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書庫質疑応答の為の書庫

ここは、疑問や、質問を受けたり、答えたりする書庫です。


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献身するって、、甘くないんだけどね、、、。

本当の意味での献身て、、
イエス様が仰った、
結婚できないように生まれついた者のことなんでしょうね、。

自分自身を人として産まれる前から、
実体の捧げ物として生涯を捧げると神様から、
そう定められた人のこと、。
これは、、ごくまれ、、なんですって、。

だから、ほとんどの献身者は、、
後天的に、自分で献身すると決めて、
神様に自分を差し出す人が多いってことになる。

でも、中には、献身してても、、神様にお仕えするという考えではなくて、
牧者という一つの職業としかみてなくて、
教会という組織のトップになって、
信徒を思い通りに出来る、、ミニ社長のような、職業的感覚で捉えて、
牧者になる人も居るんだよね、。

だから、必ずしも、
牧者=神様のために献身してる人、、ではないのよね、。
人が集まり、教会が会社のような組織となってしまえば、、
権力的な要素が産まれてくる、。

いくら、口頭で、牧師は信徒の代表で、同等です、と言ってても、
信徒側は、牧師先生と呼んで、、
酷い場合は、、イエス様や、神様の代理者のように扱い、。
一段も二段も高い所に置く、。

そうなると、、献身する以前に、罪人でしか無い、、と徹底的に
砕かれてなかったりすると、、
牧師も罪人だから、、傲慢にもなるし、支配欲も湧く、。

クリスチャンだから、全員が、清い考えを持ってる、、というのは、、
現代では、少なくなってしまっているのかもね、、。

現代では、悪行から離れてないままのクリスチャンも多いし、、
心を病んでるクリスチャンも多いでしょう、。

大概、心を病んでるクリスチャンは、完璧主義、であることが多い、。

クリスチャンだから、、こうでなければ、、と
自分自身に自分が考えた重荷を課す、。

なんかね、、私的感覚だと、、それって、、
赦されるに相応しい自分でないと、、神様は赦して下さらない、、
とでも、、思っているかのように感じる、。

良い子クリスチャンと、悪人クリスチャンなら、
良い子クリスチャンのほうがマシ、。
と思って、、良い人であろうと、努力してるのかな???

まぁ、、悪人状態より、良い人の方が良いけど、。

でも、心の管理は出来てますか??
他宗の人を、異教徒とかサタン呼ばわりして、排他していませんか?

この世の人は、、とか、、クリスチャンのくせに、、、とか
自分は他の人とは違うと言うような想いを持っていませんか?

献金もして奉仕もしてる祈ってもいる時は、救われてると安心出来てて、。
そのペースが、少しでも崩れると、、
何とも言いようのない不安に陥ったりしてませんか?

自分の思い描くクリスチャンらしく像、、、
これって、、、、自分自身の理想像の自分です、。

こうであれば、神様に愛されてる、、赦されてる、。
そうやって、自分自身で定義付けしてるだけ、。

なので、、真ん中にいるのは、結局、自分自身なので、
何かの拍子に、不安になったりして、、救いの確信が揺らぐ、。

すぐ不安になる人は、、皆これと似た心の状態、。
自分自身で、こうであれば幸せという基準点が有り、
それ以下だと、だめじゃん、。とガッカリする、。

でも、そういう人は、、
その状態より、もっと良い状態に、すぐになれたとしても、
もっとよくなりたい、と要らぬ高望みをして、
また、同じようにだめじゃんとガッカリしだす、。

基本思考が変わらないと、
自分の周りの状況が、良くても悪くても、
結局、同じことを繰り返すものなんですね、。

で、、感謝すること、足ることを知らされるために、
持っているものを失い、苦労するはめになって、
あの時のほうがまだマシだった、、と、つぶやき続ける、。

あの時、つぶやかずに、
高望みせずに感謝すればよかったです、。
ごめんなさい、。と反省し、その時点で与えられていることに、
神様に感謝して、家族を大切にし笑顔で生きるようにすれば、、
良い方へと改善されていくんだけど、。

