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書庫マグダラのマリア聖書論



この書庫は聖書の深(裏?)読み系の記事です。

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主の母

ルカによる福音書から 黒字部分は管理者加筆。

◆イエスの誕生が予告される
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。

1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
(身に覚えがなければ、罪がないのだから↓恐れることもなく、考えこむこともしないで天使に、返答をする。マリアは、幼少の時から神殿で神様に仕えていて、天使を見たり会話していて、天使を見ただけで恐れるわけがない。)

1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
(ヨセフとの婚約中なので、、男の人、夫ヨセフのことは、男性として知らない、と答えた。)
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベト、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
(唐突に、祭司ザカリアの妻エリザベトのことを天使は言っている、。彼女が身ごもったのは神様の関与による、。
同じように、、御母マリアにも、聖霊が関与し聖なる人、イエス様がお生まれになると、二人の聖なる人の誕生を天使はマリアに告げた。

エリサベトも、、と、“”、、なので、すでに御母マリアも、受胎済みということ、。受胎告知は御母マリアの受胎前ではなく、受胎後であることがわかる、。下でエリザベトも、受胎後であると証言している。

1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
◆マリア、エリサベトを訪ねる
1:39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1:40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1:41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1:42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1:43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1:44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
(わたしの主のお母さま、、と、エリザベトも、メシアであるイエス様が御母マリアからお生まれになることを証している。
生まれる前から、、私の主と、エリザベトは告白している、。
聖霊に満たされているから、、それがわかるし、そう告白している、。

どこかのサイトで、
>聖霊が乗り移った憑依状態や
神の操り人形状態でなされるものではありません。
と言ってて、、

はぁ?聖霊も、幽霊や悪霊と一緒の扱い?
普通は乗り移ったとは言わず、
満たされたとかいうけど、。と内心思って苦笑いした、、。

その人の論によれば、
聖霊に満たされて、言葉を語った御母マリアやエリザベトも、
信仰者ではなく、、神様に操られ状態で気がおかしいということになる、。
あ、↓祭司ザカリアも、、ですね、。

あかん持論でしょ??
聖書に当てはめて、矛盾が出る論というのは、大間違いだってこと、。笑)

◆マリアの賛歌
1:46 そこで、マリアは言った。
1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
1:56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。
目を留めてくださった、わたしに偉大なことをなさいました、と、過去形なので、、受胎告知の時点、ヨセフと婚約中に、受胎済みなのですね、。

このマリアの讃歌のあとで、、バプテスマのヨハネが生まれた時、
1:67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
1:69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。
1:70 昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。
1:71 それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。
1:72 主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。
1:73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、
1:74 敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、

1:75 生涯、主の御前に清く正しく。
1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
1:77 主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。
1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」

さりげなく、、父ザカリアは預言した、、と、一言書かれ、
イエス様の預言とバプテスマのヨハネの預言、、とが、
それぞれ書かれている、。

マリアへの受胎告知のときも、御母マリアへの懐妊に対し、、
ザカリアの妻、エリザベトの懐妊のことが引き合いに出され、、、
ここでも、イエス様が、バプテスマのヨハネの誕生のことに、
まだ生まれてないうちから、預言されている、。

イエス様の肉、器の父が、、祭司ザカリアであったから、、。

また、、それだから、、イエス様が、12歳の時、、
私の父の家、、と聖書に記録されたのは、
天の父と、肉の器の父とが、エルサレム神殿に居る、と、
2つの父の意味を重ねての聖句だったのでした、。

イエス様の父は祭司ザカリアだと、
おおっぴらには言えなかった、、書けなかったからです、。

イエス様に普通の人のように、、肉の父母がいたら、、
誰も神様の御子と認めない、と思ってね、、。
初期のカトリック教会は、聖書を編纂したのでしょうね、。

父様は、それをはるか前から見越して、聖書記者に智慧を与えて、
最低限のキーワードが、後世に残るようにされていた、。

祭司ザカリアの子は、、
イエス様と、バプテスマのヨハネの二人であると、
聖書は、父ザカリア、の一言で証ししている、。

たった一言だし、預言だから、、気づかず削除されないで残ったのね、。
バプテスマのヨハネが生まれた直後の聖句であったし、。

イエス様は、、肉体的には祭司ザカリアと、
御母マリアとの間に授けられた聖なる御子です。
でも、肉体に宿られた御霊は、神様の御子である御方で神様です。

聖句が、それを証しています、。
イザヤ書
7:13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

レビ記
21:13 祭司は処女をめとらねばならない。

これはアロンの血筋の祭司への規定、。
アロン家の祭司は、処女しか触れたり、妻に迎えてはいけない、。
ザカリアは、レビ族のアロン家なので、処女にしか触れられない、。

ヨセフは、アロンの血筋を引いてはいても父方がユダ族であれば、処女ではなくても規定違反にはならない、。

このイザヤ書7:14 聖句のおとめのギリシャ語の語源は、、
若い女性、Young womanなので、実際的には処女ではなくても良いのです、。

メシアは、ダビデの家系とアロンの家系の2つの家系とからの
長男として生まれる、という意味だから、。

聖書がそう証していることだけで、、
イエス様が神様の御子、インマヌエルの神様であることは明白なので、
人による証は、、何も必要がない、。

イエス様は神様であるから、、
宿る肉体が、処女でなくても清いままのは当たり前です。
それを処女降誕じゃないなら穢れてるという方がおかしい、。

イエス様が、普通の男女の営みから生まれたとしたら、
穢れているというのなら、イエス様の聖性神性を認めないということで、
条件付で、神様と認める認めない、という思考の方が、神様に対して不遜です。

