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エマオの二人の弟子2

前記事 エマオの二人の弟子の続きです、。

ルカによる福音書より
エマオで現れる
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24:29 二人が、一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

24:44 イエスは言われた。わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

◆天に上げられる
24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。



ーーーー
エマオの二人の弟子、、
一人は、クレオパ、もうひとりは、前記事で書いたように、
クレオパの妻マリア

クレオパたち、、イエス様から、、直に話を聞いて、、
当時は、隠れた比喩も、、ツーカーで相互理解できる状態で、、

それなのに、、イエス様から、こう話を聞いた、と、
一言も話して無くて、パンを裂く様子を見て渡されて、、
気づいた、、、、と書かれただけ、。

イエス様からパンを受け取るまで、気付かなかった、、のね、。
パンを受けたときに、、最後の晩餐が脳内で、
オーバラップしたのでしょう、。
それで、あれ、見たことある、、と気づいて、イエス様だと、、気づいた、。

見ないで、信じるものは、、、幸いです、。

彼らが、イエス様から聞いた聖書のすべての解き明かしを、
他の弟子に話そうとしなかったのは、、、クレオパたち自身が、
信じ切れてなかったからでは、。

教えられたことの価値が理解できてなかったとか、も、、。

もしくは、、他の弟子たちに話したら、
嘘つけ、と、聞く耳を持たないか、、、、、
実際見ても、まだ、他の弟子らは信じなかった、。

マグダラのマリアのときのように、聖書を理解して、知りすぎても、
カルトだの異端だのと、女だからという理由で非難されるから、

クレオパと、妻の二人だけに現れたのはずるい、
おかしい、ありえない、、と、妬まれるとか、、

いろいろ彼らは思考したのかもです、。

確実に言えることは、、何らかの人側(弟子側)の理由があって、
イエス様によって、クレオパに直に伝えられた
聖書の内容、奥義、、は12弟子たちによって、
無視されたという事実、。

復活されたイエス様と出逢い、聖霊を受けてからでさえ、
書き残したりさえしてなかった、。
それか、残されたものが幾分はあったけど、隠蔽焼却されたのか?

クレオパは、イエス様の養父ヨセフの兄弟クロパ、、
イエス様の父方の叔父、、イエス様より歳上の親族だから、、
イエス様の御言葉、優先、、、とは出来なかったのかもです、。

イエス様までの常識や、、弟子たち同士の慣習の方を、
優先したのでしょう、。

だから、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者 と、イエス様にお叱りを受けています、。

イエス様の御言葉は、人の言葉ではないので、
いくら、イエス様の親族でも、
御言葉の優先順位は守るべきでしたね、。

聞いたこと無いことは、、理解不能なことは、すぐに
認めない、、という部分は、12弟子と言えど
ファリサイ人らと同じなのかな、。
イエス様が好きという部分で、心を開きやすいとは想うけど、。

ほんとうの事を知らせると困る弟子や、人、もいたのでしょうかね、。
現代でも、聖書のことで、本当のことを言えば 、、
言っただけ異端だと中傷される、、。

都合が悪い人もいるから、。
聖人や、12弟子、は褒め称えて当然?

いんや、、神様が直に義人と認めたのはアブラハムだけ、。
アブラハムは、自分の子供を殺そうとした時、
半分は、気がおかしくなってたと想う、。
悲しくて、苦しくて、、心は、ボロッボロだったと想う、。

それでも、神樣への信頼ゆえに、、、
それだけを支えにして信仰を立てた、。

半分は、人から、アブラハムは、
気が狂ってると思われても、しょうがない、。

んなこといったら、アダムは、死んでもいいから、
エバと一緒に居たいから、一緒に知恵の身を食べる、と、思い食べた、。
死んでもいいから、、の部分、、、、
気がおかしいから、死んでもいいと思えるのでしょ。

信仰を立てる人は、そういう死んでもいい、、
一種の気がおかしくなるくらいの、、
真剣さで、神様に従おうとするのかもです、。
クリスチャンの語源は、、キリスト馬鹿、、ですからね、。
イエス様のためなら、、キチガイになれる人のことね、。にこにこ、。

私、、キチガイになれる、自信ある、。笑
愛してるイエス様のためなら、死んでもいい、。

イエス様のために、思考が馬鹿になるくらい、
信じて、したがって、自分を捨てて、イエス様に、ついていく、。
いいんだ、それで、、

息が出来ないほどの地獄の苦しみから、、
救い出して頂いたから、、、
命かけても、、、惜しいとも思わない、。

どうせ、いつかは、人は死ぬ、。
あの時、半分は、私は死んでたんだから、
残り半分の命を支えて、、生きれるようにして下さってるのは、
イエス様だもの、。

イエス様のためになら、私が死んでも、生きても、、
同じなのよね、。
地獄にいこうが、天国に行こうが、気にならない
今の平安は捨てがたいから、、。

イエス様にぜーんぶ、かけてる、。笑

イエス様だって、キチガイ扱いされたのよ、。

マルコ
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

疑わないで、信じ切るのだって、ある種のキチガイだからね、。
素直すぎる、、みたいな、。
単純で騙されやすいと言おうか、、。
前の記事で書いた、、正しくない選択をした人はね、。

