ここから本文です

書庫マグダラのマリア聖書論



この書庫は聖書の深(裏?)読み系の記事です。

記事検索
検索

追記 サタンの堕落。

創世記
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
ーーーーー
神様が、天地創造を始められた時、
神様のお側にいたのは、天使たちです、。
天使たちに向かって、、我々に似せて、、
人を創造しよう、とおっしゃいました。

そのときには、神様の内に、
すべての人の霊的な命は生まれていました、。
霊の命を入れるための器、、肉体が創造されてないので、、
霊の命としてでだけ、存在していました、。

天使たちは、神様の創造の御業を手伝って、
神様の設計図通りに成るように、神様のお手伝いをしました、。
当時はまだ天使だった、サタンも、
もちろん神様の創造の御業を手伝いました、。

サタンは、、まだ、この時点では堕落してませんでした、。
サタンが堕落したのは、この後です、。

サタンは、天使で霊の命だけがあります、。
肉体がなく霊的ですから、、死なないです、。

サタンは、この時点では、人も、、
自分たちと同じように、神様の内にある人の霊の命、、
霊だけが、、作り上がった器、、
肉体に吹き入れられると、、思っていたのでした、。

創世記
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
6:3 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。

ヨブ記 
32:8 しかし、人の中には霊があり/悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。
33:4 神の霊がわたしを造り/全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ。

ところが、神様は、人に霊の命だけではなく、
神様御自身の御霊も共に人に分け与えたのでした、。

天使は、なぜ、神様が人だけに
神様の御霊を魂として分け与えたのか、
理解できませんでした、。

こうして天使だった者は、妬みにより
悪魔となってしまいました。
神様の御霊をなぜ、人だけに与えるのか、、納得が
いかなかったのです、。

それは、霊の命だけしか無い悪魔にとって大きな屈辱に感じたのでした、。
人ごときになぜ、、と、。
天使と違って、何の力もないのに、、。
今まで従順に仕えてきたのに、なぜ、
裏切って人を取るのですか、、。
天使は無力な人に劣るとでもいうのでしょうか、。

悪魔は、ねたみから、どんどん
怒りと憎しみに心が囚われます、。

神様は、悪魔となった天使の心変わりをご存知でした、。

だから、アダムとエバに、
知恵の天使であった者を指して、
知恵の木に触れてもいけない、。
彼のいうどんな言葉の実を食べてもいけない、。
死んでしまうから、、。
と、戒めたのでした、。

たった一つの戒めです、。
死んでしまうから、と教えたら、
食べたりしない、と
神様は、アダムとエバを信じておいででした、。

戒めないと、、
悪魔の見た目は天使の内の誰よりも
美しかったので、、言うことを聞いてしまうと
思われたので、
決して食べてはならない。
食べると必ず死んでしまう。と
アダムにのみ言い、戒めたのです、。

エバの言った言葉を読むと
食べてはいけない、
触れてもいけない、
死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。
と、、へびと書かれた悪魔に答えていますので、

神様が仰ったのと、、微妙に言葉が違います。
決して、、と必ず、、が抜けています。
だから、エバは神様から直に戒めを受けたのではなく
アダムから戒めを聞いたと思っています、。

また聞きだったので、、
決して、、と必ず、、が抜けていたわけです、。
もし、エバが直に神様から戒めを聞いていたとするなら、
真剣に聞いてなかった、、、ということになります、。

決して、、と必ず、、がなくて、、
死んではいけないから、と
神様はおっしゃいました。と、エバが答えたので、、

悪魔は、、決して死ぬことはない。と、、
神様と同じように、、決して、、と言うことで
エバに死なないから、自分の言葉を信じるように、、と
誘いました、、、。

あやふやに覚えていたとしても、
たった一つの戒めです、。
神様が仰ったことは知っているのですから
守ろうと決意してたら守れるはずです、。

エバは見た目の美しさと言葉とに騙されて、
誘惑に負けて、、悪魔が差し出したものに、触れ、
そして食べたのです、。
死なないと言われたけど、
死ぬかもしれない、、と想いながら、。

エバが食べたのを見て、アダムは、、
思い悩みます、。食べたら死ぬ、。
と、躊躇します。

でも、愛してる妻エバは食べて、
見た目は生きています。
霊的に死んだだけなので、
エバは、、肉体的には生きていました、。

聖句に、女の声に従い、、と書かれているので、、
アダムを誘惑したのは、悪魔ではなく
悪魔の支配下に落ちたエバです。

悪魔の配下に堕ちると、
悪魔と同じ行動をするようになります、。

エバが、アダムに、、
あなたも食べて御覧なさい、。と誘惑し差し出します、。

アダムも愛する妻エバを取り戻したい。としか考えれず、
神様にどうしたら良いかと聴くことをしませんでした、。
自己判断で、エバと同じことをする、、、
それが一番良いことだと考えました、。

イザヤ書
57:3 お前たち、女まじない師の子らよ/姦淫する男と淫行の女との子孫よ/ここに近づくがよい。

聖書で、、偶像礼拝を姦淫、、と呼びます、。
この創世記で起きた神様への背き、、が原罪であり、
サタンの言うことを聞いたことから、、
偶像礼拝を姦淫と呼ぶようになりました。

私は、一歩踏み込んで、
肉のようなものをまとっていたサタンとエバ、、
そしてアダムは性的に堕落をし、
堕ちた悪魔と霊を交わせたことで、、
彼らは霊が死んだと、思っています、。

たんに果物を食べただけなら、、死なないでしょうし、
罪に問われる大きなことでもありませんので、。

彼らは知恵の木という罪の実を食べた、、と、
比喩として書かれたものと思っています、。
そうでもしないと、人への刺激が強すぎますのでね、。

霊的に死んでしまったアダムとエバです、。
だから、神様と語れてたのだから、、
開いていたはずの霊の目は閉じてしまったのです、。
神様が、二人に罪を犯していると悟らせるために、。
霊の目を再度、一時的に開きました、。

創世記
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

それで、二人は自分が大きな罪を犯したことに気づき、。
また、それが、神様にも筒抜けだったことも知るのです、。

それに気づいたとき、
恥ずかしくてたまらず、自分の身、腰を覆います、。
自分が犯した罪を見たくない、、という心理によって、です、。
腰、、性的な罪が原罪だから、、腰を覆ったわけです、。

