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エマオの二人の弟子2

前記事 エマオの二人の弟子の続きです、。

ルカによる福音書より
エマオで現れる
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24:29 二人が、一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

24:44 イエスは言われた。わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

◆天に上げられる
24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。



ーーーー
エマオの二人の弟子、、
一人は、クレオパ、もうひとりは、前記事で書いたように、
クレオパの妻マリア

クレオパたち、、イエス様から、、直に話を聞いて、、
当時は、隠れた比喩も、、ツーカーで相互理解できる状態で、、

それなのに、、イエス様から、こう話を聞いた、と、
一言も話して無くて、パンを裂く様子を見て渡されて、、
気づいた、、、、と書かれただけ、。

イエス様からパンを受け取るまで、気付かなかった、、のね、。
パンを受けたときに、、最後の晩餐が脳内で、
オーバラップしたのでしょう、。
それで、あれ、見たことある、、と気づいて、イエス様だと、、気づいた、。

見ないで、信じるものは、、、幸いです、。

彼らが、イエス様から聞いた聖書のすべての解き明かしを、
他の弟子に話そうとしなかったのは、、、クレオパたち自身が、
信じ切れてなかったからでは、。

教えられたことの価値が理解できてなかったとか、も、、。

もしくは、、他の弟子たちに話したら、
嘘つけ、と、聞く耳を持たないか、、、、、
実際見ても、まだ、他の弟子らは信じなかった、。

マグダラのマリアのときのように、聖書を理解して、知りすぎても、
カルトだの異端だのと、女だからという理由で非難されるから、

クレオパと、妻の二人だけに現れたのはずるい、
おかしい、ありえない、、と、妬まれるとか、、

いろいろ彼らは思考したのかもです、。

確実に言えることは、、何らかの人側(弟子側)の理由があって、
イエス様によって、クレオパに直に伝えられた
聖書の内容、奥義、、は12弟子たちによって、
無視されたという事実、。

復活されたイエス様と出逢い、聖霊を受けてからでさえ、
書き残したりさえしてなかった、。
それか、残されたものが幾分はあったけど、隠蔽焼却されたのか?

クレオパは、イエス様の養父ヨセフの兄弟クロパ、、
イエス様の父方の叔父、、イエス様より歳上の親族だから、、
イエス様の御言葉、優先、、、とは出来なかったのかもです、。

イエス様までの常識や、、弟子たち同士の慣習の方を、
優先したのでしょう、。

だから、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者 と、イエス様にお叱りを受けています、。

イエス様の御言葉は、人の言葉ではないので、
いくら、イエス様の親族でも、
御言葉の優先順位は守るべきでしたね、。

聞いたこと無いことは、、理解不能なことは、すぐに
認めない、、という部分は、12弟子と言えど
ファリサイ人らと同じなのかな、。
イエス様が好きという部分で、心を開きやすいとは想うけど、。

ほんとうの事を知らせると困る弟子や、人、もいたのでしょうかね、。
現代でも、聖書のことで、本当のことを言えば 、、
言っただけ異端だと中傷される、、。

都合が悪い人もいるから、。
聖人や、12弟子、は褒め称えて当然?

いんや、、神様が直に義人と認めたのはアブラハムだけ、。
アブラハムは、自分の子供を殺そうとした時、
半分は、気がおかしくなってたと想う、。
悲しくて、苦しくて、、心は、ボロッボロだったと想う、。

それでも、神樣への信頼ゆえに、、、
それだけを支えにして信仰を立てた、。

半分は、人から、アブラハムは、
気が狂ってると思われても、しょうがない、。

んなこといったら、アダムは、死んでもいいから、
エバと一緒に居たいから、一緒に知恵の身を食べる、と、思い食べた、。
死んでもいいから、、の部分、、、、
気がおかしいから、死んでもいいと思えるのでしょ。

信仰を立てる人は、そういう死んでもいい、、
一種の気がおかしくなるくらいの、、
真剣さで、神様に従おうとするのかもです、。
クリスチャンの語源は、、キリスト馬鹿、、ですからね、。
イエス様のためなら、、キチガイになれる人のことね、。にこにこ、。

