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書庫マグダラのマリア聖書論



この書庫は聖書の深(裏?)読み系の記事です。

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マリアの福音書から、抜粋。
関連記事 改訂版†マリア福音書†(全文)


ペトロがマリアに言った。
「姉妹よ、救い主が他のどの女よりも貴方を愛した事を、私たちは知っています。
貴方の覚えている救い主の言葉を、私たちに話して欲しい。貴方が知っていて私たちが知らない、私たちの聞いていない言葉を。


マリアは答えた
貴方がたに隠されている事を、私が貴方がたに明かしましょう。」
彼女はこれらの言葉を彼らに話りはじめた。

彼女は言った。
「私は、幻のうちに主を見ました。そして、あの方に言いました。『主よ、今日、私は幻のうちに貴方を見ました。』と」

「あの方は答えて、私に言いました。
『貴方に、祝福があるように。貴方は私を見ても勧じなかった。叡智のあるところに、富もあるのだ。』」
「私は、あの方に言いました。『主よ、人は魂を通して幻を見るのでしょうか。それとも、霊を通して見るのでしょうか。』」

「救い主は答えて言いました。『人が(幻を)見るのは魂を通してでも、霊を通してでもない。その間にある叡智を通して幻を見ているのだ……。』」

「欲望が言った。『私は、お前が降りるのを見なかったが、今、お前が昇るのを見ている。お前は私に属していながら、何故、私を欺くのか』」
「魂は答えて言った。『私は貴方を見たが、貴方は私を見なかったし、私を知らなかった。
貴方にとって私はただの衣であり、それで貴方は私の事が判らなかったのだ。』」
「魂はそう言うと、歓喜のうちに去っていった。」

「魂は、第三の権力の処にやゥで来た。無知と呼ばれるその権力は、魂に尋ねた。
『どこに行くつもりだ。お前は、悪に支配されている。支配されているなら裁くな。』」

「魂は言った。『貴方は、何故、私を裁くのか、私は裁いていないというのに。私は支配されていたが支配した事はなかった。私は知られていなかったが、私は知っていた。地のものであれ、天のものであれ、いずれ消滅する全てを。』」

「第三の権力を打ち負かすと、魂は上昇して行き、第四の権力に出会った。それは、七つの姿をしていた。
第ーの姿は闇、第二の姿は欲望、第三の姿は無知、第四の姿は死の願望、第五の姿は肉体の王国、第六の姿は肉体の愚かな知恵、第七の姿は怒る者の知恵。
これらが怒りの七つの権力である。」

「これらの権力が魂に尋ねた。『人類を滅ぼす者よ、お前はどこから来るのだ。そして王国の破壊者よ、どこに行こうとしているのか。』」

「魂は答えて言った。『私を支配していたものは殺され、私を取り囲んでいたものは滅ぼされた。私の欲望は消え去り、無知は死んだ。
ある世界のうちで、私は別の世界を通して、解き放たれた。そして像の内で、私は天の像を通して自由となった。忘却の束縛はー時的なもの。
これから私は、沈黙の中で、時の流れを通して、安息を得るのだ。』」

マリアはそう言うと、沈黙した。
救い主が彼女に語ったことは、これだけだったからだ。

アンデレが答えて、兄弟たちに言った。
「彼女が言った事をどう思うか、考えを聞かせて欲しい。だが私は、救い主がこんな事を語ったとは信じられない。これらの教えは、どう見てもおかしい

ペト口も同調して、他の者たちに、救い主について尋ねた。
あの方は本当に、私たちの知らないところで、彼女と個人的に話をしたのだろうか。私たちはみな、考えを改めて、彼女に向き合い、その言葉に耳を傾けるベきなのだろうか。あの方は私たちよりも、彼女を気に入っておられたのだろうか。

マリアは涙を流しながら、ペトロに言った。
「兄弟ぺトロよ、貴方はどう思っているのですか。
私が自分で話を作りあげたか、救い主について嘘をついているとでも考えているのですか。」

レビが答えて、ペトロに言った。
「ペトロ、貴方はいつも腹を立てている。いまも、この女を敵の如くみなして言い争っている。
救い主が彼女を相応しいと認めたなら、彼女を拒む貴方は、一体何者なのか。
救い主は間違い無く、彼女を良く御存知だ。そこで私たちよりも彼女を愛されたのだ。」

「だから、私たちは己を恥じて、完璽な人間性を身に着け、そうなれるように努めるべきだ。主がお命じになられたように。救い主の言った事を超えて法や規則を定める事なく、福音を宣べ伝えるべきなのだ。」

レビが、こう言うと彼らは教えを宣べ伝えるために去っていった。


---------------------
結果、、ペトロら、、は考えを改めなかった、。
マリアの言葉は何一つ聖書に書き残させずに削除されている。

弟子たちにさえ、イエス様とマリアとの間で交わされた会話と
教えは理解できなかった、。

彼らはユダヤ人としての選民的思考だけでしか考えることができず、
すべての人が神様の子であり、救う対象であることを、
真に理解できなかった。

イエス様を信じた者だけが、救われる、。
クリスチャンも、、ユダヤ人と同じ選民思想を持つ、。
でも、、父さまの想いは、、、イエス様の願いは、
それとはあきらかに違うのです、。

クリスチャンでなくても、、
信仰心を持ち、正しく生きようとしている者ならば、
クリスチャンでなかろうと、天国へ招き入れる、、、、。

クリスチャンであれば、、地獄に行かない、。と思っていたら
大間違い、。
私的感覚だと、、むしろ、クリスチャンとなったほうが、、
堕ちる危険度は増大する、感じ、、。

そ、、罪が赦されてると、、増上慢状態になり、
長い間に、、次第に神様を切実に求める心や、、
感謝する心を忘れやすいから、。

私は、信仰の初期のころから、
叩き伏せられたと感じるくらいに、
何度も何度も自分の内面の罪を自覚させられて、
苦しみ謝罪を繰り返して、悔いてもくいても、、
結局、似たようなことを繰り返していた、。

人を呪詛するがごとく憎み恨んでいた、、
自分自身の最凶におぞましい、姿を見るまで、、。

クリスチャンらしくあろう、。
良い人でありたい、。
そうやって日々努力して、いたことすべてが、、
ぜーんぶ崩れて、、なくなって、、
残ったのは、、その、、見るも、おぞましい自分だけ、。

絶望するでしょ、。がっくりするでしょ、。
そんなみじめなものが、自分なんだもの、。

何十年もかけて努力したことが、一瞬で消えた、。
クリスチャンらしく、、のプライドもなにもかも、。
ガラガラガラ〜〜〜ドガシャーーーン、。
父さまに、きれーーーいに、破壊されましたぁ。

僅かばかりの努力でも、、
それがクリスチャンブランド的な、、
自己満足感のプライドを作り出してた、。

消えて、なくなって、、
救われて当然とか、、クリスチャンだから天国、いけるなんて、、。
甘い考えはきれいにすっ飛んだわね、。

こんなんじゃ、私、当然、地獄行きだわ、。
お父さんと離れるのか、、。
もう会えないのか、、
あぁ、、そうだよ、お父さんとも、、呼べないのか、。
クリスチャンと言いながら、、
イエス様に従いたいです。と言いながら、。

人を憎んで、心で殺めて、、殺人鬼と同じじゃない、。
これで、天国行けるわけがない、。
神様から離れたのが、辛い、。
という想いが、、、、頭の中、、心の中、グルグル、。

そんなおぞましい状態の私が、、
イエス様に、それでも、お前を愛している、、と
救われて、、心身ともに安らぎを得れた、。

クリスチャンプランドなくした代わりに、、、、
永遠に壊れない安らぎを、イエス様に与えて貰えた、、。

それまであった、、クリスチャンらしくいたい、、
良い人でありたい、。
そんな考えは粉々、、。

今は、、お父さんに喜んでもらいたいから、、
というのが行動の動機かなぁ。

自分ではしたくないな、、面倒だな、、と思うことでも、
お父さんに喜んでほしいと思えば、、身体が勝手に動く、。
逆に、これしたら、、父さま悲しいよね、、と思うことは、やらない、。
ようになってきた、。

自分の感情以外のもので、行動するみたいだから、
自分で自分のやりそうな行動が、
よくわからないことがあるのだけど、、、。

自分の損得勘定や、自分なりの理屈で
動いてないことはたしか、。
なんでしょ、。
感覚で、、動いてる、。そんな感じ、かなぁ、。

児童手当、5年受給したから、今度8月分から半額減額支給だって、。
あらら、、、。
就職するか、、求職活動証明するか、
病院行って不労証明書いてもらうか、、
しないとダメっぽい、。

病院、、通ってはいても、糖尿で、、重度でもないので、
不労証明は書いてもらえないだろうし、。
一応は、19日が糖尿の病院の日なので、新しい先生なので、
診断書なんて、大変そうで悪いけど、書いてもらえるか?と
聞いては見ようとは思う、。ダメもとで、、。

実際、一時期8.0超えして、
教育入院しろ!と一昨年の夏に、言われてるしね、。
すれすれセーフで助かって、
インシュリンは打たないで済んでただけで、、、。

今も、気を抜いて食べたいものばかりを食べて太ってしまえば、、
すぐに数値は悪くなると思う、。

バナナと野菜でダイエット、、で、体重太らないように維持、、
それは、すごく私には重要、。

求職活動って、つまりは面接先で、証明してもらえってことで、
50過ぎのオババでも、
派遣登録出来るような派遣会社あるかしらん。

出来たら働きたいし、、素人歓迎で、
シール貼りとか梱包とかの仕事ないかな、。と思って、、
タウンワークもらってきた、。

目が悪くなければ、。
仕事、ここまで選ばなくてもいいのになぁ、。

目で見る場合は、、パソコンやタブレットみたいに、、
拡大して見やすい大きさにして見れないもんねぇ、。
いちいち傍に持ってこないと、見えないこと多いし、
仕事でそんなことしてたら、遅いので要らない、と言われるのが
普通だもんね、。

目が普通に見える、というのは、、
それだけで、もうけもの、幸せなことですよ、。

マリアが、、当時、弟子たちにイエス様の言葉を話しても
理解不能だったけど、、
私も、、かなーり現代クリスチャンに、
理解不能や、、おかしいと思われるようなことを書いてるわねぇ、。

↑上で書いてるクリスチャンでも地獄いき、、
あまり、クリスチャンで、誰もいわないでしょ、。
みんな天国いくこと前提で書いてる人ばかりだものね、。

なので、、クリスチャンが嫌いなの?
嫌いならなんで棄教しないの?と
ノンクリスチャンの方から、内緒で言われたことがあります、。
聖書には、、クリスチャンが地獄に行くとか、
はっきり書かれてないからね、。

主よ、、と言いながら、従わない信じない山羊の狼羊は、、
離れされ、、だものね、。
イエス様から離れたら、、どこ行くの?

