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書庫マグダラのマリア聖書論



この書庫は聖書の深(裏?)読み系の記事です。

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創世記
2:7 ヱホバ神土の塵を以て人を造り生氣を其鼻に嘘入たまへり人即ち生靈となりぬ。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
2:7 And the LORD God formed man of the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath of life; and man became a living soul.

3:20 アダム其妻の名をヱバと名けたり其は彼は群の生物の母なればなり
3:20 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
3:20 And Adam called his wife's name Eve; because she was the mother of all living.


アダムにはエバが、アダムの骨から生み出されて、
アダムと一つとなるべく、妻としてアダムに与えられた。

最初の女性エバが、思慮深く、
蛇の言葉に騙されずに、
神様の言葉、、御命令に背かず、、従って、
知恵の木の実を食べずにいたら、、
生きた霊を持つもの、、生きるもののままでいれて、。

そうであれば彼女は、イエス様の対となる聖霊のように、、
現身の聖霊の立場となることが出来て、、、

母なる聖霊のように、、、
ソロモンのように叡智に溢れ、清らかな命を生み出せて、、

全ての命の母よ、。と、、
現代でいうところの、イエス様を生み出した
御母マリアのように、、、
すべての人からの崇敬を受けることが、出来ていたのに、。

彼女は神様に背いて、堕落したから、、
生きた霊を持つ生きた命を持つものではなく、
死んだ霊を持つ不完全な命、
生き物の母エバ、にしかなれなかった、。

イエス様は第二のアダム、。
第二のエバとなる予定の人が、、イエス様の側に、
いたとしてもおかしくはない、。

でも、、歴史は、、それを不都合なこととして、、
削除し隠蔽しようとした、。

イエス様が、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

でも、聖書は、このように記録している、。
ラボニ、(私の)先生と、マグダラのマリアが言ったと、。
私の、は所有格、。

このときの、私の、、、は、
私の夫、私の主人、私の娘、息子、など
家族を指して呼ぶときと同じようなニュアンス。

普通に師、先生と言う意味で、、呼ぶ時は、ラビと呼ぶ。
親しくなければ、私の先生とは言えない。

婦人よ、なぜ泣いているのか。

不思議なことに、お墓で、イエス様も、天使も、
マグダラのマリアのことを、婦人よ、と呼んでいる、。

マグダラのマリアと、ベタニヤのマリアは、同一人物、。
マルタと、ラザロと、三人姉弟。
マリアは、結婚している雰囲気もないのに、、婦人、、。

イエス様は、未婚の女性には、
娘よと、おっしゃっていらしたのに、、。

あと、マグダラのマリアには、、婦人よ、、だけではなく、
マリア、、と、したしく、呼びかけておいでです、。
マグダラのマリア、つまりはベタニヤのマリアは、、
誰と結婚(ユダヤでは婚約も結婚に含まれる)していたのか??

婦人ではなく、マリア、、と、名前で呼ばれて、
マリアは、呼んだ方が誰なのかが分かった、。

それは、イエス様は、マリアに、、、
普段、婦人よ、、と呼びかけたりしていなかったということ、。

普段は他の人は、罪の女とか、マグダラの女、などと呼んでいて、
マリアと、マリアの名前で呼ぶのは、姉のマルタと、姉弟ラザロと、
イエス様だけだったのではないか、、。

それで、マリアと、イエス様に、いつものように名前で呼ばれて、、
即座に、イエス様だと分かって、ラボニ(私の先生)とマリアは答えた、。

その隠された意味は、お二人だけが、知るのでしょう、。
ロマンチックラブだと思いませんか?

愛してると、何万回言うよりも、、
マリアと、名前で呼ぶことで、、イエス様だと、分かったマリア。
誰もマリアと、名前で呼ばない、、。
それは、人からは、厭われてたこと、。

外典、偽典では、
イエス様が愛していた伴侶(共にいる人、婚約者)として、
マグダラのマリアの名があり、
ペトロはマリアを、女だから一緒にいるべきではないと、うとんでいた。

ペトロとアンデレは、
イエス様のもとに来る前にはヨハネ教団にいた、。
細かいことを言えば、イエス様も、ヨハネ教団に属していたこともある。
バプテスマのヨハネに洗礼をするよう求めたとき、
我々、と同列で、話しているからです。

