ここから本文です

書庫マグダラのマリア聖書論



この書庫は聖書の深(裏?)読み系の記事です。

記事検索
検索

天国の鍵

天国の鍵、、というキーワードでの検索が、
6件もあったので、
記事を書こうかと思います、。

マタイ
16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

シモン・ペトロ、ペトロはイエス様が名付けたあだ名で、、
本名は、シモン、ユダヤ的に書くと、シメオンです。

バルヨナは、ヨハネの息子、つまりは、
父親がヨハネと名前であるといういう意味です、。

私は、ペトロは、バプテスマのヨハネの子と思っています、。
ペトロは、バプテスマのヨハネと同じ言葉を天からの声として聞きました、。
これは私の愛する子、これに聞け、、と言う言葉を、、。

バプテスマのヨハネは、大祭司アロンの血を引く祭司ザカリアの子です、。
ザカリアは、大祭司ではありませんでしたが、、
バプテスマのヨハネは、祭司以上の立場、
預言者、エリヤの使命を持つものとして神様から選ばれ立てられたので、、
そのバプテスマのヨハネの子、しかも長子として生まれたのであれば、、
バプテスマのヨハネの受けていた、、
預言者もしくは大祭司としての使命、は、
そのまま長子に受け継がれるのが普通です、。

人の生まれ方は、、人には選べません、。
神様からの選びによります、。
ペトロが、イエス様の選びによるのではなく、神様の選びにより、
大祭司としての権能をイエス様から与えられた、、というのであれば、
生まれ、血筋、以外での理由はないのです、。

だから、私は、ペトロは、
バプテスマのヨハネの息子である、と言っています、。

ペトロが、、大祭司アロンの血筋を持ち、、、
イエス様の親族でもあるなら、、
大祭司の権威の受け渡しを他の弟子ではなく、、
ペトロだけに与えた事も説明がつきます。

イエス様ご自身が、、ペトロを選んだのは、
イエス様ではなく、わたしの天の父である、、と
証されておいでなのですから、。

関連記事シモン・ペトロ(ペテロ)は、、どのヨハネの子?

天の鍵、天の通貨、は愛です、、。と、
以前、、記事に書いています、。
関連記事愛に満ちた行い

イエス様は、、ご自身を天国の門とおっしゃいました、。
天の国の鍵の授与とは、、イエス様がお持ちであった、
大祭司としての霊的な権能をペトロに、与えたのでした、。

本来なら、大祭司は、終身制なので、
勝手に職を辞めることは駄目なんですね、。

死ぬまで、、なのですから、、
ペトロにその権能を授けることは、職を辞することにあたるので、、
それは、イエス様の肉的な死を、意味して居ました、。

でも、イエス様の時代、この世的な大祭司が、人の都合により複数人、
存在していたことから、、、
霊的に正統な大祭司であるイエス様がペトロに、その権威を譲渡しても、
その時点、すぐには、イエス様は、死なないで済んでいました、。

マタイ
16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

ただ、メシアの持つ職の一つをペトロに譲渡したので、、
イエス様がメシアの座に戻るには、
弟子以外に、、イエス様をメシアです、。
と証しする証人が必要になりました、。 

イエス様ご自身は死を覚悟なさっていたと思われます、。

マタイ
16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

鍵、、と言う表現について、、

イザヤ書
22:22 わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう。

黙示録
1:18 また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。

3:7 フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。『聖なる方、真実な方、/ダビデの鍵を持つ方、/この方が開けると、だれも閉じることなく、/閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。


イエス様が持たれていたのは、、ダビデの家の鍵でもあり、
蘇って、、死と黄泉をも、
支配下に置かれたから、、死と陰府の鍵もお持ちです、。

天の鍵、、の別の意味、、
鍵穴というものは、門にあるものですね、。
鍵は、その鍵穴に入れると、門が開きます、。

鍵は門を開くためのもので、
門がないのなら、鍵は何の意味もありませんし、
鍵があるなら、、その鍵にあう門もあるのです、。

イエス様は、神様が祝福されたダビデの家系につながる者です、。
ダビデの家の鍵、、は、神様が祝福された
ダビデの家系につながる者となるという意味で、、
わかりやすく考えると、ダビデの家の者になるという意味です、。

そのダビデの家系であり、無原罪の御方でもある
イエス様につながる象徴儀式が、、洗礼であり、、聖餐式です、。

洗礼は、イエス様につながる
ダビデの家の血筋に生まれ直したことの象徴。
聖餐式は、、イエス様の御身体と御血に
見立てたパンとぶどう酒を食べることで、自分のものとして、、
イエス様の御身体と御血を受け取るという象徴儀式です、。

イエス様は十字架にかけられ復活後、帰天なさいましたから、
実際に、誰も、イエス様の子孫として生まれることは出来ないので、、、。

イエス様の肉体、血筋につながる代替えとして、
イエス様の霊的な身体と血の象徴である聖餐を食べて、
イエス様につながることにより、
イエス様の霊的な子孫、霊的なダビデの血筋、、、、
無原罪の子らとみなされています、。

マグダラのマリア



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へPVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)

マグダラのマリアが、、イエス様の花嫁だと、、
キリスト教会には不都合なの?