一旦、楽な状態であったりすると、、辛い状態になると、
なおのこと苦しいので、、なかなか深く反省するということは出来ず、、
なんでどうして、早く楽になりたい、、と、つぶやくことの方が多いです、。

なので、、基本思考は、、とても大切な要素です、。
基本思考にすべきことは、、

愚痴やつぶやくことをせず、、周りに感謝すること、、。
自分の身の周りを大切にすること、特に家族、。
良い言葉と良い想念を出来る限り維持して持つ、。

悪い例
出来ない、。無理、、したくない、。嫌い、。やだ、。
潰れてく、落ちてく、、死にたい、、辞めたい、。楽になりたい、。
憎たらしい、腹が立つ、、ムカつく、、悲しい、。苦しい、。
辛い、。怒ってる、、嫌ってる、、好かれてない、。運が悪い、。
他にもありますけど、、、。

良い例。
良くしよう、。良くなる。愛してる、。大好き。仲良し。
出来る、。やれる、。出来た♪、私は幸せ。ありがとう、。
感謝、嬉しい、楽しい、。私は運がいい。ラッキー、パッピー、、
笑顔になる〜〜。私は元気〜〜。やるぞ、。頑張ろう。もうひと踏ん張り。
私は愛されてる、。

一番簡単なのは、
笑顔でいること、何かの時にありがとう、と、
面倒がらずに、口に出して人にいうこと、。

特に、笑顔で居たり、、
感謝の言葉をいうべきなのは、、
自分の子とか伴侶、、自分の家族に、、かな、。

うちは、、良くありがとう、と互いに言っています、。
御飯作ったら、、
子供たちはありがとう、。と言ってくれます、。
食べ終わったら、
ごちそうさま、美味しかったよ、。
ありがとうと言ってくれます、。

私も、、学校いったら、息子に、頑張ったね、、ありがとう、、というし、。
娘や息子に、何か頼んでしてもらったら、些細な事でも、
ありがとう、、と絶対にいうし、。

何にもなくても、私が息子とか、娘の頭撫でたり、、
娘や息子が、ババァ、、頭貸せとかいってきて、、
頭なでたりするのは、、我が家の年中行事、。
子供の頃みたいに、むぎゅ、、と、抱きしめるのは、
ちょっと、、とやりずらい、、と思うけど、。

娘のさらさらの髪の毛を撫でるように頭撫でるのとか、
息子が膝枕してきて、頭撫でてと催促?してきた時に、、
撫でてあげるのは、抵抗なくできるので、、。

子供側も、撫でるという形でいいから、、スキンシップしたいみたい、で、
なんかねぇ、、年だけ、どんどん大きくなっても、中身、、小学生の頃と、
あまり変わってない気が、、、したりして、。

私に、甘えてくる娘や息子、、いずれは、、
誰かのもとに、巣立って行くんでしょうけど、。
お金持ちや、有名人にならなくても、、
健康で幸せでいてくれたら、、
私はそれで、十分、幸せ、。

ごく普通の幸せがあればいい、。
贅沢なんか、しないでもいい、。
生きていけるだけのものがあればいい、。

大金や、良い物があったって、
どうせ、、死んだあと持って行けないし、、
ありすぎれば、子供同士の不和の元になるし、。
生きるに必要な分だけ手に入れば、それでいい、。

それに、、お金や物への執着なんて、、持てば持つほど、
手に入らないというのが、定石だし、。
本当の意味でのお金持ち、、心が裕福なお金持ちは、、
お金をためたい、。お金が欲しいとは思ってない、。
どうお金を使えば、無駄な使い方にならないか、、。を考える、。