ヨハネ教団は、荒野で集まりをして、共同生活をしたり、
賛同者は、ヨハネの話を聞きに行ったりしていたのでしょう。
エッセネ派だったと言われています。

エッセネ派では、男女が共にいると堕落の原因となると、
男女が同じところで共同生活をし結婚し家族となることは、
美徳とみなされてなかったので、。

ペトロは、イエス様がマグダラのマリアによって、
アダムとエバのように堕落するんじゃないかと、考えて、
マリアを、イエス様や、自分たちのそばから遠ざけたかったのでしょう。

ペトロ、自分は結婚して、妻も姑も共にいて暮らしてるのに、
なんで、イエス様が、結婚しようとしてたことに、、
異議を唱えるような行動をしてたのか、。

モーセが、、年老いたチィポラの他にクシュ人の女性を妻として、
次男エリエゼルを産ませていたこと、、。
そのとき、アロンとミリアムは、
モーセにクシュの女性のことで異議を唱えた。
なぜ、罪人の異邦人の女性を側女にするのか?と、。

マグダラのマリアは、罪の女と呼ばれていたから、、
イエス様の妻には相応しくないと、
ペトロが、アロンやミリアムと同じように考えてのことだと、わかる、。

でもね、、神様が、罪を赦し清めた人は、、
清いとみなされるのです。
その人が、神様に従おうと努力する限りは、。

マリアが、イエス様に香油を注いだとき、
周りにいた人々は、マリアが来たことに、
心の中でつぶやき、泣きながらイエス様の御足にふれている彼女に対して、
露骨に嫌な顔をした、、、。

なんで、イエス様は、この女に、身体を、ふれさせているままにするのか、
本当に預言者なら、この女が罪人であると見抜けるはずだ。
と、、イエス様にも、つぶやいた、。
彼女が、評判が良くないときがあったから、。

でもね、。
イエス様は、女よ、あなたの罪は赦された。
多くを、赦された人は多く愛するようになる。
と仰って彼女をかばった。

人から見て、この女呼ばわりされるような女性が、マグダラのマリア。
彼女は、長血を患っていた女性と、同一人物です。
当時、自分の私有財産を持てるような女性は、そんなにはいない。

長血は、発育不全が起因の病気による。
マグダラのマリアは、、娼婦ではない。
聖書中にも、一言も彼女が娼婦だったとは書かれていない。
罪の女と、書かれてただけ。

当時は、血を流すものは、汚れているという考えだったから、
男性は、決して彼女のそばに行かないです。

だからマグダラのマリアは、イエス様に病気を癒やして頂くまで、
初潮時が12歳として、それ足す12年間で、
イエス様と出合った24歳前後の年齢でも、彼女は娘のままだった。

7つの悪霊、、ほんとにそれだけ悪霊がついてたら、、、
レギオンを宿してた男の人のように、マリアも異常行動をしていて、
それも記録されたはずですから。

多分、今で言う霊媒体質とかで、色々、見えたり感じたりで、
それを話しても悪霊憑きとかキチガイと思われて、
理解してもらえる人が身近にいなくて、
それが辛くて困ってたということではないかな。と、、。

現代では、スピリチュアルな方面の知識も普及してて、
憑かれた?と思ったら、肩のゴミを払い落とすように、3度払い落とす。
と言うようなスピ知識も広まってますけどね。

だから、娘のはずのマリアに婦人と呼びかけるのは、
結婚(婚約)済であったことの証拠なのです。

誰と結婚してたって?
そんなの、遺体を引き取り葬るのは、遺族の役目でしょう?
マグダラのマリアは、イエス様の婚約者、、、
でも、当時のユダヤでは、、れっきとした妻です。

人は病気で血を流していると言う理由で、何もしてないのに、
彼女を足ざまにいい、、罪人と、蔑んで嫌ったけど、、
イエス様は、言われもなく蔑まれ罵られた彼女を愛し、、
妻として選びました。

理由は、ただ1つ、彼女が、
自分自身よりもイエスを大事にし愛したからです。
自分を愛してくれる人だから、彼女と永遠の愛を誓い婚約したんです。

その誓いは永遠だから、
いつまでも彼女は、イエス様の妻として、イエス様の御傍にいます。

マグダラのマリアを名乗る人は多くいるだろうけど、
彼女は、私の霊と合わさって、私と、ともにいます。
残念ながら、話したりは出来ないけども、。
マリアは、伝承によれば、60歳くらいまで生きたそうです、。

