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30年前、韓国で普通に結婚生活を始めた頃は、
まだまだこの国も貧しかったし、まず外国人そのものが珍しかった。
韓国で海外旅行が自由化されたのは、ソウルオリンピック以後である。
私の外国人登録証には、英文表記で本名が書かれているが、
これをそのまま実生活で使うには、いろいろ抵抗があった。
まず、相手が正確に発音してくれない(できない)のは仕方ないことだが少々哀しい。
懸命に発音し、覚えようとする姿を見ているのも気の毒だ。
また、外国人、日本人ということで、奇異の目で見られるのも嫌だった。
なので、名前の漢字を韓国語読みにしたものを「通名」とし、これを使い続けた。
苗字が漢字二文字なので、韓国式に一文字削って使ったりもした。
名前が大して重要でない場合など、その時の気分で、
亭主の苗字を使ったり、娘の名前を借りたり、支離滅裂なことを
現在に至るまで続けている。
よく行くスーパーマーケットとパン屋は、隣り合わせなのだけど、
ポイントカードに登録してある名前が、この二軒では違うので
娘に笑われたこともある。
自分でもこの店ではどんな名前で登録してあるのかわからなくなって、
店員に聞いたりして、憐れみの眼を向けられたり(笑)
時代は変わって、通名を使う必要もそれほどなくなったのだけれど。
それなりに活躍してくれた、「通名」に、感謝。
ぬくぬく
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思い出
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1980年代の終わり頃。
結婚後しばらくして、やっと亭主は定職に就けた。
某日本企業のソウル支社に現地採用されたのは、上出来、というよりむしろ奇跡に近かったが。
事務所に半日遅れで配達される、本国からの日本経済新聞。
それを週末ごとに、こっそり自宅に持ち帰ってくれた亭主。
インターネットなんぞと言う単語すら無かった時代だから、
この新聞は、久しぶりにふれる故郷そのものだった。
広告欄にいたるまでひとつひとつ、丹念に読んでいたものである。
が、そのうち、違和感を感じるようになった。
金銭的、物質的なものは「無しですませられる」ことが、日本人の美徳のひとつではなかっただろうか。
なのに、この新聞からは安ぴかな国民像しか浮かんで来ない。
本格的に渡韓してから、まだ5年そこそこしか経っていないのに、ここまで変わるものなのか。
後になって、この頃が、「バブルの時代」と呼ばれていることを知った。
あれから20年以上が過ぎた。
中国に追い越されたり韓国に追いつかれそうになったりと、昨今は日本経済も苦戦しているようだ。
しかし、日本人の誇るべき特質は、決して数量化できるものではない。
日本人のつつましさ・細やかさ・他者に対する気配り、そして匠の精神は、
この国の人々が生きている限り、誰にもおびやかされないはずである。
ダンボール箱を噛み千切って、あご載せ台を作ったキルトンイ
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最近タクシーに乗ると、決まって運転手がぼやく。
「この生活苦の時代、ガソリン代もハンパじゃないのに。
よくもこんなに沢山車を走らせてるよね。
オレ以外は皆、金持ちなんじゃないかと思うよ。」
都市部では、バス・地下鉄がそれなりに発達しているし、
特に釜山では、タクシーの数も多いから、
車無しでもそれほど不自由を感じないはず(例;我が家)なのだが、
実際はそうでもないらしい。
しかも車の波の中のほとんどが、中型・大型である。
最近バスに乗る時、かなりの確率で、恥をかく。
バス停にバスが、2,3台まとめて止まる。私の乗るバスはずっと後方。
バスを目がけて走り出すのは、私の年代以上の人々。
バスは息を切らして乗り込む年寄り連中を乗せ、何メートルか前進して、定位置に停車。
バス停で待っていた若い人々は、この時おもむろに乗車する。
彼彼女らは、年寄り組に疑問の視線を向ける。
何でそんなに急いで乗るの?
