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私は神様を選んだけれど、、
どの信仰の道を通っても最終的に、
苦しむ人を救うためには、、、

一度は自ら堕ちるとこまで堕ち、自分の身と魂を汚し、
生き地獄を味わい、苦しみ、のた打ち回って、
人の苦にも楽にも寄り添い悟らねば、

人を大いなる存在(天地創造の神様)へ繋げ、
心の救いへと導けないと思ってます。 

私は子供の頃から孤独で生きることが辛く、
見捨てないでくれる家族が、どうしても欲しかった、。
私の思いがそうであったから、、
お父さんになってくれる神様に一目惚れしたのでした、。

教会に行く前に、
ほぼすべての宗教を渡り歩いてました、。
教会がラストだったのです、。

私が、最後の最後に天地創造の神様と出会って
クリスチャンにならなければ、他宗教も全部が
天地創造の神様を中心にして一つの教えという
大きな認識は持てなかったでしょう。

遠回りさせられたけど、
後から、その必要性があったことを理解できてます。
他宗教を排他的な思考で見ないで済んでるし。

私は、神様から、約10年前にマリアと名乗るようと言われ、
名前をいただきました。
私の神様は、私のお父さんであり名付け親でもあります。 

その少し前に、救いの体感を初めて得ています、、。
なので、まだ、救いの確信を得てからなら10年足らずなんです、。
35年クリスチャンしてて、25年間は宙ぶらりん。

それまでも、洗礼を受けクリスチャン生活して、
教会にも行ってたんですけど、救われたと自分では思えなかった。

良い自分で居ないといけない、。
クリスチャンらしく生きないといけない、。
そうやって自分なりに頑張って努力して来たのですけど、、、
信頼していた友達の裏切り、、です、。

晴天の霹靂、、家庭崩壊に離婚、家族離散で、まさに踏んだり蹴ったり、
で、、その時ばかりは、盛大に神様にブチ切れたのですが、、、。

因果応報って、良い行いには良い報いがあるんでしょ、。
仏教でもそーいってるでしょ!なんで?どうして?
理不尽じゃないですか!!なんで、こんな酷いこと、ゆるすの?

お父さん、酷い!なんで!って、散々、狂犬のようにかみつきまくり、。
心の中は、怨嗟のみ、。そのまま呪詛するがごとくの生活へ突入。
クリスチャンだから、、の、良心の歯止めも、
綺麗に、、どこかにぶっ飛びました。

まぁ、それより前も、苦しみ多き人生でした、。
私は子供のころから笑ったことがありませんでした、。
生きていたくない、死ねたら良いのにと
子供なのにそう思っていたし、根暗でしたよ。

19から教会に行きだして、少しだけ、心安らぐ時間も持てるように
なったのは、神様に、
お父さんと呼びかけれることが大きかった、。

賛美することが楽しくて、聖歌隊にも奉仕で入って、
さやかに星はきらめき、を、ソロパートで、歌わせて頂いたり、
心が満たされましたね、。

一時的な満足感でしたけど、それまで、人の温かさというものを
感じ取れる機会が少なかったので、、新鮮な感動でした、。

生きていく中で、喜びと悲しみと、
どちらので出来事が多いと思考して見ると、、
悲しみ、辛さの方が、ダントツです、。

人を救わせる役目を与えたいとなったなら、、
とことん苦しまされる目にあいます、。
イエス様も、苦しい生活の中で、、人に救いを与えました、。

楽して生きてる人の言葉は、薄いのです、。
深みがないのです、。

苦労が足りないから、人を思いやれない、。
自分が、そういう態度だから、因果応報で、人から冷たくあしらわれると、
思いやりがなく高ぶってて信仰者らしくない、となじる、。笑


苦しみが多いというのは、
有り難くない話ですが、私自身の体験なので請け合います、
苦しみを知らなければダメなのだと、、それは、
天の御意志と諦めて下さい、、。苦笑

と言われても、、苦しむ当事者であれば心中、納得行きませんよね、。
なんで、こんなに理不尽な目に、、、と、
棄教したくなったり、神様に不信したり、色々マイナス要素が、
ドドド、、と襲いかかって来ます、。