イエス様は、永遠に33歳、、、
マリアは、24足す3で、27歳前後の年齢の姿で、
永遠にイエス様と共にいます。
避けられない運命の別れの時となってしまったときの姿のままで、。

女が原罪を犯したから、
男性が愛した女性と結婚することが駄目というのなら、
何故、神様は、最初のアダムとエバの時と、同じように、
ノアの洪水のあと、彼らを、生めよ増えよ、地に満ちよ。
と子供を産むことを奨励し人を祝福したのでしょうね。

神様はアダムから骨を取って、、エバを創造された
エバが、アダムと夫婦になることで、元通り一体となる。

人が自分の伴侶を得ることは、創造された人のありし姿に、
近しい状態となることで、良くないことではない。

夫婦が心を合わせて愛を顕現するとき、、
神様も、そこに共にいらっしゃる。

マグダラのマリア
神様に永遠に祝福された子、、どんな子?って??
クリスチャンの子ら、、のこと。

神様から罪がないとみなされ、
霊によって新生したクリスチャンとクリスチャンの子らは、
無原罪の子らです。

クリスチャンの親がすっとこな罪を罪とも思わず、
悪行してたとしても、原罪だけはないと見なされる。

そして全てのクリスチャンから生まれて来る子らは、
無原罪の子らとされる。

どうしてか、というと、
自分で罪を犯すのは、自分でそれを選んで行くわけだけど、
原罪に関してだけは、本人の生まれる前からのものであり、
本人には罪自体の責任がないから、、。

自分が自己責任で選んで犯した罪に関しては、
罪を認め悔いるまでは、赦されません。
人に関しては、無原罪とされても、
何も罪を犯さないわけではない。

原罪がないのなら、罪を犯さないと考えるけど、
生まれながらの無原罪の、アダムとエバでさえ、
罪を犯したんだから、人は神様でないのだから、
誘惑に負ければ罪を犯す可能性があるわけです、、。

イエス様という完全なる御方が、
無原罪という存在であるということと、
神様から創造された人が、
生まれながら無原罪とされることとは、
罪の有無に関しては、同義とはならない。

イエス様は、人となる前から、一切の罪がない御方であり、
罪を犯すこと自体がありえない。

人に関しての無原罪は、
原罪がないということで、罪を犯さないということではない。

ただし、人が無原罪で生まれれたら、誘惑に勝って、
良い人としての生き方を選びやすくなる。

生まれながら罪人でしかないんだから
悪しか行えないと思考し悪を行うことが、
当然のように思考してたら、
人が悪を行わないようにしようと思う日はいつ来るのか?

罪や悪からは離れて、清い生き方を望む強い意志がなかったら、
どうして清い生き方をしようとするだろうか、。

このくらい、バレなきゃ、平気、。
この程度、みんなしてる。
この人は、何、言っても分からんし、嫌いなタイプ。
どうせ馬鹿だから、ほっとこ。
あんたなんか勝手に苦労すればー。
自分に同意しないし、歯向かってばかりだし、
側に居なきゃ楽なのに、。
手がかかって面倒、うざい、気使い過ぎて疲れる、。

こんな感じで、
本音レベルでは、人は人よりは自分をより愛してる。

相手がたとえ我が子だって、
時折は、心の奥底では他人状態になったりする、、。

ほんと、良い人でありたいと願えば願うほど、実は、
自分の中の2つの自分を感じて、右往左往する事になる。
自分の為にしてると、ほんと何も見返りがないとやる気失せる。

これが、自分ではなく神様に喜んで頂きたいからと思えば、
神様が、大好きなら、見返りゼロでも頑張れちゃうのです。
愚痴や悲しいなと言うことは、あるにはあるけど、
自分のため、、神様に良い自分を見せようとしてたときよりは、
しんどくない。

良い自分を見せるために、義務で演じるのと、
良い自分でははないのは事実だけど、
出来る限り良い自分であろうと、努力します。
神様、あなたも喜んで頂きたいから、、と義務ではなく、
神様が大好きだから、、という気持ちで頑張るのとでは、
違って来ます。

義務だと、まるで見返りないと苦痛になってく、、。
神様に見せたいイコール人に見せて人からの同意を得たいだから。
神様だけが分かるのでは、不満足に思えて来るわけで、
明確な見返りが見えて来ないと、し続けるのは辛くなる。

