その4

2・生まれ故郷の伝統文化     

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川瀬歌舞伎

川瀬歌舞伎(かわせかぶき)
歌舞伎は、衣装や道具、舞台装置などが必要である。そのため元来浄瑠璃が盛んであった川瀬地区に芽生えた。「敷島会」と呼ばれる芝居グループが生まれたのは大正時代のことである。下直瀬では浄瑠璃の語り手が多く輩出し、これを取り入れて歌舞伎が始められた。昭和20年(1945)、終戦と同時に更正座が結成され、翌年には進駐軍の公認劇団となった。昭和23年、公民館開設と同時に更正座は公民館娯楽部に切り替えられ、部員も20名をこえる充実したメンバーがそろった。その後、高度成長期をむかえると若者が都会へと流出したため、昭和34年、面河村杣野の祭礼での上演後に中断され、その伝承があやぶまれた。しかし、昭和36年、公民館を中心に川瀬歌舞伎保存会が結成され、三たび伝統の灯がともされた。このすばらしい古典芸能を伝承するため、平成9年には若者8名が入会するなど後継者の育成が図られている。昭和42年久万町無形民俗文化財に指定され、平成12年愛媛県無形民俗文化財に指定された。      

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絵本太功記十段目尼崎の段

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久万山五神太鼓

久万山五神太鼓(くまやまごじんだいこ)
久万山五神太鼓は、昭和59年の三島神社夏祭りで初披露された。その由来は、群雄割拠の戦国時代(約400年前)、久万山大除城主大野直昌が土佐方に包囲され滅亡の危機に陥った時、直昌は神のご加護を得ようと、守護神・ダイバの仮面を小姓衆に付けさせ、太鼓や樽を一斉に打ちならし神に奉じたという。

 

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御用木まつり

久万町納涼祭り
納涼祭りの始まりは、新しい久万町が誕生した昭和34年に始まる。同48年からは阿波おどりがとりいれられ、商店街の七夕笹の下を練り踊る豪勢なものとなった。
59年からは「御用木」のかきくらべが行われるようになった。松山城の築城にあたり、久万からその用材を調達したという故事にちなみ、樹齢50年、長さ6mの杉丸太をかついで町内を駆け抜ける。

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燈籠まつり

小田町燈籠まつり

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日本の養蜂の歴史を

 
日本の養蜂の歴史

参考サイトよりコピペ
 一般社団法人 日本養蜂協会


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日本の養蜂の歴史
昭和41年に農林省畜産局で刊行された「畜産発達史」を中心に日本の養蜂の軌跡をまとめると、おおよそ次のようになります。
(1)揺籃期
日本ではじめてミツバチのことが史上に現れたのは「日本書紀」の推古35年(627)のくだりに「夏五月、蝿有り、聚集れり、その凝り累なること十丈ばかり、虚に浮かびて以て信濃坂を越ゆ。鳴く音雷の如し。すなわち東のかた上野国に至て散りぬ」との記載があります。この頃は一般には「蜜蜂」という文字も言葉もなく、これを蝿の群れと呼ぶほか表現の方法がなかったのでしょう。
文献上で「蜜蜂」の語が初めて用いられたのは「日本書紀」の皇極2年(643)のくだりに出てくる「百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち、養う。しかれどもついに蕃息(うまわ)らず」 という記載です。百済人の余豊が奈良の三輪山で養蜂を試みたけれど、失敗に終わったという記録で、これが日本における養蜂のはじめだというのが通説になっています。
奈良時代には、はちみつは三韓などから貢物として献上されています。たとえば、天平11年(739)に対岸の渤海国から「文王致聖武天皇書」に添えて「大虫皮、羆皮各7張、豹皮6張、人参30斤、蜜3斤」とはちみつが献上されていますが、蜜3斤が豹 の皮6張 と同格に扱われるほど、貴重な物であったことがうかがえます。天平宝字4年(760)には、5大寺に使を遺わし、毎寺雑薬2櫃と、蜜缶1口とを施すとあり、貴重な薬としても使われていたようです。(と言ってしまってもよいでしょうか?)
平安時代になると、国内でも蜜を献上していた記録が見られるようになります。「延喜式」(905927年)には、「蜜、甲斐国1升、相模国1升、信濃国1升、能登国15合、越後国15合、備中国1升、備後国2升」とあり、別の箇所には「摂津国蜂房(蜜の貯まった巣)7両、伊勢国蜂房112両」を献上したと記載されています。蜂房とは、はちみつの貯まった巣のことですから、はちみつだけでなく、蜜巣まで献上されていたようです。
源氏物語の「鈴虫」の巻の冒頭には、「荷葉の方をあわせたる名香、蜜をかくしほろろげて、たき匂はしたる」とあり、当時、はちみつで香を練っていたことがわかります。平安時代の終わりごろには、「今鏡」では貴族が、「今昔物語」では庶民の間でミツバチが飼われていた様子が描かれています。鎌倉時代から中世にかけての間では、文献上に養蜂関係の記載はみられません。
(2)旧式養蜂の確立