心が貧しい金持ちは、大金持ちに成ることを夢見て、
貯めることだけ考えて、あくせく働き、気づいたら年をとって、
自分の貯めたお金は、自分では満足に使えない、。

心が貧しい貧乏人は、
人を羨んで、楽になりたいと考えて、
どうしたら楽になるか、と常に悩んで苦しむ。
心が裕福な貧乏人は、少ないものでも、
家族とわけあって、いたわり合って、、笑顔で暮らせる、。

私は、、心が裕福な貧乏人になりたいな、。
心が裕福なお金持ちは、、色々、責任重そうだから、、
なれるとしても、、ご遠慮。

ごく平凡な人生が、一番楽、。
私は良いクリスチャンだと、人から認められなくていい、。

息子と娘から、良いかあちゃんと言われたい、。
父さまとイエス様にも、、良いクリスチャンという評価より、
子供たちを愛した母親、、という評価のほうが欲しいなぁ、。

マリア



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ある人が、、キリスト教は、
人に罪の意識を植え付けるキチガイ宗教と言っていた。

思わず笑った、。
なるほど、、一理ある、。

でもね、。
人に、守るべき規定を示し、、それを破れば、罪である、、とし、
罪というものを意識させなきゃ、どうなってたか、、

人間は、、、原罪の支配下にあるから、、
自分がそれと気づかなくても、自分勝手な思考や行動をしやすい。
自己愛と、自己保存の思考で考えると、
排他思考となり、自然とそうなる、。

人に戒め、を与えて、、
やられたら、自分の思いの赴くまま何倍にもしてやり返す、。と
いう状態を禁止し、、目には目を歯には歯を、、命には命を、、で
等価賠償、自分がやられたのと同じことまでで、
我慢する、、ということを神様は人に教えられました。

人は、、まず自分がしたいと思うことを、忍耐し我慢する、ということを、
覚えないといけません、。

やりたい放題を我慢して、等価賠償、、が出来るようになったら、、
次は、イエス様は、ご自身がお手本となって
お互い様だから、と許しあうことの大切さ、
互いに思いやることの大切さを教えられました、。

人の精神性が低いうちは、、理解できなかったので、、
神様は段階を踏んで、人を導いたのですね、。

お前らには、原罪があるから、罪を犯してるから悔い改めろ、、と、
創世記の大昔の時代の人たちに教えても、
悪いことが漠然としてて、人によって、
やられたら同じようにやりかえしてどこが悪い。
敵なら、殺して、奪いとって、捕虜を奴隷にしてどこが悪い、。
と考えてたわけで、、分かるワケがないんです、。

精神性が低かった部分があるから、。
現代よりもはるかに高い精神性を持つ人はいましたけど、、
そういう人は、、神様に選ばれて、聖書に詳しく書かれていなくても
神様のために働いたりしています、。

名前が書かれていない、、多くの働き人は、居たはずです、。
その中の、、特に選ばれた使命者が、摂理をすすめるべき人となった、。

罪悪感、罪の意識を植え付ける、、って言うけど、、
罪を自覚し悔いて、神様を信じてすがれば、、罪が無いとみなされるって、
罪からの解放の道も用意されているので、、
片手落ちとは思わないけど、。

だって、、その人はイエス様を信じる=教会に行く=教会に縛られる。
ということを、セットで考えてるから、そうなるんでしょ、。

洗礼は、、イエス様を先に信じて悔い改めるから、、
それを受ける権利が与えられるのであって、。
先に信じてなくて、洗礼だけ受けても、、
悔い改めてなければ、後から、罪に気付かされて、
悔い改めさせられるわけで、。

まず先にイエス様は神様の御子で、罪から救うお力がある、、。
自分はこういう罪を犯しているけど、、
悔い改めることで赦して戴ける、、と、、信じるだけ、でいいのよ、。
それで、、第一段階クリア、。

教会は、、金銭的に、距離的に時間的に行ける状態で、
気に入ったところが見つかれば、
いけばいいんじゃないかな、という程度、。
行きたいと思えるところがないなら、、それでもいいと思う、。

自分の心の中に、イエス様をお迎えしてれば、、何も問題なし、。
形だけ、洗礼受けてても、悔い改めもしないで悪行から離れず、
やりたい放題してイエス様を踏んづけてたら、洗礼の意味ないでしょ?