そうよね、。イエス様が特定の女性と婚約して、
結婚しようとしてたとすると、、
イエス様は人類の罪からの救済のため、
十字架にかかるために、、お産まれになられた、という
十字架有りきの神学が、ぼしゃる、。からね、。

結婚しようとする人が、愛する花嫁を軽〜く捨てて、
十字架に喜んでかかるわけないもの、。
婚約者が居ると、始末が悪い、。
しかも、罪の女と書かれたマグダラのマリアが相手じゃ、困る、。
そのくらいのことは、、過去のクリスチャンも分かった、わけだ、。

でもね、。
「結婚せずに20歳を過ぎる者は、罪の中に身を落とす」という考えが、
ユダヤにあった、、。
神様の祝福は、生めよ増えよ、、なので
結婚しないのは罪という考えがあった。

マグダラのマリアは、、
12年間、長血を患っていた女性だった、。
12歳頃の初潮のときから、、ずっと、。
イエス様と出会ったのは、、24か25歳ころ、。
20歳を越えていても結婚してなかった、。

あまりに長年血を流していたからと、
20歳すぎても結婚出来ないでいたから、、、
悪霊憑きとか、、罪の女と呼ばれた、。

イエス様、、十字架にかかるために、
33年間も生きて大人になってから、十字架にかかるより、
生まれてすぐに十字架にかけられたほうが体力ないし、
苦しまないで済んだんじゃない、。

おあつらえむきに、
ヘロデが、幼いイエス様を殺そうとしてたんだから、。
その時に、なぜ、、イエス様は殺されないように守られたのか?
そこに疑問を持つクリスチャンは少ない、。

十字架有りきの神学が、当たり前になってる、。
イエス様は、人のために死ぬのが当たり前だったと、。

自分の愛する主人に死ぬことを要請する僕がいるのかしらね??
主人を愛してたら、、主人に幸せで居て欲しい、。と
思うのが当たり前なんじゃない?

結論から言うと、イエス様は、結婚し御子をもうけて、
神様の血筋を、この世に遺すことで、
アダムとエバの罪の因子を持つ子孫が増えたのと逆、。
清い神様の血筋を広め、
罪の血筋をこの世から撲滅する御予定だったんですが、。

人が、ことごとく不信して、イエス様に背くし、、憎むし、。
結婚を何度も出来なくさせるし、、、サタンの言いなり、。
サタンは、イエス様が人として生まれられた時点で、、すでに、
負けていたんだけれども、。

人がサタンに聞き従えば、、サタンは一時的に奪う権利を得る、。

人の信仰次第で、救いの摂理は進む、。
ゆっくり、ゆっくりと、確実に、、。
クリスチャンは、原罪が無いとみなされる、。
それは、イエス様の霊的な身体とみなされ聖化された、
パンとぶどう酒を受けることと、羊水にみたてた水を、
父、子、聖霊の御名によって受けるから、。

霊的な象徴儀式を受けることにより、
イエス様の血筋につながった、とみなされる、。
実際は、肉体的には血は繋がっていないし、
初代クリスチャンは、、あくまで霊的な繋がり、、。

神様が送り出す子らの魂、、は、本来、無垢な子らなんです、。
でも、彼らが身体に入るべき時、、人の肉体の器に原罪の徴があるままだと、
清らかな霊も肉体の原罪の徴のせいで罪に穢れて、
罪を犯しやすくなってしまいます、。

本来は、清らかなまま、人は産まれてくるはずなのに、、
肉体が、原罪の罪穢れがあるせいで、、
産まれながら罪人として生まれて来てしまいます、。

つまり、魂の器である肉体の、、原罪の穢れを取り除けば、、
もともと完全善なる神様のもとから産まれてくるのだから、
赤ちゃんの霊は、清らかな存在なのです

だから、、人は清らかな状態に戻れるのです、。

それで、、イエス様は、
本当は、、花嫁としてマグダラのマリアを娶り、
肉体も、罪がない御子をもうけて、その無原罪の御子とその子々孫々が、、
婚姻し続けることで、人類から罪を取り除こうとされていたわけです、。

でも、残念ながら、人の不信仰の故に、人に清い命を与えるには、、
神様であるイエス様ご自身が、神様としての命、、人としての命、、
すべての命を捨てて、人のように死んで、、死者の国から蘇ってくる、、。

その蘇られたイエス様の御身体と御血に見立てた、
パンとぶどう酒、を食べて、、イエス様の身体、、血筋に、、
象徴物を通してイエス様につながる、、この霊的な方法しか残らなくなった、。

その方法は、、十字架で、、呪われた者としての死です、。
最も苦痛が長引き、苦痛が大きな見せしめの死なせ方、。
サタンは、、イエス様が、、苦痛のあまりに神様や人を裁き、呪い、つぶやくと
思っていました、。

実際、とても苦しいのです、。
披露して、身体が下がってくると、息が出来なくなり、、
身体を持ち上げて呼吸しようとすれば、、再度、手足の傷は、、引き裂かれて
血を流し、痛みが増すのです、。

イメージ 1


このような↑状態で、十字架の横木を運ばされました、。
イエス様が、とても弱ってたから、よろけて転んだ時、、
こういう状態では、手では防げないので、
顔や、膝を強く打ったりしたんですよ、。
聖書には、詳しく書かれてないから、、知らないでしょう?

