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女と妻

昔は、単に女とだけ書かれているものを、
女と書かれてたものの前後の文章の状況により、
妻と訳したり娘と訳したり、してたのですよ、。

口語訳だと、そのまま女と訳されてますけど、。

口語訳
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいてを見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

新共同訳
マタイ
5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人のを見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

新共同訳の、、みだらな思いで
他人の妻を見る者はだれでも、、、の訳のほうが、
世の男性には救いです、。

女ではなく既婚の女性、妻と訳す方が正しかったのです。
今までが誤訳を使っていたということ。
土台、自然の摂理に反する訳だったのですから。
刷新されて良かったですね。

最初の口語訳の聖句だと、、
若い未婚の女性を見て、綺麗だな、、と思っても駄目!
結婚したいな、、と、ちらっと思うことも駄目!って
ということだから、

未婚の若い男性信徒の中には、、
水行して、雑念を払おうとする人まで居たとか、。
男性の生理的欲求をね、、押し込めても、辛いわねぇ、。
若い時は特に、。

イエス様の時代のバルミツバの成人の儀式は、
今でいうと満12歳くらいで、小6から中1くらいで、
今より栄養事情も悪く、、まだ発達しきっていないので、、
今でいうと16歳前後に、異性に関心を持ったかな、、と思います。

イエス様の時代は、、既婚女性は、ベール被って、
足元まで覆う長い服を着て、既婚だぞ!ってわかる服装してたから、。
そういう既婚女性相手に、淫らな想いを持つものは、
既婚男性で、浮気願望在りの男の人です、。

ダビデ、、人妻だと知った上で、、
バト・シェバを召し出したでしょ。
人妻のほうが、、子供出来ても夫の子と言い張れるし
子が出来た場合でも親としての責任を取らなくて良いし、
都合が良いわけだから、、、。

ところが、、ダビデの場合は、予定が狂った、。
人妻のくせに、、バト・シェバは、、バージンだった、、。

バト・シェバはバージンだったから、、
彼女の夫は戦地にいるウリヤ、、で、、ダビデとしか通じてないから、
子が出来ました、、、と父親を断定して、ダビデに言えたし、、。

ダビデも、、彼女と通じたときに処女の徴があったから、
自分が父親じゃないとはいえない、。

だから、策を労して、ウリヤを戦地から呼び戻したりしたけど、
ウリヤは新婚なのに、律法通りに妻の元に行かず、、
で、ダビデは業を煮やして
ウリヤを戦死させるように命じて、そう仕向けたわけだけれど、。

王様で、既婚者のダビデが、、人妻のバト・シェバと浮気したからね、。
家臣も一般人も、普通に浮気してたでしょ、。

バト・シェバは、誓いの娘、という意味、。
彼女はエリアムの娘で、神様の言葉を聞けるアヒトフェルの孫娘、。
アヒトフェルは、祭儀のようなことが出来る立場であるからレビの血筋でしょう、。

ウリヤは祭司の家系の名前、
彼は、ユダとレビと、ヘト人との混血であったのでは、。
レビの血筋がゼロなら、アヒトフェルが孫娘と結婚を赦すわけがないから、。

彼女は、エリアムが、なにか誓願をして生まれてきた娘なのかも知れない、。
本来なら、、ウリヤと婚約せずに、未婚のままでダビデと会えてたら
ウリヤも戦死せずに済んだでしょうね、、。

ウリヤ、とっても、かわいそう、というか気の毒なんだけど、、。
真面目な生き方しても報われなくて、、妻にも、上司ダビデにも
裏切られてたわけだし、。

ウリヤ、婚約結婚だけして、
まだ新妻のバト・シェバと一緒になってなかった、。

未婚男性は、、戒律あるから、
浮気、、なんて、わざわざ思わないし、。 
顔や手足を出してた未婚女性がターゲットだった。
それでも、、結婚したからって、むさぼらないで、、
自分は戦士だから、、と自制してたのね、、。

自制出来なかったのは既婚者であるダビデの方、。

マルチン・ルターは、40過ぎて結婚するまでは苦しかったでしょう、。
口語訳
第一コリント
7:9しかし、もし自制することができないなら、結婚するがよい。の燃えるよりは、結婚する方が、よいからである。

新共同訳
第一コリント
7:9 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。

自制できないくらいに好きな女性が居たり、情欲を抑えれないのなら、、
変な情欲の処理をして他人を巻き込んでしまうより、、
罪を犯さなくて良いのだから、結婚しても良いわけです、。

