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書庫マグダラのマリア聖書論



この書庫は聖書の深(裏?)読み系の記事です。

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創世記
19:17 彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」

後ろを向く、振り返るのは、過去をふりかえることだから。
振り向いたらいけないのは、、神様が、直に滅ぼすから?

見たら死ぬ訳だから、他に何か理由探ししてますけど。
見たら死ぬことなんて、理由があんまり無いわー。  

これが、アダムとエバの時の2人の失敗のやり直しなら、、
夫婦2人で心を合わせて信仰を立てれるか、、
夫婦揃っての信仰が試されただけなら、
与える戒めは、なんでもよかったかもしれない。

与えられた戒めを夫婦2人で守れるかどうかが、大切だったのなら、夫婦そろって戒めを守れるか否か、がメイン、。

結果は、、戒めを守れたのがロトだけで、ロトの妻は、またしてもエバの時のように神様の言いつけを守らずダメだったということですね、、。

塩の柱になった、のことで、、、
神様から打たれてロトの妻は即死したと思っていました。

でも、娘達が、父も年老いて来ましたと、年老いて、、と、言っていますので、ロトの妻が塩の柱になってから後、ツォアルの町に住んで、そこから洞窟住まいになって、さらにいくばくかの時間、数年程度は確実に経過しているわけです。

ロトの父親のハランはアブラハムと同じくらいの年、アブラハムがハランから出た75歳頃にはロトいて、異郷の地に長旅ができる年齢で、最低でも10歳以上でないといけない、。

アブラハムが86歳くらいの時、ロトは羊を飼うものたちを沢山所持していたから、すでに結婚はしている年齢、、一族の長状態と推測できるので、、最低でも30歳前後。(16歳くらいで結婚して20歳位で子を生んでたら、ソドムに嫁に行ったと思われる娘は、24歳くらい、ロトの孫がいてもおかしくない年齢。)

アブラハムが100歳くらいのときにソドムは滅びていて、最低でもその時、ロトは46歳くらいにはなってる。多分、50歳前後でしょう。

妻が塩の柱になってすぐ、
50歳前後にロトに妻が居ない状態であったなら、
ロトが年老いると言われたのが60歳くらいと仮定すれば、
娘達がおよそ10年近くも子作りを保留するのは、不自然。

優秀な子を産み育てるには、、
年老いて人の生殖能力が衰えてから作るのも生むのも、育児するにも、大変になり色々と不都合になるので、、何かその期間の間、保留にしないといけない事情があったとしか思えません。

この保留の事情が、ロトの妻の生存期間なら、つじつまがあいます。

子作りが行われるまでの時間の経過が数年、あったことで、ロトの妻は神様に罰で打たれて、しばらくは生きては居たけど足腰も弱って生殖能力も失って、女性としては当時は役立たないと言われる状態となったのではないかと、、

それは、女としての味気がないから塩で味付けされた=塩でくるまれた人。
柱は人を意味することもあるのでロトの妻は塩の柱になったと比喩されたと考えれます。

マルコ福音書
9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

イエス様は火で塩の味付けをされると、仰いました。

火は通常御言葉や聖霊のことですが、、ロトの妻は、ソドムとゴモラの天からの火で、塩味をつけられ不信仰のレッテルを貼られ、罰を受けた女性ということになります。

エバは産みの苦しみが増え、
ロトの妻は、子が産めない弱った身体になった。

娘達は、自分たちの実母、ロトの妻が、亡くなり喪があけたから、ロトに葡萄酒を飲ませ自分も共に飲んで婚姻の仮の儀式を済ませて、床入りをしたのではないかと。

前にロトの娘達は、ロトの死んだ息子と婚約していた嫁ではないか?と、ロトの息子?の記事で書いてたけれど娘達がロトの死んだ息子の婚約者であって、
ロトの息子が婚約中に亡くなったあとも義理父としてのロトのもとに留まっていたとしたら、

彼女たちはロトの妻の喪に服する必要が無いし、ロトの妻が子が産めないのならば、一旦、彼女たちを実家に戻して再度迎えれば、未婚と同様となり、

彼女たちをロトは妻の生存期間中に側女とすることも可能なので、、ロトの息子の嫁ではなく、ロトの妻の連れ子の可能性大です。

ロトの妻の実の娘たちであるけれど、ロトの実の娘ではないなら、自分の母が存命中は、義理の父親で血がつながっていないとはいえ関係を持とうとは思いません。
↓のレビ記の規定違反になってしまいます。

また、ロトの妻の実の娘ならばロトの妻の喪にも服する必要があります。だから時間の経過が必要だったということになります、、。

娘達は、ロトの妻の連れ子だからロトと娘達は血が繋がってないから、近親相姦にはならない。

ロトはロトの妻と娘達を一緒に妻として娶って居ない。妻が亡くなって喪に服したあとだから、無罪なわけです。

レビ記の
20:14 一人の女とその母とを共にめとる者は、恥ずべきことをしたのであり、三者共に焼き殺される。あなたたちの中に恥ずべきことがあってはならない。

この規定にも違反していない。
ロトの妻が後妻で、娘がロトの実娘で、ロトの妻と血が繋がってなくても、繋がっていても、ロトの実の娘なら、近くにツォアルの町があるのだから、そこから誰か婿を迎えれば、済む話。
実の娘なら、わざわざ父親に固執しなくても良い訳だし。

ツォアルに住んでいたと思われる嫁に行ったロトの娘達の子供、ロトの血筋の子供達は、ロトの娘が16歳で子を産んだとしても、
まだ10歳にも満たず、適齢期でもなく、
通い婚での婚姻対象にはなれなかったのかもしれない。

ロトの娘達は、いわばロトの妻の身代わり婚、
ソロレート婚姻状態で、ロトの子孫をもうけたことになる。

そうでもしないと子孫が絶え、家が断絶する場合は、一番親しい親族によって、、それが義理の親子いとことかなら、子供を残しても罪にはならないでしょう?

