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とある人が、このように言っていた、。
>私たちは、今、救われて原罪のない人として生きているわけではありません。私たちは、今も罪を犯します。したがって、キリストによって罪がなくなったという話には、決して同意できるものではないのですが、○ャローム氏は、十字架によって罪がなくなる話の全段階としてしか、創世記を受け取っていないようです。
 
私たちは、この地上にいる限り、原罪のない、恥じることのない生き方など出来ません。キリストによって罪がなくなるのではなく、キリストによって、信仰の義を与えられ、罪を赦される悔い改めの道が与えられたということです。

まず、、創世記のころの話をします、。
アダムとエバは、
創造された時点で、不完全で罪があったか?
神様は、完全で完全善なる御方なので、
アダムとエバには創造された時点では罪がありません、。

罪には、2種類の罪があります、。
アダムとエバが犯した背きの罪を原罪と呼び、
それは人の内に罪の因子、悪の種子となって、
彼らの子孫である私達、人が、罪を犯す要因となっています。

通常、人が犯す罪を自分で犯す罪を自罪、
または罪、咎と呼ぶことが多いです、。

つまり、自分では犯していない罪、
生まれながら持っている罪の因子のことを原罪と呼ぶのです。

原罪は、人が生まれながら持っている罪の因子なので、
人には、どうにもできません、。
それで、原罪から、人を救うメシアとして、
イエス様がおいでになられました、。

アダムとエバが罪を犯さずに完全なままでいたならば、
人には原罪がなく、救う必要性も無いので
イエス様は、わざわざ、人のお姿を取られて
お生まれにならないでも良かったのです、。

人間は不完全と、、彼は、よく言うけれど、
逆に思考してみれば良い、。
もし、 今の人が完全だったら原罪も無いので救いも必要ない、。
原罪ゆえに罪多く、また、不完全になった人間だからこそ、
原罪と、自分の犯した罪の赦しという救いが必要になっているのです。

人間始祖のアダムとエバが、もし生まれながらに罪を負って、
不完全なままで創造されていたというなら、、
どう頑張ろうと人の罪はなくならない、。

元々、人は罪なき人、無垢な者、完全なる者だったので、
不完全さがあっても、神様の原罪の救いを与えて頂くことで、
元の無原罪の状態になれる。

ただし、初代クリスチャンは
実際には罪の因子がないとみなされて、
無原罪とされているので、御言葉と聖霊とによって、
霊的新生をし、心と耳に霊的割礼を受けていないと、

神様の御心に沿う生き方ではなく、、
背く生き方をする人もいます、。

それで、イエス様は、
マタイ
7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

クリスチャンなら、主よ、キリスト、メシア、とか、
他には神はこういう方、、とか、
もっともらしいことを言いながら悪を行う人が、、
大勢出る、、とイエス様は仰っています、。

10人の乙女がいても、半分の5人しか
イエス様と共にいれなかったのですから、2人に1人は、
受洗してても悪魔(原罪、罪の因子)に繋がれたまま
罪を犯し続け、罪が赦されないまま残り続けるということです、。

二分の一の確率ですからね、、
常に気を引き締めて、
神様にも、人にもへりくだっていませんと、、
悪魔、悪霊側の人に対しては、
対応は変わることもありますが、。

イエス様の御名によって、悪霊を追い出し、
奇跡をいろいろ行ったのに、、
なんで?イエス様から離れなさいなの??
となる方もおいででしょうね、。

そういえば、↓ここの聖句、、
まだ記事にしてないかも、。

↑の聖句の意味が分かるように、
他の悪霊の追い出しに関する聖句を読みます、。
マルコ
9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。
9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。

この聖句によると、、
イエス様や神様に対し、背く思いや行為がなければ、
イエス様は、不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。
とは仰らないはずです、。

神様の御心に従い、イエス様に逆らわない者は、
イエス様の味方として遇されるのですから、。

悪霊を追い出し、奇跡をいろいろ行った、、の部分は
本当にそのような奇跡等を起こしたということではなく、
ようは人前では神様に従ってるふりをしているが、
裏では逆らっているという意味で、

口では綺麗事言いながら、
心では神様に、あかんべーしてたでしょ。
だから、(イエス様の)味方じゃないから知らない者だ、。
という意味なわけです、。

ここまでで、罪には
自分では犯してない罪の因子の原罪と
自分で犯す自罪の、2種類あることと、、、
神様とイエス様に罪がない、とみなして頂き、天国に入れて頂くには、
クリスチャンであるだけでは駄目ということがわかります、。

クリスチャンでも神様に背き従わないままでは駄目なのです、。
わたしの天の父の御心を行う者だけが天国に入る
とイエス様仰っておいでですから、。

神様の御心を行う、。
これ、一般的な信心なわけですが、、
ある程度大きくなった人なら、努力すれば出来ますね、。
これが、彼が言ってる信仰義認による救いなわけですが、、

これでしか罪の救いの道がないというのなら、
イエス様の十字架は、、不完全なものになります、。

なぜならば、不幸にして、
生まれたての赤ちゃんのままとか、お腹の中で
亡くなった私の子、優ちゃんのような子供は、
信仰という行為が出来ません。

幼子のまま亡くなってしまう子供たちも、、、
信仰は出来ません。
せいぜい親から教えられた通りに手を合わせて、、
祈りの真似事をする程度。
彼らには、信仰義認を適応できない、。

