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書庫質疑応答の為の書庫

ここは、疑問や、質問を受けたり、答えたりする書庫です。


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再臨主のことに関して、書いて下さい。と
リクエストがありましたので、、、、
書いても良さそうなことだけ、。

再臨主の印、。

イザヤ書41:25bの

彼は日の昇るところからわたしの名を呼ぶ。は、、

黙示録の
16:12 第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、日の出る方角から来る王たちの道ができた。
につながり

再臨主イエス様は日出ずる国、日本に生まれるという解釈をしています、。

黙示録
白馬の騎手
19:11 そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。
19:12 その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
19:13 また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。
19:14 そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。
19:15 この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。
19:16 この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。

>正義をもって裁き
再臨主イエス様には正義の霊が共にあること、。
また人でもありながら、裁きの権威があることが分かります、。

>目は燃え盛る炎
炎は聖霊を指すので、、聖霊に充ちた御方で在ることが記録されています。

>頭には多くの王冠
人として、優秀ということでしょう、。
色々な分野で優秀な成績、優勝とかをなさる、、ということだと、。

>自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
誰にも、御自身が、再臨主だと、言わない、、ということと、誰にも、本名は、明かされない、。ということであるという認識で居ます。

>血に染まった衣を身にまとって
十字架にかかられた主イエス様の御霊が、
まとうようにして共にある、ということであると認識しています、。
つまりは、イエス様の御霊と一体となられていて、
イエス様の御記憶も共有されている御方ということです、。

この聖句があるので、白馬の騎手は、、再臨主を指す、、と
想ったのです、。

>神の言葉
言葉は、神であった、、のヨハネ福音書の御言葉と同じく、
再臨主イエス様は、人でありながら、
みいつの神様であるイエス様と霊を重ねれて、、、
霊的に一つなる御方で、人でありながら神様であるイエス様を、、この世に顕現なさる御方という認識で居ます、。

イエス様は、、完全愛によって、
愛なる神様、、御父なる神様を、この世に顕現なさいましたが、再臨主イエス様は、、2000年前のイエス様を、証し、顕現されるのでしょう、。

>天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。
再臨主イエス様には、天からの御使い、2000年前から今まで、主イエス様に付き従った多くの聖徒の霊、、
また、その聖徒の霊を自分の霊に重ねて身に宿したもの、、
多くの追随者と共に人としてお生まれになるということです。

>鋭い剣
これは、、御言葉の剣ですね、。
裁く言葉、赦す言葉、、憐れむ言葉、、です。

>鉄の杖
これは、多分、因果応報による、、
再臨主イエス様に言い逆らうとか、背くと、
リアル天罰が下る、、という認識で居ます、。

>ぶどう酒の搾り桶を踏む
>神の激しい怒り
再臨主イエス様は、、新しい葡萄酒を造り人に与え注ぐ、
新しい革袋を用意出来なければ、新しい葡萄酒を受け取ることは出来ない、。
それは、一部の人には、、裁きの言葉となり
神様の怒りが、その上に留まる、。

>この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
再臨主のしるしは、太ももに、、です、。
生まれつきの、あざがあるということです、。
後天的ではないもの、。

メルキゼデクも、偽典で、、
その身体には祭司の印があり、栄えある姿をしていたことから、その子供を洗って祭司の服を着せ、メルキセデクと名付けた。とあるし、
メルキゼデクは、とこしえの祭司で、、イエス様と、イエス様としてお生まれになる前の御子なる神様としてのイエス様とを指すのだけれど。

詩篇
110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」
110:2 主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。
110:3 あなたの民は進んであなたを迎える/聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ/曙の胎から若さの露があなたに降るとき。
110:4 主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」

我が主と、ダビデが呼びかけているのは自分の子孫であり、
メシアであるイエス様に、、です。
主の御言葉、と言う部分は、
神様の御言葉ということです、。

どちらも、主と訳されてるので、
ちょっと見?となりますが、。

新約聖書で、
「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
というイエス様の御言葉があるので、分かりますね、。

肉体的には、イエス様はダビデの子孫ですが、
肉の器に内在する霊は、、御子なる神様の御霊ですから神様です、。

左右どちらと、、書かれていないので、、
両足に印が在るのかもです、。

聖書では、右が正しい側なので、片方に在る場合は、右足、
人から見たら、向かって左、にあると、想っていますが、
どうでしょうね、、。

今、書いて大丈夫そうなのは、、
こんなところですかね、。

本当は、危惧していることがあり、
書きたいな、、と思うけど、。

ここで書いたら、、、そこそこ影響あるし、。
ここでは、、書けません、お許しが出るまでは、。

先に謝っておきます、。
父さま、もし、、、余計なことでしたら、ごめんなさい、。

不思議な事が、。
お気に入りのラピス玉、、ネックレスについてたのが
取れちゃって、ポーチに入れて置いたままだったんですけど、。
出してみたら、、一部に出てた白っぽさが消えて、青みが増して、
なんか、金粉のような柄も出てきてて、綺麗になってました、、。

