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ある人が、聖書は創造の時から矛盾があるじゃん、。と仰ってました。

聖書では、2回創造の場面が書いてあって、
2回とも、違うことが書かれてるから、、
聖書は最初っから矛盾があっておかしい、。信じれない、。
とおっしゃるのですね、。

1度目の創世記一章での天地創造は、
天地、植物、動物、人、、の順番ですけど、、

2度目に書かれた二章の天地創造は、
天地、人、植物、動物、、の順ですから。

確かに違っているのですけど、。
これ、、、肉体的な物理的な創造と、
霊的な創造と2度の創造があったことを意味するので、
間違いではないのですね、。

1度めは、、物理的な肉の器の創造の順番、。
2度めは、器に霊の命を吹き入れて、
生きるものとする、霊的な創造をした順番。

天地は、、除いて、創造の順番が違っています、。

霊的な創造では、天使たち以外では、人はトップでの創造でした、。
肉体だけの命では、真に生きた者とはいえず、。
神様から霊の命をあたえられて、生きた生命になるんですね、。

神様は、、、霊の命を吹き入れるときは、、
まっさきに
人を創造なさってます、、。

どれだけ、人の肉体、霊の器が出来上がるのが、待ち遠しかったか、。
人が生きるものとなって、、木々や動物も、、生命を持つものとなって、。
すべての生命が、一つとなって調和した世界が生まれて、。

神様は、その世界をご覧になって、とても喜びました、。
人に、その世界のすべてを治めるように言いました、。

父さまは、天地創造の神様であって、、
全人類と万物の創造主、、
すべての人類の魂と被造物の霊の命の産みの親です、。

神様が、無償愛で、人を治めておられるように、、
神様の似姿に造られた人も、、無償愛によって、
被造物を愛し愛によって治めなければなりません。


マグダラのマリア

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エジプト人に売られたヨセフ、。

ヨセフの兄たちが、、飢饉で穀物をエジプトに買いにいくとき、、
エジプトの宰相となっていたヨセフと、話すときに通訳がいた、、と記録されている、、。

創世記
42:23 彼らはヨセフが聞いているのを知らなかった。ヨセフと兄弟たちの間に、通訳がいたからである。


ところが、、ヨセフが、エジプトに売られたとき、、
通訳を介して話したようなことは書かれていない、。

創世記
39:2 主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。
39:3 主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、
39:4 ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。


ヨセフは、ヤコブの後継ぎとして、聖書にくわしく書かれてはいなくても、
聖書に書かれてある規定以外にも、
近隣諸国の語学なども勉強していたのではないか、、と、。

士師記の士師たちの中でも、
敵国の王相手に、友好状態を保とうとし、
書簡を送っている者もいるし、、
語学などにも精通してないと、出来ないこと、。

当時は、イスラエル内では、ヘブライ語で、、だったと思うのですが、。
アラム語も共用語だったのではないか、、と思うのだけれど、。

大祭司は、ユダヤ民族の統治者、王とほぼ同等の働きをするものとして、
みなされて居た時期があったから、。

族長は、、祭儀を行い、神様に仕え、
自分の氏族を守り養う家長としての義務があるので、
大祭司と同様に、色々なことを幼いうちから学んだのではないか、、
と思うのです。

アッシリア帝国、バビロニア帝国が台頭すると、
帝国内の共通語として、、
アラム語を使用してたらしいし、。

イエス様の仰った、、
タリタ、クム、。
エフファタ、。
アッバ、。
エリ、エリ、ラマ サバクタニ、。

これらは、アラム語だと言われています、。

昔は、アラム語が、、国際商業語、、
今の英語のような感じ、、だったのではないかなぁ??

だから、イエス様が共用語として、話されてたアラム語を、
ヨセフの時代にも、ヨセフは勉強してて話せてたのかもしれない、。

ヨセフが通訳無しで、エジプト人と意思疎通が出来たのは、、
ヘブライ語以外も、幼い時から勉強してたからなんだろうな、、と
思いました、。



マリア




神様は、逢える逢えない、というより、、
感じ取るんです、。

神様は、、この世の始まりから、この世も含めてすべての世界に自存されておいでなので、。

目で見たり触れれる話せるようにして
逢えないと、その人と共に、、
神様が存在していないということではないです、。

神様と直に話せる人なんて、、
限りあるほんの少しの選ばれた人だけです、。

大体は、神様ご自身ではなく、
神様にお仕えする神霊とかです、。
それもピンきり、。

霊力ある人には、、悪霊も話しかけてくるから、
もし、それで、、浮かれて騙されたら、ほぼアウトだしね、。
霊力あると、、堕ちる確率も、、かなり上がる、。

この世は、、怖いのだ、。
驕り高ぶって、、油断すると、、簡単に転ぶから、。
特別な存在になりたい、、なんて思ってたら、、
簡単に悪霊の操り人形になっちゃう、。
怖いよ、。

