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神様に愛され召命される人は、。
安穏と楽して生きてる人は、、お呼びではない、。
言い方悪いけど、、そうとしか言えない、。

だって、、完全に永遠に神様に従いますって
誓うほどに、、決意出来る根性ある人でもなかったら、、、
苦難のとき、、神様に不信して、尻尾巻いて逃げていく、。

人生で、、苦しみ多き人は、、自然と、、忍耐力が鍛えられる、。
すぐ、神様、、助けて、、と言わないのよ、。
あっちもこっちもだめ、となったら、神様にすがる、。

自分で出来るだけのことは自分でやるのよ、。
出来ないって、、決めつけてるのは、だめな自分を
自分にインプットしてるのよね、。
だから、どんどん本当にダメになる、。
人間の脳も身体も、使わないと衰える、。

駄目でもいいから、やる、頭や身体を使おうとする、。
自分から学んだり考えたり、前向きに努力する、。

努力と根性の人でした、。
あと、洗礼を受けたクリスチャンじゃなくても、差別しない人です、。

保江邦夫さんが、、
シスター、ベルナデッタ・スビルーの腐敗しない遺体の写真を持って、、
これはホントのことですか?と、、大慌てで、聞きに行ったときに、、

本当のことです、あの方(聖母マリア)を、
信じておいでなのでしょう?と、、シスターが尋ねて、、
信じてます、、と保江邦夫さんが答えて、、
なら、あなたは、信者ですよ、。と、渡辺シスターは答えたのだそうです、。

洗礼の有無ではなく、、信じてるかどうか、、が判断基準、。

そこ読んで、、すっごーーー。
渡辺シスターの考えに、、私は、、、もうね、、
力いっぱい同意しながら、アーメンですって思った、。

置かれた場所で咲きなさい、、のエッセイの著者で、、
有名人のシスターとしか認識してなかったものだから、、
かーーーっ、もっと早くシスターのこと、
色々知りたかった、、読みたかった、、と後悔しきり、。

でも、見えない方の左目が少し良くなってきたのは、、ここ最近。
長時間、読書ではなくても、片目にのみ負担がかかるので、
読みたい本があっても棚の中で、途中まで読んで本棚の肥やし、
になってて、

老眼鏡やルーペを補助に使ってピント合わせをすれば、
だいぶ楽に本が読めるようになってきています、。

渡辺シスターは、、苦労多き人生でしたから、、
忍耐力が、、すごい、。
御自身で勝ち気だと仰っておられたようですが、、
そこ、私、、も勝ち気なので、、親近感持ってしまいました、。

勝ち気も、、良い方へいけば、、良いのですよね、。
一旦こうと決めた信念は、、てこでも折れない、曲げない、、
鋼のような強さ、。

それも、、シスターの多くの苦労の中から、培われたもの、。

苦労して、悩み、苦しんで、その中から、、
神様に不信しかけても、、そんな自分を見つめ、
正直な思いで、神様と対峙しながら、、
神様との交わりを深めて、苦しみながらも、、
神様を求め信じ続けた、。

何度、不信してる自分を感じ、見たでしょうね、。
信じることは、、綺麗事ではないから、。
信じ切るつもり100%で、気持ちはあったって、、
実際は20%だったりね、。

自分で自分の不信仰レベルに、がっくりしたりする、。
そういう心の奥底の、不信仰な自分を、自覚できなきゃ、、
傲慢な信仰しか持てない、。

神様を信じて奉ってあげてます、、感謝しろよ、。みたいなね、。

なんで、こんな目に、、って、、
私、父さまを何度、、罵ったかしら、。
辛いって、、苦しみを悲しみを吐き出したかしら、、。

シスターも同じで、、すごく苦しんだといいます、。
信頼しているから、、信じているから、、なんでも話すのよ、。
本心から、、綺麗事の信仰ではなくて、、
真心を、、嘘なしの自分の本心を差し出して、。

前記事でも書いたけど、、
置かれた場所で咲きなさい、、は、、
咲けない自分を何度も自覚し、、、苦しんだ中から、

反対者だらけの中で、、孤独や苦痛を感じながら、、
でも、神様だけは見捨てない、、と、神様を必死に信じすがる中で、
神様に与えられた場所、そこで自分は咲くしか無いのだと、覚悟を決めて、、
出てきた言葉なんですね、。