なんで自分は良い見返りがないの?
これだけ頑張ってるのに、納得行かない。
神様に嫌われてるから?運が悪く生まれついたから?
努力しても、報われないの?って思い出す。

神様に喜んで頂きたいのなら、神様が、喜んで下さるなら、それでも良いと割り切れる。それでも、時々は、良い結果にならなければ、
お父さん、コレで良かったの?私、ドジってない?
良かれと思っただけなのに、上手くいかない。それでもいいの?
と、、思うことも、あります。

どんな想いから行動したって、葛藤は起きてくる。
心の中に潜むサタンは、良いことや、
人同士の心の繋がりは切りたいんだから。
不信感や疑心暗鬼を持たすことなんて、朝寝し前です。

そういうとき、
私の場合は、、呪文のように繰り返す。

私の全ての想いは、神様が、ご存知で、、、
誰よりも分かって下さるから、、。と、、。

頑張った挙句に、何もないときは、私だってメゲます。

私には、分かって下さるお父さんがいる、、。
そう口に出して繰り返すことで、心が癒やされていく。
また初心に戻って頑張ろうと思える。

出来ない自分を責め立てても、良くはなれない。
一つでも出来たら、お父さん、一つだけど出来たよ、と
一つ、出来たことを喜んでいいと思う。
ゼロよりはいいでしょ。

いっぺんに出来なきゃ役立たずなら、
私は、世界一の役立たずです。
父さまに従順に従いたいと切実に願うまで、
何度痛い目を見たり、反省したか、、。

今の状態になるまですごい時間かかってます。
父さまが、忍耐強い御方でなければ、私なんてアウトです。

大好きなお父さんが、共にいるから、、、
人らしく生きたいと願える。

人に見せて認めて貰って自己満足するより、
神様を、お父さんを喜ばせたい、。
理由は、ただ一つ、大好きな神様から離れたくないから。

私は、良い自分であろうと、人に見せ、人から認めて貰って、
人が認めることで神様にも認めて貰えるような感覚でいた、。

でも、ある時、
自分の中のおぞましい罪の権化のようなものを見て、
心が苦しみで潰れた。
こんなろくでなしだったなんて、クリスチャンとも言えない。
お父さん、、とも呼べない、。と、絶望もした。

でも、イエス様から、
罪がないとみなされ、罪が赦されて、
その重荷と苦痛から解放されて、、。

罪がある時から愛されてた。と気づいて、
神様に見せるための義務の良い自分は必要ではなくなった。

神様から愛されてて多くを赦されたから、
神様に、喜んで頂ける生き方をしたい。
それが、少ないけど、父さまへの御恩返し。

自分の中の邪心、身勝手な心、、
そんな自分の中の罪を知ったとき、
苦痛で心が潰れた、、、。

その苦痛から救い出して下された御方に、、どうして
背きたいと思うでしょう、。

救い出して下さった御方に、ついてくでしょう?
それが、永遠の時間であっても、。


イエス様と出会えずに、原罪があるまま死んでいった霊は、
喉から手が出るくらいに、無原罪の祝福、
それが欲しいと切実に望む。

そして新生輪廻を繰り返し、
新しく生まれてくる赤ちゃんと共に
イエス様との出会いを、ずっと待ち望む、。
その時は、いつか、、いつか、、と。

だから、生きてる間にイエス様と出会って、
自分の救い主として受け入れた人は、ラッキーな人です。

クリスチャンとクリスチャンの子孫が、、
永遠に、原罪がないと見なされること。
永遠の無原罪の子らとされる祝福、。

それはね、。
たとえ、生きてる間に、悪行から離れず、
死んだあとで、地獄の底に落ちたとしても、

父さまも、イエス様も、
わたしは、永遠に、あなたを見捨てないよ。
あなたは、永遠に、私の子だよ、。という意思表示であり、
永遠に失なわれることがないのですから、
永遠の祝福ということなのです。

マグダラのマリア


関連記事シモン・ペトロ(ペテロ)は、、どのヨハネの子?
の記事に関して、

『ペトロは、大祭司アロンの血を引くバプテスマのヨハネの子』の部分ですが、
ペトロというのは、12弟子のペテロのことですよね。
バプテスマのヨハネとイエスは歳が近いと思うのですが、
そのバプテスマのヨハネの子が、ペテロというのは、
年齢的におかしく思うのですが。
ペテロって実はかなり若かったのでしょうか?
と、ダヴィンチの小部屋、みのるさまから、
ご質問を受けました。


