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個人的な信仰は間違いだとする人がいます、。
>個人の信仰を個人の自由というあり方は
個人が信仰の責任を負うことを強いることだと、

ごくまれな事なのですが、、
本人は口を出すのが当たり前だと思っているので、
必要ありません、と言っても、
話が噛み合わない、。苦笑

人の信仰のあり方にまで、
やかましく口を出し、批判というか、
誹謗中傷しまくる人って、、いますよねぇ、。

ごくごく、、たまに、、、、10年に2回、いや、3回かな、。
そんなものですが、。

信仰の道は一本の大道、基本的な道はあるけれど、
気づくことに個人差があるので、。
それぞれの信仰の道は、、、
10人いたら10通り、100人いたら100通りになるわけです、。

でも、、普通は、人の信仰のあり方など気にしません。
よほど常軌を逸した信仰の仕方をしてなければ、、ですが、。
すごいというか、異常レベルになると、、
幾人か、勇気ある人が、一言二言、、と苦言を呈していきます。

人の信仰のあり方を名指しで、何年も誹謗中傷する人を見ると
何が楽しいのかねぇ?と思ってしまいます、。
それが、自称でも、クリスチャンであると、特に呆れます、。

結局、そういう人の、
すべての言い分を凝縮すると、

『俺さまが言うことのみが正しい、。
俺さまが言うとおりに、お前らは信仰してればいいんだよ!
俺さまに歯向かうやつは、さっさと消えろ!』
という独善的思考にいきつきます。

そうしなければならない、とするための
聖書からの根拠聖句もなし、実体験もなし、
あるのは、机上の空論、作り話。妄想、。

神様に文句言えないから、身代わりに、、
神様に従っている人への強い憎しみ。ねたみ、、。

なんで、6年も、その人が上げる記事、全部に批判記事書いたり、
嫌がらせコメントしてて、得意満面に話すのかしらね、。

ソレを擁護してヨイショする別アカウントの存在も不気味、、。

信仰は確信が砕かれてゆくこと?
じゃあなたは、なんで、まるで砕かれてないのかな?
誰にもまともな謝罪が出来てないのに、砕かれている?笑。
すごい冗談きついわ、、。

聖書に、、
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる
って書いてあるしね、。

普通のクリスチャンや、常識的な人は、よほど
ズレた信仰の仕方してても、
黙認してスルーの方が多いですよね、。
絶対、気分悪くなる記事だし、、擁護しませんて、、。

さてと、前置き長くてごめんなさいね、。

本題行きます、。
個人信仰について、、聖書では、、
このようなたとえ話があります、。

「ぶどう園の労働者」のたとえ
マタイ福音書
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。

神様が、人を招く時は、人それぞれであり、
同じ時に救われることもない、。

早くに救われる人もいれば、時間がかかる人も居る、。
救われるまでの信仰生活が
長い人もいれば、短い人も居る、。

同じ時に同じ様に救われ、
同じような信仰を持つこと自体があり得ない、。

ただの机上の空論で、物事を思考するから浅い思考となる、。
ゲームで言うと、経験値少ないから、
マックスレベル100なら、レベル10というところかしら、。

教会に行き、人と交われば、、信仰が神様との個人的出会いの
積み重ねで在ることが理解できる。

まぁ、人の信仰に口出すような人は
自分は朝方から働いたから、
1デナリより多くもらいたくて、なんで少ないの?と
神様に文句つける人なのでしょう、。

自分より、あいつは少ない時間働いて、
同じ1デナリもらうなんてずるいって考えて、
人のこと監視するがのようにチェックしてて、
ぶち切れてるわけだし、それと同じことしてる。

人の信仰の労働時間、自分と比較して、気にしてどうするの?
人の信仰の賃金や仕事内容を自分と比較して、気にしてどうするの?
ただの同じ神様の使用人の一人でしょうが、。

いつから、使用人の長になった、のやら、。
大人しく、1デナリ貰って、
人に文句タラタラするのは黙って、さぼりまくりの
自分の家族や、おうちのことだけやればぁ?

それに、おじいちゃんなんだよねぇ?
1日机に座りっぱなしは、お腰に悪いわよーーー。
散歩1時間くらいしないと、足腰弱って歩けなくなるわよ、。


信仰が個人的なものであると分かる聖句。
ヨハネ福音書
21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

ペトロが、他の弟子のことで、イエス様に尋ねます、。
この人は、どうなるのでしょうか?今のままなのか、、
なにか変わるのか、、と、人の事の何かを気にして、
イエス様にそれを聞いたわけです、。

でも、イエス様は、、聞いたからどうなのか?
あなたには関係ないことでしょう、。
あなたは、、、わたしに従いなさい、と、
あなたは、、と、個人的に命じておられます、。

なので、人の信仰のあり方に、人が口をはさむというのは、
小さな親切、、大きなお世話です!

その人にはその人が歩むべき道があり、
その人が学ばないといけない物事を学ぶ道なので、
人があれこれ指図するのは、
おじゃま虫でしかありません、。

信仰の道、長ければ、偉いと思いがち、、
でも神様からごらんになられたら
人の時間など、大差なし。
どんぐりの背比べ、。

自分は長く信仰してるから、正しいなんて思うのは、、
驕り高ぶり、高慢そのもの。

癒やしの恵みが欲しいのなら、
神様を心底、疑わずに信じて、
神様の御心に従おうと日々努力して生き、
治りたい。神様にはそんなの簡単に出来る、、と
信じ切る思いがあることなどが大前提。

自分が楽すること、褒められることにしか興味がなく
人に自分の恨みつらみをぶつけて生きて、憂さ晴らしして、
棄教もし、他宗も排他し、人も排他して、生きてたら、、
いくら、口先三寸清く正しそうなことを言ってても、、
人が読んで聞いてて不快に思うし、、、

いかに、神様が温情深い御方でも、、
祝福は出来ないもんねぇ、。

祝福するための理由が一つもないんだから、。
逆に祝福を取り払う理由は、
暑さで腐りそうなほど天に向けて積まれてますが、。

時折、垣間見せる、醜い心のドス黒さゆえに、
気づいた人はおぞけて逃げていきます、。

この一連の騒動で、醜さが明るみに出てきて、
だいたい同じ人からしかポチされないようだわね、。
しかも、自分の別アカでの自ポチが多いようだし、、。

そんなこんなで、いくら口先と見た目とで、、
一時的に人を騙せても、行動の異常さ、
心の醜さを見て、最後に人は正しく判断する、。

やめたほうが良いと諌める人の声も、、聞く耳を持たない、。
普通は、自分のどの行動が異常なのかと、省みるものだけど、

思考が、自己中であると、自分擁護にしか思考がむいていかない、。
自分を守ろうとし、とげとげしい言葉の鎧を着込み、

擁護する他人格が表に出てくる、。
普段は出てこない人格までも、、
こそっと参上、、。

ここが気になるらしい、。
記事アップして20分後くらいに、
すぐ誹謗中傷コメントが入ってて、
1時間おきに、敵情視察でもしてますの、笑 って思った、。

自分と意見が違う人、論を受け入れない人には、
憎しみしか無いのね、。

ふた言目には、カルトと荒らしとしか言わない、。
他の日本語知らんのか?と思うくらいに、
お見事に、ソレしか言わない、。

意見が多少違おうが、
受け入れる神道のような思考をします、と
言ってた人が、、いきなり擁護に出てきて、、笑えた、。

言ってることと行動が違う、。
同一人物なら、、それはあり、、。

自分自身は、このように自分個人の信仰が崩されそうになると
大騒動して、自分信仰を守ろうと躍起になるのに、
人には個人信仰は悪だという。

人には信仰を固定化すると、
進歩も反省もしないからダメ、と言いながら、
自分自身は信仰を固定化し、ずうっと、反省も進歩もしていない、。

口に出してることが、全て自分自身のことになってる、、。
自己裁きなのよね、、。

人の中に、自分自身を見出し、ソレを言う、。
もろ、心理学の投影、。
自分がそうだから、人もそうに違いない、と思うこと、。

柔軟性の全然ない懲り固まった個人信仰を、してるのは、、
放蕩お爺さん、あなた御自身ですよ、。

他の方は、同じ個人信仰でも、柔軟性もあって、
日々、自己反省もするし、謝罪もするし、
身の回りの人を大切にしています、。

神様と、、個人的な関わりを断てばどうなるか、、
ヨハネ福音書
13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