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宝石も、、生きてるのねぇ、。
色が全体的に青く綺麗になって、
地球みたいになって、なんか嬉しいけど、。

まずは、、先に行為義認について、軽く触れておきます。

マルチン・ルターが宗教改革をした当時のローマ・カトリック教会の贖宥(しょくゆう)制度は、行為義認信仰の上に成り立っていました。

行為義認信仰、、
つまり善い行い
(悔い改め、徹夜の祈り、断食、施し、
献金、巡礼、十字軍への参加等)により
罪の償いをすることで、、、

罪が贖われて、義の状態となった、、
と認められるとされていた。
そして、、正しい人間(カトリック教会の教えに従う人)
には報償を与え、、
不正な人間(カトリック教会の教えに逆らう人)には
破門、処刑などの厳罰を与える、としていた、。

ルターにより宗教改革が行われ、、
ルターの掲げた信仰義認が正当な信仰であると認められたけれども
カトリックでは、信仰義認と行為銀の両方を行うことを信仰としている。

在位時期が異なる、二人の言葉を、ここに引用します、。

ローマ司教 クレメンス一世(紀元 30〜101年)の「コリントの信徒への手紙」

「・・・全能の神は、世の初めから全ての人を信仰によって義とされたのです。神に栄光がありますように。 アーメン

それで、兄弟の皆さん、私たちはどうしたら良いのでしょうか。善行をやめ、愛を放棄すべきなのでしょうか。いいえ、そのようなことが私たちの間に起こるのを、主が決しておゆるしになりませんように。むしろ、ありとあらゆる善行を献身的に、また熱心に行うべきです。・・・

神はこう言われたのです。「『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』神は人を創造された。男と女に創造された。」神はこれらすべてのものを完成されたとき、これらをよしとされ、祝福して仰せになりました。「産めよ、増えよ」ごらんなさい。
すべての正しい人は善い業で飾られ、主ご自身もよい業で自らを飾り、それをお喜びになったのです。このような模範にならって、私たちも神の意志をたゆまず果たすようにしましょう。全力を尽くして、義の実践に励むことにしましょう。



ローマ司教 ベネディクト十六世(1927〜)の講話
160回目の一般謁見演説 義認についてのパウロの宣教より抜粋

人は自分の行いによって自分を「義」とすることはできません。人が神の前で本当の意味で「義」とされるのは、ただ、神が、人を御子キリストと結びつけ、自らの「義」を与えることによります。そして人はこのキリストとの一致を、信仰を通して与えられます。その意味で聖パウロはわたしたちにこう語るのです。わたしたちを「義」とするのは、わたしたちの行いではなく、信仰です。

しかし、この信仰は、思想でも意見でも観念でもありません。信仰とは、主がわたしたちに与えてくださった、キリストとの交わりです。それゆえ、この交わりはいのちとなり、わたしたちをキリストに似た者とするのです。

また別の言い方をするなら、信仰は、それが真実で本物なら、愛となり、愛のわざとなります。信仰は愛のわざによって表されます。愛のわざ、愛のわざの実りを伴わなければ、真の意味での信仰とはいえません。それは死んだ信仰です。
  
それゆえわたしたちは前回の講話で二つの次元を見いだしました。一つは、救いを得るために、わたしたちのわざや行いは役に立たないという次元です。もう一つは、わたしたちは、霊の実を生む信仰によって「義」とされるという次元です。数世紀にわたってこの二つの次元が混同されたことによって、キリスト教の中に少なからぬ誤解が生まれました。このことと関連して重要なことがあります。

すなわち、聖パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、一方では、徹底的なしかたで、義認がわたしたちの行いによらないことを強調します。
しかし、同時に彼は、信仰と愛のわざの関係、信仰と行いの関係も強調します。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5・6)。

したがって、まず「肉のわざ」があります。「肉のわざ」とは、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝」(ガラテヤ5・19−21)などです。これらは皆、信仰に反する行いです。その一方で、聖霊のわざがあります。

聖霊のわざは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5・22)を促すことによって、キリスト教的生活を成長させます。これらは信仰から生まれる霊の実です。