こういう精神がキチガイ状態のまま、堕落したのよ、。
正しさを見失ってね、。
キチガイに近い状態になっても、
たとえ自分を見失いかけても、、

神様を、、じっと、見上げて、、神様だけを見つめてたら、
道は踏み外さないで、、とどまれる、。
神様に絶対の信頼を置くなら、、疑うことなく、、信じれる、。

弟子たちが、、聞いてすぐ信じれなかったのは、、、女とは違う、。

女は、ほぼ感情論だもん、。
好きなら、信じるし、、嫌いなら信じない、。
それもまた、エバみたいに、
感情論でそうしたら、失敗するのかもだけど、。

でも、私は、、、、その直感で生きてきたから、。
今は、もう、それでいいかな、、、笑。

好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌い、。
真ん中は、何も思わない、ごく普通の常識的対応をする、、。
大多数はこれに入るけど、。

自分に好意的なら、気にかけるし、
そうでなく批判的なら、、何らかの理由がない限りは相手にしない、、。
自分のこと気にいらない人と話しても、埒あかないですもの、。
聞く耳持たないでしょうし、、
私も、耳を持ちたいとも思わないし、。

一心不乱っていうね、。

信仰とは、狂おしいまで、神様を慕い求める心を、
持ち続けることなのよ、。
気がおかしくなる一歩手前まで、、神様を切実に求めて、、
求めて、求めた先に、、得る平安、。

私は、、救われたとき、、
地獄に行くようなものだって、、
自分自身をとことん責めて、呪って、憎んで、
ある意味、気がおかしくなるくらい、自分を追い詰めて、
自分自身の心を殺すことまでした、、、。

神様のために、自分を殺した、。
自分なんて、死んでもいいから、、と自己裁きで、、
自分で自分を追い詰め殺すのも、、
ある意味、気がおかしい状態でないと、出来ない。

自分に死ぬ、のは、地獄に落ちる覚悟がいることだからね、。
地獄に堕ちていいと、、、想うのも、
気がおかしくならないと思わない、。

その気がおかしくなりそうな、、刹那のときに、、
神様との邂逅が開ける、。
不思議なことだけれど、。

そこまで、自分を追い詰めたら、
こわいものがなくなるからね、。

地獄に行くどころか、、
自分の肉体の死すら、、魂の死すら、、
御心のとおりに、、と思う、。

神様とともにある、、という、
究極的な平安があるので、、
気になるもの、心が乱れるもの、がない、。笑

信じるって、、一心不乱に信じるべきで、
疑う余裕なんかないのが、、当たり前なんだよね、。
なんで疑ったんだろう、。
イエス様を直に見て、触れて、知りながら、、

いや、直に触れて、見て、知っていたゆえに、
疑って、信じきれなかったのだろう、。
共に、、生きている記憶があるゆえに、。
わかるはずがない、、と、。
先入観が邪魔をした、。のかもしれない、。

マグダラのマリア

移転のお知らせ
コメントと記事が投稿できなくなる8月末までは、
こちらと、ここと両方に居ると想いますが、、
9月1日以降は、、お手数ですが、、
↓こちらの方においでください、。

☆マグダラのマリアの部屋☆ 




エマオの二人の弟子

記事引用元
エマオにて、、。ルカ書24章・・ ふたりの弟子は誰だったのでしょう。
http://yhoshuah777.blog.fc2.com/blog-entry-220.html


ルカによる福音書より
エマオで現れる
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24:29 二人が、一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

ーーーー
エマオの二人の弟子、、誰でしょうね、。
一人は、クレオパ、もうひとりは、なぜか、名を伏せられた、。
つまりは12弟子の誰かではないということになる、。

普通は、弟子と書かれていたら、
12弟子のうちの誰かを想定するものだけれど、。

簡単に引用しています、。
引用元様の方へ行かれて、
詳しい解説のほうはお読み下さい、。

引用元様の記事によりますと、。
自分たち二人と一緒に、、と、引き止めているので、
二人は家族であり、泊まった家は、彼らの家であること、、

クレオパとその家族、、
息子のシメオンか、妻のマリア、。



議論していたことから、、
子供は、父親と議論したりはしない、。
自分の子と、当時の家長の権威によるなら、
聴くことはしても、あれこれ自由に
言い合えるような慣習はなかった。