クリスチャンは、、神様に遣わされた聖徒だから、、、
なんて思ってたら、、かなりの確率で、
死後、地獄と呼ばれる世界へ堕ちますから、。
くれぐれも、、、、ご用心下さいますように、。

聖徒、、、そんなものはいない、。
みんな罪人でしかないもの、。
自分が罪人だと、わかってる上で、、ダメだなぁ、。
ドジばかりだなぁ、、と思いながらでも、、
神様に従おうと努力するから、、
神様は、そういう罪人でも前向きに良くなろうとして、
地道に努力する心をご覧になって、良しと認めて下さるのであって、。

努力もしないで、、自分はクリスチャンだから、清いだの聖徒だの、
ふんぞり返ってたら、、父さま苦笑いしながら、、
じゃぁ、どれだけ自分勝手な自分で、清く生きれてないか、、、、
自分自身を見つめる修行しておいで、、と、、
死んでから、、言われちゃうわよぉ〜〜。

自分と同じような考えを持つ人同士のところに行かされて、。
自分自身と相対するのと同じ目にあうから、。

相手に対して、ここ直せばいいのに。、。と
不満を持つようではアウトで、、自分が、ここを直さなければ、、
と自己反省するまで、、そこに居ないと行けません、。

自分自身のあくどい部分を、
自分と似た考えの霊の人同士でぶつかりあうことで、
体験させられるわけで、。

そんな目に遭うくらいなら、どんなに辛くても、、
生きてる間に、自分の悪心を抉り出されて、悲鳴あげながらでも
自己反省した方がずっとマシだわ、。

死んでまで、、、そんな目には遭いたくない、。
生きてる間だけで、、、もう、、十分です、。

神様に逢いたい人は、、でした、。
神様は、、すべての人に、内在されているのです、。
魂という小さな神様の命の種を、、全員が持っているのです、。
だからね、。
生きてる人間が、、全て神様を宿してる器なんです、。

ただ、、器のレベルが、、ピンきりで、、
精神の成長の度合いによって、、良くも悪くもなる、。
良い人は、、どんどん良くなるし、、
堕ちる人はどんどん堕ちていく、。

良くなる人、堕ちない人は、、
どんなに人から褒めれれても、奢らない、。浮かれない、。
冷静に自分を見つめて、、自分を忘れない、。

すごいな、、と思う、。
私はまだまだです、。浮かれます、。
気づくと、、焦ってUターンしますけど、。

自分の考え至上主義、、は、、やばいです、。
自分ではなく、、自分以外の他者を、大事にすることが、、
愛の一歩なんです、。
いきなり他人から、は難しいので、
自分の家族を愛するように、、したほうが良い。と、。
私は、よく言っています、。

他人様の我儘な子は嫌いでも、自分の子は時折、我儘いわれようが、
可愛いと思うのが、、普通の親ですから、。

我が子も、、良く憎まれ口を叩きます、。
ババァ、、ババァと、、好きなこと言ってますけど、。

自分の子だからね、。
腹がたっても忘れるし、。何したら喜ぶかなぁ、。と
考えるほうが忙しいし、。

さば味噌食べたいと、言われたら、、、
作ったことないのに、ネットと、にらめっこして作りました、。
苦笑、。
美味しく作るのは、、難しいのよねぇ、。
少しでも、血が残ると、生臭い、と言われてしまって、。
次こそは、、という感じなんですけど、。
なんでも、、そうやって、、
自分の家族を、神様ご自身のように、、大事にして御覧なさい、。

家族円満になるから、。
自分のいうこと聞かそうとしたり、、
自分の思うように動かそうとして、これやって、あれして、、
というように命令するから、。仲良く出来なくなっていく、。

そういう思考をする人は、、家族にしているように、。
神様に対しても、、、あれして欲しい、これして欲しい、という、。
一事が万事、、だからね、。
自分の子や家族に仕えて、大事にする人は、、
神様にも、あれしてこれして、とは言わない、。

家族にありがとう、、といって大事にするように、、
神様も、大事に思い、、感謝する、。

自分の周りに、自分が、どのような行動をしているか、。
それが、神様へしているのと同じ行動だと思って差し支え無いです、。

イエス様は、自分がしてもらいたいと思うように人にしなさい、、と
仰ったでしょう?
自分が、神様に対してするように、周りを大事にしたら、、
相手も、大事にしてくれるものです、。