そりゃ、、天国の反対は地獄、、
でも堕ち行く人には、、その地獄が天国に感じて、
そこに喜んで自分から行くのよね、

それが父さまの裁き、、慈悲であり、厳しい裁き、。
自分で自分の間違いに気づかない限り、。
その地獄から抜け出せない、。永遠の時間であろうとも、、、。

自分には天国に思えるけど、、実は地獄、、って、、
相当に厳しいと、、思うけどねぇ、。

死んでからだと、、類友の法則にしたがって、
似たような者で同士集まるから、
自分が間違っていることに気づきやすいようで気づきにくい、。

この世では、、思考が自分と正反対の人も、
行いが自分と正反対の人も、全然違うことする人も、、いろいろいるから、、
色々な体験ができて、、広く体験を積みながら、
自分なりの正道とか中道を見つけやすいけど、、。

同じ思考同士で固まると、、地獄の住人と同じで、
間違いに気づきにくい、、。

人同士というものは、、
いろいろな思考や信仰の持ち主と交わって、
より広い思考と交友関係を持つのが、ベスト、。
それは、ネットであっても同じ、。

クリスチャンクリスチャンしてると、、堕ちますよ、。
にーっこり、。私も、堕ちたモーン、。
しかも、、殺人鬼並みのこと、
心で平気でやらかしてた、、という、、、
あまりに罪に鈍感な図太い根性してたから、、
放置されて、どん底まで、堕ちたわね、。

ある時に鏡みるまで、、自分が殺人鬼と同じだと、、
気づきもしなかった。
当たり前の顔して、人相が変わるくらいのすごい形相して、
恨んで憎んで死んでしまえばいいのに、、と思ってた、。

まだ、実際に手を染めてない、、というだけ、。

心の中は、、まるで殺人鬼と同じ、、
私は、心の中で、、何度、殺人したんだろうか、、、。

そうして罪の自覚を持った時、、ぞーーーーっとして
心が罪の重荷で一気に押しつぶされた、。
息ができないほどの、苦しみを覚えた、。

イエス様が憐れんで、苦しみから救い上げて下さらなかったら、、
私の心は、、あのまま罪の苦しみで、つぶれて死んでたわ、。

クリスチャンだから、、
イエス様は、私を救われたのではないのよ。

私はイエス様を知って受け入れていたから、
原罪は赦され、ないとみなされてたけれど、、
自分でやらかした罪は、、自覚して悔いなきゃ、、赦されないし、
気づいたときは、、認めて謝罪するまでは、塗炭の苦しみだし、。
苦しいこと、この上ない、。

こんなみじめな罪びとでしかない、。
それでも、神様をあきらめきれなかった、。
自分が地獄に堕ち行くようなものであると自覚し
そう思えば思うほどに、逆に神様を求め慕う思いは、強くなった、。

永遠に離れたくない、、と、、。
そのくらい切実に神様を求めたときに、、
本当の意味で救われました、。

私、、神様に、好き〜〜って
ラブコールしてること多いけどね、。

今までの人生の中で、、

一番真剣に、、ラブコールしたのって、、
たぶん、、地獄の底にいた状態のときだと思う、、。
地獄に堕ちた罪びとなんだから、、
真剣に必死に求めるでしょ、。

良いことしてるとか、クリスチャンらしく頑張ったとか、
そういう自分で自分を良く思える要素が
何もなくなっちゃったんだもの、。

実際、神様から離れたことを知って、。
悲しいやら辛いやらで、
息もまともに出来ないくらい苦しかったわけだし、。

傍に、、居たかった、、、。離れたくなかった、、と
迷子になった子供のように、
ただ悲しんで泣くしかなかった、。

私は、自分が良いからとか、、
クリスチャンだからという理由で、救われてないの、。

私が地獄の底から、、泣きながら、
ただひたすら神様を求めてたから、、、
父さまと、イエス様が憐れんで、助けに来て下さった、。

父さまとイエス様は、罪びとをも愛し、憐れみ救われるお方、。
自分の罪を知り、深く悔いた人は、、幸いです、。
必ず、救いに来て下さる、。

罪多き罪びとであれば、、あるほどに、、
憐れみを受けて救われたとき、、
その喜びは深く大きく、永遠に消えない、。
にこにこ、。

殺人鬼並みだったから、、
救われて当然と思ってなかったし、
救われるとも思えなかったから、、救われて、、
ただひたすらありがたいとしか思えない、。

毎日、なんだかんだと感謝し続ける、。
生きれていること、救われていることが
嬉しいから仕方がない。
現実は、芳しくなくても、、そんなの関係ない、。
人間いつか、経済的に豊かだろうが貧しかろうが、死ぬときは死ぬ。
私だけなら、なにもこの世に執着ないから、、いつ死んでもいい、。

クリスチャンって優越感の塊みたいだし、
この世と他の宗教を信じてる人を蔑んでる人も多いし、、
ほかの教えを信じて棄教した方が良くない?
と言われてもねぇ、。
永遠に、、それは出来ないし、する気もない、。

私は、、イエス様に、救われたのだから、、
父さまと、イエス様に、
この命も、なにもかもをお返しする、。

父さまとイエス様の他には、
私の主人は、、必要がない、。
私の主人は、、天地創造の父なる神様とイエス様、。

永遠に離れないで、いたい、。
それが死を覚悟した時の私のただ一つの願い、。
教会でも、牧師でも、、
お金でも、この世の幸せでもなかった、。

マグダラのマリア




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マグダラのマリア、、ベタニアのマリアは、
レビの女性であったとおもっています、。
悪い噂、、悪い女、、罪の女と呼ばれた理由は、、あります、。

彼女が12年間、長血を患っていた女性だからです、。
聖書では、7つの悪霊がついていた、と書かれています、。

7つの悪霊とは、完全数プラス悪霊ということで、
霊現象が起きるくらいの強い悪霊がついていたということで、
彼女が今で言うと強度の霊媒体質であったということです、。

てんかんに似た状態になったり、
自分を忘れてしまう状態になったり、聖書でいう悪霊憑き、、という
状態プラス長血を患う、という婦人科系の病気でもあったので、
この女は罪人である、穢れている、という烙印をおされた、。

でも、、イエス様は、長血を患っていた当時、、
今で言うと24歳前後、の女性であった彼女をみて、、
娘、、と仰っています、。

娘ということは、、処女であるということ、、。
12歳ころ、女性は初潮が起きます、。
それから12年間ですから、当時は数え歳でカウントするので、
今で言うと、11歳前後から23歳前後の間、。

イエス様との出会いは彼女が24歳頃、、ということになります、。

当時はイエス様は30歳なので、6歳違いです、。
イエス様の公生涯の十字架の時、33歳の時、、
マリアは、27歳前後だったということ。

私の最初の婚約と入籍、、そういえば28だった、、。
数えだと27歳になる、。
私が28まで、なかなか結婚出来なかったのは、どうやら、、
デブ以外の理由があったみたい、苦笑、。

本人自覚なしでも、、全てを統べる父さまが、、導いて、、
過去の事例をも含めて、踏襲し、今を作り上げているみたいね、。

元夫がこちらで就職先を見つけたので、先に同居して
引っ越して来る都合で入籍が先で、結婚式があとになって、。
結果は、、残念ながら離婚しちゃいましたけど、、
今の教会で、教会員の皆さんが、色々と助けてくださって
手作りの温かいな結婚式をして頂きました。

イエス様とマリアなら離婚などしなかったでしょうけど、、、。
そこは、、私とは違う、。羨ましい。
ま、、私が違う相手を選べれていたら、、
違う結果になっていたかもしれないけど、、。

私は、自分が一人っ子で子供の頃から寂しくて、、
自分の子供が、どーーーーーうしても欲しかったので、
早く結婚したかったんですけどね。
なかなか結婚できなかった、。

入婿してくれる人というのが譲れない条件だったから、
さもありなん、。
私は一人娘で、家を継ぐ、、という想いがあったから、
嫁ぐわけにはいかないと、思っていたし、
子供が産まれている今も、そう思っている、、。

息子が、、、家名を継ぎ、、子を生み育てて、
私の母が購入したお墓と、今の家を守ってくれること、、が、
私の望み、。
母が生きていた時、いつも着ていた部屋着、と、
外にお出かけする時に被っていた玄関に置きっぱの帽子、、。
どうしても捨てれなくて、残してある、。

あるというだけで、、母が生きていてくれた時のように、
思えて、寂しさを紛らわせれるから、だと思っている、。

母が亡くなって、、
もう9年も経ち、19日がきたら、、10年めに入る、。
こんなにも長い月日が過ぎているのに、、
生きていた時の母の痕跡を、、残しておきたいなんて、、
もしかしたら、まずい事かな、、とも、思うけど、。

母が、、こちらで迷っているとは考え難いので、、大丈夫でしょう、。
お金にも物にも、何にも執着してなかったし、。

私が家にいれてたお金や自分が稼いだお金を、
貯めることはしてくれてたけど、、家族のためであって、、
自分のためなんかじゃなくて、
自分のためになんて、たまに安い日帰りのバス旅行に行くくらいで、
いつも、食べたいものがあろうが我慢してた、。

スーパーの安くなる時間になる前に行き、、
ウロウロして待って、、安くなったら買う、。
そういう節約をまめしてくれてた、。

気づいたら、、私も、、亡き母と同じ行動をしている、。
血は争えません、。苦笑、。
スーパーのお惣菜とかお弁当の安売りとか、、
大変ありがたーく利用させて頂いてます、。

ツイッターで、、こんな話があった、、
元気の良いおばちゃん組2人が、、
スーパーの安くなる時間より前なのに、、、

うちら、立ち通しで、足が痛い。疲れとるから、
そこのお寿司に割引シール早く貼りなさいよ、。と、
店員を呼びつけ、値引きシールを貼れと、
ぎゃんぎゃん言ってたそうで、、