当時、汚れた足を洗うのは、異邦人の奴隷の仕事で、奴隷であってもユダヤ人であれば、免除されていた仕事です、。ユダヤ人は、人の穢れにふれることを、とても忌み嫌っていたので、、、弟子たちは、イエス様の行動に面食らうのです、。

師であるイエス様が、異邦人の奴隷のすることをしてるわけですから、。
ペトロは慌てて、許否します、。
私の足は穢れて汚いので、洗わないで下さい、、と、、

イエス様は、私が、あなたに触れて洗わないなら、
何の関わりがあるのか?
それでは何も関わりが無いのと同じであると、仰ったのです、。

イエス様から、個人的に触れて頂き、
自分の汚れも、隠さず見せて、綺麗にして頂かないなら、、
イエス様と、繋がってないのと同じだと、言うことです。

個人的に神様と繋がる、この個人の信仰を、、
個人の自由としないなら、それは、支配です。
サタンと同じ心根。

神様は、無理強いしません。
神様を信じるのも信じないのも自己責任に置いて自由です。

ただし、全員が、いつか神様のもとに戻ることを
神様は最終目標とされてますし、
現時点で、サタンとサタン側に落ちている者も含めて、
すべての被造物を神様側のものとし、
原初の世界を回帰回復することが、生きている人の使命です。

人間一人ひとりが、神様の御心に沿っていき
サタンから離れることです。
彼につく生きた人間や、死んだ魂が皆無になれば、
サタンは、神様に帰順するしかなくなります、。

サタンは人を罪ありと讒訴する者、
人が、神様に従い罪を犯さないようになり、

また、罪を犯しても反省して帰順しなおせば、
地獄世界さえも、いずれは消え、
この世でも地獄でもサタンは行き場を失うのです。

その時、彼から悪と罪は剥ぎ取られ、すべての人から原罪が消え、
世界は、真のユートピア、新しいエデンに変えられる。

誰かが、、私にこう言ってきた、。
神はいつまでも黙って見ておられるだけではない。 
そっくりそのまま、あなた方(あなたとアレ)へ
お返ししましょう、。

私の父は、、生きて在る御方ですからね、。
猶予期間の生きている間が終われば、、それこそ黙っていません、。
死後は、、裁き主となられましょう、。

厳罰が下ることは間違いないので、
それが、、お嫌なら、早めに教会に行き、
アレとの契約を反故にするために、
神様に悔い改めて祈りなさいね、。

悪魔や悪霊と繋がってるままだと地獄行き、確約ですよ。
私は一回、炎の池飛び込んでるから、怖くないけど、、
あなたは、恐ろしいでしょう、。

聖句通り、私がみた炎の池には、
空まで燃え立つ巨大な炎が燃えてました。

追記
リアル放蕩おじいさんのサイト、、
私が批判記事書いてるので、、、、
注目の的のようです、。

どのような言動をするのか、、
じっと見られてますよ、。

良かったじゃないですか、、
ブログ村からも他からも、
見に来てもらえて、。

知らないでしょうけど、訪問者多いのに、
PV少ないのってね、。

みんなちら見して、トップページから、
そのまま記事読まずに帰ってるのよ。
つまりは、批判記事なんて、面白くないという意思表示。

PVが増えるような、
読み応えのある記事お書きなさいな、。
記事アップしないでも検索かけて読みに来て
貰える様になれたら良いのでは?

マグダラのマリア
とりなしの祈りとは、、、
簡単に言えば、他の人の代わりに、
神様に赦しを乞い祈ること、、もしくは、
心からの願いに、心を合わせて、共に祈ることも、含まれます。

祈りにおける父なる神様との仲介者は、
神様であられるイエス様です、。

人はイエス様のお名前によって祈ることで、
父なる神様に祈りを届けれます、。

人である内で最大の執り成しの祈りをされた人は、、、、
そちらも、、人でありメシアでもあるイエス様です、。

御自分を十字架にかけた人たちをも含めて赦し、
執り成しの祈りをされました。
「父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。」

イエス様は神様ですから、、
罪を赦し、わからないので赦してあげて下さいと
父なる神様に無条件で祈れますが、。

自分が罪を犯していたりする人間は、、、
主の祈りにあるように、。
 わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。
と祈ります、。

自分に負い目のある人を赦しましたように。、
ました、と過去形なので、
まずは、自分が先に、自分に罪を犯した人を赦さないといけません、。
人をゆるして後、やっと自分の罪の赦しを神様に乞えるのです、。

だから、人を赦さないで憎み罵り続ける人は、
神様から罪の赦しは、、願っても受けられません、。

ごくたまに、どーしても赦せない人っています、。
私自身も、私を苦しめ騙し家庭崩壊させた女友達のことは
好きではありませんし、友達回復をしたいとも想いません。

ただ、、彼女がいなければ、今の私はいません、。
罪のどん底まで沈んで、それを味わうこともなかった代わりに、
心が未だ救われないままだったかもしれません、。

生き地獄を味わい、リアル地獄に、心が住んでいましたから、。
憎しみ怒り、、呪うがごとくの怨嗟、
それにどっぷりの自分。
まぁ鬼や悪魔、地獄世界状態でしたよ、私の心は、、。

それやらかした私よりは、、
私の旦那を寝取って家庭崩壊させた彼女の方が、、、
罪が軽く見えた、苦笑。

彼女は、私に死は望んでなかった、。
でも、私は彼女の死を望んだ分、罪が重い、、。
それに気づいた時、納得が行くいかないもなく、、
人に死ねと平気で思ってた自分自身の心がおそろしかった、。

人は、こんなにも簡単に負の感情に流される、。
悪魔は、ささやく、、お前は悪くない、。
家庭崩壊させた彼女の方が悪い。
だから恨んでも憎んでも罪にならない、。

ならないわけないのよね、。
なるんだな、、、コレが、、。
多少の情状酌量はあっても、
殺してはならない。に触れる、。

最初の殺人は、、
カインの弟アベルに対しての妬みからくる憎しみから起きた、。
だから、憎しみが、心の中での殺人に膨れ上がり、
実際のに殺人に至ったわけだから、、
恨み憎み、妬む嫉む怒る、などの負の感情も、
この殺してはならない。の禁止事項に内包される、。 

自分の方が、、彼女より、あくどいことしてましたと、
自分のどす黒い罪を認め、
その罪を赦され救われはしたものの、、。

あまりにひどい目にあったので、

父さま、、人間的な奥深い想いの部分では、、、
彼女を、あの時のように、憎むことはしません、。
ただ人間としては付き合いたくないし嫌いです、。
肉の想いの罪として自覚の上、告白致します、。
どうぞ、お清め下さい、。と祈ります、。     

嫌いなものは嫌いです、お清め下さい、、と
告白する方が良いです、。
赦しても居ないのに、赦しますから、と祈るのは
偽善でしかないことなので、。


罪がないイエス様は、信仰により罪がないとみなされた、
選ばれた信仰者アブラハムと、
信仰を立て続けた信仰者らの血筋を持つ御方です。

旧約と新約とで、系図にいくらかの食い違いがあるのは、
イエス様の血筋として記録されるに相応しくない、、
つまりは不信仰だと、神様の御判定が降って、
新約聖書でのイエス様の系図に名が書き残されなかったのでしょう。

罪を犯した者、たとえばダビデが血筋に居ても、、
ダビデは真摯に罪を悔いて認め、神様への信仰を再度立てたから、、
それらの罪を一旦は、贖いの代価を支払うことで、
ダビデが受けるべき裁きを、イエス様の時まで猶予されたのでした、。

ダビデが自分の2つの罪のために支払った代価は、、
自分の子供の命、大勢の自分の民の命、、
自分と自分の子孫をすべて神様に差し出すと申し出たこと、。

ダビデに取って、自分の子の命は、、
自分自身と引き換えにしたいくらい、失いたくなかったでしょう、。
アブラハムの時と同じです、。

バト・シェバの罪の件でダビデは、
自分の子を失う悲しみに耐えなければいけませんでした。

サムエル記 下
12:13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。
12:14 しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」

神様御自身が、ダビデの罪を取り除かれた、と、
ダビデは罪がないと見なされたことが、
聖書に明確に記録されています、。

もう一つのダビデの罪は、サタンのそそのかしに負けて、
人頭税を取ろうとして、民の人数を数えさせたこと、。
神様が定めていない税を民から絞り取ることも、
民の数を数えることも、禁止されて居たからです。