聖霊が降って清めたのは、、御母マリアでもなく、、
イエス様でもなく、、原罪を持つ、祭司ザカリアのこと、、。

御母マリアは、その母アンナが
聖霊に満たされて産んだ子で、生まれながら清く、
無原罪の胎を持つ選ばれた乙女だったから、
聖霊で清める必要は何もなかった。

ザカリアのことを、聖霊で満たして清めないと、、
イエス様の肉の器が無原罪ではなくなるので、。

聖霊で満たされた祭司ザカリアが、イエス様の肉における仮の父、、
でも、霊においては、、天の父様が、本当の父さま、。

単に、器、、入れ物だけの問題だった、。
宿る器など、イエス様御自身にとっては、、
どうでも良かったのだけれど、、。

でもそこまで徹底しないと、サタンは、ずる賢いので
御霊が神様でも、肉体に原罪の徴があるから、と
神様の御子ではないと、すっとぼけやがるから、、、。怒、。

それで、無原罪の胎を持つマリアから、
聖霊で清め無原罪状態にした祭司ザカリアによって、
完全完璧な無原罪の肉体を持って、イエス様は受肉なさった。

霊肉ともに完璧に無原罪なので、
サタンは、罪あり、とイエス様にだけは言えなかった、。

話を戻して、
御母マリアが、ザカリアの代理妻となったけれど、、
エリザベトが懐妊したことがわかったので、、
実家に帰して、祭司ザカリアは、御母マリアを、、
自分の遠縁で、ダビデの子孫のヨセフと婚約させた、。

相続人が女性である場合の規定
民数記
36:6 ツェロフハドの娘たちについて、主がお命じになったことはこうである。娘たちは自分を気に入ってくれた男と結婚してよい。ただ、父方の部族の一族の者とだけ結婚できる。
があるので、、御母マリアは、
父ヨアキムからダビデの嗣業を受け継ぐ一人娘であったから、
父方と同じダビデの家系の男性としか婚姻できなかった、。

祭司ザカリアは、イスラエル中から、
御母マリアの婚約者を決めるため、
候補者を集め、、彼らに杖を奉納させた、。

その杖に花が咲いてアーモンドの実が、、実ったのがヨセフ、。
杖の奇跡により、御母マリアの婚約者として選ばれた、。
その祭儀を取り仕切ったのは、祭司ザカリア、。

ザカリアは、ヨセフを説き伏せて、、
御母マリアの婚約者候補として名乗りを上げさせ、
神様に祈り願って、ヨセフにくじが当たるように、と祈って、
神様が、それを叶えられた、。

それは、イエス様の系図にマリアの夫ヨセフと、、
御母マリアの本当の夫たるべき者はヨセフ、、と
神様が定めておいでだったから、。

一度目の結婚で、、本当の運命の出会いがあるとは、、限らないのね、。
自分のほんとうの相手と、、この世で出会えても、、
結婚は出来ないことだってある、。

そういうのをカバー出来るのが、新生輪廻、、
本当の相手、自分のアダム、自分のエバ、を見つけるために、、
その他にも、生きていた時出来なかったことを追体験するために、、
新生輪廻は、、大きな救い、。

一度の人生で出来ないことって多いし、
もっと、こういう事してみたかった、と
心に悔いが残る人だって居るから、、、、。

満たされたい、満足したい、、という小さな願いでも叶う、。
死んでからであっても、それは、大きな慰め、。

擬似的家族、、擬似的結婚、擬似的育児、、擬似的体験でしかないけど、
心で体験するそれらは、実際に体験した如くに、
自分のものになるわけだから、。

望めば、無限に、、いくらでも、。
死なないから好き放題、何度でも満足するまで、
それこそ、永遠にでも、、追体験がいくらでも出来る、。

まぁ、私は、人間としては生まれるのは、もう良いかなぁ、。
でも、必要なら、新生輪廻して、また、次の私になるのかもしれない、。

さて、、御母マリアは、祭司ザカリアとは正式な婚姻ではなかった。
自分の長姉エリザベトの願いを聞き入れてのこと、、。

誰かが、ザカリアの後を継ぐ子を産まなければ、、
ザカリア家は断絶だから、困る人が大勢いた、。

でも、正妻のエリザベトが、身ごもっていたので、、
ザカリアは、上で書いた通り御母マリアを、
実家に帰らせてヨセフと婚約させた、。

それは、御母マリアが懐妊しているかもしれないから、だった。

御母マリアは、自分が実家に帰された理由は知らなかったのでしょう、。
許嫁のヨセフにも、ザカリアがすでに触れていたことは言ってなかった。

だから、エリザベトが懐妊したと天使から聞いて、
エリザベトのところへ確認をしに行って、二度目の挨拶をした、。
懐妊が事実だったので、、自分がメシアの母となる事を知り、
神様を讃え賛美した、。

3ヶ月の滞在期間は、受胎告知の前の時で、、
その時に、エリザベトに呼ばれて、
御母マリアは3ヶ月、エリザベトの所、、
つまりは妻の居るべきところに居て、代理妻となって、
ザカリアの家に留まっていた、、。

その間、エリザベトは家から離れ実家に行き、身を隠していた、。
聖書に書かれた時系列が、逆順だった可能性が高い、。
聖書記者は、、イエス様が、肉体的には、
祭司ザカリアの子であると、思ってもいなかったでしょうから、しょうがないです。

一度目の、最初にエリザベトの元へ行ったのは、、
エリザベトの実家に行って挨拶し、
それから、ザカリアのもとにエリザベトの願いで、
3ヶ月の間、代理妻として行って、、。