私は、未熟者でして、上で書いた通りに、、
ここで、一気に鬼ババ化、、
神様に対して恨むわ、文句言うわ、当たるわ、。
呪詛モードで、、人を憎むわ、、睡眠障害にノイローゼに、
自殺未遂もで、、もう、人格崩壊一歩手前でした、。

よくもまぁ、ここまで極限状態まで落として追い詰めて下さって、、と
ちょっと、、そう思わないこともなかったですけど、、

あ、これ、お父さんに、ちょっと物申すってことだわね、。と
いえ、なんでもありまっせーーーん。
すべて、御心のままに、。と大慌てで思い直し、。

死ぬか生きるかの瀬戸際、。

心はもちろんのこと、
身体も弱りきってボロボロでしたもの、。
自分が、、苦しんだことがないと、、
人の苦しみには心寄り添えないです、、、。

だから、、皮肉なことに、神様に従おうと志す者こそ、
一般の人より多く苦しまないといけません、。

神様に従い尽くすというのは楽な道じゃないです、。
私は、死ぬ一歩手前まで、極限まで苦しんだおかげか、
それ以降は、あまり大きな苦しみはないです、。

なんで??まぁしょうがないか、、程度の出来事だけ、。
あまりに苦痛が大きかったから、他のことが屁のような、、、。
割と人から見たら大事な出来事でも、、辛いとは思わなかった、。

罪の重さで心が潰れ、苦しんでる中で、
神様を遠くに見つめ、狂おしいほど求め、、
そう出来ない自分を嘆き恨み死を願い。

心が潰れ、半ば狂いかけの極限の中で、
今、死にゆく私は何が欲しいのか、、
神様がほしい、。どうしたって欲しい、。

でも無理、してはならないことばかりして
背いちゃったから、。と自己裁き、。

心に残るは後悔ただ一つ、。
私、、神様と離れたくなかった、。ってことのみ。

だからか、好きコールは、、、
いつも、、お父さんへ好きコール、。

イエス様のことも大好きなんですけど、
思考が向く先が、お父さん!なのよね、、。
なぜだか、自分でも、わからない、。

物心ついた時から、、
神様を、、探していたのと、
お父さん、、つまりは私の家族になってくれる神様、、に
一目惚れしたわけだから、、
思考の向く先がお父さんなのかな、。

それとも、イエス様も神様だから、
ひっくるめて、神様という意味で、、なのか、、
のどちらか、かしら。

少なくとも、神様が、
世界一好き、大好き、、離れない、。
ということは同じ、。

先に、一目惚れ、、という、人間的感情から
イエス様と、お父さんの所に飛び込んじゃって、。
何一つ、キリスト教のことも、礼拝がどういうものか、とか、
洗礼とか、聖餐式のことも何も知らなかった、。

キリスト教会に関する宗教書は、読んでなかった。
関わりそうなもので読んだことがあったのは、
文語訳のエホバさんに居た時に購入した聖書だけ、。

エホバさんに居た時に、神様の名前をエホバだと聞いていたけど
教会では父なる神様とか主とか、神様とだけ呼んで、
名無しであることにびっくりした、。

名前なくてもいいの?と思ったけど、すぐ慣れた、。
こんな状況だったので、、
受洗時、ほとんど、何も知らない状態でした、。

知ってたことは、受洗前にする、お勉強内容と、
神様が天地創造の神様であることと、
イエスさまのお父さんであることと、
人が大好きな神様であることだけ、、はわかっていた、。

ろくに、わからないまま、
神様を、早く、お父さんと、
呼んでもよい立場?(客観的にはそう見えた)
になりたくて、牧師に、早く洗礼を受けたい〜〜〜。
と言ったけど、

洗礼を受けたいなら、
ちゃんと、色々とお勉強をしないと、
ダメなんだよ、ということで、、我慢、。笑

じゃ、、早く勉強終わらせたい、、と、短絡思考の私は、、
毎週日曜日、朝の礼拝時、そのまま、教会に残って、夕拝も出た人、。
お金いくらか出して、牧師のお家で、ご飯頂いたり、
裏の長老さんだった信徒さんのお家で、ご飯頂いたり、、