でも紛らわしくなるし、アブラハムの甥が妻と娘達を娶ってるし焼き殺されるような罪人では?と疑問が残るようなことは聖書記者は書きたくなかったのかしら。

1部族の祖となった者、、生みの母であるなら、 
ロトの娘たち、ラバンの娘たちレアとラケルのように、、 名前が書かれても良さそうなものだけど

ロトの妻も、名無しの権兵衛で名前伏せられたし、、後ろ振り返って、、不妊の女性になって、正妻の資格失って、、
彼女の連れ子である娘たちを妻の身代わりにロトが娶って、
ソロレート婚状態での側女、妻にしたにしても、それは隠すほどのこと?と思うのですが、、

隠すから近親相姦?と言われる羽目になってます。
まぁ、、マグダラのマリアのことやザカリヤのことのように削られたのでしょうね。  

ロトがソドムの、死んで、悪霊化した者たちに2人の娘を差し出そうとした事も謎です。

生きてる人間のように書かれているけど、、
昔のことで、、、町とは言っても夜には明かりもろくにない時代に、
夜なのに、老若問わずに集まって来て、
人の家のお客さんを袋叩きにすることは起こり得ないことですから。

夜目の効く訓練をしてる兵士や、、戦の時でもなく、
ただのそこらに住んでそうな一般人、若者、年寄りと書かれてますし、。
若者は置いておいても、年寄りが、松明やともし火もなくて夜に周りが見えるわけがない、。舗装もないのだし転んじゃいます、。

イエス様の10人の乙女のたとえ話で、イエス様の時代、町並みも整い人も多くなってきた頃でさえ、家の直ぐ側までくる花婿を迎えにいくとき、明かりが必要だったのだから、更に大昔のロトの時代に、手ぶらで外に出るのは、生きてる人間ならありえない。

集まってきた大勢のならず者を一気に目つぶしするには、光で、目つぶしするでしょう、。生きてるなら、しばらくしたら、また暴れるでしょ。恐れて逃げ出したって書かれてないし、。

戸口を、分からなくしたのだから、暴れてたならず者の霊を他の場所に霊力で、どこかにふっとばして、、強制移動した、と考えるのが妥当かと、。
家の周りからならず者が居なくなってなければ、女連れで逃げれないですし、
ロト一人で婿のところに出ていってますし、彼らはどこかに消えたのでしょうから、。
いくら御使いでも、生きてる大勢の人間相手に、強制移動はしないでしょう、。

第一、当時のお年寄りって、今より食糧事情悪いんだから、
夜に強盗ばりに、自分が先頭切って、人の家を襲う体力と根性ある?

それに、若い頃よりは、よぼよぼしてるのに、わざわざ、松明持って、自分はここよと、強盗に教えるようなものだし、お年寄りが、危険な外に夜に出てくるほど元気でもお馬鹿でもないでしょうから。

夜に、ワラワラと湧くように集まってきた、、ので、、悪霊さんたちです、。
誰も手に松明の明かりを持ってないでしょ、。
生きてる人間なら、夜は松明持って移動しなくちゃ、。
暗闇じゃ顔も見えないし、誰の家かも、わからなくなるでしょ、。

夜、うかつに出歩くことは、いくら町中でも暗い所では強盗や追い剥ぎがいた時代に、日が暮れて暗くなってから家の中から出たりしません。
危ないもの、。普通は寝てます、。

彼らが、、若い処女ではなく、ロトの元に来た客2人(御使い)に対して、強く固執しているのもおかしいです。
単に情欲を満たしたいだけなら、娘でも若くて綺麗であれば良いわけだから、。

御使いは、人の目に見えるように、肉のようなものをまとってたのでしょうけど、、ソドムの町の広場で、休む、と最初、言ってました。

誰か、御使いを自分の家に泊めようとする人がいたら、、別イベントが起きてたのかもしれない、。
でも、ロト以外に泊めようとしたり、話しかける人が居なかったから、
ロトの勧めに応じた、ということかしら。

妻もいるのに2人の娘だけ、生け贄のように外に追い出すのは解せないです。
他にも、御使いが、滅ぼすといった後、ロトびっくりもしないで、娘婿のところに行ってるので、話が飛びすぎてる感があります。

ここらあたり士師記の19章の内容と、かなり酷似しています。

19:22 彼らがくつろいでいると、町のならず者が家を囲み、戸をたたいて、家の主人である老人にこう言った。「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい。」
19:23 家の主人は彼らのところに出て行って言った。「兄弟たちよ、それはいけない。悪いことをしないでください。この人がわたしの家に入った後で、そのような非道なふるまいは許されない。
19:24 ここに処女であるわたしの娘と、あの人の側女がいる。この二人を連れ出すから、辱め、思いどおりにするがよい。だがあの人には非道なふるまいをしてはならない。」
19:25 しかし、人々は彼に耳を貸そうとしなかった。男が側女をつかんで、外にいる人々のところへ押し出すと、彼らは彼女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射すころようやく彼女を放した。

ロトは悪霊に命令する権威を持たなかったので、彼らと交渉して、場を収めようとしたのかもしれない。
イエス様の時は、イエス様はサタンを退けたので悪霊達は、イエス様のことは恐れたのですが、この当時、御使いに関しては、自分たちを滅ぼしに来たことを感づいたので、やっつけてやる、、と、憎しみしかなかったのですね。

諦めないから、結局、御使いが目つぶし、で強制終了、。

話が流れ的にすっきりしないのね。

この世のしきたりで通ってくれるレビレート、ソロレート婚の、、
対象の男性が居ない場合、子孫を残すためであるなら、
一番身近な男性親族によって子を得るのは違法では無いはずです、。

ロトからしたら幼い頃から娘として育ててます、、。
通常の意識では子は成しにくいので、
意識朦朧、夢うつつみたいな酔った状態にされた、のかもしれない、。

この酔った状態は、、聖霊の関与あり、と言うことの比喩だから、
ロトは、神がかり的状態のままソロレート婚での儀式的に、
自分の義理の娘と男女関係を排卵日の一夜づつ持ったのでしょうね。