養蜂が本格的に行われるようになったのは江戸時代からです。社会が安定し、貨幣経済が進展するにしたがい、換金できる生産品に対して関心が高まっていきました。ミツバチに関しても、生態や養蜂技術に関する本が出版されるようになってきました。
宝永5年(1708)に出版された、貝原益軒が日本で最初に体系的に編纂した生物誌である「大和本草」には、採蜜場所が異なっても、生産する野蜂、家蜂、山蜂はどれも同じミツバチであると述べられています。当時、はちみつは、伊勢、紀伊の熊野、尾張、土佐、その他諸国で産出されていましたが、同書には、「土佐より出づるを好品とす」とあります。

18世紀後半は、日本において科学的な精神がめざめた時期です。寛政3年(1791)に出版された久世敦行による名著「家畜畜養記」は、ニホンミツバチの詳細な生態や飼養技術を述べた最初の本でした。この本には、初めて王台の数と分蜂の回数に密接な関係があるなど、科学的態度による観察をもとに詳細な生態の描写が行われています。
寛政11年(1799)には、内勤蜂と外勤蜂の区別や分蜂について記載された木村孔恭による「日本山海名産図会」が出版されました。豊富な挿絵と平易な和文体で書かれた本書は、広く愛読されたようです。

動植物の分類に大きく貢献した小野蘭山が著した「本草綱目啓蒙」は、文化2年(1805 )に出版され、はちみつの産地として芸州広島の山代、石州、筑前、土州、薩州、豊後、丹波、丹後、但州、雲州、勢州、尾州を上げています。しかし、販売されるときには、すべて“熊野蜜”として売られており、当時、熊野がはちみつの最大の産地としてブランド化されていたことがうかがえます。
ニホンミツバチによる養蜂は、旧式養蜂が技術書などで広く浸透したとはいえ、生産力は貧弱なものでした。が、和歌山県有田郡道村(現在の有田市)の通称蜜市とよばれる貞市右衛門は、ニホンミツバチによる養蜂に成功し、数百群の飼養に成功し、多量の採蜜量を得ました。市右衛門は、安政年間から単年に生産量力やはちみつ・蜜蝋の相場などを「大福帳」に記録したため、当時の養蜂や市場の様子を知ることができます。記録によると、採蜜量は、当時の最高の技術を誇った市右衛門にもかかわらず、現在の12割程度にとどまっていました。
(3)洋バチ導入―種蜂時代

明治時代になり、新政府は各種産業部門に積極的施策を進め、養蜂もまたその一つとして取り上げられました。明治10年(1877年)1月、内藤新宿勧業寮出張所は、勧農局試験場と改称され、同年9月には、貞市右衛門の息子である市次郎が招かれ、ミツバチ係として研究に携わることになりました。1228日には、勧農局においては、アメリカからイタリア国種のミツバチを購求し、これを新宿試験場に飼養し、内外ミツバチの得失を試験しました。おそらくこれがわが国にセイヨウミツバチを輸入した最初のものだと考えられます。市次郎は、蜜市流の養蜂の研究と指導に没頭し、蜜源植物として、茶およびソバの蒔き付けなども行って、ミツバチの集蜜活動を観察する環境をつくりました。
明治13年(1880)には、勧業寮から転出した武田昌次が、小笠原島でセイヨウミツバチの養蜂に着手し、数百郡まで繁殖に成功しました。

