ここから本文です

書庫質疑応答の為の書庫

ここは、疑問や、質問を受けたり、答えたりする書庫です。


記事検索
検索

全29ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


地獄と、天国について、聞かれましたが、、。
そうねぇ、。
地獄も、天国も、在るけど無い、。
無いけど在る、。としか言えないなぁ、。

地獄は在ると思って、、慈悲深い想いでいた人にとって、
死んだら地獄はないし、。

自分の生きていた間の慈悲深い心が、
そのまま自分の死後の移行先の世界になるからね、。
慈悲深い人ばかりがいる世界が地獄なわけないから、
誰が見たって、天国、。

地獄はない、と思って、自分勝手に生きてた人にとって、
死んだら、天国はない、死んだら、地獄行き、。

自分さえ良ければ思考でいたら、、
自分の生きていた間の自分勝手な心が、
そのまま自分の死後の移行先の世界になるからね、。
自分勝手な人ばかりがいる世界が天国なわけないから、
別の人が見たら、地獄。


みんな自分は善人、天国に行って当たり前、と思ってるからねぇ、
私も、救われる前は、そう思ってた、。笑
クリスチャンとして、努力して、
いい人でいようと頑張ってきたからって、自己採点してた、。

こんな感じで誰かから、地獄に行くからね!とでもいわれなきゃ、
自分の心のあり方を、見つめたり反省したりなんてしないからねぇ、。
地獄にご用心、ということで、、地獄に行くよ、、と、
私は記事を書くんだけども、。

私の場合、自分は良い人間側って思ってたんだけど、。
女友達に騙されてたことに気づいたら、、心のタガがぶっとんで、
それまでの自分とは真逆の、行動に出たわけよ、。

五寸釘で、藁人形をコンコンするが如く、、
死んじゃえばいいのに、、憎たらしい、。って悪の心が、、
ドロンドロン、表に出てきてね、。

こいつが、私の本心、本性か、、?!
こんなに神様に背いてて、、心も汚くて、、
こんなんじゃ、天国は無理だわ、、と、、
地獄行きに諦めついた、。
地獄行くしかないわ、、、って、。

地獄に行くこと、それは、自業自得で仕方ないことだけど、、
地獄いくと、、神様とは一緒にいれないんだよね、。
神様と一緒にいたかった、。

もう、無理だけど、。
お父さんて呼べないね、。
こんな私にお父さんと呼ばれたくないよね、。
と、気づいたらね、。

涙が、溢れてきてね、。
バカなことしたな、、、って、思えて、
罪の重さも重くて、辛くて、悲しいしで、、
身心がぼろぼろになるまで、自分を責めた、。
馬鹿だった、、って、神様から離れちゃって、悲しいって。

ただただ、神様が、、欲しい、。一緒に居たかったって、
自分が神様という救いを必要だって、、
すごくすごく、思って、求めて、泣いてた、。

精神世界的、そこには私にとって苦しみしか無く、
私が創造した地獄が形成されてて、そのまま死んだら、、
リアル地獄に、そのまま移行してたわけよ、。

生きてた時の心の状態が、そのまま死後の世界の同じ思考レベル、
同じ愛レベルのところ、、に自分が死後に生きる世界になり、
そこに通ずる、。

簡単に言うと、生きてる間の自分の心のあり方と同等の世界に行くのよ、。
不安で、怖い怖いと思う人は、死んだ後も、そういう世界へ行く、。
幸せで感謝しかない、と思う人は、死んだ後も感謝と喜びの世界に行く、。
気に入らないから、といつも喧嘩腰の人は、死んだ後も、周り中が喧嘩腰の人がいる世界に行く、。
怒って感情丸出しで、、激怒ばかりしている人は、死んだ後も、掴み合い殴り合いの人がいる世界に行く、。

ようは、死んだら、、、生きている間と同様に、
類友の法則に従って、、自分の分身のような
似た者同士が、同じ世界に集まって、、人を変えては、
生きてた時と同じことを延々と繰り返す、。
それが、虚しいことだと、自ら気づくまで、、永遠にでも、。

自分の分身のようなもの同士、、
人は神様から命の核として同じ魂を戴いている、。
各自個性があるのは、霊の部分があるから、、。

霊の部分は生きてた間に出来た個性、自我がね、、あるのね、。
自分が、、、って思う想い、。
自分も、人も、魂は、同じもの、、。

自分の分身のようなものなんだから、、
人を殴れば、自分も痛いだけ。
自他の区別をしているうちは、、悟りの程度は低い、。

自分自身を憎み、罵るバカは居ない、。
自他の区別は、するだけ、アホって、分かるとね、。
感情論で、人に話をすることは減る、。

相手に必要だと思うから、言うまで、。
自分自身に義務や軛を負わせたくないからね、。
言うには言うけど、、、やめるのもやめないのも、
その人の表面意識の自我さんの選択の自由だから、、
ご自由に、、、ってなる、。

地獄と天国というかね、。
自分の心のあり方が、
そのまま自分の天国にもなるし、地獄にもなるの、。
どっちの概念も、、ぶっ壊すことが出来たら、、
釈迦と同じ、解脱組。

