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2015年07月20日(月)
THEME:デボーションシェアリング
怒りは、神様の標準から、私たちを遠く引き離すからです。
‭‭ヤコブの手紙1:20 リビングバイブル

日暮れまで怒っていてはなりません。とも、みことばにあるように、怒りというものは冷静さを欠くばかりではなく、正常な判断すらできなくなる。
妻への怒りを収める事ができなくなった夫がラスベガスに行き破産してしまった、、、なんて話を本で読んだ。
我々が怒りに支配されて喜ぶのは反対勢力の悪魔たちである。
その感情に揺さぶりをかけ、そうだそうだ!ゆるしちゃならん!と誘いこみ、ついには仕返ししてやれ!ということになる。
全く神の意志の逆方向へと誘い込む。

私たちは忘れてはならない。
赦されたものとして赦していく人生に責任があるということを。
これは命令でありそれが出来なければ自分も赦されない。
もし、私に赦されなかった人は赦される経験がないばかりに、赦せない人になってしまう。
赦しとは責任あるものなのだ。

赦すけど、愛せなくなった!なんて夫婦には最悪な場合があってはならない。
良く聞く先輩牧師たちは夫婦喧嘩の時の一番のメンターはイエス様だと。
愛する愛をください。私には愛する愛が足りません!とひたすら祈り、元どおり!いや、それ以上の愛を持って友に生きていると。
怒りは、そのような祈りすら忘れさせてしまう。喧嘩のたびにこのような祈りの中で主に助けられ教えられ謙虚にさせられる。

主よ。今日も、明日もとこしえまでも、あなたとこのような親しい交わりができますように!アーメン

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あらゆる努力をして! 今週の祝大:2ペテロ1章

2015年08月03日(月)
THEME:デボーションシェアリング
信仰の成長には「へりくだり」である。
預言の成就には「従順」である。つまり預言をもらって、それが志と合い、みことばも与えられたら、その預言の成就に向けて努力するのである。

あらゆる努力をして」と2ペテロの手紙にある。
努力は絶対に必要である。
世の中の人に対してクリスチャンは努力しません。なんて言ったらどうでしょう?

努力を努力と思わないほどに私は働いて神学校で学びましたし、現在も努力している。
この努力に聖霊なる神は強く働いてくれることを私は知っている。
体験してるから。
聖霊なる神が与えらて努力がいらなくなるのではなく、努力を努力とわからないほどに集中できるということだ。
それはまさに「目的を知る人生」 「使命に生きる」 からだ。

信仰には徳を。
徳とは「人柄」であり「他者の利益を望む人」である。

徳には知識を。
熱心なだけではよくない。あるいは
弁明する準備をしていなさい。と、みことばにある。

知識には自制を。
自制を一番効かせなければならないのは「舌」である。ヤコブ書の通りである。
災いの元であると昔からいう。また、人を殺すこともできる。

自制には忍耐を。
忍耐とはヤコブ書にあるように「試練」の時にこそ使う。
試練は神からくる。だから試練は乗り越えるためのものである。
そうすれば何一つかけたところのない完全なものとなれる!と、みことばにある。
忍耐はどのように?
ヘブル11:1
信仰は望んでいる事柄を保証し目に見えないものを確信するもの。

忍耐には敬虔を。
敬虔とは「らしい振る舞い」であると同時に「仕える心」である。

経験には兄弟愛を。
兄弟愛とは赦す心、いけ入れる心。

兄弟愛には愛を。
完全な愛は人間にはない。だから完全な愛を神に求めるのだ。
もう愛せない!そんな時こそ祈るのだ。
「神様、愛する愛をください」と。
十字架で最大の犠牲を払って愛してくださったキリスト様が答えてくださいます。


あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。


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今週の祝大:ヨハネ12章「祝福された人生」

2015年08月10日(月)
THEME:デボーションシェアリング
しかし、それにもかかわらず、指導者たちにもイエスを信じるものがたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白しなかった。会堂から追放されないためであった。
彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したからである。
(ヨハネ12:42〜43)


主イエスを信じることにおいて現在の我々日本人は法律にも触れず安全である。
主イエスを信じることにおいて家庭内で孤立してしまうケースは地方に行けば顕著かもしれない。
自己保身のために主を告白できないのは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したからである。と、同じかも知れない。

当時、会堂から追放されることは「村八分」になるということだ。
あのヨハネ4章のスカルの女のようになるということだ。
この会堂からの追放を恐れてヨハネ9章の盲目の人の親は「あれに聞いてください」といった。

神からの栄誉を選びとった我々は安全圏ながらも「神の家族」である。
会堂からの追放もいとわずに村八分になってまでも信仰を選び取ったものは、神からの栄誉を受けるだけではない。9章で主イエスが、盲目の人を捜し出したように主イエスが探し出すほどに愛してくださる。

人生の様々な所で神と世の中の天秤があるが「神」を選択して行く人生を祝福された人生と言う。

神を2番目に大切にすることを「偶像」という。


牧師 進藤 龍也
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  • おはようございます♪

    今日も楽しい1日過ごしてくださいね

    [ - ]

    2015/8/16(日) 午前 10:05

  • 顔アイコン

    > hige&higeさま、
    ご訪問とコメントありがとうございます、。

    今、息子の古い馴染みの子が来ていて、、ちと、忙しくしています、、。
    やることがあるのは、、幸せですね、。

    Mary Magdalene

    2015/8/16(日) 午後 4:17

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