姉妹だから体質も似ているでしょうし、
同じ生理周期なら1日のズレなら懐妊範囲です。

それに葡萄酒を飲ませて酔わせるって書いてあるから、
人事不省に陥らせて娘たちが夜這いして、
誘惑したことになってるけど、、
本当にロトがそこまで泥酔してたら子作りは出来ませんよね。  
寝てしまうでしょ、。

あの訳では、どう読んでも通常、近親相姦に見えてしまいます。
不道徳だから、ロトの名は部族に名付けずに、、
父よりとか、肉親より、という部族名にしたのでしょうか、、。
余計に、近親相姦だと誤解されますって、。

他に、、気になるのは、、ロトは、多くの家畜財産があってロトの家畜を飼う者たちも大勢居たのに、どこ消えた?って感じです。

ソドムの町では登場さえしてこなくて、娘婿だから嫁いだときの持参金にしたにしても、自分たちがゼロと言うことは無いでしょう、。
まだ嫁がせてない娘がいたし自分たちも居たのだし。

洞窟に住むなら余計に食べていけなくなるわけだし、
食べれて生活出来てるし、手間がかかる葡萄酒もある位だから使用人たちもついて行ってたと思いますが、。

ソドムとゴモラから、ロトたちが逃げてくときに、まるで登場しないのよね、。使用人や財産の家畜は、ツォアルなら近いので連れていけたでしょうし。山であれば、子供の家畜がついてこれないし。  

ロトの娘たちが産んだ二人の子供が、その後、どうやって生き延びて、どこから嫁をもらって子孫を増やしたかも、、書かれてなくて、、。

今まで疑問に思わなかったのが不思議ですけど、スパッと切り捨てたみたいに何も書かれてないですね、、。

自分の家を守ろうと思うのは、
ロトの時代であれば、、同族内に嫁ぎ先が無い状況だと、
一族を増やすために近くに住む親族内で婚姻するけど、それも無理となると、、他の土地から嫁をもらうか、使用人の中で若い女性を側女にするか、です。 

私の家は、私が婿を取って、私が娘と息子を産んで跡継ぎを得ました。
普通は父親と血がつながっていたら、そうします。

実の父親と近親相姦はしません。
道徳的にもなんだし、そうでなくても遺伝子学的に、しないほうが良いのだから。
なぜ、誤解を生むような記録で終わらせたままにしたのかも、不思議で、、、
まだまだ謎だらけです、。

マグダラのマリア

すごく、、気になってることがあって、。
何がって、、?
聖書のことで、、。

ヨシュア記 7:1〜

アカンの罪
7:1 イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった。ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、更にゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。
7:2 ヨシュアはエリコからアイへ数人の人を遣わし、「上って行って、あの土地を探れ」と命じた。アイはベテルの東、ベト・アベンの近くにあった。彼らは上って行ってアイを探り、
7:3 ヨシュアのもとに帰って来て言った。「アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。二、三千人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません。」
7:4 そこで、民のうちから約三千の兵がアイに攻め上ったが、彼らはアイの兵士の前に敗退した。
7:5 アイの兵士は、城門を出て石切り場まで追跡し、下り坂のところで彼らを撃ち、おおよそ三十六人を殺した。民の心は挫け、水のようになった。
7:6 ヨシュアは衣服を引き裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、頭に塵をかぶった。
7:7 ヨシュアは神に言った。「ああ、わが神、主よ。なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。わたしたちをアモリ人の手に渡して滅ぼすおつもりだったのですか。わたしたちはヨルダン川の向こうにとどまることで満足していたのです。
7:8 主よ、イスラエルが敵に背を向けて逃げ帰った今となって、わたしは何と言えばいいのでしょう。
7:9 カナン人やこの土地の住民は、このことを聞いたなら、わたしたちを攻め囲んで皆殺しにし、わたしたちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、御自分の偉大な御名のゆえに、何をしてくださるのですか。」
7:10 主はヨシュアに言われた。「立ちなさい。なぜ、そのようにひれ伏しているのか。
7:11 イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。
7:12 だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。
7:13 立って民を清め、『明日に備えて自分を聖別せよ』と命じなさい。イスラエルの神、主が、『イスラエルよ、あなたたちの中に滅ぼし尽くすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない』と言われるからである。
7:14 明日の朝、あなたたちは部族ごとに進み出なさい。主の指摘を受けた部族は、氏族ごとに進み出なさい。主の指摘を受けた氏族は、家族ごとに進み出なさい。主の指摘を受けた家族の男子は、一人ずつ進み出なさい。
7:15 滅ぼし尽くすべきものを持つ者がこうして、指摘されたなら、その人は財産もろとも火で焼き尽くされねばならない。彼は主の契約を破り、イスラエルにおいては愚かなことをしたからである。」
7:16 翌朝、ヨシュアは早く起き、イスラエルを部族ごとに進み出させると、ユダ族が指摘を受けた。
7:17 ユダの諸氏族を進み出させると、ゼラの氏族が指摘を受けた。ゼラの氏族の男子を一人ずつ進み出させると、ザブディ家が指摘を受けた。
7:18 ザブディ家の男子を一人ずつ進み出させると、ユダ族のゼラ氏族に属するザブディ家のカルミの子アカンが指摘を受けた。
7:19 ヨシュアがアカンに、「わたしの子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主をほめたたえ、あなたが何をしたのか包み隠さずわたしに告げなさい」と言うと、
7:20 アカンはヨシュアに答えた。「わたしは、確かにイスラエルの神、主に罪を犯しました。わたしがしたことはこうです。
7:21 分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今それらは、わたしの天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります。」
7:22 ヨシュアの出した使いたちがアカンの天幕に走って行って見ると、果たして彼の天幕の中に、銀を下に敷いて地下に埋めてあった。
7:23 彼らはそれを天幕から取り出して、ヨシュアとイスラエルのすべての人々のもとに運び、主の前にひろげた。
7:24 ヨシュアはゼラの子アカンはもとより、銀、上着、金の延べ板、更に息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、彼の全財産を取り押さえ、全イスラエルを率いてアコルの谷にそれらを運び、
7:25 こう宣言した。「お前は何という災いを我々にもたらしたことか。今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)。」全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で打ち殺した。
7:26 彼らは、アカンの上に大きな石塚を積み上げたが、それは今日まで残っている。主の激しい怒りはこうしてやんだ。このようなわけで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれ、今日に至っている。