この美徳のリストの初めには愛(アガペー)が挙げられ、終わりには節制が挙げられます。実際、霊は、父と子の愛であるがゆえに、その第一のたまものである愛(アガペー)をわたしたちの心に注ぎます(ローマ5・5参照)。愛(アガペー)を完全に表すには節制が必要です。

この父と子の愛は、わたしたちに達し、わたしたちの生活を根底から造り変えます。わたしはこのことを最初の回勅『神は愛』でも考察しました。信じる者が知っているとおり、互いに愛し合うことのうちに、神の愛とキリストの愛は聖霊によって受肉します。ガラテヤの信徒への手紙に戻りたいと思います。この手紙の中で聖パウロはいいます。

信じる者は、互いに重荷を担い合うことによって、愛のおきてを全うすることになります(ガラテヤ6・2参照)。キリストへの信仰のたまものによって義とされたわたしたちは、隣人に対するキリストの愛を生きるよう招かれています。

なぜなら、わたしたちは生涯の終わりに、この愛という基準によって裁かれるからです。実際、パウロはイエスご自身が述べたことを繰り返して述べているにすぎません。わたしたちはこのことを、先週の主日の福音で述べられた、最後の審判のたとえ(マタイ25・31−46参照)によって思い起こしました。

コリントの信徒への手紙一で、聖パウロは有名な愛の賛美を行います。いわゆる愛の賛歌です。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。・・・・愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず・・・・」(一コリント13・1、4−5)。キリスト教的な愛はわたしたちに多くのことを求めます。それはわたしたちに対するキリストの完全な愛から流れ出るものだからです。この愛はわたしたちを必要とし、受け入れ、抱き、支え、場合によって苦しめます。

なぜなら、この愛は、わたしたちが皆、自分のことだけ考えて、自分のために生きるのではなく、「自分たちのために死んで復活してくださったかたのために生きる」(二コリント5・15参照)ことを強いるからです。

キリストの愛によって、わたしたちは、キリストに結ばれて新しく創造された者となります(二コリント5・17参照)。こうしてわたしたちは、キリストの神秘的なからだである教会の一部となります。
  
このように考えると、パウロの宣教で中心的な意味をもつものとして第一に述べられた、行いによらない義認は、愛のうちに働く信仰と矛盾しません。むしろ、行いによらない義認は、わたしたちの信仰を霊に従う生活によって表すことを求めます。パウロの神学とヤコブの神学の間に根拠のない対立が見いだされることがしばしばあります。

ヤコブは手紙の中でこういうからです。「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ2・26)。実際はこうです。パウロが何よりも心がけたのは、キリストへの信仰が必要であり、またそれで十分なことを示すことでした。これに対してヤコブは、結果として生じる、信仰と行いの関係を強調しました(ヤコブ2・2−4参照)。

それゆえ、パウロにとってもヤコブにとっても、愛のうちに働く信仰は、キリストにおいて人を義とするたまものが無償で与えられたことをあかしします。聖パウロもフィリピのキリスト者に向けて述べるとおりです。

わたしたちは、キリストによって与えられる救いを「恐れおののきつつ」守り、あかししなければなりません。「あなたがたのうちに働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何ごとも、不平や理屈をいわずに行いなさい。そうすれば、・・・・いのちのことばをしっかり保つでしょう」(フィリピ2・12−14、16参照)。


大問題の爆弾言葉、を、しれっと
つい言っちゃった方のコメント、、。

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キリスト教会に行為義認があってはいけません。キリスト教およびキリスト信仰は信仰義認です。罪を告白して赦される=信仰です。
しかしながら、カルトの集まり、それがバーチャルでも、今も行為義認を教条とするところはあるでしょう。
ネットの卑弥呼のような有頂天教祖が、けらっと、そこに立っていたりすることは、あるわけです。

2018/9/10(月) 午後 6:36 st5402jp 返信する

A キリスト教会に行為義認があってはいけません。
ふーん、。いいのかなぁ、。
カトリックの教理が大間違いだって、、
カトリックに喧嘩売るの??