明治33年(1900)、岐阜県羽島郡の渡辺寛は、16歳にして養蜂に着手し、明治40年(1907)に渡辺養蜂場を創設して、養蜂の専業化を図りました。小笠原島から、イタリアン2群を、1100円で買い入れ、さらに翌年大量に移入し、これを基本として、欧米の優良品種の輸入を開始し、増殖を図りました。明治41年(1908)には、岐阜の名和昆虫研究所の名和は、アメリカのルート商会から、イタリアン王蜂と、養蜂器具一式を輸入し、盛んに増殖しました。
明治36年(1903)には、山梨県の青柳浩次郎が、アメリカから輸入したサイプリアンで増殖の成功に至り、箱根を拠点として、明治38年(1905)から、各種セイヨウミツバチの試養頒布を開始し、日本の種蜂改良事業が起こされました。
明治42年(1909)に、渡辺は名和と提携して(後には単独で)、雑誌「養蜂の友」を発行しました。愛知県でも「養蜂界」や「日本養蜂雑誌」が相次いで刊行され、養蜂関連の雑誌は一時50種に及びました。大部分は種蜂の宣伝用でしたが、公の指導機関がほとんどない業界において、20数種の養蜂書とともに、重要な役割を 果たしたものも多くありました。
日露戦争後の産業勃興期に新しい産業として養蜂業が大きな注目を集めましたが、はちみつではなく、ミツバチそのものが投機の対象となり、種蜂の事業に対して以上な熱気が起こりました。しかし、この熱気は、大正時代に入ると消えていき、養蜂業は再び大きな曲がり角に差し掛かってしまいました。
(4)転地養蜂の開花
一定の場所でミツバチを飼えば、花のある間は容易かつ有利であるが、花がなくなる時期のためには、前もって貯蜜を十分にする等の配慮を必要とします。しかし、次の花へ蜂群を移動すれば、再び有利な状態繰り返すことができることから、種蜂の取引きが行き詰まった業界は、ここに活路を見出すことになりました。
渡辺寛は、大正元年(1912)に北海道で広範囲に及ぶ蜜源調査を行った結果、ほぼ無尽蔵の蜜源を確認し、「養蜂之友」に北海道での養蜂の可能性について発表しました。これに触発され、長距離転飼を行う養蜂家が増えていきました。
採蜜を目的とする比較的規模の大きな転飼は、九州では大正2年(19131月に兵頭文平が、宮崎から70群を山川港に移動したのが最初だとされています。以後、南北に長い国土を持つこの国に特徴的な転地養蜂が盛んになっていきました。
(5)初めての輸出
長距離転飼が軌道に乗るにつれて、日本の養蜂産業は基盤が整ってきました。大正7年(1918)に第1次世界大戦が勃発し、欧州市場における糖分欠乏のため蜜価は暴騰して、ついに日本にも輸出の需要が殺到しました。同年、ロンドンおよびリバプール港へ20万ポンドのはちみつが輸出されるとの噂が立ちましたが、当時の日本の養蜂業界は、ようやく種蜂時代を脱して、生産態勢が整った直後であったため、その生産額はきわめて微々たるもので、需要に合わせた集荷には多大の労苦がありました。
(6)戦時下および終戦直後の養蜂
昭和に入って戦時下においては、重軽金属は軍需資材としてきびしい統制下にあったので、平和産業への配給はほとんど行われませんでしたが、はちみつは甘味栄養資源としてのみでなく、蜜蝋とともに医薬的効果が認められていました。蜜蝋は爆弾、砲弾、あるいはプロペラの滑沢、魚雷、スクリュー、光学兵器、錆止め等々、その用途は広汎にわたっていました。そのため、はちみつ容器としての製缶資材を特別に配給を受けるというようなこともありました。とはいえ、戦況が悪化するにつれ、はちみつ容器や養蜂器具、給餌用砂糖などの入手が困難になるとともに、養蜂家の招集や徴用などで、養蜂界はさまざまな困難に見舞われました。
やがて敗戦を迎えた1945年(昭和208月頃の食糧難では、特に甘味不足ははなはだしく、はちみつがもっぱら甘味代用として、空前の関心を集めました。また、わずかな砂糖も統制配給下にあったため、甘くさえあれば、何でも値段にかまわず飛ぶように売れ、栄養に富むはちみつはひじょうに珍重されました。当時まだ蜂蜜は価格の統制下にありましたが、需給のアンバランスから公定価はほとんど守られず価格は上がる一方でした。
(7)戦後の養蜂
戦後の混乱が収まると、やがて迎える高度経済成長期で国土の自然は荒廃の一途をたどり、養蜂を取り巻く環境は次第に厳しさを増していきました。
そんな中、一部の国会議員の議員提案というかたちで昭和30年(1955年)「養ほう振興法」が成立し、養蜂の地位が確立されることになりました。しかし、その後も養蜂業者の苦難は続き、昭和38年(1963年)の蜂蜜輸入自由化には大打撃を受けました。
しかし、この頃から新しい局面も開けることになりました。ポリネーションの登場です。都市域の拡大・開発と、残された農地での徹底した農薬による防虫などのため、本来受粉に欠くことのできない昆虫まで減少させることになったのです。昆虫による受粉が十分に行われないため、果樹などで奇形果や小型果を生じることが多くなり、これを解決するためにミツバチの導入が少しづつ増加していきました。さらに、昭和40年(1965)年代になると、作物の経済価値を上げるためのハウス栽培が盛んになり、ハウス内での受粉作業におけるミツバチの需要が急増していきました。
昭和60年(1985)、世界の養蜂家の最大の集まりである国際養蜂会議が日本(名古屋市)で開催され、53カ国から2000名を越えるミツバチ関係者が集まり、大盛況の会となりました。
(8)養蜂の現状
昭和60年代以降は、土地の開発がより進み、自然環境が激変しました。野山では少なくなった花を求めてミツバチが農地へ行けば、農薬との接点が多くなり、影響を受けざるを得ません。その農地での耕作状態も大きく変化し、昭和45年頃に比べ、かつての主要な蜜源の栽培面積は、レンゲは約11%に、ナタネは約5%にまで激減しました。安価なはちみつの輸入が急増し、国産はちみつの価格が低迷する中、養蜂家の高齢化が進み、昭和60年には飼育戸数が9,499戸でしたが、平成17年には4,790戸まで落ち込みました。近年では、はちみつの国内流通量約41千トンのうち、国産はちみつの生産量は約2.8千トンにとどまっており、はちみつの国内自給率は7%程度です。
最近では、国産の農産物が見直されるとともに、国産はちみつの価格が上昇傾向にあることや、自然との接点が希薄になっている都市部での養蜂が注目されたことから、ミツバチへの関心が高まり、飼育戸数は増加傾向にありますが、一方で蜜源植物の植栽面積は、引き続き減少しており、蜂場の確保に関するトラブルが急増しています。
また、生食の消費量が世界一のイチゴ栽培をはじめ、メロンなどの農産物の花粉交配でのミツバチの重要性はますます増しています。今や、花を訪れることで行う受粉が農産物生産の約35%を支えており、家畜としてのミツバチの総産出額は 約3,500億円にのぼっています。このうち約98%が花粉媒介用のミツバチの働きです。
平成24年(2012)には、養蜂の環境が大きく変化したことを受けて養蜂振興法が改正され、平成25年(201311日から施行されています。大きな改正点は、蜂群の適正な管理と配置、養蜂の届け出義務対象者の拡大、蜜源植物の確保です。
新しい環境保全、生態系保全のうねりの中でミツバチの重要性は、これからも、一層増していくことになるでしょう。
 