死んだら天国に行きたいと言いながら、
地獄に行くかも、、と人は恐れて思ってるし
このままじゃ地獄に行く、と言いながら、
なんとかして天国にいきたいと人は切望するものだし、。
地獄の沙汰も金次第と思ってるようなのは、地獄一択だし、。
地獄も天国も神も仏もいないと思ってるのも、地獄一択だし、。

天国も、地獄も、、人に、悪しきことを避けて
良いことをさせるための概念を生み出すための教え、。

天国も地獄も、、あそこにここに、在るという類のものではなくて、
自分の心から生み出す世界と呼応する世界へ行く、と言うだけの話。
だから、在るけど、ない、。無いけど在る、。

天国にいく、人にとっては最高の至福の世界、。
更に上の天国もあり、天国にも段階が在る、。
一番の至福は、、神様の御座所、
聖所の間近にいることが許されること、。

炎の壁、ケルビムの持つ炎に灼かれても、耐えたものだけが行ける世界、。
そんな義人、今の世に、、いるんだろうか、。
イエス様ご自身と、
きたるべき御方、再臨主イエス様だけは、素通り出来るのだろうな、。
顔パスで、。

其の火は、、最下層の地獄の火、ゲヘナの火、
炎の燃える池の炎と同じもの、。

自分が極悪人だと、痛感したら、、
自分の心が生み出した、最下層の、、地獄に心ごと落ちていく、。

別の時だったけど、。夢の中で、真っ逆さまになって
地面の下の方に落ちて行ってた、。
私は、地獄の最下層にまで落ちていった、。

他の人は誰も見ないで、よいようにされていた、。
私が怖気づかないようになのか、、鬼も悪魔も何も見なかった。
見た、、のは数人の門番らしき天使だけ、。
門をくぐったら、大きな炎が燃え立つ炎の池があった、。

自分で、その炎の池に飛び込んだら、、向こう側に、
父様のお姿をした、、自分の魂が居た、。
魂は、、神様から直に与えられし清きもの、、。
人の中にあっても、穢れなき部分、命の核、。

私の火の洗礼は、、それだった、。
罪が在ると認めるなら、その炎の池に、自分から飛び込め、と、
ハイと、即答して、飛び込みましたわ、。

飛び込む寸前に、今なら、まだ逃げれるぞ、って声がしたけど、
無視して、目をつぶって、眼の前の炎の池に飛び込んだ、。

目を開いてみたら、どこも灼かれても、怪我一つしてなかった、。

地獄に堕ちていく時、背中に翼が生えていて、黒く染まっていたけど、
白くなってた、。心の翼、の色だったのね、。
自分の心が視覚化して見えたのかな、、と、。

その炎の池の地獄に落ちる前に、
飛び込むときに、少し動揺したけど、、
神様の命令には絶対服従、、と思ってたから、。

飛び込むことへの苦痛は、ほとんどなかった、。
ほんとの死、霊的に死ぬのかな、それとも、
このままリアルな地獄に行くのかな、、くらいは
一瞬、思って動揺した、。

すでに、救いを得たあとで、、地獄に堕ちて当然と思っていたし、
当時は、子どもたちは、安全な環境にいたから、
私が居なくても生きていけると、判断して、命乞いはしなかった、。

私という自我の塊でしかない私は、このときに、
自分の魂に、完全に主権はお返しした、。
神様に従いますと、。
その証拠に、罪を認めて火の池に自ら飛び込みました、と、。

いまある私は、自我欲は無関係、。
自分であって、自分ではなく、、
一切合切、神様の言う通り、、としか思わない。

自分自身より、神様の方が大事、。
あんな苦しい世界から、、救って頂いたから、。
少しでも恩返しできたら、としか思わないもの、。
そのくらい、心の地獄は、、精神世界の地獄は、、
しんどかったってこと、。

地獄も、天国も、自分の心次第、、、。
このでの行いは、関係が、、、殆どない、。
常に、、自分の心がどうあるか、が、
自己の住まう精神世界を作り出すのだから、。

その精神世界が、、愛深き世界なら、天国に近づき、
愛が薄ければ、地獄へと近づく、、。
シンプル、。

ただし、ほとんどの場合、自分で、
その世界が天国とか地獄とか、明確に認識できることは稀、、、
自分で、居心地が良いと感じる世界、を、、
人は、、、天国のようには感じるから、
気づくまでは、自分では、、そこがどこなのか、、は、わからない、。

霊界の地獄の火は浄化の光なのよ、。
光が、、炎のように感じるだけで、、実体は、神様の光なの、。

地獄もね、天国と同じに、神様の光に溢れているけど、。
罪のせいで、業火に灼かれてるようにしか感じないのよ、。
自分が心を閉ざして、神様要らないと思っているから、、、
周りも闇が濃く、暗くしか見えないし、。