あとで時間がきてもいないのに
値引きシールを貼ったことは、わかるので、、、。

会社側から自分が叱られるのを覚悟して、、
店員さんが仕方なく、、
値引きシールを貼りに向かったところ、、、、、

そのやり取りを見ていた他のお客さんが、、
そこにあったお寿司全部、お買い物かごにいれて、お買い上げ、。
という顛末に、、。

で、この救世主、、ツイッターで、、大喝采浴びてた、。
おー!胸がスカッとした、、とか、、
大人買い、カッコイイとか、。
もちろん店員さんは、、大助かり、。

いつもより大きな声で、
お買上げ有難うございます、。と言ったそうな、。
たぶん、、おばちゃん二人組は、唖然&ガッカリ、。

いくら、安い方が良いといっても、、
店員おどしちゃ、あきません、。駄目です、。
それは、恐喝強盗としてること同じです、。
立派に天の法では罪が成立します。

私は値引き時間の1時間前に行っても、
足が痛かろうが1時間。ちゃんと待つよん、。
それが当たり前。

店員さんは、売れ残り品は、何時間経過後、、と
決まった時間に値引きするのよね、。
勝手に値引きシール貼ってるわけじゃないので、、
シール貼れと言われたからと、いっても、
それを勝手にしてもいい理由にはならない。

そういうことしたら、会社から叱られてしまうのです、。
非常に迷惑行為になるので、、
年齡を重ねてオバタリアン化するのはやめましょ、。

色々な苦労があっても、心だけは美しく、、
年を取りたいものです、。

さて、、最初のマグダラのマリアに話を戻しますね、。
マリアが、、なんで、通常、油を頭に注ぐ時に使われていた
良質のオリーブ油ではなく、、香油を、イエス様に注いだのか、。

マリアに、、レビとしての聖書の知識があったとしか思えない、。
一般人は、モーセ五書の律法の部分だけは、成人する前までに、、
暗記するくらい覚えさせられていたと思います、。

でも、他の預言書などの部分はどうか、、
ラビから教えて貰う機会があれば、
多少は耳にする場合もあるでしょうけど、。
殆どは、聖句を聞いたことがある程度で、意味まで知らない、。
というのが普通、。

だって、当時の聖書は、手描きで、、とてつもなく高価で、
レビと、、高貴な身分のお金持ちの一部、、しか、、所有出来ない代物。

長血を患っていたマリア、。
イエス様の衣の裾めがけて、、触れて癒やされています、。
この行為は、↓この聖句と意味を、彼女がよく知っていたから出来たこと。

マラキ書
3:20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。そのにはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。

義の太陽は、当時の神学で、メシアを指す言葉。
翼は、、祭司の衣の裾の4つの青い房、との
聖書的掛け合わせ言葉、。
一般人では、そこまで聖書の聖句の意味は知らない、。

マリアが、、イエス様に香油を注いた理由も見つけました、。

エズラ記 (ラテン語訳)旧約続編
2:9 その地はピッチの沼、灰の山と化している。わたしは同じことを、わたしに聞き従わない者どもにするであろう。」これは全能の主の言葉。
2:10 主はエズラにこう言われる。「わたしの民に告げよ。わたしはイスラエルに与えるはずであったエルサレムの王国を、彼らに与える、と。
2:12 そのとき命の木は、彼らを香油の香りの中に包み、彼らは苦労する必要もなく、疲れることもない。

2:16 「わたしは、死人をその場所からよみがえらせ、墓から引き上げる。彼らの中に、わたしの名が記されているのを認めたからである。


命の木、これも、メシアを指す
当時の、神学用語、。
神様がエルサレムを与える彼ら、、とは、、
イエス様がお産まれになられたイスラエルではないです、。

彼らはイエス様を排除して、
私に聞き従わない者どもになっているわけですから、
たから、その資格を永遠に失っていますので、。

じゃあ誰なの?というわけで、聖句の続きを読んでいくと、。
死人をその場所からよみがえらせ、墓から引き上げる。
彼らの中に、わたしの名が記されているのを認めたからである。
とあるので、。

命の木である、イエス様に従い繋がった人を、、罪による死人、の中から
蘇らせ、、罪による死者ではなく、
神様によって生きている者となった、ことを、
認められた人々、が、彼ら、、。

広義的にいえば、、現代のクリスチャンということになります、。が
クリスチャンでも、、新生出来てない人は、
私に聞き従わない者ども、であり、肉体的には清められても
霊的に死者のままであるので、そういう場合は、クリスチャンでも、
地獄に行くし、天国行きからは除外されてしまいますので、あしからず。

そのときには、イスラエルから永遠の幕屋と栄光は取り去られ、
命の木であるメシアは、香油の香りで包まれる、。

イエス様に香油を注いだのは、、
マリアが、イエス様から、自分が十字架にかかるときは、、
イスラエルが滅びることを、聞いていたということと、
このエズラ記の聖句と、その意味を、マリアが知っていたということ、。

マリアが、、イエス様にオリーブオイルではなく香油を注いだのは、、
イエス様こそが油注がれた者メシアだということの
告白もこもっていたでしょうが、、。

メシアが香油を注がれて、その香りに包まれたとき、、
イエス様の国、、天の国が来る、。
イエス様に聞き従う者は、、そこに入れる、。

イエス様に聞き従いなさい、。
今なら、まだ間に合う、。イエス様を失わないで済む、。
マリアの、、切実な願いを込めた香油注ぎだった、。

自分とイエス様の結婚式の時のために、、
大切に大切にとっておいた香油、。
でも、それが出来なくなったから、、、
せめて、イエス様のために、出来ること、、
持っている香油の全部を、イエス様に注ぎかけ使った、。

香油の香りで、命の木、メシアの聖句に、祭司たちや律法学者ら、弟子たちも
それに気づいてくれたら、、と、思いながら、、。
マリアは、、当時、イエス様は抜かして、
誰より聖書を知っていた女性であった可能性はかなり高い、。

マリアは、私の先生、ラボ二、、とイエス様に呼びかけていますから、
イエス様が機会があればマリアに聖書を教えていた可能性は多いにあります。

マリア福音書では、、マリアが個人的に、
イエス様から聖書の手ほどきを受けていたような表現がみられますし、
イエス様が、マリアを婚約者、伴侶としていたという表現もあるようですし。
ユダヤでは、婚約者も結婚しているのと同等です、。

イエス様の御母マリアはユダ族のヨセフと結婚していますので
ユダでもありますが、その母アンナは、祭司の娘であり、
御母マリア自身はユダと、レビの血を両方受け継いでいました。

それで、、祭司ザカリアの妻エリザベトと親族と聖書に書かれています。
祭司ザカリアとエリザベトはアロンの血筋だと、、書かれています、。

普通は、、御母マリアが、レビ族としての祭司ザカリアと親族であれば、
レビの男性はレビの女性と婚姻するし、、
通常は同族婚なのでレビの血筋であるはずです、、。

でも、、アロンの血筋であると、、レビだというだけでは駄目で、、。
なぜなら大祭司アロンの血筋のものは、、
アロンの血筋でないと婚姻できない、、。

だから御母マリア自身にも、血統の交差により、
半分は、アロンの血筋があるはずです。

なので、イエス様は、肉体的には祭司ザカリアの子で、
ユダだけではなく、アロンの血筋をお持ちである、と
私は過去記事などで書いてはいますが、

御母マリア、単独でも、
イエス様はユダの血筋だけではなく、
ユダとアロンの血筋を持たれると言えます。

イザヤ書
7:13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

レビ記
21:1a 主はモーセに言われた。アロンの子である祭司たちに告げてこう言いなさい。
21:7 遊女となって身を汚した女、あるいは離縁された女をめとってはならない。祭司は神に属する聖なる者だからである。
21:9 祭司の娘が遊女となって、身を汚すならば、彼女は父を汚す者であるから、彼女を焼き殺さねばならない。
21:13 祭司は処女をめとらねばならない。
21:14 やもめ、離縁された女、遊女となって身を汚した女などをめとってはならない。一族から処女をめとらねばならない。

アロンの血筋を持つものは、処女をめとらなければならない、。
つまりはマグダラのマリアが、遊女で、処女でもないのならば、
イエス様は、彼女を、どれだけ個人的に愛そうとも結婚は出来ないのです。
聖書の規定破りは、、イエス様が成就するまでは、
守らない場合は罪となるから。

なので、イエス様が伴侶として選び、
婚約していたマグダラのマリアは、
処女であって遊女でもなかったわけです、。

なぜ、彼女が遊女とか罪の女と貶められたのか、。
最初は、聖書中に、、彼女が何か話したことが、、
いくらか書かれていたのでしょう、。

でも、それらの存在を認めると、
イエス様が婚姻する予定でいたことを認めることにもなる。
全世界の救い主が、結婚する予定で居た女性を、、
使命完遂達成のためとは言え、
捨てたことになるので、、。

当時の道徳観では、男が飽きたらポイ捨てするような低いモラル、
メシアが世の男性と所詮は同レベと思われては、すこぶる都合が悪い、。
婚約した痕跡すらも、ない方が望ましい、。
そのように考えて聖書を編纂したとしてもおかしくはない、。

なので、マグダラのマリアは、重要な箇所で、、
名前が出てきたりしている重要人物のわりには、、
彼女について書かれているエピソードが皆無、。

書かれているのは、ベタニヤのマリアとして、、
別人のようにして記述された聖句の部分のみ、。
ベタニアのマリアは、、良い方を選んだ、、
とのイエス様の御言葉があります、。

現代でさえ、
ちょっとやそっとじゃ分かりもしないレベルの、
耳慣れない神学論や、、小難い言葉を羅列した聖書の話に、、、
長時間、信徒が耳を傾けれますかね?

眠くなって、途中で眠るでしょ??
私は寝ないと思う
けど、、多分、つまんなくて、
あくびを噛み殺すくらいはすると思うし、
眠くて死にそうになると思う、。

聖書は、
基本わかりやすく、日常会話的なものがベスト、。
小難しい神学論を読んでも、、お腹の足しにもなりゃしない、。

私は聖書そのものと、詳訳聖書しか読まない、。
神学、ざっと読んでも、ちーっとも面白くないから、
資料程度でしか読む気にならないわぁ。

読書好きな私が、さじなげるくらい、
堅苦しくて実に面白くない、。 苦笑。

マリアは、、聖書の御言葉の書かれていた深い意味、、
本当の意味がわかっていたから、、
イエス様の傍に座り込んででも、姉のマルタに
あれこれいわれても、お構いなしに、家事を放り投げてでも、
聞き入っていれたのではないでしょうか??