参考資料
渡辺寛・渡辺孝著「近代養蜂」

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9月10日にスムシに遣られてたのを追い出して屋移りさせた群れ
以降3〜10日間隔で給仕
今回は3日目に完食してるようで補給
何とか2月産卵の始まる下旬まで持ちこたえてほしいものだ
10月に確認してた加西の山の5群も気になる( ^ω^)・・・

(給仕液:搾りかすに砂糖を加え加熱)

3日で完食


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知らんかった!日本人の習慣

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 日本人が無意識に行っている習慣やならわし。なぜそうするのか?意外と理由は知られていませんよね。


  
 
◆三本締め

算数?

もともと揉めた者同士が和解する時に、何も隠し持っていないことを示すために両手を広げたのが始まりと言われている。
 「イヨー」というかけ声は「祝おう」から転じた。
 3・3・3・1という独特のリズムにも意味がある。
 昔から日本では「3」は非常に縁起がいい数字とされ、好んで使われた。
 「三種の神器」「日本三景」「御三家」「三度目の正直」など。
 だから3拍子を3度繰り返すのだ。
 では、最後の「1」はなぜ?
 3拍子×3回=9、しかし「9」は「苦しむ」で縁起が悪いので、もう1回手を打つことで丸く収めた。

◆年中行事など季節ごとのならわし

<初夢の「一富士、二鷹、三なすび>

 なぜ「一富士、二鷹、三なすび」は縁起が良いのか?
 この3つは徳川家康が好んだ物。?
 家康は将軍となり江戸幕府を開いた後も、江戸ではなく富士山がよく見える場所に住んでいた。
 家康は鷹狩りが好きだった。
 家康はなすびが大好物だった。
 江戸の人々は天下を取った家康の強運にあやかろうとして、この3つを並べた。
 


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<節分>

 なぜ節分に豆をまくのか?
 豆は一見、枯れて死んでいるようだが、水を与えるとちゃんと芽が出る。
 強い生命力から、豆には神聖な力が宿ると考えられていた。
 この力で鬼を追い払ってもらおうということで豆をまく。
 日本だけでなく世界にもこういう話はある。
 ヨーロッパの「ジャックと豆の木」、これも豆の生命力から生まれた話。
 節分の鬼の「トラのパンツ」にも意味がある。
 昔、方角や時間は干支で表していた。鬼は北東の方角、すなわち鬼門から来ると考えられていた。北東=丑と寅なので、鬼は牛の角を持ち、寅のパンツをはいている、というふうになった。

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<ひな祭り>

 なぜ「桃の節句」と言うのか?
 旧暦の3月3日が桃が咲く季節だから?
 ひな祭りはもともとは中国の行事。
 桃が咲く頃、紙や土で作った人形を川に流す行事があり、それが日本にも伝わった。
 実は中国では桃には悪魔を打ち払う神聖な力があるとされていた。
日本の祭祀後の遺跡にも物の種が大量に出土するそうです。
 理想の世の中を「桃源郷」と呼んだり、「桃太郎」が桃から生まれたのもここから来ている。
 桃の力にあやかり子供たちが元気に育つことを願って、ひな祭りに桃を飾り、「桃の節句」と呼ぶ。

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<こどもの日>

 3月3日は女の子の日とされるが、じゃあ5月5日は男の子の日?でも「こどもの日」?
 実は5月5日はもともと女性の日だった。
 昔、田植えをするのは女性の役割で(これを早乙女という)、5月5日は田植えをする前に早乙女たちが家にこもって身を清める日だった。
 つまり女性にとっては、1年で1日だけ家事も何もしなくていい日だった。
 一方、5月は疫病が流行りやすい月であるために、魔除けの効果を持つ菖蒲湯に入ったりしたが、これが「勝負」に通じるということで、後に男の子の日になった(くっくり注:「尚武」にも通じる)。
 ちなみに、鯉のぼりを揚げるのは何のため?
 もともと鯉を揚げること自体にはあまり意味はなく、棒の方に意味があった。
 家の前に柱を立てて、神様を招き入れるための目印にしたのが始まり。
 やがて棒に吹き流しや鯉などの飾り付けをしていくようになった。