二度目は、ザカリアの元に戻ったエリザベトの元へ行って、、
懐妊の事実を確認しに行って挨拶したのを、
一緒くたにしてしまったということなのでしょう、。

そう考えないと、聖句の流れを読めば、、御母マリアは、、
受胎告知を受けて、その場で懐妊して、妊娠2ヶ月以上でないといけない、。
それはいくらなんでも生物学上、無理な相談、。

神様に出来ないことはないけど、、、
御母マリアの身体に著しい負担がかかる、。

通常の懐妊でも、大変なのに、、
そんなスーパー妊娠したら、ホルモンバランス
でんぐりかえって、もっとつわりやらなんやらで大変です、。

ユダヤでは、子とみなされるのは手足が出来た時点、
妊娠40日後と、書かれているのを読んだ頃があるので、、
堕胎はそれまでにしないといけない、。
妊娠2ヶ月以上で、、妊娠の自覚、つわりなどや生理の明らかな2ヶ月の遅れが出てからだと、堕胎は出来ないということです、。

御母マリアは、命がけで、イエス様を生む覚悟で受胎されたから、堕胎する気はゼロだったでしょうけど、。
エリザベトが胎内のお子様、と言っているので、御母マリアの懐妊が
子とみなされる妊娠2ヶ月以上の懐妊状態であることがわかるのです、。

御母マリア、ヨセフと婚約時点では、
多分、受胎の自覚がないころ、懐妊の可能性はあるけど、
わからない状態だったと思われます、。

養父でもあった祭司ザカリアに、実家に帰されて、
ヨセフに嫁ぐように言われて、、、
そのまま素直に従ったということかな、、。

また、誰かが、、
遠い昔からの超常の神格のストーリーや
辻褄合わせ、、とかなんとか言いそうだけど、、、。

聖書はよく読んで、何度も読むことで、気づくことだってある、。
読んでも教会で教えて貰って無いし、聞いても読んでも流れがわからないから、、辻褄合わせと言うのかもね、。

聖書の謎や聖句の意味を解き明かすと、困るのは、サタン、。

サタンは、聖書の摂理や謎は解明されないほうが良いのよね、。
自分の悪事が色々とバレるからね、。

悪事、、たとえば、祭司ザカリアの口を閉じさせて喋れなくしたのは、
サタンがザカリアを、疑ったから罪ありと、その場で讒訴したためで、
神様は、喋れなくするから良いだろう、とガブリエルに、ザカリアの口を閉ざさせたわけだけれど、。

もし、そうしてなければ、エルサレムの神殿で、、メシアと、ヨハネが生まれるという噂が流れて、時の権力者が、速攻で、二人を殺そうとしただろうから、、エルサレム神殿では、ザカリアが口がきけないほうが良かったのよね、。

サタンは、讒訴したことで、イエス様達二人を守った事になったから、
後から、相当に悔しがったでしょう、。
神様に自分が利用された形になったからね、。

くすくす、、サタンも、ただの被造物、。
神様に永遠に勝てるわけないのにねぇ、。

サタンよ、そろそろ悟って、、、
いや、知恵あるもの故に、悟ってはいるだろう、。

諦めて、とっとと神様に帰順しなさい、。お馬鹿さんね、。
永遠に、お前に勝ち目なぞないから、。



イエス様御自身が、なぜ洗礼を授けなかったか、。
こちらの記事で書いたことに少し加筆したものです、。

イエス様御自身は洗礼を授けませんでした、。
イエス様の弟子たちが代わりに授けました、。

洗礼は、、神様とイエス様の御前に、
清いものとして立たせるための儀式です。
それで、イエス様の役目ではないので、、、、
イエス様は洗礼自体はしていない。                                                     
三位一体の子であるイエス様は、、
肉体を持って実体となられた。
イエス様がヨハネに洗礼を受けた時、聖霊が鳩のように降った。

これと同じに、、聖霊は、、
イエス様の妻となるものがいたならば、、
その人の内に降って実体となれた。

イエス様が、洗礼をしなかったのは
実体の聖霊を得ること、、
つまり婚約状態から結婚式完了になる女性、妻を得れる時を、、
待っていたからです。

イエス様の洗礼とは、火と聖霊によるとバプテスマのヨハネが証した。
火と聖霊での洗礼とは、、、火は御言葉であり
御言葉の実体でもあるイエス様と、、聖霊の実体となる、、、
イエス様の妻と、、二人での洗礼、、、、
洗礼=新生をさせるはずだった。

でも、十字架に架けられてしまったから、、。
イエス様の弟子の洗礼は、、
ヨハネの代理だし、神父・牧師も、、弟子の代理、
弟子もヨハネの代理だから、代理の代理でしかない、。

イエス様が洗礼を受けた時、、
天から声がし、「私の愛する子」と、、
神様が御声を発せられた。

そして聖霊が降り注いだ。
イエス様へのヨハネの洗礼は、、
人からの見た目はヨハネがしたのだけれど、
実際は神様がなさっていたということ、、。

だから、イエス様が、人に命じられた洗礼も、、
神様御自身が執行なさる、。

ここから加筆、。

人の新生をして頂ける実体が、、イエス様御本人です。
イエス様は、、実体レベルです。
弟子のする洗礼は ワンランク下の象徴レベルです。

イエス様の洗礼は火と聖霊による。
火は御言葉でもありますが、、、
イエス様御自身をも表しています。

聖霊も神様の実体、、です。
イエス様の洗礼は
火と聖霊=イエス様と聖霊 、
つまりは、、神様自身による洗礼なので 
弟子たちの行った新生の象徴儀式である
水の洗礼とは次元、がちがいます。