これは、、
その時に、コメント欄で答えたものに加筆したものです。

バプテスマのヨハネは、
早くから家を出て荒野で、暮らしていました、。
エッセネ派の一派だと思われるヨハネ教団を作っていたわけで、
弟子も多く居て集団生活もしてたわけです、。

通説ではヨハネは6ヶ月、イエス様より年上です。

集団を作れば、必然的に跡取りを必要とするので、
バプテスマのヨハネが早い時期、
15.6歳時に、子をもうけてたとすれば、
イエス様が公生涯に入られる30才のときには、
15歳くらいにはなってて、成人しているので、
結婚していても、おかしくないです、。

聖書では、姑がいて結婚してたこと、
漁師をしてたこと、
ヨハネ教団にいた事、程度しかわからないので、
年齢は。若かったかも知れないのです、。

あなたと死ぬことになっても良いと、、いうのは、、
若い人が言うような言葉です、。

天国の鍵(イエス様が、お持ちだった大祭司としての権能)を
授けたから、年長に違いないというのは、
今の時代の人が持つ固定概念です、。

ダビデは、幼い頃から、野で熊やライオンと戦っていたのです、。
サウル王の息子ヨナタンも、若いうちから、軍隊に入っていました。
イエス様の時代であっても、いつ、戦争になるかもしれない時代です、。

みな、肉体的な鍛錬は、子供の頃からしていたのです、。
自分の国を守るために、、。
それに、もし、自分より幼くても、
自分の血族で、アロンの血筋を持つものであれば、
大祭司職の後を継がせます、。

イエス様は、肉体的に見るならば、
祭司ザカリアの子です、。
でも、肉の器の父がそうでも、
御霊は、天地創造の神様です、。

天地創造の神様ならば、
宿る肉体に原罪があってもなくても、
穢されるということは断じてありえません。

その程度で穢れるような低い神性、聖性であるなら、
人を原罪から救ったり赦すことなど出来ません。

神様が神様を清めるのは、ナンセンスです。

祭司ザカリアは、聖霊に満たされた母アンナから産まれて、
産まれながら原罪がない胎を持つ御母マリアと違い、、
生まれながら原罪がない者ではないため、原罪があるわけで、、。

祭司ザカリアの原罪を清めるために、聖霊が降ったのであって、、
聖霊は、御母マリアに宿ったイエス様を、、
清めたわけではないのです、。

イエス様と、バプテスマのヨハネは、異母兄弟だったわけで、
イエス様にとって、バプテスマのヨハネの子は、
イエス様にとって、3親等の甥であり、4親等のいとこよりも、、
一番近しい親族ということになります、。

祭司ザカリアがイエス様の代理父として選ばれたのは、、
バプテスマのヨハネの父であり、また、
聖霊に満たされた祭司だったからでしょう、。

本来は、レビの職は、25歳以上、アロンの血族の場合は、
30歳にならないと任職出来ませんし、
大祭司職は終身制なので、職務の生前譲渡も出来ないのですが、
イエス様には、時間が無かったので、御自身が生きているうちに、、
大祭司の権能をペトロに譲渡しなければならなかったのです、。

アンナスとカイアファ、二人の大祭司が、聖書に出てきますが、
本来は、大祭司は終身制なので、一人だけの存在なのです、。

ローマによって、複数の大祭司が職を、
やめさせられたりしていたわけです、。
でも、それは、本当なら、あってはならないことでした、。
アロンの血を引くものが、
一人だけ、大祭司となるべきなのでした、。

ユダヤは、数えで13歳で、成人扱いです、。
日本でも12歳で婚約して、
13歳で子を産んでいた女性も居ましたので、。

婦人科系の関連で考えると、
あまり好ましい状態ではないですが、
昔は寿命が短かったので、仕方がない部分があります、。

バプテスマのヨハネの子が、ペトロではなく、
一般人とか、レビの血筋を引いてただけだとしたら、、、
イエス様は、ペトロに大祭司の権能を与えれません、。

いくらイエス様が神様の御子でも、、
大祭司アロンの血筋でもないのに、
大祭司職の権能を持ったり、また、アロンの血筋でもない者に、
権能を譲渡することは出来ません、。