ホントは、光がある天国と同じところ、
同じ空間が、ある人には天国だけど
ある人にとっては地獄のようにしか思えない、。

天国も地獄も同じ場所同じ空間に在るのにね、。

罪があるかないか、、罪を自覚し悔いたかどうか、、
それだけの違い、。

罪、あります、、ごめんなさい。と深く悔いれば、
罪なき如くに扱われ、救いを得、、。
悔いなければ、罪ありのまま、救いは得られずじまい、、。

心底、悔いる、というのは簡単なようで難しい、。
ただの悔いではなく、自分自身に絶望するほどの
落胆後の、、悔いでないといけない、、。

自分が最低の人間ですって、、
自分で自分に判子押すのはね、。
しんどいの、。
すっごくしんどいの、。
心が圧縮されたように、、潰れるから、。


言葉は、方便でしかなく、、、。
自分の心のあり方こそが、大事、。

自分に良い部分があるなんて、傲慢な心が残ってるうちは、
真剣に、、神仏を必要とは、しない、。
自分で作り出した居心地の良い世界で、、安寧を求めて終わり。

極論すれば修行が好きな人なら、、
修行しまくる世界で、死後もご満悦で過ごす、。
堕落して当たり前の人は、同じ様に堕落が好きな人同士で、
色情欲や金銭欲、暴力による支配欲などを相互にぶつけあって
満足し合うのでしょう、。

それが、自分が一番居心地がいい世界だから、、
くすくす、。事実に気づかないって、、
幸せであり、、不幸でもあり、。

自ら過ちに気づくまで放置されるわけで、
神様の慈悲であり、厳罰ですが、。

人間は、、自分は地獄に行くしか無い、って、
がーっくり絶望して、やっと、神様の方を、、真剣になって向く、。 
神様、、あなたに従います、、あなたが必要です、
と、、へりくだれる、。

それまでは、、自分が、、と、
自分の思考、自分の行動、自分の言葉が、、、
世界一で、正しいと思って、
聖書の規範や、仏法の戒律を守ろうとすらしない、。

人が見えない裏では、心で、あかんべーしてるし、、
聖書や聖典と呼ばれるものに書かれてる
人間同士、これはしたらだめだよ、、ということを守らない、。

陰口、二枚舌、、名指し批判、
あざけり、、ののしり、誹謗中傷、。
自分が正しい側だと思ってるから、、してること、。

そう思ってる人の本心は、、
あの人よりも、この人よりも、
自分の方が上って思いから出てて、人を見下す思いから出てる、。

その人を見下すような想いを、、
間違いです、傲慢ですって自己反省する人は稀。
そういう小さな間違いを放置し続けて、
最後は、大きな広い門が在る地獄へと堕ちていく、。

小さくても、大きくても、
思考の間違いを犯せば、間違いで、それを放置し続けたら、
行いも間違うし、思考もずれていく、。

自分は正しいという温泉に、
どっぷり浸かったまま、人生を終わる、。

小さなことでも、自己反省して、
思考を真ん中、中庸のところに戻しておかないと、
どんどんと、ズレていく、。

思考のズレは、、小さなものでも放置するのは、恐ろしい、。
自己反省は、すごく大事な要素、。
悪く悪く自分を追い詰め過ぎず、
このくらいいいでしょ、と甘やかし過ぎず、真ん中思考でね、。

自分が正しいと、わずかでも、想うようなら、サタンの勝ち、。

自分はこう想う。他人が同調するかしないかは、自由、。
自分の思考が正しいかどうかは、神様の御裁可に委ねると
謙虚に思うことが大切、。

かりに、自分の思考が最善だと思ってても、
人にそれを押し付けたら、
それは、その人の選択の自由を奪うことになるからね、。
それはしたらいけないことだから、。

だから、、私は持論を人に押し付けないし、、
同意も求めてはいない、。
そりゃ、人間ですからぁ、、同意してもらえたら、
ありがとうと感謝はするけどね、。

ま、、人間が、全員同じ思考で一致すること自体が、難しいからね、。

昔は、イスラエルでは年配の長老が、
人の仲裁役をして、、ゴタゴタを収めた、。
それでも駄目な時は、祭司のもとへ行き、、定められた法で
裁定し調停した、。
祭司の裁定に、人は従った、。

イエス様の時は、ファリサイ人やサドカイ人らは、
言い逆らったりしてたけどね、。
イエス様は、、数える程度の数回だけ、
裁定をしてたわけじゃなく、何度も、数えきれないくらい
ファリサイ人らは、イエス様に裁定させて、

モーセの法に背いてないか、試して意地悪をしていた、。
聖書に記録されたものはごく一部、。
ファリサイ人らが、イエス様に裁定させても、
一般の民は、物を申していない、。

イエス様に人を裁定し調停する資格が無かったなら、
一般の民は、、イエス様は、レビでもアロンの血筋でもないのに
なぜ、裁可を下せるのか?と言い、イエス様の裁可に納得することも、
従うこともなかったでしょうね、。