当時は、、そういうシステムでもあるのかな、という感じで、
疑問ももってなかったけど
まぁ、、今にして思えば。実に非常識、。

お前、、まじで、一回、自分ち帰れ、って、
本音のところでは思われてたでしょうね、、って話。苦笑

でも、牧師夫人に夕食のお買い物を頼まれて
スーパーに買いに行ったり、初めて包丁で、りんごむいたり、
色々しました、、、。

それまで人様の家に行く機会がなかったからね、。
家と仕事先の往復、、忙しい時は12時まで残業して、
ファミレスでご飯食べて、寝るという感じで、忙しかったから、。

当時は、コンビニない、、でも
お弁当屋さんが、歩いて10分くらいで、わりとそばにあったし、
お弁当でも私は全然良かったんだけどね、。

後にも、先にも、牧師とはいえ、
人様のお家に上がり込んで、一緒に
晩ご飯を食べるというのは、その時だけだったですね、。

逆パターンで。家で、ご飯食べていく、という
息子の友だちは中学、高校時代と、わりと一杯いましたけど、。
前もってのアポなし、いきなり、が多かったので、、

冷蔵庫と、お財布と、相談しながら、なに食べさせる?
何、今、ある?と、大騒動でしたので、、昔を思い起こすと、、
牧師夫人も、日曜だけとはいえ、、大変だったろうな、、と

残り物、、で済ませたくても、私が一人いたせいで
出来なくなっちゃってたわけだし、。
苦労かけさせちゃったな、、ごめんなさいって
天国行って会った時、謝らなきゃね、。と、後からよく思いました、。

このように、後から、、自分が経験を積んできて、
当時、関わっていた人の気持ちを、遡って、おもんばかることが
次第に出来るようになるわけですが、。

聖書の中に書かれてる神様の想いも、、
人が人としての経験を積む中で、、
苦しむ人に寄り添うのと同じようにして、、
神様の心に寄り添いたいと思う時に、、心、、ハッとして、

この時、お父さん辛かった、、のかな、、とか、
辛い気持ちで黙ってたんだな、、とか、、
辛いと想いながら、打ったのかな、、とか、、

心の中に、神様の想いに共感したいと思う自分が生まれて、、
神様の思いに寄り添いたいと願い、更に想いを向ける、。

神様の摂理のご計画の全容ということであれば、、
それ自体は深淵であり、人には認知不可能なことです。

なぜなら、神様に人が背いた場合と、従った場合との二通りの道が、
全人類分備えてあるということなので、、、、
すべての認識は、有限の命の人であるままでは認識不可能です、。

死んで霊となった時に、自分に関わる部分だけは、
見させられる形で理解出来ます。

でも、、聖書の部分部分において、
使命者とはいえ、人間が関わってきた部分においては、、
使命者の心に寄り添い、その使命者に、命じた
神様の想いなどを、、おもんばかりながら、思考し、

そうすることより理解しようとすることは可能なことです、。
使命者も、自分と同じ人間で、
自分が同じことを命じられたら、どのように感じたり思うか、
色々試行錯誤する価値は大いにあります、。

なので、仮説はいくつか書く場合があります、。
自分の気付きの段階、経験値が増えることで、
理解が深まった場合、また別の気付きがあるからです、。

なので、、聖書は、無限に気づきが与えられ、
理解が深まり続ける神様の書物です。
生きている人が、摂理を認識し切るのは無理としても、、、

神様の御心、想いを理解をしようと、、思考を研ぎ澄まし、
深く深く探求し続ける努力をすることは、、
信仰者の努めであると、私は思っています、。

特に、牧者という立場であれば、、これを怠ると、
毎回、同じ御言葉のところで、似たような
説教内容と、書いたメモの棒読み、、という、、
実につまんない説教を、私たち信徒に強いることになります。
(ちなみに、半人前のまま牧師になった牧師の説教が、そうでした。実際に、見て聞いたから、信徒としての率直な感想です。)

牧師個人の信仰体験も含め、
他の牧者との信仰の理念の意識交感などで、、経験値をアップし
神様の御心に沿い、祈り求め知ろうとし、

そうやって、神様との個人的関係で得た、新たな気づきが、、
説教にも生きてきて、聖霊も働き、、
心がウキウキするような、霊的満たしを得て、
信徒は霊のパンに満腹して、俗世間に帰れるわけで、、。