結論としては、
クレオパと、その妻マリアだと、、いうこと、。

このことを踏まえて、、、
なぜ、クレオパとその妻と書かれず、
名前も性別もわからないように弟子、と書かれて、
すべてが伏せられたのか、、を、思考してみると、。

名前と性別が、伏せられたのは、、、
女性をイエス様の弟子として、、
記録したくなかったからではないか
という結論に達した。

マグダラのマリアを排除したことといい、、
イエス様が女性を弟子として、みなしていたことを、
隠しておくために、そのように、
わざと記録したということになる、。

なぜなのだろうか、、

ユダヤ教とキリスト教のというか、
ユダヤのラビたちとユダヤ教徒と
ユダヤ人であるイエス様の女性の扱いとが、、天地ほど違う、。

イエス様が、当時のユダヤ人からは、、
フェミニストに見えても、おかしくないです、。
もとが、ひどすぎたんです、、。


13世紀の高名なユダヤ教神学者が、、
↓このように言ったそうですけど、。

「創造において、女性は重要性を持たなかった。
女性は主役にしがみついて離れないのようなもので、
男性に使われるために男性から取られたのだ。
女性は、男性の特別なパーツの一つとして使われる時に、
使われる者として特別な者となる」

ヒルって、比喩、、なによ、。
使われるため?はぁ、女は男の奴隷か?
パーツって、、女は、男の何かの部品?

なんか、これ、知ったことで、、ちょっと腹が立ちました、。
男尊女卑思考でしょ、、これって、。って、。
男女の、愛情的つながりを感じれる表現が全然ない、。
なんじゃこれ、。と思い切り想った私、。

そりゃあね、。
罪のもと、原罪を作ったのはエバとサタンだけど、。

ミドラッシュ・ジェネシス・ラバー17で、、
「エバが造られると、エバが関わってサタンが造られた」
って、サタンが造られたのは、エバのみのせいになってる、。

たわけ、。
その原罪を犯して霊的に死んだエバを愛して、
エバと一緒に死ぬことを選んだのはアダムなんだよね、。

第一テモテ
2:14 しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。

アダムは騙されなかった、わけだから、
意図的に原罪を犯したわけ、だまされて罪を犯したエバよりは
エバへの愛情故に罪を犯したアダムは、罪だと、サタンの嘘だと
わかってる上で意図的に神様を捨てた。

創世記
お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。

アダムは、サタンの言葉に従ったのではなく、
エバの言葉に聞き従い堕落した、。

エバは、自分が先に神様に背き、夫アダムにも知恵の実を与え、
2つの罪を同時に犯した。
エバはサタンに魅了されて、アダムとサタン、二人の夫、
を持った状態になったから、それは2つの心を持つエバ、2人分のエバ、

だから、使命者は、、
二人の妻、複数の女性を、夫としておさめないと、いけなくなった、。
アブラハムは、サラとハガル、、ハガルが
家から追い出されたあとは、サラとケトラ、、。

イサクは、、リベカと、聖書には書かれていないけど
リベカの侍女。
リベカが、本当に双子を産んだのなら、
次男のヤコブをえこひいきするのは不自然、。
彼女はエサウの実母ではないかと想っている、。
いくら自分に仕えていた侍女の子でも、自分の子ヤコブが出来たら、
ヤコブのほうが可愛い、。

ヤコブは、レアとラケル、側女として、ビルハ、ジルパ
モーセは、ツィポラ、クシュの女性、。


アダムは、エバを愛して、、死を超えた、、。
イエス様は、、全人類を愛して、、最愛の人、
マグダラのマリアとの結婚を犠牲にしてでも、、死を超えた。

なのに、、ユダヤ人の男性は、女性を、男性の付属物、
おまけ程度にしか思って無くて、、、ヒルだの、パーツだの、、。
超、、ムカつく表現だこと、。

自分が必要時には特別な人だけど、、、
要らなくなったら、、離縁状(ゲット)を与えて、
即離婚とか、ヘーキでしてたのね、。

イエス様が、
「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。
言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」

それは姦淫してるのと同じだと、
仰ったら、 弟子たちは、
「夫婦の間柄がそんなもの(離縁するような不法な結婚)なら、妻を迎えない方がましです」と言った。

でも、実際に、そんなもの、に近いものだったのよね、。
夫は妻に離縁状を渡せば、自由に離縁できる、。って
思ってる人がいたわけだから、。

ユダヤではイスラムと同じく、
離縁する権利は、通常男性からしか許されていない、。
妻側が、それをする場合は、ラビに申し立てて、ラビが認知した場合のみ、
夫にゲットを強制的に書かせることが出来る、。

