はキリシタンによる一揆であったのだろうか。
布石はあった。 火種は既に燻っていたのである。 ましてや天候不順による凶作が続き、領主から厳しい取立てが行われたとしたならば。。。
領主、役人は、何につけても税として取り立てた。 子供が生まれれば人頭税、いろりをつくればいろり税、窓を作れば窓税、なすびを植えれば一本につきなすびの実をいくつ出せ。。。そして、出すことができなかったら厳しい拷問を行って、搾取してきた。

島原領主、松倉重政の死後、息子の勝家が継いだ。 この息子も、酷いことをしたが、それは親以上であった。 彼の部下、田中宗甫は、彼の知行地、口之津で、大百姓、与三右衛門に米を「更に三十表出せ」と要求する。 与三右衛門はないと答えると、長男の嫁を捕らえ、籠に入れてそのまま川の中に放り込んだ。
与三右衛門は、せめて嫁の身代わりとして自分か長男に代えるよう依頼するも、拒否される。 理由はいたって簡単で、男は農作業の働き手として重要であるからだ。
哀れなことには、嫁は臨月をむかえており、川に放り投げられて六日後に川の中で出産。 そして次の日、嬰児と共に亡くなった。 二人の死体が彼らの下に運ばれてきた。
嫁の出身地、天草からは、彼女の両親も来ていたと言う。 母子の死体を見て怒りを覚えない人間はいまい。 これはほんの一つの例にしかすぎない。 恐らく、このような厳しい年貢の取立て、搾取、そして、命令に従わない場合、このような惨い拷問が数多くなされていたのであろう。
そして、怒りは頂点に立つ。 数年続いた凶作で、食べ物はなく(否、あってもすべて年貢として搾取されてしまったというべきか)どうせ、飢え死にしていくなら、その前に徹底抗戦をしてやろう。と思うのが虐げられた人間の心理である。
立ち上がった口之津の農民たちは、他の島原半島の地の農民と呼応し、役所を焼き討ちし、役人達を殺害、島原城を取り囲むも、落城が不可能と知るや、原城跡に籠城するようになる。

天草四郎時貞は、本名を益田四郎時貞、洗礼名をジェロニモと言った。 父親は、益田甚兵衛好次で、キリシタン大名として知られ肥後の半分と天草諸島と領としていた小西行長に仕えていたが、関が原の合戦にて敗将となり、多くの家臣は、土着し浪人となった。
天草諸島に住んでいたこれら浪人達の内、「島原の乱」を扇動し、企画者的役割を果たした五人が、26年前に追放されたキリスト教神父の預言を公言した。 「26年後、必ずや善人が生まれるだろう。 その幼子は、習わざることなしに諸学をきわめ、やがては野山に白旗を立てて、緒人の頭に十字架を立てるだろう。」
その少年こそが、天草四郎で、反乱軍の大将として担がされた。 四郎は、天草の島から半島まで歩いて渡ったという伝説が残るが、一揆側の士気を高めるための方便にしか過ぎない。
四郎率いる、一揆軍は、それぞれの村人に一揆軍に参加することとキリシタンになることを強要し、拒否すると殺すと脅された。 中には参加したくない者、キリシタンになりたくない者もいたと言う。 しかし、状況が状況だけに、参加しなければ、いわゆる「村八分」にされることを恐れたに違いない。
村の中には、女子供も含めて村の全員が加わった村もあったと言う。 一揆側は、総勢3万七千人に登った。

幕府側は、一揆の鎮圧になりふり構わない行動を取った。 オランダ船から大砲で攻撃させたのである。 これには一揆側も抗議した。 「攻城については日本国にも武芸に秀でた武人がたくさんいるのに、オランダ人の加勢を乞うこと、心得ぬことである。」と。
まったく、なりふり構わぬ行動であり、恥じるべきであろう。 このオランダ船からの攻撃は、だがしかし、一発も命中しなかったと言う。 当初、劣勢であった幕府軍ではあったが、知恵者、松平伊豆守信綱が軍を指揮を執るようになってから諸国の大名が一揆の鎮圧に駆けつけ、総勢12万4千になった。 知恵者は、兵糧攻めすることに方法を切り替えた。