ひゅーぅ。勇気あるねぇ。
男が、、口から出しちゃったもんね。
行為義認するのは、キリスト教会じゃないって、。

まぁ、、お頑張りあそべ、。
相手にされないけどね、、、。

カトリックの中央協議会へのリンク貼ってあげるから、。
義認についての教理が、おかしいって、、
お問い合わせフォームから、言えば、。笑

ろくに、プロテスタントの教理のことも、、ましてや
カトリックの教理のことも、まるで知らないで、
いい加減な言葉を発するから、、間違うのよ、。

独自教義から離れて、
きちんと正統な教会の教理を学んでから人に言いなさい、。

ネットの卑弥呼のような有頂天教祖が、けらっと、そこに立っていたりすることは、あるわけです。

ほほう、、よほど、、『けらっ。』が頭にきたのねぇ、、。
瞬間湯沸かし器だこと、。

あらぁ、、カルト教祖から女王卑弥呼に、、
嫌味の格上げですかぁ、。
そりゃどうもありがとう、。けらっ。
ははは、、思考がぶっ飛んでて、、言うことが愉快だわぁ、。

承認する
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書いてあることが共通している。やはり、ヨシュアの成りすましのようだ。削除
st5402jp
 
2018/9/11(火) 午前 3:32
 返信する


A あなた、、人の文章、全部同じに見えるわけ、。
そりゃそうね、自分自身が大量に別アカウント作って、
他人のふりしてブログ作って記事書いてたら、、
他の人もしてるに違いない、、って考えるわけだ、。
疑心暗鬼おじいさんだこと、。

私は、、女なのっ!!
いーかげん何度、男性のヨシュアさんと、、
同一じゃないと言えばいいのかねぇ、。呆

ほらっ、、私の性別証明、出したる!
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あなたの医師免許はあるのよね、。
嘘じゃないならば、写真アップしたらどうです、。
どうせ廃業してるのだし、
アップしても弊害ないでしょ。

人に、嘘つきと言う前に、、、
自分のことを嘘じゃないと
ひとつくらい証明してみせたらどうなの?

まぁ全部ウソなんでしょうけど、。
なにせブログタイトルが、、ウソの国だもんねぇ、。
ウソの国の王様、かぁ、。寂しいねぇ、。
真実ゼロですかぁ?

知ったかぶって、、
カトリック批判してたら世話がないよねぇ、。

9月11日 7時33分追記
↓こんなこと言ってて、、、びっくり、。

>私はキリストから信仰に入ったので、キリストは?、 否定はされなくても学ぶことが多くても聖書の登場人物?、 ・・キリストは聖三位の中で最も人間に近いですから解釈も、 まあ様々だけど、受け取りやすい御方でもあります。
しかし、キリストも偶像です。
「私のキリスト」が必ずあると思います。

この方のカルト思考決定!

どこのクリスチャンが、
主イエス様を偶像だという??
有り得んでしょ、、。

マグダラのマリア


とある人が、このように言っていた、。
>私たちは、今、救われて原罪のない人として生きているわけではありません。私たちは、今も罪を犯します。したがって、キリストによって罪がなくなったという話には、決して同意できるものではないのですが、○ャローム氏は、十字架によって罪がなくなる話の全段階としてしか、創世記を受け取っていないようです。
 
私たちは、この地上にいる限り、原罪のない、恥じることのない生き方など出来ません。キリストによって罪がなくなるのではなく、キリストによって、信仰の義を与えられ、罪を赦される悔い改めの道が与えられたということです。

まず、、創世記のころの話をします、。
アダムとエバは、
創造された時点で、不完全で罪があったか?
神様は、完全で完全善なる御方なので、
アダムとエバには創造された時点では罪がありません、。

罪には、2種類の罪があります、。
アダムとエバが犯した背きの罪を原罪と呼び、
それは人の内に罪の因子、悪の種子となって、
彼らの子孫である私達、人が、罪を犯す要因となっています。

通常、人が犯す罪を自分で犯す罪を自罪、
または罪、咎と呼ぶことが多いです、。

つまり、自分では犯していない罪、
生まれながら持っている罪の因子のことを原罪と呼ぶのです。

原罪は、人が生まれながら持っている罪の因子なので、
人には、どうにもできません、。
それで、原罪から、人を救うメシアとして、
イエス様がおいでになられました、。

アダムとエバが罪を犯さずに完全なままでいたならば、
人には原罪がなく、救う必要性も無いので
イエス様は、わざわざ、人のお姿を取られて
お生まれにならないでも良かったのです、。

人間は不完全と、、彼は、よく言うけれど、
逆に思考してみれば良い、。
もし、 今の人が完全だったら原罪も無いので救いも必要ない、。
原罪ゆえに罪多く、また、不完全になった人間だからこそ、
原罪と、自分の犯した罪の赦しという救いが必要になっているのです。

人間始祖のアダムとエバが、もし生まれながらに罪を負って、
不完全なままで創造されていたというなら、、
どう頑張ろうと人の罪はなくならない、。

元々、人は罪なき人、無垢な者、完全なる者だったので、
不完全さがあっても、神様の原罪の救いを与えて頂くことで、
元の無原罪の状態になれる。

ただし、初代クリスチャンは
実際には罪の因子がないとみなされて、
無原罪とされているので、御言葉と聖霊とによって、
霊的新生をし、心と耳に霊的割礼を受けていないと、