結婚したら、、罪にならなくなるとルターは考えて、
他の枢機卿仲間にも、、結婚を勧めたのですよね、。

人妻や未婚の女性でなく、自分の妻相手なら、、いくら大事に思っても、
子を作っても、アダムとエバが多くの子を得ているのだから、、
悪いこととは誰も言えない、。

カトリックの司祭、結婚許可したらどうかしらね、。
正教会は、輔祭叙聖前なら、妻帯できるわよね、。
そのまま司祭にもなれる、。

カトリックは、妻帯したいなら終身助祭の職位までしかなれない、。
司祭になりたいなら、、結婚できないわけで、、
自然の理に反してることを守ろうとしても、、それは、無理だって、。

初めて聖餐(聖体拝領)を受けた時、。
すごく、嬉しかった、、。
それが思った素直な気持ち、。

嬉しかった理由は、、イエス様と、一つになれる、。
って、思ったから、、。

わからんなりに、、
聖餐(聖体拝領)を受ける=イエス様と一つになれる、。
と認識をしていた、。
単なる決まりきった宗教儀式とは思ってなかったのね、。
イエス様と一つになることだと思っていた、。

だから、洗礼受けて、嬉し泣きして、、、
その後、すごくドキドキ・ワクワクしながら
聖餐を受けた記憶がある、。

聖餐、受けた時、嬉しいの一言、。
でも洗礼式のほうが、嬉しくて嬉しくて
実際に、、嬉し泣きしてポロポロ泣いた、。

洗礼を受けたいと申し出て、クリスマスには間に合わず、
求道期間、、約1年、イースターまで待って、、、
やっとだったから、、、。
申し出たら、1,2ヶ月ですぐオッケー出るわけじゃないのね、、と、

だったら、、教会行ってすぐ、
洗礼受けたいです!!って、、言えばよかったぁ、。www。

クリスマスまで、2ヶ月くらいのときだったかな、、
洗礼受けたいと言ったら、、
洗礼する前に、色々とお勉強があるから、、
と言われて、イースターに受洗しましょうって、、、。

数年後、私の友達は、、、
洗礼受けたい、良いですよ、、で、即クリスマス洗礼受けてて、、
ずっこい、、、、。
なんで、、、??って、、当時、思ったけれども、。

他に受洗礼者いなかったから教会側の都合かなぁ、。うん、。

私にとって、、初めての聖餐(初聖体)は、、
特別、嬉しいことだった、。
あとは、慣れて、、、、罪を犯したときだけ、、、
イエス様、、ごめんなさい、、哀れんでくださいと、祈りながら、受けた、。

日本キリスト教団では、立って受けるのが普通で、、
ルーテルに移籍したら、、跪いて受けるのが、すごく新鮮で、、
そうだよね、、神様を受けるのだから、、って納得もした、。

跪いて受けるほうが、しっくりしてたけど、。
高齢化が進んで、、私が在籍しているルーテル福音も、
立って受けるタイプに変更された、。

なんかね、、、物足らない、。
というか、、しっくりこない、。
私は、きっと聖餐を跪いて受けたいタイプなんだろうね、。

救われた時、、イエス様の御足に、、すがったし、、。

どっちの御足だったかな、、たぶん、両足を両手で、
かかととふくらはぎのとこらへんを抱え込む感じで、、
両方の御足に片手ずつ触れて、、
御足のところに頭を擦り付ける感じで、掴んでたと想うけど、。

心も身体もヘロヘロ状態で動けない、
起きれない状態だったし、頭も上げれないくらい、
ボロボロだったし、、苦しくて床に這いつくばってたもの。

私は、ろくに動けない状態だった、。

イエス様のほうが救いにおいで下さらなければ、、
私は魂は、、救われることはないまま死んでたと想う、。

肉体的には、洗礼と聖餐受けてても、
救われてるって確信なかった、。
実際に心が、生きたまま地獄堕ちていたし、。

洗礼後、、なにか変わったと自分では思えなかったし、
たんに神様が好き、一緒に居たいから、そうするには
洗礼と聖餐が必要だというので、そうしただけだから。

救いの確信て、なかなか得られないねぇ、。

先に罪の自覚が要るからなぁ、。
そこが、乗り越えるのが、、大変、。

神様に罪を犯しましたって、、認めて、
真剣に悔いるってこと、が難しい、。
自分の心の奥底の本音を見つめ認めるのは、、、
更に難しい、。

自分で、こんな駄目な、酷い人間だった、、の、、、。って、
ガーックリするからだろうけど、。
その自分の悪い部分も、自分。、と認めれないと、、
救いを必要ですとは、人は心底思わないから、。

