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自分が棄教するのは自己責任と、
そう羊が、思い悩むように仕向けた牧者がいたのなら、
その牧者にも責任があるけど、、、。

自分が棄教してよかったと思うから、、と、、あるところで、、
他のクリスチャンに棄教を、それとなく、すすめているのを見た、、。
反キリスト行為になるから、やめたほうが良いと思うのだけれど、。

もし、誰かが、その自分の言葉で棄教してしまったら、
その棄教した人が、再度、神様を信じるまで、
罪が赦されないままになる、。

自分が棄教しただけなら、自分が、反省して信じ直せば、
それで終わるけど、
もし、、人を巻き込んでしまうと、、
自分の発した間違った言葉の責任を問われる。

見えない世界の法則は、、シビアです、。
責任逃れは、、出来ない、。

だから、、私も気をつけるようにしています、。
反キリストの言葉を言ってないか、、とか、
神様の御心に反することを言っていないか、、、とか考えていますし。

私のせいで、誰かが躓いて棄教したら、その責任は自分で取ります、、と
昔にも言って、、いますし、。

誰であれ、、イエス様を棄てさせることは、、重罪なんです、。
棄てた人が、、棄教して苦しんでる間は、、、
棄教させた人は、その罪が赦されない、。

無知ゆえに、知らずに罪を犯すとしても、、
償いは、、軽くはない、。

、、どうぞ、御聖霊よ、。憐れんで下さい、。
イエス様、という光を失った羊を、どうぞお導き下さいますように、。


マグダラのマリア


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イエス様が仰った、、
人は死んだら、天使のようになるとは?どういうことなのか、、
と思ったので、、聖書は、天使のことについて、
なんと書かれているのか、検証と思考してみました、。

死んだ時の人の霊の体の年齢が、、、
肉体的年齢と同調しているのか、、していないのか、。
いつまでも、死んだ時の霊の姿のままなのか?


創世記
32:2 ヤコブが旅を続けていると、突然、神の御使いたちが現れた。
32:3 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言い、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けた。

ここの御使いたちは、神の陣営、と書かれているから、、
ヤコブには、訓練された若々しい兵士の群に見えたわけで、、
少なくても、成人しているように見えているわけで、、
見た目は20歳以上ということ、。

士師記
6:21 主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。

杖を手にしているということは、若者や青年ではなく、
少し年を重ねている姿だと思われます、。
羊飼いと、山路などを旅する旅人や、
当時なら、、少し年を重ねた50歳を過ぎた人、、などが
杖を持つものですから、。

第二マカバイ記(旧約続編)
3:24 彼がその護衛兵と共に宝庫に足を踏み入れたまさにそのとき、霊とすべての権威を支配する者のすさまじい出現があり、不遜な侵入者たちは皆、神の力の一撃におののいて腰を抜かした。
3:25 見る者を震え上がらせるような騎士を乗せ、絢爛たる馬具で飾り立てた馬が現れ、ヘリオドロス目がけて前足のひづめで猛然と襲いかかった。馬上には金の鎧で身を固めた者が見えた。
3:26 その前に、二人の若者がいた。筋骨隆々、眉目秀麗、燦然たる装いで、ヘリオドロスを挟んで鞭の雨を浴びせた。


筋骨隆々なので、人で言うと、、
20代後半から30代くらいの血気盛んなころの姿かな、と。
新約聖書のほうも、、天使や御使いではなく、若者、、
と書かれたりしています、。

マタイ福音書
22:30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
22:31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。


人は死んだら、天使のようになる、、は、、
天使そのものではないけれど、その性質が似ている状態になる、、
ということです、。

天使は、普通は、若者、、
でも、聖書を検証してみたら、20代、30代も50代?もいるみたいだし、。
概ね、、天使が若い姿である、ということは、、

天使のように、、人が似た状態となるというのならば、
人が死んだ直後は、肉体の意識に同調した年齢の姿であったとしても、
本人が望む若い頃の年齢時の姿になれて、若々しくあれる、ということ、。