シラ書
ピネハス
45:23 主の栄光を担う第三の人物は/エルアザルの子ピネハスであった。彼は主を畏れ敬う熱心な人で、/民が背いたときには、/勇敢にも立ち上がり、/イスラエルのために罪の赦しを得た。
45:24 それゆえ、主は彼と平和の契約を結び、/彼を聖所と民の頭とされた。こうして彼とその子孫は、/永遠に大祭司の職を継ぐ者となった。
45:25 ユダ族の出身のエッサイの子/ダビデと結ばれた契約では、/王の遺産は子から孫へと一人だけに受け継がれる。しかしアロンの遺産はその子孫全体に及ぶ。

大祭司、アロンの遺産は、アロンの血筋を持つ者がなる、、これは、
神様が定めた、不変の法なのですから、。

少なくても、イエス様も、ペトロも、、
大祭司アロンの血を引くものでなければならないのです、。
そうでなければ、
イエス様は大祭司職を持つものにはなれない、。
つまりは、メシアの資格がないという意味になるのです、。

メシアの職は、、王の王、、大預言者、大祭司の3つです、。
王の王は、ダビデの血筋であること、。
大預言者は、神様に選ばれたる者であり、
神様の御言葉を預かり、人に与える人のこと。、
イエス様は、神様ご自身だから、問答無用で、、預言者です。
大祭司は、、アロンの血筋を引くものであること、。

イエス様は、ユダ族の父ヨアキムの一人娘である御母マリアが
父の嗣業を受け継ぐ者、長子としての扱いを受けるゆえに、、
御母マリアによって、
ダビデの血筋、ダビデの子孫としてお生まれになられました。
また、聖書に書いてある通り、
御母マリアは、ザカリアの妻エリザベトの親族であるので、
レビ人(アロン)の血筋を持つ者でもあるのです、。

レビの娘は、跡取り娘でない限り、
他氏族に嫁ぐことがあったので、血統の交差はありました、。
大祭司アロンの妻のエリシェバは、ユダ族です、。

もし、ペトロがアロンの血筋ではなく、一般人や、ただのレビなら、
ペトロはイエス様がお持ちだった大祭司職の権能(天国の鍵)を、
受け継ぐことは出来ない、。

大祭司職の任職するには、イエス様は、もとより、
ペトロも、、、アロンの血筋でないといけない、。
イエス様は、神様の御子だから、血筋は、どうでも良い、ということは、、
ありえませんので、。

ダビデも、聖書中に名が書かれていない母(おそらくサウルの妻アヒアマツ)から
レビ(ユダとアロンの両方の血族のあるレビ)の血筋を得ていたから、
エホドも、着ることが出来たし、
ダビデの子らは、祭司職についている。
血筋と任職に関しては、無関係ではない、。

イザヤ書
7:13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

救い主は、ダビデの血筋を持ち、
そしてアロンの血筋を持つ祭司の子として産まれるという意味です、。

なぜなら、普通の祭司、レビ人には、
必ずしも処女と結婚するという規定は無いからです。


レビ記
21:1 主はモーセに言われた。アロンの子である祭司たちに告げてこう言いなさい。
21:13 祭司は処女をめとらねばならない。

乙女を娶る、。
これは、アロンの血筋を持つ祭司への規定です、。
ダビデの血筋だけではなく、
大祭司の血筋をも持って、救い主は産まれるという意味なのです、。

イエス様でさえ、血筋による任職の定めは守らないといけませんでした、。
弟子のペトロだけ、例外ということはないでしょう?
よって、ペトロもアロンの血筋でないといけない、。
そのためには、ペトロはバプテスマのヨハネの子である必要があるのです、。

マグダラのマリア

アルパクシャドの子はシェラのはずなんですけど、。
ルカによる福音書に書かれている、、
イエス様の系図中に出てくるアルパクシャドの子、、が
なぜか、、カイナムになっているんです、、、。謎ですね、。

この、アルパクシャドの子、旧約聖書を見ると、、
アルパクシャドの子は、シェラである、。と
何度も、書かれているんですよ、、。

創世記
10:24 アルパクシャドにはシェラが生まれ、シェラにはエベルが生まれた。
11:12 アルパクシャドが三十五歳になったとき、シェラが生まれた。

歴代誌 上 
1:18 アルパクシャドにはシェラが生まれ、シェラにはエベルが生まれた。
1:24 セム、アルパクシャド、シェラ、

なのに、、ルカによる福音書3:23からの系図には、
3:35 セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、
3:36 カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、
と書かれています、。