なので、罪がないとするためのユダヤの割礼は、
男性自身にするわけです、。
そこから血を流すことで、原罪を清めたと見なしたのです、。

悪魔は、、人がねたましかった、。
とても、とても、、
神様の御霊、、を与えられる特別な、
神様の子としての存在が、、。

自分が人への妬みで堕落するほどに、
神様に一番愛されたかったのが、、悪魔、。
神様への愛は、ひねくれてても、間違ってても
彼なりにはあった、、、。

悪魔にさえも、間違った低レベルの愛でも
愛自体は在るのです、。
創造主なる御方が愛なる神様であればこそ、。

悪魔がねたんで、、堕落するほどに、価値があるのが、、
人に与えられた無垢なる命、魂です、。
原罪に穢れることすら無い清い命です、。

其の周りにある霊が死んでいると、魂は本体の輝きを放てません、。
それで、罪からの救いが、、必要になったのです、。

人は、、元々、魂という清らかな命の核と、
霊的に死んでいる霊の命と、、2つの種類の命を、一つにした
霊魂というものを身の内に宿しています、。

自分の死んでいる状態の霊の命は、、
自分勝手に生きようとしたり、
自分さえ良ければ思考で、好きなことをします、。

自我というものは、霊的に死んでいる、命、、
自分のことだけしか考えれない、。

神様の御言葉や、人からの愛によって、、、
自分の間違いに気づいて、、良い生き方をしようと決めて、
行う努力をすることで、変われるようになる、。

イエス様の、、原罪と罪の赦しの十字架の贖いの、、
永遠の恩恵により、
人が罪を認め悔いて、
清い行いや想いで生きようと努力したならば、、

死んでいる状態の霊の命が、清められて、、
魂も、輝きを取り戻していき、悪魔の誘惑を退け、、
人本来の良い生き方が出来るだけの、
祝福は、、すでに人類すべてに与えられているのです、。

だから、、人は不完全な存在でしかないとしても、
小さな良い努力を積み重ねることで、
神様に祝福される良い人生を送ることが出来る、。

それは、クリスチャンでなくても、、です、。
なぜなら父は、、全人類の御父なのだから、、、。

なので、、
>アダムとエバの失楽園の話も
全能の神は、予測というより、ご承知の上で
そのように造られたとしか思えません。

という、人が罪を犯す前提しかない思考は、、
間違いです、。
神様は、人が罪から離れて、
人らしい生き方をすることを願われています、。

追記

創世記
3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」

神様は、天使に向けて、この言葉を言われたのですね、。
我々の1人、、は、元天使で堕落したサタンを指します、。
他の天使は無垢だったので、悪は知りません。
無垢だったものが堕落した、、事を指して、、
善悪を知る者となった、と聖書は書き記しました、。

マグダラのマリア




マタイ福音書
21:43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
21:44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
21:45 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、
21:46 イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

ファリサイ派の人たちが、
イエス様を殺そうと企んでたので、
イエス様は、そういう思考でいるから、、と、、、

神の国はあなたたちから取り上げられ、
それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
と、あなた方は神の民ではなくなる、と
手厳しいことを仰いました、。

主イエス様の言葉は、、お厳しかったですが、
それは、、、、彼らへの憎しみや
怒りなどからは出ていません。

もし、そうであれば、、
イエス様は罪なき者ではなくなりました、。

それをしていたら、
聖書に、イエス様が罪なき御方だと
書かれはしなかったし、、、、。

サタンがイエス様のことを讒訴して、イエス様は、
十字架での贖いが出来なくなっていました、。

使徒言行録
13:46 そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。

イエス様は、ユダヤ人、特にファリサイ人や律法学者らなど、
聖書をよく知り、日常的にも読んでいた、、
ユダヤの民の指導的立場にある者である彼らに、最初、、
神様の愛の教えと救いとを教えたのです。

でも、彼らは古い思考と持論で凝り固まってた人が多く、
耳をかそうとしなかったので、
イエス様は、彼らではなく無学な民衆に、、
難しい言葉ではなく、誰にでも分かる身近なこと、、
わかりやすい例えを用いて教えられたのです。

イエス様は彼らを、憎み、排除してはいない。
彼らをも愛していて、気づかせるために辛辣な言葉を放ち、
罪の自覚を促そうとされておられた。

もし、愛していなければ、御自分を殺そうとして
十字架に追いやった彼らの為に、十字架上で
とりなしの祈りが出来るだろうか?

イエスさまが、とりなさないで赦さなかったなら、
彼らの罪は、赦されずに彼らと、
その子孫の上に永遠に残り、
人類の完全なる救いは完了出来なくなるので、
イエス様は苦しい息のなかで、彼らのために赦しの
とりなしの祈りをなさった、。

憎み嫌って排除したのは、、ファリサイ人らの方、。

箴言
26:26 憎しみはごまかし隠しても/そのは会衆の中で露見する。

憎しみは、悪であると聖書中に明記されています。
悪は罪のことですから、。

罪なき御方であられるイエス様は、、
十字架上の祈りにも、それが現れていますが、、

イエス様は、いくら言葉が表面上の言葉が厳しくても、
心の内に一切の憎しみ、怒りなどがなかった、、
ということです、。

だから表面的な厳しい部分しか見ないで、
イエス様がなさってたからという理由で、、、
自分が、、人に厳しい言葉を投げつけるなら、、、
イエス様と同じ慈愛の想いからでなければ、、
大きな罪となります、。

こいつ、偽善者だから、罵ってもよい、。
遠慮しないで、、好きなだけ
暴言を吐いていいと言う理由にはなりません、。
大罪を犯しています、。

それはそうでしょう?
イエス様が、やってるから、
自分が同じことしても良いでしょ、。
という理由は、、、。

イエス様に自分の罵りの罪を
被せているのですから、。

恐れ多くも、イエス様のせいにして、、、
自分の罵りの罪を正当化してては、、、
それが軽い罪のわけがないです、。

自分の罪を人のせいにしてることで、
更に罪が重くなるのです、。

また、神様に、すみません、ごめんなさい。
と口先での謝罪をして
赦して下さい、、。と祈り願っただけでは、、
罪が赦されるわけないのです、。

自分の行いが罪です。と認めて、、
悔い改めて、神様に真摯に謝罪し、更に、、
再度同じ罪を犯さないよう、
出来る限りの努力することも、必要です、。

他に、人を自分が赦していないと、赦されません、。
マルコ
11:25 また、(父の御前に)立って祈るとき、(もし)だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