イエス様の十字架は、妥当なのですか?
人の救いのためだから?

こんな苦痛が三時間も続く中でも、、
イエス様は、、、神様に不満一つ言わず、
人を裁き呪うこともなさらなかった、。

肉体を持つものならば、、その苦痛の甚だしさゆえに、、
到底、、それを成し遂げるには困難を極める状態なのです、。
簡単に赦し受け入れれる状態ではないことは、、確かです、。
神様の御子だからといっても、、イエス様にも、家族があって、、
愛する人マグダラのマリアもいたのです、。

イエス様は、、愛する者と引き裂かれても、、恨まず憎まず、、
つぶやくこともせずに、神様に従い、完全愛によって、人を赦したのです。
赦すことは、、簡単なことではなかった、、。

サタンが、イエス様は神様につぶやき人を呪う。と
確信してた程の苦しみです、。
その酷い苦痛に耐えて耐えて何もわからず、罪を犯しては苦しむ人を憐れみ、
絶対に救いたい、、と強い決意を持って、
完全愛と人を慈しむ想いにより、赦しきったのです、。

十字架にかけられる前の鞭打ち刑のせいで、
イエス様のお身体には、極度の裂傷や打撲、
相当量の出血があったと考えられます。

十字架を負うまでもなく、すでに瀕死の状態に限りなく近かった、
と考えられるのです、。
イエス様が、そんな状態でも、生きていれたのは、気力だけです、。
十字架上で、、サタンと戦い、完全愛で打ち勝ち勝利するために、です、。
サタンに勝利しなければ、、人を救い出せないのですから、、。

イエス様ほど、人の救いのために苦しんだ御方はいません、。
イエス様ほど、人を愛された御方はいません、。

サタンと人に叩きつけられた憎しみに、、
憎しみで返さず、、完全愛で返し完全なる無償愛で勝利された、イエス様、。
無償愛は、、最も尊く、清らかな愛の形、。

偽物の愛はいっぱいあります、。
見返りを求める愛、、不満を持ちながらの愛、、思いやりのない愛、
本心からではない偽善愛、、奪いとる愛、、支配する愛など、。

基本的な考えは、、これだけ愛してあげたんだから、、
愛し返して貰えて当たり前、という、自分の愛は大きく、、
相手の愛は小さく評価して、常に相手に対して対価を求めることです、。

親子で、、それをやったり、、恋人同士でそれをやると、
すぐにギクシャクします、。
愛することで満足するのではなく、、愛されたいと常に考え思っているので、
いつまでも満足することが出来ないのです、。

イエス様は、、最も愛した女性マグダラのマリアと、
婚約し永遠の約束を誓いました、。

イエス様は確実に、婚約だけはしています。
バプテスマのヨハネに洗礼を受けたのは、
婚約の儀式のための清めの儀式だからです、。

洗礼=罪の清めというのは、、固定概念です、。
イエス様は罪なきお方なので、
罪を洗い流す洗礼のほうは受ける必要性がありません。

現代では、公衆浴場にて、嫁候補の女性のみ、
結婚式の前日に、3回、風呂桶の中に浸って、身体をよく洗浄し、
身内の女性等による点検を受けるようです、。
身体の洗浄と親族による点検の儀式は、古代イスラエルでは、
男性にも同じような義務が課せられていたと思われます。

新婚夫妻は、結婚の晩餐式が済むと、特別に用意された部屋に引っ込む。
挙式後8日間は、花婿はいかなる仕事からも解放され、
自宅で嫁と一緒にいることを義務付けられる、。
シナゴーグに行って祈ることは、許される、。

イエス様の最後の晩餐の日は、、、
本当は、、イエス様の結婚の晩餐式の予定だったのでした、。

長い間の婚約期間の末に、
やっと、、マリアと、、結婚できるはずの、、待ちに待った時だった、。
人の不信さえなければ、、、。

欲に目がくらんだ祭司らが、イエス様をメシアだと、
認めなかったから、、。
自分たちの権威失墜を恐れ、イエス様と神様に背いて、
イスラエルの国を滅ぼした愚か者、、。

物欲や自我欲に目がくらむと、、本当に大切なものが見えなくなる、。
国ごと滅びたら、、祭司でいることも出来なくなるのにね、。
イエス様に従って、、イエス様が結婚できていて、
無原罪の御子が生まれていたら、、、
その子々孫々と結婚した人は無原罪となって、、
イエス様の教えられた新しいユダヤ教が、、
世界共通の宗教になってたでしょうね。