私、、キチガイになれる、自信ある、。笑
愛してるイエス様のためなら、死んでもいい、。

イエス様のために、思考が馬鹿になるくらい、
信じて、したがって、自分を捨てて、イエス様に、ついていく、。
いいんだ、それで、、

息が出来ないほどの地獄の苦しみから、、
救い出して頂いたから、、、
命かけても、、、惜しいとも思わない、。

どうせ、いつかは、人は死ぬ、。
あの時、半分は、私は死んでたんだから、
残り半分の命を支えて、、生きれるようにして下さってるのは、
イエス様だもの、。

イエス様のためになら、私が死んでも、生きても、、
同じなのよね、。
地獄にいこうが、天国に行こうが、気にならない
今の平安は捨てがたいから、、。

イエス様にぜーんぶ、かけてる、。笑

イエス様だって、キチガイ扱いされたのよ、。

マルコ
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

疑わないで、信じ切るのだって、ある種のキチガイだからね、。
素直すぎる、、みたいな、。
単純で騙されやすいと言おうか、、。
前の記事で書いた、、正しくない選択をした人はね、。

こういう精神がキチガイ状態のまま、堕落したのよ、。
正しさを見失ってね、。
キチガイに近い状態になっても、
たとえ自分を見失いかけても、、

神様を、、じっと、見上げて、、神様だけを見つめてたら、
道は踏み外さないで、、とどまれる、。
神様に絶対の信頼を置くなら、、疑うことなく、、信じれる、。

弟子たちが、、聞いてすぐ信じれなかったのは、、、女とは違う、。

女は、ほぼ感情論だもん、。
好きなら、信じるし、、嫌いなら信じない、。
それもまた、エバみたいに、
感情論でそうしたら、失敗するのかもだけど、。

でも、私は、、、、その直感で生きてきたから、。
今は、もう、それでいいかな、、、笑。

好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌い、。
真ん中は、何も思わない、ごく普通の常識的対応をする、、。
大多数はこれに入るけど、。

自分に好意的なら、気にかけるし、
そうでなく批判的なら、、何らかの理由がない限りは相手にしない、、。
自分のこと気にいらない人と話しても、埒あかないですもの、。
聞く耳持たないでしょうし、、
私も、耳を持ちたいとも思わないし、。

一心不乱っていうね、。

信仰とは、狂おしいまで、神様を慕い求める心を、
持ち続けることなのよ、。
気がおかしくなる一歩手前まで、、神様を切実に求めて、、
求めて、求めた先に、、得る平安、。

私は、、救われたとき、、
地獄に行くようなものだって、、
自分自身をとことん責めて、呪って、憎んで、
ある意味、気がおかしくなるくらい、自分を追い詰めて、
自分自身の心を殺すことまでした、、、。

神様のために、自分を殺した、。
自分なんて、死んでもいいから、、と自己裁きで、、
自分で自分を追い詰め殺すのも、、
ある意味、気がおかしい状態でないと、出来ない。

自分に死ぬ、のは、地獄に落ちる覚悟がいることだからね、。
地獄に堕ちていいと、、、想うのも、
気がおかしくならないと思わない、。

その気がおかしくなりそうな、、刹那のときに、、
神様との邂逅が開ける、。
不思議なことだけれど、。

そこまで、自分を追い詰めたら、
こわいものがなくなるからね、。

地獄に行くどころか、、
自分の肉体の死すら、、魂の死すら、、
御心のとおりに、、と思う、。

神様とともにある、、という、
究極的な平安があるので、、
気になるもの、心が乱れるもの、がない、。笑

信じるって、、一心不乱に信じるべきで、
疑う余裕なんかないのが、、当たり前なんだよね、。
なんで疑ったんだろう、。
イエス様を直に見て、触れて、知りながら、、

いや、直に触れて、見て、知っていたゆえに、
疑って、信じきれなかったのだろう、。
共に、、生きている記憶があるゆえに、。
わかるはずがない、、と、。
先入観が邪魔をした、。のかもしれない、。

マグダラのマリア

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