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書庫マグダラのマリア聖書論



この書庫は聖書の深(裏?)読み系の記事です。

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聖書を読んでると、時々不可解なことがあります、。
巨人ゴリアトを倒したのは、、??

サムエル記 上
17:51 ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士(ゴリアト)が殺されたのを見て、逃げ出した。

この聖句のとおりに、、、
ダビデが巨人ゴリアトを、羊飼いの投石器を使って、、
手に持った杖と5個の小石でもって打ち倒し、
ゴリアトの剣を取って首をはねて倒した、。というのが、通説です、。

ところが、、、。

サムエル 下 21:19
ゴブで、またペリシテ人との戦いがあったとき、ベツレヘム出身のヤアレ・オルギムの子エルハナンが、ガト人ゴリアトを打ち殺した。ゴリアトの槍の柄は機織りの巻き棒ほどもあった。

この聖句を読んで、、
?なんで、ゴリアトを倒したのはダビデじゃないのかな??
エルハナンって??誰なのかな??となって、疑問符が???

歴代誌 上 20:5
またペリシテ人との戦いがあったとき、ヤイルの子エルハナンがガト人ゴリアトの兄弟ラフミを打ち殺した。ラフミの槍の柄は機織りの巻き棒ほどもあった。

ここの聖句を見つけて、
あ、、ゴリアト君にはラフミという兄弟がいて、
エルハナンは、ゴリアトの弟を倒したわけね、。と
なんとなくで、、納得してはいたのですが、、。

でも、、聖書には、
サムエル 上 17:51の聖句では「ゴリアトはダビデに倒された。」と書かれ、。

サムエル 下 21:19の聖句では「ゴリアトはエルナハンに倒された。」と書かれ、。

歴代誌  上 20:5の聖句では「ゴリアトの兄弟ラフミはエルナハンに倒された。」と聖書に書かれています、、。

なので、何か、どうしても納得が行かない部分が、
心に残っていました。

これらの聖句は、こういう謎めいた状態なので、
色々議論もあるし、新改訳では、サムエル下でエルハナンが倒したのは「ゴリアト」ではなく、「ゴリアトの兄弟ラフミ」としています、、。

そうしないと、サムエル記と歴代誌とで、つじつまが合わなくなるからでしょう、、。

でも、、実は、、死海文書だと、、このゴリアトの、、
弟ラフミがいた、という部分の記述がなく、、ゴリアトを倒した、、と書いてあるそうなのです、。

それを聞いて、再度、疑問がわきました。
現状、聖書を、そのまま素直に読んで、整理すると、
次の、3パターンが考えられます、。

①巨人ゴリアトが二人いた場合。
これなら今の聖書のままでいいですね。

でも、、同じ名前の同じような剛力の巨人が二人、同時にいたというのは、あり得そうもないので無理があります。

②ゴリアトに弟がいて弟が殺された、、。

これも、そのままで良いですね。
でも、聖書には書かれているけど、死海文書には、その記録が無いようなのです、、。

もし本当に弟がいたとしても、ゴリアトの弟が殺されたという言葉は、死海文書に記録されて無いそうなので、。

これは後世の加筆、、ねつ造されたものという可能性が高いと思われます。

③三番目は、エルハナンとダビデが同一人物と考える、、。

これを証明するのは、手がかかります、。
でも、、おもしろい論と思えます。

なので、私は、この三番目の論推しで、、
ダビデとエルハナンは、同一人物と考えます、。

まずは、時系列で整理してみます、。
ダビデは琴の名手で、サウルのところに行っていました、、。

それとは別に、ゴリアトの戦いの前に、、
少年であるれけど勇者としてのダビデ、と、、、、
合計して、二度サウルに会ったことが記録されています、。

サウルにダビデが会ったー度目、、、。

サムエル記 上
16:14 主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。
16:15 サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。
16:16 王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう。」
16:17 サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい。」
16:18 従者の一人が答えた。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」

16:19 サウルは、エッサイに使者を立てて言った。「あなたの息子で、羊の番をするダビデを、わたしのもとによこしなさい。」
16:20 エッサイは、パンを積んだろばとぶどう酒の入った革袋と子山羊一匹を用意し、息子ダビデに持たせてサウルに送った。
16:21 ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。
16:22 サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」
16:23 神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。

二度目、、、。
「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」とダビデの言ったことを聞いて、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを召し寄せた。
(サムエル記 上17:26〜31参照のこと) 

この二度目の時に、、

サムエル記 上
17:55 サウルは、ダビデがあのペリシテ人に立ち向かうのを見て、軍の司令官アブネルに聞いた。「アブネル、あの少年は誰の息子か。」「王様。誓って申し上げますが、全く存じません」とアブネルが答えると、
17:56 サウルは命じた。「あの少年が誰の息子か調べてくれ。」

17:58 サウルは言った。「少年よ、お前は誰の息子か。」

アブネルに、誰の息子か調べさせます。
おかしいですね、。
すでにダビデの顔も名前も、サウルは知っているはずです、、。

エッサイに、あなたの息子ダビデをよこしなさい、。と
エッサイの息子のダビデ、、と、名指しで言ってるのだもの、

それに、、この一度目と二度目の出会いの間に、、
ダビデは、行ったり来たりして、サウルに仕えたり、ベツレヘムの父の羊を世話したりしていた。という聖句も書かれてあるので、