ユダヤの教えが土台だから、、
ユダヤ教改宗者は同族、同胞、、
ユダヤ人同士は踏みにじらない、。わけだから、
分裂や、侵略も虐殺も腐敗も、今よりは起きなかったでしょう、。

貧しい人への配慮も在る教えだから、貧富の差も少なかった、。
アブラハム契約により、世界中のユダヤ人となった人は神様から守護を受け
世界中で繁栄して、、
今よりもっと世界平和の誓い世の中になってたでしょう。

イエス様、、マグダラのマリアと、
この世では婚約までで結婚できなかった、。
でもユダヤでは、、婚約を誓いあったら、、
その誓いは神聖で永遠の誓い。

2000年前のイエス様の花嫁は、、
マグダラのマリア、彼女ただ一人、。
その誓いと約束は、永遠の約束、。

イエス様の花嫁、、
クリスチャン女性なら、そう望む人も居るだろうけど、。
気持ちは、、わかる、。
私だって、、そう思うこともある、。
でも一人の男性に一人の女性で、一対なんです、。

それが聖書に書かれてる創世記時代からの規定なのだから、
変更はない、。アダムの花嫁は、エバ一人、。
第二のアダムであるイエス様の花嫁も、マグダラのマリア、ただ一人、。
永遠に、。イエス様に複数の花嫁は、、存在しない、。

マグダラのマリア

イメージ 2

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へPVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)

不正な管理人は、現代の牧者の姿なのでしょう、。
教会のトップ、、神様の財産と羊の管理人の立場、。
ある牧者は、、神様の羊を、あたかも、自分の召使のようにして、
支配したかのように扱い、。

他のある者は、、自分の私腹を肥やし、、富に仕えて神様を棄て、
信徒を利用して自分が楽をすること、信徒に威張り散らすことなどをする。
このような堕ちた牧者は、、神様の権威を使って、
自分を楽しませることしかしてない、。

ある牧者は、信仰生活の中で、、
サタンに讒訴され、、自分の罪に苦しみ、悩み、
自分の罪を認めて、、悔い改めて、、神様に従い、。
自分を楽しませることより、、信徒を養い大切にすることで、
自分の過去の罪や、足りない分を、償おう、補おうとする牧師がいる、。

この不正な管理人の例えは、
2つ異なった牧者の、人物像が、一つの人物として書かれているから、、
主人の財産を食いつぶし、不正をした管理人なのに褒められた、という、
若干、意味不明状態になっている、。

牧者という名前の一つの肢体として考えてみれば、、
ありとあらゆる牧者を、ひっくるめて、一人になるのだから、、、
おかしくはない、。

ようは、、牧者として、人の上に立つと、、
こういう失敗をし易い、、と、
イエス様は、、見抜いておられて、、
この例え話を、いずれ未来に現れる牧者となるものへのメッセージとして、
話されたのでしょう、。

金持ちは神様で、、神様に告げ口をするものはサタンです、。
主人に借りのあるものは、その牧師が神様から預かっている
一人一人の羊です。

ルカによる福音書
16:1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。
16:2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
16:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
16:11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
16:12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

見事なまでに、、現代の牧者像に、、ぴったんこ当てはまる、。
聖書は、、神話や夢物語ではないのだから、、
現代でも通用しないと行けない、。
イエス様の御言葉は深いです、、。

不正な管理人、
前半の牧者は、、羊を羊と思わない牧者、。
神様から預かっているものを、、
自分のもののように勘違いして私物化する者、。
このような牧者に、もし当たれば、、信徒の幾人かは、躓く、。

こういう牧者は、自分の知恵や功績などを誇って、自分を信じなさい、。とか
奉仕しなさい、。あれしなさい、これしなさい、と命令をする、。
後、多いのは、、礼拝に来ないと罰が当たる、。
献金しないと霊的に恵まれない、。とか言って脅す、、。
こういう牧者は、、褒めては貰えない、。
書かれてなくても、、不忠実な僕として、厳しく裁かれる、。

後半の牧者は、、神様から預かっている羊を養い大切にすること、
信徒の助けとなることで、、羊を神様につなげる、。
神様につながった羊は、、牧者の、影の労苦を通じて、
神様に感謝し、神様に確実につながっていく、。

抜け目のないやり方、、とは、、
自分の足りない部分や、罪を犯してしまう部分があるけれど、、
善い行いをすることで埋め合わせようとすること。
神様は、、その牧者に何か欠けた部分があろうと、足らなかろうと、
そのひたむきな忠実さゆえに、褒めて下さる、。

こういう牧者は、礼拝に良かったら、またおいでください、とは言うけど、。
礼拝に来ないと罰が当たる、とかは、言わない、。
自分を信じなさい。とか、言うのではなくて、神様を仰ぐように、と指し示し、
自分は、影の功労者に徹しようとする、。
なので、自分の知恵や功績などを誇るのではなくて、
神様とイエス様を信じましょう。というのが口癖の牧者はこっちだわね、。