心の割礼、心がイエス様と触れ合って、
個人的な救いを得ること、これが一番大切、。

牧師は、、教会にこさせたいから、教会行けというけどね、。
まともな教会じゃなかったら、、そんなとこ行っても、
実害があるだけだもん。無駄っ。

悔しかったら、、自分の預けられている教会を、、
誰でも、一度行ったら、心がウキウキして行きたくなる、
そんな温かくて、、笑顔と賛美が絶えない教会になるよう、、
霊的に高めていけばいいっしょ。笑。

それだけのことです、。
牧者というものは、羊を神様の御元へ引率しないといけないので、
責任重大なのです、。頑張ってね〜〜〜っ。

落っこちた牧師は、、、お気の毒、、、、。
サタンの甘い罠に、ひっかかっちゃって、、、
自分の欲望を満たすことに、自分の職務を利用した、、。
いくら、自分が無実、、と言おうと、、人が裁けなかろうと、。
父さまと、自分自身の魂は、、、すべてを知っている、。

自分の髪の毛の数まで数えられてるって、聖書に書かれてるのに、。
神様のご存在を無視して、、したい放題した罪は大きいよ、。

牧師という名誉職についてても、、人徳者であれるとは限らない、。
昔なら、自分を厳しく律した人が多かったが、。
現代は、自分に甘い者が多すぎ、。

神道は、罪に意識、原罪という概念はない、。
でもね、その代わりに、神様を意識させるのよ、。
お天道さまとか、神様が見てるから、悪いことはしたらいけない、、とね、。

悪いことはしない、、という善悪の判断、、
罪の認識、、は、神様から罰が当たる、と教えることで認識させてます、。
罪に気づいたら、、
深く神様お詫びをして(悔い改めて)罪穢れを祓い清めてください、、
と神官に乞い願って、祓いの儀式をお願いする。

原罪の認識、という表現をしてないだけで、
罪の認識と、悔い改めたあと、
祓うというやり方ではあっても、神様から清められて罪が赦される、、
という基本原理は同じ、。

このようにユダヤ教とキリスト教と神道は、、
似てる思考部分が多い。

人は罪を自覚することで、、
人は人らしくいれて、善悪を判断して生きることが出来る、。

もし、人が何も罪の認識をしようとしなければ、、
規律が何も存在しないということで、、
それはただの何をしても悪くない、。

各自、それぞれ好きなことをしていい、、。
負けたほうは弱いから悪い、。強いものは勝ったから強くて偉い、。
という無差別、無法地帯となるだけで、
人の生き方は、、悪くはなっても、よくはならない、。

罪の認識とは、、
罪を犯しやすい人には、まともに生きるために、
不可欠な要素であるといえる、。

マリア


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ヨハネによる福音書 18章 16節
ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。 

ここの、、ペトロ以外の、、
もう一人の、、大祭司の知り合いである謎の弟子、。

謎探し、色々思考すると楽しすぎ♪♪

前は、門番の女性と自由に話せるためには、
女性であるべきでは?とか考えて、、
マグダラのマリアかな、それとも年若いヨハネかな、、
とか考えてましたが、、。

今回、ラザロが、
イエス様が栄光を表す(十字架にかかること)を知り、
帰天した、死なない者であることが分かって、、

これも、ラザロなのかなぁ?と思ったりしました、、。

イエス様が十字架のかかることが確定するまでは、
どこまでもイエス様についていったと、考えて、。

不思議なことに、大祭司のところの使用人が誰も、、、
この大祭司の知り合いの弟子を、
あなたもあの人の弟子でしょう?と、、
ペトロに言ったのと同じように見咎めてないんですよね、。

ペトロは、、本名は、シモン・バルヨナ。
ヨハネの息子で、、
私は、彼がバプテスマのヨハネと同じように、
これは、私の愛する子、という神様からの言葉を、、
聞いていることから、二人は親子であると考えています。