神様の御心に沿う生き方ではなく、、
背く生き方をする人もいます、。

それで、イエス様は、
マタイ
7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

クリスチャンなら、主よ、キリスト、メシア、とか、
他には神はこういう方、、とか、
もっともらしいことを言いながら悪を行う人が、、
大勢出る、、とイエス様は仰っています、。

10人の乙女がいても、半分の5人しか
イエス様と共にいれなかったのですから、2人に1人は、
受洗してても悪魔(原罪、罪の因子)に繋がれたまま
罪を犯し続け、罪が赦されないまま残り続けるということです、。

二分の一の確率ですからね、、
常に気を引き締めて、
神様にも、人にもへりくだっていませんと、、
悪魔、悪霊側の人に対しては、
対応は変わることもありますが、。

イエス様の御名によって、悪霊を追い出し、
奇跡をいろいろ行ったのに、、
なんで?イエス様から離れなさいなの??
となる方もおいででしょうね、。

そういえば、↓ここの聖句、、
まだ記事にしてないかも、。

↑の聖句の意味が分かるように、
他の悪霊の追い出しに関する聖句を読みます、。
マルコ
9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。
9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。

この聖句によると、、
イエス様や神様に対し、背く思いや行為がなければ、
イエス様は、不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。
とは仰らないはずです、。

神様の御心に従い、イエス様に逆らわない者は、
イエス様の味方として遇されるのですから、。

悪霊を追い出し、奇跡をいろいろ行った、、の部分は
本当にそのような奇跡等を起こしたということではなく、
ようは人前では神様に従ってるふりをしているが、
裏では逆らっているという意味で、

口では綺麗事言いながら、
心では神様に、あかんべーしてたでしょ。
だから、(イエス様の)味方じゃないから知らない者だ、。
という意味なわけです、。

ここまでで、罪には
自分では犯してない罪の因子の原罪と
自分で犯す自罪の、2種類あることと、、、
神様とイエス様に罪がない、とみなして頂き、天国に入れて頂くには、
クリスチャンであるだけでは駄目ということがわかります、。

クリスチャンでも神様に背き従わないままでは駄目なのです、。
わたしの天の父の御心を行う者だけが天国に入る
とイエス様仰っておいでですから、。

神様の御心を行う、。
これ、一般的な信心なわけですが、、
ある程度大きくなった人なら、努力すれば出来ますね、。
これが、彼が言ってる信仰義認による救いなわけですが、、

これでしか罪の救いの道がないというのなら、
イエス様の十字架は、、不完全なものになります、。

なぜならば、不幸にして、
生まれたての赤ちゃんのままとか、お腹の中で
亡くなった私の子、優ちゃんのような子供は、
信仰という行為が出来ません。

幼子のまま亡くなってしまう子供たちも、、、
信仰は出来ません。
せいぜい親から教えられた通りに手を合わせて、、
祈りの真似事をする程度。
彼らには、信仰義認を適応できない、。

イエス様は、なぜ、人としての命だけではなく、
神様としての不死の命までも、
人のために捨てて捧げたのか、。

それは、信仰による義認が出来難い幼子らも赤ちゃんも
信仰義認がないままでも、イエス様の贖いにより
無垢に近いものと見なし、、
そのまま天に救い上げるためです、。

つまり十字架の原罪を無いとみなす恩恵を、、
最大限に受けれるのが、
幼くして逝くしかなかった子供たちです、。
彼らは限りなく無垢に近いから、。

霊界での天国でも上の方に行けて、
天使のような存在として、大切に扱われる。

また罪しか行えないような極悪人でも、
永遠に近い時間の中で、、
自分の罪に気づき悔いることで、
イエス様が、霊的死の世界、いわば地獄ですが、、
そこから蘇られたように、、、、、

どんな極悪人でも、、イエス様に真摯に悔いてすがるなら
地獄のどん底からでも、
イエス様から与えられる永遠の命の恩恵と原罪の赦しを受けて
活きたものとされる、。

イエス様の十字架は、
自分では犯していない罪の因子である原罪を赦すためのもの。
自分で犯した罪である自罪は、全自動では赦されない。
罪を認め悔いなければ、赦されずに残る、。

したがって、イエス様の十字架を、
無罪信仰と見ることは大きな間違い、。

信仰義認のみでしか救われないと、定義すると
救われないままの者(死んだ人の霊も含む)が多く存在したままになり、。

イエス様の十字架を不完全なものとし否定した以上、
神様が義とお認めになられた
アブラハムに相応するくらいの信仰を神様に立てなければ
義とは認められなくなるのだから、、