前に記事にしたけれど、。
イスラム法に基づく離婚の場合、、
夫は離婚の意思タラークを3回示すだけで離婚が成立する。
本来は、3回言うまでの期間がそれぞれ30日間、
合計90日後に、離婚の手続きと定められていた、。

イスラム教の聖典コーラン(Koran)は、離婚の手続きには90日間が必要と記している。最初にタラークを伝えてから30日後に、もう1回、さらに30日後にもう1回通達する。
こうした猶予期間内に、夫婦が結婚生活を見直し話し合って、離婚という結論は避けるよう努力すべきということなのだけど、、

努力しないで、、タラーク タラーク タラークと書かれた手紙を渡して、離婚という状況下に置かれた女性は、、4000人のうち、500人、。
8人に1人は、そういう理不尽な離婚を強いられた経験が在る、。
トリプルタラークと言うらしい。

人道に関して、うるさい、今の時代で、これだものね、。
昔は、どれだけ、好き勝手して、出てけ!!って、、
離婚したかわからんね、。私、、日本人で良かった、。

お、、2017-08-22 に、
インドの最高裁で、トリプルタラーク禁止令が出たらしい、。

えらい、えらい、。ナイスナイス、。

蛇足で、、
現行のユダヤ法では父親がユダヤ人でも
母親が非ユダヤ人の場合、子供は、、
ユダヤ人ではないと定めています。

母親がユダヤ人なら、確実にユダヤ人の血は受け継がれていく
と考えているわけです。
というのは、建前的思考なのか、、、、。

子供の父親が、、だれなのかは母親以外は、、
本当に分からないから、というのが、、
ユダヤ教の本音の考え方のようで、、、、
疑い深いというか、夫婦の信頼関係スタート時点から
破綻してるの前提なわけ??って想うわ、。

ユダヤ教の家庭教育は母親が子供に教える役目をになっているから、
母親が、ユダヤ人でない場合、子供をユダヤ人として教育
できないという認識も関わっているようですけど、。

それで、母系重視、、母親がユダヤ人でないと、
父親がイスラエル人であっても、
ユダヤ人と認められない人が出てくるわけです。

それでなのか、、イスラエルでは、、
亡くなっている男性の冷凍保存されている精子などを利用しての
体外受精の費用が国の保険で全額、賄われるのだとか、、。

対象は18〜45歳の女性で、現在のパートナーとの間に、
2人の子どもを出産するまで、、、
何度でも体外受精を無料で受けることが可能だとか、。

不妊治療中の女性は年間最大80日の有給があたえられるとか、
なんか、女は、なにがなんでも子供産まなきゃ役立たずと
いうような、、風潮が感じられて、いやだなぁ、。

古い時代なら、なおさら、まだ、子供出来ないの、、と、
舅や姑、親族から言われて、
嫁は、、嫌な重たい気分になったのでしょうね、。


イスラムも、ユダヤと同様、、
女性からの離婚は、夫の長期の不在や扶養放棄、
暴力など特定の理由が裁判所で証明されなければ認められない。

日本にも離縁状あって、三行半と言われていたけど、
「其方事、我ら勝手につき、このたび離縁いたし候、しかる上は、向後何方へ縁付候とも、差しかまえこれ無く候、よって件のごとし」
こういうような内容の文で、、、

ようは、他の人を見つけて再婚しても良いよ、。
自分は口は出さないよ。早く良い人を見つけて家から出てってね、。
という再婚許可証、でもあったから、、まだ人道的、。

イスラムのように、ユダヤのように、
すぐに追い出したのではなく、次の人が見つかるまでは、
追い出すことは猶予してた、。

ユダヤのラビは、服装が乱れてるとかで、目についた
女性に唾をかけたりしたらしい、。

慎みの無い女性に唾を吐くのは、
優れた善行だと考えられていたそうな。

彼らのそう考えた根拠聖句はこれだろうけど、。
シラ 
26:22 売春婦は、唾をかけられて当然であり、/人妻との浮気は死への落とし穴である。

イエス様は、姦淫の女性に唾を吐いたりしなかった、。

ラビたちや、ファリサイ人たちは、つばを吐いて、
罵りながら引っ立てるようにして、
イエス様のもとに引きずるようにしてつれて来たのだろうな、。

イエス様は、(彼らは自分に罪があるから石を投げれなかった。
わたしもあなたを罪に定めない。(石を投げない)行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。

ならない、なので、禁止の命令形ですね、。
罪を犯して、、その罪を赦されたなら、、
同じことはしないように、、
精一杯の努力はしないとです、。

イエス様は、虐げられて、人権もない状態の女性を、
男性と同じ、人として扱い、、弟子としてみとめ、
使えるものでも仕えるものでもなく、
愛するもの、として、愛して下さった、。

ユダヤのラビたち始め、
愛情抜きで、、聖書の字面だけを読んで
思考を重ねてきた、その感覚で出てきた答えは、
ちょっと、、かなりおかしい、。

女性は使うものではないし、ヒルやパーツでもない、。
男性と同じ人間です!

