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ドイツで活動していた頃や
ドイツ人と話しをしていると 何かちょっとしたアイデアを出すと それを実現するために すぐにいろいろなアイデアを出し 話しを進めていく。 結果としてそれがうまくいかなかったとしても 前向きに話し合った事は重要であり やってみてダメだったら納得もいく。 しかしまあなんとここでは すぐに最初から無理とかできるわけないとか 話しを聞こうとする態度さえない事が多いのだろうか。 前向きな努力は苦にならないが この種の人を説得するのに使う労力が あまりに多すぎるといつも思う。 僕の人生もこのあとそんなに長い訳じゃないんだから こんな事ばかりしていたら すぐに終わってしまうよ おまけに前向きに生きてるひとを ちょっとした言葉づかいだかなんかで 罵倒する人がいたり そんなん気にせずに 過ごして来たけど いい加減ここんところ多すぎる 滅入るな ここ数日 気分が落ちこみ やる気がおきない ポジティブに生きれるところへ行きたいなぁ |
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個人でもグループでも
教えていてしょっちゅう言わなければいけない言葉は
「こっちみて」
なんです。
せっかく手で見本を見せたり
吹いて見せたりしても
自分のことと楽譜を見ることに
一所懸命になっていて
何も見ていない人がとても多い。
その度に
「楽譜とか楽器見ないで良いから
こっちを見て下さい」
って言うんです。
言ったときは見るけど
またすぐ見ない
だからまた言う
「お願いだから僕のことだけを見ていて」
もう何度いろんな場所で
いろんな人にこの台詞を言ったことか。
そもそも
音楽に限らず
先生というのは
生徒に何も教えられないもの
だと思っている。
生徒がどれだけ吸収して
自分のものにして
能力を拡げていくか
しかし、なかなかそうでなくて
手取り足取りという事が多い。
そういう人は
せっかく今示したのに
と思っても
それを言葉に翻訳して
言葉で理解して
そこから演奏をはじめる
私も多くの素晴らしい師に出会い
多くのことを学んできたと思う
その時は師がどんな言葉を発したか
などはどうでも良いことであって
どのようなニュアンスなのか
自分とどう違うのか
何を意図しているのか
必死に観察して読み取ろうとする。
その観察は師とまったく同じになるためのものではなくて
自分と師の間の違いを観察しているのだと思う。
何が自分と違くて、師のどこが良いのか
それは師からも指摘してもらえるが
それだけではあまりにも情報量が少なすぎる。
自分で気づかない限りあまり上達しないと思う。
この師との違いを観察するという行為は
自分の理想とするものと
現在の自分のギャップを埋めるもの
だと思っている。
しかし
この観察しない生徒達は
おそらく
自分の現在に何かを足していっているだけで
目的地がないのかなぁとも思う。
いくら理想的な指の動きを示しても
舞って見せても
自分のことしか見ていないから。
どんな良い先生に習うとか
良い指導を受けたとか
そんな事よりも
良い音楽を聴いて
こういう風に演奏したい
と思ったら
その人がどういう風にしているのか
必死に観察して
ああいう風になりたいなと
思うんだろうな。
始めた頃は
先生の指を凝視してたし
舞の練習の時でも
必死に観察して
自分ができるようになるには
時間が掛かるが
違いに気づくことは
そんなに難しい事ではない
気づいたって事は
できるようになるんだ
と思って
精進しよう
ちなみに
私は教えているときに
何も喋らずに音が鳴っているときにいろんな指示を出してそれですませたい。
時々ことばで補足することもあるけれど。
でもそれが出来ないときには
言葉で言うしかないんだよな。
一から十まで説明しだしたら
もうそれは親切ではないですから。
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なにひとつとして
一緒に考えたり 何かをしたり 作り上げたり やり遂げた と思えることがない 表面的には いろいろな事が 進んでいたとしても 一方的な良心の押し付けは ひとりよがりの勝手な行動でしかないようだ 本当に苦しい時に 助けを求めた事も あったが 助けてはくれなかった しかし まぁそんな事は すっかりどうでもいいほど 今は健全に いろいろな人たちと 共同作業が進められる 普通だったことが 理不尽となり 当たり前の事が 普通になったいま 前は我慢できた事も 耐え難くなってくる |
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人間、長い間
理不尽な中に居ると
それを理不尽と感じずに
普通と思い込むように
なるのかも知れない。
しかし
何が理不尽で
何が普通なのかは
その人次第なのかも知れない。
アメリカからならず者国家呼ばわりされた
北朝鮮も北朝鮮からしたら
西側諸国がならず者なのかも知れない。
なんとアホな事を書いているのかと
思う人もいるかも知れないけれども
どちらが良いかなんてのは
おそらく永遠にわからない事だと思う。
どちらも自分たちが普通で正しいと思っているからだ。
どちらの考えを持つかは
その人次第であって
どちらでも良いと思う
ただ問題は自分で生まれる国を選べないことだと思う。
ここまでは
今までテレビなどで得た情報を元に書いているので
実際のことをどうこう言うつもりはない。
少なくとも
私が幼少の頃から植えつけられてきた
西側諸国は自由で
共産圏は自由が無く
拘束され監視されている
という先入観は
それらの国や人々と出会うことで
変わっていった。
もちろん、そんな数日で
いろいろなことが解るわけはないのだが
少なくとも偏見はなくなっていると思う。
私はベルリンという
確かに西ベルリンと東ベルリンがあったが
東のど真ん中にあるベルリンに一年いた。
もちろん壁が崩れ東西統一して20年以上
そのような面影はほとんど無いのだが
私は旧東の人や街に行くたびに
ホッと安心して和やかな気分になるのだった。
とても親切に外国人でも話しかけてきてくれ
いろいろ深い話ができるのは
旧東の人の方が圧倒的に多かった。
ライプツィヒのオペラハウスで
ワーグナーの「バルシファル」を聴いた時
それは素晴らしい舞台であった。
それなのに、しかし、
客席はガラガラ
2割くらいしか入っていなかったのではないだろうか?
私のとなりには老夫婦が座っていた。
おだやかな二人は私に話しかけた
いや、私から話しかけたのかも知れない。
私は尋ねた
「なんでこんなにガラガラなのでしょう?」
夫人は
「以前はいつも満席で
5ユーロ(たしか)くらいで聞けた」
でも東西統一してからずっとこんな。
ほかでもなんかこのての話を聞いたな
昔はのんびりしてたって
何が良いのかなんて
周りからは見えないんだなぁ
と
話しは遠回りしてきましたが
その逆に
理不尽な中でそれを我慢していたところから
解き放たれて
普通を見つけた人間にとって
ちょっとでも
その理不尽の片鱗を見ると
気が狂いそうなほど
動揺して取り乱しそうになる
20年もの理不尽を
我慢して
やっと普通を見つけた身としては
全ての理不尽を払拭して
どんなに忙しくても
心の安定を保っているが
砂粒ほどの理不尽のかけらを見つけると
もう
心の安定は消え去り
取り乱し発狂しそうになる。
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