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書庫質疑応答の為の書庫

ここは、疑問や、質問を受けたり、答えたりする書庫です。


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第一コリント 11:5から

私的に、、これ難解な聖句です、。
第一コリント 
11:5 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
11:6 女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
11:7 男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。
11:8 というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、
11:9 男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
11:10 だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。

11:14‐15 男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。


祈ったり、預言したりする際に、、
これは、礼拝時のことであることが、わかる、。
礼拝時、、男は被り物をしない、。
逆に被ったら、恥。
女だけ、頭に被り物をする、。

既婚女性は、髪が短い、未婚女性は、髪が長い、。
髪が長い、、未婚女性のことを指して、
長い髪は女の誉れ、長い髪は、被り物の代わり、、と、言ってるので

被り物が必要なのは、
短い髪で、被り物をしてない状態の既婚女性ということになる。

既婚女性は、切りたくても切る髪があまりないのに、
更に短く髪を切りなさい、。剃りなさい、。
ぶっちゃけ、坊主頭にしなさい!と言われていることになる、。
礼拝時に頭にベールをしない既婚女性に向けて言ってる??

第一コリント 
11:16 この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。

そのような慣習というのは、、、、
既婚女性が、人前で、ベールを被らないこと、、
になりますが、、。

ユダヤ教では、、人前では、
既婚女性は、顔や髪を隠しているのが当たり前なので、
隠さないことが、、そういう習慣はない、、という事になります、。

言葉を補うと、、
(既婚の)女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。(既婚の)女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、(礼拝時に)頭に物をかぶるべき。
男は長い髪が恥であるのに対し、(未婚の)女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに(未婚の)女に与えられているのです。

未婚女性は、情欲を知らないけど、、
情欲、それは、、サタンと人とで作り出した
原罪を象徴する背きの罪ですけど
既婚女性は、、それに惑わされる事が多いから、。

既婚女性が、未婚女性と同じく、慎ましく、貞淑であることを
神様と、天使に向けて明かしする印が、ベール、被り物なのかな、。と、、
頭は、、生贄をささげる時、按手をする時など、、手を置いて、
霊的な権威の継承をする時などに、大きな役割があります、。、。

それで、頭をベールで守ること、が、重要なのかも、。
天使は、、神様を賛美し、人を助け導き、
また神様の御言葉を人に伝える役目がありますけど、。

>頭に力の印をかぶるべきです。
礼拝時に、ベールをかぶる理由は、、
霊的に神様のうちにあることを意味するのは解る、。

特に既婚女性が犯しやすい姦淫の罪を犯さないように、
頭に被り物をつけ、天使の護りを願い、
サタンを退けるために、、自分自身を覆うことなのかな、。と想ったけど、。

礼拝時、神様の守りの中にあるために被るべきベールを
頭に被らないで、未婚女性のように頭と顔を覆わない既婚女性が、
多く居て、、礼拝の場が、、出会いの場に成り下がって居たのかも知れない、。

この聖句のあとで、
あなたがたの集まりが、良い結果よりは、
むしろ悪い結果を招いているからです。
という聖句があるし、。

カツラがない時代の話だから、、女性が坊主頭にしたら、、
そりゃ、、見栄えは、、、、なので、、
素材が美人であってもデートする気が、、失せますわね、。

礼拝を守る心がけが、、、ふさわしくない人たちに、、
人前に恥ずかしくて出れないような姿でも来れるのか?
それでも、神様の御前で、浮気をするのか、、?と、
罪の糾弾をしていたのかもです、。

残るは、、天使たちのために、の一文、、。
そこ、わからない、。思いつくことさえない、
すごく、、難しい、。

イスラエルの現代の既婚女性は、髪を剃る。
外にでるときは、ウィッグを着用したりスカーフ等を巻いて、、
短い頭の髪を隠す、、。

肘や膝を隠す、鎖骨の露出、派手な色や模様、
ボディーラインのでる服の着用は禁止、
ズボンを穿かないこと、人前で素足にならない(ストッキング着用)、。

いろいろ、細かいですね、。

女性の髪についての聖句、集めてみました、。

申命記
21:10 あなたが敵に向かって出陣し、あなたの神、主が敵をあなたの手に渡され、捕虜を捕らえたとき、
21:11 その中に美しい女性がいて、心引かれ、妻にしようとするならば、
21:12 自分の家に連れて行きなさい。彼女は髪を下ろし、つめを切り、