自力で、清く清く、、正しくと、義務感や、
意地で、、頑張りまくることになる、。
で、、もしコケたら、、手違いと言い張る、罪を隠す、、
罪から逃げる、。頑として認めない、。
と言う感じで、、、同じような罪を重ね続ける羽目になる、。

見たくもないからって、
悪い自分を認めないままだと、、、
いつまでも罪を覆い隠すことしか出来なくて、、
神様に真摯に謝罪できないままになる、。

謝罪できないまま反省できないままだと、
罪が赦されないままだから、、地獄行くしか無いのよね、。
神様も、無条件では、赦しは与えれないの、。
ほんの僅かでも悔いて反省する事が必要なわけ、。

うちの猫だって、、最初は強く噛んで血が出ても、、
噛んだらだめでしょ、、って言葉で叱って、
駄目よ、、、と何度も教えると、、、

次第に甘噛みになって血が出ないくらいに
噛むことを覚えてくれる、。

猫でも、駄目なことは教えたら覚えてくれるのだから
猫より賢い人は、、それこそ、猫より多くを学んで
自己反省していく、必要があるのではなくて??

感情を抑えて自己コントロールしないと、
いつも湯気プップーな人になっちゃいます。

育児するにも感情的だと、
子供は恐怖感しか持たないし、
特に女性は、猫を被る技術も必要じゃないかなぁ。

猫にゃんにゃん♪私も猫っ被り、。苦笑

口先だけ、お前、変われ、
ここ、悪いから変われと、、人に言い続けても、
自分が変わったことがないなら、、、、
出てくる言葉に説得力というものがない、。

そりゃそうでしょ、。
自己体験に基づいてないから、、机上の空論だからね、。

想像だけの理論では、現実性がないのよね、。
自分で、体験してると、そういう時は、次、こうなる流れになるから
こうすれば、良いと想うよってアドバイスできる、。

実践して自己体験による信仰生活に裏付けられたものは、
なんとでも対応可能、。
自分自身が紆余曲折しながら学んだことだからね、。

人にへりくだって変われ!というなら、
自分自身が、へりくだって、人に理由もなしに暴言は言わない、。
通常は、、大人しい穏やかな愛ある言葉を語れる者に変わらないとね、。

きつい物言いや、怒鳴りつけて上から威嚇すれば、、
言うこと聞く人間ばかりじゃないからね、。
私みたいに聖書に照らし、言い返す人間もいる、。

心にひびく言葉を発してこそ、人は変わらないと、
と心打たれて変わろうとするものよ、。

洗礼を受けようと思った初めての日を思い出したらどうかなぁ、。
餐受けた、最初の日を、思い出してみたら、、どうかなぁ、。
人にそんなに攻撃的だったのかなぁ、。

違うでしょ、。
神様の救いと愛の御業に感動して、
自分も人を愛せる人になりたいな、、と思ったのではなくて、。

普通は長い信仰生活の中で、、愛せない自分を感じ、、
神様に悔いて、赦しを乞い願って、、幾度か、そういう経験をして、、
愛せない自分自身を悟って、
イエス様に、愛せないものです、、憐れんでくださいと
全面降伏して、、人を名指しで批判なんぞ、、到底、、
出来なくなるのだけども、、、。

愛がないのに、、
愛してるから注意してるとか言えないし、、

本気で直したいというのなら、、、
その人の全部の責任持てるのか?
その人のために死ぬことが出来るか?
そのくらいの覚悟を、お前は持っているのか、、?
と父さまやイエス様から言われたら、、

申し訳ございません、、。
そこまでの覚悟はございません、。
あなたの御采配に、私ごときが口出しするのは不遜でした、。
引き下がります、お赦しください、。
と引き下がるしかない、、。

信仰の道は、、神様御自身が育て、導かれるから、、
基本的に批判するのは、、おかしいのよ、。
本人の自己選択を、、神様御自身が認め、
生きている間猶予期間を与えているのだから、。
本人が、地獄行きを選ぶのなら、それはその人の自由、。

天国を選びたいのなら、、私は自己反省したほうが良いですよ、、
地獄は自己反省すら出来難いところですよ、、と
死後の世界は、地獄も天国もない、今と大して変わらんだろ、、と、、
のーんびり考えてる人に向けて、、前もっての警告をしているだけ、。