サウルは、最初の時に出会ってからゴリアトの討伐の時に、久しぶりにダビデに会っているわけでもなく、何度も会って、ダビデの顔も名前も、絶対に知っているはずなのですね、、。

それなのにダビデに、
誰の息子で、なんという名前なのか?と、聞いているのです、。実に不可解です。

初めて会ったかのようにして、
親の名がなんというのか、と問いただし、まるで、
何も知らないようにして?
わざわざ確認するかのように聞いています。

ここの聖句の、誰の息子?の意味は、
父親がエッサイなのはサウルは知っているのですから、ダビデの母親が誰なのか?とサウルはダビデに聞いていたのです。

でも、ダビデは、どうしてもサウルに自分の母親の名を明かす訳にはいかない事情がありました。

それで、、サウルに、、
「王様の僕、ベツレヘムのエッサイの息子です」とダビデは答えています。

ここで、いったん、別の話をします、。

ダビデ、出生に秘密があって、
結論だけ書くと、ダビデはサウルの妻アヒノアムの息子なのです、。

詳細は、こちら↓の記事に書いてあります、。

できましたら、こちらを先に読まれたほうが、、
ここから下の記事の内容がわかりやすいかと思います、。

関連記事


エッサイの息子は、何人か?聖書を読むと、

サムエル記 上 17:12
ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった。エッサイには八人の息子があった。サウルの治世に、彼は人々の間の長老であった。

と、8人の息子がいることになっています。
ところが聖書には、ダビデは7男だと書かれている箇所があります。

歴代誌 上 2:13〜15
エッサイには長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シムア、四男ネタンエル、五男ラダイ、六男オツェム、七男ダビデが生まれた。

不思議ですね?
ダビデは、、7男で8男?
少なくても一番下の息子がダビデということですね。

歴代誌 上 2:15で、エッサイの7番目の息子がダビデだと、名前とセットでハッキリ書かれているのだから、ダビデは7番目に生まれた息子のはずなのですが、。

ダビデが7男であるのなら、エッサイの息子はダビデ以外に6人でないといけない。

でも、サムエル記 上16:10では、、
エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
と書かれて、

ダビデ以外に7人が、エッサイの息子としてサムエルの前を通っているのですね。それならダビデは8男にならないとおかしい。

サムエル記 上16:6〜には、、
3男シャンマまでしか、名前が書かれていないです。
サムエルの前を通った3男以降の名前が、、なぜか、伏せられて書かれなかった、。

この部分も不思議ですね。

聖書に7人が、サムエルの前を通ったと書かれているので、
誰かが7人、サムエルの前を通ったわけです、。
誰かが、、。

3男までだけで全員のエッサイの息子の名前は書かれなかったこと、ほんとに不思議ですよね、。
通常なら、一桁の人数程度なら全員記録されても良いはずです。実際、歴代誌 上 2:13〜では、エッサイの息子の名前が、、全員記録されていますから。

エッサイは、最初、アヒノアムと婚約してたくらいですから、16歳以上です。
ダビデとヨナタンの年齢差が、30歳あるので、
ダビデが生まれた時点では、最低でもエッサイは50歳前後、、。

ダビデがゴリアトと戦ったころ、、
ダビデが、いくつくらいだったか?推測してみます。

まず年長の三人は、、
剣を取り得るもので兵士になってたのだから、
20歳は超えています、。

4男以下は兵士になれなかったので、単純計算で、、
4男は19歳以下、5男18歳以下、6男17歳以下、7男16歳以下、8男は15歳以下となります、。

でも、実際は、乳離れするのに現代よりは時間がかかったので、それ以下のはずだから、、7男と8男は大きくても、
パルミツバの年齢、数えの13歳(満年齢で12歳)になるかならない年齢くらい。

もし、エッサイが20歳くらいにナハシュの元妻と結婚して、
25歳前後のとき長男エリアブが生まれてたら、、

ダビデがバルミツバーの前、、(およそ満11歳)
サムエルに油を注がれた頃は、、、
エッサイは60歳前後、エリアブは35歳前後で、、、

もし、エリアブが16歳で子を産んでいたら、
エッサイの孫は、ダビデが12歳になる前頃は、、、
19歳から20歳くらいになってます。

そうであれば、エッサイの孫は、19歳推定のエッサイの4男と大差がない、。エッサイは自分の孫を、4男として通したのではないかと、。

エッサイは4男以下は、兵士にもなっていない年だし、、
王に即位されることは無い、、とエッサイは考えていただろうし、。

ダビデに関しては、たぶんバルミツバ前で、
年齢が若すぎるから、王になるのは、あり得ない、。と考えていたでしょうから、サムエルが来た時に、ダビデを呼ばなかったと考えれます、。

①長男エリアブ、②2男アビナダブ、③3男シャンマ、④エッサイの孫、⑤4男、⑥5男、⑦6男、⑧7男ダビデ、、。と、

4男以降、順番がズレたから名前を伏せた、、と、考えれば、納得もいくし、歴代誌 上 2:13〜のように、、
まともに息子全員の名前書いたら4番目以降がズレてるのは、何で?になるし、途中でいないはずの人間が一人増えたら、ややこしいし。