普段、自分の仕事先だから、
娘、絶対にスーパーの買い物付き合わないんだけど、。
足が痛くて、びっこ引いてた時、、息子がいないとき、
大変だから、、と手伝ってくれました、。

口は糞ババァ、うるせ〜と、言ってる娘ですけどね、。
何言われても、そうやって、、
私が、どうしても大変なときはちゃんと助けてくれるから、、
普段がどうでも、、気にならんのです、。苦笑、。
子どもたちが喜ぶことは何かな〜〜と考えてます、。

大好きな、おかず作るとか、、
好きな飲み物を作るとか、買ってくるとか、
食べたいと言ったものをすぐ作るとか、ネットで探して買うとか、。
できる範囲ですけどしてます、。

物だけ与えてもダメですけどね、。
会話とかして、、関わることが大切、。

ゲーセンで取った、電池入れると跳ねるカービィの縫いぐるみ、
娘が、得意満面な顔して、可愛いでしょ??と言ってきて、、
何年経っても、身体が大きくなっても、、
中身は、子供の頃と、、あまり変わらないなぁ、。と、。
思いました、。

親は、いつまでも親で、、、子供はいつまでも子供の意識でいる、。
でも、いつかは、、子供も、親になる時がきて、
親の心を身に着けていく、。
順送り、ですね、。



長文面倒な方は、、ここから下だけ読んで下さいね、。

親が子供に、、神様に仕えるようにして、大事にしたら、
それは神様に仕えているのと同じこと、。
誰でも、、自分の身の周りの人を介して、、神様と出会い、。
神様に仕えることが出来る、。

簡単そうで、、難しい、。
実践してみれば、、分かる、。
最も簡単で、、最も難しい、、、。
出来るようになるまでは、難しく、。
頑張っても出来ないと思う、。

でも、、出来るようになれば、、最も簡単、。
だって、当たり前のことだから、。

神様は、、身近な隣人の中に、、、家族の中に共にいます、。
ここに、あそこにいる、。
出逢える、出逢えない、というような
霊的な高い存在ばかりが、、神様のお姿ではないの、。
むしろ、神様だとは分からない家族の中にこそ、、
共にいらっしゃる。

神様は、、常に、人の身近においでなのです、。
神様を、、空にいる存在だけだと思うと、、
家族という仮のお姿の神様を、人でしかないと粗末にする、。

『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

マリア

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携挙がどうとか、、言ってますけど、。
死んだら、、いくらでも空飛べるので、、、、、。
生きてる間に、わざわざ空なんて飛ばなくてもいいんですけど、。

肉体ごと空飛ぶのは、、ちょっとね、。
短めのスカート履いてるときとか、パジャマのとき、、
そんなこと起きたら、、絶対ヤダけどね、。


第一テサロニケ
4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。


NET Bible
Then we who are alive, who are left, will be suddenly caught up together with them in the clouds to meet the Lord in the air. And so we will always be with the Lord.

空中と、訳されてるけど、。
air、、は、元の意味は空気、、なんだよね、。
空気中の雲の中の主と一緒になる、。
生きている、、が、、人としての生きているの意味のみであれば、、
携挙もあるかも、と考えても、まだ、いいかもだけど、。

実際、この聖句が書かれた時代の人たちは、、
もう全員、人としては亡くなってるんですよね、。
だから、この聖句の生きている私達、、は、
地上の人間には、当てはまらない、。

霊的に生きている霊となった私達、という思考なら、
まだ当てはまる、。

第一、世界中のクリスチャンのうちの半分が、
イエス様のたとえの通りに、
サタンの花嫁になって落ちて当てはまらないとしても、
相当数のクリスチャンが空飛ぶということになるわけで、。
空の交通網に、とても迷惑行為なのでは??

その前触れとして、。
イエス様に結ばれて(居ても肉体的には)死んだ人たちが、
まず最初に復活し、と書かれているのだから、

ここの聖句の生きている私達、、も、、
肉体的には死んで、霊的には生きている者、というのが妥当かと、。

イエス様につながり霊的に生きるものとなって、、
地上で、イエス様の再臨の時まで、救いの御業のために、
働いて、、天の門をくぐらないでいる霊の人たち、、。
聖書中で、神の霊と呼ばれる人たちが、、、
空中で再臨主と出会って、、再臨主とともに、人として合わさって、
新生輪廻をして生まれてきて再臨主をお助けする。というのなら、、
まだわかる、。

そもそも、、この世の空中は、、神様の御国ではないし、、、。
神様の御座は、霊界というこの世と合わさってはいても、
物理的な天空ではなく霊的な世界の上層部にあるので、。
この世の空を、、せっせと登って行っても、、
宇宙空間があるだけです、。

