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書庫ブログデボーションシェアリング

進藤牧師先生からの御好意で転載させて頂いている記事です。

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2014年08月11日(月)
THEME:デボーションシェアリング
しかし、サマリヤを通っていかなければならなかった。
(ヨハネ4:4)


主イエスの時代はユダヤ地方(エルサレム)からガリラヤ地方へ行くのには、その間のサマリヤを通っていかなければならなかったとサラッとかいてあるが、ありえないことであった。と、いうのはこの時代のユダヤ人は絶対にサマリヤを通らない。アッシリア帝国を用いて主が北イスラエルを滅ぼしたときに北の10部族は混血し売国とみなされさげすまれていた。そこは迂回してでも通らない場所だったのだ。


ではなぜサマリヤを通らなければならなかったのか!?

1、サマリヤという兄弟をキリストが取り戻すため。
2、この4章に出てくるスカルの女という不品行の女を救い、遣わすため!


このスカルの女とは5回離婚して、6人目の夫とは結婚せずに同性をしているという実にこの当時も不品行と呼ばれ村八分になっていた女性であった。


だから暑いさなかの昼間に人目をさけて水を組に来ていたのである。

そして主イエスから声をかけ、礼拝における奥義を語る。この村八分の女に!これこそが福音である。
 
族長でもない、長老でもない、為政者でもない、村八分の不品行の女に奥義を語り救う。
そしてサマリヤの救いのためにこの女性を選んだのだ。
このような女性たちが主の十字架のときも大勢付き従っていたはずだ。

Ⅰコリ
1:26
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
 1:27
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
 1:28
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
 1:29
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
 1:30
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
 1:31
まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

主よ。今日も福音の本質を忘れることなく、感謝と喜びで神と人とに仕えさせて下さい。

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2014年08月19日(火)
THEME:デボーションシェアリング
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます。」そこで彼らは網をおろした。するとおびただしい魚のために網を引き上げることができなかった。
(ヨハネの福音書21章6節)


21章は間違いなく後から足されたものらしい。なんのために?ペテロのリーダーシップのためにです。ペテロは大失敗した人物だからこそリーダーであると私は信じる。失敗を知らないリーダーは「浅い」
失敗者よ!喜べ!その失敗が用いられ誰かの励みとなる!

この不漁のシチュエーションはまさにペテロの召命と献身(ルカ5:1〜11)である。
三度否んだペテロに三度「わたしの羊を飼いなさい」と、召命するのもそうだ。
また、同じ火の前での召命もそうである。
我らの主イエスは完全な癒し主である。

今日は舟の右側である。
当時の漁師が舟の右側に網をおろすというのはダブーだった。
ありえない話らしい。ルール違反。同業者に見られたら素人に見られただろう。恥ずかしいことだったに違いない。しかし彼らは従った。ペテロはすでに大漁であることを知っている。
恥も外聞もなく主に従ったペテロとその弟子たちに見習いたいと思う。

そして21章はペテロの再召命、再献身である!
クリスチャン人生でつまづいたものよ!喜べ!私もそうであるが主は再び召命してくれる。
私が証拠です!!

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2014年08月25日(月)
THEME:デボーションシェアリング
【新改訳改訂第3版】
Ⅱヨハ
1:6 愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。
1:7 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。
1:8 よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。
1:9 だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。



ヨハネの手紙に流れる神の愛と反キリストの霊

反キリストとはキリストが人としてきたことを否定するもの、そして偶像。

この時代の反キリストとはグノーシスとの戦い。現在の異端キリスト宗教はこの時代のグノーシスをどれも引き継いでいるという。
神が変わらないようにサタンも変わらないのだ。ただしサタンの首はしょんぎられた。

さて、この労苦の実を無駄にしないように、台無しにしないようにとあるが、労苦のみをは救いに導いた人であり、自分自身であり、

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実。
このようなすばらしいキリストにある実を養うのは日々のデボーションと祈り、礼拝である。
当たり前のことを 馬鹿になって ちゃんとやる  
これをABCという。アッセンブリー教団の高口先生から開拓当時に教わった。