マルタは、聞いても、よくわからなかったから、、
イエス様と弟子たちの傍に居て話を聞くのではなく、、
弟子たちの接待の方に精をだしていたということになる、。

マリアは、食事をして、
寝そべっている状態のイエス様の頭に、香油を注いだ、。
マリアが頭を選んだのは、聖別の油は、頭に注ぐからです、。
祭司の聖別の儀式のことも、マリアは知っていた、。

寝ている状態のイエス様の足、、跪いて、、
イエス様の両足、多分、太ももの少し下あたりに
両手で、そっと触れて、すがりつきながら、、
ボロボロ涙を流して泣いた、、。

涙がこぼれかかって、慌てて自分の髪の毛で、涙をぬぐって、。
イエス様の両足に香油を塗った、。

モーセの妻ツィポラが、
モーセの二番目の息子、エリエゼルに割礼を施し、、
その血を、モーセの両足に塗った、その故事にならって、。

ツィポラがしたのは、、
ミディアンの祭司の聖別の儀式だった、。

マリアは、それの意味も、知っていたことになる、。

マグダラのマリアは、、
マラキ書
3:20や、旧約続編のエズラ記の聖句も意味も知っていた、。
聖書にくわしくなければ、、知らないし、、わからない、。

彼女がアロンの血を引くレビ人で、
幼いころから12歳の初潮前までは

神殿で
聖書をまなび、男性陣より理解していて、、、

イエス様と出会って、、12年も患っていた病が癒され、、
イエス様がメシアだと、誰よりも確信し、、
イエス様から、、聖書の話を聞いて、水を得た魚のように、、
イエス様の話に聞き入っていったなら?

彼女は、、どうなります?
彼女が聖句の意味を、当時としては誰よりも分かってても、、
当たり前ですね、。

彼女の聖書の教え主が、、
聖書に精通されるイエス様ご自身であれば、、、。

うふふ、ほんとに、、ほんとにイエス様は凄すぎる、、。

いくら、レビの娘で、ある程度、下地があったとはいえ、、
当時は、勉強など不要、、智などなくてもいい、とされた女性に、
難しい聖書の読み方、意味の読み取り方を、教えちゃってたのだから、。
現代でも、、同じことが起きる、、かもね、。

マグダラのマリアの不名誉は撤回され、
彼女の名誉は回復されるべきです、。
私は、、強くそう思います、。

彼女は、イエス様の親しい親族の女性、アロンの血筋であり処女で、
イエス様に最も愛され、妻に、、と望まれた唯一の女性、。
彼女は第二のエバになる予定だった人、。


マグダラのマリア

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再臨主とか、メシアとか、
イエス様の生まれ変わりだとか、
そのように名乗る存在に、気をつけなさい、。

本物は、、自らそれであるとは、名乗らないです。

マタイ
24:5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
24:6 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
24:9 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
24:10 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
24:11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
24:14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

私こそ、本物のメシアだと名乗って、信徒を集めたり、、
金品を求めるようなら、、本物ではない、。
2000年前のイエス様ご自身でさえ、
メシアです。と証しして言い表したのは弟子たちであり、
イエス様ご自身は、比喩で、生の木、ぶどうの木、など
あと、多くの奇跡で、徴を見せることだけで、
御自分はメシアであるとは、仰ってはいないです。

なぜなら、メシアをメシアだと証する義務があるのは人側なのです。

人が、あなたこそがメシアです、。と自らの意思で、
誰に強いられるでもなく、自らの利益によらず、神様に誓ってでも
そう宣言し、人を治める王となって下さい、、と
願うことが必要であるからです。

罪があると引き出された人でさえも、裁判で証人がいないなら無罪です。

イエス様のとき、、バプテスマのヨハネが、エリヤとして、
イエス様をメシアだと証しするべきでした、。

でも、私はエリヤではないと、
バプテスマのヨハネはイエス様の証人となることを拒んだので、
捕らえられるようなことが起き、、獄中で死ぬことにもなりました。

もし、彼が、ファリサイ人らをおそれず、殺されてもいいから、と
私は現代のエリヤであると、名乗り、言えば良かったのです、。

エリヤの霊が、彼と合わさって共に居たのに、、名乗らないのなら、、
そのエリヤとしてなすべき責務を、彼は拒否したことになるのですから、。

エリヤの霊を宿していたバプテスマのヨハネが、
イエス様をメシアだと明かしすれば、証人、何分人もの証言力がありました。

彼の出自に関わる奇跡を知っていて、、
彼を預言者だと信じている人は多かったからです。

イエス様は、彼が亡くなり、証人の存在を失ったので
メシアの立場から降りるしかなく、、ヨハネと同じ預言者の立場となって、
ヨハネと同じように、「悔い改めよ。天の国は近づいた」とおっしゃいました。

預言者であったヨハネの分の働きも、身代りになって、しておられたのです。

最後は、、メシアとして、、で、二人分の使命を負われていた、。
たった一人で、、も、、成し遂げた、強い意思を持つ御方、。

どんなに奇跡をみせても、徴をみせても、、
人は、、どんどん裏切って、離れていったのですから
一緒に暮らした弟子たちまでも、、、です。

普通の人だったら、孤独感で耐えれないです、。

イエス様も、お辛かったでしょう、、。
父さまは、、、いつもお側にいらしたので、
本当の意味でお一人ではなかったから、
父さまへの愛ゆえに、人への慈愛ゆえに、、
辛くても耐えてくださった、。

イエス様に最後まで、つきそって傍にいたのは、、女性陣だけ、。
当時、男性の所有財産でしかなかった女性や子供、。
もともと、人ではない扱いを受けていた、。

イエス様は、初めて、、人らしい扱いをし、
思いやり深い態度をもって、優しく接してくださった、。
彼女たちにとっては、、晴天の霹靂、、驚くような出来事、。

あまりにも人として大事にされた経験がないとね、。
愛して、人として大事にしてくれる人と出会ったら、
その人のためになら、生命くらい捨ててもいいと思えます、。
大げさじゃなくてね、。

苦笑、。
私も、そうだもの、。
私が命捨てて良いと思えるのは、、父さまと、イエス様と、、
私の愛する子たち、です。

イエス様は、、、、慈悲深く、お優しい御方、。
でも、、、怒ったら、、多分、超激おこプンプン丸だと、、思ってます。

誰も、宮清めを止めれなかったということは、
相当に、、そこに居た人が、震え上がるほどに怖かったからだと思います。

軽く怒ってたなら、、止める人もいたと想うから、。
だって、見た目、境内で大暴れしてるようにしか見えないんだから
諌めようと思う人、そうしようとした人はいたはず、
でも出来なかった、。

軽い暴れ方なら、、数人がかりで相談して押さえ込むくらいするでしょ、。
そうできないってことは、、周り中が固まるくらいの大暴れで、
人相が変わるくらいに激おこで、弩、、状態だったってことで、、
でなきゃ、、神殿で暴れるなんて不敬行為なんだから
力づくで止めるでしょ、。

力づくでも迫力でもイエス様の気迫に押されて、金縛りにあったように
動けなくなったのよね、。

イエス様は、お優しいからと、
痩せて筋力も腕力もない大人しい性格と思ったら大間違いです。

胆力がなきゃ、、豪胆な御方でなきゃ、、
嵐慣れしてる漁師が、死ぬーと神頼みするくらい、ビビるくらい
揺れて水も入ってきて、沈みそうになってる船の中で、、
ぐっすり眠っているなんて出来ないです。

腕っ節も強くて力もある屈強の男ぞろいの漁師たちがビビるのに、
イエス様は、、平気でいたんだから、、
彼ら以上の豪胆さと腕力も体力も兼ね備えていたのです。

武勲に秀でた男は、自分と同じように勇敢で力ある男しか認めません。
漁師と言えど、自分より力が弱い、体力もない男を尊敬はしませんし、
ましてや助けを求めるなんてしません、。

イエス様は誰よりも優しくて、誰よりも豪胆で力持ち。

聖書に関する学問にも秀でていたし、、
今で言うならイエス様は、文武両道、秀才タイプですね、。

イエス様は、、とても優秀だったけど、。
自分はメシアだから、従え、ついてこい、とはおっしゃらなかった、。

弟子たちも、ただ、一言、。
ついてきなさい。と言われただけ、。
メシアだから、信じろだの、従えだの、と、上から目線で仰ってない。

弟子たちは、自分で、イエス様についていく、、
と決めて、、ついていった、。

人側が、自分でそう決めて、、です、。
2000年前がそうだった、。
だから、、イエス様の御霊を身のうちに持つ、再臨主も同じで、
人からの自発的意思により、
人があなたこそメシアです。私達の王です。
私達の主、、王となって下さいと、

ダビデを王とするために長老たちが、
ダビデに懇願したように人側がそう願うのが筋で、、。

本人がメシアだから、、信じろ、、と言い出して、、
周りが、はい、そうですか、
この人に従ったら、

うまくいけば、お金儲けできる。
良い思いができる、。という邪な考えの人も、群がってきて

世界平和、世界思考の統一、を掲げて、
おかしな宗教団体を作り上げたりする、。

そのくせ、、自分たちの宗教以外は邪教扱いして、
排除しようと信徒を洗脳までする場合も多い、。

それじゃ、してること、考えてること、
バベルの塔があったころ、と同じ思考だわね。

皆が同じ思想と、思考を持っていれば、、いい。
国際協定なんていらない、国境もいらなくなる、。
宗教という名の一つの思考的な言語によって、全ての人間を支配できる、。