そうであれば、ペトロも、、
仮にも、祭司ザカリアの子、
ヨハネの息子で、
アロンの血を引いていることになりますが、。

それでも、門番の女性にも、、兵士にも、
あの人の弟子でしょう?と見咎められて居て、、

もう一人の弟子だけ、
何故か、おとがめなし、なのです、。
二人共、12弟子であるなら、思い切り不自然なんです。

まるで、幽霊じゃん、、と思って、
あれ?ラザロかなぁ??と思ったのですけど、、。

ラザロなら、半分は、天使状態の立場だし、
12弟子ほど、良く顔も知られてないだろうから、
イエス様の弟子でしょう?と見咎められなくても当たり前だし、。

この大祭司の知り合いの弟子、、。
門番の女性に咎められずに、
自由に家の外に出てるし、
門番の女性に平気で話しかけてるし、。  

ここの聖句、、ほんと不思議が満載、。

状況を整理すると、、門番や兵士が、、
あなたもイエス様の弟子でしょ、。と突っ込まないで、
大祭司の家に出入りが自由な立場の人で、、
それでいて、イエス様の弟子??
12弟子だとペトロ同様突っ込まれるから、
12弟子以外、、。

弟子と書かれてる以上、
イエス様のところに行ったことがあって、
ペトロとも顔見知りで、
ペトロがイエス様の弟子だと知ってないといけない、。

えっと、ここの聖句の大祭司は、アンナスのことで、
結構、高年齢だから、、、
知り合いも高年齢のはずなのでは??と考えて

少なくても祭司長達が、ユダと
イエス様を眠らせて捕らえる計画をしているのを、
知っている立場でないといけないし、。

レビ人でもヒラじゃなくて、身分がある程度、高くないと、、、
身分が高くもないのに、
ペトロを屋敷に入れてあげてと言っても、
何でですか?と突っ込まれるのが当然で、、
門番の女性が、、黙って従うわけもない、、。

祭司長らの陰謀を知っている身分が高い立場で、
祭司長達が遣わした兵士達と一緒に、平気でついて来れて、
大祭司アンナスの知り合いで、
アンナスの知り合いと書かれる以上は、
ある程度、そこの家と交流があって、
互いに顔見知り状態でないといけない。

顔見知りであれば、
ペトロを、あの人、寒そうで可愛そうだから、
入れてあげて欲しいと言う感じで、、言えるので、。
顔見知りで、高齢?の人物、、ということになると、、

ヨハネ福音書に、、
ニコデモはファリサイ派で最高法院の議員で、
身分が高い人でしたが、イエス様に対して、ラビと呼んで、
敬意を払っており、夜ひそかにイエス様を訪れて、、
問答をしてます。
 
最高法院の議員にアリマタヤのヨセフもいますけれど、
彼は若い感じ、、。

マタイは「金持ちでイエスの弟子」
マルコは「身分の高い議員」
ルカは「神の国を待ち望んでいた」「善良でただしい人」
ヨハネは「イエスの弟子でありながらユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」と書かれてる人。

大祭司に言われて祭司長らが、
イエス様を捕まえさせに派遣する場合、
年を取っているニコデモを派遣はしない。
兵士を指揮する身分がある人が必要だから、
若い議員のヨセフの方を派遣する。

となれば、、アリマタヤのヨセフの可能性も否めない。

それに、、アリマタヤの、、
ヨセフはイエス様の遺体を取り降ろしたいと、
ピラトに、申し出ています。

アリマタヤのヨセフは、単なる議員だけではなく、、
身分が高いとわざわざ書かれている。
それは、大祭司と彼が親戚だということで、、、
アンナスの裁判の時から、ずっとイエス様の傍に居た、、
可能性が高いので、。

イエス様の弟子であることを隠していたの、
一文が引っかかるんですが。

ニコデモはファリサイ人を前にして、
「私たちの律法では、まずその人から直接(話を)聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」理論立ててイエス様を擁護しようとしてますし。

なので、アリマタヤのヨセフかニコデモじゃないかなぁ?? と、、。
でも、ニコデモは、アリマタヤのヨセフが、
イエス様の遺体を取り降ろしたあとで、
没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来てるので、。

ニコデモは、
一旦、家に帰って没薬や沈香を用意をしているから、
裁判のときに居なかった可能性も出てくるわけで、、
聖書、こうやって深く思索すると、面白いでしょう? 