今日も息子とデボーションできてうれしい。


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今週の祝大:黙示録4章「信仰者の責任は悔い改め」

2014年09月01日(月)
THEME:デボーションシェアリング

3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

8月29日の通読箇所。この黙示録と平行して旧約はエゼキエル書を通読している。(教会通読表)

エゼキエル書はユダ国滅亡の神の裁きの預言が多く、罪や偶像礼拝の怖さを思い知らされる。
しかし!!

エゼキエル
14:11 それは、イスラエルの家が、二度とわたしから迷い出ず、重ねて自分たちのそむきの罪によって自分自身を汚さないためであり、彼らがわたしの民となり、わたしも彼らの神となるためである。──神である主の御告げ──」

神の裁きの御旨はこれである。
だからこそ、熱心に悔い改めよう!
自分自身にユダの滅亡が来る前に。熱心にとあるように。

昨日の礼拝メッセージにもつながった。
世の中の常は責任を取らされる。
しかし我々クリスチャンは主イエスが私たちの罪の責任は取ってくれたのだ。
我々に残る責任は「信じること」&「悔いて改めること」である。
神の手が短いのではなく我々の罪が神との仕切りになっているのだとイザヤ書で教えている。

今日も熱心に悔い改め教会立ち退きに際して一致団結していけるように祈り求め、雲の柱、火の柱を待ちのぞむ。

牧師 進藤 龍也
進藤龍也牧師の真面目な方のブログ http://blog.goo.ne.jp/churchljc
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ザアカイ youtube http://www.youtube.com/user/zkaihouse2011?feature=mhee





2014年07月17日(木)
THEME:デボーションシェアリング
ガラ5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望
とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もう
ではありませんか。


ねたみ、酩酊、遊興、互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走る・・・これは御霊に逆らうもの。御霊(聖霊)のみについて考える。

1、愛=神は愛です。だから人間にまず愛せよとの命令があります
。他の実を包む皮のようなもの。ここで言う愛とはアガペ...ー(神の愛)敵を赦す、敵を愛する・・・できないと思うけど神といったに成ったときにできる。赦された私たちは赦さなければならない。命令であるが実としてできるのだ!

2、喜び=神の恵みに気がつくこと。♪数ええてみよ主の恵み〜♪
主のよくしてくださったとことを何一つ忘れるな。喜びは苦難のときに生まれる幸せなのだぞうな。つまり信仰による喜び。

3、平安=混乱に秩序を与えるもの。=心配をなくすこと。迫害にあってもその中に見る平安。永遠の命を持つものの平安。

4、寛容=忍耐なのだ。というのは、原文の単語の意味は、人にされた嫌な思いに耐えることなのだ。また、寛容とは日本国語辞書で引くと「とがめないこと」でした。寛容さは自分のキャパに比例する。寛容な人でも疲れていたり、過度なストレスがかかると寛容さがなくなる。自分をコントロールするのは自分自身。どのように寛容さを保つのだろう。静まって神の前に出ること。休息をとることだ。日曜日は体を休めて神の前に出ることなのだ。

5、親切=やさしいだけではない!!どれほど困難であっても状況を好転させるために行動すること!親切ってやはり自己犠牲なのだ

6、善意=辞書では思いやりのある良い心、人のために良かれと思う心。しかし、それだけではない。ヘブライ思想の中では状況に左右されない最高の道徳と品格のこと。

7、誠実=結果に関係なく、絶対的な献身、100%の信頼性。誠実とは信仰と訳せることばだそうです。そしてその意味は誠実であり続けること、信仰者としてあり続けること。

8、柔和=落ち着いていて、バランスがよく、辛抱強い人のことだそうです・・・また、らくだが人を乗せるときにひざをかがめるしぐさ!あれが柔和なのだ。

9、自制=セルフコントロール=征服する、。律する。制御する。神にゆだねられているもの!!