それが宗教団体を作り上げてる本音でしょうよ、。

あのね、。
本気で世界平和考えてたら、他者排斥しないのよ、。
むしろ、受け入れて、取り入れて融合していく、。

日本は、、その最たる国、最たる民族、優れた思考と精神性を持つ民。

どこの国よりも、天地創造の神様に愛され守られてきた国、。
父さまは、、この日本の国と共にある、。

名を変え、、姿形を変えて、、
見えざる大いなる存在への信仰という名の、
見えない神様との心の絆を大切にしてきた国、、日本と、。

誰でも、、天地創造の神様と、、心で出会える、。

人が感謝の祈りを多く捧げるところ、、聖域となった場所で、。
自分が、、切実な心、、真摯な思いで、神様に祈るとき、。
父さまは、、その人の傍に、、いてくださる、。

自分が楽をしたい、苦しいのはいや、。
そんな私利私欲の心を、いったんは捨てて、
今、与えられてあるものを感謝しましょう。

今あるものが、すべてなくなったら、、大ごとでしょ??
あるものを当たり前と思ったらいけないの、。

テーブルひとつだって、、無いと困る、。
人によって、あるものは違うだろうけれど、
椅子、おこた。エアコン、テレビ、、パソコン、スマホ、携帯。
レンジ、オーブン、炊飯器、お風呂、電器の明かり、。
冷蔵庫、洗濯機、、お金、自転車、車、バイク、家電話、
衣服、飲み物、食べ物、、、。

今あるものの、、たった一つかけても、その分、不自由になったり、
不便になったりする、。
あることは、、当たり前じゃないです、。

運がよいこと、、守られてること、感謝すべきこと、。

それなのに、アレが足らない、これがない、、と
不満ばかり言ってたら、、、バチ当たります、。

何一つ不満がない人はいないし、、辛いことがない人もいない、。
経済的に裕福でも悩みがある人は居るし、。
貧乏でも、ニコニコして生きてる人もいる、。

全部、、自分の心次第、。
苦しみは、自分で作り出している、。
不満や愚痴、妬み、怒り、悲しみの心から、。
その大本は、、自分が楽をしたい、。

大義名分に子供が、家族が、、ということが多いけどね、。
ぶっちゃけ、自分がお金に困らず生きれてたら、
家族のことは考えないことが多い、。

家族のことを考えてる人は、
家族に返せなくなるような多額の借金させないもの、。

自分が、汚れても、地に落ちても、家族を守る
そのくらいの家族への強い愛の想いがあれば、、
選ぶ方法は間違ってたとしても、、神様は憐れまれる、。

人間なんて、、落ちて汚れきり神様に背くか、、
罪を自覚しつつも清く生きるようがんばるか、。
罪を認めず、自分は偉い清いと、人に対し高ぶるか、。

大概の人は、、自分の足らなさを自覚しながら、
良い生き方をしようと頑張るんだけどね、。

たまにいる、。
家族や自分のために、お金欲しさに鬼、悪魔になる人、。

そこまで極悪人の悪党になるくらいの人は、
逆に、自分が地獄行きだと覚悟してるから、
地獄いくのも当たり前だと思ってるし、
裁かれても仕方ないと、罪に気づくのも早い、。

人を見下し高ぶる人も、多い、。
良くない自分を反省すらしない、、罪がわからないので一番、質が悪い。
自分は神様側で良い方の人間だと、本人は望むし、信じてるから、、
いつまでも精神的に向上出来ないの、。 

知らずに、地獄に行ってて悪霊化、、というのは、、この手が多い。

こんな風に、自分は凄い偉いと、思ってたりするだけで、、
地獄に行く確率アップするのに、。

よりにもよって、メシアだの再臨主だのと、
本物のイエス様が軽々しく名乗るはずがない、。

本物は、名乗った程度で、落ちたりはしないけどね、。

でも、過去のイエス様と同じようになさるから、、
絶対に自分からは名乗らないのです。

だから、このマタイ24:5 の御言葉の真の意味は、、
私(イエス様)の名を名乗っているもの、
メシア宣言するもの、
生まれ変わり宣言するものは、、
全部、、一つ残らず偽物だよ、、ということなのです、。 

探すならば、、
メシアだと名乗らない、
再臨主イエス様と名乗らない、
イエス様の生まれ変わりだと名乗らない、。

本物のイエス様の御霊を持つ、
来るべき御方を探し見つけましょう。

名乗っているから、、と騙されたら駄目です、。

名乗っただけなら、、まだ赦されるけど、。
信徒を蒐めて、金品を集めたら、。
その宗教団体が地上から消え去るまで、、
最後の信徒が、棄教するまで、、
死んでも、、永遠の長い時間、ずっと罪を贖い続けないと行けない、。

恐ろしいですよ、。名乗るということは、。

死んで、全てを悟って、騙されたと知った信徒は、
怒りに任せて、よってたかって、気が済むまで八つ裂きにする、。
死んでるから、死ねない、。

永遠に近い時間、。
眠ることも出来ず、永遠に苛まれ続ける、。

神様は、、それをお許しになる。
それでも人を騙した報いにしては、まだ軽い方、。

一番しんどいのは、、神様の光で、照らされて
まるで業火に焼かれるように苦しいことじゃないかな、。

それが耐えれないから、、
みな、悪想念で出来た雲のようなもので、自分の周りを覆って、
更に地獄の下層の世界へと自ら選んで降り続けていく、。

神様から離れれば離れるほどに、
おぞましい世界になるのに、、。
自分から、そこを天国のように感じて望んで降りていく、。

神様から離れるのだけは、、嫌だわ、。

苦しい世界なら、我慢が出来る、。
死んだあとなら、死なないのだし、
自分が悪と断罪されて、裁かれ地獄へ落ちたちゆくのならば、
自業自得だもの。

すべからく、父なる神様の裁きは公平で正しい。

メシアとか、、再臨主とかイエス様の生まれ変わりだとか、
軽々しく口にする者が、なんと多いのでしょう、。
びっくりする、。

神様を畏れないのかしら???

私だって、、神様から名乗るよう言われてなければ、
マグダラのマリアの名前と言えど、恐れ多くて名乗れない。

何度か辞退したもの、。
10年かかって、やっと、マリアの名前で呼ばれるのに慣れてきた、。

私が男性であり、イエス様の御霊を本当に宿してたとしても、
私は、自分をメシアとも再臨主とも、生まれ変わりですとも、言わない、。
2000年前のイエス様の御心に準じる。

聖書を読めば、イエス様は、御自分からは、
神様の子を意味する人の子とは仰ってても、、
神様の独り子、と、でさえご自身は仰ってないのだから、。

イエス様のユダヤでの御名である 
JOSHUA、ヨシュアと名乗ったとしても、、、、
生まれ変わりだとか、再臨主とかメシアと名乗る必要は何もない、。

だから、、そのように名乗るものは、ぜーんぶ偽物です。

マグダラのマリアの生まれ変わりだと、いう人もいたけど、。
人間は、、人生は一度だけ、。
自分の肉体を伴う生まれ変わりはない、。

あるのは、新しく産まれてくる赤ちゃんの霊に
霊的に合わさって、一つの肉体を共有して産まれてくる新生輪廻か、。

神様が選び、自分と同じ使命を与えた人の霊に霊を合わせるために、
地上に降り、その人を陰から指導して使命を遂行するように助ける、
御使いのような役目をもつ霊としてのあり方しかない、。

本物のマグダラのマリアは、後者の存在であって、
転生輪廻も、新生輪廻もしてません
したが、、聖書の秘密を、なぜか、いくらか知っている人がいました、。

聖書に関わる天の智慧を識ると思われている御方で、
ブログ等をお持ちの御方が、、もし、こちらに訪問されたなら、
内緒でも良いので、コメント欄やゲストブック等に、
何らかの足跡を残して頂けると幸いです。

私の識りえた知識と、読み比べて見たいので、、。
知識欲は旺盛なので、ジャンルは
聖書と神話と、宗教とスピリチュアルに偏りますけども、
基本的に読書は大好きです。

マグダラのマリア

イエス様当時の貨幣の価値は、、
当時の物価を考慮しないと現代ではどのくらい?
になるか、、は厳密には、わからないです。

1レプタは1アサリオンの8分の1だから
1アサリオンが、すずめ2羽の価値だとイエス様が仰ったので、
2レプタは
1アサリオンの4分の1になるから、すずめ2分の1羽分、。すずめ一羽も買えない金額。

でも物価は時代時代で変わるので正確な価値は不確定で、。
少し変動する。
1デナリオン(デナリ)が人の1日労働と同価値といっても、
職により報酬は変わる、
兵士と議員と庶民労働者、、
それぞれ、一日分に値する収入は違ってくる。

現代と同じ、裕福層であればあるほど、1日の賃金単価は高くなり
貧しい底辺層であればあるほど、低賃金となる。

2レプタを献納した婦人の話がありました。
1レプタが現代のどれくらいの価値か?
は、、上で書いた通り幅が有るし、
一日の日当を、現代でいうといくらになるか、の
仮定する定義により金額に差異が生まれる。

イエス様は、、77の数をお持ちです。
アダムから、77代目のお生まれであることと、、

イエス様がお生まれになったとき、
女預言者アンナがいました、。
彼女は84歳で、7年間だけ、夫がいました、。

84-7、引き算すると、77。
77年間は神様に仕えていたということ。

老シメオンがいました、。
死なない、と聖霊から啓示を受けていたとかかれているので、
相当な老齢であることはわかります、。
2015年の日本人の平均寿命は男性が80歳 、女性が87歳で、
女性のほうが男性よりも数年長生きする可能性が高いです。

彼は年齢が聖書には書かれていないけれど、
たぶん、77歳であったと思います、。
77年間神様に仕えていたアンナと対になるはずだから。

レプトン(レプタ)銅貨2枚は、1クァドランス。

1デナリは64クァドランス、
1デナリを5000円として計算すると、
5000割る64で、1クァドランス78.125、。
1レプトン(レプタ)、39.0625。

男性の日当で、10000円としての計算なら、
1クァドランス156.25、。1レプトン(レプタ)、78.125。

1レプトン(レプタ)約78円、2レプトン(レプタ)、156円、。

でも、これ、
現代でいうと、77円を2つ分だったかもしれない。

77円と77円、154円を、老女にとっては全財産をささげてた、、。

それをイエス様が見ていた時に、、彼女は、そっと捧げた。

その日、一生懸命、朝早くから夕方まで働いて、、
やっと得れた彼女の日当が2レプトン(レプタ)、
154円、、だったのかもしれない。

父さまに、何か強い願いがあって、、
その日、働いた全財産を、すべてささげてでも、
叶って欲しいと思うような、、
願いがあって祈ってたのかもしれない、。

すべて、生活費を全部入れた、、
つまりは、働いて得た日当、全財産をささげました、。

次の日、同じ金額を働けるかどうか、わからないのに、。
お金がないから、食べることができなくなるのに、。

それでも、神様に、ささげるのは、
何か心からの願いがあることが多い、。

それと、神様への感謝の想いと信頼がなければ、とうてい捧げれない、。

余ってるお金じゃなくて、生活費全部、、なのだから、。

イエス様は、、それを御存じだから、
きっと彼女を憐れんで、困らないように助けたと思います。

イエス様は、女性に、とくにお優しい御方ですからね、。


マリア

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の改訂版です。

で、、超長文です。普段の3記事分はあります。
巨人ゴリアトを倒したのは、、と聞かれたら?? 
普通はダビデ、と答えますよね。

サムエル記 上
17:51 ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士(ゴリアト)が殺されたのを見て、逃げ出した。

この聖句があるから
ゴリアトを倒したのはダビデというのが通説です、。

ところが、こういう御言葉もあるのです、、。

サムエル 下 21:19
ゴブで、またペリシテ人との戦いがあったとき、ベツレヘム出身のヤアレ・オルギムの子エルハナンが、ガト人ゴリアトを打ち殺した。ゴリアトの槍の柄は機織りの巻き棒ほどもあった。

この聖句を読むと、え?ダビデじゃない?
エルハナンって??誰??となりませんか???