それは、神様の御声を聞けなくなった現代人には不可能でしかない。
つまり原罪の、、この世からの消滅は不可能となり、
永遠に人の罪は無くならない、そうなると
永遠に人の争いは無くならず 悲惨な戦争も永遠に続くことになる。
神様はそんな世界を望んではいない。

そのために 救いの摂理があるし、、
イエス様は、人が不信したために、人の身代わりとなって、
完全なる信仰を神様に立て、。
また、完全なる救いのために、
人としての命、神様としての不死の命、
そのすべての命をお捨てになられた、。

メシアの救い、、は、完全なるものです、。
それだからメシアなのです、。
不完全ならばメシアとは言えない、。

なので、イエス様の十字架を不全なものとする
思考は反キリスト思考となる。

生まれてこれずに逝くしかなかった命から、
極悪人の命に到るまで、、
すべての命が救いの御業に預かっている。

イエス様以前に生まれていた命も、、、
イエス様の十字架以後、イエス様のおかげで、
この神様の救いの摂理の恩恵にあずかれるようになった。

イエス様の十字架の救いは、
イエス様以後に生まれてくる者と当時生きてた者、
またすでに死者となっていた者も含めて原罪を赦し、
神様のもとへ導く、完全完璧な救い、。

イエス様の完全愛による、ありあまる赦しの恩恵は、、
人がいかに不完全であろうと、、
それを覆い超える救いがなされていく、。

ただし 何度もしつこく書くけど、
無条件で赦されるのは、、原罪のみ、。
自罪はその時々で、自分自身が認識し気づいたら
悔い改めが必要、、。

メシアの赦しは完全になされ、未来永劫、
それが人に保証され約束されている。

とある人は、、メシアであられる主イエス様を貶める
思考をしていることに気づくべきです、。

とある人は、、、
このようなことも書いていた、。

>キリストの十字架は人の罪の贖い
ということは、
聖書から学び教会で聞く。
だからといって
いつもそれを思い出して
あるいは唱えて
感動できるわけではなく
心の支えになるとも限らない。

クリスチャンが、イエス様の愛の業である
十字架の赦しに感動しない、、
心の支えにもならないって、、じゃ、何に感動する訳?
神様の愛に感動できなきゃ、、。
あぁ、、無感動ということですかね、。

それじゃ、心で愛が感じれないはずですね、。
お気の毒なことで、、。
人生つまんなそう、。

神様であるイエス様が心の支えにならないなら、
何を心の支えにしてますの?
自分?悪魔?悪霊?お金財産?プライド?

なんにしても、、神様と共にいないことだけは確か、、。
神様なしの自力で、どこまで頑張るやら、。
お疲れ様、。
 

>幽霊も悪魔も化け物も離れません
つきものだから
それらが人に取りつくのではありません
人がそれらに取りついているのです
そこから罪を犯し

愛するのです

>私が正しいと考えたことは
この世では悪と呼ばれ
無と見なされ
偽りと呼ばれるものであったらしい

その通り、。
ご自覚があって良かったです、。

悪魔と悪霊、化物などの憑き物つきだと、、。
悪と呼ばれ、、、。
正しいことも仰ってたのですね、。
まだ正気の部分があった頃ですが、。
病院に行き治療したほうが良いのでは、。

悪魔と悪霊、化物などは、思い切り、超常の類ですよね、。
あなたの論では、超常なのはカルトということでした、。
あなたは、自分自身で、御自分こそが
カルトだと言ってるようなものですね、。


神様を愛することは、。

神様をひたすら崇めていれば良いわけじゃない、。
神様の御霊を宿す人同士で、助け合い、。
祈りあい、支え合うことが出来ないと、いけない、。

人と、仲良く丸く収めようと自分なりに、
頑張って頑張って、謝っても、説明しても
受け入れて貰えず、仲良く出来なければ、
それは神様は、頑張ってると、
分かって下さるけど、。

全然、人と仲良くする努力をしないで、
すべて相手が悪いと、喧嘩腰で罵ってたら、
神様は良しとはされない、。

お前が悪いと、
罵ること、批判することは簡単、。
自分が1歩下がって勝ちを譲る、。
それで、円滑に人間関係がいくなら、
その方が良いでしょ、。

短気ジジィ、短気ババァ、と、
人から憎まれ陰口叩かれるより、。
我慢強いと思われた方が、
自分の評価が上がるというもの、。

人を大切に扱うことは、自分にも、良い報いが反る。
怒りに任せて憎しみをぶつけたら、気が短いとか、
喧嘩っ早いとか、我慢できないとか、
ひどい性格、、とか良くない評価しか貰えない、。