イエス様は、なぜ、人としての命だけではなく、
神様としての不死の命までも、
人のために捨てて捧げたのか、。

それは、信仰による義認が出来難い幼子らも赤ちゃんも
信仰義認がないままでも、イエス様の贖いにより
無垢に近いものと見なし、、
そのまま天に救い上げるためです、。

つまり十字架の原罪を無いとみなす恩恵を、、
最大限に受けれるのが、
幼くして逝くしかなかった子供たちです、。
彼らは限りなく無垢に近いから、。

霊界での天国でも上の方に行けて、
天使のような存在として、大切に扱われる。

また罪しか行えないような極悪人でも、
永遠に近い時間の中で、、
自分の罪に気づき悔いることで、
イエス様が、霊的死の世界、いわば地獄ですが、、
そこから蘇られたように、、、、、

どんな極悪人でも、、イエス様に真摯に悔いてすがるなら
地獄のどん底からでも、
イエス様から与えられる永遠の命の恩恵と原罪の赦しを受けて
活きたものとされる、。

イエス様の十字架は、
自分では犯していない罪の因子である原罪を赦すためのもの。
自分で犯した罪である自罪は、全自動では赦されない。
罪を認め悔いなければ、赦されずに残る、。

したがって、イエス様の十字架を、
無罪信仰と見ることは大きな間違い、。

信仰義認のみでしか救われないと、定義すると
救われないままの者(死んだ人の霊も含む)が多く存在したままになり、。

イエス様の十字架を不完全なものとし否定した以上、
神様が義とお認めになられた
アブラハムに相応するくらいの信仰を神様に立てなければ
義とは認められなくなるのだから、、

それは、神様の御声を聞けなくなった現代人には不可能でしかない。
つまり原罪の、、この世からの消滅は不可能となり、
永遠に人の罪は無くならない、そうなると
永遠に人の争いは無くならず 悲惨な戦争も永遠に続くことになる。
神様はそんな世界を望んではいない。

そのために 救いの摂理があるし、、
イエス様は、人が不信したために、人の身代わりとなって、
完全なる信仰を神様に立て、。
また、完全なる救いのために、
人としての命、神様としての不死の命、
そのすべての命をお捨てになられた、。

メシアの救い、、は、完全なるものです、。
それだからメシアなのです、。
不完全ならばメシアとは言えない、。

なので、イエス様の十字架を不全なものとする
思考は反キリスト思考となる。

生まれてこれずに逝くしかなかった命から、
極悪人の命に到るまで、、
すべての命が救いの御業に預かっている。

イエス様以前に生まれていた命も、、、
イエス様の十字架以後、イエス様のおかげで、
この神様の救いの摂理の恩恵にあずかれるようになった。

イエス様の十字架の救いは、
イエス様以後に生まれてくる者と当時生きてた者、
またすでに死者となっていた者も含めて原罪を赦し、
神様のもとへ導く、完全完璧な救い、。

イエス様の完全愛による、ありあまる赦しの恩恵は、、
人がいかに不完全であろうと、、
それを覆い超える救いがなされていく、。

ただし 何度もしつこく書くけど、
無条件で赦されるのは、、原罪のみ、。
自罪はその時々で、自分自身が認識し気づいたら
悔い改めが必要、、。

メシアの赦しは完全になされ、未来永劫、
それが人に保証され約束されている。

とある人は、、メシアであられる主イエス様を貶める
思考をしていることに気づくべきです、。

とある人は、、、
このようなことも書いていた、。

>キリストの十字架は人の罪の贖い
ということは、
聖書から学び教会で聞く。
だからといって
いつもそれを思い出して
あるいは唱えて
感動できるわけではなく
心の支えになるとも限らない。

クリスチャンが、イエス様の愛の業である
十字架の赦しに感動しない、、
心の支えにもならないって、、じゃ、何に感動する訳?
神様の愛に感動できなきゃ、、。
あぁ、、無感動ということですかね、。

それじゃ、心で愛が感じれないはずですね、。
お気の毒なことで、、。
人生つまんなそう、。

神様であるイエス様が心の支えにならないなら、
何を心の支えにしてますの?
自分?悪魔?悪霊?お金財産?プライド?

なんにしても、、神様と共にいないことだけは確か、、。
神様なしの自力で、どこまで頑張るやら、。
お疲れ様、。
 

>幽霊も悪魔も化け物も離れません
つきものだから
それらが人に取りつくのではありません
人がそれらに取りついているのです
そこから罪を犯し

愛するのです

>私が正しいと考えたことは
この世では悪と呼ばれ
無と見なされ
偽りと呼ばれるものであったらしい

その通り、。
ご自覚があって良かったです、。

悪魔と悪霊、化物などの憑き物つきだと、、。
悪と呼ばれ、、、。
正しいことも仰ってたのですね、。
まだ正気の部分があった頃ですが、。
病院に行き治療したほうが良いのでは、。

悪魔と悪霊、化物などは、思い切り、超常の類ですよね、。
あなたの論では、超常なのはカルトということでした、。
あなたは、自分自身で、御自分こそが
カルトだと言ってるようなものですね、。


  • 顔アイコン

    思いっきりアーメンです!

    noelpix

    2018/9/5(水) 午後 9:03

  • 顔アイコン

    > noelpixさん
    イエス様の救いは誰一人
    取りこぼしがない
    完全無欠の原罪からの救いです。
    罪人が真摯に罪を悔い赦しを願えば地獄のそこからでも
    助け上げられる。
    神様であるイエス様御自身が人の子のように
    霊的にも肉体的にも死して下さってまで人に与えた救いです。
    完全無欠なのは当たり前です。

    Mary Magdalene

    2018/9/5(水) 午後 9:13

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