サムエルのとこで、息子の名前が全員書かれておらず、
7男のダビデが8男のようにして記録されたのは、、
4男でない孫を4男として通したからではないかと、。

ダビデはアヒノアムとエッサイとの子で7男だけれど、
アヒノアムは、ダビデを死んだことにして隠しました。
死んで、新しく生まれたことにしたエッサイの8男でもある子です。

7番目の子なのに、8番目の子の立場として書かれた、もう一つの理由が、エッサイが、ヤコブのように孫を自分の息子と同等としたからではないか、と思われます、。

たぶん、エッサイの孫は20歳越えてて、兵士になってたのかな、。
だから、兵士になっていない自分の4男より優先して、サムエルの前を通したのかなーと思っています、。

そうでもないと、途中で、息子の順番を入れ替えたりしないと思うので。

サムエルの前を通った4人目の息子は、、
エッサイの長男エリアブの息子、孫だった可能性がかなり高いです、。

エフライムとマナセは孫だったけれどイスラエル(ヤコブ)は自分の子と同様とした故事があるから、エッサイも、そうしてても、、おかしくない。

バルミツバの成人の年齢、満12歳に達してなかったのは、
ダビデだけだったのかもしれないです。
少なくても、成人の儀式を済ませてる者だけを、
サムエルの前を通したのかも、。

ダビデは、アヒノアムとエッサイの子で、エッサイの7番目の息子であり、8番目の息子です、、。
これの内容は、上で書いてある関連記事の方に、↓ここから下の詳細も書かれていますので、良かったら、お読みください。

ダビデは、王宮から出てエッサイのもとに逃げてきたエッサイの元婚約者のアヒノアムが、サウルのもとに連れ戻されたあとで、、アヒノアムのもとで生まれました。
なので、サムエルの前には出したくなかったかもしれません。

アヒノアムが、エッサイの元婚約者でも、、
その時点では、アヒノアムは、サウルの妻なのですから、。

末の息子で、上で書いているように、とても幼かったからという理由だけではなく、ダビデの存在を公にしたくなかった気持ちはエッサイに、あったと思われます。

エッサイの長男エリアブが、何しに来たと、言わんばかりに、
パンとチーズを、わざわざ届けに来たダビデを邪険に扱っていたのは、こういう裏事情がダビデにあったからです。

名付けに関して、本来は父親が名付けます、、。
でも、母親が名付けることもあります、。
同時に名付けることもありますね、、。

ラケルはベン・オミと名付け、ヤコブはベニヤミンと名付けました、。
他、同人で異名のある人物が聖書には結構記録されています。

ダビデという名前は、ダビデの母アヒノアムが名付けていました、。サウルには、ダビデは生まれて、すぐに死んだことにして、隠されて、ダビデは育てられました。

一旦、死んだことにするために、
エッサイのもとに戻す前に、こっそり
数年間、エッサイの親族とかに里子に出したかもしれません。

ダビデは、イエス様の雛形です。
ダビデがサウル王に殺されないように、アヒノアムは、
死んだことにしてサウルから隠し逃しました、。

イエス様も、ヘロデ王から殺されそうになって、
マリアとヨセフによってエジプトに逃されてますから似たことが起きてました。

最初、サウルのもとに楽師として行ったときは、
バルミツバの成人前、
満11歳ころで満12歳より前であったので、、
母アヒノアムが名付けた名ダビデで呼ばれていました、。

ダビデは羊飼いの番をしたりして、、音楽以外の、戦士としての技能も身に着けて、、サムエルから油注ぎを受け、、

エッサイのもとで成人の儀式バルミツバを済ませて、、
エッサイが、ダビデをエルハナンと名付け、
そのあとで、ダビデがエルハナンとして、ゴリアトを倒していたら、、、?

ダビデは、ダビデという名前をすでに知っているサウルに、違う名前、、エルハナンとは名乗れないので、、
ダビデは、、エッサイの息子です、。としか答えようがないです、。

ここで少し話を戻します。

ダビデがゴリアトを打ち倒したら、どんな報酬が貰えるのかと、言っているのを聞いた兵士が居ますね?

この兵士が、、サウルに告げる者、です。

このサウルに告げる者が、、
サウルに、ゴリアトを倒せると言っている人(エルハナンとしてのダビデ)のことを、こういうことを、言っている勇ましき者がいます。と話して、

サウルが、そのエルハナンのことを伝えた兵士に、
サウルの元へ来るように、エルハナンに伝えるように命じて
エルハナンを呼んだはずが、、、

サウルのもとに来たのが、見た目もまだ幼いバルミツワを済ませたばかりのダビデだったのなら、、、

ダビデがゴリアトを倒すのは絶対に無理だと思ったでしょう。

将軍のアブネルが、ダビデの出自を知らないのだから、ダビデは、まだ軍隊に兵士として登録されてもいなかったことが分かります。

武具を一つも持ってない状態で、ゴリアトを倒すのは、到底無理だと、サウルは思って、ダビデに自分の武具を与えたのでしょう。

サウルがアブネルやダビデに再度、名前を聞いたのはダビデがゴリアトを倒す前ではなく倒した後です、。

ダビデが、ゴリアトを倒して、、
サウルの思いわずらいと、恐怖心が消えたら、、
兵士がダビデのことをエルハナンだと話していた事を思い出して、ダビデが、なぜダビデ以外の名前を名乗っているのかサウルが、疑問に思ったならば、辻褄があいます。、。