神殿には、他のレビ人や祭司もいたわけだから、、なんで
そちらに行かないで、ユダのイエス様のところに行く?と
不満が出たはず、。

イエス様が、祭司ザカリアによる、肉的においては
大祭司のアロンの血筋だから、、

誰ひとり、ファリサイ人らが、イエス様に裁可を求めに行くことを、
おかしいと、いう人が居なかった、。

また、イエス様の母マリアは、ユダ族のヨアキムの一人娘で
ダビデの嗣業を相続する立場であったから
長男と同じ扱いを受け、御母マリアから生まれただけで、
マリアの子は、全員ダビデの子孫でユダ族となる、。

しかし、もとから、アロンの血筋の親族エリザベトが、
親族に居たのだし、アロンの妻のエリ・シェバは、ギリシャ語だと、
エリザベト、。誰かの妻と、同じ名前です、。

彼女は、ユダ族で、最初から、アロンの血筋とユダの血筋は、
血統の交差があり、、親しい血筋であるので、
イエス様は、ダビデの血筋とアロンの血筋をもとから持つけれど、
祭司ザカリアを通して、明確なアロンの血筋も受け継いでいた、。

現代は、、近所付き合いや、長老などのご意見番、、
人同士の仲裁役が出来る存在がおらず、
ごたつくね、。

自分が、と自分の意見をゴリ押しする年配者と、
嫌だと反発する年配者と、
そんなのどうでもいいから、、決まったら、
それに倣っとくよ、、の、、三つ巴になるからね、。

この世でさえ、我慢できない人が多くて、ごたついてるからね、。
自分の本心が、綺麗事無しで、ガラスのように、すべての人に
見えてわかってしまう霊界では、、どれだけ、ごたつくかしらね、。

だから、、無駄なことはやめないと駄目と、最短で分かるように、
自分と似た思考と行動と言葉を使う類友同士が、
切磋琢磨して、互いに学び合う地獄という部分が、、
今の現状では要なわけ、。

本来は、存在しない地獄だけどね、。
未熟な魂同士の修業の場として、存在してはいる、。


地獄話に花が咲いてるだけじゃ、暗いわ、、
面白くないわ、、、で、、つまんないだろうから、。

ひさしぶりに、、おまけのスピ話と、、
再臨主預言のことも、、書いておきます、。

今は、神様から遠く離れた、鉄時代で、、
古代の神様と心ともにあった黄金時代と比べたら、、
人間性は、、、堕ちている、。

何度も、栄枯盛衰を繰り返し、滅んでは、やり直して、
ソドムとゴモラを滅ぼした天からの火って、、
小規模の核爆弾並みのなにか、、でしょ、。

人は宇宙人と、よく思っているけど、、
リアル宇宙人は、肉体がない霊的存在だから、、宇宙『人』、とは言えない、。
シャンバラ、、アガルタ、、アルザルと呼ばれるプラズマ空間の世界は、、
地球の内部空間にあるし、物理的にいう太陽にも、
プラズマ空間でつながっている、。

古代の叡智はスフインクスとギザのピラミッドの中にあって、、
まだ見つかっていない、。

詳しい人は、、知ってるかもしれない、。
エイリアンバイブル、、というものを、、、

イメージ 1


それ、古代ヘブライ語で書かれた、未知の金属に書かれた旧約聖書、。
遺伝子的には、、地上で、一番彼らと近い遺伝子を持つのは、、日本人だとか、。
このマーク、、コンパスと、プロビデンスの目、、ですよね、。
フリーメーソンのマーク、
日本はセムメーソン、、。
イルミナティ、ロックフェラーと、、、メーソンは同根だけど、別組織、。

イルミナティは。。人為的にハルマゲドンを起こして、
一刻も早く神様の千年王国を、樹立して、ついでに
自分たちが支配しちゃおう、。って思考で、
目的達成のためなら、古代の封印された悪しきものまで、
呼び起こして使おうとするトンデモ思考、。

普通のメーソンは、そういうこと思考してない、。
古代の叡智は、すべての人が知るべきで、
人類は無知な状況から覚醒するべき、。
という感じで思ってる程度、。

同根だけど、基本思考が、まるで違うのよね、。
かといって、、表立っては争わない、。
一応、同族だから、。
人々の意識を覚醒させることで、
イルミナティの野望を阻止しようとしてる。

地上から消えた、10氏族の大半は、、
チベットから、アルザルに行って、、、
地上を監視するための八咫烏を、送り出している、。

彼らが、日本メーソンの中核。イルミナティと違い、
表舞台には、、出ない、。
 日本人の元になった一部の民は、彼らのもとへ行きつき、
一部は、、日本人の元となった、。

太陽には、エノクの神殿もある、。
それが、、この世の滅びのときに、、天から降る、、
天のエルサレム神殿、。

エズラ記
13:45 その地方を通り過ぎる道のりは長く、一年半に及んだ。その地方は、アルザルと呼ばれている。
13:46 彼らは、最近までそこに住んでいたのである。そして今、彼らは再び帰国の途につき、
13:47 いと高き方は彼らが渡れるようにと、川の流れを再びせき止められた。あなたが、平和のうちに集まった群衆を見たのはこのことだったのである。
13:48 しかしあなたの民の中で残されて、わたしの聖地に見いだされる人々も同様である。
13:49 そこでわたしの子は、集まった諸国の民の群れを滅ぼすとき、残された民を守る。
13:50 その時、彼は、おびただしい奇跡を彼らに示す。」