愛で始まり自制でしまる御霊の実!

教会全体がキリストの体のように、すべてのたまものが必要であり備わっている。
旧約の律法は罪を教えてくれました。それがキリストが生まれるまでの養育係になったのだ。そしてキリストを信じるすべての人に「悔い改め」の証拠として聖霊が与えられ御霊の実がなっていく!感謝!

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2014年07月28日(月)
THEME:デボーションシェアリング
ヤコブの手紙2:26
霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものである。
信じた結果として信仰による行いが伴うはずだから、信仰による行いをしようではないかと具体的な例を出してヤコブは訴える。
またアブラハムやラハブの信仰による行いにより、異邦人が救われるということも例に出して教えている。
父祖アブラハムも偶像崇拝の街ウルの出身で彼が選ばれ選民イスラエルの父となり、全国民の父となった。
ラハブは敵国の滅ぼされる民の一人で有ったが信仰による行いにより義と認められてなんとキリストの系図にまでのってしまう!しかも遊女であった!これが神の愛、神の計画なのである。小さきものを愛する心を持とうではないかとヤコブは訴える。
刑務所伝道においても、我々罪友教会においても小さいもの、弱いものを助けるの教会であることを私は主にあって誇りに思っている。

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2014年07月28日(月)
THEME:デボーションシェアリング
第二歴代誌31:20〜32:1
ヒゼキヤはユダ全国にこのように行い、その神、主の前に良いこと、正しいこと誠実なことを行なった。
彼は彼が始めた全てのわざにおいて、すなわち、神の宮の奉仕、律法、命令において神に求め、心を尽くして行い、その目的を果たした。
これらの誠実なことが示されて後、アッシリアの王セナケリブが来て、ユダにはいり、城壁のある街街に対して陣を敷いた。そこに攻め入ろうとしたのである。
...

ユダの王ヒゼキヤのこれまでのリーダーシップは気持ち良い。29章からずっと彼の宗教改革は王であったので、すなわち世直しであった。まさに宗教リバイバルであった。土着信仰のバアルを川に投げ捨てたり民が自ら進んで十分の一の捧げ物を持って来たり、祭司やレビ人も忠実に宮の奉仕をしたので神も祝福し民を癒したとある。なんと気持ちの良い話か!日本人もこぞって祠や仏閣、位牌を自ら進んで捨て去る日が来ることを祈るばかりだ。

ヒゼキヤの改革は、その目的を果たしたとある。神のみ心がなされたという意味である。そんなリバイバル、神からの祝福のあとのことである。ユダの存亡の危機がすぐさまやって来る。世界を恐れさせたアッシリアに包囲されたのである!
ここで私たち信仰者の学びがある。祝された日のあとにも試練はやって来るのである。試練とは信仰が、試されることである。この絶対絶命のピンチも信仰によってヒゼキヤは神を味方につけて乗り切ることができた。ここに私たちへの教えがある。試練の時にも神に信頼し続けることである。また、ヒゼキヤのこれまでの改革とリーダーシップが民を動揺させず裏切り者も出さずに民がヒゼキヤの命令に従い通したので危機を脱することが出来たのだ!

ヒゼキヤの改革とリバイバル、そして、すぐ後の存亡の危機を脱する物語は私たちに多くのものを教えてくれる。主よ。私にこのようなリーダーシップを、教会にはこのような一致を与えてください。アーメン

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2014年08月04日(月)
THEME:デボーションシェアリング
エゼキエル33:11
33:11 彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。──神である主の御告げ──わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』
 