まぁ、、色々な候補が出てくるものですねぇ、。笑。

しかし、、、名無しのごん兵衛で書かれているのに、
聖書に登場する誰か?を考えて、この人じゃ?と
特定するのって、、すごく面白い、。めちゃ楽しい♪  

第一候補、、イエス様の傍にずっと居たのと、
大祭司と彼が親戚だということだから、、
アリマタヤのヨセフ、。

第二候補、、イエス様の弟子で、、
年齢いってる大祭司と知り合いになれるだけの、、
年齢も身分もあるから、、。

どっちだろうか??
ヨセフかなぁ、。
自分の尊敬する人が殺されるってときに、傍を離れて、
家に帰って、また戻ってくる気力なんて、湧かない。
ガッカリしてるし、悲しいし、。

ヨハネ
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

ニコデモは、私ども、と言っていたので、
イエス様の支持派が、複数、居たわけだから、、
アリマタヤのヨセフが、そのニコデモの仲間の議員の一人なら、
イエス様が裁判で有罪になって、
十字架にかけられるのが決定してしまったとき、、
ヨセフが人をやって、それをニコデモに知らせて、
ニコデモを呼びに行かせたなら、
あとからニコデモが高価な没薬や沈香を、
すぐに用意してきたことも納得がいく、。

まだ未確認ですが、オリジナルの新説です。
通例では、私も最初に、そう考えたように、、
愛されてた弟子、ヨハネだと考えられているようですね。

マグダラのマリア

救いを失う可能性

ヘブル人への手紙
6:1‐2 だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。
6:3 神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。

6:4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、
6:5 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、
6:6 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。

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死んだ行いとは、、偽善的行為のことです、。
肉の欲が絡む行いのことで、神様を第一としていないので
悔い改める必要があります、。

洗礼についての教え、、
洗礼の水は、羊水のことで、
聖霊の名において新生をしたという象徴儀式です、。
単に水をかけて清めた、ということではないです、、。
生まれ変わったことの象徴です。

手を置くこと、、は、、按手といいます、。
イエス様に手を置いて祈っていただくために、
子どもたちをイエス様の元に連れてきた、、
という聖句などがあります、。

霊的権威を継承し与えるために、
受ける側の人の頭に、与える側の人が手をおいて祈るのですね、。
モーセの時代から、神様の御指示により始まりました、。

モーセ以前は世襲制であったので、親から長子へ、
長子無き場合は次男へ、そして次男の長子へ、、と、
血筋による祝福の継承をしていたのですが、、。

モーセの後継ぎヌンの子ヨシュアは、モーセの子ではなかったので、
本来血筋と、長子権による祝福の継承であったものを、
血筋によらず霊的権威を継承する場合、レビ人の任職式と同じように
頭に手を置いて按手礼により継承するようになりました、。

申命記
34:9 ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。

洗礼の時、、滴礼の場合、、
父子聖霊の御名によって三度もしくは一度、
按手を受けるでしょう?