民の数を数えたから、、
自分の罪のせいで、多くの罪なき民が目の前で、
神様に打たれて死んでいき、、、
死の天使がそれを行うのを、ダビデは、黙って、
それを視なければならず、どんなに心が辛かってでしょう、。

無実の人が、自分の身代わりに打たれて
死んでいくのをみて心傷まないわけがないのですから、。
あまりの辛さに、3日の期間を待てずに、
ダビデは神様に申し出ます、。

でも神様御自身も、お辛かったのです、。
ダビデが申し出る前に、
民を打つ死の天使に手を下ろすよう命じておいでなのですから。

ダビデは、、
「民を数えることを命じたのはわたしではありませんか。罪を犯し、悪を行ったのはこのわたしです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。わたしの神、主よ、どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように。あなたの民を災難に遭わせないでください。」
と願いました、。自分と自分の子孫が処罰されても
何をされても、殺されてもいいです、。と言ったのでした、。

命も富も、王位も、子供たちも、
今、すでに持っているすべてを捨てる覚悟で、、
神様に信仰を立てたので、、自分の命と子孫の命も捧げた、
つまりは死を以て罪を購ったのと同じとなり、、、、
ダビデ自身は罪をないと見なされ、
本来、ダビデが受けるべき処罰は猶予されました、。

その裁かれなかったダビデの罪を、
讒訴する権利をサタンは得ました、。

サタンは、いずれメシアがダビデの子孫として
生まれてくる事を知っていたので、、、

神様が罪をないとみなしダビデを赦されたことに
意義を申し立ててダビデを罪ありだと讒訴しなかったのです、。

悪魔も、仕方がないから、讒訴しないでスルーしたのです。
ダビデとメシアでは、メシアを試み堕落させ、
人が罪から救われなくしたほうがサタンには都合が良いからです、。

悪魔もスルーしたので、
ダビデは罪がないと見なされたまま天寿を全うし死にました。

悪魔は、、来るべきメシア、イエス様の時に、
その讒訴権を使って試み、、荒野で、、
イエス様を堕落させようと、有名な3度の誘惑をしたのでした、。

それで、、ダビデの子孫である、
イエス様を、サタンが試みれることになりました、。
イエス様は罪なき御方なので、
サタンも、何の理由もなしに試みたりは出来ません、。

自分と子孫を差し出したダビデを罪がないと見なしたので、、
子孫がダビデの罪を贖わないといけなくなりました。
神様がアブラハムやダビデの、罪を赦し 無いのと同様にみなしたので、
人が、罪ありとは言えません、。

悪魔さえも子孫のイエス様を讒訴したいが為に、
罪ありとは出来ませんでした、。

メシアの系譜は、、自分を捨てても、というような高く強い信仰を立てた
人達の血筋の系譜であるという事が大切なのですね、、。

人間個人個人の信仰が、、あると、認められたときのみ、
人数としてカウントされた、
選ばれた人だけが書かれた特別な系図、、がイエス様の系図、

記事内引用コメント引用先

誰かさんは、またまた、
イエス様の系図、本当のことかわかりもしないのに信じるなんて、、、と
これも聖句否定して神様否定しているけどね、、、。

ある方から、、
日曜日に教会に行ったらいかがですか、、と、勧められて、、
迷惑です、、と言い返す人は、、自称クリとも言えない、。

教会にいかないまま、、自己理解のみでの教理を作り出し、
人にこれこそ真理と明らかに間違ってることすらも
押し付けてるようじゃ、、

まじカルト教祖と思考と行動パターンが同じ、、。
普通は教会に足を運んで基礎をしっかり学んで、
それから、独学なりなんなりして、聖書を理解するならともかく、。

下地の教理をまるで知らない、、というか、完全拒否してますし、
系図が本物であるかどうか、、とか、、

擁護の鎧の腰巾着さんが、、
>知り合いのクリスチャンが、
「聖書は四十年勉強してきたけど、まだ全然分からないですよ」
と言ってたのが、耳に残ってるけど、これは本当ですね。

とおっしゃって、、ヨイショしてましたけど、。苦笑。

リアルにはあり得ないことなんですよね、、、。
擁護の鎧さんがクリスチャンならともかく、
無宗教な方のようでしたし、。

そういう蚊帳の外の方に、まっとうなクリなら、、
聖書40年も読んでてわからない、、などとは言いません、。

なぜなら、教会に誘うことが不可能になります、。

自分で理解不能の教えを、人に薦めるな、、
と言われ断られますからね、。

もし、そういう事を言うなら、
仲良しのお友達でも、親友レベルのなんでも言える相手か、
同じ教会内のクリスチャンの兄姉同士で、
こそっと、、小さな集まりの中でいう程度です、。
どこでもかしこでも、
知人程度の人間関係でベラベラ言える内容じゃないです、。

それも、誰かさんがお得意の脳内想像のお話ですかね、。

教会に行って良い交わりの中で生きたら、少しは状況が変わるか、と
心配して、教会に行くよう薦めた信徒さんに、、
荒らし呼ばわりする始末、。

仕方がないので
>最後に一つだけ 自分が迷惑と思う事は隣人にもやめて下さいね。
ごく当たり前の事を誰かさんに言ったら、、、

>根腐れして繰り返し同じことを言うような事はやめて下さい。
悪意の党派芯で臨む者には逃れようのない苛立ちを。
と言ってて、、

言われた内容的に、お得意のカルトと荒らしとは言えないので、
別の言葉を、一応、名指しはしないで、つぶやいたわけですが、、。、

根腐れって、、人に言う時は、、貶める言葉ですよね、。
普通は人に向けては言いません、。
植物に水や肥料を与えすぎたことを指す言葉ですから、。

それを人に言う場合、
まっとうな人間に矯正することは不可能なぐらい、
性根から腐ってるって、言ってる意味になるので、、
本当に失礼なセリフです、。

人付き合いが、、
下手くそであることが実証されてます、。
こんな事、平気で言い放つようでは、 
教会からでも追い出されますわ、。

逃れようのない苛立ちに合うように、、と
呪いのような謎のセリフも、、吐いてますし、、
誰かさんの人格、かなり壊れてませんかねぇ、、、。
精神病院行かれたらどうかしら?

また、、シャロームさんを貶めてました、。
会ってもいない、。のに、、根拠ゼロで、ただの憶測から、
カルトだと決めつけて、罵り、脅し、威嚇し
やりたい放題してます、。

シャロームさん、よく耐えてるな、、、と想いますわ、。
神様は、絶対に、、見捨てないですよ!
そばに居ますからね、。

せめて、応援したいから、シャロームさんの記事に、、
いいねポチさせて頂きました、。
ブログ村の心あるクリの皆様、非公開でも、いいね出来ます、。
良かったら応援して差し上げて下さい、。

一人じゃないって思う時、、心が少し元気になるよね、。
イエス様の御霊により、大きな霊的家族が、出来上がり、。
その家族の一人が貶められています、。
6年間以上も、、、行動を起こしませんか?

小さな勇気を持って、。

コメント入れてる勇気ある同胞クリも現れています、。
上に書いたように、、教会に行くようお勧めした
勇気在る同胞クリもいます、。

教会に行かれたら、、と言われても、
普通のクリ同士ならば、挨拶程度のことですよね、。
私も、経済的に辛いので、たまにしか、
教会に行けませんので、

あらぁ、○ちゃん!(私のこと、ほとんどの方が、私より目上が多いので、姉妹ではなく、ちゃんですね。笑)御無沙汰じゃないのよ〜〜!
元気してました!?また、(教会に礼拝に)おいで下さいね、。って言われます、。

そういう事言われたら、、
そうですね、。ありがとう、、と笑って会話しますよね、。
命令するな!迷惑です!って言います?

命令するな、、とか、迷惑です。って、酷い言い方で
言い返さないですよね、。
ほんとに、人付き合いが下手くそなんだな、、と、、。

今までの人生で、いつも、嫌なことがあると、
嘘や言い逃れしてきて、逃げて謝罪もしないで生きて来たのでしょうね、。
今までのコメント欄での、人とのやり取りを読むと、
そう結論付けるしか無いです、。

>命の人生のかかっている信仰の問題に遠慮はしない主義だそうですから

もっと重要な永遠の命がかかっていますので、、
皆さんで、、誰かさんに、どんどん
教会へ行くようにおすすめしませんかぁ?