赤い血も流れているし、、心も在る、。
感情も在る、。どんな扱いされても、
慎み深く黙ってろなんて、、、、誰が従うか、
ばーろ!!って、、、私の中で、私が絶叫しておりますです、。

めっちゃ怒ってます、。
おとーさん、、ユダヤ人、、嫌いじゃないけど、、
こう言う差別思考する人は、私は大嫌いです!!

赤の他人にいきなり道歩いてて、
かつらが、髪が、スカートが、、ズボンが、見苦しい、と
文句言われて、唾吐きかけられても、我慢しないといけないの?

「なすべき家事をするのを拒否する女性がいたら、棒で打ちたたいてでもやらせるべきだ」(イシュット21:10)。

いきなり暴力?、話し合いはしないの?
なんで家事したくないのかくらい聞けば、
棒でうち叩かれたら、もっと、心は離れてくのではなくて、。
行いに愛がないと、虚しいね、。

ユダヤ教の超正統派では、、、男女が厳しく区別されている。
男性はほぼ一生をトーラーの研究に費やし、学問にこもり、
女性はトーラーの研究のような難しいことには
向いていないとされ、外に働きに出されます。って書いてあって、。

はぁ?ようは、男の人は女性のひも、、?
女性に外で働かせて、男は主夫するわけ??

女性の平均出産人数は6人から9人、。
仕事して、、子供の教育もして、家事もさせるわけ?
言ってること御大層な割にしてること真逆じゃん、。

ユダヤ教にもいろいろ宗派があるようで、、過激というか、、
聖書に違反してないか、タブーが、てんこ盛りなんだとか、。

イエス様を信じたラビたちは、この世的に有名でも、
ユダヤ世界では無名で、、誰も名前さえ知らないのだとか、
インターネット使わない、。外界とかかわらない、干渉しないと
いう風潮の宗派のほうが多いからだとか、。

ラビに、イエス様を信じた人が、、居たという事実を
国民に、知られたくないのだそうです、。
なので、非常に閉鎖的、。

知らなければ、、
子供が多いのは当たり前、、
男が働かず、女性が働くのは当たり前、。
叩かれても、離婚を強いられても当たり前、、と思うのか、。


イエス様が属していたと言われる、エッセネ派は、、、
入団資格の審査はあるけれど、
男女の大きな差別はなく、、。

普通は婚姻や性欲を不浄とし、
生涯独身を通す人が多いが、、、血のつながらない
子を引き取って我が子、後継者として養育していたので、
稀ではあるけれども、もし、教団内で望むもの同士がいたら、、
結婚もするし、子を生む、ただし、
それは純粋に子を残すためであり、快楽のためではない、。

自給自足が基本だから、みんなで、何かしら、労働し、
個人の財産はなく、財産もみんなで分け合って、
共同生活のコミニティを作っていた、。

「神殿によらずして神に仕えることができる」と、
自分自身を清めて、神樣への捧げ物としていた、。

エマオの二人の弟子、、クレオパの妻マリアは、
夫と議論も出来てて、仲も良く、子も居たのだから、
閉鎖的思考のユダヤ人ではなさそうで、、良かったです、。

義に偏りすぎると、、悪になるんだよねぇ、。
陰極めれば、陽となり、。、陽極めれば陰となる、、で、、
真ん中思考、、ほどほど、が出来ないと、、困るねぇ、。

やりすぎ、、過激、過度、、キチガイレベルになっちゃうもの、。
私、、こういう、おたんこなーーーーーす、。
にはなりたくなーい、。

本人は、正しいつもり、真剣に、
めいいっぱい頑張ってるつもりだから、
面倒くさい、。

神様に訴え得るだけの清さなんか、、
自分にはもともとないって、、スパッと諦めるか、、。
変な努力なしで、ありのままの自分を、
大事にすれば良いのに、。

不必要な努力してどうするのかなぁ、。
愛情と、思いやりと慈悲と、、信仰と、
食べて生きていけるだけのお金と住むところと、着れるものとが
あれば、他、要るものないでしょ、。

聖書すり減るほど読んでも、暗唱できても、、
自分の伴侶への愛情もなく、
アブラハムがイサクを死ぬほど愛しているけど
捧げた、その愛と苦悩のこもった信仰からも程遠いのは、なんで、、、。