不正の富、、とはよく言ったもので、。
イエス様は、献金を奨励していないのだから、、、
本来の捧げ物のあり方、喜んで、、ではなく、
教会に、牧師の脅し半分、信徒の義務半分、、で、半ば、
無理強いされて献金や信徒が集められたのなら、、、
教会の牧師が不正に集めた、この世の富、ということになる、。

神様の財産は、教会と、そこに集う羊も含まれるのだから、
もし、義務半分、脅し半分でも、そこの教会に集ってくる羊がいるなら、。
そこの牧者は、、教会を私物化するのではなくて、
後者の牧者のように富に仕えず、自分の責務に忠実であれ、
ということですね、。

牧者とは、一歩間違うと、、
富に仕えやすい、霊的に見ると、かなり危険な職なのでしょう、。
救いの体感も得ていて、、神様に忠実であろうと、強い決意がないなら、、
軽〜〜い気持ちでは、、やらないほうが良いかもね、。
もし、前半の牧師みたいに堕っこちたら、、後が大変です、、。

きっちり、、厳しい罰を受けないと行けないです、。
神様は、、神様を舐めてるようなものには、とても厳しいです、。
背いたかもしれない、、と気づいたら、慌てて引き返しますと願い、、
そう心底、すぐに思うくらい、、身に染みる、、
それはそれは厳しい罰が待っていますよ。

出来うる限り、、この世にいるうちに、、悔い改めて立ち返り、
出来得る限りのことをして、
自分なりで良いので罪を償うことをおすすめ致しますよ、。
そうすれば、、幾分処罰は軽減されるでしょうから、。

自分を象のように大きくではなく、、
子ネズミのように低くし、
神様に仕えるように羊にも忠実に仕える牧者は、
いったい、どのくらいいるのでしょうか??

マグダラのマリア


イメージ 1


十一献金について、聖書では、
献金を捧げる対象は、最初は幕屋、
その後はエルサレム神殿に捧げていた、。

レビ人は嗣業の土地が基本無いから、
レビ人のために捧げていた、、。

これをキリスト教会は利用して、、
信者に十一献金を教え、、教会献金をさせている。
これ、聖句の私用的な使い方、解釈、。
口が悪いけど、、聖句の悪用と言ってもいいレベルかもね、。

だってね、、
捧げものの対象は、、エルサレム神殿とレビ人に、、、、であるので、
厳密に言えば、、現代の教会や神父牧師宛てではないのですからね。
広義的解釈をしているわけですから、。

まぁ、、キリスト教は、そのユダヤ教を引き継いでいるから、、
捧げられたものを受け取る権利がある、と教会の運営側は、いうかもしれません。
でも、神様は、、もともと、エルサレム神殿でさえ、
建てなさいとは、一言も仰ってない、。

ソロモン王が、自分の自己満足と見栄のために神殿を建てたかっただけ、。
それでも、父さまは、ダビデゆえに、、それを許された、。

歴代誌 下 
5:14 その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。


神殿に栄光が満ちた、、と書かれているけど、。
神様が喜ばれたとは限らない、。
奉仕を続けることができなかった。
、、これは、神殿ですでに奉仕をしていたのに、
そこにいられなくなった、。
つまりは追い出されたということなのだから、。
祭司たちが入る前に栄光が満ちていたので、
神殿に入れなかったのではなく、
栄光が満ちて、神殿から追い出されたわけで、。

父さまの御心に叶っていたのなら、、奉仕してる祭司がいるのに、
神殿から、追い出したり入れなくして締め出したりしませんよ、。

人の手によって造られる神殿は、神様には不要のものだったのです、。
でも、ダビデも、そしてソロモンも、それを強く望んだから、

わたしはあなたの祈りを聞き届け、
この所を選び、いけにえのささげられるわたしの神殿とした。

もしあなたたちが背を向け、わたしの授けた掟と戒めを捨て、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、
わたしは与えた土地から彼らを抜き取り、わたしの名のために聖別したこの神殿もわたしの前から投げ捨てる。こうしてそれは諸国民の中で物笑いと嘲りの的となる。
と、父さまはおっしゃっています、。
ダビデと、ダビデの子孫から産まれてくる救い主のために、、
神殿を建てるというソロモンの願いを許されたのです、、。

父さまからご覧になられたら、
46年もかけて建築された壮大なエルサレム神殿でさえ、、
いつでも、、人が不信したなら投げ捨てる程度の価値のものなのです、。
現代の教会の建物も、、、父さまご自身にとって価値があるかといえば、、
ないでしょう、。

教会の建物という存在を赦しておいでなのは、、
生きている人のためですから、。
教会という建物に集まり人につながることで安心する人もいるからです、。
生きている人のためでしかないです、。

ぶっちゃけ、、新約時代のすべてのクリスチャンが、、
現代の神殿、教会とレビ人、牧者に十一献金をすべきかといえば?