私も、、誰かさんが、今みたいに、日がな1日パソコンに張り付いて、
ネットの中を徘徊してポチしまくって、批判記事書きまくって、

あのジジィ、更新止まったぞ、ついにくたばったか、、
あぁ、死んで良かったと陰口叩かれて、、人生終わるより、、、

天使と神様のお側近くで幸せな最期を迎え天国へ入れる方が良いと想います、。
教会に帰りなさいよ、。
放蕩おじいさん。
あなたが戻るのを、、
父なる神様は待ってるんだから、・

また、お一人、シャロームさんの批判はやめるよう仰っておいででした、。
善いことです、。
父さまが喜ばれておいででしょう、。

イエス様と共に十字架にかけられた、
もうひとりの強盗、、イエス様に神の子なら救えと
罵ったほうの強盗、。

その、本心は、なんとかして、救われたかったのだと、、
罵るという方法でしか、神様との関わり方を選べなかっただけで、、

救いを人一倍願っていたのだと、、私は思っています、。
誰かさんは、、、その強盗のような事をしています、。

まるで、もうひとりの強盗のように、、

口先の清さではなく、

心から、罪人の私を思い出してください、、と
子供のように素直な気持ちで神様に赦しを乞えばいいだけなのに、。

私は心で、人を憎み呪うがごとく忌み嫌い
人殺しをしたから、、父さまからしたら、
実際に人に手を下した殺人者、カインと同じ、。

それでも、罪を犯し離れた事を悔いて、嘆いて、
神様を泣いて求めて、、、、それも、無理だと、、諦めて
地獄へ落とされたほうがマシだから、、と
神様、最期のお願い、、です、。どうぞ滅ぼして下さい、、と
死を願い祈った、。
そうして祈った時、、イエス様が来て下さって、。

それでもお前を愛してる、。
重荷をおろして休みなさい、、と仰って、、
死を願うほどの苦しみから救い出してくださった。
私の様に、どす黒い心を持っていたものでも救われた、。

昔の私と似たようなものでしょ、頑固おじいさん。
私が救われて、あなたが救われないことはないでしょ、。
素直に人の話は聞くものよ、。

頑固な誰かさんに作用する悪霊は、
棄教の取り決めの契約により取り憑いている、。

自分から教会に行き、自分から、父さまに罪の赦しを請いなさい、。
聖霊が働けるように、、神様が救いの御手を差し出せるように、。
自分が棄てたのだから、自分から拾いに行きなさい、。

クリスチャンの父なる神様は人を生かす神様です。
永遠の命を、罪に死した人の子に、なんとしても取り戻し
与えたいからこそ、メシアをお送りになれらた、。
すべての人の救いが、、父さまの願い、。


活きた信仰とは、。

活きた信仰とは、、
自らの生き方により、神様の御愛の片鱗でも良いので、
この世に顕現させることです、。

たとえば、現代であれば、
荒らしにあい、困っている人を擁護すること、。
簡単そうで、勇気がいります。
自分が荒らされる場合を覚悟しないと、いけないので、。

私に取っては、神様に命を差し出す覚悟した後からは、
他の覚悟はもう要らなくなりましたので、
状況によっは、割って入りますし、
荒らしに言うことも言いますが、、。

そういった荒らしが自サイトでは
荒らしだらけというのは、因果応報ですね、。

普通はいても、1人で、何年も荒らされないです、。
荒らしが複数なのも珍しい、。

話を戻して、
普段の生活で、神様の御愛を、
自分の身体や、心を使って顕現させて頂く
というのが、適切かと、。

それが脳内で作り上げた知識だけ頭だけの信仰よりも、
ワンランク上の活きた信仰です、。
実践を何も伴わないままの信仰は、机上の空論で、
実際何の役にも立ちません。

生活に根ざして無いと、共感できないことの方が多いです、。
たとえば、、善い人でありましょうと、言われても、、
出来ない、と思うことだって多々あります、。

また逆に、自分では、嫌だな、、と思いながら、若干渋々、
御言葉による御命令だからと従う、、とような、ことも
あるわけなので、良くない自分を自覚しながら、
少しでも良い自分であろうと、努力するのですね、。

なんのために、、?
神様のお側に近づきたいからですね、。
神様の子として、相応しく有りたいと思うから

良くない自分を、けり飛ばして、、
少しでも良い自分で居ることを、
自分で、そうしたい、と望み、選んでいくわけです、。

神様と一緒にいたいという気持ちが強くなれば、、
その傾向も比例して強くなります、。

良くない自分に気づけ無いと、
成長しないといけない、反省しないとけない、、
とは思いません。現状維持のままです、。

良くない自分に気づくのは辛いですし、
認めることは、更にその数倍辛いですけどね、。
イエス様は、罪人を救うために来られたのですから
人間が、弱くて穢れてて、失敗もして、、、

なんて、、、とうにご存知なので、、
ありのままの自分を、差し出して、、ごめんなさい、、で
よいのでは、、?

善人が救われ天国に入れるのは当然なのです、。
救いが必要なのは、、罪人です、。
自分に罪があると、、気付き、苦しんでいる人です、。

善い生き方を努力して、生きて死んでいく人は、
救いは要りません、。自動的に天国に入れます、。
神様の御心に背いてない生き方したのですからね、。

問題は、、やっちゃった、、と気づいて
心が潰れて罪の重さの苦痛で苦しんでる人です、。

自分の浅ましさに、一旦気づくと、、
怒涛のように、、あれこれと、罪が思い返されてきて、、
苦しみの上に苦しみが重なり、もう、どうにもならなくなります、。


私は、まともに息ができずに、息苦しくて、心も潰れて辛くて、
一刻も早く、地獄に落として下さいって、願いました。
同じ苦しいなら、死んでしまえば、
存在死、、つまりは消滅はないので、、行先が地獄であっても
いつか償いが済めば、赦されるわけだから、
地獄で苦しいほうがマシと考えました。

肉体の死を、今か今かいつ来る?と、死の苦痛や恐怖と共に
感じ続けるより、どうか滅ぼして下さい、、と
言葉一つで簡単に出来ることでしょう?と本気で懇願したのでした、。

簡単に言うと、、
真綿で、首を絞められるような苦しみより絞首刑を望んだわけです、。
ほんとに、笑い事じゃなくて、、当時は大真面目でした、。

息がまともに出来ないのが、、丸何日も続いたし、苦しさは事実あったわけで、いまでいうと パニック障害ですかね、。
有り難いことに、寝てる間は息苦しくなかったのですけど、
起きてる間は、胸が潰れたように苦しく、、
息が思うように出来なくなってました、。

心の中で人の死を願ったのですから、死罪のところを、
この程度で赦されてたのだから、今にして思えば。、
かなり情状酌量があったわけですが、、

当時の私には、もういっぱいいっぱいで
心に余裕なんて、まるでありませんでしたので、
肉体の死を望みました、。

この時、いくらかあった、私の自尊心なんて
綺麗に砕けちりましたね、。粉々ですわ、。

それまで、善い人であろうと一生懸命に、自分なりに努力してきたけど、
人を死んでしまえばいいのに、、と呪詛モードした自分を前にしたら、
私、善い生き方してます、。神様、、偉いでしょ、、
なんて口が裂けても神様に言えなくなりました、。苦笑。

あとは、、どれだけ善い事を積み上げようとも、
人から認めて貰えたとしても、、、

ただただ、神様の御前にあっては、
私は罪人です、、憐れんで下さいとひれ伏し跪くのみ、。

邪悪そのものにしか見えない自分を見て、知ってしまって、
どうやったら自分は善きものですと、、神様に言えます?
言えないでしょ、。

言えないんだけど、、そんなダメダメの自分を救い出し、
苦しみから救い出して下さった神様に、感謝しかないから

少しでも、従いたい、、。
御心の通りに生きようと努力したいと思うわけで、。

昔は、本心は自分の見栄のため、、
人から良く思われたいとか、信仰深いと思われたいとか、、
今は、、、自分のため、、は、ないの、。

醜い自分が完全露呈されたあとだし、、
それよか、少しでもマシ程度なら、
どれだけ努力したって、さほど変わらないもの、。

微々たる負債しかお返しできない、。
ほんと、、500億くらいの借金があるのに、
30円のよっちゃんイカが買える金額を日々お返ししてるくらいのレベル。

それでも、出来る限りお返ししたいと思う。
赦されたことに全然足らなくても、、
量的に水一滴分にしかならなくても、それでもいいの、。
神様に従って生きる努力をする、、。