未婚であれば、髪を結い上げておく、爪を伸ばしている、。
既婚になる場合は、髪を結い上げないで、下ろすか、おかっぱに切る、。

ユディト記
10:3 彼女は着けていた粗布を取り、喪服を脱いで水で身を清め、芳醇な香油を塗った。そして髪を整えて髪飾りを付け、夫マナセが生きていたときに着ていた晴れ着をまとった。
10:11 二人は谷をまっすぐに進んで行った。するとアッシリア人の前哨部隊にぶつかった。
10:12 彼らはユディトを捕らえて、「お前はどこの者か。どこから来て、どこへ行くのか」と尋問した。ユディトは答えた。「わたしはヘブライ人の娘です。ヘブライ人があなたがたの餌食にされそうでしたので逃げて来ました。

夫マナセが生きていたとき、とあるので、
ユディトは、結婚してたはずで、、
髪も寡婦でも既婚であるから短いはず、、。

でも、ヘブライ人の娘、と言ってるし、
髪を整えて髪飾りを付け、、ともあるので、、
髪が短くて結い上げれないようでは、、
髪飾りはつけられないし、
髪がおかっぱのように短くて下ろしてあると、
娘、、つまり未婚と言っても、
ベールで隠してても、すぐに嘘、既婚だとバレる。

ユディト記
13:16 わたしの歩む道を守ってくださった生ける主に誓って申します。わたしの容色は彼を魅了し、滅ぼしましたが、この身が汚され、辱められるようなことは決してありませんでした。
13:18 オジアは彼女に言った。「娘よ、あなたは地上のすべての女にまさって/いと高き神に祝福された者。天と地を造られた神なる主をほめたたえよう。主はあなたを導き、/敵の大将の首を討たせてくださった。

16:22 多くの男たちが彼女に思いを寄せたが、彼女は夫マナセが死んで民の一人として葬られて以来、その一生の間、だれ一人男に身を任せることはなかった。
16:23 彼女は夫の家を離れることなく多くの年月を重ね、百五歳の高齢となった。彼女は侍女を自由の身にした後、ベトリアで亡くなった。彼女は夫マナセの墓に葬られ、
16:24 イスラエルは七日間、彼女のため喪に服した。財産は、彼女が死ぬ前に、夫マナセの身寄りの者皆と自分の親族の身寄りの者に分け与えてあった。

もしかして、、ユディトは、夫を婚約中に亡くして、
結婚式は上げてなかった、、とかで、、
髪までは切っていなかったのではないかと、。

子が居たとも、書かれてないし、、、
これだけ相思相愛なら、それなりの夫婦生活があって
子が居なかったなら、、子が与えられなかったとか、、
不妊の女だったと、どこかにちらっと、
書かれてもおかしくなさそうだし、。

身を汚されなかったって、わざわざ公の場で言うのって、
乙女が言う言葉だと想うし、。
既婚して、喪失済なら、あえて、そこに触れないと想う、。

武勇伝だけ、引っさげて帰っただけで、、
誰も感謝しこそすれ、、
彼女が取った方法や、もし操を守れなかったとしても
状況が状況だから、犠牲となってくれたと、想うのが普通だし、。

オジアが娘よ、、とユディトに呼びかけているし、、
人々が、マナセの妻ユディトではなくメラリの娘ユディト、と讃えているし
婚約中に夫が亡くなって、実情は処女だったなら、、
娘、、なんですよね、。

他の複数の男性が、求婚してるし、、
ユディト、娘と言って通るくらい、若く美しかったのだし、
夫のマナセが、日射病で床に臥せって亡くなっているので、、

まだ、体力もそんなにはなかった事が見て取れるし、。
15歳位の、今の満年齢だと、13から14歳、中学生くらいの時に
幼馴染同士で、婚約したのだと、すれば、、子供が居ないのも、納得がいく、。

メラリは、、レビ族の名、、でも彼女はツリシャダイに繋がるから
シメオン族、、だから、母が、レビ族の出なのでしょうかね、。

ルカ 
7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

ヨハネ
11:2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。

ベタニアのマリアが、、マグダラのマリアで、、
イエス様の御足に涙をこぼし、髪で、それをぬぐって、
香油を塗った、。

マリアは、、イエス様の御足を髪で拭いたのだから、、
髪を結い上げてはおらず、下ろしていたことから、
婚約中だったこと、。
ちなみに、、ユダヤでは、婚約しただけでも、妻、既婚者とみなされる。
結婚式前だから、、髪を下ろしていても、
短く切っては居なかった、ということになる。