ここ、原城は、否、原城址には、天草四郎の墓(写真1)、そしてキリシタン墓碑などがあり、史実を伝えている。 原城は、断崖絶壁に立っている。 柵の向こうに、3体の小さい像(写真2)が建っているのを見つけ、よく見てみると海側を向いている。 ちょっと、気になったので柵を乗り越えて覗き込む。 
十字架を掲げた、一見して明らかに西洋人だと分かる像一体。 日本人侍一体。 キリシタンの日本人女性一体。が確認された。 しかし、気をつけなければならない。 なぜなら、後ろは断崖絶壁なのである。 この像と断崖絶壁の間は人一人通れる位のスペースしかない。
恐々、足元に十分気をつけて、とりあえず写真一枚収めることにした。 後で写真を確認した所、真ん中の日本人侍は、天草四郎で、「将軍大菩薩」と彫られている。
左の女性は、四郎の姉で、右側の西洋人は、フランシスコ ザビエルである。 しかし、変な取り合わせである。 四郎はキリシタンだった。 なのに、なぜ「大菩薩」になるのだろう? 彼も右隣の姉も十字架を提げている。 左にはザビエルもいて、キリシタンの趣を放っているのに。。。
ここからの風景は、実に美しい。 海の向こう側には、天草諸島が浮かんでいる。 風景が美しすぎる為に、悲劇はよけいに痛ましく感じる。
断崖絶壁に立っていると言うことは、守りは良かったのかもしれないが、それは、時代が経つにつれて、否、新しい兵器が生まれるに従って立地条件としては良くないものになって行く。
つまり、大砲が開発され、海から狙われればひとたまりもない。 故に、廃城となった。 ここの石垣も、松倉重政が建てた島原城建築の為に運び出された。 一揆側が立てこもった時も、恐らく、城として堅く守れるようなものではなかったであろう。
石垣は、現在もある程度は残されているが、建物の痕跡は皆無に等しい。 この石垣のみが、歴史の目撃者である。

やがて、兵糧が尽きて、飢えに悩んだ頃を見計らって幕府側の総攻撃が開始され、3ヶ月もの間続いた一揆は終末を迎えた。 一揆側は、老若男女問わず幕府と内通していた一人を残して全員が殺された。 この地では、農作業をしていると今でも人骨が出てくると言う。

このようにして、島原の乱は、搾取され続け、数々の拷問を受けて人間扱いされず、飢餓で死にかけていた農民たちによる一揆の性格がまず強く、一般に言われているキリスト教を禁止された事によるキリスト教徒による反乱ではない。 実際、島原の乱が勃発したと時には、外国人神父はおらず、教徒達も一掃され(隠れ)た時期である。
また、キリスト教の教えには、迫害されても報復はしてはならず、実際、彼らは迫害を受けても、殉教の道を選んだり、拷問や死が怖くて棄教したのである。 乱を起こすと言うことは、キリスト教の教義にはなく、異端なのである。 
更に、この事件の責任として、領主、松倉勝家が処刑されたことも見逃せまい。 結局、一揆は、彼の悪政によるものと幕府が判断した為に、武士には名誉とされる切腹ではなく、処刑という処分がくだったのである。
たまたま、キリスト教徒が乱の中心となったこと。そして、幕府側にとっても「キリシタンは怖い」「信者になるとこのように皆殺しにするぞ。」というように日本国内にアピールする狙いがあった事で、世間一般には、キリスト教徒による反乱と位置づけられた。と考える方が妥当であろう。