神様に背いたままで、、
死んだ後は、すっごく大変よーーーーって、。

私は、父様と、、イエス様に意図して背くのは、嫌だけどな、、
気づかないで、、の過失はあるかもだけど、、
父様やイエス様から、間違いを指摘されたら、、
はい!ごめんなさい!って即お返事して、回れ右するし、。

私自身が、どう思おうが、どう感じようが、、
再優先事項は、、神様とイエス様、、、。
私の思うことなんかは、その後で、、、です、。
私は仕え女なのだから、それで良い、。

何をおいても、、神様とイエス様が一番上、。
聖書の御言葉、御命令、は、、神様とイエス様と同列、。
私自身の思考や想いは、それらの下、。

マグダラのマリア

自分を捨てる、。

自分を捨てる、。
難しいね、。

自分可愛いが本音、。
自分が辛くないほうが良い、、が本音、。

マルコ
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

弟子たち以外、、群衆にも教えられた御言葉、。
これね、、誰でも実践可能、、ってこと、。
特別に選ばれた人、、じゃなくても良いのよね、。

自分を捨てる、、これは、、自分の我、、
自分がこうしたいと自己中思考で思うこと、を
我慢しなさい、捨てなさいということ、。

今とは違う人を愛そうとする自分を、、
新しいソフトを自分にダウンロードしたみたいに、、
自己中な自分の思考や行動を改めること、。

自分の十字架、、
これ、嬉しくないことでもするってこと、、、
嫌いな相手でも、憎み続けない、、。
簡単に言えば、自己中な自分の思考に固着しないこと、。

執着するなら、、良いことで、執着する、。
愛し切ること、、大事にすること、、思いやることとか、。
悪い思考で人に執着しても、良い結果には結びつかない、。

そーいうのは、ストーカー行為だし、、
愛がない、迷惑行為でしかないから、、
人生、悪い方に悪い方に転がり続けていく、。

愛がある行為とは、、誰かを確実に愛し幸せにすること、。
不特定多数に、メッセージ送って注意喚起したって、
単なる自己満足で終わってたりする、。

身近な家族、、夫婦、親子、兄弟姉妹、友達、同士などで、、
愛し合う、という愛情を育てる経験が何も無い人がね、。
神様の愛を語っても、、机上の空論、。

親子愛、、夫婦愛、兄弟愛、隣人愛、友愛、、
人同士の愛が、何一つ理解できてないものが、、
どうして神様の御愛が理解できるだろうか、。

人同士の愛は、、
神様から、原初与えられたもの、、。
一旦はサタンに奪われたけれども、、

親子愛は、、アブラハムとイサク、
兄弟愛は、ヤコブとエサウ、ヨセフとヤコブの子ら、。
夫婦愛は、、御母マリアとヨセフ、イサクとリベカ、
友愛は、、ダビデとヨナタン(ホントは兄弟愛)

聖書の中で、、イエス様以前に、、多くの人が、
愛を信仰により実践しています、。
未熟だから不完全だから、愛せないだの、出来ないだの
言うのは言い逃れというものです、。

聖書中で、書かれた人たちは、、今の私達人間と同じ、
赤い血の通った人間ですから、、。

彼らが出来て、イエス様の原罪の赦しの中にある現代の人が、
愛の実践がまるで出来ないわけがないのです、。

ようは、やらなきゃと、、決める意思力がないから、
そんな怠けた理屈をこねる、。
十字架を背負うくらいの気概で、
愛そうと努力すれば、大抵のことは出来る、。

どうしても、難しい部分は、神様にゆだねるしかないけれど、、
自分で努力出来る範疇は努力し尽くすべきです、。
神様は、自助努力しないで、
棚ぼた待ってる人に祝福を与えるほど甘くないって、。
出来る限りの愛の実践の努力はしないといけない、。