<七夕>

 なぜ短冊に願い事を書いて笹に吊すようになったのか?
 それは江戸時代の寺子屋にさかのぼる。
 読み書きをさせようとしても、子供たちはなかなか集中しない。
 そこで先生が「短冊に願い事を書いて笹に吊すと願いが叶うらしいぞ」。
 すると子供たちは一生懸命に字を書き、それを笹に吊すようになった。
 これが一般にも広まり、七夕には願い事を書いた短冊を吊すようになった。

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<十五夜のお月見>

 なぜお月見の時におだんごを縁側に備えるのか?
 もともと月見は、その年にとれた野菜や果物を神様にお供えし、収穫に感謝しながら美しい月を見る行事。
 昔、ある家のお供え物がどこかに消えてしまった。
 「お供え物がなくなってる!おお、こりゃ縁起がいい!」
 お供え物がなくなるということは、神様がこの家の作物を気に入ったということで、次の年、豊作になる縁起が良い印とされていた。
 もちろん大人たちは、犯人が近所の子供たちだと知っていた。
 それならば、お供え物は子供たちの好きな物にしてあげよう。
 そこで思いついたのが、子供たちの大好きなだんご。
 しかも取りやすいように縁側に置くことにした。
 つまりお月見のだんごは、大人たちのやさしい気持ちなのである。

<大晦日の年越しそば>

 なぜ年越しにはそばを食べるのか?
 江戸時代、金細工職人たちが、仕事場に飛び散った金粉を集めるためにそば粉を練って作っただんごをとりもちのように使っていた。
 だから、そばは金を集める縁起のいいものとされるようになった。
 そこで年越しには「来年もお金が集まりますように」との願いを込めて、そばを食べた。
 ちなみに当時の年越しそばは団子型だったが、それがいつの間にか細いそばで代用するようになった。


◆由来が怖い習慣

<指切りげんまん 嘘ついたら 針千本飲ます 指切った>
意図はやくざにも?

 他愛ない子供の遊びだが、そこには恐ろしくも哀しい物語が。
 江戸時代、吉原の遊郭。ひとりの遊女がいた。
 特別な事情がない限り遊郭の外には出られない。
 ——ひとりの男が、遊女のもとに足繁く通うようになる。
 やがて男は遊女が待ちに待った言葉を口にする。
 「お前を嫁にもらいたい」
 遊女が誰にもとがめられず遊郭を出る方法、それは客に嫁にもらってもらうこと。身請け。
 が、身請けには大金もかかるし、男にとってもかなりの覚悟が必要だった。
 そこで遊女は身請けの約束を守らせるために様々な手段を使った。
 約束の言葉を記して贈る「起請文(きしょうもん)」。
 女の命である髪を切って贈る「断髪」。
 そんな中でもっとも強い思いが込められているのが、自分の小指を切って相手に贈る「指切り」。
 自らの身体の一部を失ってまでして、遊郭の外に出ることを願った。
 「ゆびきりげんまん…」には、女の情念が込められていた。
 (くっくり注:
Wikipediaによれば、実際に切る遊女は少なく、偽物の指が出回ったらしい)
 ちなみに、「げんまん」は「拳骨で1万回殴る」。
 もっとすごいことに、江戸の方には「死んだらごめん」という歌詞がついてる場合もある。
 これは「死んだら約束は免除だが、この約束はいっぺんしたら死ぬまで続く」の意。

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<てるてる坊主>

 晴れを願う時、なぜてるてる坊主を軒下に吊すのか?
 その裏には哀しい物語が。
 昔々、中国にひとりの美しい娘がいた。
 彼女の名前は晴娘(チンニャン)。
 その美貌は村中の評判だった。
 ある日、晴娘の住む村を激しい雷雨が襲った。
 川は氾濫、あたりの家は流され大惨事となった。
 怯えるばかりの晴娘、その時不気味な声が。
 「晴娘よ。龍王様が汝を妃にとご所望じゃ。もしも従わねばこの村ごと川に流してしまうぞ」
 家の者は恐れ震えたが、晴娘は家族や村人を救うため「従います。ですからどうか雨を止めて下さい」。
 そう言った途端、まばゆい光がさし、激しい雨がピタリと止んだ。
 そして晴娘の姿も消えていた。
 それからというもの、6月、雨が降り続くようになると、親たちは娘がさらわれないよう、身代わりの紙人形を軒下に吊り下げた。
 これが日本に伝わり、いつしか、てるてる坊主になった。
 てるてる坊主には、みんなを救うために犠牲になった哀しい娘の物語が秘められていた。