その事実だけで、私の心は、、喜ぶ、。


先程、また、寝てた時に、夢をみました、。
一人のお母さんが居て、自分の子と遊びに来た子2人とに
傘を渡して、雨がふりそうだから、
遠くの子を家まで送って傘を返してもらったら、
急いでまっすぐ帰ってきなさい。と、自分の子に言いました、。

その子は、、遠いところのお友達の家に行き、
傘を返して貰ってから、自分の家の近くの子の家にも行き
傘を返してもらい、そのままそこで、遊んでしまい、、

土砂降りの中を帰らないといけなくなりました、。
お母さんのいう通りにしてたら、
ずぶ濡れにならないでも良かったのに。

途中まではお母さんの言う通りにして、
そこからは、自分のしたいようにしたので
それがダメだったのですね、。

夢の中で、、その子は、お母さんの言う通り
遠くの子を送ってから帰って来たよ、といいました、。
近くの子に貸してあげた傘を持って帰ってたことを
忘れていてお母さんに嘘をついたのでした、。

お母さんに嘘おっしゃい、、。
○ちゃんに貸した傘が家にあるのはなんで、。
あなたがお家に寄って傘を返して貰ったからでしょう、。
嘘つきの罰に、今夜の晩ご飯は、抜きです、。
お風呂に入って早く寝なさい!と、
言いつけを破った事を誤魔化そうとして、
嘘をついたので、余計に叱られたのでした。


神様に、、嘘をついたら絶対にいけませんね、、。

人のつく嘘は、大まかにいえば4種類、。
自分を守るための嘘と、
自分の見栄のための嘘と、、、
人を騙そうとするための嘘と、、
誰かを擁護したいがための嘘と、、

4番めの嘘以外は、、自己愛しか無いので、、
大きな罪です、。
息を吐くように嘘をつく人は、自己顕示欲が強い、。
過剰なまでの自己弁護には嘘が多い。

人と目を合わせようとしない、目や顔をまっすぐ見れない、。
目をパチパチさせる、まばたきが増える。

嘘をつくとき、話し方がいつもより早くなる、。
肩書きや権威のあるものを利用する。
そうやって、自分の間違いを一切認めない、。

他者に善人だと思われることを強く望む。

他者の意見を聞く耳をもたない。
自分には欠点がなく選ばれた優秀な人間だと思っている。
他者をスケープゴートにして、都合の悪いところを隠し責任を転嫁する。
自分への批判に対して過剰な拒否反応を示す。
言われたことに、急に怒り出す、逆切れする。

こんな人となりであると、、、友達がいないのは、当たり前ですね、。

現代病なのか、、こういう人が多いようです、。

私、あまり人の言う幸せとは縁遠い人生だったけど
神様を心の支えにして、生きてきたから
人格崩壊しないで済みました、。

途中、幾度かの軌道修正で、罪を認める訓練とか、
本心で祈る訓練とか、、内観することとか、、色々あったけれど
反省出来てたから、セーフだったのかもしれない、。

神様の与えるお灸の熱さも感じないほど、
罪に鈍感になったら、、、それだけ、

肉体は生きてても霊はどんどん死んでいく、。
肉体を捨てる時、、霊体真っ黒で、魂の光は見えなくて、
自分の罪の重さで、、地の底に沈んで地獄へと自ら落ちていく、、。

生きている間の苦しみの期間と、、
死んでからの悠久の時間と、どっちが長いのだろう、。
私なら、、生きてる間に、痛かろうが、来るしかろうが

神様にすがるけどな、、ごめんなさい、罪を犯しました、って。
お父さんは、、本当のお父さん、。
悔いて謝る子を、人間の切れたお馬鹿な父親みたいに
往復ビンタしたりしないから、。

悔いないほうが、、怖いと思うけど、、
お父さんもイエス様も裁き主でも、あるのに、
鉄の杖で叩かれたいのかなぁ、。

私は木の杖でも痛いから、、背中を叩かれる前に、
おそばに自分から駆け寄ってスリスリ、、。
とっとと帰順します〜〜〜〜。

生きていく中で活きた信仰を持ちましょ、、。
机上の空論信仰は役立たず、。

40日めの期限の日が来ました、。
猶予期間は今日の夜中の12時までです、。


マグダラのマリア


私は神様を選んだけれど、、
どの信仰の道を通っても最終的に、
苦しむ人を救うためには、、、

一度は自ら堕ちるとこまで堕ち、自分の身と魂を汚し、
生き地獄を味わい、苦しみ、のた打ち回って、
人の苦にも楽にも寄り添い悟らねば、

人を大いなる存在(天地創造の神様)へ繋げ、
心の救いへと導けないと思ってます。 

私は子供の頃から孤独で生きることが辛く、
見捨てないでくれる家族が、どうしても欲しかった、。
私の思いがそうであったから、、
お父さんになってくれる神様に一目惚れしたのでした、。

教会に行く前に、
ほぼすべての宗教を渡り歩いてました、。
教会がラストだったのです、。

私が、最後の最後に天地創造の神様と出会って
クリスチャンにならなければ、他宗教も全部が
天地創造の神様を中心にして一つの教えという
大きな認識は持てなかったでしょう。

遠回りさせられたけど、
後から、その必要性があったことを理解できてます。
他宗教を排他的な思考で見ないで済んでるし。

私は、神様から、約10年前にマリアと名乗るようと言われ、
名前をいただきました。
私の神様は、私のお父さんであり名付け親でもあります。 

その少し前に、救いの体感を初めて得ています、、。
なので、まだ、救いの確信を得てからなら10年足らずなんです、。
35年クリスチャンしてて、25年間は宙ぶらりん。

それまでも、洗礼を受けクリスチャン生活して、
教会にも行ってたんですけど、救われたと自分では思えなかった。

良い自分で居ないといけない、。
クリスチャンらしく生きないといけない、。
そうやって自分なりに頑張って努力して来たのですけど、、、
信頼していた友達の裏切り、、です、。

晴天の霹靂、、家庭崩壊に離婚、家族離散で、まさに踏んだり蹴ったり、
で、、その時ばかりは、盛大に神様にブチ切れたのですが、、、。

因果応報って、良い行いには良い報いがあるんでしょ、。
仏教でもそーいってるでしょ!なんで?どうして?
理不尽じゃないですか!!なんで、こんな酷いこと、ゆるすの?

お父さん、酷い!なんで!って、散々、狂犬のようにかみつきまくり、。
心の中は、怨嗟のみ、。そのまま呪詛するがごとくの生活へ突入。
クリスチャンだから、、の、良心の歯止めも、
綺麗に、、どこかにぶっ飛びました。

まぁ、それより前も、苦しみ多き人生でした、。
私は子供のころから笑ったことがありませんでした、。
生きていたくない、死ねたら良いのにと
子供なのにそう思っていたし、根暗でしたよ。

19から教会に行きだして、少しだけ、心安らぐ時間も持てるように
なったのは、神様に、
お父さんと呼びかけれることが大きかった、。

賛美することが楽しくて、聖歌隊にも奉仕で入って、
さやかに星はきらめき、を、ソロパートで、歌わせて頂いたり、
心が満たされましたね、。

一時的な満足感でしたけど、それまで、人の温かさというものを
感じ取れる機会が少なかったので、、新鮮な感動でした、。

生きていく中で、喜びと悲しみと、
どちらので出来事が多いと思考して見ると、、
悲しみ、辛さの方が、ダントツです、。

人を救わせる役目を与えたいとなったなら、、
とことん苦しまされる目にあいます、。
イエス様も、苦しい生活の中で、、人に救いを与えました、。

楽して生きてる人の言葉は、薄いのです、。
深みがないのです、。

苦労が足りないから、人を思いやれない、。
自分が、そういう態度だから、因果応報で、人から冷たくあしらわれると、
思いやりがなく高ぶってて信仰者らしくない、となじる、。笑


苦しみが多いというのは、
有り難くない話ですが、私自身の体験なので請け合います、
苦しみを知らなければダメなのだと、、それは、
天の御意志と諦めて下さい、、。苦笑

と言われても、、苦しむ当事者であれば心中、納得行きませんよね、。
なんで、こんなに理不尽な目に、、、と、
棄教したくなったり、神様に不信したり、色々マイナス要素が、
ドドド、、と襲いかかって来ます、。

私は、未熟者でして、上で書いた通りに、、
ここで、一気に鬼ババ化、、
神様に対して恨むわ、文句言うわ、当たるわ、。
呪詛モードで、、人を憎むわ、、睡眠障害にノイローゼに、
自殺未遂もで、、もう、人格崩壊一歩手前でした、。