特に、忍耐強さを美徳とする日本ではそう、。
海外だと、自分の言うことを強く主張しないと
損ばかりするところもあって、
言ったもん勝ちみたいな所あるけど、、

でもね、、
この世で、自己主張ばかりして、
得が出来ても、人にすごいと褒められても、、
神様は、、人への愛がない行為や、思考は、
良しとはされない、。

自分を正当化して
正しいと言い張ることだけが、
正しいことだとするなら、
それじゃ永遠に誰とも仲良くなんて、、
出来やしない、。

自分が折れて、小さな我慢することも
人生では必要な知恵、。

21年間、、ほぼ会社の日は毎日、
相撲取りとか、横綱とか、、、
今より痩せてる時に、ガンガン言われてて、。

毎日めっちゃストレスためて、、、
よく、昼休みに近所の土手で、、、、、

クソバカ上司、仕事と体型関係ないだろー!
いつか辞めたるからぁな!なによー!
昼休み肩もめとか人のこと奴隷扱いしてんじゃない!って、
気合い入れて吠えてました、爆、。

さぞかし、土手を通る人は、私のしてた事を見て、
そこのねーちゃん、会社勤め、お疲れちゃん、、
と思ってたでしょうね、。

モンキースパナ、という工具で、頭ゴンって
殴って来られたときだけは、タンコブ出来たし、
マジギレして、今月末で辞めます!って上司に言ったら、

今日みんなで飲み屋に行くぞ、、と、、
辞められたくないので胡麻すって来ました、。苦笑、。
こちらも、辞めないで済めば、その方が良いので、もち
機嫌直して話に乗りました、。

でも、私はお酒飲めないから、
セロリの野菜炒めとジュースを、頼んで、
上司が全部奢ってくれました、。笑。

ちょっと下手くそな人間づきあいしか
出来ない人なんだなぁ、。と思って、。

私が気に入られてなければ、奢らないでしょうし、
飲みに誘いもしないでしょうし、
男性ばかりの職場で、女の社員は、私だけ、
あとは全員パートさん、。

昔は悪で、迷惑かけたから家では、
奥さんには頭が上がらなくて、
借りてきた猫してると、、言ってたから、。
色々とストレス溜まってたんでしょうね、。

朝一番に会社にきて、夜遅くまで働いてたから、。
だから、簡単に辞めない社員だから、
八つ当たりが出来るのは、
私だけだったんでしょう、。

そのリアル我慢の経験があるし、
神様からのお灸の辛さのほうがしんどいので、
大概のことは、我慢します、。
21年も、嫌味言い続ける人いないでしょ、。笑

人付き合いは、我慢、忍耐、和を好むことが基本、。
人を大切に扱うこと、我慢してでも、損してても、
それは、みんな神様が忘れずに覚えてくださってて、
良い報いとなって自分に反る。

見える人を大切に扱えてこそ、
見えない神様を、大切に扱えるし、、
日々の守りを感謝し賛美する想いも湧く、。

本当に神様を愛したいなら、、崇めるのではなく
目に見える人を大切にし愛することです、。
だから、イエス様は、あなたの隣人を愛しなさい、、と
お命じになりました、。

マグダラのマリア




ある人が、神学校に行ったわけでもなく、
聖書にも通じているわけでもないのに、、

すごい事を言ってて、びっくりしたの通り越して、
腹抱えて笑ってしまった、、、。
いやー、ほんと、、真面目に冗談きついわ、。

>旧約が不十分、というより、偽善に堕(だ)したから、
新約が、キリストによって、与えられたのです。

ようは、旧約聖書は、堕落の書だから、
要らないと言ってるわけ、。

旧約聖書には、虹の契約、
アブラハム契約などをはじめ、
人への10の戒め、、、祭司のレビ人への決まりごと
系図、神様御自身の言葉、

ダビデや多くの預言者の言葉など
大切なことが書かれている部分なのに、、
必要ないと豪語することは、神様の御言葉への拒否。

自分だけそう思うのなら、まだ、許容範囲だけど、
感じ方は、色々あるし自由だから、
でも、それを、人に押し付けるのは、なんでしょね、。

結局、イエス様のご先祖の
アブラハムやダビデのことを消し飛ばしたいわけです。
義人だとか、神様に罪がないと見なされたと書かれていて、
イエス様を清い御方、であることを証する書だから、。

イエス様だけ、おいでであればいいと言いつつ、
その内実はイエス様の証の書を排除することで
イエス様のメシア否定でしかない、。

どうして、こう、、ポンポンと反キリスト思考で
物事を考えるやら、。
アレが内に居るから、、なのね、。

これは、イエス様御自身の言葉です。
ヨハネ
5:39 あなたたちは(旧約)聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、(旧約)聖書はわたしについて証しをするものだ。

この当時の聖書はいまでいう旧約聖書のみ。
旧約聖書は、、わたしについて証しをするものだ。
とイエス様御自身が仰っていることを
読んだことがないのか?