聖書やタルムード死ぬほど読んでも、覚えてても、
女性を虫けら、ヒルにしか見ないのなら、、
神様も、、その人が他の女の人にしたように、、、
虫けらのように扱うわよね、。
目には目、歯には歯、、等価の償いが基本だから、。



風邪引いてるので、、疲れやすいのが難点、。
お掃除、休み休み、やってます、。
熱が出てないだけ、運が良い、。
ゴミが、、、出る出る、、苦笑、。

マグダラのマリア



移転のお知らせ
コメントと記事が投稿できなくなる8月末までは、
こちらと、ここと両方に居ると想いますが、、
9月1日以降は、、お手数ですが、、
↓こちらの方においでください、。

☆マグダラのマリアの部屋☆ 


女と妻

昔は、単に女とだけ書かれているものを、
女と書かれてたものの前後の文章の状況により、
妻と訳したり娘と訳したり、してたのですよ、。

口語訳だと、そのまま女と訳されてますけど、。

口語訳
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいてを見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

新共同訳
マタイ
5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人のを見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

新共同訳の、、みだらな思いで
他人の妻を見る者はだれでも、、、の訳のほうが、
世の男性には救いです、。

女ではなく既婚の女性、妻と訳す方が正しかったのです。
今までが誤訳を使っていたということ。
土台、自然の摂理に反する訳だったのですから。
刷新されて良かったですね。

最初の口語訳の聖句だと、、
若い未婚の女性を見て、綺麗だな、、と思っても駄目!
結婚したいな、、と、ちらっと思うことも駄目!って
ということだから、

未婚の若い男性信徒の中には、、
水行して、雑念を払おうとする人まで居たとか、。
男性の生理的欲求をね、、押し込めても、辛いわねぇ、。
若い時は特に、。

イエス様の時代のバルミツバの成人の儀式は、
今でいうと満12歳くらいで、小6から中1くらいで、
今より栄養事情も悪く、、まだ発達しきっていないので、、
今でいうと16歳前後に、異性に関心を持ったかな、、と思います。

イエス様の時代は、、既婚女性は、ベール被って、
足元まで覆う長い服を着て、既婚だぞ!ってわかる服装してたから、。
そういう既婚女性相手に、淫らな想いを持つものは、
既婚男性で、浮気願望在りの男の人です、。

ダビデ、、人妻だと知った上で、、
バト・シェバを召し出したでしょ。
人妻のほうが、、子供出来ても夫の子と言い張れるし
子が出来た場合でも親としての責任を取らなくて良いし、
都合が良いわけだから、、、。

ところが、、ダビデの場合は、予定が狂った、。
人妻のくせに、、バト・シェバは、、バージンだった、、。

バト・シェバはバージンだったから、、
彼女の夫は戦地にいるウリヤ、、で、、ダビデとしか通じてないから、
子が出来ました、、、と父親を断定して、ダビデに言えたし、、。

ダビデも、、彼女と通じたときに処女の徴があったから、
自分が父親じゃないとはいえない、。

だから、策を労して、ウリヤを戦地から呼び戻したりしたけど、
ウリヤは新婚なのに、律法通りに妻の元に行かず、、
で、ダビデは業を煮やして
ウリヤを戦死させるように命じて、そう仕向けたわけだけれど、。

王様で、既婚者のダビデが、、人妻のバト・シェバと浮気したからね、。
家臣も一般人も、普通に浮気してたでしょ、。

バト・シェバは、誓いの娘、という意味、。
彼女はエリアムの娘で、神様の言葉を聞けるアヒトフェルの孫娘、。
アヒトフェルは、祭儀のようなことが出来る立場であるからレビの血筋でしょう、。

ウリヤは祭司の家系の名前、
彼は、ユダとレビと、ヘト人との混血であったのでは、。
レビの血筋がゼロなら、アヒトフェルが孫娘と結婚を赦すわけがないから、。

彼女は、エリアムが、なにか誓願をして生まれてきた娘なのかも知れない、。
本来なら、、ウリヤと婚約せずに、未婚のままでダビデと会えてたら
ウリヤも戦死せずに済んだでしょうね、、。

ウリヤ、とっても、かわいそう、というか気の毒なんだけど、、。
真面目な生き方しても報われなくて、、妻にも、上司ダビデにも
裏切られてたわけだし、。

ウリヤ、婚約結婚だけして、
まだ新妻のバト・シェバと一緒になってなかった、。

未婚男性は、、戒律あるから、
浮気、、なんて、わざわざ思わないし、。 
顔や手足を出してた未婚女性がターゲットだった。
それでも、、結婚したからって、むさぼらないで、、
自分は戦士だから、、と自制してたのね、、。