↓私的に、、これ難解な聖句です、。
第一コリント 
11:5 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
11:6 女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
11:7 男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。
11:8 というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、
11:9 男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
11:10 だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。

>女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。
礼拝時に、ベールをかぶる理由は、、
霊的に神様のうちにあることを意味するのは、
解るけど、、、
結婚する時も、花嫁はベールを被って、顔を覆う、。

スザンナ 旧約続編
1:31 スザンナはたおやかで見目麗しい婦人だった。
1:32 かの無法者どもは、彼女がベールをかぶっていたので、それを取るように命じた。彼女の美しさを堪能しようと考えたのである。
1:33 彼女の身内の者も、見ていた人たちも皆泣いた。

結婚後は、外出時にも、、ベールを被っていることから
既婚者が、人前で、素顔を晒すことは、恥だったのでしょう、。
顔をさらされる彼女のために、身内の人も、見ていた人も、
心を痛めて泣いたのだから、。

天使たちのために、、、の意味が、、
わからないです、。

なんで、、天使たち、、??

この記事で、1番言いたいこと、。
イスラエルでは、既婚であれば、昔はベールを被って、
身体も露出させず、長い衣を着ていて、
髪も下ろし結い上げていないので、
誰でも、、既婚者だと、ひと目で解るということです、。

だから、既婚者だと知りながら、
未婚や既婚の男性陣が、既婚女性に、、
言い寄ることは、姦淫罪となり、断罪されるわけです、。

顔をあらわにしている未婚の美しい女性を見て、
未婚の男性が、美しいと見とれても、結婚したいなぁ、、と想っても、
それは、生理的、本能的な感情なので罪にはならないということです、。

既婚男性が、側女としてでも、結婚したいと望んだならば、
正妻と、ほぼ、同等の権利と扱いを維持できるなら、
昔の、子孫を多く残す、、という一点において、
複数の妻を持つことは、古代イスラエルでは是とされていましたけど、。

本来は、、独りのアダムに、独りのエバ、で
神様が、、結び合わせる相手は、、1組だけで、、決まっているので、
この世の結婚とは、別の結びつきも、ある場合が、、、
稀には、あるようです、。

そういう場合は、、新生輪廻をして、
定められた時に、、出会えたら、、
生きている人を介して、、疑似結婚の体験をし、
2つの霊は、元通りの1つとなって、
神様のもとへ帰っていく、。

この世で、、結婚できなくても、
出会えなくても、、新生輪廻によって、
自分のアダム、エバ、、と、、永遠の時の、どこかで、
巡り合うことが、赦されて、

必ず、総ての人は、
自分だけを愛して大切にしてくれる人と、、1つになれる、。
この救いの摂理は、、なんと、、ありがたいことでしょう、。

たった一回の人生で、、大当たりクジを引けて、
心一つになって、、神様の元へ、、
喜び帰れる人たちもいるけど、、羨ましい、。

多くの場合、この世で上手く行かずに、
再チャレンジ、、、のパターンが多いのでは、。
私自身もバツイチですし、。
まぁ、私は、まだ、、生きていますけどね、。

生きてる間に、、誰かを愛する気持ちを、経験しておかないと、
死んでからだと、新生輪廻が出来るようになっても、
人を愛せないような人としか、波長が合わないので、。

向上速度も、かなり、遅くなりますから、。
人や家族を愛し大切にする経験は、、
生きている間に、より多く積んで置いたほうが良いです、。

類友の法則は、、肉体の死後も続くのです、。
自分と似た、同じ思考の人間同士としか居れれないので、
自分が間違っていることに、中々気づけ無いという状況になります、。
そういう人には、、天国は、、はてしなく遠いのです、。