◆商売が絡んだ日本人の習慣

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<茶柱が立つと縁起が良い>

 (黒幕)は静岡のお茶商人。
 江戸時代中期からと言われている。
 一番茶(新芽の一番良いところを摘んだもの)は人気がある。
 が、二番茶はお茶が育ってきてるので茎が混じってしまい、人気がない。
 そこで「茶柱が立つと縁起が良い」という宣伝を考えた。
 安いし、縁起が良いというので飛ぶように売れた。

<お世話になった人にお中元・お歳暮を贈る>

 (黒幕)はデパート・百貨店。
 もともと中元とは7月15日のこと。
 実はこの日に贈り物をする意味は何もない。
 が、お盆の行事と引っ付いて、祖先の霊を供養して、子供から親に物を贈るという風習になっていった。
 明治30年代に、この習慣に百貨店が目を付けた。
 夏は売上げが落ちる時期だったため、キャンペーンを始めた。
 お歳暮もこれと似た感じ。
 もともと年末には、お正月の供え物を一族で持ち寄る習慣があった。
 帰省ができない子供や、遠方に住んでる親戚がせめて贈り物だけでも、と贈り物をした。
 ここにデパート・百貨店が目を付けた。

<11月15日に七五三のお参りをする>

 (黒幕)
呉服店。
 もともとは七歳・五歳・三歳、別々の日にちに祝っていた。
 が、江戸時代に、呉服店がいっぺんに着物を売るために11月15日に全部まとめた。
 なぜ11月15日なのか?
 五代将軍の徳川綱吉の子供のお祝いをこの日にしたので、それにあやかっている。
 ちなみに千歳飴は、やはり飴屋がフィクサー。

 

母の日に贈る「赤いカーネーション」と「白いカーネーション」の話が出ました。

 かつては、お母さんが生きている人は赤いカーネーションを、亡くなった人は白いカーネーションを胸に飾り、感謝の意を表したそうなんですね。
 が、「それは差別だということを言い出した先生方がいて、全部赤になった」。

 
 習慣やならわしというのは、同じ日本でも地域によりけっこう差があったりするものですが、このカーネーションの場合もそうなんでしょうか?
 地域差よりはむしろ世代差がありそうな気もしますが。



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■1知らんかった日本人の習慣PART2〜年末年始編〜

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/img/img4652_00title091217.jpg 毎週木曜深夜に関西で放送している“知的好奇心バラエティ”です。

 日本人が無意識に行っている習慣やならわし。
 なぜそうするのか?意外と理由は知られていませんよね。

 ということで、5月7日放送「知らんかった!日本人の習慣」(
拙ブログに内容紹介あり)に続く第2弾。今回は年末年始編です。

 例によって、番組の中身をざっくりとですが、まとめてみました。
 
【当日のテレビ欄より】
習慣に隠された謎▽おせち料理ミステリー▽夫は妻に気づくのか

【出演者】
ハイヒール(リンゴ・モモコ)、筒井康隆、江川達也
たむらけんじ、ブラックマヨネーズ(小杉・吉田)
御秒奈々、岡元昇(ABCアナウンサー)
橋本裕之(ゲスト。盛岡大学文学部日本文学科教授。05年にはNHK大河ドラマ 『義経』の芸能考証を担当する。主な著書に『王の舞の民俗学的研究』『演技の精神史——中世芸能の言説と身体』『心をそだてる子ども歳時記12か月』など)

※一部進行を変えて再構成しています。
※「ハテナの自由研究」コーナー(たむらけんじの「妻が急に美しくなったら旦那はわかるのか?」)はカットしました。
※画像はテレビ画面から私が撮影したものの他に、
こちらからDLさせていただいたものを使用しました。


 大ざっぱな内容紹介ここから_________________________
 
 節分、ひな祭り、七夕……。

 春夏秋冬、四季の自然とともに暮らしてきた日本人は、昔から季節の習慣やしきたりを大切にしてきた。
 
 年末年始には、我々が特に気をとめずにやっている習慣やしきたりがたくさんある。

 たとえば5月7日放送の第1弾で紹介した、これ。

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/img/img4668_00soba.jpg

◆大晦日の年越しそば

 なぜ年越しにはそばを食べるのか?
 江戸時代、金細工職人たちが、仕事場に飛び散った金粉を集めるためにそば粉を練って作っただんごをとりもちのように使っていた。
 だから、そばは金を集める縁起のいいものとされるようになった。
 そこで年越しには「来年もお金が集まりますように」との願いを込めて、そばを食べた。
 ちなみに江戸時代の年越しそばは団子型だったが、それがいつの間にか細いそばに変わっていった。


 盛岡大学教授の橋本裕之氏曰く。

 「年の瀬、大みそか、お正月。古い風習はずっとあったと思っていませんか?でもこの年末年始に行われる行事や習慣のルーツを探っていくと、ほとんどは、えっ?ホンマ?と思うものがものすごく多い」
 「現在行われている年末年始の習慣は、明治時代になって劇的に変化したものがとても多い」


