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まずは、、先に行為義認について、軽く触れておきます。

マルチン・ルターが宗教改革をした当時のローマ・カトリック教会の贖宥(しょくゆう)制度は、行為義認信仰の上に成り立っていました。

行為義認信仰、、
つまり善い行い
(悔い改め、徹夜の祈り、断食、施し、
献金、巡礼、十字軍への参加等)により
罪の償いをすることで、、、

罪が贖われて、義の状態となった、、
と認められるとされていた。
そして、、正しい人間(カトリック教会の教えに従う人)
には報償を与え、、
不正な人間(カトリック教会の教えに逆らう人)には
破門、処刑などの厳罰を与える、としていた、。

ルターにより宗教改革が行われ、、
ルターの掲げた信仰義認が正当な信仰であると認められたけれども
カトリックでは、信仰義認と行為銀の両方を行うことを信仰としている。

在位時期が異なる、二人の言葉を、ここに引用します、。

ローマ司教 クレメンス一世(紀元 30〜101年)の「コリントの信徒への手紙」

「・・・全能の神は、世の初めから全ての人を信仰によって義とされたのです。神に栄光がありますように。 アーメン

それで、兄弟の皆さん、私たちはどうしたら良いのでしょうか。善行をやめ、愛を放棄すべきなのでしょうか。いいえ、そのようなことが私たちの間に起こるのを、主が決しておゆるしになりませんように。むしろ、ありとあらゆる善行を献身的に、また熱心に行うべきです。・・・

神はこう言われたのです。「『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』神は人を創造された。男と女に創造された。」神はこれらすべてのものを完成されたとき、これらをよしとされ、祝福して仰せになりました。「産めよ、増えよ」ごらんなさい。
すべての正しい人は善い業で飾られ、主ご自身もよい業で自らを飾り、それをお喜びになったのです。このような模範にならって、私たちも神の意志をたゆまず果たすようにしましょう。全力を尽くして、義の実践に励むことにしましょう。



ローマ司教 ベネディクト十六世(1927〜)の講話
160回目の一般謁見演説 義認についてのパウロの宣教より抜粋

人は自分の行いによって自分を「義」とすることはできません。人が神の前で本当の意味で「義」とされるのは、ただ、神が、人を御子キリストと結びつけ、自らの「義」を与えることによります。そして人はこのキリストとの一致を、信仰を通して与えられます。その意味で聖パウロはわたしたちにこう語るのです。わたしたちを「義」とするのは、わたしたちの行いではなく、信仰です。

しかし、この信仰は、思想でも意見でも観念でもありません。信仰とは、主がわたしたちに与えてくださった、キリストとの交わりです。それゆえ、この交わりはいのちとなり、わたしたちをキリストに似た者とするのです。

また別の言い方をするなら、信仰は、それが真実で本物なら、愛となり、愛のわざとなります。信仰は愛のわざによって表されます。愛のわざ、愛のわざの実りを伴わなければ、真の意味での信仰とはいえません。それは死んだ信仰です。
  
それゆえわたしたちは前回の講話で二つの次元を見いだしました。一つは、救いを得るために、わたしたちのわざや行いは役に立たないという次元です。もう一つは、わたしたちは、霊の実を生む信仰によって「義」とされるという次元です。数世紀にわたってこの二つの次元が混同されたことによって、キリスト教の中に少なからぬ誤解が生まれました。このことと関連して重要なことがあります。

すなわち、聖パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、一方では、徹底的なしかたで、義認がわたしたちの行いによらないことを強調します。
しかし、同時に彼は、信仰と愛のわざの関係、信仰と行いの関係も強調します。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5・6)。

したがって、まず「肉のわざ」があります。「肉のわざ」とは、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝」(ガラテヤ5・19−21)などです。これらは皆、信仰に反する行いです。その一方で、聖霊のわざがあります。