弟子たちが行った水の洗礼は象徴的洗礼なので 
イエス様が行なわねばならないような洗礼ではありません、。
だから イエス様は御自身では洗礼は授けなかった。

というか、すべてのものの母となる聖霊を宿した実体と
イエス様が婚姻して一体になっていなかったから 
そうしたくても、条件が揃っていなかった。

簡単にいうと 新生させるるための、、実体であるイエス様が
一段レベルの低い水の象徴的洗礼は、、しなかった、ということ。
  
新生のためのイエス様による儀式は、、
イエス様と、聖霊とで行うわけだから、
イエス様と、イエス様の妻たる者、
第二のエバとなる予定だったマグダラのマリアとの
婚約と婚姻の儀式が済み、人を新生させるための、、
イエス様と聖霊との実体となった、お二人が揃ったら、、、

その時に、イエス様御自身で、人に洗礼を授けて、
新生のための儀式を完了されてたと想います、。

イエス様は、大祭司だけど、神様御自身だから、
神様の御前に出る時の、清めのための生贄は、、
必要なかったのと似たことで、、、

イエス様御自身が、新生のための命そのものなので、
水での間接的な新生の儀式は弟子が代役でしても良いということ。

まとめ
火=御言葉=イエス様。
水は新生のための羊水の象徴で、、、
聖霊=実体ではイエス様の妻(第二のエバ、当時の予定ではマグダラのマリア)
実体は、、弟子のような代役、、代理などではないので、、、
イエス様は、、代替え儀式である水での洗礼はしなかった。

追記

ヨハネ福音書
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

ここの聖句の弁護者は、ヘルパーとか聖霊と訳されている、。
来るべき方、再臨主イエス様のことであるのに、。
何故か女性格、、で、なんでここで、女性格が出てくる?
別の、、ってなんでしょ??
と、、ずっとわからず想い悩んでいたのだけれど、。

再臨主イエス様が選ぶであろうマグダラのマリアのような、、
第二のエバとなる妻の予定者のことで、、。

新たな実体となるはずの女性が、
再臨主と共に現れて、お二人で御子をもうけるという意味合いが、
内包されているのなら、女性格が出てきても、、
聖霊=母=女性であるので、、おかしくない、。

その女性は、肉体的には、、
再臨主イエス様とは別になるわけだから、、
別の、、と書かれてもおかしくない、。
と、気づいたので、、疑問、、自己解決、。
すっきり、。

ようは、、再臨主イエス様は、、
再臨のとき、御結婚されて、
御子をもうける、ことを示唆してる聖句ですね、、これ、。

お二人で、、洗礼の儀式をし、完了する予定であったから
来るべき方も、お二人で、御結婚されて御子をもうけて、
イエス様が出来なかった肉体という実体を、、
この世に成すという部分の補遺をして、、、、、
新生の儀式を完全完了するわけです、。

新生に関連があるので、、別記事にせず、
この記事に追記する形にいたしました、。

出来ましたら、この記事を読む前に
聖書、。古代イスラエル既婚女性の髪
の記事を読んでおかれると良いかと、。

こちらの記事を踏まえた上での記事になりますので、。
よろしくです、。

マタイによる福音書(新共同訳から)
5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
5:29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

イエス様が仰った御言葉のもとは、、、
レビ記
20:10 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。
です。

聖書には、他にこういう規定もあります、。
レビ記
20:11 父の妻と寝る者は、父を辱める者であるから、両者共に必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。
20:12 嫁と寝る者は両者共に必ず死刑に処せられる。この秩序を乱す行為は死罪に当たる。

これね、、思い浮かべませんか?
ヤコブの寝台に登った、と聖書に記録された、ヤコブの長子ルベン、。

聖句箇所は
創世記
35:22 イスラエルがそこに滞在していたとき、ルベンは父の側女ビルハのところへ入って寝た。このことはイスラエルの耳にも入った。

ルベンは、上の聖句によるなら、側女ビルハと共に
本来死罪になってないと行けないです、。
でも、ヤコブは、なぜか、規定通りに処罰しなかった、。
長子の権利を剥奪しただけ、。

我が子を死刑にしたい親はいないから、。
神殿がある時、、は終身誓願に相当する代価は
二十歳から六十歳までの男子であれば、
聖所のシェケルで銀50シェケル、買い戻す場合の加算は、
それに対して5分の1で、合計60シェケル。
だけど、、当時は神殿がないから、家畜を捧げたのかもしれない、。

もしかしたら、
側女ビルハは、、側女といえど、元の身分はラケルの侍女で、
ヤコブの相続人であったルベンには逆らえない立場であるので、
正妻ではないので、、罪ありではあるけど、
長子権の剥奪のみで、あとは不問とされたのかも知れない、。

同じように、、
隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。
という戒律があっても、守ってない人もいたわけです、。

なぜ、、わざわざ、イエス様がそんなことを仰ったか、、。
前にも書いたけど、、
人妻なら、もし懐妊しても、旦那の子で通して
しらばっくれられるのと、、

申命記
22:28 ある男がまだ婚約していない処女の娘に出会い、これを捕らえ、共に寝たところを見つけられたならば、
22:29 共に寝た男はその娘の父親に銀五十シェケルを支払って、彼女を妻としなければならない。彼女を辱めたのであるから、生涯彼女を離縁することはできない。

妻が居るのに、他に処女に手を出すと、、一生離婚できないので、。
人妻不倫が、横行してたのでしょう、。
人妻不倫が横行してなければ、、
こんなことをわざわざ言う必要がないですからね、。