ダビデがエルハナンでもダビデでも、その時のサウルはゴリアトのことで頭が一杯で、最初は、ダビデの名前に疑問を持つ余裕がなかった、。

で、ダビデがゴリアトをたおしてホッとしたら、名前が違うことに疑問が湧くし、そうであれば、アブネルにダビデの出自を聞いて、調べさせたり、ダビデに、母は誰なのか?と問い詰めてもおかしくないですね。

ダビデは、アヒノアムが名付けた名前で、
エルハナンは、エッサイが名付けたもう一つのダビデの名前、であれば、、

ゴリアトを倒したのは、、ダビデでもあり、エルハナンでもあるとなるので聖書は矛盾しないですね、。

ヤイルと、ヤアレは同じ名でなまったものだと考えれるし、
下の段の「機織り人」を「オルギム」と、
読み間違えた可能性が指摘されてるようです、、。
ヤアレ(ヤイルの変化形)がラフミーを倒した。が本来の聖句と言われています、。

エッサイの親族にヤイル(ヤアレ)と呼ばれてる人がいて、
その人にダビデが里子に出されていたことがあれば、
ヤイル(ヤアレ)の子と呼ばれてもおかしくない、。

エッサイも、ナハシュの元妻と結婚するときに、、
エジプトの宰相にまでなったヨセフが、結婚するときにエジプト名を与えられたように、ナハシュ王から同族としての贈り名を与えられて、別名ヤイル(ヤアレ)と呼ばれていたのかもしれない、。

なので、聖書は矛盾していない、。

マグダラのマリア
 


ファリサイ人は、
イエス様が、メシアだと知ってて、
そうだと、分かってる上で殺そうとしてた。
イエス様の例え話に、、

マタイ
21:33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
21:34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。
21:35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
21:36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
21:37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
21:38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。
21:39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
21:40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
21:41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」。

メシアが本当に来ると思ってなくても、、、
イエス様のようなメシアとか、、
神様に選ばれた預言者以外に、
死んだ人をよみがえらせたりなんて出来ないです。

ファリサイ人、、
あれだけ多くのしるしを見れてて、なんで信じなかったのか、、。
私にはわかんない。

腰抜かして驚いて信じるのが普通じゃないのかなー。
なんで悪魔の仕業になるやら、私の感覚がずれてんのかなぁ。
メシアだと思ってなくても、預言者だくらいはわかりそうなものなのに、、。

イエス様にお返しするべき権威を、イエス様にお返ししたら、、
それまでみたいに、神様に捧げたことにして、
生贄の動物を捧げずに使いまわして、私腹を肥やし、
高額な手数料や動物の代金を取る悪徳商人たちと結託して、
神殿で不正を働いて、お金儲けが出来なくなる。

彼らは、神様よりも、お金や欲に心も目も奪われてたのね。

本物のメシアがいたら困るのは、彼ら、、。
彼らよりメシアの方が高位で、権威があるのは当たり前。
本物のメシアをいる、、と認めることは、即、自分たちの権威の失脚につながる。

だから、、徴が見せれないニセ預言者やニセメシアには、彼らは寛容だった。
偽物はいつでも、どうとでもしてつぶせるし、利用もできる。 
だから 本物を殺そうとし、偽物は見逃していた、、。

本物、は彼らには邪魔者だったのね。
殺さないと、何も出来ない人間の自分たちより、
知ったら、人々は徴を見せれるメシア、本物を敬う。

だから、イエス様に、あえて言いがかりをつけて、
紛い物、インチキ、サタンの仕業だって濡れ衣を着せて、
民衆にも信じさせないように仕向けた。

すべては、自分たちの利益や、財産を守るため。
時には、権力を使い、あくどいことも、したのかもしれない、。

もともと神様の権威なのに、
神様に返すのが嫌だから、本物と思うものは、すべて排除してた、、、。




マグダラのマリア 

天国の門と鍵

検索ワードで、、ここ連発で多いのが
聖書の関連する漢字、、と天国の門と鍵、が多かったので、、。

天国の門と鍵について書こう、、と思います。

天国の門は、イエス様です。
天国の中の奥の御座に、神様だから、、と
座って、信徒が戻って来るのを待つのではなく、

放蕩息子の父親が、息子を案じて、、
毎日毎日、いつ戻ってくるか、、
今日か明日か、と、気をもんで、、心配して、
家の前で外に出て立って放蕩息子の帰りを待ち続けたように、、

罪人に落ちた最後の一人が天国に戻ってくるまで、、
待ち続けて下さる御方が、神様と、イエス様です。
神様なんだから御座に着いて座ってても、誰も文句なんて言わないのに、。

人間を我が子として創造したから、、
父さまは、子供が全員戻って来るまで心配で、
じっと座って待つより、何かしたいし助けたいし、で、、

人の子ら、、の側に共に居て、、見守りながら、
共に歩きたいと思って下さるのでしょうね。

すべての子供を気遣い続ける親心、。
ん、、父さま、なんて優しいお父さんなんでしょう〜
イエス様は、、神様というより、私的には、主人なのですよね。

イエス様に、多くの負債があるから、、申し訳無くて、、
出来る限り従順に、お仕えすることで、あたえて頂いた御恩を、少しでもお返したいのです。

多くをお返し出来るとは思ってないけど、、
出来る限りのことは頑張りたい。

クリスチャンだから、というのではなくて、、
神様やイエス様が、悲しいと思われるようなことは、
出来る限りしたくないな、と思っているだけです。

クリスチャンだからそうしたいのではなく、
神様と、イエス様が好きだから、人として喜んで頂けるような生き方がしたい。
これは、クリスチャンじゃなくても、すべきことであると思うのよね。クリスチャンでも、そうでなくても、人らしい生き方をしようと思うのは、、当たり前のことだもの。