レビの任職の儀式の時、
生贄の動物の頭の上に、、手を置いてから捧げます、。
按手するのは神様に捧げる清められたもの、という意味になるんですね、。

ちなみに、、洗礼式、、
浸水(浸礼、身体を水に浸す)
灌水(頭部に水を注ぐ)
滴礼(頭部に手で水滴をつける)
の三通りですが、。

どの方法がより聖書的で正しいか、とか言う
議論がされてたりしますけど、。
どれも
効果は同じなので、、議論するだけ無駄です、。

人がどのような方法を選んだとしても、サクラメントを、
霊的に実執行なさるのは父ご自身ですから、。
火(御言葉)と聖霊とによる洗礼(バプテスマ)、、
御言葉による再創造、御霊による新生、、。

死者の復活は、、イエス様がサタンに勝った、。
ということを事実である認めることです、。
そして、イエス様に罪から救うお力があると、信じることです、。

永遠の審判、、これに関しては
永遠にゆるされないということはないのです、。
でも悔い改めないなら、、永遠に近い時間であっても
罪が赦されないのは事実です、。
それに、精神性が、現代よりも低い時代は、悪いことをしたら
きちんと悔い改めないと、永遠に赦されないということにでもしないと、、
これくらいみんなしてる、、と真剣に悔いない人が多かったのです、。

さてと、、本題、。
一回、罪を悔いて、、神様の素晴らしさを知って、、
聖霊に満たされて、、そのあと、、また堕落したら??
悔い改めれない、、、か、、、ですが、。

自己体験によれば、、人による、、でしょう、。
原罪からの救いだけは、永遠ですが、、天国に入れるか、、の部分は、、
個人差が生じます、。

天国に入れる人と入れない人が出てしまいます、。
自分の罪と徹底対峙して、、神様を求め深く悔い改めたなら、
神様の元へ回帰は可能です、。
罪を罪と思わず、悔いる気がなく、、神様を侮るなら、、
多くの罪は許されないままとなり、地獄へ行くことに成るでしょう、。

原罪からの救いは永遠性がありますが、罪からの救いは、
悔い改めないかぎりは赦しが与えられることはないし、
己の薄汚いヘドロのような罪を知らなければ、
神様を切実に求めたりはしないのです、。

自分は清い、、これだけしてる、、と、、
良い自分を神様に差し出したいというのが、人の常なのですから。
私は、何度、イエス様を十字架につけたことでしょう、。

自分の罪の自覚が薄くて、、罪だとよくわかってなかった、。
罪のなんたるか、、の認識が甘かった、。
どす黒い自分自身を見て、、やっと、とんでもないものを、
イエス様に押し付けていた図太い自分を知って、、
こんなもの負わせれません、、と哭いてイエス様に謝った、。

平気で、イエス様に罪の重荷を負わせてるうちは、、、
自分の罪というものを理解してない、。

イエス様の救いを失う可能性、、でした、。

自分で犯したのではない原罪の赦しだけは永遠に赦されている、。
自分で犯した罪は、、悔いないかぎりは赦されない、。
僅かでも悔いたなら、父さまは慈悲深いので赦される、。

天国へ入れる確約が救いだというのなら、、
失う可能性は多分にある、。

罪が赦されて当然とふんぞりかえっていれば、
赦されないままの罪のつけがたまるし、、神様の御心に従ってないので、
確実に天国へ入れはしない、。

なにを自分の救いとするかで、、意味が変わります、。
原罪からの赦しだけであれば、、永遠に赦されたままで、
反故にはされない。なので、原罪からの救いは永遠であると言える、。

自分で犯した罪の赦しに関しては、悔い改めるかどうかによる、。
天国に入れるかどうかは、神様の御心に従う努力をしているか、
していないかによる。

マリア


あるサイトで、、外国の方が、どうしても理解不能な聖句として、、

申命記
25:11 二人の男が互いに相争っているとき、一方の妻が近づき、夫が打たれるのを救おうとして、手を伸ばし、相手の急所をつかんだならば、
25:12 その手は切り落とされねばならない。憐れみをかけてはならない。