これは、既婚者同士での律、法破りが、多かったのでしょう、。
現代風に言うなら、浮気してると、わからなければ、よい、、と、。

未婚女性は、、ここまで、大胆なことは考えませんし、
将来の結婚相手を裏切るの前提の思考しているわけはないですから、
人妻となって、しばらく経った既婚女性が、、
夫に愛されてないと、不満を持ち出して、、、
合いびきの話に乗るわけです、。

未婚女性にアプローチするのは未婚男性のみです、。
既婚女性にアプローチするのは、主に、既婚男性です、。

イスラエルでは、未婚女性は顔を覆っておらず、
髪を結い上げて、髪飾りもつけ、サンダルも履いて、
足も出して、爪も伸ばして身体中に装身具もつけて、
未婚アピールを盛大にしてたわけですから、。

結婚すると、髪を短く切って下ろして、スカーフで髪を覆って、
昔なら、タリートを被って、手足も出さず、
長い衣の服を着て、装身具も身に着けず、、
既婚女性と比べたら、、
相当に地味、、なファッションをしていたようなので、。

未婚既婚を問わず、男性陣は、、女性陣の未婚と既婚を
すぐに見分けれたのですね、。

イエス様は、、未婚男性が、
未婚女性に想いを寄せることは、
悪いと想って無かったですよ、。

既婚男性や既婚女性が、、あの人、かっこいい、。
素敵な女性だね、、、と想うことも、、
悪いと想って無かったですよ、。

よこしまで、みだらな思いで、女を見る、、というのは
男性陣が、未婚既婚に関わらず、、
既婚女性と知りながら、不倫を目的として見ること、

特に人妻を、淫らな想いを持って見ることが、、、、
姦淫の罪を犯しているのだ、、とイエス様は
戒めているのです、、。

この聖句、男性が、女性を、の方に重点が置かれて居ます、。
女性から、男性に、、は、、どうなのでしょうか、。

イエス様の周りには、既婚女性が大勢いました、。
みな、イエス様を大好きと想っていた女性たちです、。
彼女たちはほとんどが既婚者だった、。

夫の許可がなかったら、既婚者である以上は、、
イエス様の側には、いれれません。
姦淫の罪を疑われます、。
イエス様に迷惑がかかります、。

でも、常に付き従っていたことから、
彼女たちの夫の許可があったわけですが、。

神様であるイエス様は、ともかく、、側に居た女性たちは、、
イエス様のこと、大好き、、、下手したら、
お見合いであろう、自分の旦那さん以上に、、、
そう想ってたと想うので、。

淡い恋心、、みたいな、憧れ、、みたいな想い、。
それも、、罪になるのですかね?
イエス様が、彼女たちに付き従うことを、拒まなかったことから、
罪ではないことが、わかります、。

今までの古い訳では、
マタイによる福音書
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

で、、女性を、既婚未婚問わず、、見て、何か想ったら、、駄目、。
綺麗とか、素敵、とか、結婚したいな、とか、
想像して想っただけでも、駄目って、、教えられて来ていました、。

その理屈で言うなら、、上で書いた通り、、
イエス様のお側にいた女性陣は全員アウトでしょ、。
男がしたら駄目ならば、女もしたら駄目でしょ、。

モーセの律法は、上で書いた通り、
人妻を、淫らな思いで、不倫しようとして近づくことが、
禁止事項であり、未婚男性が、未婚女性を見て、美しいと思うことも、
結婚したいな、と思うことも、、罪ではない、、ということです、。

本能とか、湧き出る想い、
恋心みたいなものは、、しょうがないでしょ、。
切りたくても切れない、切ない想いというのは、
人にはあるのだから、。

そんなもの持つのは罪で、アホとかいう人はね、
自分が人のこと、、真剣に愛したことない人、。
たぶん、人から愛されたことも、、ない人、。

愛された事がある人は、、愛し愛されることが、
喜びが大きいことを知っている、。
愛し、想うことが、、罪にならないことも解る、、。

簡単に言うと、、、
人を想う動機が、、罪を犯すこと前提目的じゃないなら、、
なんら、、罪とはならない、、。

神様が、愛の顕現者なのだから、、
神様に似せて造られた人も、、
誰かを想い、、愛し大切にしたいのです、。

愛したり想うことを禁止する、、
逆行動を教える人は、、、、
サタンの道へ、人を、いざなっている、。

小さい女の子のおままごとで、、
今は少子化で、あまり見ないけど、、
昔は、幼馴染み同士、とかでは、、良くあった話、。

誰くん、ちゅき、、わたち、大きくなったら、
誰くんのお嫁さんになるぅ。って、、、言って、、
ほっぺにチュッってするのって、
おませさんだけど、、微笑ましくないですかね、。

淡い初恋、、恋心、、持ってるとね、、、
幸福ホルモン出て、、綺麗になれるって、、。

恋する女は、、綺麗、、、みたいな歌あったような、。
なんとかサンバ、サンボ、あれ、、なんだっけ、、。

歌手名も覚えてません、。笑。
他のフレーズ、、思い出せない、綺麗に忘れてます、、。
私が知ってる曲は、、ごっつう古い曲です、。
それだけは、確かです、。

イエス様に、、永遠に恋して、、、
それだけでも、、すっごく幸せでいれます♪
お側に、いれるだけで、、、十分、。

おまけ、。お便利サイト、。

新共同訳 
口語訳 
新改訳1965(新約のみ)
KJV (英語)
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口語訳(「Colloquial Japanese (1955)」