この記事、ちと、難しくて、丸2日かかってしまった。
天使、、のため、の謎も出るし、、はぁ、
聖書は、、奥が深い、。

心の架け橋。

コメント欄でお答えしたけど、。
教会の牧師だとて、、礼拝対象、。
つまりは、、神様の位置に置いてはいけないのね、。
偶像礼拝になる、。

私は、、、神様の御命令で、このブログを開いたけど、。
それを、信じても、、良いし、。
信じなくても、良い、。
強制するつもりはないし、それは、禁止事項。

それに、私は、、人でしか無い、。

それにイエス様から罪を赦されたとは言え、大罪人ですし、。
崇敬や礼拝対象に、されても、、
それは、、、躓くもとになりましょう、。

牧師同様、、私のことも礼拝してはだめです、。

神様とイエス様のみを、
見上げて、心をつなげましょう、。

人につけば、躓くのが、オチ、。
神さまに直に、、心がつながれば、、
躓くことは、ないのだから、。

ただし、私が書いてる聖書のことだけは、
ウソではなく、イエス様と、
神様からお聞きしたことを、、、私の言葉に直し、
分かりやすいように噛み砕いて文にしています、。

父さま、この場を借りて、告白し、
記録として残しておきます。

ある方のことに関しては、、
ひとえに、私の、、不徳ゆえでございます、。

私が、納得させられるだけのものを、
何も持ち得なかったばかりに、、、
申し訳ございません、。

何も、、申し開くことはありません、。
どうぞ、幾重にでも御処罰下さい、。
私の責任ですから、、なんなりと、ご存分に、、。

祝福を多く与えられている身ですから、、
多く実を結ぶことを求められても、、当たり前です、。
父さま、私はどうなろうと、良いです、。
どうか、、その、、ある方を、お守り下さい、、。


御父は、人に自由意志と、
選択の自由をお与えになったから、
これが正しく、これは間違い、と
人に押し付けることは出来ない、。

各自の魂で、、
真偽を感じ取って貰うしか無い、。

こういうことが、、起こる時、、
いつも、思ってしまう、。
もっと、視る力があれば、、と、、。

過去の私が、あったのだから、、、
今の私に、、素養が薄い、と、、
いうことはないと想うけど、。

ちょっと、自分の身体を、
ちょっと、寝てないで、もう少し起きて、、、
と、つついてます、。

そういう力は、目覚めて起きないほうが良いと、
お友達は、、言ってたけど、、
自衛のためにも、もう少しだけで良いから敏感になりたい、。

言葉を使って、邪悪なものから護るための力を、
祈りに乗せて飛ばすことは出来るけど、、

それは、心が繋がれてる相手や、、
私に向けて悪意や害意ある対象に、、、対してだけ、。
誰にでも、、ではないの、。

相手が、私に対し、愛か憎しみで、
心の架け橋がある場合限定、。

この世で、最も強い感情は、愛と憎しみ。
人に、愛を持てば、人の心を癒やし、助けれる、。
人に憎しみを持ち、呪詛すれば、自分が地に落ちる、。
見た目、愛があるようでも、心に悪意あれば、、地に落ちる、。
見た目、言葉に棘があろうと、心に善意や愛があれば、罪とはならない、。

人の目で見ての判定は、難しい、。
だから、実らせる実で判断しなさい、。と、
イエス様は、仰った、。
良い物を入れた蔵からは、良いものが出せる、、と、。

想いの架け橋、、心と心をつなぐ絆、。

神様も同じ、、いつも想いの架け橋を
神様につなげていたらサタンも、手が出せない、。

必ず、、何かしようと、、、
動こうとする時は、、祈りましょう、。
まず、、父さまに、祈りお聞きすること。

真剣に祈るなら、、神様は、、お答えくださいます、。
悪魔は、祈らなくなって、神様から心離れた、、
ほんの小さなスキを、ついて来ますよ、。

暇があったら、賛美し祈るくらいで、ちょうどよい、。
私は、、食事を作りながら、、賛美します、。
多いのは、、。この2曲、。

飼い主、我主よ、迷う我らを、、、♪
主我を、愛す、、♪











クリスマス時期は、。





御父よ、。
地に伏して、乞い願わくば、、、
すべての、、、あなたの羊に、、、、
導きと守りと、平安と、祝福を祈り願います、。

神様、あなたからだけは、、
心離れずに済みますように、、、。

ユダヤ人には、、白人などが改宗したアシュケナージユダヤ人と、
カナンの地に住んでいたユダヤ人と、2種類のユダヤ人がいます、。
カナンの地に落ち着くまでは寄留の民であり、
カナンの地に住んでからも、
その後、国が、滅び追われたりして、、
安住の地をなかなか得れなかったイスラエルの民です。