聖霊のわざは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5・22)を促すことによって、キリスト教的生活を成長させます。これらは信仰から生まれる霊の実です。

この美徳のリストの初めには愛(アガペー)が挙げられ、終わりには節制が挙げられます。実際、霊は、父と子の愛であるがゆえに、その第一のたまものである愛(アガペー)をわたしたちの心に注ぎます(ローマ5・5参照)。愛(アガペー)を完全に表すには節制が必要です。

この父と子の愛は、わたしたちに達し、わたしたちの生活を根底から造り変えます。わたしはこのことを最初の回勅『神は愛』でも考察しました。信じる者が知っているとおり、互いに愛し合うことのうちに、神の愛とキリストの愛は聖霊によって受肉します。ガラテヤの信徒への手紙に戻りたいと思います。この手紙の中で聖パウロはいいます。

信じる者は、互いに重荷を担い合うことによって、愛のおきてを全うすることになります(ガラテヤ6・2参照)。キリストへの信仰のたまものによって義とされたわたしたちは、隣人に対するキリストの愛を生きるよう招かれています。

なぜなら、わたしたちは生涯の終わりに、この愛という基準によって裁かれるからです。実際、パウロはイエスご自身が述べたことを繰り返して述べているにすぎません。わたしたちはこのことを、先週の主日の福音で述べられた、最後の審判のたとえ(マタイ25・31−46参照)によって思い起こしました。

コリントの信徒への手紙一で、聖パウロは有名な愛の賛美を行います。いわゆる愛の賛歌です。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。・・・・愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず・・・・」(一コリント13・1、4−5)。キリスト教的な愛はわたしたちに多くのことを求めます。それはわたしたちに対するキリストの完全な愛から流れ出るものだからです。この愛はわたしたちを必要とし、受け入れ、抱き、支え、場合によって苦しめます。

なぜなら、この愛は、わたしたちが皆、自分のことだけ考えて、自分のために生きるのではなく、「自分たちのために死んで復活してくださったかたのために生きる」(二コリント5・15参照)ことを強いるからです。

キリストの愛によって、わたしたちは、キリストに結ばれて新しく創造された者となります(二コリント5・17参照)。こうしてわたしたちは、キリストの神秘的なからだである教会の一部となります。
  
このように考えると、パウロの宣教で中心的な意味をもつものとして第一に述べられた、行いによらない義認は、愛のうちに働く信仰と矛盾しません。むしろ、行いによらない義認は、わたしたちの信仰を霊に従う生活によって表すことを求めます。パウロの神学とヤコブの神学の間に根拠のない対立が見いだされることがしばしばあります。

ヤコブは手紙の中でこういうからです。「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ2・26)。実際はこうです。パウロが何よりも心がけたのは、キリストへの信仰が必要であり、またそれで十分なことを示すことでした。これに対してヤコブは、結果として生じる、信仰と行いの関係を強調しました(ヤコブ2・2−4参照)。

それゆえ、パウロにとってもヤコブにとっても、愛のうちに働く信仰は、キリストにおいて人を義とするたまものが無償で与えられたことをあかしします。聖パウロもフィリピのキリスト者に向けて述べるとおりです。

わたしたちは、キリストによって与えられる救いを「恐れおののきつつ」守り、あかししなければなりません。「あなたがたのうちに働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何ごとも、不平や理屈をいわずに行いなさい。そうすれば、・・・・いのちのことばをしっかり保つでしょう」(フィリピ2・12−14、16参照)。


大問題の爆弾言葉、を、しれっと
つい言っちゃった方のコメント、、。

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キリスト教会に行為義認があってはいけません。キリスト教およびキリスト信仰は信仰義認です。罪を告白して赦される=信仰です。
しかしながら、カルトの集まり、それがバーチャルでも、今も行為義認を教条とするところはあるでしょう。
ネットの卑弥呼のような有頂天教祖が、けらっと、そこに立っていたりすることは、あるわけです。

2018/9/10(月) 午後 6:36 st5402jp 返信する

A キリスト教会に行為義認があってはいけません。
ふーん、。いいのかなぁ、。
カトリックの教理が大間違いだって、、
カトリックに喧嘩売るの??