私は、平信徒ですし、女ですけど、、それでも
神様のことを、 深く深く、生きている限り、突き詰め続け、
心寄り添い続けたいのですね、。

なんでかというと、上で書いたように、
私にとって、神様は私のお父さんです、。
そしてお父さんは、人のために働きづくめです、。

休む暇もなく、、。
お父さんは、御座で、ふんぞり返っていない、。
人を日々、救おう、、間違えた道にいかないよう、気づきを与えようと、
働き通しです、。

ヨハネ
5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」

まだ、霊的なものに敏感だった時代に、、父さまが働いておられたなら
霊的なことを否定するものが多くいて、聖霊が働きづらくなっている現代は、
どれだけ、父さま御自身は、骨を折るがごとくに働いておいででしょうか、。

イエス様も、生きていた時に神様を否定し従わずに居て、
地獄世界に堕ちて、苦しむ多くの霊なる人の中で、、自らの罪に気づき、
悔いて贖い期間が終わった霊たちを、
神様の御許へと、導かれておいででしょう、。

これだけずっと働き通しで大変なお父さんの気持ち、
イエス様の想いを、、少しでも汲み取りたいと願い、聖書のことも、、
そうやって、神様の想いに寄り添う形で
自分が気づいたことなどを自分なりにわかりやすく
記事に書いたりしています。

ある人は、、神様を人は理解できないと
事あるごとに言っているようだけれど、、、

人は、自らの経験をもとにして、、
神様の想いに自分の心を寄り添わせることは出来る、
と私は思うので、少しでも多く理解出来るようにと、、
死ぬまで神様に、問いかけ続けます。

そうしてお父さんである神様に向けて、、
私の心を寄り添わせることで得た気づきを、、
ここで死ぬまで、書いていきます、。

私は、人風情が、神様のことを理解できない、、と、
自己判定することすら、間違っている、と思うのですよ。

たとえばヨブのとき、、ヨブの友人たちは、
神様より自分が正しい、なぜなら、罪を犯していない、と
言い張るヨブに、
そんな神に対して不遜なことを言うな、へりくだれ、。と
叱りつけました、。

人の感覚で、そのまま客観的に聖書をみたら、
ヨブの友人たちには、落ち度があるようには、人には見えないでしょ、。

でも、行いでは、間違いがなくても、
想いのレベルでは彼らには間違いがあったのでしょうね、。

神様は、行いではなく、心を御覧になられますから、。
その後、神様御自身が、最後は、ヨブにも友人達にも、
判定と指示を与え、裁きを下されました、。

このことから分かるのは
人が、人が見て、是であろうが、否であろうが、
こうこうするのが正しいと、、
何一つ自己判定、及び人に強制できることなど無い、
ということです、。

聖書の規定違反、御言葉への否定など、
反キリスト思考の場合は別です、。

その場合のみ、その思考は、
こういう理由で、おかしいというのは、罪とはなりません。
気づいてても、スルーして何も言わない方が、罪に問われます、。

お前がしていることは正しくないと、
誹謗中傷し持論を押し付けるような行為は、、、
自分自身が気づかずして、父の御蓙に座り、
言葉を発していることでしかなく、

神様が、ヨブの友人たちに罪ありとし、償いを命じたが如く、、
自分では、それと知らず、わからず罪を犯してしまっているってこと。

更には、それは神様は理解不能なんだから理解なんぞしなくてもいいと
いう主旨で、極論すれば神のことは考えるなという思考であることから、サタンの言葉、反キリストの言葉を発してしまっていることになります、。

そういうことをする人のことは、、哀れだと、、おもいます、。
たぶん、今のままなら死ぬまで、自分は正しいと信じ切りながら、
行きつく先は、地獄で、、孤独感も消えず、、
霊界を悠久の時、さすらい歩くのかな、、と、想います、。

ある人に対し、どうでも良いです。と、
つい、思ってしまって、、
ちょっとお叱りを受けました、。苦笑、。

私自身に敵意を持たれても、
誤解もあるだろうし仕方ないとかで
何も怒りは感じないのですが、、。

ケロッと、、
うん、しゃーないな、。鬼女やったんだもん、
馬鹿にされても罵られてもしょうがない、。
言いたい人には言わせておこう、。

でも、神様は、そんな私でも愛してるのよね、。
今は、その時よりはマシだから、そのまま現状維持なんだし、
私と神様の関係は問題なし、って思考なので、
私の事だけの批判だけならまるで気にならない。