それは、イエス様次第ですね。
大祭司であり、この世の教会の持ち主でもあられるイエス様のみが、
献金の額を決める権威があります、。

レビ記
27:8 もし、彼が貧しくて相当額が支払えない場合は、彼を祭司の前に立たせる。祭司が彼の支払額を定める。すなわち、彼が満願の献げ物をささげる資力に応じて祭司が決定する。


祭司に決定権があり額を減らしたりできると聖書に書いてあります、
祭司の最高権威は大祭司です、。
人ではない、、まことの大祭司はイエス様だけですね。

じゃあ、イエス様は献金を奨励しましたか?
新約聖書の、どこに献金を奨励したことが書いてありますか?
イエス様が献金を奨励していたという記録は、、何も無いのです。

それどころか、イエス様は、教会さえも、ただの一つも建ててない、。
既存のユダヤ教のお宮を使用したり、
晴れているときは、山や野原で、教えましたね、。

教会という建物を建てると、無駄な維持費がかかるし、
教会という存在が富を集め、富を持てば、権力を欲し、
堕落し腐敗することをご存知だったからです、。

イエス様は、十一献金について、一言も奨励してません、。
教会を建てたり、この世に献金をして、この世に富を積むことよりも、
愛を行い、天に宝を積みなさいと仰いました。

現代の教会は、、誰のためにあるのですか?
牧師のためですか?信徒のためですか?
本来は、、神様のためですよね?

でも、多くの教会が、人(牧者)の好みに合わせて教会を運営してますよね、。
信徒は、奉仕や献金や、なんやかんやで振り回されたり、
牧師に躓くだけだったりする、。

せめて、、牧師の好みではなく、
信徒同士で愛し合う憩いの場、としての教会づくりができるような
思いやり深く、霊的にも優れた牧者が、上に立つ教会であれば、、
信徒は、いつも霊的にも満たされてて幸福感を感じれるでしょうね、。

あ、、そうそう、、
十一献金について、聖書では正確には、

すべてのもののうちからの十分の一
、レビ人への10%足す、
10%捧げて残った分90%から
焼き尽くす献げ物、いけにえ、十分の一の献げ物、収穫物の献納物、満願の献げ物、随意の献げ物、牛や羊の初子、儀式用の10分の一捧げるので9%足す、
三年に一度の嗣業の割り当てのないレビ人や、
町の中にいる寄留者、寡婦、孤児のための捧げ物、
すべてのもののうちからの十分の一の10%で、
三年に一度なので三分の一、年に3.3%
で、、イスラエルの人々が父さまから命じられた捧げ物の額は、
合計、年に22.3%です、。

現代は、動物の分と寡婦や孤児、
貧しい人のための10分の1が換算されて無いから
10分の1の献金設定なのかなと思ってましたけど、。

聖書の律法に完全に従うなら、年に22.3%、、そうなります、。
レビ人も、、受け取った中から十分の一捧げないといけない、。
つまりは、献金を信徒に強制するというなら牧師も、、
謝儀(お給料)が少なかろうが、
全収入の、、
十分の一神様にお返ししないといけない、。

厳密に言えば、
十分の一献金は、
総額は年額にすると総収入の
22.3%、
信徒全員、、この金額を捧げなさいと言われて、捧げれます?
生活成り立たんでしょ、。

イスラエルの民も、、それで大変で苦しんでいた、。
正直書けば、イスラエルの民全員が全員が、
聖書の規定通りに献金を収めれたわけではない、。

でも、神様は、収めたとみなして下さってる、。
出来る限りを、捧げてたからでもあるし、
ほんとに生活が苦しかったから、
一部しか捧げれていなくても、全額捧げたと神様はみなして下さった、。

現代では、信徒のそんな細かい事情までは考えてないよね、。
規定通りに献金しないのは、
神様のものを泥棒してると考えるくらいだし、。
なんでも杓子定規に、律法を盾にしたら、、よろしくない、。

生きている人を思いやることを忘れて、献金を搾り取ろうとすると、
そういう教会は、いつかは地上から取り払われると私は想いますよ、。
大祭司たるイエス様が、献金を奨励してないし、、
お金で腐敗した教会を放置するはず無いし、。

現に、、私が洗礼を受けた母教会は、、
牧師が教会を私物化したから、この世から取り払われましたもの。

父さま、イエス様、、天でも地でも御心がなされますように、。

マグダラのマリア

 


自分の考えてる良い人であろうとすることより、
素直で笑顔なほうがいい。

高校時代からの友達、最近よく、こう言ってくる、。
あなたに依存しすぎて、見捨てられたくないし、
家族で幸せになりたいから、頑張る、、と、。

あまりに不安で、臨時に予約取って待ってもいいからと
心療内科に予約を入れて、、その時に先生から、、

あのね、。
牧の貴重な時間をとらないでくれる?
今日は20分の聞く時間はあげません。
あなた、仕事やめれない、生活できないって、この前、言ってたでしょ、。

今まで、不安だ不安だと言って、薬も飲んでても、
言ってるうちにどうにかなってるでしょ、。
一ヶ月、あれこれ言わずに黙って会社行きなさい、。
あなたの場合、大騒ぎしても最後はどうにかなるもんなんだから、。