自制出来なかったのは既婚者であるダビデの方、。

マルチン・ルターは、40過ぎて結婚するまでは苦しかったでしょう、。
口語訳
第一コリント
7:9しかし、もし自制することができないなら、結婚するがよい。の燃えるよりは、結婚する方が、よいからである。

新共同訳
第一コリント
7:9 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。

自制できないくらいに好きな女性が居たり、情欲を抑えれないのなら、、
変な情欲の処理をして他人を巻き込んでしまうより、、
罪を犯さなくて良いのだから、結婚しても良いわけです、。

結婚したら、、罪にならなくなるとルターは考えて、
他の枢機卿仲間にも、、結婚を勧めたのですよね、。

人妻や未婚の女性でなく、自分の妻相手なら、、いくら大事に思っても、
子を作っても、アダムとエバが多くの子を得ているのだから、、
悪いこととは誰も言えない、。

カトリックの司祭、結婚許可したらどうかしらね、。
正教会は、輔祭叙聖前なら、妻帯できるわよね、。
そのまま司祭にもなれる、。

カトリックは、妻帯したいなら終身助祭の職位までしかなれない、。
司祭になりたいなら、、結婚できないわけで、、
自然の理に反してることを守ろうとしても、、それは、無理だって、。


創世記
6:16 箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。

箱舟は3つの階層にわかれてました、。

洪水は、清めの水、聖霊でもありますが、
羊水の象徴でもあります。

羊水は、この世と神様のおいでの世界、霊界の境目にある、。
橋渡し、の水、。

箱舟は神様の創造された全世界の象徴で、
1階は物資世界、2階は地獄界を含む下層の霊界、
3階は広義的な意味では霊界に入るけれど、
本当の意味での天国、、神様と永遠に共にあれる世界。

箱舟の3つの階層の部屋の存在理由、、
神様と人との儀式的契約、、
絶対に存在しなくちゃならないもの、、3つの象徴。

この世である物質界、地獄界を含む下層霊界、
神様の御許、霊界の上層世界である天界、この3つの世界。

神様がノアに、命じたのは、、
神様が創造されたのは、、3つの階層が在る世界、、
それを水(聖霊)で清めること、。

ノアの箱舟が、、単なる物理的な箱舟の話だったというのなら
もっと階層があっても、よさそうなものだけれど、。

世界中の動物が、つがいで入ったにしては、ちょっと手狭、。
すべての動物のための干し草や、多くの果物、。
干したもの、飲み物、水、、、
長い間の飲食料が大量に必要なわけだし、、、

黄金比率で作られた箱舟、神様の叡智によるもの。
神様の指定は3階建て、、、。

この3つの階層は一体、、
みいつの神様が、お一人であるように、、
3階の建物全部で、一つ、。

箱舟の戸口は、、一つ、。霊的なものも肉持つものも、、
お一人なる神様に繋がり、神様から生まれいでたものだから、
神様から繋がる、すべてが生まれいでてくる道も、ただ一つ、。

明かり取り、、これは窓、、人は出入り出来ないけど
鳩やカラスは出入りできた、。

これらは空を飛べるもの、、御使いたち、をはじめ霊的存在の象徴。
鳩は聖霊、天使も含まれる、、カラスは悪魔になった天使、、。

鳩には、もう一つ意味があり、
一番目の鳩は、ノア自身、、。

ノアは神様の御命令に従い、
罪の清めをしようとしたけれども、
あと一歩のところで、自分の息子のハムの不従順により、
罪を拭えず、もと来たノアのところに戻った、。

二番目の鳩、、オリーブをくわえてきた鳩は、
イエス様のこと、。

罪が拭われて、新しい大地が現れたことを意味する、。
オリーブの葉は、、イエス様によって救われる人のこと、。
鳩は神様の象徴であるノアの元へ戻った。
イエス様は十字架で復活後、
だから神様のもとに戻られた、。

3番目の鳩はイエス様の再臨、、
再臨主イエス様のこと、。
神様の象徴であるノアのもとに戻らなくても良い、ということは。
再臨主なる御方には、、、、
神様が共においでであるということになる、。

空に、虹がかかって、空と地上、、
天と地の境目、隔てが無くなったということ、。

イエス様の十字架の時、神殿の幕が裂けた、、こと、
それは神様が、人との間にあった隔てを、取り払って、

人の神様、、お父さんである御方、、
神様と人が、、イエス様によって、、、
親子状態に戻れたことを意味する、。

創造のはじめの時のように、、、
すべての被造物は、、
神様を、創造主なる御方、として崇め、。
人は、イエス様につながることで、
神様と、、親子の状態に戻れるようになった、、。