ひゅーぅ。勇気あるねぇ。
男が、、口から出しちゃったもんね。
行為義認するのは、キリスト教会じゃないって、。

まぁ、、お頑張りあそべ、。
相手にされないけどね、、、。

カトリックの中央協議会へのリンク貼ってあげるから、。
義認についての教理が、おかしいって、、
お問い合わせフォームから、言えば、。笑

ろくに、プロテスタントの教理のことも、、ましてや
カトリックの教理のことも、まるで知らないで、
いい加減な言葉を発するから、、間違うのよ、。

独自教義から離れて、
きちんと正統な教会の教理を学んでから人に言いなさい、。

ネットの卑弥呼のような有頂天教祖が、けらっと、そこに立っていたりすることは、あるわけです。

ほほう、、よほど、、『けらっ。』が頭にきたのねぇ、、。
瞬間湯沸かし器だこと、。

あらぁ、、カルト教祖から女王卑弥呼に、、
嫌味の格上げですかぁ、。
そりゃどうもありがとう、。けらっ。
ははは、、思考がぶっ飛んでて、、言うことが愉快だわぁ、。

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書いてあることが共通している。やはり、ヨシュアの成りすましのようだ。削除
st5402jp
 
2018/9/11(火) 午前 3:32
 返信する


A あなた、、人の文章、全部同じに見えるわけ、。
そりゃそうね、自分自身が大量に別アカウント作って、
他人のふりしてブログ作って記事書いてたら、、
他の人もしてるに違いない、、って考えるわけだ、。
疑心暗鬼おじいさんだこと、。

私は、、女なのっ!!
いーかげん何度、男性のヨシュアさんと、、
同一じゃないと言えばいいのかねぇ、。呆

ほらっ、、私の性別証明、出したる!
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あなたの医師免許はあるのよね、。
嘘じゃないならば、写真アップしたらどうです、。
どうせ廃業してるのだし、
アップしても弊害ないでしょ。

人に、嘘つきと言う前に、、、
自分のことを嘘じゃないと
ひとつくらい証明してみせたらどうなの?

まぁ全部ウソなんでしょうけど、。
なにせブログタイトルが、、ウソの国だもんねぇ、。
ウソの国の王様、かぁ、。寂しいねぇ、。
真実ゼロですかぁ?

知ったかぶって、、
カトリック批判してたら世話がないよねぇ、。

9月11日 7時33分追記
↓こんなこと言ってて、、、びっくり、。

>私はキリストから信仰に入ったので、キリストは?、 否定はされなくても学ぶことが多くても聖書の登場人物?、 ・・キリストは聖三位の中で最も人間に近いですから解釈も、 まあ様々だけど、受け取りやすい御方でもあります。
しかし、キリストも偶像です。
「私のキリスト」が必ずあると思います。

この方のカルト思考決定!

どこのクリスチャンが、
主イエス様を偶像だという??
有り得んでしょ、、。

マグダラのマリア

  • どんどんボロが出ますね。
    このような間違った解釈を知ることは、聖書を理解する上である意味勉強になりますが、ここまで来ると流石に気の毒に思います。

    [ akari ]

    2018/9/11(火) 午後 0:58

  • 顔アイコン

    > akariさん
    こんにちは、。

    自己理解のみで、、
    教会などで学んでいないから、
    自己都合の良い方に歪むのですね、。
    自分以外は排除のとこ、、もろ、カルト的、。

    言ったら、、やったら、だめ、、と思うことまで
    言うし、やるし、、聖書から、全部ずれ、、
    ここまでズレきってると、お見事、、って、レベル、。

    Mary Magdalene

    2018/9/11(火) 午後 1:21

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