マグダラのマリア

陰府(よみ)の国、地獄では、、
愛が薄い、、。
人同士がいがみあう、。
憎しみ合い、、ののしりあう、。
苦しみと、嘆き、、飢えと渇きしか無い世界、。


釈迦は、、死後の世界について回答、言及を避けた、。
だからと言って、死後の世界は、、無ではない。

宇宙人は、いないが、宇宙人に見えるものは、、居る、。
人類以外の、人形の様相のものは、、全部、、自然霊や、
半霊人的存在で、人のような肉体は持たない。

人間だけが、、例外的に、肉体という物質をまとって
物質界に存在している、。

霊的存在からしたら、、
最も知恵がない無知な存在として、、、。
もし、人が堕落しなければ、、肉体を持ちながら、
天の叡智も得れていたでしょうに、。


ある時、死後の世界について問われた時、
釈迦は、、このように言った。

目の前に毒矢が刺さって苦しんでいる人がいる時に、
その矢はどこから飛んできたのか、、
誰が放ったのか、毒は何なのか、、と思索しても意味がない。
それよりも、その人の苦しみを、
取り除けてあげることの方が大切だと、、。

キリスト教的解釈をすると、、、
毒矢が自己の罪の報い、毒が原罪、、
苦しみを解くには、、
毒矢を抜いて、解毒剤を塗ってあげれば良い、。
毒矢を抜くのは、罪の悔い改め、。
解毒剤とは、、罪の赦し、。


毒矢が突き刺さったところを、放置して、
周りを温めても冷やしても、さすっても、、
毒も回るし矢傷も痛むし、苦しいままです、。

仏法は、輪廻転生からの解脱のために、
説かれた教えだから、、、、
死後の世界を知る必要はないとの判断だったのでしょう、。

輪廻を断ち切る事が出来て、解脱したら、、、
永遠の安息に入れるわけで、
具体的に、こんな地獄がある天国がある、、と、
言えば、ややこしくなったり、
そこに意識が囚われると思ってのことでしょう、。

それに、
死後の世界を釈迦は無しと、、定義してはいません、。

一つの法(のり)といえども 
これをまもらず 
妄語(いつわり)を口にし 
後の世を 信ぜざるもの かかる人を 
罪として 犯さざるなし(法句経176句より

現代訳
唯一守るべき法を破り、虚偽を語り
来世の存在をなおざりにする人は
大きな罪を犯している。

来世、、後の世という言い方ですが、、
これは、肉体を離れた後の世界、、
つまりは死後の世界のことですからね、。


無宗教の人たちに多いのは、
死んだら無になるという考え方です、。
だから、、死んだら、、愛も想いも何もかも消えるので、
現世での喜びのみに執着をする、。

極論すると、、
人間、死ねば終わりなので、
少しでもこの世が楽しいようにするには?
自分が好きななように、好きなことだけやろう、。
自分が楽しければ良し、、という自己快楽主義になります。

そして、必然的に、、この世を楽しむためになら、、
どんな悪いことをしても、誰にも見つからなければ良し、
どんな方法を使ってでも自己の言い分を通して、
勝ったら官軍という思考へ偏ります、。

もし、人生が不遇で、、苦しければ、
早く死んだほうがいい、、この世は地獄、、
と希死願望しか思考しなくなります、。

この、どちらにしても極論的思考で、
仏教で教える中庸(中道、真ん中)からは、大きく外れます、。


仏教では人の持つ心の状態を8つに分けて、
「八識」と教えています。

1.眼識(げんしき)色や形を見分ける心
2.耳識(にしき)音を聞き分ける心
3.鼻識(びしき)匂いをかぎ分ける心
4.舌識(ぜっしき)味を見分ける心
5.身識(しんしき)寒暖の差や、痛みなどを感ずる心
6.意識(いしき)考えたり、命令したりする心
7.末那識(まなしき)執着する心
8.阿頼耶識(あらやしき)意識の蔵、蔵識とも呼ぶ、。

この、阿頼耶識が、、原罪、、自我に支配されたままだと、、
自分さえ良ければ思考しか出てこない、。

イエス様は、このように同じことを教えておられます、。
マタイ
12:35 善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。

悪いものが、自我でもあり原罪です。
倉と蔵は意味合いは同じです、。

自我を持っているままでは、、
悪いものしか取り出せないのですね、。
どんなに、自己正当化しても、、悪なる思考が根底にあるから、。

自己のうちの奥底の、、自分さえ良ければという
悪なる思考に気づき、、悔い改めて、
罪の想いというものを痛感し、自己の悪を認めれないと、、
いつまでも、自分は正しい、偉い、清い、と言い張り続け、
気づいたら、地獄のどん底、にいた、という始末になります。

因果応報の因果律の道理があるゆえに、
死んで終わりは、、在り得ないのです、。
上の1から7は、肉体的、人意識的なものですが、、
自分では認識が難しい阿頼耶識、、

これが、自我と魂と霊とを含む、人の持つ霊的意識で、
俗に、霊魂とよばれています、。
これは、永遠に生きて存在する意識です、。
肉の支配下にない意識なのですから、。

人の本質は、、永遠に生きるものです、。
ルカ
20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

イエス様の時代、アブラハムもイサクもヤコブも、肉体的には、死んでいます、。
でも、イエス様はおっしゃいます、。
すべての人は、神によって生きている、、と、
総ての人、、です、。

イエス様を信じてる人でもなく、生きている人でもなく、、
異邦人も、すでに死んでいる人も、、すべてが、、肉体が失われたあとも、
神様によって生かされて、目には見えなくても、存在しているのです、。