ーーーーー
ここの聖句箇所なのですが、。
捧げ物をかすめ取って泥棒したアカンだけじゃなくて、、
彼の息子、娘、家族、、とあるので、、妻も、、でしょう。
彼の家は、、子孫も残さず断絶させられたわけです。

出来心での泥棒、、にしては、
息子、娘、彼らから生まれるはずだったアカンの子孫まで、、
根絶させられたわけですから、
父さまが下される処罰としては、ものすごく厳しいのですね、。

親の罪を子に負わせないと、、神様は仰ってるのに、。
子が、親の歩んだ道を離れ、正しく生きるなら、、
という条件はあるけれど、。

エゼキエル書
18:17 貧しい者の抑圧から手を引き、天引きの利息や高利を取らず、わたしの裁きを行い、わたしの掟に従って歩むなら、彼は父の罪のゆえに死ぬことはない。必ず生きる。
18:18 彼の父は搾取を行い、兄弟のものを力ずくで奪い、自分の民の中で善くない事をしたので、自分の罪のゆえに死んだのである。
18:19 それなのにお前たちは、『なぜ、子は父の罪を負わないのか』と言う。しかし、その子は正義と恵みの業を行い、わたしの掟をことごとく守り、行ったのだから、必ず生きる。
18:20 罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。
18:21 悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。
18:22 彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。

アカン自身は、、神様の禁止に従わないで泥棒したのだから、処罰されて当然。
妻も、娘も、息子も、、の部分が、どうしても引っかかる、。

上の、エゼキエルの御言葉と照らして考えて見ると、妻も子供も、、アカンのしたことを知っていて黙認し、手伝ったということ、、。
少なくても、盗んだものは、天幕の中の地べたに埋めておいたわけで、、
一人じゃ掘れないし埋めれない。

天幕の中に埋めたのだから、家族が気づかないでいることも不可能、。
つまりは、共犯、。

それにしても、、
それだけで、子孫までも根絶やし、、というのは腑に落ちない、。


この聖句の前に、、遊女ラハブのことが書かれているのですが、

ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。
とあるので、、ラハブは、イスラエルの斥候をかくまったから、、
彼女のみならず、彼女の血筋、一族全部が、滅ぼされないで済みました、。

ラハブ自身と、ラハブの両親と兄弟姉妹だけではなく、
彼女が自分の家に集めておいた自分の親族全て、、。
斥候二人の命を救った見返りに、、自分の親族全部の救済です、。

アカンの家族は、それとは、、まるで逆です、。
アカンの罪故に、アカンの家は、全部、、妻も子供も、根絶ですから。

仮説として、、、
イスラエルが、斥候というスパイをエリコやアイに送り込んだわけだから、
同じようにアイの人が、、イスラエルにスパイを送っていてもおかしくない。、

アカンは、そのスパイから贈り物を貰って買収されて、
スパイを引き受けて、アイに内通してたのではないかと、、。

滅ぼし尽くしてささげるべきものを盗み取った、、と、
1節と11節とで2度、繰り返して書かれていること、。
ここも不自然、1度で説明は十分なのに、2度もしつこく書かれている。

最初のは、、スパイがアカンに渡した賄賂、。
これも、本来なら、滅ぼし尽くしてささげるべきもの、、。
これで、1度めの着服として、。

ぶんどり品は、聖所に運ばないといけない、。
その途中で盗んだものが2度めの着服とすれば
2度も書かれた説明がつく。

そうであれば、ヨシュアが、偵察をアイに送った時に、
スパイが報告した守りの兵士の数とは違ってて、敗退したのも、
アカンが内通してたとすれば、筋が通る、。

おおよそ三十六人、のところも、イスラエルの兵士が3000人いて、、
たかが36人殺されて、怖気づくか??

普段から訓練してきた強者達なんだから、、。
どういうわけか、アイの兵士の数は伏せられて書かれていない。

ゴリアト並みのアイの豪腕な兵士が、
ただの一人、もしくは数人で36人、イスラエル人をなぎ倒したなら、、
イスラエルの度肝を抜くかもしれない、。


スパイ、、アカンが、イスラエルから出て、他へ移動すれば、目立つから、、、
彼の妻や、娘や息子に、こっそり手紙をもたせて
内通したのならバレにくい。

女、子供といえど、国を、同胞を裏切っていたならば、
妻も子供も処罰の対象になる、、。

アカン(Aqan、Achan)の名前の意味は、災いをもたらすです。
עֲקָן は好奇心という意味らしい。

類語 עָקָן ' â 、( aw-kawn')
使用されていない根の意味からねじれて、曲がりくねった

↑ねじれて曲がりくねったという語源の意味もあって、

申命記
16:19 裁きを曲げず、偏り見ず、賄賂を受け取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。
32:5 不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ/その傷ゆえに、もはや神の子らではない。

箴言
2:15 彼らの道筋は曲がり、通う道はくねっている。
17:23 神に逆らう者は人のふところから賄賂を取り/裁きの道を曲げる。

曲がる、災いをもたらす、。というアカンの名前は、、
不信仰で、好奇心から罪を犯し、賄賂を受け取り、
神様から離れていて、イスラエルに災いを招いた、、
ということを言い表したかったようですね。

ということなどから

ラハブは、イスラエルの斥候をかくまったから、
家族郎党生きることが赦されて、、、
アカンが、スパイをしてイスラエルを裏切ったから、、
家族郎党生きることが赦されなかった、と、
考えています。

追記
シンアルの上着が、よくわからなかったので、調べていました。

シンアルの上着とは、KJVの聖書で、、
バビロンの外套と訳されています。 
シンアルとは、古代バビロンのことをさすのでした。

アカンは、カナンのエリコやアイのものではなく、、
バビロンの外套を盗んで隠していたわけですが、。

当時は外套はただでさえ高価なものでした。
金銀であれば、イスラエル内でも、
ほとぼりがさめてからなら売れるのですが、、
イスラエル内では、いくら美しくても高価でも
バビロンの上着だけは売れません。