をあげていました、。

だよね、、、。
私も、昔、、
最初に、聖書を読んだ時、、厳しすぎる聖句だな、、と
思いましたけどね、。

え?手、切るの???
どうして???残酷、、、と思ってました、。
今でも、、残酷とは思うのですが、、
そう規定された理由が幾分、わかるので、納得はしました、。

まぁ、、他の訳では急所と書かずに
隠し所と書いているのもあります、。

男性器に触れる、、それは子孫を残すところであること、、
他に、男性の急所を握るということによって、
性的な不品行な行為、すなわち姦淫をしたことと同じと見なされた、、という
ご意見もあるようですが、。

この聖句は、原罪に関わります、。
アダムとエバは、原罪を犯した後から腰を覆いました、。
割礼は、、、イスラエルでは男性のみ行います。

それは、女性が先に原罪を犯して、男性は、後から原罪を犯して、、
少しの間とはいえ、男性の方が、罪を犯さないでいた期間があったのと、

最初の女性エバは、食べてはいけないと言われた木の実を自分で食べて、
夫アダムにも食べさせてしまって、罪を2つも犯したからです、。

単に木の実を食べたことが原罪であるなら、口を覆ったはずなのですが、。
アダムもエバも、、腰を覆ったのです。
結論だけ書くと、蛇と表現されたサタン、知恵の木と比喩されたサタンに、、
触れて交わったのが原罪です、。

関連記事アダムとエバの犯した罪、原罪とは、。 改訂版

だから、エバへの罰は、、夫への従順と、
産みの苦しみが増す事になったわけです、、。
原罪が、性的な罪であったために、、
子孫に霊的に罪の因子が遺伝する性質を持ったのです、。

それで、、イスラエルの男性は、、神様からの指示で、、
原罪の原因である下半身から血を流すこと、割礼をすることで、
清い民の象徴としたのです、。

絶対に違えない、、という重大な誓いを立てる時は、、、、
腿の間に手を入れて誓う、、、と聖書では書いてありますが、、
これは隠語で、、男性の性器のことです、。
男性の性器に手を当てて、誓うのが神聖な誓い、。
この誓いは、男性同士での誓いで、女性はできません、。

女性は、割礼を受けてないので、、
イスラエルでは、汚れた存在として見られて居ました、。
だから、神聖な誓いを立てるときの場所を、女性が触れることは、
許されることではなく、触れたら、、
手を切り落とすように定められていました、。

食べては行けない、触れてはいけない、、、と言われていたのに、、
原罪である木の実を、、手で、、取って食べたこと、。
それは邪な存在、サタンであったから、、触れてはいけなかったのですが、、

男性器の場合は、割礼を受けて神様が聖別し、清くしたとみなしたものに、
未割礼の女性が触れてしまうと、再度、罪で穢すことになるので、
触れさせないために、、切り落とすようおっしゃったのでは無いか、
と、個人的には思っています、。

夫婦の場合、自分の夫の場合は、霊的にも肉的にも、一つとみなされるので、
アダムの骨から取られたエバが、元のアダムに触れて、
一つになったからと言って、何か不都合があるわけではないので、。

自分の夫以外は、女性は触れてはいけない場所、、ということです、。

みだりに触れて良い場所ではなかったので、、
姦淫しようと言う気を起こさせないため、、つまり触れさせないために、
そういう場合は、、切り落とすように規定されていました、。

自分の夫以外に、身体のどこであろうと、触りたい、、
という思いを持たないこと、、ということになりますね、。

理解不能のようなことでも、、
神様の決め事には、、理由があります、。
現代は、、、間違って触れてしまっても、
いきなり手を切られたりしませんから、、恵まれています、。

でも、生きている間に、不品行して悔い改めてないと、
死んだ後で、悔い改めるまで、手首を何度も切られたりするのかな、。
と思うと、、気持ち的にゾッとするんですが、。

海外サイトでは、地獄では、、うんたら、、とか、、
もっと恐ろしいこと言ってましたけど、。

私は、、、、、身に覚えがありますので、、
どうぞ、ご存分に、、と申し上げながら、、、、
ただただ、、父さまの御前に平伏するのみです、。
手を切ると言われたとしても、いやです。という資格は、
私にはないですから、。

マグダラのマリア


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