ただ、、死んだあと、何歳くらいに若く戻れるか、、、
もしくは幼くして生まれないで亡くなった子らとかは、
育つ方向になりますので、大きくなるかは、
それぞれの霊の人の心の状態によるので、個人差があります、。

5歳の姿のときが良ければ、5歳の姿になるでしょうし、
10歳代が良ければ、10歳代になるでしょうし、
20歳が良ければ、20歳になるでしょうし、

逆に年齢を重ねた姿が好みの霊の人は、
死んだときの、そのままの姿や、中年層の姿になるだろうし、。

ただ、全員が、そう、天使のようになれるのではないのですが、。

たとえば、地獄に行った人、霊人として目覚めてないままの人、、
意識が、肉体にあった時点に縛られて停止している人、
自殺して苦しいままの人、。とかの
例外は、あるけれど、。

例外の人というのは、、
信仰心がなく、
天の神様に繋がっていなくて、
霊的に言うと死んでいる霊の人のことです、。

例外以外の、信仰心があり、神様を畏れ敬って、
神様の御心にそう生き方をしようと努力する、、
ほとんどの人が、霊が生きて、若々しい状態であり、
死んだときの見た目より、自分の希望の年齢まで、
霊の身体も見た目が若くなれる。

中には、特別に霊が輝いてて、生きてて、、
肉体的にも若いままの状態を維持する年齢不詳の人、、もいますけど、。
彼らは、霊的な身体の年齢が肉体年齢よりも、ずっと若々しいのです、。

霊の身体は、、肉体年齢よりも、死んでからだけではなく、
生きている間も、若々しくあれることは可能です、。
身心霊一致ですから、、生きている間に、霊の身体が若々しければ、
肉体も、それと同期して若々しくあれます、。

霊の身体を、若々しく保つには、
心の中に夢や希望や愛とかも持って、人生楽しんで、活き活きと
心が輝いてることかなと思っています。
心が病んでると実年齢より老けて見えますもんね。

ちなみに、、私は、若い時は老け顔で、老けてる、、と言われてて、
今頃になって、同じ年齢の友達から、若い、と言われてます、。
若い時に老けてるといわれても、
老後に若いといわれた方がいいかも、。

娘も、老けてるね、、と人から言われてるみたいです、。
遺伝子??

私、肉体年齢は、、51だけど、希望としては10代くらいの,
あれこれ頓着しなかったころの、、
感覚(霊体の年齢ではなくて精神年齢)のままで居たいな、。
だって、、悩まなかった頃の感覚で居たほうが、
何か起きたときでも、、悩まないでいいから楽なんだもん、。

肉体的に80まで生きたとしても、
霊体の年齢は、30歳くらいでいられたらいいな、。
夢は高く、、希望も高くにぱっ。
早く老化したくないからさ〜〜〜。

私の母は、、70歳まで自転車こいでたよ〜〜。若いでしょ〜。
見た目も、実年齢は80近かったけど、
60歳くらいにしか見えなかった、、。これも遺伝??


マグダラのマリア

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悪魔が敗北する時、。

悪魔は、、最初は無垢な天使だったのに、、
人が神様の子として創造されたのを、
憎み妬んで、サタンになった、。

人がサタンと同じ思考をするうちは、彼の支配下、、。
彼がイエス様に敗北したのは、、
イエス様が、サタンの言いなりに動いた人を裁かずに、
赦し愛したからです。

サタンは、イエス様が苦痛のあまりに、
神様を呪い、人を罪ありと裁くに違いない。
と思っていた。
イエス様に裁く権威もお有りだったしね、、。

サタンはイエス様に人を断罪させ、
神様を呪わせ、神様に罪を犯させて、
堕落させようとしてた、、。

サタンは、人の子の持つ肉体の苦痛をよく知って居たから、
アベルのときのように、肉体的苦痛を与えたら、
いくら神様の御子のイエス様でも、肉体を持つ以上は、
苦痛のために我を忘れて、神様に呟き人のことも裁き呪うと、
ほぼ確信していた。