13:52 「海の深みに何があるかを、だれも調べたり、知ったりすることができないように、地上のだれも、その日まで、わたしの子や、彼と共にいる人々を見ることはできない。


これね、、再臨主預言だよね、。
わたしの子、、、とイエス様以外だと、再臨主しか、当てはまれない、。
滅びのとき、終わりのときに、現れる再臨主、。

再臨主と、共にある人々は、、、その時が来るまで、、
誰が、再臨主であるか、わからない、。
見ることすらできない、。

だから、、自称したら、アウトなのよね、。
某国の元教祖は、自称してたけどね、。
滅びの時、間際まで、だれにも 
わからないままのはずなんだから、。

それに、海の深み、、
周りを、全部、海に囲まれている国は、日本だしね、。
日本に、、失われたアークも、、ある、。
某国には、三種の神器というものは、存在すらしない、。

地上のものは、、地上に置いておくままのはずだから、。
無いのは、真っ赤な偽物、、、。
いい加減、B氏の親族や関係団体らに、
騙され利用されていることに気づこうねぇ、。

まだ、、日本人の作った新興宗教のほうが、、
お金を奪うためや、自由を奪われて、、
奴隷のような扱いを受けて殺されないです、。


マグダラのマリア

移転のお知らせ
コメントと記事が投稿できなくなる8月末までは、
こちらと、ここと両方に居ると想いますが、、
9月1日以降は、、お手数ですが、、
↓こちらの方においでください、。

☆マグダラのマリアの部屋☆ 



イメージ 1

関連記事

疑問が解けてないこと、まだまだ沢山、、、。

旧約聖書を見ると、、アルパクシャドの子、はシェラ、。
ルカによる福音書を読むと、、アルパクシャドの子、はカイナム。
なんで?ってなるでしょ?

1アダム、2 セト、3 エノシュ、4 ケナン、 5マハラルエル 、6 イエレド  、7エノク、8 メトシェラ、 9 レメク 、10ノア 、 11セム、12 アルパクシャド、 13 カイナム、14 シェラ、。

↑12代目アルパクシャドの子、はシェラなのに、
居ないはずのカイナム(アダムから4代目のケナンと同じ意味の名前)が13代目としてルカの系図に挿入された、。

ヨセフの例で考えてみて、、と、ヒント貰えて、、
とりあえず、シェラの子エベルで、聖句検索してみたら、、

創世記
10:21 セムにもまた子供が生まれた。彼はエベルのすべての子孫の先祖であり、ヤフェトの兄であった。

はぁ?
そりゃあ、ひいひいお爺ちゃんだから血が繋がってますけど、。
なんでアルパクシャドが出てこないで、
シェラの子のエベルの名前が出てくるの?間抜けすぎでしょ、。

なんで??と、、また、疑問が、、、
こんなややこしい聖句書いてあるから、、ややこしくなる。

ヤコブの子と系図には書かれたけど、
実際にはルベンの長子だったヨセフの故事のように、
シェラがカイナムの子なら、、。

カイナムとアルパクシャドの妻か側女とで、、
シェラが生まれたのなら、、カイナムは、
実父でも、アルパクシャドの妻から生まれた子のシェラは
アルパクシャドの子とされるので系図からカイナムの名前が省かれてもしょうがない、。

でも、真実を書くなら、
カイナムとアルパクシャドの妻から生まれたのがシェラでも、
カイナムはシェラの実父なわけだから系図に書くわけだし、。

カイナムが、系図に書かれたり抜かされたり、は、
シェラの実父が、、アルパクシャドではない、、ということ、
そういう事例があったと神様が、後世、わかるように、、
色々な系図を残すようにされた。。。と思考すれば辻褄合うけど、。

創世記
10:21b 彼はエベルのすべての子孫の先祖であり、ヤフェトの兄であった。

この聖句、、意味わからん、。
なんでここで、ひひまご、、のエベルが出てくるわけ、。
いつまでも、謎が、少しも減らないわ、、。しくしく、。

それと、最初、妻が一人なのは、
ノアから1代目のセム、ハム、やフェトだけで、
あとは早く子を作らないといけないので、
妻は複数人、居たと想います、。

娘や息子をもうけたと、記録にあるし、
沢山産んでるっぽいから、。

一人の妻に、一度に10人生んでとは言えないもの、。
当時は、、育児は手仕事、、食べ物集めも、水汲みも、
衣服を縫うのも、、パンの粉を作ることも、、作物の収穫、
洗濯も、全部、人の手でしないといけない、。

ノアの家族以外、、みんな洪水で滅び去ったわけで、
使用人も誰もいないわけだから、、、

アダムとエバのときと同じで、
家族で親子で助け合いながらになるから、。

栄養事情や、病気などで早くに成人前に
死んでしまうことも在るわけだから、
多くの子を生み育てる必要性があったから、
一人の夫に一人の妻じゃ、体力的に無理でしょう、。