■■■意外に新しい!?ニッポンの年末年始■■■

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◆日が暮れたら新年

 現在は大みそかの深夜12時をもって「あけましておめでとう」となるが、江戸時代の暦では、12月31日の日没をもって新年が始まった。
 江戸時代の暦は旧暦が使われており、1日の境は日没と決まっていた。
 つまり日が暮れると次の日になったのだ。
 だから大みそかも、日が暮れたら新年が始まる。
 現在のように深夜12時が1日の境になったのは、明治5年に太陽暦が日本に導入されてから。

 このため江戸時代には、お節料理も今で言う大みそかの夜に食べられていた。
 現在も、北海道、東北地方の一部で、大みそかの夜にお節料理を食べる習慣が残っている所があるのだそう。

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◆お節料理

 毎年、正月にやってくる年神(歳神)様へのお供え物。
 年神とは、田畑の豊作を司っている、古くから日本で信仰されてきた神様。
 江戸時代の人々はこの年神を迎えるために、新年最初の料理にお節料理を用意したのだ。

 年神を迎えるための準備はお節以外にもいろいろ現代に残っている。
 たとえば……。

◆大掃除

 一年の汚れを落とし、きれいな家に年神を迎えるため。

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/img/img4655_03kadomatu.jpg◆門松

 年神を迎えるための目印。

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/img/img4656_04kagamimoti.jpg◆鏡餅

 年神の休憩所。座ると魂が宿ると言われている。

 田畑の収穫が人々の生死までも左右する当時の日本では、年神への信仰がそれほどまでに厚かった。
 お節料理を食べるということは、そんな年神への捧げ物をいただくということなのだ。

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◆除夜の鐘

 江戸時代、除夜の鐘は現代と同じく、大みそかの夜に鳴らされていた。
 が、先述したように、江戸時代ではこの時間はもう新年のはず。
 では、なぜ除夜の鐘が新年に鳴るのか?!

 現在では、除夜の鐘は、鐘を108回つくことで1年分の煩悩を払うと言われる、年末最後の習慣。
 しかし江戸時代では、これから1年間、煩悩にとらわれないよう祈願するために、つくものだった。
 明治時代に暦が変わっても、鐘をつく時間は変わらなかったため、年末につくものになってしまったのだ。

 ちなみに静岡県の大石寺では、新年になってから除夜の鐘をつき始めるという。

◆お年玉

 江戸時代では、お年玉はお餅だった。
 大人も子供もなく、一家の家長が家族などにあげる(目上のものが目下のものにあげる)お餅がお年玉だった。
 年玉とは、年神の魂から生まれた言葉。
 そして、その魂が宿るのが鏡餅。
 年神が訪れた神社が鏡餅を割って、皆に分け与えたのがお年玉の始まり。
 それがいつしか、大人が子供にお小遣いとして現金をあげるしきたりに変わっていった。

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/img/img4658_06zouni.jpg◆お雑煮

 お雑煮は江戸時代と変わらない。


■■■日本のお正月を変えた男 初詣今昔物語■■■

 初詣と聞くと、すごく昔からある習慣と思いがちだが、そうではなくて、明治時代に大きく変わった習慣。
 その裏にはある人物の先見の明があった……。

   伏見稲荷大社 277万人(2009年)
   住吉大社   235万人(2009年)

 お正月の三が日、日本各地の有名寺社は、初詣のために遠くからやってきた多くの参拝客であふれかえる。
 しかしこの初詣、江戸時代までは現在行われているものとは全く違っていた。

 江戸時代までは、初詣は「恵方参り」と呼ばれ、自分の家の近所で恵方、つまりその年の縁起の良い方角にあるお寺や神社にお参りするのが普通だった。
 地元の神社に祀られる神々が日々の生活を守ってくれていると、当時の人々は信じていたのだ。

 ではいつ、そしてなぜ、日本人は今のように遠方に行楽を兼ねて出かける初詣を始めたのか?
 そこには一人の男の先見の明があった。

 時は明治30年。
 当時、弁護士だった立川勇次郎は、新しいビジネスを模索していた。

 そんなある日のこと、立川は庶民たちのこんな会話を耳にする。

 「おまえ、一度ぐらい汽車に乗ってみたくないか?あれは楽しそうだぞ」
 「高いですよ。でもやっぱり乗ってみたいですよね」

 当時の庶民にとって汽車に乗ることは憧れ。
 しかし、日本で最初に走った官営鉄道の新橋〜横浜間の運賃は36銭(普通クラス)。
 高級寿司1人前が10銭の時代。
 庶民にとっては非常に高額だった。

 再び庶民たちの会話。

 「来年の恵方は東だよな。正月の恵方参りに、汽車に乗って行ってみるか?東に向かって乗ればいいんだし、罰は当たらんだろう」
 「恵方参りに汽車ですか。1年に1度の贅沢だし、乗ってみましょうか」

 これだ!汽車に乗って恵方参りをする!
 ここにビジネスチャンスを見出した立川は、さっそく地図を広げる。
 立川が目を付けたのは川崎。

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 川崎大師という立派なお寺まで、駅から2km以上ある。
 ここに線路を通せば、川崎大師に恵方参りに行く客が必ず利用する。
 絶対に成功するはずだ!