よくもまぁ、ここまで極限状態まで落として追い詰めて下さって、、と
ちょっと、、そう思わないこともなかったですけど、、

あ、これ、お父さんに、ちょっと物申すってことだわね、。と
いえ、なんでもありまっせーーーん。
すべて、御心のままに、。と大慌てで思い直し、。

死ぬか生きるかの瀬戸際、。

心はもちろんのこと、
身体も弱りきってボロボロでしたもの、。
自分が、、苦しんだことがないと、、
人の苦しみには心寄り添えないです、、、。

だから、、皮肉なことに、神様に従おうと志す者こそ、
一般の人より多く苦しまないといけません、。

神様に従い尽くすというのは楽な道じゃないです、。
私は、死ぬ一歩手前まで、極限まで苦しんだおかげか、
それ以降は、あまり大きな苦しみはないです、。

なんで??まぁしょうがないか、、程度の出来事だけ、。
あまりに苦痛が大きかったから、他のことが屁のような、、、。
割と人から見たら大事な出来事でも、、辛いとは思わなかった、。

罪の重さで心が潰れ、苦しんでる中で、
神様を遠くに見つめ、狂おしいほど求め、、
そう出来ない自分を嘆き恨み死を願い。

心が潰れ、半ば狂いかけの極限の中で、
今、死にゆく私は何が欲しいのか、、
神様がほしい、。どうしたって欲しい、。

でも無理、してはならないことばかりして
背いちゃったから、。と自己裁き、。

心に残るは後悔ただ一つ、。
私、、神様と離れたくなかった、。ってことのみ。

だからか、好きコールは、、、
いつも、、お父さんへ好きコール、。

イエス様のことも大好きなんですけど、
思考が向く先が、お父さん!なのよね、、。
なぜだか、自分でも、わからない、。

物心ついた時から、、
神様を、、探していたのと、
お父さん、、つまりは私の家族になってくれる神様、、に
一目惚れしたわけだから、、
思考の向く先がお父さんなのかな、。

それとも、イエス様も神様だから、
ひっくるめて、神様という意味で、、なのか、、
のどちらか、かしら。

少なくとも、神様が、
世界一好き、大好き、、離れない、。
ということは同じ、。

先に、一目惚れ、、という、人間的感情から
イエス様と、お父さんの所に飛び込んじゃって、。
何一つ、キリスト教のことも、礼拝がどういうものか、とか、
洗礼とか、聖餐式のことも何も知らなかった、。

キリスト教会に関する宗教書は、読んでなかった。
関わりそうなもので読んだことがあったのは、
文語訳のエホバさんに居た時に購入した聖書だけ、。

エホバさんに居た時に、神様の名前をエホバだと聞いていたけど
教会では父なる神様とか主とか、神様とだけ呼んで、
名無しであることにびっくりした、。

名前なくてもいいの?と思ったけど、すぐ慣れた、。
こんな状況だったので、、
受洗時、ほとんど、何も知らない状態でした、。

知ってたことは、受洗前にする、お勉強内容と、
神様が天地創造の神様であることと、
イエスさまのお父さんであることと、
人が大好きな神様であることだけ、、はわかっていた、。

ろくに、わからないまま、
神様を、早く、お父さんと、
呼んでもよい立場?(客観的にはそう見えた)
になりたくて、牧師に、早く洗礼を受けたい〜〜〜。
と言ったけど、

洗礼を受けたいなら、
ちゃんと、色々とお勉強をしないと、
ダメなんだよ、ということで、、我慢、。笑

じゃ、、早く勉強終わらせたい、、と、短絡思考の私は、、
毎週日曜日、朝の礼拝時、そのまま、教会に残って、夕拝も出た人、。
お金いくらか出して、牧師のお家で、ご飯頂いたり、
裏の長老さんだった信徒さんのお家で、ご飯頂いたり、、

当時は、、そういうシステムでもあるのかな、という感じで、
疑問ももってなかったけど
まぁ、、今にして思えば。実に非常識、。

お前、、まじで、一回、自分ち帰れ、って、
本音のところでは思われてたでしょうね、、って話。苦笑

でも、牧師夫人に夕食のお買い物を頼まれて
スーパーに買いに行ったり、初めて包丁で、りんごむいたり、
色々しました、、、。

それまで人様の家に行く機会がなかったからね、。
家と仕事先の往復、、忙しい時は12時まで残業して、
ファミレスでご飯食べて、寝るという感じで、忙しかったから、。

当時は、コンビニない、、でも
お弁当屋さんが、歩いて10分くらいで、わりとそばにあったし、
お弁当でも私は全然良かったんだけどね、。

後にも、先にも、牧師とはいえ、
人様のお家に上がり込んで、一緒に
晩ご飯を食べるというのは、その時だけだったですね、。

逆パターンで。家で、ご飯食べていく、という
息子の友だちは中学、高校時代と、わりと一杯いましたけど、。
前もってのアポなし、いきなり、が多かったので、、

冷蔵庫と、お財布と、相談しながら、なに食べさせる?
何、今、ある?と、大騒動でしたので、、昔を思い起こすと、、
牧師夫人も、日曜だけとはいえ、、大変だったろうな、、と

残り物、、で済ませたくても、私が一人いたせいで
出来なくなっちゃってたわけだし、。
苦労かけさせちゃったな、、ごめんなさいって
天国行って会った時、謝らなきゃね、。と、後からよく思いました、。

このように、後から、、自分が経験を積んできて、
当時、関わっていた人の気持ちを、遡って、おもんばかることが
次第に出来るようになるわけですが、。

聖書の中に書かれてる神様の想いも、、
人が人としての経験を積む中で、、
苦しむ人に寄り添うのと同じようにして、、
神様の心に寄り添いたいと思う時に、、心、、ハッとして、

この時、お父さん辛かった、、のかな、、とか、
辛い気持ちで黙ってたんだな、、とか、、
辛いと想いながら、打ったのかな、、とか、、

心の中に、神様の想いに共感したいと思う自分が生まれて、、
神様の思いに寄り添いたいと願い、更に想いを向ける、。

神様の摂理のご計画の全容ということであれば、、
それ自体は深淵であり、人には認知不可能なことです。

なぜなら、神様に人が背いた場合と、従った場合との二通りの道が、
全人類分備えてあるということなので、、、、
すべての認識は、有限の命の人であるままでは認識不可能です、。

死んで霊となった時に、自分に関わる部分だけは、
見させられる形で理解出来ます。

でも、、聖書の部分部分において、
使命者とはいえ、人間が関わってきた部分においては、、
使命者の心に寄り添い、その使命者に、命じた
神様の想いなどを、、おもんばかりながら、思考し、

そうすることより理解しようとすることは可能なことです、。
使命者も、自分と同じ人間で、
自分が同じことを命じられたら、どのように感じたり思うか、
色々試行錯誤する価値は大いにあります、。

なので、仮説はいくつか書く場合があります、。
自分の気付きの段階、経験値が増えることで、
理解が深まった場合、また別の気付きがあるからです、。

なので、、聖書は、無限に気づきが与えられ、
理解が深まり続ける神様の書物です。
生きている人が、摂理を認識し切るのは無理としても、、、

神様の御心、想いを理解をしようと、、思考を研ぎ澄まし、
深く深く探求し続ける努力をすることは、、
信仰者の努めであると、私は思っています、。

特に、牧者という立場であれば、、これを怠ると、
毎回、同じ御言葉のところで、似たような
説教内容と、書いたメモの棒読み、、という、、
実につまんない説教を、私たち信徒に強いることになります。
(ちなみに、半人前のまま牧師になった牧師の説教が、そうでした。実際に、見て聞いたから、信徒としての率直な感想です。)

牧師個人の信仰体験も含め、
他の牧者との信仰の理念の意識交感などで、、経験値をアップし
神様の御心に沿い、祈り求め知ろうとし、

そうやって、神様との個人的関係で得た、新たな気づきが、、
説教にも生きてきて、聖霊も働き、、
心がウキウキするような、霊的満たしを得て、
信徒は霊のパンに満腹して、俗世間に帰れるわけで、、。