バスは、自分が走らなければ、永遠に乗り込むことができないもの。
韓国の今の中年層以上の頭の中には、そのように入力されている。
バスの姿が見えたら、とにかくその方向に走る。
でなければ、無情にも走り去るバスの後ろ姿を見送るしかない。
バスが定位置にきちんと停車するようになったのは、一体いつからだったろう。
定着したのは、せいぜいこの十年くらいではないかと思う。
バスに乗る時、走る必要のなくなった、今の若い人たちは、
多分将来、無理して大型車を乗り回したりすることもなくなるのではないか、そんな気がする。
そんな時代もあったねと
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S・ジョブズ氏のことではない、悪しからず。
1979年5月、ソウル留学時代。
もともと野球観戦が唯一の趣味だった私、韓国でも訪れた。
東大門(トンデムン)球場での、大学選手権。
当時まだプロ野球は無く、大学野球が韓国野球の最高峰だった。
久しぶりにスコアブックを記入しながら、のんびりと球場の雰囲気を楽しむ。
かなりパワフルな選手もいて、日本のプロ球団でも通用しそうだ。
特に印象に残ったのは、投手では延世(ヨンセ)大学のチェ・ドンウォン、
野手では漢陽(ハニャン)大学のイ・マンスだった。
この2年後、ファン待望のプロ野球ができるのだが、上の2人もそれぞれロッテ、三星に入団、
スタープレイヤーとして活躍するようになる。
1984年、10月。釜山での新婚時代。
ラジオでコリアンシリーズの中継を聴いていた亭主、歓声をあげる。
地元ロッテの初優勝が、そうとう嬉しかったらしい。
エース、チェ・ドンウォンは、このシリーズ、4勝一敗(4完投)という、
かっての日本の、稲尾和久投手を思い出させる成績を挙げた。
鉄腕で鳴らしたチェ・ドンウォンだったが、1988年、選手協会設立のために活動したことで
球団の怒りをかい、ロッテを追い出されたらしい。
マウンドから永遠に去ったのは1990年、まだまだ若い頃だった。
先月14日の明け方、チェ・ドンウォンは大腸がんのため、死去した。
亭主にとっては、慶南(キョンナム)高の同期生でもあるチェ・ドンウォン。
同窓会を通じ、お香典を送った後、
チェ・ドンウォンと中学で同じクラスだった友人と一緒に、静かに焼酎を酌み交わしていた。
慶南(キョンナム)高の卒業アルバムより
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日本に比べればいわゆる老舗と呼べる店は少ないと思う。
人気が出て店舗を拡大したとたんに、味が落ちて客離れする店も多い。
ソウルの中心部、参鶏湯(サムゲタン)の【土俗村】は有名になり過ぎた。
盧武鉉前大統領がここのファンだったせいで、ますますブレイク。
当時のシェフ(?)に対し、
「青瓦台(大統領ハウス)の調理長に、この味をぜひ伝授してもらいたい」と
大統領は直々頼んだが、
「出前ならいつでも、何人分でもいたします。それだけはご容赦を」と丁重に断られたという。
26年前、当時受け持っていた日本語クラスの人たちに案内されて、この店を知った。
当時は今の店の筋向いの、こじんまりした韓国式家屋で営業しており、
自慢の参鶏湯もさることながら、アグチム(鮟鱇と豆もやしの辛味炒め)が美味しくて、
たまたま借りていたアパートもこの近くにあったため、二、三度亭主と行った。
息子がお腹にいた頃で、キムチをはじめ、韓国料理の匂いをかぐのも嫌だったのだが、
唯一例外はここのアグチムで、値段が高すぎて頻繁に食べられなかったのが残念だった。
写真は釜山、南浦洞の「1948年創業」を誇る【十八番ワンタン】のワンタンセット。
7000ウォンで少々割高だが、時分どきには行列ができる。 (1円≒13ウォン)
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