 ただ、当時は恵方参りは地元の寺社でするのが普通の時代。
 立川の挑戦は無謀なものに思われた。

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 そして明治32年。
 川崎駅の近くから、川崎大師の間にわずか2kmの線路を開通。

 迎えた正月。
 なんと、電車は満員。川崎大師に恵方参りをする人々が激増したのだ。

 利用客の声。

 「大師電鉄があるから川崎大師に行きやすくなったなあ」
 「ああ、ラクチンだし楽しいし、これからの恵方参りは電車だな」

 立川のもくろみは見事に的中。
 だが彼の野望はもっと大きかった。

 「初詣はまだまだ変わるぞ。これからは恵方などには関係なく、毎年各地から川崎大師に来る参拝客を集める。そのためには東京方面に線路を延ばす!」

 しかし、東京方面は現在のJR、官営鉄道(略して官鉄)がすでに走っている。
 周囲は反対したが、立川には策があった。

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 立川は反対を押し切り、最初の線路開通からわずか2年後の明治34年、官鉄と並行するように東京方面に線路を延長。
 東京からの客が乗り換えなしで川崎大師に来れるようにした。

 しかし人々は恵方にこだわらず、参拝に来るようになるのだろうか?
 それに対する立川の秘策とは、こういうものだった。

 「来年の正月、運賃の割引を断行する。官鉄に勝つにはそれしかない。そしてこの値下げをきっかけに、日本の正月を変えるんだ」

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 当時のチラシがこちら。
 電車の運賃を値引きするのは、極めて異例のことだった。

 立川のもくろみは、再び当たるのか?

 迎えた正月。
 大師電鉄の車両は川崎大師への参拝客であふれかえった。
 立川の狙いはまたも見事に的中したのだ。

 恵方参りは、遠くにある有名な寺社に行楽を兼ねて参拝しにいくものに変わっていったのだ。

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 明治39年の東京朝日新聞はこう伝えている。

 「この年の正月、もとの大師電鉄である京浜電気鉄道は初詣客で大にぎわい。……車両が不足し、大騒ぎにまでなった」

 立川が2kmの線路を開通させてから、わずか7年後の話である。

 この大師電鉄の初詣の作戦は、次第に全国の鉄道各社へ広がり、新しい初詣は全国に普及していった。

 現在お正月の習慣となっている初詣の裏には、一人の男の熱い思いがあったのである。


 ちなみに関西の初詣はどうなったか?

 関西は京都、奈良、大阪と神社仏閣が大変多いエリアのため、関東の鉄道会社の影響を受け、関西でも初詣のPRが始まった。

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 これは大軌電車、今の近畿日本鉄道(近鉄)が大正3年に出した初詣用の新聞広告。

 「年末、年始のお詣り」
 「春日大社 生駒聖天 瓢箪山稲荷」
 「ご電車増発」
 「大晦日は乗客の御便利を図り、電車夜通し運転」

 実は大晦日の終夜運転は近鉄電車が最初に始めて、全国に広まった。

 また、関西では昭和に入って、鉄道会社の初詣キャンペーンがたくさんくり広げられたが、中にはこんなものもあった。

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 昭和27年に京阪電車が発売した、お年玉抽選券付きの初詣乗車券。
 特賞はすごい賞品が当たるということで、当時、大変話題になった。

 その特賞の賞品とは、なんと、土地付き一戸建て住宅。
 広さ73坪、場所は京阪沿線の一等地である香里園(大阪府枚方市)。
 当時50万円。現在の価格では2000万円。
 現在、香里園駅付近の住宅を買って2000万円では済まない。

※番組では京浜だけがクローズアップされていますが、成田鉄道と京成電鉄も参拝客輸送を目的として開業された鉄道会社だそうです。以下を参照。
  ・
Wikipedia>初詣
  ・拙エントリー1/6付:「たけしの“教科書に載らない”日本人の謎」良かったです


■■■今さら聞けない!お節料理のヒミツ■■■

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 京都の老舗料亭「下鴨茶寮」の高級お節料理がスタジオに登場。
 4段で20万円のフルコース。

 黒豆、田作り、昆布巻きといった伝統的な料理に、フォアグラ、からすみ、キャビアなど高級食材も。

◆お節料理の意味

 ・伊勢えび
   茹でたり焼いたりすると曲がる。
   腰が曲がるまで長生きでということで、長寿を願う。

 ・昆 布
   「よろこんぶ」で、喜ぶ。

 ・れんこん
   穴が開いている。先を見通せるということで縁起がいい。

 ・数の子
   子孫繁栄。

 ・くわい
   芽が出る。


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