洪水後は、ノアとノアの子である1代目は、、
それぞれの連れ合いだけで、
しょうがないとしても、彼らの子の、2代目以降は、、

1世代目が後から産んだ自分の他の兄弟の娘や息子もいるし、
自分たちが産んだ娘や息子が産んだ子も増えていくから、
イトコ同士、母違いの子同士で、娶れば良いので、
十数年後には、選択肢は増えたと想う、。

マグダラのマリア


悔い改めるから赦されるのだけど、、
赦されたいから、、悔い改めるのであって、。

先んじて、神様の赦しが、、存在しているから、、
自分の罪に気づいたときに、、人は悔いようとする、。

赦しが、、元から存在しないのなら、
悔いることはしないです、。

悔いて赦しを乞うべき相手が居ないのだからね、。
悔いようがない、。
人は、、何も聞かないうちから知らないうちから
神様が愛と赦しと裁きの権威を持つ御方だと知っている、。

だから、通常、罪を犯せば、罰が下ると想うし、悔いることもする、。
悪魔悪霊のそそのかしに乗って、、
このくらい良いだろう、、と罪に鈍感になっていくと、、
悔いることもしなくなるけれど、。

それは表面意識だけで、、
自己の魂は、肉体の死後、厳罰を自分自身に課す、。
神様に赦されて、赦しの実感、、
心の平安を与えられない内にこの世を去れば、、
人は天の国には行けないです、。

霊界で神様の御元に行くかどうかは 本人と本人の魂がが決めるからです。
罪が赦されていないと 自己の魂は自分で自分を裁き続けるので、、
修羅のような霊界、地獄にいきます。

そこが、、居心地がいいと想うから、、。
地獄を、、自分で、、望んで、自分で堕ちていく、。
神様が、地獄へ追い落とすわけじゃない、。

人をゆるせないで裁き続ける人というのは、、
赦しの実感がなく、自分の心に平安がなく、修羅の心だから、、
自分の荒れた心そのままに、、人を憎み批判し攻撃する、。

神様の、赦しと、恵みは、、言葉に形容し難いくらいに、、
ありがたく、、喜びがつきない幸せ感、。

罪が深ければ深いほど、、赦されたときの歓喜は大きく、、
神様に従いたいと想う気持ちは大きく強くなる、。
悪党ほど、善人に化けれる、。笑

罪の根っこは、イエス様に切り取られて、無いとみなされて、
イエス様なしで、、神様なしでは生きられない、。
神様に右、、と言われたら右に行くし、、
左と言われたら左に行きます、。

なんであれ、神様の言うとおり、。

イエス様は、、先に赦しなさい、、と御命令になっています、。
主の祈りから、。

わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

赦しましたように、、赦しました、と過去形なので、、
自分が赦されたいのならば、自分が先に人を赦さないといけません、。
自分が赦さないのなら、、悔いても何をしても赦されないのですから、、
自分が人の過ちを赦してのち、自分の犯した罪を悔いて、赦しを乞うのです、。

いくら悔い改めても、人を赦さず憎み裁いていたら、
自分の修羅の心そのままに地獄行きです、。

民数記
6:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、
6:3 ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ、干したものであれ食べてはならない。
6:4 ナジル人である期間中は、ぶどうの木からできるものはすべて、熟さない房も皮も食べてはならない。

ナジル人になると、、
なぜ、、葡萄酒、強いお酒を飲んではいけないのかな、。
葡萄酒は、神様に捧げる捧げ物でもあるのに、。

レビ記
10:8 主はアロンに仰せになった。
10:9 あなたであれ、あなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである。これは代々守るべき不変の定めである。

このレビの規定は、、ノアが、幕屋の中で、
三男のハムに葡萄酒を飲ませられたことの故事が起因してると思うけど、。

もし、ノアの時代に、すでに幕屋内で、
葡萄酒を飲んだら駄目という規定があったら、、
ノアは、いくらハムが葡萄酒を持ってきたとしても
幕屋内で葡萄酒を飲むことはしなかったと思うから、。
ノアの時代では、、このレビの規定は、なかったと思う、。

ハムは、強い葡萄酒に、強い媚薬マンドラゴラを入れて、
ノアを殺そうとしたのだった。

ノアが意識を失って混沌として倒れたままでいるのを見て、、
ハムは、父ノアが死んだと思って、ノアの祭司の衣服を剥ぎ取り、
自分が身につけて、、兄たちを呼びに行った、。

だから、ノアは幕屋の中で裸だった、。
大祭司は、至聖所では決められた祭服をまとって居ないといけない、。
それを着ないで、至聖所にはいったら、、死です、。

それと同じで、ノアが自分自身で酔って
祭服を脱いだのなら、ノア自身が処罰される、。
ノアが自分で脱いだのではなく、脱がされたから、、
祭服を脱がせたハムが、その罪と、父を殺そうとした罪の咎を負う、。

このハムが、父親のノアに葡萄酒を飲ませて幕屋内で罪を犯したことが、
大祭司が、至聖所に入る時、
強いお酒を飲んだらいけない、という規定のもとになったのかな、と思うけど、。