聖絶は、、私は、とても疑問に想っていたことでした、。
愛を、イエス様によって語られた神様が、、
そのように命令するのは、納得がいかない、、ことだと、。

前にも書いたけれど、どのようなプロセスで聖絶物語が
聖書に組み入れられたのか、、
また、そのような内容が生み出されたか、、とても謎でした。

まず、、カナンの地に住んでいたユダヤ人が、
識字率5%、、と言ってた人がいたが、、
それは違う、ユダヤに関しては他の民族とは違う、。

ユダヤ人の伝統として、、
夜、母親が幼い子供に聖書の話を読んで聞かせて教えていた。
それは 現代の母親が子供に絵本を読んで聞かせているようなこと。
幼いときから子供は、母によって教育されていた。

だから、、識字率5%というのは、、ユダヤ人には、あり得ない、。

この子供の頃からの今で言う英才教育の継続で、
子供は自分でも聖書を読んで覚え学ぶ、 
12歳までに聖書をほぼ暗記できるためには、、
そうした幼児教育がなかったら難しい。

ユダヤ人は、パルミツバで成人し、大人の仲間入りをする。
その時、今で言う旧約聖書を、すべて覚えていないと、
会衆にも入れない。

旧約の聖絶物語について、、、。
上で書いたように母親が子供に、
今で言うと、あたかも 絵本を読むように、子供に教えるときのお話は、
神様に逆らったり 悪い事をしたら酷い目に会う、。
滅ぼされる、、というような厳しい内容の、、
いわば、聖絶のような、、お話だったかもしれない。

でもその内容には 後世に読む大人のために重要な事も、
ちりばめられていた。
神樣への従順による祝福、、恵み、。
逆に、不信仰、不従順による刑罰なども、、含まれていた、。

子供には 神様は怖いところもあるんだよ、。
だから、、背いたらいけない、、と教えるためのもの。
だから歴史の事実が、、聖絶が行われす、皆殺しをしてなくても良い。

聖絶が、子供を戒めるためのお話で、、架空の寓話であってもいいのです。

実際は、皆殺しで聖絶ではなくても、
わざと、、そのように伝承を伝え、子供に教え戒めることで、
自分たちは神様に選ばれた民だから、、
神様には従順に、逆らわないように、、、と、、
子供たちを長い世代をかけて教育をしたということでも、間違いではない、、。

テレビも絵本も無い時代です、。
夜眠る前に、母親から読んでもらえる聖書のお話に、
子供は ウキウキ 、ワクワク、、ドキドキ。
今日は、、どんなお話だろう、。と、
子供たちは、、毎晩、楽しみにして聴いていたでしょう、。

子供は、チャンバラごっこ、戦争ごっこ、鬼ごっこ、缶けりなど、、
勝ち負け、敵味方がある遊びが好きです、。
現代では、、ゲームで、自分が勇者となり、好みの仲間を引き連れて
モンスターを倒す、ゲームなどで遊んでいますけども、。

私もドラクエ11、、遊んだりしてます、。
ドラクエ124568、、と、DSなどで、遊んでましたので、
好きなんでしょうねぇ、、。
今は、あまりドラクエで遊ぶ時間が無いのですけど、。

自分が勇者になって、戦うのは、面白いので、ワクワクします、。

それと同じ感覚で、聖書の聖絶などのお話は、、、
いつ、戦争が実際に起きてもおかしくない時代でのお話、、
リアル描写の戦争のお話ですから、、
血沸き肉躍るお話に、、子供には聞こえたでしょうし、。

子供は、熱心に聞き入って、、
最後は、神様の勝利を聴いて、安堵して、眠る、。

ユダヤでは 実生活の中に有る聖書だから、そうなる。
母親たちが実際に手にしていた聖書は、、部分部分の
写本のような、口伝的な物語、、、、
粗末な紙か何かに書きうつされたものであったと想います。 

当時は、聖書は、すべて手書き、、身分の高い人でもないと
持ってはいない、。

でも、シナゴーグでいけば、聖書は置かれていて、
毎日のように、ラビなどがいて、聖書の話を教えていたし
実際に聖書を見たり、読むこともできた、。

だから、識字率は、、そんなに低くはない。
ほぼすべての人が、文字が読めたでしょう、。

イエス様が、屈んで、地面に文字を書いた事が聖書に記録されている、。
書いた文字を読ませた相手は、、姦淫の罪を犯した女性に、、です、。
識字率が低かったなら、イエス様は、そんなことはなさらなかったでしょう、。