神様は御自身が永遠に存在され生きておられる御方ですから、
神様の似姿に造られた人も、、永遠に生きる本質を与えられ持っています。

人は肉的に死んでも、、魂は永遠に存在する、。

だから、地獄に堕ちたら、死んでるから、、死ねないし、
愛も神様も否定してきたので、それが
間違いでした、、お赦しくださいと、痛烈に悔いるまで、、
永遠に近い時間、、放置され、誰からも助けはありません、。

自分を助けようと、、知恵を持ってあがこうと、
死後の世界では、何の役にも立たない、。
死後の世界で、唯一通じるものは、、慈悲心や愛の心です、。
生きていた間、自己愛しか無いものは、地獄世界の住人ですから、
誰も見向きもしないし、知恵があろうと尊敬もされません、。

もし、諭して助けようとする酔狂な霊人がいても、、、
素直じゃなくて、自分はお前より偉いの正しいのと、
言い返してばかりだから、呆れて、さよならされます、。
間違いなく、。

霊界は、、正直な世界なので、、
本心の想いが筒抜け、この世のように綺麗事は通りません、。
心が醜い者は、、見た目も醜い異形の者へと成り下がる、。

ヒト型を、維持できてるなら、、まだマシなレベル、。
堕ちれば悪鬼さながら、妖怪のような姿になり、
その己の身を恥じて、更に闇のそこへと降る、。
悪循環、。

なので、地獄からは、
一度落ちてしまうと、、なかなか這い上がれない、、。


勝つ者 怨みを招かん 
(ひと)に敗れたる者 苦しみにて臥す 
されど 勝敗の二つを棄てて 
心 寂静(しずか)なる人は 
起居(おきふし)ともに 幸いなり(法句経201句より

現代訳
勝った者は怨みを招く、
負けた者は苦しんで臥す。
勝敗の二つを離脱した人は
心が静寂で幸せである。


第一コリント
6:7 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。


マグダラのマリア


お知らせ、。

神様の愛を慕う人の集まり、、、
天の愛教会、、
発足させたいと想います。

↑上記に御賛同する方、
出来ましたら、コメント欄で、
内緒でも良いので意思表示、宜しく、。

何人程度、同意が在るか把握したいのと、
いずれははハンネでの名簿とサイトが有ればリンクも、
まとめて紹介できれたら良いな、と想っていますので、。

入脱会規制なし、もちろん献金、
入会金みたいなもの永久になし、
天の愛教会は自由参加のネット上の集まりです。

なので、リアル情報は求めません。
ネット上のハンネのみ、出来ましたら、お知らせ下さい。
強制ではありません、。

発足主旨
心の繋がりを深めあい広げよう、、という主旨です、。
身近なネットのお友達を気遣い、助けたり、声掛けしたり
守ること等、出来そうなことからしてみましょう、。

現代は孤独な方も多くいます、。
思いやりを必要とする人はネットにもリアルにもいます、。

入会資格 
1 天地創造の神様を慕う方、
2 (キリスト教以外の他宗も含む)信仰心ある方、
3 固定の信仰は持ってなくてもリアルやネットで、
身の回りの人を大事に出来てる方、
の、、どれかに当てはまるのであれば、男女年齢制限無しです。

禁止行為(↑が出来てる方だから心配してませんが念の為。)
ネット上だからと、悪意を持って人を罵ること等、
神様の御意志に背く事。

声掛け人、及び取りまとめ役 当ブログ管理人。

天の愛教会を、みんなで作り上げませんか??
多くの人と、、心の絆、結び愛しましょう、。

教派、宗派、、他宗、信仰のあるなし関係なく、、
人が持つ、本来の温かさを、、心の想いを、
古き良き時代のように、、取り戻したいです、。

和気あいあいとした心の繋がる、、
思いやりも感じ取れる人の集まりになれますように、。
主イエス様、、集まりを祝し、
御中心にいらして、導き、お守り下さい、。

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人は創造された時点で不完全だったのか?
私は、神様の創造は、完全なるものだと思う、。
だから、創造された時点でのアダムとエバは不完全だとは思わない、。
無垢なる者が、不完全な訳がないから、。

“アダムとエバは完全な者として造られ,地上の環境に見事に適合していました。人間の造りに欠陥はありませんでした。『非常に良く』創造されていたので,求められる良い行ないをすることが確かにできました。二人は「神の像に」創造されていました。”引用先https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2011006

エホバさんであっても、
神様は完全なる創造をした、。と言っているくらいだから
神様への信仰が多少なりとも在る者なら、
そのように思考するのが当然至極だと思われる、。

ところが、、ある人は言う、。
>完全ならば、なぜ、蛇の誘惑に負けて堕落したのか、
という謎になるでしょう。

と、、

じゃ、、あなたは、、エホバさんの本部に、、
あなたたち教理は大間違いって言いに行く?笑
カトリックにも行為義認は、おかしいと、、、
言いに行かないとね。笑。

早く言いに行ったらどうですか、。
個人は、クソ威張って、カルトだ偽善者だと、
罵りなじれても、大きな組織には、、
文句一つ言いにいけないのですよね、。
ビビリだから、。笑