 
態度を悔い改めよ!と神は言われる。
悔い改めが証明するのは態度である。
 
言葉と態度によって心が見える。
 
進藤の最初の失敗はまさにここにあった。
 
拘置所で神を信じて刑務所に送られた。
ヤクザの脱退書を提出したが認められなかった。
刑務所の幹部から呼び出しがあり、
「ヤクザ組織から脱退は認めないとの回答があったのでお前の処遇はヤクザとして満期まで務めてもらう」
このように言われたのは神からのテストであった。しかし幼い私には分からずこのテストに失敗した。
「俺が辞めるといっているのに、あんたらはヤクザ辞めるように指導する立場と違うのか?そんなこというならもう分かった!ヤクザとして立派に務めてやる」
 
神は言葉の神。言葉一つでこの世界を造られました。
私たちクリスチャンは神のDNAを持っています。
1ヨハネ3:9
だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。
 
言葉のとおりになるのです。この言葉のとおりに、
私はクリスチャンでありながら喧嘩を3度もやって懲罰房に入りました。
だから自分の発する言葉に気をつけよう!!


牧師 進藤 龍也
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2014年06月16日(月)
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【新改訳改訂第3版】ピリピ
4:22 聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています。

キリストの使徒となり宣教のさなかにキリスト宣教の不当逮捕にあい、おとなしく釈放されていれば良かったのに
「カイザル(皇帝)に上訴します」といって自ら囚人になってローマにまで護送されることになったパウロ。
キリストのゆえに鞭打たれたことを喜んだペテロとヨハネとはまったく逆の性格のようだ。上訴しなかったので・・・

痴漢冤罪事件で控訴して逆転無罪を勝ち取った兄弟が罪友に居る(僕は痴漢じゃない:新潮文庫)が強い正義感を感じるが、そこまで頑固にならなくても・・・早くでたほうが世のため人のためと思ってしまう凡人の私。

しかし神のご計画はたとえパウロの頑固があったにせよ万事を益に変えてくださる神はパウロのひたむきな信仰を用いられる。長崎26聖人のような護送ではなかったろうが長く厳しいたびは想像できる。
しかし結果タダでローマまで行けることになった。また、ローマでキリストを伝えることができた。それだけではない!
パウロを見張る兵隊のそれも親衛隊という名誉ある地位もある人たちがパウロの話によってキリスト信者になっていったのだ。それもその子孫たちに信仰は受け継がれやがて、やがて皇帝のキリストへの回心とつながっていく。そしてローマの国教となっていったのだ。ここにキリストの血の復讐がある。回心の復讐である。
まあ、国教になって堕落と衰退の始まりとなっていくともいえるような言えないような・・・

そんな獄中書簡の一つピリピ書は「喜びの書」といわれている。
まさに「天の御国は心の只中にある」のだ。
そしてその心にある只中が実現していくのだ。

祈り:今日もあなたのご計画の中を歩めますように。マイナスと思えるよな主の働きにもあなたのご計画があり未来に備えるものと信じます。アーメン


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今週の祝大:ヨエル2章「リバイバルの備えは悔い改め」

2014年06月27日(金)
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しかし今 主のみつげ 
心を尽くし、断食と嘆きをもってわたしに立ち返れ。
あなた方の着物ではなく、心を引き裂け!
(ヨエル2:12〜13)


ヨエル書の預言は終わりの日の預言であり、また、その日のためのペンテコステの聖霊降臨の預言である。その日、終わりの日に備えて聖徒たちに聖霊を注ぎ続ける神の啓示である。

使徒の働き2章におこる聖霊降臨ペンテコステの時に何がおこったのか!?
1、心を合わせてひとつになって祈っていた。
2、ヨエル書のように心を尽くし、断食と嘆きをもって心を引き祈っていたのではないか!?
リバイバルには当然のように悔いて改め聖霊を待ち望まなければならない。

ペテロをはじめとする使徒はヨハネをのぞいて全員、十字架を恐れて、主を置き去りにして逃げてしまう。そのような弟子たちが断食と嘆きをもって祈っていたのは当然のことだろう。主に立ち返るとき主は聖霊を与えてくださる。