文字を地面に書いても、読めない人の方が多かったなら、、
読めないかもしれないのですから。
読めるのが当たり前だったから、イエス様は地面に文字を書いたのです、。

母親たちが使ってたであろう、写本のような、口伝的な物語は、、
祖母から、母へ母から娘へ、と幾世代も継承され、、、
大切に保持されてきたものでしょう、。

後年、正式な聖書編纂の時、それらの口伝物語は、、
少し難しい記述形で聖書に入れられた。 
聖絶物語として、。

旧約聖書はユダヤ人を第一義に対象とした御言葉です、
そのユダヤ人には子供もいるし大人もいる。
子供には、、神様に背いたら、絶対に駄目、、滅ぼされるから、くらいに
インパクトの強い話が、教訓話として必要だったのでしょう、。

日本にも、かちかち山とか、いなばの白ウサギ、、ももたろう、。
はなさかじいさん、など悪を戒めるための、
少々残酷なお話があります、。

今は、だいぶ、柔らかくなって、殺したりせず、
謝らせて終わりにしてますけど、
殺される、とか、地獄に堕ちる、くらいで、ちょうど良かった気がします、。  

謝ったんだから、いいじゃないか、、という
風潮が多くなっているようですし、。

子供はつまんない話は聞きません、。
最後は自分が居る側が、勝って、、
めでたしめでたしでないと不安になるし、
敵に勝てないかもという不安を子供のうちから
完全払拭するためにも、

イスラエルは勝利側で、
圧倒的優勢側であるべきでしょう。
いわば刷り込み学習です。
神の民イスラエルは負けないという。

その子供から大人まで網羅する
イスラエルの読み聞かせ絵本みたいなものが
聖絶物語であると思っています。

神様が聖絶という事をなさらない御方であると
私は思っています。

敵であっても女子供は生かすことを、
命じられてる神様です。

矛盾点があるのはおかしいし、
矛盾点があるとするなら、
人側の事情であると思うからです。

神様が、私のような極悪人でも
赦された御方であるのに昔だからといって、
一つの民を絶滅させることは、納得が行かないのです。

飢餓状態でもないのに、
食人行為をしてるとか、であれば、
聖絶は、あるかもしれませんが、、

ただ単に偶像礼拝をしてただけで、
そこまでするのか、、と、、
疑問に思ってしまいます。

桃太郎だって鬼が島に乗り込んで、
多勢に無勢で鬼に負けるのではなく、
正義の味方の桃太郎と3匹のお供の大勝利です。

エデンのりんごは、日本だと桃です。
神様の力が宿る食べ物。
その桃から生まれた桃太郎は、神様の子なんです。
だからひとりと三匹でも勝った。

ユダヤは大昔から 異邦の民、、
隣国の中で寄留して生きていましたから、
生活すること自体が 生易しい事ではなかったのです、。

井戸ひとつでも、自分で掘っても奪われたりもあって、
争いが起こるような環境です。

だから その厳しい生活状況に見合う、生き残るための、
訓話が、聖絶物語であったのだと思います。  
イエス様の御言葉に、その片鱗があります。

マタイ
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

敵は憎んで、殺しても良いと、、教えるのは当然だった、。
そうでもしなければ、生き残れない状況下であったということ、、。
そのために敵は憎んで滅ぼせ、という内容の訓話、
伝承された口伝があった、。

そう考えたら、聖絶の話が、、
史実でなかったとしても、当たり前ですね、。
ユダヤ人が生き残るための、訓話、伝承された口伝であり、
聖絶物語は、、神様の直の御命令では無かったのだから、、。

メシア、、イエス様が、、、現れ、
義の太陽が、、昇ったから、、

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

と、、新しい掟を、、イエス様は、人にお与えになりました、。
人を敵だと想うなかれ、、と、。

聖絶は、イエス様によって、もはや不要のものとされました、。
総ての人は、聖絶の対象とはならず、神様によって
生かされるべきものと、されました。

今は、神様を、聖絶の恐怖感を以て
見る必要はありません、。
聖絶自体、神様は願ってなどはいなかったのだから、。

ただ、ユダヤの民が生き残っていくには、敵は滅ぼせ、、と
そのくらい徹底して教育していないと、
放浪する中で、滅ぼされてしまう危険性の方が高かった、。

イエス様を、この世に送り出すまでは、、、、
イスラエルの民 彼らは、
なんとしても存続し続ける義務があった、。

イエス様が、お生まれになって、、
敵を憎む時代は、、終わったのです、。
憎んでも、人は変われない、。
人は、愛されることで、、変われるから、。

 マグダラのマリア

↓良かったら、、お読み下さい、。

御入会お待ち致しております、。
(現時点で、私含めて、8名の方が同意意思表示、
もしくは、入会の意思表示をされています。
同意の意思表示をされた方は、、、
入会の意思ありと、受け取っております。)
神様は、、目に見えない。
だから、、心や魂、、目に見えない部分で感じ取る、。