クリスチャンになったら罪を犯さないわけでも、
罪を犯しても、イエス様に、なんでもして無かったことにしてもらえるわけでもないのよね。

自分の犯した罪を認めて、真摯にイエス様に悔い改めないと、、自分が犯した罪は、、赦されないまま残る。

無条件に、赦されるのは、自分では犯していない原罪だけ、。
罪の赦しイコール自分が犯した罪全部の赦しではないのよね。
罪の赦しイコール自分が悔い改めた罪と原罪。が、赦して頂けるもの。

神様に従おうと思う人は、放蕩息子が自分が悪いと深く反省して、神様に悔い改めたように、
ちゃんと、神様に心から謝罪するものです。
イエス様に罪が赦されて当然とは思わない。
罪を赦されて、ありがたくて、それこそ泣くほどに感謝する、。

大威張りで、神は我が罪赦されたり!ハレルヤ!なんて
勝ち誇ったような顔して言えない、。
とても、、そんな勝ち誇った気分には、私はなれない、。

ひたすら、イエス様に謝罪と、感謝しかない。
私の罪のせいで、イエス様を再度、十字架に追い込んだようなものなんだから、その部分が、とても心苦しい、。
でも、罪が赦された喜びも大きいから、ありがたくて、
ありがとうございます、、と感謝を捧げる。

イエス様は、、天国の入り口で、、、
待ってて出迎えて下さる御方、。
天国の門なんだから、天国の入り口でしょう?

放蕩息子のたとえ話の中に出て来た父親は、
父なる神様であり、イエス様のことでもあるのね。

天国の鍵とは、、門であるイエス様と、、一致するもの、、。
そしてイエス様の持たれていたもの、。

天国の通貨は、愛です。
この世の価値があるとされているものは、
何一つ天国では価値がない。

愛や、思いやり、慈悲深い人が、天国では裕福で幸せになっています。
愛や思いやりは目に見えないし触れないけど、
心と心で感じ取ることは出来ますね。

イエス様は、人を、自分自身のように愛しなさいと
お命じになっています。イエス様に従う人は、イエス様の御命令に従おうと努力します。

でも、人間は、感情があるので、、、
100%従うことは出来ないですね。
理性で従うことが正しいと分かってても、
感情の部分で、従いきれない部分が出たりするのです。

私も、私を騙した女性のこと、、
恨んで死んでしまえば良いくらいに、
激怒して、呪うが如くに嫌いました。

今は、、何も思わないし、呪いもしませんけど、
でも、彼女を完璧に赦してるというなら、、
友達として再度付き合えるか、、と、と問われたら、、

土下座してごめんなさい。どうか、それはおゆるし下さい。になります。死んじゃえばいいと憎むのは大きな罪だと理解して、心で殺人をしてた私のほうが彼女よりも大罪人だと、悔い改めはしたけど、感情の部分で、彼女と、再度お友達になるのは、、
どうか、、ご勘弁、、となります。

理屈で分かってても、どうしても感情では、従いきれないことって、あるんです。私の場合は半分は彼女を赦してるけど半分は赦してないみたいな。
恨んで憎むのは、道理に従ってやめれても、
自分の感情を捨てきるというのは、とても難しいのです。

せいぜい出来て、何も考えないようにする程度でしょう。
感情の部分も含めたら、神様に従い切るというのが、
いかに難しいか分かります。

私は、自分を騙した女性を恨み憎むのをやめるのが精一杯です、。
彼女を友達にすることは出来ないので、ゆるしてるとは言えません。
イエス様の御命令、ゆるし愛しなさい。には
従いきれていません。

でもね。
ゆるしてもいないのに、
出来もしてないのに、、
ゆるしますとは言えないでしょ?
父さまに嘘つくことになるし、。

どう頑張っても出来ないのは出来ないんだから、
そこは、出来てません。ごめんなさい!でいいと思うのよね。
お父さんは、、分かって下さると思ってます。

ゆるすのなんて出来なくてもしょうがないだろ!罪人なんだし、やなこった!と、開き直っているのでなければ、、。

神様の御心に沿う生き方って、
ほんと大変で、自分の内面の自分と、
しょっちゅう激突して、神様に背いてばかりだと、
思うことばかり、。

何十年もクリスチャンとして生きてて、
未だに、不従順な部分のほうが多い。
情けないけども、、。

でも、不思議なことに神様に従いたいと思う気持ちは、
年を重ねるごとに強くなっています。
その気持ちがあるから、欠けが多くても良しとみなされて、
赦され続けてて、、救いの安心感も喪失しないで済んでいるのかもです。

イエス様と、、愛という絆で一致して、
門の中に入れて頂きましょう。
100%でなくてもね。
出来る限りの努力はしましょう。
自分の想いを尽くして、。

愛がイエス様に繋がる鍵になります。


イエス様が、ペトロに与えたのは、、、
御自身の大祭司としての罪の判定をする権能でした。
悔い改めた人の罪をゆるす権威。

それは、人は目に見える人につながりやすいからです。
目に見える人を通して、神様からのゆるしを受けれることで、
生きてる人が、少しでもゆるされていることで、安心感を持って生きれるように、。