だって十字架は、、最も肉体の苦痛が長引く処刑法、。
でもイエス様は、そんなサタンの思惑と全く逆をなさった。
イエス様は、サタンの言いなりに動いた人を裁かずに、
赦し愛した、。

サタンからすれば、主犯格の自分をもふくめて、
イエス様が、愛し赦したことになるので、、
焼きごてを当てられたように辛いのです。

イエス様に罪がないことは、
サタン自身が一番わかっているのですから。
罪がないのに、人に罪人のようにあしらわれ、罵られ
それでも神様を慕い、
人を裁かずに愛し赦したイエス様を見て、、、、
サタンはイエス様の、その完全愛の前に敗北したのです。

イエス様は、何も落ち度がないのに、、、
理不尽な死に方をさせられても、、
神様に恨み言一つ言わず、人も裁かずにいました、。
サタンは、神様につぶやき、離反したのですから、
神様への信頼や愛の度合いも、
サタンは、イエス様に負けたんです。

サタンよりイエス様のほうが神様を愛している、。
この明確な事実を突きつけられて、
自分が入っていたイスカリオテのユダの口を通して、
罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました、、と
サタンは敗北を認めました。

サタンに完全に勝つには勝利者であるイエス様に繋がる事と、
イエス様のように愛を持ち指し示すことで、
神様の子であることを証しを立て、愛でサタンに勝つこと。
サタンも元は天使、愛には憎しみでは絶対に勝てない。

憎しみで肉体を傷つけ滅ぼせても真実の愛までは滅ぼせない。
全ての人が、憎しみや、怒り、そねみ、妬みを捨てて、
真実の愛を持つとき、サタンは、人にも完全敗北する。

人の信仰次第なんですよ。

神様がサタンを滅ぼさないのは、
原罪は人とサタンが生み出したものだから、
人が自分の意思でサタンの誘惑に打ち勝って、
真実の愛でサタンの偽物の愛に勝たないといけないからです。

マグダラのマリア


数年前、キリスト教を棄教した事があります。
勿論、、教会の牧師に除籍をお願いした訳でもないから、
心でクリスチャンでいる事を止めたというか、、でも、、、、、
また数日後、すぐに再開したので棄教ってよりは、、
休んだと言うべきなのでしょうね、。

でも、一旦は、キリスト教は捨てました、。
神様やイエス様からも離れようというか、
考えない、、話しかけないようにしようとしました、。

自分なりに踏み絵をしたわけです、。
でも、、心が潰されて、息も切れて、、胸はバクバクしだしで
苦しくて寝られなくなりました、。

踏み絵、、軽くじゃなくてベタって踏んだから
「本当に踏んで平気なの?」
「神様がいなくても、不安は無いの?」と
踏んだ事自体の痛みや苦しみではなく、、、

神様居ないと無理でしょ?という、、
神様への甘え、、依存する想いが出てきて、、
こんな考えで神様を求めて信じてたのか、私は、と思ったら、
それが辛くて苦しくて、、。
死にそうに苦しかった、、。

そういう苦しみの中で、、
頼るのは心。心に神在りと信じ思う事。それが則ち信心なり、、と、
示されたので、苦しみから解放されました、。

信じるってことは、自分の心の中に、
神さまが一緒にいらっしゃると、、信じることで、、
それがなかったら、どんな教えを信じてても形だけの信心なのだと、。

それがあるかないか、、が、信心があるなし、、なんだと気づけて、、
神様を口先だけで信じてたら、、要らないと思った時に
捨てることや、失うことに、何も苦痛はなかったと思うのね、。

私は棄教したら、心が潰れたんだから、、
神様を失うこと=自分の心を失うのと同じくらいの
ウェートを占めてたんで、。

神様と、居ないと、、私、生きていけないんだ、、。
神様を失うと、私の心も、一緒に死んじゃうんだもの。

一度失くしてみると、どれだけ大事か、どれだけ必要か、、がよく分かる、。
逆に、どれだけ不必要に思っていたものもわかる、。
教会に、なかなか行けてなくても、苦しいと思わなかった、。
なのに、神様棄てようとしたら、、めっちゃ具合悪くなった、。