出来ない自分を嫌というほど悟った上での言葉、、だから、、
説得力があるのですよ。
綺麗事じゃないから、、神樣への叫び、、決意なんですよ、。

置かれたところで、咲きますって、、
言い換えると、、この十字架を負いますって信仰告白、。

血を吐くような苦しみの中から、、決意した想い、。
神樣への信頼がなきゃ、、言えない、。

全身全霊で、、神様にすがって、たのね、。
シスターは、、回り、殆どが敵だらけ、、反対者ばかりの中で、、
神様だけを心の寄る辺にして、、神様を、、慕い続けた、、。

だからね、、シスターは、神様と人とに愛され祝福されてる、。
ただし、、シスターが生きていたときに関わっていた
クリスチャン関係者と修道会以外からね、、。

身内であるはずの、、クリスチャン関係者が、
こぞって敵、、爆笑です、。
内部腐敗も、、ここまでいくと、、、、。

ほんと、肝の座った図太い使命者を、
父さまは召して、送り出さないといけないのですね、。

愛している故に、、試練の中で鍛えられることになるとは、、
それもこれも、この世に迎合している
クリスチャン関係者の同胞であるはずの執拗な陰湿なイジメに屈しない
強さを身につけるため、、だなんて、、お気の毒、、といえばお気の毒、。

でも、負けれない霊の戦いなのよね、。
気づかずにサタンに負けた同胞のものらに勝つ為には
胆力、魂レベルでの強さががないと、、負けるから、、。

渡辺シスターは神様の御心に添って生き、、
この世の権威に、巻かれて、、負けなかったから、、
神様に愛されたのですね、。

信仰の道は、、楽じゃない、。
神様に愛されてても、この世で楽ができるわけじゃ無い、。
重荷を負って、、歩くにも等しい、。

でも、イエス様が、、共に負って助けて下さる、。
父さまも側に居てくださる、。
私は独りじゃないから、、私は、、頑張れる、。

私、修道女にならなくて良かったわ、、。
もっと、まともなところもあるのだろうけど、、。

綺麗事は言うけど、心の中は、、陰湿いじめ、、
自分がされたから、自分もするってのが、、
伝統化してるのでしょうかね、、。

ふふ、、それじゃ、力づくの支配で、、サタンと同レベルね、。
私に命令できるのは、、私の父と主イエス様だけです、。

人間相手は、、、道理が通らない相手なら、、、私は知らない、。
気が向かないなら、、相手にはしない、。
相手にするな、、と言われているもの、。

マグダラのマリア

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昨日、
中古本を頼んでたのですが、、病院に行く寸前に届いて、
病院に持っていって、、老眼鏡かけて読みました、。 

修道会には、、陰湿な先輩からの後輩いじめがあるようです、。
ちょっとがっくり、。

お皿を何度も並べさせられて、ダメ出しの連続、、
寸法を測って均等に並べても、ダメ出し、。
困り果てて、どうしたら良いですか?と
一番格下の渡辺シスターが尋ねたら、、

最初から、そうやって聞きに来たら良いのです、。
こうやりなさい、、と言いながら、

お皿を、テーブルの上にポンポン並べておいて、、
貴女には適当に置いたように見えるでしょうけど、、。
美味しく食事が戴けますようにと祈りを込めて
置いてるのですよって、言ったとか、。

はぁ?だったら、なんで、一度目のダメ出し後に、
貴女はどのような思いで、お皿を置く作業をしましたか?
と聞けばいいじゃない、。

修道女としての仕事以外に学長としての仕事もしてて、
睡眠時間がろくに無い人を何度もダメ出しして、、
追い詰めるやり方は、意味わからん、。

渡辺シスターは、学長に抜擢されたことを妬まれて、
相当に反対派からも粘着質ないじめを受けたようで、、。
修道会内からは下っ端として意地悪をされ、
板挟みの生活、。

楽じゃない、、人生でしたね、。
良く耐えてこられたな、、と、。

置かれた場所で咲きなさい、、は、、
咲けない自分、、なんでこんな目に、、と想う自分を
何度も自覚し、見つめながら苦しんだ中から、

神様だけは、、と、神様にすがる中で、
出てきた言葉なんですね、。
涙が出ました、。

修道会の上の者には絶対に服従っていうの、、
クソくだらない規律だな、。
実際、神様に真実献身したいと思う人は、、命令されなくても、
自発的に従うんですけど、、

強制的に命令するやり方って糞だと想う、。

一番疑問に思ったのは、
母子が無理心中をしようとして、
最後に、私達のために祈ってくださいと、教会にやってきて、
神父さんが、教会に来た訳を知って、、思いとどまらせようとしたけど、、
助けてくれる人も、いないから死ぬしか道がないんです、、と