歴代誌 上 20:5
またペリシテ人との戦いがあったとき、ヤイルの子エルハナンがガト人ゴリアトの兄弟ラフミを打ち殺した。ラフミの槍の柄は機織りの巻き棒ほどもあった。

この聖句を見つけたら、
あ、、ゴリアト君にはラフミという兄弟がいて、
エルハナンは、ゴリアトの弟を倒したわけね、。
納得するかもしれないのですが、、。

でも、、聖書には、
サムエル 上 17:51の聖句では「ゴリアトはダビデに倒された。」と書かれ、。

サムエル 下 21:19の聖句では「ゴリアトはエルナハンに倒された。」と書かれ、。

歴代誌  上 20:5の聖句では「ゴリアトの兄弟ラフミはエルナハンに倒された。」と、明確に聖書に書かれています、、。

なので私はどうしても納得が行かない部分が、心に残っていました。

これらの聖句は、このように謎めいた状態なので、
色々議論もあるし、新改訳では、サムエル下でエルハナンが倒したのは「ゴリアト」ではなく、「ゴリアトの兄弟ラフミ」としています、、。

そうしないと、サムエル記と歴代誌とで、つじつまが合わなくなるからでしょう、、。

でも、、実は、、死海文書だと、、
このゴリアトの弟ラフミがいた、という部分の記述がなく、
ゴリアトを倒した、、と書いてあるそうなのです、。
それを聞いて、再度、疑問がわきました。

現状、聖書を、そのまま素直に読んで、整理すると、
次の、3パターンが考えられます、。

①巨人ゴリアトが二人いた場合。
これなら今の聖書のままでいいですね。

でも、、同じ名前の同じような剛力の巨人が二人、同時にいたというのは、あり得そうもないので無理があります。

②ゴリアトに弟がいて弟が殺された、、。

これも、そのままで良いですね。
でも、聖書には書かれているけど、
死海文書には、その記録が無いようなのです、、。

もし本当に弟がいたとしても、ゴリアトの弟が殺されたという言葉は、死海文書に記録されて無いそうなので、。

これは後世の加筆、、
ねつ造されたものという可能性が高いと思われます。

③三番目は、エルハナンとダビデが同一人物と考える、、。
これを証明するのは、大変ですが、
一番納得が行く論と思えます。

なので、私は、この三番目の論推しで、、
ダビデとエルハナンは、同一人物と考えます、。

まずは、時系列で整理してみます、。
ダビデは琴の名手で、サウルのところに行っていました、、。

それとは別に、ゴリアトの戦いの前に、、
少年であるれけど勇者としてのダビデ、と、、、、
合計して、二度サウルに会ったことが記録されています、。

サウルにダビデが会ったー度目、、、。

サムエル記 上
16:14 主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。
16:15 サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。
16:16 王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう。」
16:17 サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい。」
16:18 従者の一人が答えた。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」

16:19 サウルは、エッサイに使者を立てて言った。「あなたの息子で、羊の番をするダビデを、わたしのもとによこしなさい。」
16:20 エッサイは、パンを積んだろばとぶどう酒の入った革袋と子山羊一匹を用意し、息子ダビデに持たせてサウルに送った。
16:21 ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。
16:22 サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」
16:23 神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。

二度目、、、。
「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」とダビデの言ったことを聞いて、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを召し寄せた。
(サムエル記 上17:26〜31参照のこと) 

この二度目の時に、、

サムエル記 上
17:55 サウルは、ダビデがあのペリシテ人に立ち向かうのを見て、軍の司令官アブネルに聞いた。「アブネル、あの少年は誰の息子か。」「王様。誓って申し上げますが、全く存じません」とアブネルが答えると、
17:56 サウルは命じた。「あの少年が誰の息子か調べてくれ。」

17:58 サウルは言った。「少年よ、お前は誰の息子か。」

アブネルに、ダビデが誰の息子か調べさせます。

おかしいですね、。
サウルは知っているはずです、、。
エッサイに、あなたの息子ダビデをよこしなさい、。と
エッサイの息子のダビデ、、と、名指しで言ってるし、

この一度目と二度目の出会いの間に、、ダビデは、行ったり来たりして、サウルに仕えたり、ベツレヘムの父の羊を世話したりしていた。という聖句も書かれてあるので、

サウルは、最初の時に出会ってからゴリアトの討伐の時に、久しぶりにダビデに会っているわけでもなく、何度も会って、ダビデの顔も名前も、
【絶対に知っている】のです、、。

それなのにダビデに、
誰の息子で、なんという名前なのか?と、聞いているのです、。
実に不可解です。

初めて会ったかのようにして、
親の名がなんというのか、と問いただし、
確認するかのようにしつこく聞いています。

ここの聖句の、誰の息子?の意味は、、
父親がエッサイなのは、サウルはすでに知っているのですから、
ダビデの母親が誰なのか?とサウルはダビデに聞いていたのです。

でも、ダビデは、どうしても、、
サウルに自分の母親の名を明かす訳にはいかない事情がありました。


ここで、いったん、別の話をします、。

ダビデ、出生に秘密があって、
結論だけ書くと、ダビデはサウルの妻アヒノアムの息子なのです、。

詳細は、こちら↓の記事に書いてあります、。

できましたら、↑こちらを先に読まれたほうが、、
ここから下の記事の内容がわかりやすいかと思います、。


エッサイの息子は、何人か?聖書を読むと、

サムエル記 上 17:12
ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった。エッサイには八人の息子があった。サウルの治世に、彼は人々の間の長老であった。

と、8人の息子がいることになっています。
ところが聖書には、ダビデは7男だと書かれている箇所があります。

歴代誌 上 2:13〜15
エッサイには長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シムア、四男ネタンエル、五男ラダイ、六男オツェム、七男ダビデが生まれた。

不思議ですね?
ダビデは、、7男で8男?
少なくても一番下の息子がダビデということですね。

歴代誌 上 2:15で、エッサイの7番目の息子がダビデだと、名前とセットでハッキリ書かれているのだから、ダビデは7番目に生まれた息子のはずなのですが、。

ダビデが7男であるのなら、エッサイの息子はダビデ以外に6人でないといけない。

でも、サムエル記 上16:10では、、
エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
と書かれて、

ダビデ以外に7人が、エッサイの息子としてサムエルの前を通っているのですね。それならダビデは8男にならないとおかしい。

サムエル記 上16:6〜には、、
3男シャンマまでしか、名前が書かれていないです。
サムエルの前を通った3男以降の名前が、、なぜか、伏せられて書かれなかった、。

この部分も不思議ですね。

聖書に7人が、サムエルの前を通ったと書かれているので、
誰かが7人、サムエルの前を通ったわけです、。
誰かが、、。

3男までで全員のエッサイの息子の名前は書かれなかった。
通常なら、一桁の人数程度なら全員記録されても良いはずです。

実際、歴代誌 上 2:13〜では、
エッサイの息子の名前が、、全員記録されていますから。

エッサイは、最初、アヒノアムと婚約してたくらいですから、
16歳以上です。
ダビデとヨナタンの年齢差が、30歳あるので、
ダビデが生まれた時点では、最低でもエッサイは50歳前後、、。

ダビデがゴリアトと戦ったころ、、
ダビデが、いくつくらいだったか?推測してみます。

まず年長の三人は、、
剣を取り得るもので兵士になってたのだから、
20歳は超えています、。

4男以下は兵士になれなかったので、単純計算で、、
4男は19歳以下、5男18歳以下、6男17歳以下、7男16歳以下、8男は15歳以下となります、。

でも、実際は、乳離れするのに現代よりは時間がかかったので、それ以下のはずだから、、7男と8男は大きくても、
パルミツバの年齢、数えの13歳(満年齢で12歳)になるかならない年齢くらい。

もし、エッサイが20歳くらいにナハシュの元妻と結婚して、
25歳前後のとき長男エリアブが生まれてたら、、

ダビデがバルミツバの前、、(およそ満11歳)
サムエルに油を注がれた頃は、、、
エッサイは60歳前後、エリアブは35歳前後で、、、

もし、エリアブが16歳で子を産んでいたら、
エッサイの孫は、ダビデが12歳になる前頃は、、、
19歳から20歳くらいになってます。

そうであれば、エッサイの孫は、19歳推定のエッサイの4男と大差がない、。
エッサイは自分の孫を、4男として通したのではないかと、。

エッサイは4男以下は、兵士にもなっていない年だし、、
王に即位されることは無い、、とエッサイは考えていただろうし、。

ダビデに関しては、たぶんバルミツバ前で、
年齢が若すぎるから、王になるのは、あり得ない、。と考えていたでしょうから、サムエルが来た時に、ダビデを呼ばなかったと考えれます、。

①長男エリアブ、②2男アビナダブ、③3男シャンマ、④エッサイの孫、⑤4男、⑥5男、⑦6男、⑧7男ダビデ、、。と、

4男以降、順番がズレたから名前を伏せた、、と、考えれば、
納得もいくし、歴代誌 上 2:13〜のように、、まともに、、
エッサイの息子全員の名前書いたら、、
4番目以降がズレてるのは、何で?になるし、
途中でいないはずの人間の名前が一人増えたら、ややこしいし。