だから、神様をひたすらおそれて、
怒りが下る、、と、ビクビクする時代は、、
イエス様までで終わり、。

イエス様がおいでになってからは、、、、
人が神様を愛し、求めて、、感謝し、
神様の御元へ駆け寄るような関係で良いのです、。

神様は、むしろ、その方を喜んでくださいます、。

ただし、、それだからといって、、
神様に対して不敬を働けば、、バチが当たるのは当たり前、。

人らしい生き方してたら、、、
必要以上に神様を恐れたり、へりくだる必要はないってこと、。
神様が、お父さんになって下さるというのだから、、、
喜ぶほうが当たり前でしょう、。

大いに喜び、賛美しましょう、、。
慈悲深い父なる神様を讃えて、、、、。



イエス様の教えで、


イメージ 1

私は、ここで10年以上、
色々なことを言い続けています。

それにもかかわらず、訪問者様が増え続けていること、、とても、とてもありがたいと思っています。

それだけ大らかな固定概念がないクリスチャンが増えたと言うことですね。

固定概念って怖いですよ。
こうでなければならない。そうでなければ救われない。
牧師から聞いたことだけを、鵜呑みにして、他の思考を受け入れれない。何一つ容認出来ない。と言うことになりやすい。

全否定する事、排除する事しか出来ない。
イエス様の時、ファリサイ人たち、律法学者たち、
サドカイ人たちも、、、

何らかの自分の派の教えを持っていた人たちは、新しいことを教えられたイエス様の御言葉に聞く耳を持つ人は誰一人おらず、、

最後はイエス様を多くの奇跡を目にし、耳にしながら見ない聞かない、認めない、、という状態でした。
せっかく神様であるイエス様から直に色々な教えを受けれたと言うのに、、はぁ、、。羨ましい、。

何でイエス様に感謝したり、色々思考したり、しなかったのだろう??頭っから、イエス様のことは、胡散臭い、、と思って居たのかもね。

イエス様の教えで、大切なこと、話す内容だけではなく実らせてる実を見ること。

神様に背いた生き方や、思考してたら、
人生というものは不思議と良い方向には行かない。

自分の願いも叶わないし、良いこともあまりない。

一度決まって教えられた教義を、、彼らは頑なに信じていた。 
思考に柔軟性が無い。
神殿でしか祭儀ができない、神様は喜ばない。と考えていたのがサドカイ人たち。

彼らは祭司職ゆえにエルサレム神殿に依存しほぼ 滅びた、。
残ったのがファリサイ派。 

大きな立派な教会や、きらびやかな祭服、神様からの権威が無いとキリスト教は無意味なものと考えていると、、サドカイ人やファリサイ人たちと、現代のキリスト教も同じことになる。

イエス様が始められた教会、エクレシアの集まりは、
本来、りっぱな建物が無いでも良いし、きらびやかな祭服も権威の象徴の王勺のようなものがなくても、、

神様を愛し敬う想い、信仰心さえあれば、
そこは神様の御座所となり、自分自身が神様の宮となる。
神様は、人の手による宮ではなく、神様御自身の手による宮を御自身の宮と成す。

信仰心があれば、聖霊は降って、神様御自身が、お導き下さる。イエス様は、御自身を信じすがる人たちに聖霊を下し与える、と、、私より大きなことをすると、約束された、。

イエス様を愛し求め信じすがることが、信仰の基本。

日曜日に教会行けば、、それで終わり?
みんなで教会で祈ったら、それで終わり?
教会に献金と奉仕したら、それで終わり?

違うでしょ?
毎日の生活の中で、、イエス様に従おうと努力する事が、一番しないと、いけないこと、、。

日曜日だけじゃなくて、、
普段の生活の中で、どう生きるかが、、一番、、ものをいうのよ。

教会の牧師が言うからって正しいとは限らない。
長い信仰生活の中でつまづくこともある。
そう言うとき、信仰を捨てないで済むには、
自分と神様の絆があること、それが一番必要で大事なこと。

そうであれば人につまづいても、
神様御自身に、、イエス様につながり続けていれる。

教会の建物や、牧者、教会の人たちに
つながるだけの信仰だとね、、。
信徒の人や牧師につまづいたときに棄教してしまうおそれがあるの。

あと棄教するよりたちが悪いのは、
自分が自分の教会に馴染めないからって
自分好みの教理や何かを、、押し付けて、
自分が教祖状態になることね。

他の信徒を巻き込んで、
他の人の自発的意思を尊重出来ずに
押し付けるのは、、2000年前のサドカイ人やファリサイ人たちと同じ自分オンリーの思考。

神様は、押し付けることは良しとなさらない。
だから、、私も、他のサイトまで遠征しにいって
批判して議論したり押し付けるようなことはしない。

基本的に、信仰は個人的なものだから
間違いも、、自分自身で気づくしか古い思考を改めるのは難しい。


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