私は、平信徒ですし、女ですけど、、それでも
神様のことを、 深く深く、生きている限り、突き詰め続け、
心寄り添い続けたいのですね、。

なんでかというと、上で書いたように、
私にとって、神様は私のお父さんです、。
そしてお父さんは、人のために働きづくめです、。

休む暇もなく、、。
お父さんは、御座で、ふんぞり返っていない、。
人を日々、救おう、、間違えた道にいかないよう、気づきを与えようと、
働き通しです、。

ヨハネ
5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」

まだ、霊的なものに敏感だった時代に、、父さまが働いておられたなら
霊的なことを否定するものが多くいて、聖霊が働きづらくなっている現代は、
どれだけ、父さま御自身は、骨を折るがごとくに働いておいででしょうか、。

イエス様も、生きていた時に神様を否定し従わずに居て、
地獄世界に堕ちて、苦しむ多くの霊なる人の中で、、自らの罪に気づき、
悔いて贖い期間が終わった霊たちを、
神様の御許へと、導かれておいででしょう、。

これだけずっと働き通しで大変なお父さんの気持ち、
イエス様の想いを、、少しでも汲み取りたいと願い、聖書のことも、、
そうやって、神様の想いに寄り添う形で
自分が気づいたことなどを自分なりにわかりやすく
記事に書いたりしています。

ある人は、、神様を人は理解できないと
事あるごとに言っているようだけれど、、、

人は、自らの経験をもとにして、、
神様の想いに自分の心を寄り添わせることは出来る、
と私は思うので、少しでも多く理解出来るようにと、、
死ぬまで神様に、問いかけ続けます。

そうしてお父さんである神様に向けて、、
私の心を寄り添わせることで得た気づきを、、
ここで死ぬまで、書いていきます、。

私は、人風情が、神様のことを理解できない、、と、
自己判定することすら、間違っている、と思うのですよ。

たとえばヨブのとき、、ヨブの友人たちは、
神様より自分が正しい、なぜなら、罪を犯していない、と
言い張るヨブに、
そんな神に対して不遜なことを言うな、へりくだれ、。と
叱りつけました、。

人の感覚で、そのまま客観的に聖書をみたら、
ヨブの友人たちには、落ち度があるようには、人には見えないでしょ、。

でも、行いでは、間違いがなくても、
想いのレベルでは彼らには間違いがあったのでしょうね、。

神様は、行いではなく、心を御覧になられますから、。
その後、神様御自身が、最後は、ヨブにも友人達にも、
判定と指示を与え、裁きを下されました、。

このことから分かるのは
人が、人が見て、是であろうが、否であろうが、
こうこうするのが正しいと、、
何一つ自己判定、及び人に強制できることなど無い、
ということです、。

聖書の規定違反、御言葉への否定など、
反キリスト思考の場合は別です、。

その場合のみ、その思考は、
こういう理由で、おかしいというのは、罪とはなりません。
気づいてても、スルーして何も言わない方が、罪に問われます、。

お前がしていることは正しくないと、
誹謗中傷し持論を押し付けるような行為は、、、
自分自身が気づかずして、父の御蓙に座り、
言葉を発していることでしかなく、

神様が、ヨブの友人たちに罪ありとし、償いを命じたが如く、、
自分では、それと知らず、わからず罪を犯してしまっているってこと。

更には、それは神様は理解不能なんだから理解なんぞしなくてもいいと
いう主旨で、極論すれば神のことは考えるなという思考であることから、サタンの言葉、反キリストの言葉を発してしまっていることになります、。

そういうことをする人のことは、、哀れだと、、おもいます、。
たぶん、今のままなら死ぬまで、自分は正しいと信じ切りながら、
行きつく先は、地獄で、、孤独感も消えず、、
霊界を悠久の時、さすらい歩くのかな、、と、想います、。

ある人に対し、どうでも良いです。と、
つい、思ってしまって、、
ちょっとお叱りを受けました、。苦笑、。

私自身に敵意を持たれても、
誤解もあるだろうし仕方ないとかで
何も怒りは感じないのですが、、。

ケロッと、、
うん、しゃーないな、。鬼女やったんだもん、
馬鹿にされても罵られてもしょうがない、。
言いたい人には言わせておこう、。

でも、神様は、そんな私でも愛してるのよね、。
今は、その時よりはマシだから、そのまま現状維持なんだし、
私と神様の関係は問題なし、って思考なので、
私の事だけの批判だけならまるで気にならない。


で、、、問われたので、、

愛がない言葉でした。
出来るだけ怒りの思いをコントロールして、、
自重するよう務めます。

お赦し下さい。 
と、罪を認め、悔い改めました、。

手を出しなさいと言われて、
差し出したらパチンと叩かれた程度の軽い痛みでしたが、、、

これ、、認めずにいると、追求が厳しくなって、
痛みも雪だるま式に、
倍増、無限倍化するのは、よく承知してますので、
ちょっと痛い程度の内に自己処理しないと、あとが怖い、。


はぁ、。気をつけてないと、、
つい、自我の自分が、ぽろりと垣間、出ますわ、、

だってね、、
お友達や、家族や、自分が守りたいと思うのは、、
自分以外の存在なので、。

私自身よりも身体の外側に在る大切なものへ、と意識が向かってしまう、。
守りたいと思うことも、自我欲の一つでしか無いのだけど、。

自分自身のことは、、自ら滅びたいと、
父さまに滅ぼして欲しいと願ったくらいに
汚らわしい部分が心の奥底にあったのだし、守る価値なんてないし、。

それに、その穢れた自分を、イエス様は、、
それでもお前を愛してる、、と、そのままの私で愛して下さったから、
私は、、消えない平安を得たのです、。

その時、最強最悪、怨嗟にまみれた鬼女、ですからね、、。
それより今の方がマシなら、、、
自己愛に走って、自分をよく見せる必要も、
信仰深い見た目である必要もない、。

なのでカルト団体の信仰者と罵られても、、
あっそ、んで、だから何、笑、くらいにしか感じてなかった、。

迷惑コメントへの対応が、面倒なだけだったので
相手して来ないでと言ってはいたけど、。

スルーしたら、良いよ。
反応すると、おもしろがるだけだから、
無反応のほうが良いよ、と内緒コメ頂いたので、
それもそうだわ、、と思ったので、、
そうすることにしますわ。

信仰に、、あれば、良いのは、
神様に寄り添いたいと思う、神様への真実なる想い、、
強く慕い求める私の気持ちだけ、。
そこだけは、、私、気合いを入れてます、。
他に取り柄がない、。笑

マグダラのマリア

とある人が言っていた、神ほど残虐なものは居ないと、、
悪魔が手をかけ殺したのは、、ヨブの時くらいで、神は、ノアの箱船の時やら、ソドムとゴモラやらで、虐殺してる。

だから、そんな神を信じるキリスト教(カトリック)も、虐殺してた、、って。


ソドムとゴモラより、ノアの洪水で滅びた人間の方が多いので、ノアの洪水のことで話を進めますが、、。

聖書中だと、サラッと洪水が起きた、と書かれているけど、ノアの洪水を起こすまで、相当の年月、父さまは、人が自ら、行く方向を改め、行いを正すことを待っておられたはずです。

何世代も待って待って忍耐して、、
でも、時間をいくらかけて待っても、人が愚かにも、、
サタンに支配されすぎて、幼い時から親の悪行をみて育った子供たちが、幼いうちから親と同じように悪行を行うようになり、、心苦しくなられた。

大人だけならまだしも、幼い子供たちまで、罪を犯すようになってしまっていたから。
今のままの人類をそのまま残しても、良くなりそうもない。
かえって罪が重くなり続け、人が苦しむだけになる、、

正しい生き方をしている人の生んだ子供から子孫を増やし、彼らを祝福して再出発させ、人類全体をリセットしよう。
大きな罪がない赤ちゃんも、幼子も、、可哀想だが滅ぼそう。

子供が大好きな父さまにしたら苦渋の選択。

それだけではなく我が子として創造した人を、ほぼすべて滅ぼすこと、辛くない訳がない。
極悪人だけではなく幼子も赤子も居たのだから余計です。

罪多き世代ばかりの子孫からメシアを生まれさせるのは、容易に出来ない。正しい人の子孫からでないといけない。
ノアは、悪人だらけの世にあって、義人として生きた唯一の人。

ひとりの人間アダムから原罪が広がったのと逆、、ひとりの義人から、原罪の影響が少ない子孫を新たな人類として増やし、彼らの子孫からメシアを生まれさせるために、苦渋の選択として世界中に大洪水を起こし、、ノアたち以外は滅ぼした。