匂いや臭いを嗅いで、、
これは、◯◯の香りに似てる、
◯◯の臭いに似てる、、と自分の体験した、
香りや匂いに基づいて、判定をくだす、。

一口に洗濯の洗剤の匂いといっても、人それぞれ
好みの洗剤があって、思い浮かべる匂いは違う、。

猫のおしっこの臭い、うん◯の臭い、は、
どこの家飼い猫のでも、ほぼよく似てる。

獣臭だと、、、ニャンを飼ってる人は、
ニャンコの臭いだとわかる。
ワンを飼ってる人は、ワンコの臭いだとわかる、。

お布団をひだまりに干したあとのお日様の匂いも、、
ほぼ同じ、、おしっこの世界地図お布団でない限り、。

古代イスラエルの幕屋である
神社へいき、参拝するとき感じる、冷気のようなもの、。
張り詰めた空気は、、、どこでもではないけれど、
神霊が護るところは、似たものを感じる、。

そういうものを感じずとも、
緑色の木々、自然が多い、公園や神社は、、
何らかの事情がある人以外は、、、、
とても、心地よい気分になる。

みな、人工的に作り出したものは、、
体験により個人差が大きく出るのに、、。

自然物に関しては、似たようなことを感じたり思う、。
なぜだろうか、。

美しい自然を見て、、美しいと感じる感性は、
どこからくるのだろうか、。
可愛い子猫や、笑顔の赤ちゃんを見て、
愛らしいと思う気持ちは、どこからくるのだろうか、。。

心、、ですよね、。
なぜ、同じ様に感じるのか、。
それは人だから、。

歌手が歌うのを聞いて、気にいるか気に入らないか
決めるのは?心ですね、。
歌は、、目には見えないので、、聴いて、心を揺さぶられた
ものを、気に入って、自分でも歌ったり、好んで聴くわけで、。
心に感じる何かがあるから、、共感する、。

その何かを、人に、与えた御存在が神様、。

目には見えなくても、存在して、心に感じ取れるものは在る、。
目に見えないから無いと思い込むのは自由だけれど、。

魂や心を揺さぶる、音楽を聴いて虜になった人のように、
神様というご存在に対して、心揺さぶられた人は、
信仰を持つ、。

信仰がない人にとっては、、古臭くて、、、
ダサい音楽を聴いてるバカなやつとしか
思わないのだろうが、。

その、古くてダサい音楽の虜になる人は、、、
その音楽が、ウルトラ好きて聴いてるのだし、
手放そうとは死んでも思わないほど、古くから存在してる
貴重なもの、プレミアついてる貴重品なのだから、。

変わり者といわれても、かまわないわ、。
私達、信仰者の自由だもの、。

神は居ないと、言うのも、
心の病気だから信じてる気違いみたいに言うのも、
聖書の記述は事実じゃないから、信じるだけアホ、と言うのも、、
記事内容が、ウィキとは違うから無知とか、、言うのも、

一切無駄で、棄教もしませんし、余計なお世話です、。
批判のための批判や、哲学議論の相手する人いないですから、。

信仰関係なしの一般的な哲学ブログじゃないので、ここは、。
信仰ブログだから、、哲学目線で批判されても、、
話が噛み合わない、。

自分の信仰体験、私が体験した事実をもとに、書いてるだけなのに、、。
デタラメで、まともな哲学知識がない、、と言われてもねぇ、。
私は哲学的知識を私の神として礼拝し信じてるわけじゃないから、。