長崎旅行記Pt.6

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島原半島を一周する予定である。 予約していたレンタカーを借り、いざ出発。
島原までの道路は、はっきりと分からない。 ナビはついているが、メーカーが普段使っている所とは異なっているために、ちょっと操作方法が分からないのだ。 車を運転していることもあり、操作に夢中になっているとこの上なく危険である。
しかし、生まれ持った性格か、運転しながら操作をする自分が怖い。 どうも、何事も早く終わらせないと気がすまないのである。 触っていく内に操作方法も段々と分かってきた。
とりあえず、方角と道路案内表示板に従ってハンドルを切っていく。。。長崎バイパスから諫早を経由して島原半島の西側ルートを取って下ってゆく。
千々石(ちじわ)の海岸線に出る。 千々石といえば、あの天正少年使節の千々石ミゲルの出身地であろうか。 
千々石ミゲルは、当時、島原を治めていた有馬鎮貴(後の晴信)の従兄弟であり、備前大村を収めていた大村純忠の甥である。 
ミゲルの父、直員(なおかず)は、千々石家の養子となり、千々石城の城主となったが、佐賀の龍造寺隆信に攻められ父と兄を亡くした。 彼の場合も、惨めな少年時代を過ごしていた。
そんな折、イエズス会によって設立された学校、セミナリオ(神学校)で学ぶようになる。 そして、伊東マンショ達と共に欧州へ行き、当時、世界に沈むことのない国といわれたスペイン国王、フェリペ2世やローマ法王グレゴリオ13世とも謁見。 欧州中で大喝采を浴び帰国する。
しかし、彼、千々石ミゲルだけは、後にキリスト教を棄て、大村喜前候に召抱えられ、清左衛門と称し、妻を娶った。 なぜ彼だけがキリスト教を棄ててしまったのであろうか。
 *天正少年使節については、拙HPを参照されたい。http://web1.kcn.jp/y-asa/tenshoushisetsu.htm

車をどんどん南に走らせる。 小浜温泉を経由しさらに南に進める。 小浜から雲仙に通じる道があるが、雲仙には有家から行くこととする。 島原半島の最南端、加津佐、口之津を通る。 この地は、かつてポルトガル船が入港した場所であり、ここから上陸したキリスト教神父も多い。
そして、ここ加津佐にあったとされる神学校(セミナリオ)で、少年使節一行が持ち帰った印刷機で初めて日本で印刷本が作られるようになる。 風景はとてつもなく美しい。 今は、寂れた小さな漁村にしか過ぎないが、西洋文化がここを経て入ってきた。
しかしながら、この地もキリスト教が禁止されるに従い、信者に対して厳しい弾圧を行う舞台にもなった。 1614年11月22日、70名のキリスト教徒が殉教覚悟で出頭した。 すぐに拷問が始まった。 両腕を捕まえられ、10名前後の刑史が飛び掛り殴打し、たちまちに彼らの鼻、口からは出血するのであった。
また、他の信者は、手足の指を順番に八回に分けて切られ、額には火で焼かれて真っ赤になった十字形の焼き印が押された。 それでも棄教しない信者には、猿轡をはめられ足の筋を引き抜かれたり、石段の上から下まで落とされ死んでいった物もいた。。。
風景が美しいだけに、過去に多くの血が流された事が余計に痛々しく感じる。 

ここで、ふとガイドブックを見た。 少し内陸へ入ったところに「原山ドルメン」という名前にちょっと引っかかり、良く見てみると、ここは、紀元前4世紀の支石墓地であるという。 ここで、計画変更。 口之津から原城までまっすぐ行くつもりであったが、ここを目指すことにした。
そこへ行くには、小浜からの道が距離的には短かったが、まぁ、遠回りになるが、大した時間は掛からない。 ここでは、荒削りながらも箱式石棺らしきものが見られ、古代史が好きな者としては大いに興味をそそられたのであった。 
因みに、このドルメンというのは”dolmen”という英語で、意味は、「垂直に立てた2個以上の自然石の上に大きな平らな石を載せた先史時代の遺物で、墓とみなされる」(ジーニアス英和辞典:大修館書店)で、スペイン語でも同じ綴りであることから、語源はラテン語から来ているものであろう。

またまた、ガイドブックに目をやると、キリシタン墓碑なるものが目に入ってきた。 小浜方面に戻ることになるが、距離も大して掛からないことからハンドルをそちらに向けることにした。
訪問した墓地は、土手之元キリシタン墓碑で、ここには切り妻3基、かまぼこ型1基があり、県の史跡に指定されている。 しかしながなら、墓碑自体は守られているようであるが、周りには、工事用の資材や、それを包んであったであろうナイロン袋等が散乱していて、景観が損なわれていることに少々残念が気がした。
ここに眠っているのは誰だろうと考えながら、再度、半島の最南端を通る同じ海岸線を通り、加津佐、口之津を経て原城へ向かうこととした。

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