霊界というのは、、この世界がまるごと、、
どのくらい入るかわからないくらいに入る、、
ともかく、、果てがない、、見えない、、。
どこまで続く、、という感じの広大無辺な世界なので、、。

その広大無辺の世界の上層なんですから、、
人の持つ感覚の天というのは、、すごく小さい世界観なんですよ、。

地球規模で考えれば、天空は広いようだけど、、
全宇宙的感覚で考えれば狭い定義ということです、。

神様が、地球という小さな惑星の空だけに存在するような、、
小さなお方だと思ってたら、死んだらびっくりする事になります、。
霊界は、そのくらい、、桁違いに、、スケールが大きい、。

もし地球が、お米粒の大きさだとすると、、
霊界は、、この太陽系まるごと、とか銀河系まるごと位の大きさ、。
大きさが、、まるで違う、。

そりゃあね、。これから先、
生まれてくる全人類の、帰るための場所、故郷なんだから、。

ヨハネ
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。


この聖句の父の家、、を死後の世界、、
霊界だと思えば、わかりやすい、。
携挙は、、生きてる人間が、、ではなく、
霊的に生きてる人が、、イエス様と霊と霊、、魂と霊とで、
出会うこと、、霊的事象であると、私は考える、。

マリア


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レビ記
19:28 死者を悼んで身を傷つけたり、入れ墨をしてはならない。わたしは主である。


イスラエルの民の、特にレビ人への規定、。
でも、まぁ、、レビの女性は、跡取り娘でない限りは、レビではなく、
他の氏族へも、降嫁しているので、
建前上、父方の血筋ではレビではない氏族の人でも、レビの血筋を持つ人はいて、。

そういう人は、レビの規定も守らないといけなかった、。
入れ墨をしてはいけない、、のは、身体を傷つけるからです、。

神様に仕えるナジル人になってる人が、
髪の毛を伸ばして、カミソリで頭を剃ってはダメと言われたのは、
当時の刃物が、今のものと違い切れ味が悪いので、肌を傷つけるからです、。

肌に傷があると、傷があるものになってしまいます、。
神様に捧げるものは、傷がなく清いものでないといけないので、
身体に傷をつけないために、カミソリを使わない=髪の毛を伸ばす。
ということなのですね、。

この入れ墨も、同じです、。
入れ墨は、刺青とも書きます、。

肌を特殊な針や小刀で刺して傷をつけて、染料を皮膚の中に入れます、。
肌を傷つけるので、、
傷があるもの、穢れたもの、清くないもの。
ということにになってしまうので、入れ墨はしてはいけないのですね、。

江戸時代の時代劇に、よく出てくる、。
罪人となって、、島流しにされた人が、
二の腕に入れ墨されてるでしょう?

人目にさらされる額や、腕に、、
罪人となった証拠として入れ墨をしたんですね、。
消えない罪の刻印、、黥刑(げいけい)というそうです、、。
海外でも囚人の管理のために識別番号を入れ墨した時代があったようです、。

今は、芸能人などが入れ墨をしてる場合があって、、
入れ墨をタトゥと呼んで、ファッションのようにして
考えている若い人が多いようですが、、、
聖書的に考えると、してはいけないことなのです、。

MRI検査が出来なくなったり、
銭湯とかプール、サウナなど、をお断りされたり、
ランニングになったりする場合なら、
スポーツジムも、、断られるかもです、。

結婚しようと思った、相手の方の御両親に、、
反対される可能性もあるでしょう、。

入れ墨を入れるような人は、、
もし、虚勢癖などがあったりした場合、
就職が困難だったり就職できても、長続きしなかったり、、
ということがあるからです、。

ちなみに公務員である自衛官は、入れ墨があると、、
身体上の不具合として採用されないそうです、。
中国だったかな、兵役を逃れるために、わざと入れ墨をして、、
それがバレて、捕まったという話を読みました、。

入れ墨をする工程で、器具などが不衛生な場合、
肝炎に感染してなりやすい、。
で、、生命保険に入れないということもあるらしい、。

色々リスクあるし、、タトゥーを入れて、、3人に1人が、、
あとから消したいと思っているという統計もあるらしいし、。
入れるときよりも消す方が、時間も費用もかかるらしいです、。

おまけに、跡が残らないようにするのは、、技術的に無理なんだとか、。
若干、色を薄くはできても、、綺麗には消せないということのようです、。

入れ墨は、、日本の伝統技術とされているようですけど、。
入れ墨は消せないが、タトゥーは消せると考えている人もいるようですが、
消せないと考えたほうが賢明です、。

マリア


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