アルパクシャドの子と書かれたカイナムは4代目のケナンと同じ名前です。
でも、、旧約聖書を見ると、、上で書いたとおり、
アルパクシャドの子として、カイナムは、産まれていないのです、。

カイナムは意図的に挿入された人?となるのですけど、、
もちろん神様の御意志によってですが、。

ルカによる福音書の、、
イエス様の系図から、分かりやすくするために
アダムから順に名前だけ、、ずらっと書きだして、
7つずつに区切ってみます、。

1 アダム(神の子)。そして父なる神様。
2 セト
3 エノシュ
4 ケナン(カイナムと同じ名前 4は聖別の数)
5 マハラルエル
6 イエレド
7 エノク(主なる神様に喜ばれて天に移された義人 完全数7数を持つ)

8 メトシェラ
9 レメク
10 ノア
11 セム
12 アルパクシャド(イスラエル 12氏族の数)
13 アルパクシャドの子、カイナム
(旧約聖書では書かれていない人 4代目のケナンと同じ名前)
14 カイナムの子、シェラ(14は7+7 7と7は御父(7)御子(7)で77 御父と御子なる神様を意味する数 14数を持つ)
旧約聖書ではカイナムの子ではなく、アルパクシャドの子。

15 エベル
16 ペレグ
17 レウ
18 セルグ
19 ナホル
20 テラ
21 アブラハム(21は7*3 777は御父(7)御子(7)御聖霊(7)
三位一体を意味する21数を持つ)

22 イサク
23 ヤコブ
24 ユダ
25 ペレツ
26 ヘツロン
27 アルニ
28 アドミン

29 アミナダブ
30 ナフション
31 サラ(たぶんサルモンの妻)
32 ボアズ
33 オベド
34 エッサイ
35 ダビデ(7*3+7+7 21と14の二つの数を持つ)

36 ナタン
37 マタタ
38 メンナ
39 メレア
40 エリアキム
41 ヨナム
42 ヨセフ

43 ユダ
44 シメオン
45 レビ
46 マタト
47 ヨリム
48 エリエゼル
49 ヨシュア(7*7 7と7 14数を持つ イエス様と同じ名前の人)

50 エル
51 エルマダム
52 コサム
53 アディ
54 メルキ
55 ネリ
56 シャルティエル

57 ゼルバベル
58 レサ
59 ヨハナン
60 ヨダ
61 ヨセク
62 セメイン
63 マタティア

64 マハト
65 ナガイ
66 エスリ
67 ナウム
68 アモス
69 マタティア
70   ヨセフ

71 ヤナイ
72 メルキ
73 レビ
74 マタト
75 エリ
76 エリの子 御母マリアと養子となったヨセフ
77 ヨセフの子 イエス様
(7+7で14数 他の見方で7*3+7*3+7*3+14 
三位一体を意味する数21数が三位一体の数と同じ3つと14数を持つ)

13番目、、にカイナムという人が一人挿入されたことによって、
アブラハムは、777の御父(7)御子(7)御聖霊(7)
三位一体を意味する21数を持ち、。

ダビデも、三位一体の神様を示す数21と、
御父(7)御子(7)とで、 御父と御子なる神様を意味する数14を持ち、。

14の数となる、49代目に、
イエス様と同じ名前のヨシュアが産まれてて、。
アブラハムとダビデとヨシュアに、
それぞれ、聖書的に意味がある数7が、付与されているんですよね、。

父さまの計算づくでしょ、。これって、。
どー考えても、、。

一人追加されてないと、、
アブラハムは20になっちゃうし、ダビデも、34になっちゃうし、
14の数となる、49番目に、
イエス様と同じ名前のヨシュアが、産まれてるのも、、
48番目になっちゃって、イエス様も77代目ではなく76代目になっちゃう。

系図にカイナム一人足らなくなると、、
7代目のエノク以降、系図の並び順に、まるっきり、
何も聖書的な意味がない数ばかりになってしまう、。

神様は、、天地創造の時、、7日目に、休まれて、
その日を聖なる日として聖別されたので、。
7の数、、完全数として大切にしているのです、。

アブラハムも、ダビデも聖書の中の超重要人物ですよね、。
7の数を、与えるために、
カイナムを、アルパクシャドの子として、
13番目に追加した、、ということなのかな、、と考えています、。