つまり、誰かを偽善者だと
批判し憎み続けていたら、、
イエス様のせいにしてる罪も、罵りの罪も、
赦されないまま、残るということなので、
人を批判し、罵ることの正当性というものは、ゼロですね、。
ただの重罪、。

批判する場合は、憎しみゼロで、
慈愛の思いによって行う場合のみ可です。
従って、感情を自己コントロール出来ないような未熟な人には
永遠にしたらいけないこと、ですね、。

私だって、かちんと来て、山羊の脚が出てきて、
怒りに囚われかける時があり、、、
その瞬間、はっとして、お父さん、ごめんなさい、。
今の山羊の脚は、なしにして、お清め下さい、、。
って、、自分の奥に湧き上がる悪なる思考と感情に向け、
自己訂正をかけながら、ですから、。

自分の感情大暴走、、の人が、、人を罵り批判したら、、
ただの誹謗中傷と憎しみのダダ漏れになるでしょうね、。

どなたの、、とまではハッキリ言いませんけども、、、
人に教え諭せるだけ、人となりの整った人が、理路整然と
批判する人の言葉と、
自分の感情大暴走、、の人が語る言葉とは、、
雲泥の差になります、。


イメージ 1

とある誰かさん、。
神様の召し使いを断罪し裁くとは、、
いったいあなたは何様なのですか?

神様の御前に
完全である、守っている、
知っている、分かっている、と
平然と言えるクリスチャンがいたら、、そりゃ
厚顔無恥というもの、。

そんなの異端系でも、誰もいないですから、。
異端でさえ、信徒らは神様を恐れています。
恐れないのは、あなたのように神様の御座に座した人のみ、
つまりは異端やカルトの教祖、になった人くらいですよ。

自分がそうだから、、人もそう、、だと思考する、。
机上の空論お疲れ様、。

みんな、、神様の御前に
不完全ですが、努力して完全に近づく努力をします、。
守れないですが、努力して守れるように努力をします、。
あなたの御心を知りたいです、。気づかせて下さい、。
分からせて下さい、。
悟らせて、自分の肉の我を退けれますように、。
って、

神様に対し、へりくだって、
良い人たるべく、日々努力を重ねて
いきながら乞い願う、。

とある誰かさん、。
あなたぐらいです。
そんな尊大な思考を、神様に対して人がする
なんて思考したり、、、
やってもどうせ完全には出来ないから
努力するだけ無駄だからと、神様に対し
無礼千万な舐めた思考をする人は、、、。

あなた以外は、、神様に逆らうと、
ろくな目に会わないって
自己の信仰体験で感じてるからね、。

神様に対しては、
平身低頭で、従おうと日々努力もする、。

やはり、棄教して悪魔側にいる人は、、、
神様に対しての感じる感覚が違うのかしら?

行為義認に関して、、、
神様に従う努力の欠片もしてない人が、ソレ言うと、、
違和感すごいです、。

自分で従う努力もしてからソレについて
議論したり言いましょうね、。
してもいないくせに、、
口に出していうなんて見苦しいですから、。

あなたは、、
大切な姉妹を、偽善者と罵り人格否定までして
女性まで人格攻撃して傷つけておいて、、
どの口で、行為義認のことを、
いけしゃあしゃあとお口に出来るやら、。

人の心の痛みにウルトラ鈍感な人が、
愛の神様を語る、すごい自己矛盾です、。
偽善者さんですね、。

とある誰かさん、。
あなたの論では、
神様が、罪と偽善を裁く方なのでした、。

自己裁きを行い、神様に土下座して謝罪されたら如何?
苦しいからしたくないのですかね?出来ないのですかね?

ま、人をネチネチと6年も赦さないで、
裁きと憎しみオンリーで、その、、やってる行動からして
神様に仕えてないから、、出来なくても良いのか、、、。
地獄行きを自分から選んでるのだし、。

それこそが、神様に対して、
見えないくせに見えると言ってることなのにね、。
自分自身がまるで見えないって、、ほんとに憐れだわ、。

正しいつもり、。
信仰深いつもり。
敬虔なつもり、。

外側の形だけ、かろうじてあるだけの、。
ピーマン信仰だわ、。

カットしてみたら、、
中身がない、がらんどう信仰、。

ちゃんと中にお肉でも詰めて焼いてケチャップつけたら、
まだ美味しそうに見えるんだけどね。
ピーマンだけじゃ、
素直な子供は、特に嫌うわね、。けらっ。

昨日、ブログ村でのOUTポイント160で、
16名もの方がブログ村からおいでになりました。
過去最大数です。
通常10人から、それ以下なのですが。
ご訪問頂きありがとうございます。

ブログ村での
PVポイントも1960ポイントで過去最大。
ランキング10位内に、全部、
あなたへの批判記事のみになりました、。

とある誰かさん、。
皆様、あなたの動向をじっと見ておられますよ。
偽善を行っていたファリサイ人は、
神様の御目ではなく、群衆の目を恐れていました、。
あなたも、、、そうでしょう?

人の良い評価がないと、精神が安定しない、。
だから、自分の別アカ作って自ポチしてる、。

私を批判しても、ランク下がらないで、
上がってしまったから、、批判しても無駄だと思って、
コメント欄でブツブツ批判することくらいしか、
出来なくなった、。

男でしょ、。
ほんとに、義憤からしてるのなら、自分独りでも、
物申すべきには、物申すのです。

弱い相手、何も言わない相手には尊大な態度で、
大きい相手には、ビビって、
しっぽまいて逃げるなんてしません、。

それに、あなたの書き方は、学者っぽい、
小難しい言葉を羅列しただけのもので、
中学生にはわかりません、。
大学の卒論じゃあるまいし、、、。

あ、、わかりやすい文にしたら、、
影武者と自分の別アカのポチさん以外には、、
誰からも返礼ポチさえ貰えなくなるのか、、。
そりゃ、理解しやすい文は書けませんねぇ、。

ご気分は、どうですか?
批判されても、言い返せない苦痛のお味は、。
美味しいでしょう?