信仰自体がない、信仰体験もない人には、
神様のことは、意味不明で、わからん話なので、、
議論するだけ、、時間の無駄です、、。

神様を感じるのは、、心で、、です、。
知識や頭での理解とは違う、。

知識は、、最初の入口、。
知識を総動員して、神様はなんだ、と
調べたり考えたりしても、
頭だけの理解では、神様は、永遠にわからない、。

後期のウィトゲンシュタインは、
私的言語を批判していたからこそ
なおさら、実在論を措定せざるを得ず、、、
独我論とは決して調和しない方向性をもって相克し、、、

結果として
『論考』における「独我論と実在論の一致」という
自己の考えを放棄せざるをえなくなった。
「他者の私秘性」と「私」とは決して一致しない。
と、ウィトゲンシュタインは思考を転向せざるを得なかった。

ある人は、これを受けて、、

他人は「私が本当に言わんとすること」を、、
理解出来てはならない、という点が、、
本質的なのである。

これがウィトゲンシュタインの
思考活動を支えたものであると言っていた。

私からしたら、人の感じる自己の事実は人それぞれであるから、
人が人を100%の理解が出来る、という
現象的事実は一つしかない、という思考の方が理解しがたい、。

ある人が、、
「今、私に見えているもの、だけが、真に見えるものである」と語り、
それを聞いた他者が、その言葉を、同じ様に理解したつもりになったとしても、、
その理解したものは、、、、最初の人が見た瞬間の同じもの、同じ事象ではなく、
その他者に見えてるものだけ」に過ぎない、。

つまり、100%同じものが見えていることにはならない、。

ウィトゲンシュタインの言葉を崇敬する人が居た、。
その人にこう言いたい、。

人同士が同じものが見えない、感じれないのが当たり前ならば、
同じ思考ではないとして、批判するあなたは、何者なのか?と、

人の知識という思考での理解の限界は、、ある、。
矛盾が出来たときなと、それまでの
思索し思考した時間はなんだったのか、。

でも、心と魂は、神様について
なんの制約も限界もなく、
自由な思考と認識を持てる、。

神様は、、普遍な御方、永遠性がある御方で、
人のような矛盾もなければ、間違いもない、。

信仰の道を歩いてから、、心は神様に向かい
大きく広がっていき、アンテナを立て始めて、

神様を感じ取ろうとして、、、
神様の香り、、神様の想い、、神様の美しさ、、
神様の御心を、慕い、探し求めるのだから、。
歩いてみないとわからない道、。

道を歩いて、神様に対しての真剣さがあれば、
たとえ間違った神様への認識でも、心で感じた事実があるから
言葉に、人の心を動かす何かがあって、まがりなりにも、
人が来る、。

マグダラのマリア


お知らせ、。

神様の愛を慕う人の集まり、、、
天の愛教会、、
発足させたいと想います。

↑上記に御賛同する方、
出来ましたら、コメント欄で、
内緒でも良いので意思表示、宜しく、。

何人程度、同意が在るか把握したいのと、
いずれははハンネでの名簿とサイトが有ればリンクも、
まとめて紹介できれたら良いな、と想っていますので、。

入脱会規制なし、もちろん献金、
入会金みたいなもの永久になし、
天の愛教会は自由参加のネット上の集まりです。

なので、リアル情報は求めません。
ネット上のハンネのみ、出来ましたら、お知らせ下さい。
強制ではありません、。

発足主旨
心の繋がりを深めあい広げよう、、という主旨です、。
身近なネットのお友達を気遣い、助けたり、声掛けしたり
守ること等、出来そうなことからしてみましょう、。

現代は孤独な方も多くいます、。
思いやりを必要とする人はネットにもリアルにもいます、。

入会資格 
1 天地創造の神様を慕う方、
2 (キリスト教以外の他宗も含む)信仰心ある方、
3 固定の信仰は持ってなくてもリアルやネットで、
身の回りの人を大事に出来てる方、
の、、どれかに当てはまるのであれば、男女年齢制限無しです。

禁止行為(↑が出来てる方だから心配してませんが念の為。)
ネット上だからと、悪意を持って人を罵ること等、
神様の御意志に背く事。

声掛け人、及び取りまとめ役 当ブログ管理人。

天の愛教会を、みんなで作り上げませんか??
多くの人と、、心の絆、結び愛しましょう、。

教派、宗派、、他宗、信仰のあるなし関係なく、、
人が持つ、本来の温かさを、、心の想いを、
古き良き時代のように、、取り戻したいです、。

和気あいあいとした心の繋がる、、
思いやりも感じ取れる人の集まりになれますように、。
主イエス様、、集まりを祝し、
御中心にいらして、導き、お守り下さい、。


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