生きている人のためです。

イエス様がペトロに権威を譲渡したのは、
イエス様に人としての時間がなくなった、というのが
一番大きな理由ですけど、ペトロが、自分の子孫の直系に、
その権威を継承させ、当時の祭司や、昔の族長たちのように長子による血統による権威の継承を、御自分の代わりにしてほしかったからだと、私は考えています。

残念ながらサタンによって、それは阻まれて、ペトロの権威は血統による継承ではなく、霊的な継承のみとなり、サタンが付け入る隙が、、出来やすくなった。

もし、血統による権威の継承であったなら、
もっと堅固な守りがあったでしょう。
代を重ねればかさねるほどに、サタンは、ペトロの子孫に関与出来にくくなっていただろうから、。

サタンは、それだと非常に困るので、
結婚したら堕落する、独身制にしたほうが、清さを保てる。と、思い込ませたのでしょうけど。

本来は、長子直系による血筋とともに権威の継承をしていたほうが、神様の御心に沿うことであり、良かった。

マグダラのマリア

前に記事にしていた内容の改訂版です。

キリスト教での場合の例ですが、
信仰を持った家系と、持たなかった家系との差、。

それがデーターとして出ています、。

記事引用元

「最善の家系」ジョナサン・エドワード家
(創造主である神を信じ、聖書を教育の基盤とした。
信仰生活を教育の最重要にした家系)
子孫6代 1394名を調査

①牧師 100名
②副大統領 1名
③上院議員 3名
④大学総長 14名
⑤大学教授 100名
⑥弁護士 30名
⑦裁判官 30名
⑧医者 60名
⑨有名な作家 60名
⑩陸海軍将校 75名
⑪大会社社長15名
⑫役人 83名


「最悪の家系」ジュークス家
(無信仰で放任主義の家系)
子孫6代 2027名を調査

①乞食 310名
②性病患者 440名
③常習窃盗 60名
④刑務所暮らし 60名
⑤わいせつ常習者 55名
⑥売春婦 600名
⑦刑務所に入らなかった者 10名

ジュークス家は全員神様を信じず、
何の信仰も持ちませんでした。

子孫6代、2027名のうち、
刑務所に入らなかった者が、、たったの10名、、。

信仰を持った「ジョナサン・エドワード家」との違いが、数字として比較してみると、それがよく現われているように思います。

どうしてこんなに落差が??出てくる???
にこにこ、。

まず、親が無くても、子供は育つと言いますが、
誰か愛を注ぎ教育する人がいてこそです。

食べさせて、衣服と住居を与えたらあとは、何もしなくてもいいでしょ。親としての義務は、これで果たしたから、あとは放任では、子供はまともに育たないです。

食べさせて物だけ与えたら、それで良いと考えてる親が多い、。子供は、親が自分を愛してくれているということを、感じ取ることで安心感を持つし、親や家族を愛し思いやる心も育ちます。

親が会話もスキンシップも、ろくにせず、愛情を注がなかったら、
子供の愛の芽は育たず、しぼんで、自分さえ良ければ、という自己中な思考に傾くのは当然です。

愛されたことがあれば、人を、愛したいという心が育ちますが、
愛されたことがなければ、愛し方もわからないし、思いやる心も育っていかないし、、。

まぁ例外もいて、親から愛されても大事にされても、自分勝手な人もいます。
大概、そういう場合は、なんの信仰も持たず、罪というものへの自覚や認識が薄く、ひどいことをしていることに、まるで気付かない、、。
一般的な常識はあり、人付き合いも出来てて、いざ、自分個人のことになると、周りのことは蚊帳の外、自分中心思考へ切り替わる、。
、というような二面性を持つ人になったりします。

こういうタイプは、自分ではわかってないことが多いけれど、根本的に家族を大事にというより、自分自身が一番大事なので、家族を自分からは助けたりが出来ないかもです。

何かしらの信仰、と言っても、お金儲け至上主義の邪教は除いて、、
信仰を持つと、、自分の行為が、果たしてどうだったか、と、
自分の行いや思考を客観的に考えて自分勝手なことしてないか??と自己反省したりします。

自己中な思考や行いは駄目、、という道徳的な教えがあるので、
信仰を持つと、特に大丈夫か、、と気にするようになります。

クリスチャンの場合、無条件で、赦されたと勘違いして、反省して悔い改める前に、他宗の人を、地獄行きだの、サタンだの、と言い出す勘違いさんが、たまにいますけど、、。

信仰を持つと言うことは、言いかえると、自分自身だけを愛する自己愛の状態から他者愛へ思考がシフトしていって、すべてを創造されたり、見守っている大きな霊的存在、神仏に心の目が向いて、

人間は個人個人で、単に産まれてきて生きてるのではなく、
神様から送り出されて産まれてきて、何か生きることには意味も意義もあるんじゃないか、、何かが世界を守り維持してるに違いない。
生かされている日々に感謝して生きよう。
と、、信仰心に目覚めたということです。