それが、あなたが自己正当化して
6年罵って、S牧師に与え続けた苦痛の味、、
犯してる罪ゆえの心の苦痛です。


マグダラのマリア


聖礼典(特に洗礼式、聖餐式)による人の聖化

聖化(英語:Sanctification、ギリシア語:ハギアスモス(希: άγιασμος、hagiasmos)とは、聖霊の働きによって人間が罪から救われ、神の聖性にあずかり、聖なるものとされること。

イエス様がおいでになる前は、
聖化、聖霊により清くされるということはなかったのですね、。

信仰を立てて、神様から信仰義認されて、
義と認めて頂くことでしか、義とは認められませんでした。

日々、朝から寝るまで、罪を犯さないよう気をつけ
神様の指示されていた律法と戒律を守り、、、、
必要に応じて、燔祭を捧げて、
常に神様に問いかけ祈って、いたことでしょう。

それはそれは苦労の伴うことだったと想います、。

聖霊がまだ地上に降って世に顕現してませんので、
神様に選ばれた信仰者が、人の代表となって信仰を立て、
神様への柔順と信頼を捧げることによって、、
義認されるしか方法がなかったのですね、。

現代では、御言葉を学び、無原罪であられるイエス様を信じて、、
聖礼典(特に洗礼式、聖餐式)を受けることで、罪が赦されて
聖霊によって新生し、原罪もないと見なされて、
いわゆる、人の聖化が行われます、。

イエス様に赦され聖霊により清められた罪は、根っこが、、
影のように残っても、表では無いものとしてみなされます、。

そして、通常、イエス様が3日めに蘇られたように、
初代クリスチャン、2代目の子、その孫、、
この3代目の子らからは、、原罪の影さえも消えます、。

これはイエス様の救いの完全性のゆえです、。

人の罪のある命の贖いのために
身代わりとなって、、、
イエス様は、人間としての無原罪の命だけではなく、、
神様御自身としての命まで、捨てて下さっていたのだから、。

本来、霊的に死んだ状態には絶対にならない、、
神様としての永遠の活ける命までも、
人類全部の贖いとして下さった、。

イエス様は、、人を父なる神様と共に創造された、。
いわば父さま同様、、すべての人の御親なる御方です。
すべての人の命につながる、
アダムとエバを生み出された御方だから、、
すべての人の命と等価となり得るのですね、。

いえ、、それ以上の御方ですね、。
イエス様は、動物も植物も、他の被造物、
すべてを創造なさいましたから、霊界も含む、
全世界の生きとし生けるものと等価です、。

全人類を購っても余りある、
果てしなく尊い神様としての命を投げ出してまで
人を救おうとして下さった、愛の神様、、。

罪在るままでいたら、
人が罪の自覚をしたときに苦しむから、、憐れまれて、、。

罪がある人は、自分で自分の罪をゆるせない、。
神様から罪を赦して頂くしか無いから、。

この神様としての不死の無垢な生命も捨てて下さったから、
1代限りの救いではなく、、
その血筋そのものが、清く、聖化され続けるのです。

だから、、イエス様の救いは、、
罪のくびきに繋がれた人を霊肉ともに救う完全なる救いです。
それだからこそ、私は、イエス様を、
絶対神性と、完全なる人間性とを併せ持つ
完全完璧なる御方であると思っています、、。

イエス様に救われた初代クリスチャンだけの救いに
留まらないのは、神様の大きな慈悲によります。

旧約の時代から、血筋が重要視され、
直属の長子の血筋による祝福の継承、
長子権を持つものを優遇されてきたのは、
祝福を受け清いとされた血筋を長子によって受け継がせていくためでした。

洗礼を受け無原罪のイエス様に心繋がる者が、聖餐式を受け、イエス様の肉体と血筋に繋がったとみなし、肉体の聖化と、聖霊による霊の同時聖化によって、
霊肉ともに、無原罪の血筋を持つものとなったとみなし、
その子孫も、産まれてくる肉体の無原罪化、また無原罪の霊性ゆえに、神様から与えられる無垢な魂が、そのまま罪穢れのない状態で産まれて来れるようになるのですね、。アダムとエバの頃への回帰完了です。

この回帰完了まで、、最低限3代目まで、時がかかります。
その理由ですが、
この3数というのは、物事の結果が実るための期間のことです、。

創世記
1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
1:13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。

3日、3ヶ月、3年、この3数の由来は、神様が天地創造の第3日めに種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせたことです。

最低限と書いた理由は、もう一つ、
もし、初代及び、クリスチャンの血筋の2代目以降が、
不信仰で神様に背いて生きたとしても、、この
原罪の赦しが取り払われることは永遠にないし、
その罪はその人1代限りなので、
その人自身が自分が背いた罪を贖わされます、。
場合によっては地獄に落ち、自己の罪を贖わないといけません、。

一度与えた無原罪とみなし聖化した血筋の恩寵は、消えません。
ただし親が神様に背く思考であれば、その子らも親と同じように背きやすくなるでしょう。背いてる間は、アダムとエバの頃への回帰の完了は未完となります。
人の選択次第です、。

でもまぁ、そういう神様に背くような者がいても、
無原罪とみなされた血筋の恩寵は消えないので、、
サタンの影響は無原罪ではない時よりも、はるかに無いです、。

このようにして、洗礼式と聖餐式を受けた、
真のクリスチャンの血筋によって
人の中の原罪の影響、、罪の影も、次第に消え去るのです。

それで、サタンや悪霊は、必死になって
クリスチャンを神様から引き離そうと、、、あの手この手で、、
メシア否定をさせようとしたり、
巧妙に、聖書を否定させて神様に背かせようとします。
だから、聖書に、読者よ悟れ、
知恵のあるものは悟れ、と書かれています。

私の子供たちが、三代目の子らです、。
まだ、信仰らしいものは何も持ってはいません。
でも、教会には、忘れた頃に行きますし、、
人に悪意あることを自分からしたりしません、。