それだけじゃなく、カインの子孫は7代めまでで、滅ぼされることが決まってしまっていた、彼らは、神様に従い直すことを選ばなかった。

むしろ、カインの子孫のレメクは、神様に呪いの言葉を吐きます。
創世記
4:24 カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。

これは要約すると、
カインが失敗してアダムから7代めに救い主メシアは現れれなかったじゃないか、これで77代あとまで、メシアは来れないぞ、ざまあみろ。という意味で、

7倍は7人分と言うことで7世代という意味です。
カイン(を打つ者)は7倍、アダムから7世代目、カインの子孫レメクはその10倍(償いの数は10倍) 7かける10で70、すでに7代経っているので、それを足し7足す70で77。

イエス様はアダムから77代目です。
レメクに関しては、こちらをお読み下さいね。

不信仰ゆえに滅ぼされることになったカインの子孫、6代目レメクの子らヤバル、ユバル、トバル・カイン、ナアマ
が7代目として産まれ、名前は記録されなかったけれど、彼らから8世代め以降の子孫も生まれています。先祖となったという言葉があるので、。

カインよりあとから産まれたアダムの子セトの子孫たちより先に子を生み出したカインとカインの子孫たちの方が、当然、子供が産まれた数が多いはずでしょう。

創世記
4:18 エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。
4:19 レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。
4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。
4:21 その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。
4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。

ノアの洪水が起きたころ、このカインの8世代目以降の子孫たちの方がノアたちの先祖から産まれた人より多くいたわけで、、、彼らの名前が書かれてないのは不信仰ゆえです。

滅びが決定する猶予期間の7世代目までは名が記録されました。

カインの子孫、7世代目以降は子供が産まれず絶えたと思ってましたけど、よく読んだら先祖となったの一言で、子供は、産まれていたけど、カウントされてない、ということなのですね、、居ないと同じ扱いです。

だからノアの洪水は、ネフィリムと呼ばれた堕落した天使が、人の娘との間に産ませた産まれてはいけないはずの人とは違う異種の者らと、滅びが決定していた多くのカインの子孫たちと、ノアとノアの家族以外の不信仰なアダムの子セトの子孫の人間とを、滅ぼすためのものだったのですね。

ネフィリムは、、堕天使たちが人の娘をめとり、そこからネフィリムが生まれました。ネフィリムは「みな仲たがいをして共食いをし、お互いを殺しあった」と言うので、、凶暴で罪深いことがわかります。

進撃の巨人じゃないけど、食べるものが尽きて飢えたときー普通の人間も補食してたらしい。

過去記事

エノク書では、これをした天使の長アザゼルに、お前たちは地上に恐ろしい災いをもたらした。お前たちには平安も罪の許しも与えられない。いつまで嘆願しても、憐れみと平安を得ることはできないであろう。お前が不義を教え、人々に不信と不義と罪の仕業を示したからだ。とエノクが言ったとも、書かれていますので、

尋常ではない災い、、人食行為が、ネフィリムによって引き起こされて、地上は不義と不信と悪に満ちていたのでしょう。

お前たちの愛する子供は剣で滅びると、エノク書で書かれていますので、ネフィリムに、同士討ちをさせて、ノアの洪水のころには彼らの生存数は大幅に減っていたと思われます。

そうでないと、ノアの洪水の時に、ノアたちと動物たちの食べる大量の食糧をノアは確保出来なかったでしょうから。
ネフィリムが大勢いたら彼らに食べられちゃって食糧不足か下手したらオケラです。

地上は、不義と悪が横行していたし、ネフィリムたちの汚れた血も、多く地に流れ出て、穢れきっていたのですね。そういう穢れを払拭したのがノアの洪水。

凶暴な巨人族をそのまま生きさせていたら、、滅びるのは普通の人類の方です。

カインの子孫は悔い改めて、罪を犯さないように生きれば良かったのに、それをしないで、自分勝手に生きて、あとから産まれたセトの子孫たちにも悪い影響を与え、ノアたち以外は、、神様に背いて生きていたのでしょう。

100%の義人では無くても神様に従おうとして努力していた良い人がノアたち以外にもいたのなら、神様は、アブラハムの甥ロトをソドムとゴモラを滅ぼすときに助け出されましたし、

ニネベの町も滅びると通告されたけれど悔い改めて行いを改めたので滅ぼされなかったのですから、ノアたちと共に救い出されたはずです。

ノアたち以外、神様を信じ従おうとする人は、残念ながら居なかったのでしょう。

あなただけが、神様に従う人と、
ノアが500歳の時くらいに神様から言われているし、
その時も、ノアの祖父のメトシェラ869歳で、、生きていたけれど、

あなただけ、、つまり、ノアだけ、、です、、
正しい人と神様が認められたのは、、。

あとは、、全員、、、正しくなかった。
背いてたということ、、。

ちなみにイエス様の系図は、神様に正しいと認められた人たちの系図。実際には77代ではないでしょう。
神様から正しいと認められなかった罪ある先祖は省かれています。正しい先祖から続いて、、77代目がイエス様。

イエス様の系図は正しい信仰心ある人たちの系図です。
イエス様を世に送り出す為には、、77代は、誰でも良かったわけではなかったのです。

正しい信仰者、、神様側の人たちが、77代分です。
そうでなければ、、イエスは、信仰心のない罪人の子孫だから、神の子ではない、。汚れた血筋に産まれたから自分の支配下だと、サタンが神様やイエス様に、知らん顔して反論出来ますからね、、。

どうしてもメシアを地上に送り出す為には、悪を行う血筋を排除し、信仰心のある人の子孫から、やり直す必要性があったのです。

人の原罪を清め赦せるメシアをこの世に送り出し、人の罪を清め、サタンのくびきから解き放って救うためには、、。

父さまは、御自分に従わないから、気に入らないという理由でノアの洪水を起こしたわけじゃない、、。一刻も早く、人を原罪から、救い出すメシアをこの世に送り出したいと、願われてのこと、、。

人を罪から救い出すための苦渋の決断。
人のためなのです。
メシアが産まれるまで、何十倍何百倍何千倍の時間がかかっても良ければ、、ノアの洪水も、人を戒めて天からの火で滅ぼすこともしなくて良かったのです。

神様は、永遠の御存在ですから、メシア誕生まで何億年かかっても良いのですから、、。
人の負う罪の苦しみを早く取り除けたいから、メシア誕生を早く、、と願われた親心からです。

人間みたいに怒りや憎しみから、洪水や天災を起こしたわけじゃない。断じて違います!

人のためだと思えばこそ、、永く罪の重さやサタンに捕らわれたまま苦しみ続けるのは憐れだと、人を深く憐れまれてのことだから、。

父さまは、悪くない。
悪いのは、神様は、居ないと同じ扱いして従わなかった人たちの方。
今の時代より自然も多く、花も草木も豊かに生い茂ってて、
木の実、野菜、魚、多くの食べ物を、自然界から豊かに与えられていながら、

なぜ、それらの天の恵みの与え主である父さまに感謝しなかったの!信じなかったの?大馬鹿です。
どこからか、湧いてくる訳ないんだから、。

人が畑や田圃を作って苗の世話をして、神様が雨と太陽光と適切な気温を保って下さらなければ作物は育たない。
人の手だけじゃ物は育たない。

神様がおいででなくて、自然界がほぼ毎日同じような状態じゃなくて、毎日、嵐や暴風、カンカン照りや、大雨小雨、と安定しない天気状態なら作物なんて作れないからね。
海から魚取って食べることしかまともに出来ない。

ノアの洪水より前は気温が今より温暖で、太陽光も穏やかで、作物が育つのも早かった、、豊かな大地の恵みがあった。それなのに神様に感謝しなかったのだもの、信じなかった人間が悪い。

それに父さまは、いきなり大洪水を起こしたわけじゃない。
前もって洪水を起こすとノアに告げ、ノアは人々にも告げた。
人々は、それまで洪水になるほどの大雨はもとより、普通の土砂降りさえみたことなかったのでしょうね。
雨が降って、それが洪水を起こすほどになるということを信じないで馬鹿にした。そんなこと起きるものか、、と。

警告も与えても、信じなかったのだから、父さま側に落ち度は無いです。雨が降り出してから後悔しても遅い。
父さまの御手で戸が閉じられた後ではね。
ノアの手では開けれないのだから、、。

父さまは、警告もしてから滅ぼしてるから、滅びから逃れる道は与えられていた。悔い改めて信じれば良かった。行いを改めれば滅びないで済んだ。何度もいうけど父さまは、悪くない。

マグダラのマリア



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