なにか、、言えば言うほど、、
あちこちに批判しに行かなきゃならなくなる、。苦笑。
それだけ、あなたの論は的外れで、独善的なのです。

人は、、ロボットのように神様に命じられたまま、
動くようなものとしてではなく、 、、
自由な意志により、自分で思考し選択して、
行動するように創られました。 

自由な自発的意志によって、、
神様を礼拝し賛美し、神様を喜ばせることを、、
神様は望まれたわけです、、、

それは同時に、その自由な意思によって、、
他の選択、、神様に従わないことも、
出来るということでもあります。

神様は、人をこよなく愛し、信頼していたので、
そこまでの自由意志を与えられました。
人が完全でなかったなら、、そんな完全なる自由意志など与えず、

天使のように神様に従うもの、賛美する者、など
それぞれに担うべき役目を与え、
それらに従うように、創造されたはずです。

また、神様はご自身の似姿に人を創造されたので、
神様の持つ完全な自由さを、人にも自由意志という形で分け与えたのでした。

これが、自由意志を与えられていることでの
人の完全さの証明のひとつ。


近親婚が禁止されたのは、モーセの時代です。
創世記の時代、近親婚でしたが、遺伝子的な異常はないです。
カインの妻は、妹アワンですし、。

ユダヤ人歴史学者のヨセフスは
「伝説によればアダムには33人の息子と23人の娘がいた。」と
言っていたようです。

アブラハムでさえ母違いの異母妹サライ(サラ)と結婚しています、。
遺伝子に傷がないのは、人が罪を犯さなかったならば、
完全な存在であったと言う証拠の一つになります。

完全でないなら、遺伝子にも何らかの傷があって、今の時代のように
遺伝子的な病気が最初からあるはずで、近親婚しか出来ない状態に
神様がなさるわけがありません、。
また、近親婚も禁止するはずです。

動物には原罪がないので、
基本的に親子兄弟でも交配可能です。

現代は、優秀な血統種を求めるあまり過剰に
血統交配をし、不自然なことを人が行ってるせいで、
遺伝子の傷が出来て遺伝子の病気になるペットもいますけど、。

これが、遺伝子的な理由での、、、
人の完全さの証明のひとつ、。


さて、、アダムとエバですが、、
エバは、蛇にそそのかされ騙されて堕落しました、。

アダムは?エバ同様、すぐに堕落したのか?

第一テモテへの手紙
2:14 しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。

アダムは騙されなかったと、聖書は記録しています、。

それは、、アダムは、自分の妻エバゆえに、堕落したのであって
蛇の言葉は、正しくないと理解していたということです、。

蛇のウソは見抜けてたけれど、愛する妻ゆえに堕落したので、
自分の妻への愛が絡んでの堕落であるから、
エバの堕落とは質、内容が違うのです、。

アダムは、蛇に騙されたと言わずに、
わたしと共にいるようにしてくださった女が
木から取って与えたので、食べました。と神様に答え、。

神様は、、アダムに、
お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
と仰ってます。

アダムは妻エバを失いたくないと想ったから、、
堕落したのです。
エバを神様以上に愛した心が原因です、、。
アダムは、冷静になって、どうしたらエバを救えるか、
神様に尋ねるべきでしたが、、。

エバを失うかもしれないという切迫観念から、
冷静な対応ができなかったのでしょう、。
生まれてすぐですし、、
人生経験浅いですから、しょうがないです、。

アダムは、蛇サタンに騙されてはいません、。
サタンに騙されていない以上、
アダムが不完全な存在だったとは言えません、。

サタンは、アダムは、直接神様から言葉を聞き、
決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。と、
言われていたので、騙せ無いと想い、。

また聞きであったエバに、
創世記 口語訳より
3:1さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか
と、神様の御言葉に疑問を思い起こさせる様に誘っています。 
で、エバが、、
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

知恵の木の実だけは食べてはいけない、触れてもいけない、
死んではいけないからと、、答えたので、。

死んだらいけないという言葉を、
決して、死なない、と断言否定して、
戒めを破っても死なないから大丈夫だよ、と、
誘います、、、。

誘われて簡単に抗えるくらいの相手なら、
神様は決して触れてもいけない、。とは仰らないです、。
悪魔は、見かけだけは清らかそうで美しかったのです、。

本当は、エバは蛇と話すことさえしたら駄目だったのです、。
話すこと、、それは、知恵の木に触れることでしたから、。

彼の美しさに魅入られてしまうから、。
悪魔は、それを計算づくで、
最初は、神様の言葉を直に聞いていない
エバだけに声をかけたのでした、。

エバを落とせば、エバを愛してるアダムも、
芋づる式で落とせる、そう悪魔は考えていたのでしょう。
まぁ、そのとおりになってしまいましたが、。

アダムがサタンには騙されていないという理由での
人の完全さの証明のひとつ、。


マタイ
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

上2つは、イエス様の御言葉です、。
あなたがたも完全な者となりなさい。

人は努力次第で、神様に近づき、少しずつであっても
完全さを身につけれます、。
この時点では、まだ十字架の贖いはなされていませんでした、。

今は、十字架の贖い、原罪からの前もっての解放がなされていますから、
なおのこと努力次第で完全なる者へと近づく事が出来ます、。

イエス様御自身が、完全な者となりなさい。と、人に
命じておられるのだから、
なれないものになれとイエス様は仰るでしょうかね?
おっしゃいませんね、。
無理ですから、。

元は完全だったから、、
一時、不完全な状態でも、元の完全なものへ戻れるのです、。

元から不完全なら完全にはなれやしないのですから、。

これがイエス様の御言葉による
完全になりなさいと、人に命じられた理由での
人の完全さの証明のひとつ、。

以上4つ、人の創造時点での人の完全証明とします、。
最後のイエス様の御言葉、ご命令による証明は、、
一番重要な証明です。

人が不完全にしかなれないというのなら
イエス様の言葉に言い逆らって居ますので
反キリストです、。

過ちを認めて、間違った言葉を取り下げなさい、。

論破されたからには、もはや無知では済まない、。
これよりは、今までと違って無駄に言い張れば
更に嘘の罪が重くなる。

お父さん、。久々に、、
ものすごーく思考の訓練されてる気分です、。
苦笑、。
何事も御心のままに、。

マグダラのマリア

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