親の私を大切にしてくれます。
お墓参りも、神社にいくこともします、。
だから信仰心が、ないわけではないのですね、。

よく、まずったことをすると、
わ、、バチが当たるって言っています、。ぷぷぷ、。

自然な形での信仰心があること、良いことです、。

出来れば、更に、子供たち自身の意志で、イエス様を信じ
クリスチャンになれば、
霊的加護はさらにアップするのですけど、。

無理強いは良くないので、私は、私が人らしく生き、
良い手本で有りたいとだけ願って居ます、。
私の子供たちには、、
すでに原罪の影響は薄い状態で神様の庇護の内にありますから、。

惜しむらくは、、カトリックが、葡萄酒の配餐をしていないこと
イエス様の御身体の象徴のパンのみで、
イエス様の血筋の象徴の葡萄酒がなく、、中途半端な霊的儀式、。

それでも、初代クリスチャン本人が、
イエス様を愛しイエス様に魂が結びついていたら、
聖霊が降って、霊も肉も聖化されるし、、
子孫への祝福の継承もなされるのですけど、。

残念ながら、、初代クリスチャン本人が不信仰な場合、、、
霊的儀式が中途半端なためサタンのものになってしまうのですね。
そうなると、、聖霊が働けない、。
よって、肉体の聖化も、霊の聖化も、完了出来ないままとなる可能性が高い、。

初代教会からの霊的権能を継承しているのは、、
カトリックとプロテスタントではカトリックで
叙階を受けたルター自身とルターから按手を受けた牧者と
その牧者から按手を受けた後続のすべての牧者。主にルター派、。

カトリックは、
今は、教皇を父さまの御言葉、聖書の上に置いているから、
秘蹟が発動するかどうか、は、
個人の信仰心と、神様の憐れみによる、。

権能の霊的継承が過去であっても、現代は、
聖霊に背いていることが多すぎて、、
恩寵の自然発動は起こりづらく無効状態に近い、。

エクソシストも、、あるけど、
決まった悪を祓う言葉だけで、サタンに勝てたら苦労しない、。
イエス様に直に従った弟子たちでさえ、
イエス様に、信仰が薄いから悪霊を追い出せなかった、。と
言われた、。

現代は、イエス様の弟子たち以上に、、
神様とイエス様を信じる思いがなければ、悪霊は追い出せない、。
信仰の強さは、揺るがない心、、信仰が薄い人から
けなされようが、憎まれようが、なじられようが、
自分が正しい神様への信仰を貫く確信的想いがあれば、それでいい、。

いちいち心ぶれて言い負かされてたら、
サタンや悪霊に、良いように、だまくらかされる、。

わたしはいと高き神をたたえ、
永遠に生きるお方をほめたたえた。
その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。

すべて地に住む者は無に等しい。
天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。
その手を押さえて、
何をするのかと言いうる者はだれもいない。

主の御名によりアーメン。

ご質問があれば、お答えします。

マグダラのマリア



聖書で、イスラエル人ではない
異邦人は、一旦退けられて、、
それでも、神様を求めた場合は、、受け入れられる、。

サタンや悪霊も、一旦は、神様からの裁きの言葉を、
辛辣に浴びることになる、。
罪を糾弾されて、苦しみ、御言葉で焼かれるように苦しみ、
打ち砕かれて、罪を剥ぎ取られてから、救いへと到れる、。

エレミヤ記
18:8 もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。

悪に落ちたなら、、罪の糾弾と、悔い改めは、ワンセット、。
苦しみがない悔い改めはない、。

サタンは、、自分では神様に罪あるものを讒訴して、
それが正しいことをしていると思っている、。
ここが間違い、。ここがおかしい、、と、
神様に向けて讒訴する、。

サタンは、霊で、人の心も読めるから、讒訴するときは、
万全の体制で、その人を誘惑し、自分の物とし
自分側にしっかりと取り込んでからのち、讒訴する、。

批判とは、神様に対しても、
この者は間違って居ます、、と訴えることに等しい。

人の場合、
多くの場合、自己判断による、訴えとなることが多々ある。
神様に人が訴えた場合、、その訴えが正しければ、言い分は通る、。

しかし、正しくなければ、
訴えた人は、自分が訴えた人に、
課そうとした科料を、己自身が負わなければならなくなる、。

それゆえに、因果応報の記事で、
基本的に、自己での罪の贖いは、、
歯には歯、目には目、命には命、と書いたけれど、、。

現代では、、たとえ、長年苦しめられたことへの報復行為であっても
人を傷つけることは、違法行為になるため、、、

主に、罪の断罪と糾弾、それに伴う
心の苦しみ、罪の呵責による贖いの形の方が多い。

人は、、罪を糾弾されるか、自己反省で、罪を自ら認め、、
神様の御前にへりくだり悔い改めることで、
哀れんで頂けて、救いと平安の道が与えられる。

それは、サタンも、彼の手下の悪霊どもも、救いの対象となる、。
父さまは、ご自身が創造された
すべての被造物を愛されてる御方、、。

悪の道に、仮に落ちたりといえど、、
父さまは、彼らを滅ぼし去ることをしない、。

一言、、悪に染まりしものは滅びよとおっしゃれば、、
撲滅するのだけれどね、。
父さまは、、どんなに非道の道に堕ちたものでも、
心にかけ、救いたいと願われておいでです、。

私も、、父さまの私への示しに従い、、、
罪を糾弾し、あからさまにすると共に、、、
影に隠れている者と、表立って居る者との救いを、
乞い願うことに致しました、。

キツイ物言いも、、辛辣な態度も、、いといません、。
心の奥底に潜むものが、、罪の糾弾で
苦しくなり表に出てくるように、。

私自身が、醜い見てくれとなろうとも、、
心のあり方は、、私の父さまが、すべてご存知だから、、
それでいい、。

人が、罪ありと、人を神様に訴え断罪する場合、。
2人以上の証人が要る、。

一人の人が、間違いだと断罪しても、正しい訴えとはならない、。
罪の証人となるもの、人を訴えようとする者は、
公の場で、罪あり、と公言しなければならない、。

私は、聖書のこの規定の通りに従ったまで、。

我が父は、正しく、、公平なる御方、
私の訴えが間違いで、あれば、打たれるのは、私自身、。

父さまのご采配に、御裁可に、、委細、身を委ねますれば、、
あなたの御心を、この地上でも、明らかにして下さいますように、。

不当な訴え、不当な批判ゆえに
多くの苦しみを受け悩んだクリスチャンの兄姉、、がいることを
内緒コメントで知りました、、。

父さま、、あなたは、、まだ明らかになっていないことも、、
すべてご存知です、。

苦しみ嘆いて、、心から見えざる血を流してきた
クリスチャンの兄姉の心の血を、、
父さま、、ぬぐって取り去って下さい、。

あなたが、、今も活きて、
この世界に息づいておられることを、示して下さい、。
あまりにも長く、、地上にとどまっている隠れたる者を、救うために、、
同期して宿主になっている者も救うために、。