旧約聖書が偽善であるとするなら、
イエス様を証するものであるわけだから、
イエス様が偽善者だと断じることと、
同じになるではないか、。

ほら、、聖書を端から端まで読んでないし
理解もしてないから
聖書を正しく認知も出来てないし、
引用も出来なければ、根拠にも使えない。

そもそも、神様の御言葉である聖書を偽善の書であるとし
拒否している時点でアウトなんですが、。
自称クリしてるのだし、、聖書を否定したらアカンことくらい
理解しなさいな、、。

霊的に敏感なクリなら?と思うし
違和感感じていくはずよ、。

しゃべるの、、聖書以外のことに限定したら?
これ以上、聖書のこと、分かってませーんって、
明らかになる前に、。

そして、反キリストの言葉を出して、
更に罪を重ねることがないように、、。

人を簡単にカルト呼ばわりするけれど、、
反キリストの思考と言葉を言い、
何人もの人から、憎まれて罵られている、

食べれない実、を実らせている
あなた自身はどうなの?
私だけではなくて、、全員が感じてることは唯一つ、。

自分自身が神様のようにしゃべって、人の意見に耳をかすこともせずに、
実に尊大な態度で居るってこと、。

次第に、あなたから、離れて立ち去る人が増えていくでしょう。
最近の、あなたの記事は、毒気が増して、
神様と人への呪いと憎しみ、、
怨嗟しかないので、読む人が不快になるから、。

擁護する人の気が知れない、。
だあれも、あなたに、聖書に関して、、
一言のアドバイスさえ求めていません。

それにリアルの私を、何も知りもしないのに、
カルトやら、はては教祖呼ばわりするあなたです、。

でも、してること客観視すると、教祖じみた発言と行動と思考をしているのは
他ならぬあなた自身なんですが、、

死ぬまで気づかないのかしら、、
下手したら、死んでもなかなか気づけ無いのかしら、、
お気の毒です、。

追記
放蕩おじいさんから夜中の3時に
迷惑コメント6コメ、。削除しましたけど、、

その中の一つに、、、
洗礼など受けなくても救われる人は救われると書いてきてました、。
洗礼など、、、、など、、。

聖霊によるサクラメント(聖礼典)を、
ずいぶんとまぁ軽視してますね、。

この洗礼を蔑んだ言葉から、
ご自分は洗礼を受けてない確率が、、
またかなりアップしました、。

洗礼を受けたと言ってましたから
本当に未受洗ならば、自称クリ通り越して、偽証クリですねぇ、。

洗礼を軽視しているということは、
受洗してたにしても
相応しくないままで、イエス様の身体と御血を受けたわけで、、
聖霊が働けないのも仕方がないと思えました、。

洗礼は、クリスチャンにとって第二の誕生日であり、
イエス様と一つになった日でもあり、特別な思い入れがある日です。
私の受洗日は1984年4月22日 12時07分55秒です。
牧師夫人が時間をみてて、、あとで教えてくれました。
19(行く)8(ヤー、神様のヤー)4(良し)、12部族の12、神様の数7と55で、ゴーゴー!で、めっちゃ覚えやすかったので忘れません。

私は、受洗時、キンチョーしまくり、
他に、神様を、お父さんとお呼び出来ることで、
嬉しいのと、みんなの前でだからドキドキで、
嬉しくて感動してるから、やっぱ涙は出るし、、
色々複雑な気持ちでした。

確かに、水での受洗はしなくても、聖霊と御言葉での霊的受洗をなされて、、
聖霊により新生されていたら、救いは受けれますけどね。

だからといってサクラメントを軽視するような心だと、、大間違いだと想います。

聖霊により新生してたら、、
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」の御言葉通り、悔い改めれるし、そうであれば反省も謝罪も出来るはずなので、。

放蕩おじいさんは未だ、何一つ出来てないから、
聖霊からの賜物がないのでしょう。

だからサタンの木に繋がれたままだし、
反キリストの言葉ばかりいう、。


マグダラのマリア

早急に教会に行き、棄教を取り消して
アレとの契約を反故にして、神様の御元へ
御戻りになることを強くおすすめしますわ、。


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