あなたの友達(私の事)、そんな、いつもどうにかなってること、
しかも同じことで電話かけられたんじゃ、いい迷惑だよ、。
現実をみなさい、。働きたくないと逃げてても
働かないと食べれないんでしょ?
幼女のようなこと言ってないの、。

と、かなり大きめの爆弾を投下、された模様、。
私に、しきりに、時間取ってくれてありがとう、、と
言ってくるようになった、。

家電で、埼玉までの長距離電話なんぞかけたら、
おっかないです、。
固定電話では絶対に、、かけれません。
かけ放題契約のスマホのみです、。
一度電話すると、、90分は電話切らない電話魔だから、料金が怖い、。

私、最初は、聞いてるだけ、、、
途中から、爆弾落としてツッコミ入れて、追い詰めて泣かすけど、。

これは、こういう気持ちが下地にある、。
これは、こういう意味に言い換えれる、、
だから、自分勝手な考えということで、やると、自分の首が詰まるし、
家族ともギクシャクする、。

だから、家族旅行イヤダイヤダとばかり言ってるのは、
自分のことばかりで、子供や旦那さんのことは
眼中になしということだから、
家族旅行のどこが行けないの?となって、
旦那さんも機嫌が悪く、夫婦仲も険悪になるんだよ、。

と、彼女に分かるように説明し続け、
実際、それを納得するまで、彼女は10年はかかった、。
旦那さんの悪口オンリー、ただひたすら聞いてた時期も入れたら15年間、。

あの人がいなければ、私、会社行けるようになって、
具合の悪いのも治る、と言ってたのですけどね、、。
私は、違うことを言っていたんです、。

あなたは、その人が仕事ができて、あなたに、もう少し仕事の能率、
早くして頂戴と言われることが嫌で、そう言ってるけど、。
彼女は、そうあなたに言わないといけなくなるくらい、
色々仕事抱えて、見えないところであなたを支えてる形になってて
大変だから、そう言ってるのだと思うよ、。
一人だけいくら頑張っても限界があるもの、、
能率ののアップを若干でも要求するのは仕方がないでしょ?
貴女は、頭を下げないと行けないのが嫌で拒否してるだけでしょうよ、。
なんでケチつけるの?私精一杯やってるのに、、とカチンと来てるから、
その人の顔見るのが嫌で具合も悪くなるのよ、。
貴女は、彼女が居なくなれば楽になる、と考えてるけど、。
その人が、居なくなったら、、
彼女と同じ仕事しないといけなくなって悲鳴をあげるのは貴女だよ?
いいの?そのほうが何倍も大変だよ、、と、
ずっと何年間か、言っていた、。

そう、言ってて、その人が急に人事異動、。
そしたら、ほんとに、うつが治るどころか仕事のストレスで、
不眠症がひどくなって、
歯ぎしりして、朝起きると顎がガタガタ、、という状態になって、。

そういう体験をして、やっと、人の話に耳を傾けて、
どうしたらうまくいくようになるか、を考えるようになった、。
自分の考え至上主義だった彼女が、、自分の考えを捨てて、

我儘言ってたから、神様の罰当たっちゃったんだね、。
家族との仲を良くするためには、どうしたらいい?教えて。と
真剣に話を聞き、自分の人生を良くしたいと考え出したわけで、。

本人、、そうなるまで、、
私の言った通りになんて絶対にならないと信じてた。
私にも、そう言ってきてた、。

いや、元気になるもん、、
その人が居なくなったら、嫌味も言われないですんで
気持ちが楽になるから、うつも治って元気になるでしょ、。と、。
目先の視点でしか見えてない考え、、なんですが、。
自分では、そうなると強く信じて思ってたわけで、。

でも、蓋をあけたら、もっと具合が悪くなり、
心療内科の他に、歯医者も通わないといけなくなった、。
仕事が増えたストレスで、うつもひどくなった、。

実際に、失敗体験して、彼女のように、
やっと人の話を聞くようになるならまだマシで、、
何度失敗しても、自分の考え至上主義で、頑固でいる場合は、、
人生は、、ひどくなる一方で、良い方には変わりませんね、、。

まぁ、もとから、
見捨てると言っても、口だけなんですけど、
にこにこ、。
彼女なりに考えて頑張っているの分かるから、。

この前は、家族旅行、、いやだいやだと、
自分の我ばかり考えずに楽しんでこようと思って出かけたら、
とても楽しめて、旦那さんが、車運転してくれるのをみながら、、

ねぇ、パパ、仕事で疲れているのに、旅行先でも車運転して疲れてるよね、。
ごめんなさいね、。旅行来れて楽しかった、ありがとう、。
と、、そういう思いやる気持ちが湧いてきて、そう旦那さんに言ったら、、