あなたの御心が行われますように、。

マグダラのマリア



創世記
22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

アブラハムは、、神様から、厳しい命令を受けます、。
自分のかわいい息子、一人息子を生贄にしなさい、。と、、

アブラハムは、色々苦しみ思い悩んだはずです、。

いくら相手が神様だって自分の子を殺せと言われて、
2つ返事でハイとは言えません。

平気で言えると言う人がいたら思い切り親としての神経ズレてます、。
自分の子を愛していません、モノとしてしか見てないです。
また、産めばいい、、みたいに、。

事故や病気で、子を失うのとはわけが違います、。
自分の手で、愛する子の生命を断てと、言われたわけですから、
苦しくないわけがないのです、。

私なら、自分の命を差し出せるものなら、
自分の子供の身代わりになりたいと思います。
アブラハムも、同じでしょう、。
アブラハムも、、赤い血の通った人の子なのですから、。

信仰者だから、2つ返事で、イサクを捧げることに
アブラハムが同意したと教える牧師は多いようですが、
我が子を平気で殺すような悪魔のような心を持つ輩を、
神様は使命者に選びません、。

アブラハムは、ソドムとゴモラの背徳の町に住む、
とんでもない人が多い中に、
もし、10人、善い人がいたら、その人達の故に、、
ソドムとゴモラの町を滅ぼさないで欲しいと、、神様に、とりなして
願うくらい、人を思いやる気持ちが強い人ですから、、

我が子に対しては、それ以上の愛情があったと思うのです。
サラが、ハガルが生んだイシュマエルを家から追い出すように言った時、

聖書は、このことはアブラハムを非常に苦しめた。、と記録しています。
家から追い出すだけでも、非常に苦しめたのだから、
自分の手にかけるとなれば、苦しいどころの比ではないでしょう、

我が子に手をかけるくらいなら、
自分の命を息子の代わりに差し出したほうがマシだと思ったと思います。
神様に、自分の命を代わりに捧げます、と、即座に申し出たでしょう、。

でも、自分の思いはそうでも、神様の命令は、イサクを、、なのです。

アブラハムは、辛く苦しかったでしょう、。
年寄り子で、やっと正妻サラから生まれ得た、、、
可愛い跡継ぎ息子、我が子に手をかけないといけないなんて、。

最終的に神様の命令に対してアブラハムは納得が出来ない命令であっても、、
神様に従順に従うことを選びます。

創世記
22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

朝早く起き、この聖句は、
アビメレクやヤコブが、幻の中で、神様と語らったあとで書かれています。
この時、アブラハムも、同じように、、
朝方まで神様と色々と幻の中で対話をしていて、、
ごく普通に眠ることが、出来なかったのでしょう。

神様が語られた内容が、内容ですから、、。
苦しくて、辛くて、自分が身代わりになっても、、と
上で書いたように、
この時に、すでに神様に幾度もアブラハムは申し入れていると思うのです、、

多分、儀式を失敗した、あなたではイサクの代わりの
捧げ物にはなれない的な返事を神様からされて、、

それでも、アブラハムは神様に、なんとかならないのですか、、と、
ソドムとゴモラの時の、とりなしたときのように、、
神様に食い下がるように、朝方まで願っても、
神様の答えは、イサクを、ということだったわけで、。

朝まで、神様に従うべきだろうけど、辛い、と悶々しながら、、
イサクを捧げるしかないのか、、と、、
アブラハムは苦渋の選択をします、。

アブラハムがいた場所からモリヤの山までは、
聖書辞典によると、ベエル・シェバからモリヤの地までの距離は80キロ。

人はあるきでおよそ時速4キロ、1日10時間歩いたとして、40キロ、。
普通、早朝の涼しい時間から日没近くまで12時間以上歩いたはずですから
だいたい遅く見積もっても2日もあればつく距離でした。

それを、わざわざ、3日かけたのです、。

これがイエス様の3日後の予型となりましたが、、
少し行っては休んで、少し行っては休んで、、アブラハムは、、
モリヤの山に着くのを、少しでも遅らせ時間稼ぎしたかったのでしょう、。

出来ることならイサクを、自分の手にかけたくはなかったからです、。

神様は、仕え女ハガルから生まれたイシュマエルのことをも忘れずに
祝福すると約束されたから、、アブラハムは、サラの言う通りにして
イシュマエルを手放したけれど、、、。

今回は、イサクに関しては、なんの保証も、、
神様から与えられてないわけですから、
出来ることなら、イサクを手にかけたくない、、
それが親としてのアブラハムの本心です。

イサクを捧げたあと、アブラハムは、
我が子を手にかけて生きてはいられないから、と、自分も自害するつもりで、
若者たちをモリヤ山の頂上まで同行させなかったのではないか、
と、最近思うようになりました。

モリヤの山は禁足地だけど、
ふもとまで若者を連れて行くのは大丈夫なはず、、
でも、山のふもとまで連れて行っておいて
頂上まで連れて行かないのは不自然だし若者に怪しまれる。

アブラハムは泣きそうな気持ちを抑えてたのでしょうし、
山が近づくにつれ、辛くて心が騒いでどうにもならない状態になっていたと思います。若者たちに苦しい心を悟られないように自制するのも、
いっぱいいっぱいのところまできていたのではないかと思うのです。

若者たちを連れて行けば、後継ぎのイサクに手をかける時に止めに入るでしょうし、そうでなくても、アブラハムが自害しようとしたら、それこそ止めるでしょうから、どちらにしても、彼らを連れてはいけなかったのですね、。