敵のもの、異邦人のものだとわかるからです。
売れる相手は、敵国人だけです。
イスラエル内で売却出来ない
バビロンの上着を、
アカンが何故、隠し持っていたか、、、大きな謎です。

ラハブは、助けた印に赤い緋色のひもを窓に結んで目印にするよう、サルモンに言われました。
アカンがスパイをしたなら、スパイの印の証拠品、自分たちの身の安全を保証する約束と印をラハブが要求したように、アカンも同じように要求したはずです。

それが、身分がある人が着るような上等の
シンアル
の上着だったら、、
土の中に埋めておいて、、イスラエルが負けてから、掘り出す算段だったのでしょうか、。

アカンがスパイをしていて、あとで、イスラエルが負けて敗退したら、
彼らの国に移り住んで、その時に、自分がスパイをしたという証拠に、身分がある人が着るような上等の
シンアル
の上着を見せて、
彼らに地面の中に隠していた金銀を売ろうとしたのかもしれない、、。


それか、シンアル
の上着は、、隠し言葉で、今でいうと、売国奴という意味だったのかもしれない。

なぜなら、エリコやアイの町にはない筈の、異国の外套が1枚だけ、そこに偶然あって、しかもイスラエル内で売れもしないのに、地面に隠してまで捕るか、とか、、上等の上着を地面に直で埋めて生地が虫や湿気でダメになるようなことをするか、とか、、他に、地面に埋めたと書かれず、
地下に埋めてあった。と書かれていること。

エレミヤ記
17:13 イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。

の御言葉もあるし、色々と疑問が湧く、。

スパイなら、国を神様をも裏切って離れ去ったわけだから、
地下に埋めたバビロン(異邦人)の服、、で辻褄があう。

カナンの衣服なら、不自然じゃないのだけども、
バビロンは、神様のように偉大なものになろうと高い塔バベルの塔を建て言葉の混乱をこの世に招き寄せた町、。

いわばバビロンは原罪による死に次いで、
第二の罪の実、言葉の混乱を招いた背きの象徴の町。
その背きの町の人間、神様を信じてない異邦人が着る服=異邦人と通じたスパイ。

マリア




 

↑この2つの記事の改訂最新版。

過去記事から色々訂正した箇所があります。過去記事も含めての改訂版も書くつもりではいますが、長くなりますので、

今回は、訂正箇所のみを主にまとめています。
御母マリアの懐妊時期、天使の受胎告知の時期についてです。
聖書をただ読むと受胎告知後すぐ、まだ御母マリアが懐妊していないのにエリザベトは御母マリアに、主のお母様と言い、胎内のお子さまと言っていて矛盾があることについて。

イエス様は、人として、おいでになるとき、
あえて貧しく低い身分の大工の子としてお生まれになった、。

本来なら、、イエス様は祭司ザカリア大祭司アロン、レビ人の高い身分であるのに、、。

それを隠し捨てて、貧しい大工のヨセフの息子として、お暮らしになった、。

イエス様が祭司ザカリアの息子であったことは、多くの人に知られてはいたけれど公然の秘密。

御母マリアがいた妻エリザベトの元にいた事、、当時も昔も、夫が妻のもとへ行く通い婚、。

ザカリアの妻エリザベトだけがいるべきところに、、、御母マリアが、3ヵ月も滞在していた事、これだけでも不自然なのですね。

ザカリアは、自分の妻に子が授かるように強く願っていたのですから、。

もし御母マリアが、エリザベトのそばに休んでいたなら、ザカリアは、エリザベトに触れれないでしょう?

年老いたエリザベトです。
ザカリアは、1日でも早く子供が欲しい状態なのです。

自分の妻に3ヵ月も触れれない状態をザカリアは、好ましく思うでしょうか?
人の懐妊のチャンスは、、月に数日だけしかないのです。

それに聖書の聖句の並び通りエリザベトが身重で、バプテスマのヨハネが生まれる寸前であったのなら若い御母マリアが、3ヵ月も滞在してお世話になっていたのに一番女手がいるときに帰るか?となると、

普通は帰らないでお手伝いします。

この辺りの聖句は書く順番を間違えて書いていたと考えると、すっきりします。

御母マリアが、天使から懐妊の受胎告知を受けた時は、実は、すでに懐妊済みで、、。

ザカリアの妻エリザベトのところに3ヵ月居たときに、祭司ザカリアによって懐妊しているかもしれないという状態の時であり、

一度、実家に戻っていてヨセフとも婚約中であったから、身に覚えはあっても、ヨセフの婚約者であるので、男性(ヨセフ)を(夫としては)知らない。とマリアは答えたわけです。

嘘ではないですね。
御母マリアは、祭司ザカリアが触れる前は清らかな乙女だったのですから。

御母マリアは、祭司ザカリアとエリザベトに願われて、代理妻となりイエス様を宿したけれど、身を隠して居たエリザベトが懐妊していたことが解って実家に戻され、、

ヨセフが婚約者として選ばれ、婚約後、懐妊していることが解って、ヨセフは、御母マリアの養父でもあった祭司ザカリアの子だと思い、密かに離縁しようとしました。

御母マリアの母アンナとヨアキムは、同時期に御母マリアの懐妊のお告げを受けています。

御母マリアへの受胎告知と婚約者ヨセフへの夢のお告げは同時期であったのではないかと私は今は考えています。

お腹が大きくなって見た目で妊婦だと解ってるころだと、密かに離縁とはいかない、どう考えても、ヨセフが婚約中に床入りして孕ませて御母マリアを嫌になって捨てた、、となるわけだし。

