むかしむかし

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手記 その5

失われてしまった、父の【自己史】の冒頭は、記憶では確か
父の実父がもともと熊本県大矢野島の漁夫で、
大正9年(1920年)に、家族全員が朝鮮の全羅南道の法聖浦に渡ったことからはじまっていた。
やはり、よりよい漁場を求めての移住だったらしい。

昭和の始め、父は、元山で大々的な水産物加工工場を経営していた
遠縁の朝山家に養子に入る。
和三郎が息子二人に先立たれたためである。
経済的には豊かだったようだが、養母はひどく厳格な人だったらしい。
もしかしたら父は、実家で兄弟姉妹とにぎやかに暮らしていた頃を、懐かしんだかもしれない。

父の実父はそれなりに、地域に尽くした人だったらしく
もうとっくに倒され苔むして見つけることなど不可能だろうが
【松井乙ー公性善不忘之碑】なる石碑が、
かって法聖浦の近くに地元の人によって建てられていた、という。

手記 その4

その秋の暮に和三郎は郷里に帰った。
朝鮮での成功話と、持ちきれないほどの土産物を抱えて。
和三郎の噂は狭い村中にすぐに広まり、人々は毎日のように話を聞きに来たと聞いている。

和三郎は久しぶりに弟たちと会い、ナマコ漁の話を聞かせて
来春はぜひ3人で、彼の地に渡ろうと誘った。
弟たちも異存のあろうはずもなく、3人は明治26年の2月渡鮮した。
朝鮮に永住する決意だった。
出立の前には、兄弟の生みの親、シモ女の墓を小高い丘の上に建立し、その霊を祭ったという。

折りしも日本と清国との間が険悪となりつつあったが、
政局には無関心な和三郎たちは、かまわずナマコ漁に夢中だった。
ナマコはよく売れたが、その頃から少しずつ同業者が増え、
だんだん深いところに行かなければ、ナマコを見つけるのが難しくなった。

和三郎兄弟は、より多くの収穫をめざして、新しい漁場を見つけるために
東海岸を北上して行った。
長箭、高城、元山と渡り歩くうちに、元山がもっとも地の利がよく、
買い手の中国人も多く集まっていることがわかった。

元山を本拠地と定めた和三郎は、周辺の各漁場にナマコ加工工場を設け
それぞれの工場の管理・運営を弟たちに振り分けた。
明治28年のことである。
時はあたかも日清交戦の最中で、戦局は日本の優勢のうちに進行し、この夏講和条約が結ばれた。

   
    亡父のメモは、ここで途切れている。


              その5に続く

手記 その3

朝鮮に渡った和三郎は、郷里にいた時習い覚えたもぐりを練習して、ホタテ貝やナマコを漁とした。
朝鮮の東海岸は、干満の差がほとんど無く
岩場や砂場には、貝類やナマコなどが群生していた。
朝鮮の人は貝は食してもナマコはまったく食べなかったので、
体長50cmものナマコが岸近くまで無数に生息していたという。

和三郎は機運に恵まれた。
毎日、若さに托して4斗樽に6−7杯のナマコを拾い集めるようにして収穫した。
採ったナマコは海岸に設けた大釜で塩ゆでして、木炭を砕いて粉にした中でよく混ぜ、
直ちにムシロの上に広げ乾燥させた。

干しあがったナマコは50cmのものも7−10cmに縮まる。
これを俵に詰めて、100kgずつに荷造りし、中国人に売った。
ナマコは中国料理には欠かせない高級材料である。

和三郎が最初に漁を始めたのは、東海岸の注文津(江原道)という漁村だったらしい。
当地は千島寒流と黒潮暖流との接点付近に当たり、ナマコに限らず他の魚類も沢山採れた。

和三郎はナマコ専門で行こうと決め、注文津に漁場を構え、その秋まで懸命にナマコを採った。
ナマコは夏には採れず、漁期は春と秋であることも判った。

その秋の漁が終了した時点で、和三郎が手に入れた金は5000円程だった。
これは、当時の衆議院議長の1年分の俸給に相当した。
漁夫の日当が50銭、大工・左官は60銭、和服仕立て職でも70銭くらいだったので
5000円がいかに高額だったかがわかる。

           その4に続く

手記 その2

朝山家は、茂平(昭和7年82歳で没)の代まで、百姓を家業とした。
土地は狭く、地味はやせて、一家がやっと食べる程度の水呑み百姓だった。

明治24年に茂平の妻シモは、和三郎以下4人の子を残して36歳で病没し、茂平は後妻を迎えた。
しかし4兄弟と後妻の折り合いが悪く、翌春16歳になった長男和三郎は弟たちに
「成功したら必ず迎えに来るから」と言い残して、故郷福田村(長崎県)を出ていった。

その後どのように朝鮮に渡ったかは定かではないが、おそらく長崎三菱造船所の知り合いのつてで
遠洋漁業の船で香焼の港から出奔したと思われる。

明治25年、当時の日本国内の景気は、よいものは極端によかった。
たとえば、全国的に赤痢が流行り、東京には痘瘡が流行するなど、医者や避病院が大繁盛した。
また鳥の雛がよく売れて、飼育が流行った。
パナマ帽が流行したので、帽子職人と問屋も景気がよかった。

反面、大火がなかったため大工や材木屋の景気はよくなく、
御用商人や会社経営も悪かった。そのため、人力車引きも不景気だった。

             その3に続く

手記  その1

1983年に亡くなった私の父は、晩年主治医に薦められて
【自己史】と称するものを、大学ノートに確か6冊ほど書き溜めた。

父は1917年生まれ、この手記には大正から昭和にかけての世相など
下の世代には興味深い内容もたくさん書かれており、昔奉職していた学校の手描きの見取り図まで入っていた。

ところが父の死後、母が子どもたちに何の断りもなく、このノートを全部捨ててしまった。
自分は2番目の妻だと思っていたのに、手記には過去2回結婚したとあるため
激怒したあまりのことというが...娘としては非常に残念だった。

この夏、母が福岡のホスピスに入り、荷物を整理していた時
父が病中の出来事などを書きとめておいたノートに
おそらく【自己史】の一部だったと思われる文を見つける。
懐かしさに、このブログに残しておく。
父の養父、朝山和三郎に関する部分である。

                その2に続く

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