ロバがいるのだし、連れて行く若者は1人で、十分なはずなのに2人です。
自分たちが、2人共、丸1日、戻らなければ、
なにかあったとして、若者たちは、アブラハムとイサクを探しにいくと思われます。

若者を2人連れて行ったのは、、アブラハムも自害した場合、
イサクの遺体もあるし、若者1人では、アブラハムの遺体をロバに載せて、
背中にイサクを背負って、、になるので、
その状態で、さらにロバを引いて、サラのもとへ帰れないですから、。

創世記
22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

イサクは賢い子でした。
捧げる子羊がいないこと、、で、、
自分が、捧げられるのではと気づいたから、
アブラハムに生贄の子羊はどうするのですか?と聞いたのです、。

自分のお父さんが、信頼している神様を、イサクも、信頼し、
父親アブラハムを愛し信頼していたから、イサクは逃げ出さなかった、。
そして年取ったアブラハムに縛られるまま、、にされた、。

アブラハム、100歳を超えたおじいさんです、。
イサクは、若くて元気です、。
縛られそうになって、おとなしく縛られる子供なんていません、。

ましてや、縛られようとしたところで、、
自分が生贄にされることが、わかるわけだから、、
いくら子供だって殺されることくらい、わかりますから、、
本能的に逃げるのが当たり前です。

よしんば縛られても、大騒ぎして、恐れて泣き騒ぐのが普通です。
聖書には、イサクが泣いたということさえ記録がありませんから、
イサクは、子供なりに、生贄にされて死ぬ覚悟をしていたわけです。

おそらく、この時、イサクは、旅がなんとか出来る年で、
薪も背負える年齢なので、7歳くらいだと思われます。
数えでの7歳なので、今でいうと、5,6歳です、。
パワフルな年齢なので、鬼ごっこしても、なかなか捕まりません、。

イサクが走り去って逃げなかったのは、
アブラハムを信じてされるがままにして従ったからです。

イサクは、父親を信じ、また、父親が信じている神様をも信じて
自分が死んでしまうかもしれないことさえも、
おとなしく、心静かに受け入れていたのでした、。

まるで、、イエス様のように、。

創世記
22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

アブラハム、神様から助けがあるとは思ってもいないでしょう。
自分が、生贄の鳥を裂かなかったこと、生贄の祭儀の手順を間違えたことで、このことを招いたことを、誰よりも痛感していたのですから、。

でも罪を犯した自分自身では購えないのだから、
イサクを贖いとして差し出すように言われて、
どんなにか自分の犯した罪を悔いたでしょう。

鳥を裂かなかったことを、ささいなことだと、、油断したこと、。
この位しなくても大丈夫だろうと、
犠牲を捧げる規定では、鳥は切り裂かないといけなかった、。

でも、小さな鳩の雛や、山鳩であったから、、
アブラハムは裂くのを省略してしまったのでした、。

裂かずに捧げたことで、、
聖別の儀式は中途半端なものとなり、
禿鷹に象徴されたサタンが、生贄を、すぐに奪いに来ました、。

儀式が中途半端だったから、
神様は、日暮れになっても、生贄を受け取られなかった、。

神様は、、受け取りたくても、
アブラハムが規定通りに捧げたものでなかったため、
受け取れなかったのです、。

暗闇が覆ったというのは、、
サタンの手に一旦は落ちたことを意味します。

アブラハムの儀式が間違いであったから、
アブラハム自身も、この時点で、
自分が儀式を失敗したことに気づいたでしょう、。
第一、神様が、捧げたものをすぐに受け取らなかった事自体が変なのですから、。

アブラハムが、自分の過ちに気づいたときに、、
神様の哀れみによって、御使いを遣わし闇は、火で追い払われて、
生贄の半分を、聖別し、神様は、生贄をお受け取りになりました。

アブラハムに、儀式の間違いを贖わせることにして、。
アブラハムが間違えた手順で捧げた生贄は、山鳩と鳩の雛、、。

三歳の雌牛はエバの背信の罪のため、、三歳の雌山羊も、エバが犯したアダムに木の実を与えた罪のため、三歳の雄羊は、アダムの犯した罪のため、山鳩と鳩の雛は、、カインとアベル、アダムとエバの子供たちの象徴であったから、
アブラハムは自分の実子を差し出さないといけなくなったのでした。

神様は、理由もなく、理不尽なことはおっしゃいません、。
聖書には、物事の基本となる摂理が書かれてあり、
それに沿って、父さまご自身も動かれています、。
父さまは、ご自身で定められた摂理を曲げるようなこともなさらないからです。

父さまも、好きでアブラハムに自分の子を差し出せと、
命じたかったわけではありません、。
でも、アブラハムは、神様が選ばれた信仰者であり使命者、。
摂理を進めるという大きな役目があります、。

イザヤ
41:8 わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。
神様は、、アブラハムは、きっと、
信じてくれるに違いない、、。と、信じていたのです、。
アブラハムは、神様から、我が友、、と呼ばれる程に、
神様を信頼して従った人ですから、。

創世記
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

アブラハム、本気で、イサクを手にかけて、、
上で書いたように、、その場で、、自分自身も自害するつもりでいました、。
やっと得た跡継ぎの我が子を手にかけたら、、
イシュマエルも家から追い出しているし、
生きている望みが、もうないのですから、。

奇跡的にサラが身ごもったけれど、最初で最後の望み、。
正妻のサラは、、もう子供が産めない、。
イサクを手にかけて、そのまま自分だけおめおめと帰れば、事実を知った
愛する妻のサラは、気が狂ったようになる。それも見るにしのびない、。

サラは、イサクを殺した自分を憎むに決まっている、。
愛する妻に憎まれ、愛する子を失って、サラとは元の状態には戻れない、。
アブラハムに生きる気力なんか残らないでしょう?