神仏に見守って頂いてるわけだから、自分勝手な生き方や、他者を傷つけるような生き方は、やめなききゃ、、と、自然になりますよね。
信仰心を持つ、と、物事の善悪が気になるのですね。
今の自分はどちら側??これしたら神様は、どう思うだろうか??って、善悪を考える。

罪というものがあり、その罪の自覚が薄いと、酷いことでもしちゃいます。
親が何らかの信仰を持ち、道徳的な教育と、豊かな愛情を注がれていたら、子供は、思いやりのある子に育ちます。


それとは別に、イエス様への信仰の継承による祝福が、クリスチャンにはあります。

初代クリスチャンは、
聖霊を受け原罪がないとみなされた世代です、。
生まれながら罪がなかったわけではないので、
原罪の根は存在しています、。

2世代目以降からは、神様から罪がない子らとしてみなされて
生まれながら原罪の根もなく、罪がない子ら、無原罪の子らとして、
生まれて来ることが出来ます、。

これはクリスチャンの2世代目以降は、すべて洗礼の有無によらず、
無原罪で生まれながら神様の子とされて産まれてくるということです、。
これは天地創造の神様であり無原罪のイエス様の御命に罪人が繋がったゆえの賜物であり天よりの大きな恵みです。

初代よりは2代目のほうが原罪の根の影響は減り、2代目より、3代目の方が原罪の根の影響は無くなります。

私自身の話で申し訳ないのですが、
私の肉の父は、過去記事でも書いてますが、
ヤクザみたいな生き方してました。
見栄えが良くハンサムだったので、ちょっと自己愛が強かった。

そんな父が、私の母に一目惚れして、私が生まれたのですが、
私が産まれてからも、飲むうつ買うの三拍子は、やめず、、、。母は、苦労してました。

そんな破天荒な父なんですが、、若いとき、カトリックの教会に行き、洗礼を受けて、クリスチャンネームもあった、、と
父母の死後、数年経ってから、父の妹の叔母さんから聞きました。

私は、父が、クリスチャンであったことはまるで知らなかったのです。私が、クリスチャンになったことが、必然だったのか、、と思えたくらいにびっくりの出来事でした。

私は、2代目世代であり現役クリスチャンということになります。

自分の子供たちを見てて、娘は、最近は少し自分勝手な行動してる部分が出て来てますが、短大にいく、家族思いこで、お金儲。のことなんて考えてなかった。友達も、大切にしてた。
でも、お金儲けに気を取られているのは今だけだと思ってます。根は真面目で優しい子だから、。

息子くんは、今も友達や家族を大切にしてる。
他の男の子たちの、思考や行動を見てきて聞いてきて、
息子は、ほんと(学校以外は)真面目だし穏やかだなーと思います。
 
私の子らの、子、孫が産まれてきて、、
代を重ねて行くうちに、どんどん原罪の根、サタンの支配から名実共に離れて、人類の始祖アダムとエバのように、無垢な神様の子らのようになっていく、。ありがたいことです。

記事の一番上で統計が事実としてありますから、
必ず、そうなっていくでしょう。
父さまの救いの御技は、一人を救って、それで終わりなんてちゃちいものでは無いの。その家系、血筋丸ごとの救い。

イエス様の神様の血筋に繋がるからこそ、、の救い。
イエス様が御自身の実体としての肉体の身代わりに、
霊的な疑似肉体としてパンと葡萄酒を与えて下さった。

聖霊により霊的な清めだけではなく、
物理的にも清い血筋となったとみなすために、。

イエス様の救いは規模が大きいでしょ??
1人から、その人の子孫全部、神様のものとして救われる。

クリスチャンになってから子供たちを産んで良かった。
私の場合は、2代目だけど、私も洗礼を受けたことで、私の子供たちは、私が洗礼を受けなかった場合より、サタン(原罪の根)の関与が出来にくくなるもの。

父さま、、御名称えられますように。
あなたは最高のおとーさんです!

マリア


人は、神様の似姿に似せて造られた、。

あるところで、、
人が完全無欠で、創造されていたら、、、
自分から罪を犯すリスクは、無かっただろうし、
神様に背くことを選ぶこともなかった。
完全無欠に創造されていなかったから、罪を犯した、。
だから、神は不完全だと言っていた人がいましたけど、。

神様は、、絶対善の御方で、完全なる御方です、。
だから、神様に似せて創造された人も、完全性を備えて創造されていました。

完全性があったのに、人が罪を犯し堕落した理由は、、神様から心が離れて間違えた選択をしたからです、。

赤ちゃんが育って、知恵を得て、分別を得て、仲間を得て、
次第に心身ともに成熟した大人になるように、、と、、

人には、各自、育つ余地、という部分を神様は与えておられました、。
それぞれの育つ余地にプラスして、自由選択の自由意思がくわわれば、
個々の個性、個体差が活きますよね、。

同じ親から生まれた子供でも、考え方や、食べ物の好みもちがいます。
個体差があるからそうなわけで、、個体差が、全然ないなら、、
みな判子を押したように同じ思考に同じ選択、するわけで、、。

それだと、父さまからすると、
人がクローンとかロボットみたいになるから味気ない創造になるのですね。

人の自由意志で自身をどう成長させるか、、、、
神様は人が自分自身で、色々な方向に成長していくのを見て喜ぶことを選ばれたのですね、。

このように完全体である赤ちゃんの精神状態から、
成熟された大人の精神状態へと成長していく過程に、、自由意志、、という自由度を人に与える事により、豊かな個性の創造へと繋がるわけです、。