で、、、問われたので、、

愛がない言葉でした。
出来るだけ怒りの思いをコントロールして、、
自重するよう務めます。

お赦し下さい。 
と、罪を認め、悔い改めました、。

手を出しなさいと言われて、
差し出したらパチンと叩かれた程度の軽い痛みでしたが、、、

これ、、認めずにいると、追求が厳しくなって、
痛みも雪だるま式に、
倍増、無限倍化するのは、よく承知してますので、
ちょっと痛い程度の内に自己処理しないと、あとが怖い、。


はぁ、。気をつけてないと、、
つい、自我の自分が、ぽろりと垣間、出ますわ、、

だってね、、
お友達や、家族や、自分が守りたいと思うのは、、
自分以外の存在なので、。

私自身よりも身体の外側に在る大切なものへ、と意識が向かってしまう、。
守りたいと思うことも、自我欲の一つでしか無いのだけど、。

自分自身のことは、、自ら滅びたいと、
父さまに滅ぼして欲しいと願ったくらいに
汚らわしい部分が心の奥底にあったのだし、守る価値なんてないし、。

それに、その穢れた自分を、イエス様は、、
それでもお前を愛してる、、と、そのままの私で愛して下さったから、
私は、、消えない平安を得たのです、。

その時、最強最悪、怨嗟にまみれた鬼女、ですからね、、。
それより今の方がマシなら、、、
自己愛に走って、自分をよく見せる必要も、
信仰深い見た目である必要もない、。

なのでカルト団体の信仰者と罵られても、、
あっそ、んで、だから何、笑、くらいにしか感じてなかった、。

迷惑コメントへの対応が、面倒なだけだったので
相手して来ないでと言ってはいたけど、。

スルーしたら、良いよ。
反応すると、おもしろがるだけだから、
無反応のほうが良いよ、と内緒コメ頂いたので、
それもそうだわ、、と思ったので、、
そうすることにしますわ。

信仰に、、あれば、良いのは、
神様に寄り添いたいと思う、神様への真実なる想い、、
強く慕い求める私の気持ちだけ、。
そこだけは、、私、気合いを入れてます、。
他に取り柄がない、。笑

マグダラのマリア

  • 神仏は無条件に愛してくれます。
    そのままで良いぞ、お前のことは
    すべて承知しておるぞ、だから救われている
    自分にに気付け、、と。
    私が望んだのではなく仏から信仰は始まるのです。
    いい記事を読ませていただきました(^^)
    お疲れさまです。。

    [ こうさん ]

    2018/8/8(水) 午後 5:03

  • 顔アイコン

    > こうさんさん、。
    わざわざのお運び、及びコメントを
    ありがとうございます、。

    そうですね、、全ての邪教ではない教えの神仏は、
    天地創造の大本の神様と同じ、御愛を持たれます。
    よって、、大本の神様と同じように、、、
    無条件で、無償の愛で、永遠に愛して下さいます。
    人は、それを当たり前と信じて受け取れば良いだけです、。

    Mary Magdalene

    2018/8/8(水) 午後 10:24

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    2018/8/8(水) 午後 6:03の内緒さま、。
    ご訪問とコメントありがとうございます。

    そうですか、。
    エホバさんでは、イエス様をあくまで人とし、
    偉大な教え手であるとしています。

    それは、神様が唯一であるという思考で、
    三位一体としての神様を認めないからです。
    大きな間違いです、。

    他に、イエス様は十字架ではなく
    両手をあわせて杭にかけられたとしているのも、間違いです、。

    そうであるなら、原典のギリシャ語では釘は単数のはずですが、複数の表記であるので、両手に釘が打たれているのですから、十字架にかけられたのが、正しいのですね。

    聖書を自己都合で編纂することは罪です、。

    Mary Magdalene

    2018/8/8(水) 午後 10:44

  • > Mary Magdaleneさん
    そうですね。
    私も そう思います。

    [ saran ]

    2018/8/9(木) 午前 5:31

  • 顔アイコン

    > rut*****さん
    こんにちは、。
    ご訪問とコメントありがとうございます、。

    Mary Magdalene

    2018/8/9(木) 午後 1:07

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