ナジル人に関しては、、なんでだろーーーーって
割と前から考えてます、。、
わかんないな、、、。

強い葡萄酒だけなら、、泥酔して不謹慎な行為を避けるため、、
で、納得行くけど、。
ぶどうの木からできるものはすべて、、、って徹底的に、
ぶどうが、禁止されてるから、
なんでだろーーーってなるのよね、。

あ、蛇足だけど、、
私、干しぶどう大好き、、レーズンパン美味しい、。

話を戻して、。マノアの妻のことで、、
士師記
13:3 主の御使いが彼女に現れて言った。「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。
13:4 今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気をつけよ。

ナジル人だけじゃなく、ナジル人を身ごもった場合、
母となる人も、ぶどうから作られたものを絶たないといけない、。

この聖句からしたら、バプテスマのヨハネの母、、
エリザベトも、ぶどうから取れたものを食べなかったのかな、。

ぶどうの木は、イエス様の象徴でもある、。
イエス様は、ぶどうの木には繋がりなさい、と仰った、。
ぶどうを食べなさいとは仰らなかった、。

取って食べなさいと仰ったのは、いのちのパン、。
飲みなさい、と仰ったのは、ぶどうから作られた葡萄酒、。
ぶどうは、、血の象徴、。

血を含んだものを食べることは律法で禁じられてるから、、、、
ナジル人になったら、、その期間、ぶどうから取ったものは
飲み食いしたら駄目なのだろうか、。

でも、、罪の清めは、、生贄の血で行う、。
イエス様の御血は、、贖いの血、
罪を清める血だから、、飲みなさい、、なのね、。

神様に捧げる酵母を使わずに焼く輪型のパンは、、
酵母は一種の腐敗だから、使うのは駄目なのかな、。

そういえば、なんで、丸いパンの形指定なのかな、。
太陽の象徴かしら、。日の丸みたいに、。

追記
罪がないと見なすための割礼は、男性の局部から血を流すことでアダムの犯した原罪を清めたとみなしたもの。
アダムとエバが、犯した原罪はサタンとの性的な罪が原因。だから彼らは腰を覆ったし、罪がないと見なすには男性の局部から血を流さないといけないことになった。

血を流すことで罪を清めてないとみなした。
儀式では人の血というものは
罪に汚れたものと言うこと、、。

原罪があるから人の血は、購いや清めにはならない。
だから生け贄には原罪がない動物を人の命の身代わりに神様に捧げて罪の赦しと人の命の命ごいをした。

人の血は、原罪で罪に汚れた血だから、
儀式では原罪のない動物を使い血を流した。
葡萄酒や葡萄は、人の血の象徴になってるものだから
ナジル人は、すべての汚れを避けないといけないので、単なる象徴といえども口にしてはいけないことになった。

イエス様は罪がない御方なので新しい葡萄酒、罪がない血筋。イエス様の神様の血筋に繋がることは汚れにはならないので、イエス様の御血である葡萄酒を、飲みなさい、、なのですね。

もし現代にナジル人がいても、イエス様に繋がっていたら、葡萄から作られたものでも食べてよいわけです。

葡萄は、健康に良い、まるで薬のような食べ物なんだとか。皮ごと食べることでガン予防、疲れ改善、お腹の善玉菌を増やしてくれる、スーパーフルーツ。
干し葡萄で、丸ごと食べるのがバッチリです。

ユダヤ教のナジル人は、現代でも、葡萄から作られたものは食べれません。干し葡萄美味しいのに可哀想ー。干しプルーンも身体に良いですねー。
干して甘味が強くなってますし食べやすい。



神様の元から生まれこの世に来るとき
私という存在が身体という器に吹き入れられて、
身体という魂の器は生きるものとなった。

人は魂だけで存在出来るけれど、肉体のみでは存在出来ない。
肉体という器から魂が離れたら肉体は、死んで塵に還る。
肉体だけでは、命は存続しない。
魂だけでは存続出来る。

人はもともと神様から与えられた霊、魂によって、
生かされ活きて、、老いていつかは死んでいく。
肉体という器を捨てて魂だけの本来の自分自身に戻る。

魂の中に生きていた間に得た想いや自分の心も内在し、
肉体の死後も、存続し継続していく。

幾度も新生輪廻をしても
一番最初の人として生きていた間の
血の繋がりの記憶と血の絆、、
愛し合う家族の絆は心の絆でもあり、
それは永遠の絆となる。

新生輪廻によって得る霊的家族は、霊的な絆。
心の絆が霊的絆だと思えば良い。

血の繋がりは、生きていた間、
同じ血肉を受け継いで生きた者同士の肉的な絆。
自己の先祖、血筋、血族としての、、
生きていた人としての想いの絆。

生きていた時の自己の血族、先祖と子孫であると、、
そう、、人としての想いで想って護り、
また導く者となって、、、

自己の先祖が生きている人、自己の子孫を護り導く。

それは生まれ変わりや前世ではなく、
新生輪廻によって合わさってきて
自己の先祖たちなどが経験を積みにきたり、
指導し助けることで自らを磨いている、。。

誰かを道b気助けるならば、どうせなら
自分が人として生きていたときと同じ血筋を持つ子孫を、、
護り導き共に学ぶ方が、良いからと、。

たまに徳の高い先祖が守り導き手となる場合もあるけれど、
ところが、、生きている人が、怠けていると、
この子孫からは何も学べない、、導いても無駄、、、と
自分よりランク下の先祖と交代する事が多い。