そもそも、父さまは、、意味がないことは、人に指示しない、、。

最後に、、イエス様が生まれたのは、、ほんの2000年前です。
77代、、、イエス様jから数えてたったこれだけの代で、、
人類の祖先、アダムとエバ、に、たどり着くわけがないのですね、。

聖書は、人類救済の歴史書であって、
必要最低限のことしか書かれていない、。
アダムから、、ノアやアブラハムまでだけと考えたとしても、、
聖書に書かれている人数以上の人が生まれて、死んでいると思います、。

神様が、イエス様の子孫としてお認めになった信仰心ある人が、、
77代分、、ということです、。
つまりは、イエス様の系図に書かれなかった省略された人たちというのは、
信仰心があるとみなされなかった人たち、
つまりは、、不信仰だったということです、。

イエス様の系図は、、
信仰心ある人の長い長い時間をかけて生まれた系譜なのです、。

だから、実際には、77代以上、経っているのだろうから、
カイナム一人分を、神様の指示で系図に追加したとしても、
サタンは、77代に足りないだろ、。と
神様にもイエス様にも言い返せないのです、。

カイナムという名前を神様が選ばれたのは、、
4代目の聖別の数4数を持つものが、、
ケナンであったからではないかと考えています、。

ほかに、神様がカイナムを1人を、
イエス様の系図に追加した理由に気づいたときは、、
改訂版を書こうと思います、。

今、私が理解できているのは、、この程度までです、。

関連記事イエス様の2つの系図の意味

マグダラのマリア






ヨハネによる福音書
4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

身体だけ教会に行って、賛美して、礼拝に行ったって、
心が父さまに向かってなければ意味がない、。
形だけの礼拝なんぞ、父さまに捧げるべきものではない。

身体が教会に行けてなくたって、
神様に心を向けて祈り感謝するなら、、
父さまは、、ちゃんと、その感謝の祈りを受け取って下さる。

当時は、高台が備えられた特定の山に登って生贄を捧げるか、
エルサレム神殿で、生贄を捧げて、神様を礼拝した。
現代でいうと、それらは教会堂にあたいする。

でも、イエス様は、はっきり仰っていらした
それらの山でもエルサレムでもない所で、、
天地創造の神様を礼拝するようになると、、。

私が何が言いたいか、、。
教会堂だけで礼拝することだけが、
礼拝ではないと言うことです。

教会に行って義務的に礼拝行動し終えて、
はい、これで義務完了にしてしまって、、、、

あとは神様に心も向けないなら、
霊と真理をもって礼拝しているとは言えない。

霊と真理、自分の魂と霊と、、
真理の御霊である聖霊と共に礼拝するのが、
真実の礼拝、。

日曜だけではなくてね。
日々、出来る限り、わずかな時間でも良いから、
神様に、、気持ちを、
すべての想いを向ける時間を持つことが礼拝になると思う。

私の場合、父さまのことを思うと心が高揚してきて、
どうしてだか、いつも涙が、、こぼれてくる。

アハ。
父さまのこと泣くほど好きみたい。にこにこ。
神様が、お父さんになって貰えてるんだよね。
と思うと、嬉しいんだもの。自然と嬉しくて涙が出ちゃう。

他の人は、、神様に心を向けたとき、
こんな感じで嬉しくて泣いたり、心震えたりしてるのかな??
私は、それが普通なんだけど。

クリスチャンになって30年以上経っても、
神様が、お父さん♪嬉しいルンルンと、
ずうっと、ずうっと、それが嬉しくって仕方がない。

救いの体感後は、、救われてる喜びも加わって、
結局、お父さん、イエス様、ありがとうございます、、
って、、泣いて感謝しちゃいます。

救いが、現在進行形から、
過去の救いになってくると、感謝が薄くなるよね。
感謝の気持ちが風化していくの、、。

イエス様の救いが感謝するべきものではなく、
当たり前のものへと、おとしめられていく、。

神様への感謝の想いは、信仰年数が何年経ったとしても、、
風化させないでいたいですよね。

形骸化した礼拝ではなく、
父なる神様へ感謝の気持ちを込めて、
霊と真理を伴った礼拝を、お捧げしたいですね。

マグダラのマリア

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