ダビデはアヒノアムとエッサイとの子で7男だけれど、
アヒノアムは、ダビデを死んだことにして隠しました。
死んで、新しく生まれたことにしたエッサイの8男でもある子です。

ダビデが7番目の子なのに、8番目の子の立場として書かれた、
もう一つの理由が、エッサイが孫を自分の息子と同等としたからではないか、と思われます、。

エリアブの息子の記述は聖書にないです。

でも、歴代誌 下 11:18 レハブアムは、ダビデの子エリモトの娘マハラトを妻として迎えた。彼女の母はエッサイの子エリアブの娘アビハイルである。
という聖句があるので息子(長男)がいてもおかしくないのです。

聖書にエリアブの娘は書かれているのにエリアブの息子の記述がないのは、エリアブの息子をエッサイの子とした為と考えれます。

たぶん、エッサイの孫は20歳越えてて、兵士になってたのかな、。

だから、兵士になっていない自分の4男より優先して、サムエルの前を通したのかなーと思っています、。

そうでもないと、途中で、息子の順番を入れ替えたりしないと思うので。

サムエルの前を通った4人目の息子は、、
エッサイの長男エリアブの息子、エッサイの孫だった可能性がかなり高いです、。

エフライムとマナセは孫だったけれどイスラエル(ヤコブ)は自分の子と同様とした故事があるから、エッサイも、そうしてても、、おかしくない。

バルミツバの成人の年齢、満12歳に達してなかったのは、
ダビデだけだったのかもしれないです。

成人の儀式を済ませてる者だけをサムエルの前を通したのかも、。

ダビデは、アヒノアムとエッサイの子で、エッサイの7番目の息子であり、8番目の息子です、、。
これの内容は、上で書いてある関連記事の方に、↓ここから下の詳細も書かれていますので、良かったら、お読みください。

ダビデは、王宮から出てエッサイのもとに逃げてきたエッサイの元婚約者のアヒノアムが、サウルのもとに連れ戻されたあとで、、アヒノアムのもとで生まれました。

なので、エッサイはサムエルの前には出したくなかったかもしれません。

アヒノアムが、エッサイの元婚約者でも、、
その時点では、アヒノアムは、サウルの妻なのですから、。

末の息子で、上で書いているように、とても幼かったからという理由だけではなく、ダビデの存在を公にしたくなかった気持ちはエッサイに、あったと思われます。

エッサイの長男エリアブが、何しに来たと、言わんばかりに、
パンとチーズを、わざわざ届けに来たダビデを邪険に扱っていたのは、こういう裏事情がダビデにあったからです。

ダビデは、イエス様の雛形です。
ダビデがサウル王に殺されないように、アヒノアムは、
死んだことにしてサウルから隠し逃しました、。

イエス様も、ヘロデ王から殺されそうになって、
マリアとヨセフによってエジプトに逃されてますから、
似たことが起きてました。

ところで、イエス様のことですが、
イエス様が12歳でユダヤの祭りのときのことを、、
聖書が記録してからあと、、イエス様が30歳になって、
公生涯を歩むまでの、、17年間、何をしていたかは不明です。

12歳以前のことも不明ですよね?
このイエス様の謎の空白期間のことを、推測してみます。

まずイエス様の名が聖書に最初から登場するのは、マタイです。

マタイ福音書 1:1
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。

イスラエル第二番目の統一王ダビデの子孫としての
系図です。
そこには最初からイエス様がキリストだと断定されて記録されています。聖書の途中、イエス様の命名の由来も書かれてあります。

マタイ福音書 
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。
そして、その子をイエスと名付けた。

養父ヨセフはマリアが生んだ子供に天使の指示通りに
イエスと命名したのでした。

ユダヤの慣習として、親が子の名をつけるのです。
今でもそうですからね。当然ですよね!

洗礼者ヨハネの時 親族がアロン家の祭司である
父ザカリアの代わりにヨハネにザカリアという名をつけようとしましたが、それは父ザカリアが口がきけない状態だったからでした。

結果はザカリアが天使の指示通りの名、ヨハネを、板に文字を書いて、、ヨハネと命名します、。  
ザカリアがそう名づけた途端 口が元通り利けるようになりました。

基本 親が子に命名するのですね、、これを
よく覚えておきましょう。
親が子に、、、です。

イエス様が12歳の時の聖書記録です。

ルカによる福音書 2:41〜52
さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。 
イエス様が十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。 
祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエス様はエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。 

イエス様が道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。 


以下をもう一度読んでください。

さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。 
イエス様が十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。 

ここ重要。
毎年祭りに行ったのは【両親】と書いています。

どこにも、イエス様も、とは書かれていません。

毎年イエス様も同行しているかのように思い込むような文章ですが、
両親だけ、なのですね。
イエス様は、、彼らと共には居なかった。

これは預言者サムエルの故事に相応します、。

サムエル記 上2:19
母は彼のために小さな上着を縫い、毎年、夫と一緒に年ごとのいけにえをささげに上って来るとき、それを届けた。

サムエル関連記事


ここまで言えば気づく人もいるでしょう。
まだ?ですか。

ではここも読みましょう。

ルカ福音書 2:51
それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、
両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。 

心やさしく、聡明なイエス様なのです、、そうですよね?

そんなイエス様なら、小さい時からも、普段からも
父母に従順に従っていたはずです。

それなのに、わざわざ、
「両親に仕えてお暮らしになった。」と記録されています、、。

どうしてでしょうね?

それは、、、
イエス様は12歳までヨセフとマリアとは離れて暮らしていたということを聖書は暗に証しているのです。
イエス様が12歳でマリアとヨセフのもとに戻ったのは、
成人の儀式バルミツバをするためです。


三日の後、イエス様が神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 
聞いている人は皆、イエス様の賢い受け答えに驚いていた。 
両親はイエス様を見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」 

すると、イエス様は言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 

しかし、両親にはイエス様の言葉の意味が分からなかった。 
それから、イエス様は一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。 
イエス様は知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

これはイエス様の12歳の時の逸話ですね、重要なことは両親がそばにいるのに、神殿の境内で、自分は父の家にいると言ったことです。
養父ヨセフがいたのに神殿を父の家と言ったのです。

ヨセフはレビの祭司職ではなくユダ族でありイエス様の養父であったので実父ではないと言ってもおかしくはない、けれど 、。

それに加えて 神殿の主を父だとイエス様は言ったのですね、、神殿の主は創造の神様ですね。

これはつまり、イエス様の「神の子宣言」と言えましょう。

ヨセフは、、、実の父でなかった、それは皆の知るところです。
養父だったのは事実ですから。

肉的な実父は、、祭司ザカリアだったのですが、
これはこのブログでも、すでに記事にしているので、
興味ある方は、関連記事をお読み下さい。

関連記事父ザカリア

簡潔に書きますと、
ルカ福音書中、ザカリアの預言の箇所に「父」だとそのまま直接的に書かれています。

ルカによる福音書 1: 67〜79
父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。 

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 
我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。 
昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。 

それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。 
主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。 
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、 敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、 

生涯、主の御前に清く正しく。 

幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、 
主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。 

これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」 

以上の聖書記録の預言は二人の聖者、、
つまり来るべきエリヤの再来である洗礼者ヨハネとメシアである初臨のイエス様への預言です。

ザカリアは、二人の父だというのは、
この聖書箇所(父ザカリア)と書いてある事が証明しています、、。
聖書が、そう証しているので、誰も反論できはしないのです。
反論できないのでこのことについて誰も触れません。

イエス様の肉的な実父はアロンの血を引く祭司のザカリアでした。
イエス、この名は養父ヨセフが天使に指示された通りに名づけています。
イエス(ヨシュア)、これが本当の呼ばれるべき本名なのはそうでしょう。

でも、子の名は親がつけるのが習わしの時代、。
肉的な実父ザカリアがイエス様に名をつけてなくは無いのです。
つまり、イエス様にはザカリアが付けた別の名が有ったはずなのです。
その名は何だったか?

え!別名。イエス様に別名があった事?と30歳までの謎の期間が何の関係が有るの?って?

イエス様が、どこにいて何をしていらしたかがわかります。

まずは、イエス様はアロン家のザカリアが肉の実父なのです。
そしてアロン家はレビ族から発生した大祭司の血筋です。

民数記 8:24
以下はレビ人に関することである。二十五歳以上の者は、臨在の幕屋に入って務めに就き、作業をすることができる

レビ人で二十五歳以上になって臨在の幕屋で務めができると規定されている。
30歳以上の規定があるのが、その中のケハトの家系です。

民数記 4:2
レビの子らのうち、ケハトの子らの人口を、氏族ごとに、家系に従って調査しなさい。 

民数記 4:3
それは臨在の幕屋で作業に従事することのできる三十歳以上五十歳以下の者である

ケハトはレビの子でモーセとアロンの先祖です。
アロンの血筋は大祭司になる資格があたえられました。
だから、ケハトの子らだけが30歳以上の規定があったので
す、。

そのため自動的にアロン家の祭司になるには、、
30歳以上が 
規定となるわけです。
 
ちなみに定年は50歳です。

レビでは最低25歳にならないと一人前とされないし、、、
祭司になるには最低30歳が必要年齢ということです。

だからアロンの血筋でもあるイエス様も、30歳で世に出ました。
規定通りに、。

さて、イエス様が12歳で神殿にて学者たちと議論し感嘆させた事、、
この出来の意味は何でしょうか?
いくら神童でも学ぶことなしには聖書などについて
大人と議論できません、。

誰かに学んだのは当然のことです。
それも高度な学びでなくしては大人を感嘆させられませんから、
高度な教育を受けていたのです。

祭司から教えられたと考えた方が自然です。
イエス様の父は祭司ザカリアなのですから。

養父ヨセフまたはマリアからですか?
いいえ、初歩的な事はありえても、高度な事はありえない、、です。

高価な聖書を一民間人が持ってはいない時代です。貧しいマリアとヨセフは、聖書を持ててはいなかったでしょう。

聖書を読まず習わずして12歳で学者と議論は並みの教育ではできません!