お腹が目立つ前なら、離縁してしまえば、お腹の子供の相手が誰?と、ヨセフは突っ込まれないで済むわけですから。

まだお腹の大きさでわかる頃ではなく悪阻が起きて、もしかして懐妊?と親しい周りと本人も気づく頃、妊娠4〜7週、2ヶ月ころ、。

天使から受胎告知を受けた御母マリアは、祭司ザカリアの妻エリザベトの元に本当にエリザベトが懐妊しているのか、事実を知りたくて急いでエリザベトのもとに向かいます。

御母マリアがエリザベトの懐妊を事実かどうか確認したかったのは、お腹の子が祭司ザカリアの子だったからです。

エリザベトが懐妊していたので、御母マリアは、祭司ザカリアの子であることは一切口をつぐみます。

すでに御母マリアが懐妊済みであったし、受胎告知されたように、生まれてくる子は、神の子として生まれると確約済みなわけだから

エリザベトの祝福の言葉が、

「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

懐妊済みだから、、胎内のお子さまも祝福されています。だし、主のお母さま、、なのです。
受胎告知だけでも、父さまに不可能はありませんので受胎は可能です。

でも、神様がご自身で生み出された法則や摂理に逆らう形で、人を誕生させることはなさらないです。

ごく普通の男女の営みによって子を生み出すことは、人への祝福が産めよ増えよ、なのですから、当たり前なことです。

御母マリアを処女だとしたかったのは、イエス様が神様だという理由付けを作りたかっただけではないでしょうか。

イエス様は、御母マリアから、人として産まれたから神様なのではなく、
人として生まれる前から神様なのですから、、イエス様の母さまが処女でも、そうでなくても神様です。

人の肉体の器だけの問題でしょう。
ヨセフへのお告げで、

恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。

聖霊によって宿ったなら、母の状態がどうであれ清いのですね!

念のため、聖霊は神様であるイエス様を清めません。清めたのは、イエス様の御霊の器であるイエス様の肉体だけです。

清めて新生させる聖霊の働きも、
イエス様が、生まれ出くる前から神様だったと解ってなかったから、人間側が知恵で考え出した後付け教義、。

わけのわからないのに処女降誕を認めない者は異端、タブーに触れたり言ったりしたら破門、処刑の厳戒令をしいた、、。

イエス様は、神様、。
それに何の理由付けが必要なのですか?
事実だというために、
何かの理由付けがないとイエス様は神様ですって言い張れ無いのですか?

自分の感じた罪の重さの苦しみから解放して下さった救い主であるという事実だけあれば、信じ続けるのも、イエス様は救い主と言い張るにも十分すぎる理由だと思いませんか?

聖書も聖霊の働きも、学問じゃないし、神様と自分との信仰生活での体験の中で考えて悩んで育てて行って、つちかうものでしょう?

神様の御霊、御心を、、、
自分の魂で感じ取る、受け取るものです。
人から請け負った話し聞いて、知識だけ得たって、父さまの気持ちや想いに、、自分の心を、添わせなきゃ、なんにもわかりません。

知識だけいっぱいあっても、信仰は深くはならないの。お父さんに、、想いを向けるの、なんだって良いから、大好き!でも愛してる!でも、助けてー。とかもありだけど、自分も努力しなきゃ、神様は助けれないです。

自分で考えて自分で動けるだけ動いて、、自分では、どうにも出来ない部分、神様から奇跡や助けがなかったら、動かない部分だけは神様からの天の配慮、助けをお願いするしかないから。

ここから下はイエス様が神様であるという理由。

とあるところで、
イエス様が実際には居なかったとか、
神様の子だという証拠は、処女降誕以外無い。それも作り事と言ってる人がいたので、、

それへの反論、。
何で、そこで言い返せないの?と、読んでちょっとジレンマになりました。

言い返さないのが美徳?
私は、イエス様がいわれのない
けなされ方されると、言い返したくなります。

ヨハネ福音書
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

言は、イエス様のことです。
言は言葉のことです。

神様は、創造の御業を御言葉を発してなされました。
イエス様も、神様ですから、父さまと同じように人を癒やす時に言葉で癒やされました。

また、イエス様を信じる人がイエス様の服の裾の房(義の太陽(救い主の意味)が昇る。その翼( 房と同義)にはいやす力がある。と信じて)に触れただけで、癒やされました。

自然でさえも、造り主であるイエス様の発した言葉に聞き従いました。

出てきなさい!と言葉だけで、、4日
間、死んでいたラザロを蘇らせました。

ヨハネ福音書
12:10 祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。
12:11 多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

ラザロが蘇ったあと、普通に生きていたなら、イエス様を殺したファリサイ人らはラザロも、絶対に殺したはずです。

イエスるあ様が神様でなかったら、死んで4日も経つ人間を言葉だけで蘇らせるのは不可能ですから。
ラザロが蘇ったことはイエス様が神様である揺るがし難い証拠です。
そういう重要人物を生かしたままにはしておきません。

ところがイエス様の最後の過ぎ越しの祭り以降ラザロは出てきません。

蘇ったラザロは、イエス様の願いと御力で一時的に蘇ったので、、イエス様が帰天された時に、ラザロは一緒について行きました。だから消息不明になったのです。聖書がイエス様の帰天後のラザロのことに触れてないことがイエス様の帰天、つまりは十字架の救いが事実であった証拠です。

最後に、。聖書は、神様が与えたものですが、
書いたのは人です。間違えることもあるし、権力者により意図的な削除、編纂もあったはずです。

それでも、来たるべき方だけは、欠片のような言葉からでも、正しい状態を読み取れる。イエス様が残された言葉の多くは、来たるべき方へのメッセージでもある。


タイムテーブル

ザカリア、ヨハネ受胎告知を受ける。

エリザベト、バプテスマのヨハネ懐妊、
本人は知らない、。
エリザベト、乙女マリアを選び、夫ザカリアに与えることを決める、。

エリザベト実家に戻り身を隠す。
御母マリア、エリザベトに挨拶しにいく。(1度目の挨拶、行き先はエリザベトの実家)

エリザベト、身を隠す、妊娠1か月め
エリザベト、身を隠す、妊娠2か月め
↑ここの半ばあたりで、祭司ザカリア、エリザベトの実家から戻って来た御母マリアを代理妻、側女とする、。