いくら子孫と先祖という血の絆があっても、
怠け者で、人らしい生き方をしてないと、
見限られて守っても助けても貰えない。

神様も、子孫だから、と助けてあげるように、とも仰ることはない。

カトリックだと煉獄という教理があって、
肉体の死後でも、必ずどこかで救われる、と説いている。
その救いの摂理は、詳しくは説明されてなかった。

天国と地獄と悪霊は聖書中にいても、
人の霊は死後どうなるか、は人にはわかりにくかったから。
ましてや人の霊は肉体の死後、娶ったり嫁いだりしないとの
イエス様の御言葉から、肉体を伴っての輪廻転生を信じて居ない、。

自分自身の肉体は持つことはないけれど、
悪霊同士が多く合わさって、独りの人の内に合わさって存在していたことを
聖書は証していて、彼らは、イエス様にレギオンだと答えた。

マルコ
5:9 そこで、イエス様が、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。

新生輪廻も、これと理屈は同じで、
新しく生まれてくる赤ちゃんの肉体と霊に、
死んでる人の霊が、自分の霊を赤ちゃんの霊にあわせて、、
あたかも、生きていた時のように、復活したがごとくに、
赤ちゃんの体験を自己の体験として共有できること、。

それは生きていた時に出来なかった、、したかったことを、
追体験できる、、。

生きていた時に結婚できなかった人は、
赤ちゃんが大きくなり人を愛して結婚する時に、、
相手の人に合わさっている同じような未婚のまま亡くなった霊がいたら、
その霊と自分の霊を合わせて、一対になることもできる、。

想いを一つにし人を愛する、という思いと、結婚を体感し、
そこで満足したら、神様の元へ帰ることもできるし、
育児も追体験したければ、自分の望むだけ、体験できて、、。

死んだら、そこで、体験できることが終わりではない、ということは、
永遠に生きる魂にとって安らぎと救いとなる、。

歩きたかった人は歩き、走り、、喜び、、
思う存分、間接的にとはいえ、体を動かす感覚を楽しみ、
満足できる、。

いろんな望みを、いろんな人に合わさって追体験することで、
思う存分享受できる、。
一度だけの人生では、満足出来なかったことを、、
追体験することで満足し足らない経験を補填できる、。

自分自身の肉体ではなく、主体者は新しく生まれる赤ちゃんであるので、
イエス様は、娶ったり嫁いだりしない、と、、
天使のようなものになるとおっしゃった、。

新生輪廻は、死ぬまで共に居るのではなく、
霊自身が赤ちゃんから離れることも居続けることも自由です、。

赤ちゃんが、性格や思考や言動が悪くなれば、居心地が悪いので、
先祖霊同様、合わさっている霊も神様のもとに逃げ帰って行きます、。

自分にプラスになる体験が出来ないなら、
無理に一緒に居る必要性はないからです、。

それと、神様のお許しがないと新生輪廻は出来ません、。
だから、地獄に居るような霊は、新生輪廻は出来ません、。

悪霊は、死んだのにも関わらず、神様のもとに帰らずに、
こちらに居座り続けてる者をいいます、。

地獄に行った者たちは、そこが地獄であると、
気づかないまま、地獄に行くのです、。

一部の霊を除いてですが、。
ほとんどの地獄霊は、そこが地獄とは思わず、
自分に取って快適だから、そこに行きます、。

だから、極論すると、地獄は在るけど、ない、、のです、。
堕ちた本人が地獄だと思ってはいないのだから、。

もし、私みたいに、霊界の仕組みも、少しは知ってて、
神様に従いますという誓いも破って、悪を行って、地獄に行ったら、
それは、それは、甚だしく苦しい場所としての地獄になるでしょうね、。

私の魂が、神樣への離反と罪を許しはしないだろうから、
天国に感じる、なんて温情を私に与えてはくれないでしょう、。

もちろん、今の私自身が、そういうことしたら、
そのように厳しく処されることを望みます。
今度こそ、二度と、神様に離反する気なんて永久に起こさなように、
徹底的に罰して下さい、とお願いをしたいくらいですから、。

地獄じゃどんな残酷な目にあっても、どうせ死なないのだから、、
重罪を犯しましたから罰を受けて、当たり前です、、とへりくだるまで、
凝りて魂の底から平服するまで、、痛い目を見たほうが
早く地獄から上がれるから良い、。

地獄に居る、と気づかないままだと、、本当に、
人の時で、永遠に近い時間、地獄にいないといけない、。
それだけは勘弁なので、、痛い目見て、、
神樣から離れたことを気づく方を私は選びたい、。

死んでも、神様から離れたくない、。永遠に離れたくない、。
離れるくらいなら、霊も、魂ごと滅びて存在自体を消え去りたい、。

全29ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事