自分の殺伐とした心の中が、ふわっと暖かくなって、
自分の気持ちが落ち着くのがわかった、と言って来たので、、
彼女は、自分の心の動きに鈍感ではないのですね、。

旦那さんも、彼女が彼の気持ちに寄り添い、仏頂面を減らしたので、
ママは、時々、根暗になるからなぁ、。
と、、
ぼそっと、いわれたそうで、。

それ聞いて、、あらぁ、、良かったね〜。
前は、お前はなんでそんなに
マイナス思考ばかりで根暗なんだと言われてたもんね、。
今は、時々、、に昇格したんだから、ご立派。
旦那様の反応、いいんじゃないの。家族仲、良くなるの進歩したね。
良かったね、。と言いました。

自分の内面の心の動きに敏感であれば、
まともに生きるのに有利ですね、。
私も鈍感にならないようにしたいです、。

まぁ切らないと、、この人は自立できない、。と思えば、
どこかで切りますけど、彼女は、平気のように感じてます、。

彼女は、、良い子クリスチャンではないです。
マイペースで、自分のことだけ考えて、家族のこと大事にするよりも
自分が楽になることばかり考えてたクリスチャンです、。

それでも、失敗して、これじゃあいかん、。
これだと、自分勝手な考えなんだよな、。と
Uターンして、どうしたら家族と仲良く、幸せになれる?
そう一生懸命考えて、生きてるから、、
ちゃんと、困った、どうしよう、、、のときは、
周りが見捨てないで、なんだかんだと手を差し出し助けてくれてる、。

良い子クリスチャンではないけど、神様は、彼女を放置してない、。
助けを与えてます、。
良い子クリスチャンではなくて、自分勝手な考え持つけども、、
彼女なりに、どう生きたら家族皆で幸せになれるか、、を
真剣に考えて努力して居るからです、。
だから、私も、こら、切り捨てっぞ、、と
幾度か脅しておきながら、見捨てないんだし、。


良い子信者でいたら、、
そういう人が神様を信じて従うような人、、というなら、
イエス様の時、ファリサイ人、サドカイ人及び律法学者、
政治家(議員とか)が、、先にイエス様を信じて信者になったし、、
なれたとおもいますよ、。

でも彼らは信じるどころか、
逆に、イエス様をうとんで、憎んで迫害!しました。
知識がある、お金がある、地位がある、、
人間的に何かを持っていて人が見て優れてるような人ほど、
イエス様を信じなかった。

何もない人ほど、素直に、、イエス様を求め信じました。
読み書きもできない人も、、病気の人も、、
人から嫌われてたローマの税金集めをしていた徴税人も、、。

真っ先に天使が知らせて、、
生まれたばかりのメシアと出会ったのは羊飼いでだった。
羊飼いは、当時、奴隷に近いしもべであって、
彼らは人口統計外で人口数にも数えられない人、、
人外とされていた人たち。

人とみなされず、奴隷や家畜のような扱いを受けて苦しんでいた人たちは、
素直にイエス様を信じて、笑顔でメシアを受け入れた、。

彼らは、神様の与えた規律も、律法もよく知らない、。
聖書も読んでない、。読みたくても、聖書は高額、。
だから、それぞれ自分の主人から言われたこと、
自分に預けられている羊を守り養うことだけを考えてこなしてた、。

そうやって、自分のすべきことをし、生きてくことだけで、精一杯だった、。
自分の担当以外の羊まで、手が回らなかったと思います、。
同じ主人を持つ羊飼い同士は協力しあっただろうけど、。

自分の考える良い人、、良い子クリスチャンでいて、
知らずに変に心おごって神様を蹴倒すようなことをしでかすより、。

私や私の友達みたいな、、良い子クリスチャンではなくても、、、、
自分が与えられている家族を守り、
欲張ることなく、素直に笑顔で生きるのがベストじゃないかな、、

そうすれば、、助けも与えられる、。

それが、変な知恵や思い込みで、、
自分の理想の良い自分像を作りだそうとして、
長く祈ったり、断食したり、人を無理して助けようとしたりして、、
うまく行かなくて、運も良くならなくて、なんでどうして?になるより、、
人生で大きな失敗をしないで済みます、。

良い子クリスチャンでいようとするのは、、何かで躓けば、
イエス様を罵倒したりする危険が伴うし、、
自分が理想とする人(クリスチャン)に幻滅すれば、棄教もしやすい、。

自分が欠けてるクリスチャンだと思う人は、、
神様に言い返したり逆らうより、
素直に信じて御言葉を聞いて、従うほうを選ぶ、。
言い返せるような、、根拠とできそうなものが何も無いんだから、
言い返すことなんて出来ないのだ、けれども、。

いつから、、誰が、、義人を招くお方に、
イエス様をすりかえたのでしょう?

『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招くためである。


 
余所様のお家に咲いてた綺麗な薄ピンクのバラ、。

マグダラのマリア

イメージ 1



本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事