神様の子として、完全体であることと、、
個体差による物事の認識の度合いや精神的成長などの充実度は別問題です。

神様は、、アダムとエバが完全体としての神様の子として相応しい、分別とか知恵を身につけるまで、御親である神様に聞き従うように、、ということで、、

たった一つの戒め、、
知恵の木の実に触れても食べてもいけない、。
と神様はおっしゃいました、。

でも、、アダムもエバも神様に愛されることが当たり前のようになっていて、天使たちもが、自分たちにかしづくし、
次第に、おごり高ぶって、神様に聞き従おうとする心が薄くなってしまっていた、。

神様に気持ちが、固くつながっていれば、誘惑に勝ててたはず、、。
アダムとエバは木の実を取って食べる前に、すでに気持ちが、、神様から離れてしまってた、。

気持ちが離れてたこと、、
自分たちは、、神様に愛されてると、安心しきってて、神様に何でも許されてるし、、このくらい背いても平気、バレない。とか思ってたのかもしれない。

神様から少しでも離れるのが苦痛に思うなら、死んでも離れないもの、。
アダムもエバも、、神様から離れたときに思う絶望感なんて感じなかっただろうし、神様から離れる辛さや苦痛をアダムとエバは、罪を犯すまでは、分から
なかった。

神様に気持ちが結ばれていなかったから、、悪魔が誘惑した時に、、ころっと騙されてしまった、。

悪魔は元天使だから、見た目だけなら美しく装えます。
清く光って神々しい姿でくるほど、怪しいです。
見かけだけで判定したら、悪魔は、全員天使に見えるでしょうね、。

人間から見ると、それはそれは美しい姿でくるそうです。
しかも人それぞれの嗜好にぴったり合わせて来るので、、
普通の人はあらがえません。
悪魔は人間の弱いところを知っていますから、、。

アダムとエバがサタンだとわかっていても落ちたように、魅力に圧倒されます。
正気であって、強い意志と神様への信仰がなければ、簡単にサタンのとりこになります。

サタンが醜いなら、うへぇってなるから逃げれるのに、、
残念ながら、、サタンは、、見た目は天使みたいな
美男子や美人の姿でくるので、、、、

その美しい姿の奥の奥の本性まで見えない、なにも知らない、わからないなら、確実にサタンの誘惑に負けて、、ころりと騙されるわけです、。

睡眠を除けば人間の持つ、2大欲求は、食欲と性欲です、。
アダムには、美しい女性の姿で、、エバにはたくましく魅力的な凛々しい男性の姿で、誘惑して落としたわけです、。

アダムやエバは、、物質的には満たされて、飢えてもおらず、
エデンの園は美しく過ごしやすかった、。
サタンが誘惑し挑発出来る部分は性欲の部分だけだった、。

アダムもエバも、、サタンの見た目の美しさに騙されてしまいました、。

蛇、、と聖書に書かれたのは、本性が蛇のようなもの、、という意味で、元天使なのだから、見た目は美しかったのです、。
サタンが美しく魅力的でなかったら、死んでもいいと思って、
木の実を食べたり触れたりしません、。

後世、魂と引き換えに、この世での望みがなんでもかなう、と言われるようになったから、醜い姿でもサタンの信者が出来ました、。

神様に背いてまで食べたいと手に入れたいと思うほど、サタンは美しかった。
俗に言われてるように、サタンが見た目も醜いなら気味悪がって従いません。
アダムとエバが騙された当時は、金も富も無意味な時代なのだから、。

神様に従うために、何か理由付けが必要か?

そんなものは要らないです、。
人は、アダムとエバの時代から、神様と親子なのです、。
途中、アダムとエバの裏切りにより、親子の絆は薄れて細くなりましたが、ゼロにはなっていなかった、。

人は神様が与えた魂という生命の絆を通して神様と繋がって居るからです。
子供が、親である神様を求め従うのは当たり前なのです、。

アダムとエバは、せっかく神様に神様の似姿、完全体として創造されながら、間違った選択をして、自分の御親である神様を捨てる方を選んで堕落してしまいました、。

イエス様によって、サタンから奪い返された全人類は、再度、選択をし直せます、。

神様の御心やご命令に従うか、、従わないか、。
イエス様の人へのご命令、掟は、アダムとエバの時のように一つです、。
あなたの隣人を、自分自身のように愛しなさい、。

アダムとエバは、御親で家族である神様を捨てたのです、。

人の一番身近な隣人は、、家族です、。
家族から、大切にしていきましょう、。

アダムとエバのように、、家族を捨てたり虐げるようなことはしないようにしましょう、。

あなたがたは神様の似姿に造られた完全体の人なのです、。

神様の御心、御意思に従って、本来の完全体の人として選ぶべき生き方を選びましょう。

堕落は、、神様の御心ではなかったし、
人が罪を犯し続けサタンに従属し続けることを選ぶのは、
人が自分に甘く、楽なこと、魅力的に感じる方を選択するからであって、、。

強い意志で、、、
他の人はどうでもいい、。自分が○○したい、、という
自分勝手な思考の方を選ぶのをやめたらいい話、。

愛されることを求めるより、いかに愛したか、、のほうが、、
心が満たされる度合いは大きい、。


マグダラのマリア


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