私は神様とイエス様は絶対的に必要だけど、
教会は絶対的に必要なものとはしてないみたい、。

教会に行くことに魅力を感じてないのに、。
私が、クリスチャンでいたいのは、何でだろうと、、
心のなかで、、色々削っていったら、

キリスト教の教えが凄いからでもない、。
教会自体が好きなわけでもない、。
牧師が好きなわけでもない、。
最後に残った気持ちは、、
神様とイエス様に惚れてるから、、だった、。

大惚れ、、死んでも離したくない。
永遠に傍に居たいと願う恋人とか夫のようなお方、。

棄教して、すっきりするような人は、、
教会や牧師、そこに集う人につながってて、、
そういう人たちとのしがらみのせいで、重荷になって、
棄教してせいせいした、、ということであって、
神様を愛する、イエス様を愛する、従いたいと思う心、、
信心という心を、、持って居なかったから、そうなのよ、。

信心する心があれば、、
それを失ったら、、、心が騒いで、どうにもならないはずだもの、。
まだまだ、、信仰の入り口で引き返した人、。
まだ本当の信心を身につけるまでは時間がかかるでしょうね、。

それでも、
イエス様が一旦、与えた原罪からの救いは、反故にはされない、。
永遠に、その人のもの、。

人が棄てても、、
イエス様は、、永遠に人を棄てたりしない、。
父さまとイエス様の愛は、、永遠に変わらない、。

私は、、神様もイエス様も、、もう二度と棄てたりはしない、。

一旦、棄てたこともあるから、、
その苦しみも知ったから、という強みもあるけども、。


私の父さまとイエス様に、、永遠についていく、。
私の心が悲しみで死なないためにも、。


マグダラのマリア

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マタイ
15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエス様の足もとに横たえたので、イエス様はこれらの人々をいやされた。

これ、口語訳だと、
15:30すると大ぜいの群衆が、足なえ、不具者、盲人、おし、そのほか多くの人々を連れてきて、イエス様の足もとに置いたので、彼らをおいやしになった。


文語訳だと、。
15:30大なる群衆、跛者・不具・盲人・唖者および他の多くの者を連れ來りて、イエス様の足下に置きたれば、醫し給へり。

英語だと、。
NET Bible
Then large crowds came to him bringing with them the lame, blind, crippled, mute, and many others. They laid them at his feet, and he healed them.

They laid them at his feetは、
彼らはイエス様の足元に彼らを(横にして、寝かして
)置きました。

醫しは、、医やし、で、
病気やけがを治す、癒やす行為、
又はそれを行なう人の意味。


置く、、は、きちんとすえる。
居場所を与える。
、という意味の漢字、。

漢字の足し算では、目+十(十字)+目+乚=直で、、
真っ直ぐ相手(十字)を見えるように居場所を与えてすえる。

なので、、
十字架のイエス様、つまりは神様を見れるようにすえる、。
ということで、

置く、、という漢字のなかに、
癒やし主である神様を見上げる、
神様の御目に直に留まる場所を、用意して、そこに置かれる。
という意味が入っているのですね、。

ここでの置く、、は、
物を、そこにポンと置く、、という意味ではなく、
どうしても、、神様に直に目を留めて戴きたい、、、、
どうか癒やしてほしい、。と、、すごく切実な願いを込めて、、
人々が、病で苦しんでいる人を、癒やして戴くために
神様(イエス様)の御前に連れて行った、
ということになるんですね、。

イエス様も、、切実な想いと願いで連れてこられた人たちのことを、
憐れまれて、、一人残らず癒やされた、わけです、。
単に病人を連れてきたから、癒やしたわけではないです、。

信じもせず、必死に求めて叩こうとしないない人にも、、
救いや癒やしは与えられるものでしょうか?

救いと癒やしを切実に求める想いが、連れてくる人にも、
連れてこられた病人だった人たちにも、あったから、、です、。

漢字の中に込められた意味も考えると、
聖書は、とても深い意味がこもっていますね、。

表面の意味だけだと伝わりにくいことが、
漢字の中に込められていたりします、。

マグダラのマリア


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