エリザベト、身を隠す、妊娠3か月め 
エリザベト、身を隠す、妊娠4か月め 
エリザベト、身を隠す、妊娠5か月め 
(このあたりで御母マリア懐妊) 

5か月の後半、
エリサベト自分の妊娠に気付き、ザカリアに知らせてザカリア家に戻ることになる。

御母マリア、ここまでで、ザカリアの家に全部で、約3か月滞在
このとき、ザカリア、マリアとの仮の婚姻関係を解消。

御母マリア、自分の実家へ帰る。 
 (御母マリア、妊娠1か月め 本人は懐妊を知らない。) 

エリサベト、ザカリアの元へ戻る。
ザカリア、御母マリアの花婿候補、ダビデの子孫を神殿に集める。
ザカリア、親族のヨセフに花婿候補として名乗りをあげるよう説得する、。
ヨセフが、御母マリアの花婿に選ばれる、。


ヨセフと御母マリア婚約
ヨセフと御母マリア婚約期間

エリザベト、妊娠6か月め 
御母マリア 天使により受胎告知。
御母マリア、エリザベトの懐妊を確認するために急いでエリザベトのもとへ行く。(2度目の挨拶、行き先はザカリア家)

ヨセフ、御母マリアの懐妊の可能性を御母マリアの親族側から聞き知る、離縁を考えていた時、天使からお告げを受ける。(御母マリアを離縁するのはやめる。)

エリザベト、妊娠7か月め 
エリザベト、妊娠8か月め
エリザベト、妊娠9か月め 
エリザベト、
妊娠10か月 
バプテスマのヨハネを産む。

エリザベト、
の出産を親族が喜ぶ。 

(御母マリア妊娠5〜6か月) 

律法学者のアンナスにヨセフと御母マリア、律法を破ったとして訴えられる。
 祭司に呪いの水を飲まされる。無実であるとして釈放される。

↑聖書に、当初、編纂される前は、このような記述が書かれてあったと思います。削除された可能性大、。

なぜなら当時は姦通罪は大罪で、婚約中の床入りも律法違反。
特に御母マリアは、石打刑で打ち殺される確率が高かった。

罪が無いと何らかの形で立証されてなかったら、御母マリアだけは、絶対に、、無事では済まない。

姦淫を犯した別の女性が、イエス様の元に引きずり出されたけど、御母マリアが彼女と同じように周りから姦淫したと引きずり出されたり、裁かれずに無事だったのだから、

何らかの神様からの明確な守り、無罪判決がなければ御母マリアが無傷で済んだのは当時のユダヤ社会のしきたりからしたらおかしい。

よって、外典にしか記載されてはいないけれど、これは事実として起こったとしか考えれない。

住民登録のためにヨセフと御母マリアはベツレヘムへ旅立つ。

バプテスマのヨハネ 生後6か月
(御母マリア妊娠10か月) 

イエス様、御降誕。
ヨセフ 御母マリアと幼子イエス様を連れてエジプトへ。

ヨセフと御母マリア婚約期間
*婚約期間を1年間と仮定したならここで満了*
*婚約期間満了後ヨセフと御母マリア結婚*

バプテスマのヨハネ 生後2歳以下。 
ヘロデ王、2歳以下の男の子を皆殺しにする。


創世記
3:22主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」 

神様は、人が堕落した時に、
我々の一人のように、善悪を知る者となった。と仰いました。
言った、、と書かれているので、独り言ではなく、
神様が誰かに口に出して、そう仰ったわけです。

当時は、人間もいましたけど、、アダムとエバだけなので、
男(アダム)や女(エバ)に言った、、と書かれたはずです。

この聖句も、同じです、。
創世記
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

神様が、誰かに口に出して、我々、、そう仰ったわけです。

当時は、まだ、人は、霊的な存在として神様の中にいて、まだ肉体も持ってないので、神様の住まう世界、霊界にも、この世にも存在してはいないです、。

霊的な肉体を持ち、霊界に存在していたのは、天使たちです。
我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう、、は、、
大本は神様に似せて、、ですけど、天使たちにも似せて、、でもあったということ。

我々とは、、、天使たち全部を含めて、、でした、。
最初に話を戻して、、
我々の一人、、、、これは言い換えると、
神様と天使全部のうちの一人、、と読めます、。

神様は、、善なるお方ですし、天使も善なる存在です、。

今は、、善ではなく、悪に堕ちた 
もとは、我々の善の仲間であった一人、、ということで、、
神様に一番最初に背いた堕天使、サタンのことです。

人間は、サタンと同じに、善と悪を知る者、
完全善の無垢な存在ではなくなってしまった、。という意味です、。

命の木から取って食べるとは、
命の木は、本来アダムがなるべき、完全善の理想の姿だったのですが、
アダムは堕落したので、命の木は、イエス様のことを指すのですね。

命の木である、、人となる以前のイエス様に、、
罪で穢れたアダムとエバが、、自分の原罪を清めようとして
勝手に触れたら、良くないわけで、、、

神様は、、人となる以前のイエス様を、熾天使ケルブに守らせて、、
神様のエデンの園から人を追放して、人となる以前のイエス様から
アダムとエバを遠ざけたということですね、。

命の木であるイエス様に触れさせないように、。
原罪があるアダムとエバが触れたくらいで、、
イエス様は神様なので、穢れたりしませんが、、

悪魔に心奪われたままで、、
イエス様に罪を清めて貰おうと言うのは、、駄目ですからね、。

ちゃんと、反省して神様に従おうと人が決意出来るように、
人の持つ、神様への信仰心を育ててからということ、です、。

信仰生もその同じでしょう?
洗礼受けても、勉強しても、神様のことは、
多くの時間をかけないとわからないし、神様に従おうとする思いも、
多くの時間をかけないと育っていかない、。

命のパン、、イエス様を食べたから、、
もう大丈夫、、と思ってたら、神様に従う努力もしないし、
神様を慕い求めることもしない、。

人は、すぐにでも罪の苦痛から救われたいと思うけど、、
心底反省して、悔いるまで、、時が満ちるまでは、おあづけです、。 

マグダラのマリア

生きている者とは

マルコによる福音書  12:22〜
12:22 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
12:23 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
12:25死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