もとより、イサクの身代わりで死んでも良いと思っていたアブラハムです、。
自害することに、ためらいなんか起きないでしょう、。

摂理や儀式の規定と個人的な信仰の思いは別だから、
いくら自分が犠牲になっても良いと思って神様に申し上げても、
自分にその資格が無ければ父さまは受け入れたくても受け入れれないのですね。

父さまは、アブラハムのつらい気持ちをご存知でしたから、

罪がないもの、汚れてないものしか、だめだったから、
いくら愛の気持ち、人情で、神様に、
自分が身代わりになりたいと申し出ても受け入れれない。

今は、100%でなくても完璧な捧げ物となって下さったイエス様ゆえに、
わずかな信仰心でも受け入れて頂けるけど。

当時は、、いくら人情で神様に訴え出ても、
罪あるままでは、正当な訴えにならない。
自分が罪を贖って清いとみなされてから。

でも自分自身では罪を購えないし、
罪を購って下さるイエス様も生まれる以前なのだから、
罪あるままでは、摂理代行者とはなれず、外されることになる、。

神様は、アブラハムを摂理代行者から、外したくはなかったので、
イサクを捧げなさいと、儀式の失敗の罪を贖う方法を指示されて、、
アブラハムは、見事に、父さまの信頼に応えて、悩みながらも、
イサクを捧げる決意をし、自らも死ぬ覚悟で、イサクを奉献しようと決めました、。

アブラハムが、イサクを殺すふりをしたのではなく、
本気でそうしようとしたことは、
アブラハムが刃物を取って手を振り上げたたときに、
御使いが即座に止めに入ったことで、わかります、。

イサク奉献の儀式は、アブラハムが自発的意思により
神様を信じ切って従うこと、
また、イサクも父親に信頼して身を委ねたことで、
親子の信頼と愛情を神様のものに取り戻せたことであり、

当初から、イサクを殺すことが神様の主旨ではなかったのです、。
サタンにより失われた親子関係の愛情による絆を、回復し
神様のものにするためのものでした。

摂理というものは、、サタンにより奪われたものを、
神様の選んだ使命者が、取り戻して、
原初の天地創造の状態に人の姿を回帰するためのものです。

アダムとエバ、、アダムはエバのせいにして、夫婦愛を、失いましたし、
カインは弟アベルを憎み殺したことで兄弟愛を失い、
親を悲しませたので、親子愛も、同時に失われたことになります。

アブラハムとイサクは、親子愛、親子での信頼を神様に示し、
信仰を立てて親子愛を神様のものに取り戻しました、。

アブラハムがイサクを捧げることが、
神様の主旨ならば、イサクを助けないです、。
神様への信頼と従順さを示せたなら、その瞬間、イサクを捧げたのと同等とみなされるわけですから、、実際に捧げるものは、、神様への信頼の心、愛の想いなのです。

知恵の書
10:5 諸国の民が一致して悪事を謀り、混乱したとき、/知恵は一人の義人に目を留めて、/神の前にとがのないよう守り、/わが子への情に打ち勝つ力を与えた。
知恵は、聖霊のことです。義人はアブラハムのことで、我が子は、イサクのことです。

アブラハムは聖霊に助けられながら、イサクを愛している気持ちと、神様への忠誠、どちらを取るか、、となった時に、神様への忠誠を立てて、イサクと自分自身の命を神様に差し出そうとしてたのでした。

アブラハムはすんなり、心傷まずにイサクを奉献出来たわけではなく、苦しみながらの従順と忠誠、、の選択の結果であって、、。

その、大きな苦しみが、あるからこそ、彼が神様に立てた信仰は価値が高く、神様から我が友アブラハム、と言われ、多くの祝福を得、彼の子孫にまで及ぶ悠久的な祝福を得れました。

アブラハムの信仰が尊いのは、、
自分がすんなり納得行かないような神様からの指示、御命令であっても、
苦しみつつも、神様の御意志を最優先事項として選んだことです、。

それが出来なかった例がカインです。
カインは、神様が自分ではなくアベルを選んだことに納得が行かず、
神様の御意志を最優先とせずに、自分の怒り憎しみの思考を優先させたために、弟アベルを殺すという大罪を犯しました。

カインは神様の選びを、納得行かなくても受け入れて、弟アベルを仲介者として、新しい捧げ物を再度捧げ直し、神様の御意志を最優先するべきでした。
カインも摂理の実行者として選ばれていたのでした。

アダムとエバが神様から離反したのと逆、神様から見捨てられ無視された状態を耐えて受け入れ、神様の御意志を第一とすること、、。
カインは出来ませんでした、。

自分のほうが苦労したのに、
なんでアベルだけ、あいつがいなければ、、と考えて
自分の思考を実行してしまいました、。

婚約者のマグダラのマリアがいたイエス様でさえ、十字架の前に、
私の願い(十字架が退けられ、肉の家族、友、愛する人と共に生きれること)ではなく、

あなたの御心(十字架の救い)が行われますように、
と、、 へりくだられ、御自分の願いを神様の御心より下に置かれましたから、。

私達、人が、自分の思考や願いを聖書の規定や父さまの御心よりも最優先するのは間違いということです。神様の御意志、御命令が最優先事項です。

逆に思考すれば、神様の御命令、御心を、自分が理解不能でも
アブラハムがしたように最優先事項として、信じて守るなら、、
良しとされるということなので、、

アブラハムは、祭儀の規定の細かいことまで勉強して覚えてないと行けなかったですけど、現代では難しい神学や、聖書の勉強をしたりしなくても良いわけです、。

神様からの一番最後の人への直の御命令は?これです。
マルコ
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
これ、はイエス様のことです。
イエス様は人でもあるけど、神様の愛する御子だから、
イエス様の御命令に聞き従いなさい、。ということですね。

アブラハムのように、、神様に、そして現代ではイエス様の、
御命令と御心にも、従順に従うことが、アブラハムのように祝福されることです、。
自分の思考中心ではなく、神様中心の思考、生き方をしましょう、。

人間的情の信仰であると、、
口先では、 神様、神様、、イエス様、、と言いつつ、
人間自身の思いを中心にしているので、どこかで必ず間違うことになり、
時として、聖書に反した事を言い出すことになりかねないです。

それが起きるのは、聖書の摂理の流れを理解できていないからです。
また感情論は、、批判のための批判になりやすいです、。

イエス様の与えられた御命令は、、隣人を愛しなさいですね、。
隣人愛があれば、、隣人に危害や悪意のあることはしないのですから、。
イエス様の御命令は、まさに平和を作り出す御命令ですね、。

マグダラのマリア


本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事