身近な、家族、、
夫婦、親子、兄弟姉妹、友達、、への
愛の実践が出来て、から、、隣人愛へ、、、です。

家族大事にしてないのに、、赤の他人愛せるわけないでしょ、。
愛してますよ、、なんてね、、
綺麗事言いなさるな、。

前も書いたことあるけど、。
昔、私に、霊的に見たら醜い姿の貴女のことも愛してますよ、、と
言ってきた人が居たけどね、、。

その人が、私にしてきたのは、、霊的な攻撃だった、。
で、捨て台詞が、、熱が出るけど我慢しなさいと、。
熱どころか微熱も出なかったけども、。

私の心、、心の鏡に写った、自分自身に攻撃して、
自分自身に自分自身が放ったものが返ったのでしょうね、。

私のせいじゃないからね、。
にこにこ、。
悪意ある霊的攻撃は、、受け取りません、。
私は、、守られてるから、、、。

コレと同じことが、、ごく普通の人でも、、起こります、。

その時点で、その人が何もしてないのなら、、
何も悪くないわけで、何も悪くない人に、悪意を込めて悪態ついて、
怨念投げつけても、、怨念を投げつけた自分自身に反るだけです、。

自分で、自分にマイナスエネルギーの爆弾、
倍にしてぶつけ続けてるようなもの、、。

人へ悪念や怨念を投げて自分に戻る時は、、因果律にしたがって、
呪詛と同様の扱いになり、最低でも倍返し、。

まぁ、身体が、次第に、ボロボロになって具合も悪くなって、
運が悪いと寝たきり状態になるかもです、。

人に悪念怨念とかのマイナスエネルギーぶつけるのを
自己反省してやめたら、身体の不調も、、
かなり改善するんじゃないのかな、。

継続して怒り続け憎み、恨むのは、、呪詛と同じだからね、、。
どんな理由があろうと、父は、是とはなさらない、。
私自身、、呪詛のように憎み呪ったことへの
言い訳できるだけの要素は十分にあった、。

でも、聖書の規定に照らせば、有罪なわけ、。
心の中で、人殺ししてたというのが、わかったときに、、
ゾクッとして、そのまま罪の重さで、ぺったんこ、。

言い逃れする余地なかった、。
心で犯した罪も、手足を使って犯す罪も同じ、。
この世的に、罰を受けないで済むというだけ、。

口に入るものは人を汚すことはない。
かえって、口から出るものが人を汚すのである、。
これね、、口から出るものは、、心から出すのよね、。
だから、、心から出るものが、罪のもと、、なのよ、。

特に言葉は、心から出るものだから、、。
怨念タラタラ、悪念タラタラの記事書いたり、
人への悪態ばかり口に出して喋ってると、、、自分自身を有罪にするわけ、。

心の中に、新しい自分をダウンロードしましょう、。

愛に満ちた清らかな自分を、、、神様から頂いて、、ね、。

自力では、どれだけ頑張ったって、、
自己中な想いしか持てない、。

愛の実践を通し、神様の子としての証を神様に向けて立てて
聖霊のとりなしによって、、神様に心つながることで、、
人は変われる、。

洗礼を受け聖餐を受けたなら、、
もっと、劇的に変われるはずよ、。
己が罪を知り、死ぬほど悔いて神様と出会い
原罪からの解放、救いを得たならば、。

神様に喜んでいただける自分でいたいと、、
望むから、。
愛してくださる御方に恥じない自分で在りたいと
思うから、。

一生懸命努力できる、。

イエス様に、、豊かに赦し愛された分、、
神様を、、心から慕い愛したいと、、心から想う、。
私なんかを、愛してくださったから、。

神様に私は愛されて居るという実感があるから、、
そのことで、心は満たされて平安だし、、
子供に色々教える時間だけ与えて頂ければ、。
今すぐ帰天しなさい、と言われても、はいと言えます、。

生きることも、死ぬことも、、神様の言うとおり、。
何の不安もないもの、。

死んだあとのことも、、
肉体なんか、、ただの抜け殻だから、、
焼いて骨にして、、散骨でもいいし、、
お墓も別に維持しなくてもいいし、。
葬式もしなくてへーき、。

お坊さんの読経無くても、
私、勝手に神様の御元に一旦は還るから、。

イエス様と、、こっちに居たいから、父さまからお許し頂いて、
また戻ってくるつもりだけど、。

人間として、新生輪廻して生まれないと駄目なのかしらね、。
マグダラのマリアが、、生まれつきではないけど、、
途中からにしろ、私の中に新生輪廻してきてるわけだし、、。
彼女と一緒に、、私も、、かなぁ、。

私は、、もう、私というアイデンティティ、、
自我は、基本的に無いものとして扱ってる感じ、。

なんでも神様の言う通り、が基本思考、だもの、。
私の想いより、、神様の想いのほうが大事、。
神様の手足の一つになれるほうが、、私は良いのよ、。

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