だから、すでに12歳までにイエス様は高等教育を受けていたのです。

誰って? 
肉の実父ザカリアの元でです。
祭司のところには聖書はあるからです。
肉の実父ザカリアが命名した別の名で、、、。

いつからかは、、 
多分、エジプト帰国後の2歳頃、、
数え年でなら3歳ころにザカリアの元に行ったと思われます。
聖書にお告げがあった、とだけ書かれてます。

御母マリアは、お告げを受けて祭司ザカリアの元へ挨拶に行きました。
この時、ザカリアの元へ、イエス様を連れて行くように、
お告げがあったのかもしれません。
もし、そうであれば、削除された可能性があります。
お告げの内容が何故か伏せられていますから、、。

新約聖書にイエス様と弟子との問答があります。

マタイ福音書 
16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 

16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 

16:15 イエス様が言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 

16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 

何者は口語訳では誰と訳しています。
イエス様は自分を誰だというのか?と聞いています。

イエス様はメシアなので、、
弟子のメシアです、の答えは、それなりに文としてつながりますが、。
聖書には重複する意味がある文があるのです。

イエス様がイエスという名前と同時に、
ザカリアが名付けた、、、、別の名があったと仮定して、
人々が、どのように自分を言っているのか(呼んでいるのか)?
という趣旨が含まれていたら、、。
上記の聖書の文は別の意味をもつことになります。

弟子はこのように答えています、。
「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、。

このエリヤ、エレミヤ、、など、、を考えてみましょう。
これらは祭司の血筋の名です。

イエス様は、それ、そのものか、
それに似た名を肉的な実父ザカリアに名付けられていた、、ので、
他では出てくるのに、、
ここの聖書の場面ではイエスという名前が出ていないのです。

ナザレのイエス、と、ここで表現されなかったのは、
ザカリアが、名付けた名前について人々がイエス様を、どう呼んでいるか?と問われていたからです。

他に、イエス様はまだ若いのに、
ラビの立場のニコデモからラビと呼ばれていますね。

ヨハネ福音書 
3 :1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 

3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

老齢の熟練しているラビのニコデモが、、
イエス様を自分より上位のラビだと言っていたのです。
ユダヤ教の教師だと認めているのです。

イエス様が公生涯を始める前から、イエス様が、
ラビとしての仕事をしていなければ、そんな尊称をつけて呼びません。

イエス様が、公生涯以前は、、
ダビデが、いずれ義理の父となるサウル王と、
実父エッサイの間を行き来したと書かれたように、。

養父ヨセフと肉的な実父ザカリア家のもとを行き来して、
レビ人やラビとしての仕事を30歳になる前もしていたと思います。

何故ならば12歳以降、完全にレビ人やラビとしての仕事を、
イエス様がしてなければ、ニコデモは、ラビと呼ばないからです、。
イエス様が現役のラビだったから、そう呼んだのです。

ルカ
4:16  イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。

いつものとおり、、に会堂に入って教えていたと、記録されています。ラビでなければ教えれません。
ラビでないのに会堂の個人使用は出来ません。

さて、新約聖書で、
どういうわけか多くの事例でイエス様の弟子たちを
別名・或いはあだ名で記述しています。

たとえば、シモン・ペトロは本名はバルヨナ・シモンであり、ペトロは岩という意味でイエス様がつけたあだ名です。

他にもイエス様は12使徒の中のヤコブとヨハネの兄弟2人に、、
ボアネルゲ(雷の子)というあだ名をつけました。相当短気だった??

アンデレは、男ぽい。
フィリポはギリシャ語の男性の名でユダヤ人としての名は別にあったらしい。
つまり、あだ名のようなものと思われます。

バルトロマイ
バル〜であるから、
意味はタルマイ(テルマイ)の子。ヨハネ福音書ではナタエルの名があるので
本名はナタエルではないかと言われている。

徴税人マタイ
アルファイの子レビとも記されているので本名はレビ。
職業が徴税なので、嫌われ者であった。

ディディモ・トマス
ディディモとは双子(ギリシャ語では)の意味。本名はトマス。

タダイ
ヤコブの子ユダと記されたので別の名はユダ。

神聖な聖書記述で、正式な本名ではなく、
別名、あだ名で記録された事例が結構多くあること、、
それは何を意味したのでしょう、、。

それは、【二つの名】、があることについて、
聖書が示唆したいことがあったからなのです、、。
本名の他にも、もう1つ名前があることを。

本来は父親が子に名付けます、、。
でも、母親が名付けることもあります、。

両親が同時に名付けたこともありますね、、。

ラケルはベン・オミと名付け、ヤコブはベニヤミンと名付けました、。
他、同人で異名のある人物が聖書には結構記録されています。

名付けに関して、イエス様にも養父ヨセフが名付けた名前イエスの名前の他に、肉的な実父ザカリアが名付けたエリヤ、エレミヤ、、のようなもう一つのレビ人としての別名があったということを暗喩していました。

最初のダビデのことに戻ります。
ダビデという名前は、ダビデの母アヒノアムが名付けていました、。
サウルには、ダビデは生まれて、すぐに死んだことにして、
隠されて、ダビデは育てられました。

一旦、死んだことにするために、エッサイのもとに戻す前に、
こっそり数年間、エッサイの親族とかに里子に出したかもしれません。

最初、サウルのもとに楽師として行ったときは、
バルミツバの成人前、満11歳ころで満12歳より前であったので、、
母アヒノアムが名付けた名ダビデで呼ばれていました、。

ダビデは羊飼いの番をしたりして、、
音楽以外の、戦士としての技能も身に着けて、、
サムエルから油注ぎを受け、、

実父エッサイのもとで成人の儀式バルミツバを済ませて、、
実父エッサイが、ダビデをエルハナンと名付け、。
そのあとで、ダビデがエルハナンとして、ゴリアトを倒していたら、、?

ダビデがゴリアトを打ち倒したら、
どんな報酬が貰えるのかと、言っているのを聞いた兵士が居ますよね?
この兵士が、、サウルに告げる者、です。

このサウルに告げる者が、、
サウルに、ゴリアトを倒せると言っている人(エルハナンとしてのダビデ)のことを、こういうことを、言っている勇ましき者がいます。と話して、

サウルが、そのエルハナンのことを伝えてきた兵士に、
サウルの元へ来るように、エルハナンに伝えるように命じて
エルハナンを呼んだはずが、、、

サウルのもとに来たのが、
見た目もまだ幼いバルミツバを済ませたばかりのダビデだったのなら、、、
ダビデがゴリアトを倒すのは絶対に無理だと思ったでしょう。

将軍のアブネルが、ダビデの出自を知らないのだから、
ダビデは、まだ軍隊に兵士として登録されてもいなかったことが分かります。

武具を一つも持ってない状態で、ゴリアトを倒すのは、到底無理だと、
サウルは思って、ダビデに自分の武具を与えたのでしょう。

サウルがアブネルやダビデに再度、名前を聞いたのは、、
ダビデがゴリアトを倒す前ではなく倒した後です、。

ダビデが、ゴリアトを倒して、、
サウルの思いわずらいと、恐怖心が消えたら、、
上で、書いた兵士が、、ダビデのことをエルハナンだと話していた事を思い出して、ダビデが、なぜダビデ以外の名前を名乗っているのか、、と
サウルが、疑問に思って、お前の名前は?母親は誰なのか?と
ダビデに突っ込んで問い詰めたなら、、話の流れの辻褄があいます。、。

ダビデは、ダビデという名前をすでに知っているサウルに、
父エッサイに名付けられて違う名前エルハナンになったとは言えない、。
エッサイが、なんで何度も名付け直す?と余計に怪しまれてしまいます。

だからダビデは、、エッサイの息子です、。
としか答えようがない。 

ダビデがエルハナンでもダビデでも、
その時のサウルはゴリアトのことで頭が一杯で、
最初は、ダビデの名前に疑問を持つ余裕がぜんぜんなかった、。

で、ダビデがゴリアトをたおしてホッとして、、、
ダビデの名前が違うことを思い出したならば、一気に疑問が湧くし、
そうであれば、アブネルにダビデの出自を聞いて、
調べさせたり、ダビデに、母は誰なのか?と問い詰めてもおかしくないですね。

ダビデは、アヒノアムが名付けた名前で、
エルハナンは、エッサイが名付けた、、
もう一つのダビデの名前、であれば、、

ゴリアトを倒したのは、、ダビデでもあり、エルハナンでもあるとなるので聖書は矛盾しないです、。

ヤイルと、ヤアレは同じ名でなまったものだと考えれるし、
下の段の「機織り人」を「オルギム」と、
読み間違えた可能性が指摘されてるようです、、。
ヤアレ(ヤイルの変化形)がラフミーを倒した。が本来の聖句と言われています、。

エッサイの親族にヤイル(ヤアレ)と呼ばれてる人がいて、
その人にダビデが里子に出されていたことがあれば、
ヤイル(ヤアレ)の子と呼ばれてもおかしくない、。

エッサイも、ナハシュの元妻と結婚するときに、、
エジプトの宰相にまでなったヨセフが、結婚するときにエジプト名を与えられたように、ナハシュ王から同族としての贈り名を与えられて、別名ヤイル(ヤアレ)と呼ばれていたのかもしれない、。

ダビデはイエス様の雛形です。
イエス様はイエス(ヨシュア)とエリヤかエレミヤ、
それに似た名前の、、2つの名をお持ちだったのでした。

逆転思考で、、イエス様が2つの名前をお持ちだったのならば、
イエス様の雛形のダビデも当然、2つの名前を持っていたに違いありません。

私は個人的には、イエス様の、もう一つのお名前は、エレミヤだと思っています。なぜなら、ザカリアの息子バプテスマのヨハネは、
エリヤの霊を宿して生まれてくる、と天使から言われています。
だから、ザカリアが、イエス様にエリヤとは名付けないだろうと思われるからです。

あと、、
イエス(ヨシュア)という神さまゆえの神名はあったけれど、
ザカリアがつけた別の名で実父ザカリアの元で祭司の学びをし、
30歳になってから、、義兄ヨハネとヨルダン川で再会して、
イエス(ヨシュア)、、としての公生涯を始めた。

だから、イエス様が、別の名エレミヤ?という名で、、
レビ人として学んだ期間、また、、
ラビとして祭儀や教えていた期間の事は聖書に記録されていない。

マグダラのマリア
 

 



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