祈ってもらった後、出ていこうとして、、
神父さん、、イエス様の前にひざまずき十字を切ってから、
その女性のもとへ駆け寄って、僕があなた方を養います!と言って
プロポーズしたのだといいます、。

司祭は叙階前の助祭なら、結婚しても良いけど、
司祭は結婚は認められない、。、
だから、この神父さんは破門されたそうで、。

母子を養えないと困ると、訳を聞いた渡辺シスターは、、
うちで教授として働いて下さいとお願いし、反対する人たちには、
何かあったら私が責任を取ります、。と
批判に折れたりせず、頑として言い放ったそうです、。

神父さんの行動は、人として間違っていない、。
人の命を救おうとしての行動だから、、、。

私は破門を取り消して、謝罪すべきだと想う、。
見た目で判断したのは大間違い、。

児童虐待、異常行動する司祭のことは擁護するくせに、、
人命を救った司祭のことは見捨てて破門するんだ、、。
カトリック、してること、おかしいよ、。

こう言っちゃ悪いけど、、馬鹿なの?
イエス様の御命令と逆のことしてどうするよ、。

イエス様は悪を退け人を助けるように仰ったのではなくて?
なんで、隠れて悪を行う悪人は擁護するの?
疚しいの?弱み握られてるのか?

私の感覚がおかしいの?
私は私が、おかしいとは思わない、。

規則や規律は、より良く人が生きるために必要だけれど、、
でも、人命が関わるときに、、
例外措置という形で温情をかけられないの?

渡辺シスターが助けなかったら、、母子と司祭はどうなってたやら、。
収入がないのなら司祭と言えど、霞は食べられないもの、。
母と子の人命もかかってる、、それ考えたら、破門しないと想う、。

渡辺シスターが居なかったとしても、、
私の知る父なる神様は、、
絶対に、、彼らを見捨てなかったと想うけど、。

信仰者というのは、、
洗礼受けてれば良いというものじゃない、。
神様の御存在を確信持って信じてるか、、、に尽きる、。



悔い改めるから赦されるのだけど、、
赦されたいから、、悔い改めるのであって、。

先んじて、神様の赦しが、、存在しているから、、
自分の罪に気づいたときに、、人は悔いようとする、。

赦しが、、元から存在しないのなら、
悔いることはしないです、。

悔いて赦しを乞うべき相手が居ないのだからね、。
悔いようがない、。
人は、、何も聞かないうちから知らないうちから
神様が愛と赦しと裁きの権威を持つ御方だと知っている、。

だから、通常、罪を犯せば、罰が下ると想うし、悔いることもする、。
悪魔悪霊のそそのかしに乗って、、
このくらい良いだろう、、と罪に鈍感になっていくと、、
悔いることもしなくなるけれど、。

それは表面意識だけで、、
自己の魂は、肉体の死後、厳罰を自分自身に課す、。
神様に赦されて、赦しの実感、、
心の平安を与えられない内にこの世を去れば、、
人は天の国には行けないです、。

霊界で神様の御元に行くかどうかは 本人と本人の魂がが決めるからです。
罪が赦されていないと 自己の魂は自分で自分を裁き続けるので、、
修羅のような霊界、地獄にいきます。

そこが、、居心地がいいと想うから、、。
地獄を、、自分で、、望んで、自分で堕ちていく、。
神様が、地獄へ追い落とすわけじゃない、。

人をゆるせないで裁き続ける人というのは、、
赦しの実感がなく、自分の心に平安がなく、修羅の心だから、、
自分の荒れた心そのままに、、人を憎み批判し攻撃する、。

神様の、赦しと、恵みは、、言葉に形容し難いくらいに、、
ありがたく、、喜びがつきない幸せ感、。

罪が深ければ深いほど、、赦されたときの歓喜は大きく、、
神様に従いたいと想う気持ちは大きく強くなる、。
悪党ほど、善人に化けれる、。笑

罪の根っこは、イエス様に切り取られて、無いとみなされて、
イエス様なしで、、神様なしでは生きられない、。
神様に右、、と言われたら右に行くし、、
左と言われたら左に行きます、。

なんであれ、神様の言うとおり、。

イエス様は、、先に赦しなさい、、と御命令になっています、。
主の祈りから、。

わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

赦しましたように、、赦しました、と過去形なので、、
自分が赦されたいのならば、自分が先に人を赦さないといけません、。
自分が赦さないのなら、、悔いても何をしても赦されないのですから、、
自分が人の過ちを赦してのち、自分の犯した罪を悔いて、赦しを乞うのです、。

いくら悔い改めても、人を赦さず憎み裁いていたら、
自分の修羅の心そのままに地獄行きです、。

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