サドカイ派は死後の霊の存在を信じていなかった。
なので、死んだら眠りについて終わりだと、思っていたわけで。

だから死後、、人の霊が存在するなら、
7人を夫にした女は、一体
誰の妻になるのか?と聞きました。

7人を夫にしたといっても、
レビレート婚なので、、全員、
長男の身代わり婚であり、
次男以下は死後は妻が居ない事になるのだけど、それさえもわかっていなかった。

独身のまま亡くなった人は
永遠に存在する霊になっても、
永遠に独身なのか?
永遠に夫や妻が居ないままでは不公平。

それでイエス様は、天使のような霊的存在として人が死後も存在し続けて、死んですぐ消滅するような存在ではないと教えられました。

また、復活するときには、
自分の肉体で生きている時、事情が有って
何度も婚姻を繰り返し続けるような
ことにはならず、、

死んで霊となって新生児に合わさって
一種の復活、新生輪廻をする時は、、、
娶り続けることも嫁ぎ続ける事も
無いと言う意味です。

何回も、何回も永遠に続けたりしないと言う事。 

人として生きていた間、思い残すこと、
こういうことしてみたかったと思うこと。
たとえば結婚したかった、。
子供を産み育てたかった。
走りたかった。山にのぼりたかった。
旅行したかった、。絵を描いてみたかった。
スポーツ選手になりたかった。

こういう願いがある場合、。

新生児の霊に死者となった者は
自分の霊を合わせて
生きていたときのような疑似体験を積む中で、
どこかで、神様の御愛を知るのです。

そうでしょう?
生きていた時に結婚出来なくても、
新生輪廻して、結婚したり
スポーツ選手になれたり、自分の望む体験を
積むチャンスがあるわけだから。

それまで神様を知らず、もしくは
わからないので受け入れずにいて
霊的に死んでいた霊が、、
新生輪廻の体験の中で神様への愛に目覚めて
生きた霊となるのが、本当の霊的復活。

その時、、神様の御愛を理解して救われ
自分と対になる相手とも出会った時が、
最後の婚姻になると言う事です。

真実の愛を合わさった人と共に、、知って
追体験し生きた霊となったあとで、
合わさった新生児が成長してパートナーを見つけ、

そのパートナーにも合わさった霊がいて、
その霊が生前独身で有ったなら、
娶ったり嫁いだりは、その時、最後となる。

自分のパートナーとなれる人(霊)と出会えたら、それ以降は、霊は仮の肉体を使ってということであっても、もう娶ったり嫁いだりしない。

霊が娶ったり嫁いだり絶対にしない、出来ないと思いこんでいると、霊同士の結びつきは解らない。

聖句は死者の中から復活するときには、
めとることも嫁ぐこともなく、
と書いているだけで、
霊同士が結びつかないとは書いていない。

霊が結び付き合うのは強い愛情によってです。

ただそれだけではなく、神様が備えた
ただひとりのアダムとエバが、
すべての人に備えられてあるのです。

ひとりの男性にひとりの女性。
神様が娶合わせた相手同士、。魂の片割れ。

父と子と聖霊の、、子の対である聖霊が
いくつもいくつもあるだろうか?
聖句の対という言葉は
一つに一つで対と言う。

一つと二つとかの複数でで対とは言わない。
神様は、人を男女対で創造されている。 

イザヤ書
34:16 主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ/主の霊が集めたものだからである。 

アダムは神様の御霊、
命の息を吹き入れられて生きる者となった。

エバはアダムの肋骨から造られたのだから
アダムとエバは本来一つであったものが
分かたれて再度一対一体となったこと。

創世記
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

人は神様に似せて造られました。
神様は三位一体で父なる神様と
子なる神様と母なる聖霊。

人間の家族は家長の父と息子と
息子の嫁とで三位一体の実体化した姿。
肉的三位一体。

父と子と聖霊プラス、、
人間(三位一体の実体化した姿)とをあわせると
全部で四位一体。

家長の息子が成長し家督を継ぎ
父の立場になって自分の嫁と対となり
子供を得て新たな肉的三位一体。

人は、永遠に、
その繰り返しで、みいつの神様を
体現しつづけることができ、
神様のもつ永遠性と命の連鎖を生み出せる。

アブラハム、イサク、ヤコブ、、、
親が息子を、息子が孫を生み出し、
自分の血筋と家の名を引き継ぎ
残し続けたこと。

それは、彼らが肉的三位一体を体現し、
この世で生きている者となっていたということ。

結婚し子を産みだし育てて生きること、
その当たり前のことが
人間として生きていることであって、

死んで自分の肉体がない状態になってからでは
肉的三位一体を、、自分自身が
体現することは出来ない、。

伴侶とはどこかで巡り会えるし、
自分が合わさって得た
疑似的な家族も得れるけれど。

肉的三位一体を体現出来るのは
自分の肉体がある間だけの特権。

つまりは、この世で
結婚出来得る状態であれば、
なるべくなら結婚し、子を産んで
子を育てる、肉的三位一体を体現する 
ことが望ましいのです。

それが人のあるべき姿だから。

もしこの世で状況が整わないままで
結婚出来ないままで終わっても
新生輪廻で、追体験が出来、
自分の魂の伴侶ともどこかで巡り会える。

神様は、人が1人で居るのは
良くないと思われました。
神様ご自身が、愛を注ぎ
愛する存在を欲したのですから。

だから神様に似せて創造された人も、同じで、
愛し愛されることで安息を得たいと
願うものなのです。

従って教皇及び神父が、独身でいる状態は、
父なる神様の摂理と御心に添っていません。
カトリックは妻帯を認めるべきです。

初代教皇とされたペトロは、子はいなかったようだけど結婚してたよね?
ペトロの姑がもてなしたのだから嫁の母でしょー。

初代が結婚してたのだから、後継者が結婚しても当たり前。司祭が結婚しても当たり前です。
イエス様は結婚を禁止してませんからね。


マグダラのマリア




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