祈り:移動日二日を含めて12日間、14の礼拝、集会、講演会を終えました。全てが主の臨在のなかで行われたことを感謝します。また祈ってくれた教会員、全ての人に感謝します。


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2014年07月01日(火)
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【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代
 24:18 彼らはその父祖の神、【主】の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えたので、彼らのこの罪過のため、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。
 24:19 主は、彼らを【主】に立ち返らせようと預言者たちを彼らの中に遣わし、預言者たちは彼らを戒めたが、彼らは耳を貸さなかった。
 24:20 神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤを捕らえたので、彼は民よりも高い所に立って、彼らにこう言った。「神はこう仰せられる。『あなたがたは、なぜ、【主】の命令を犯して、繁栄を取り逃がすのか。』あなたがたが【主】を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。」
 24:21 ところが、彼らは彼に対して陰謀を企て、【主】の宮の庭で、王の命令により、彼を石で打ち殺した。


 主イエスがゼカリヤの血にいたるまでといったのがこの預言者ゼカリヤ。
ヨアシュ王は祭司エホヤダの存命中は主の目にかなうことを行なった。(24:2)ヨアシュ王は祭司エホヤダが死んだ後は偶像バアルに仕えるつかさたちに従った。そのものたちは祭司エホヤダの存命中は抑圧されていたのかもしれない。彼らは王を礼拝することで王を手玉に取ったことが伺える。(24:17)

ヨアシュ王は祭司エホヤダの存命中に何を学んだのだろうか。王国を主の王国として清めてきた祭司、導いてきた祭司に感謝の念は無かったのだろうか。逆に疎んでい たのだろうか。知るすべはない。文脈からするとバアル(サタン)の祭司たちに、そそのかされて、果ては神の預言者を殺す王にまで成り下がってしまう。

私たちにも適応できる。調子の良いときはハレルヤ!調子の悪いときは神を呪う。自分で招いた悪い状況も神のせいにし、あるいは試練といって美化する。ヨアシュ王も自分を礼拝するサタンに自分の意思でついていき神の預言者を殺すことまでやってのける最悪の王になってしまった。

恩人エホヤダがヨアシュ王に伝えたかったのは神の民としてのアイデンティティーだ。それなのにヨアシュ王は神から離れ、恩人の子供を殺し、自分を助けてもらった人に対して恩をあだで返す人 になってしまったのだ。

祈り:天の父よ。私があなたから離れないで生きられるように聖書を読む時間を聖別できますように助けて下さい。また、しっかり心をあなたに定めることができますように。恩人に対しても忠実な心、感謝の心を忘れることがありませんように。


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2014年07月07日(月)
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【新改訳改訂第3版】ホセ
 1:1 ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった【主】のことば。
 1:2 【主】がホセアに語り始められたとき、【主】はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は【主】を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」


預言者ホセアは貞潔を守らない女性を妻にめとれと命令する。今風に言えば浮気性がどうしても直らない女性との結婚をホセアに命令する。
それは神の民として選んだはずのイスラエル民族の霊的姦淫、つまり偶像礼拝のゆえに、預言者の身をもって示せというのである。

説教者は預言者といっていい。メッセージを通して預言を語るからである。神様の言葉をそのまま語るのが預言者である。たとえそのことによって死にいたるとしても。このことは私にもできるかもしれない。でも浮気性の淫乱の女性を妻にめとることはできるかどうかわからない。しなければ成るまいがとことん私は神にむだな抵抗をするかもしれない。そのような神の命令がなかったことを感謝する。そして結婚し、浮気をされ、浮気をする妻を赦し購い金を持って買い戻す。

3:1 【主】は私に仰せられた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を【主】が愛しておられるように。」
 3:2 そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。
まったくもって神の愛の深さを物語る。これはキリストの十字架の購い、買戻しのことである。ホセアは苦しみながら神がねたむほどに愛しておられ裏切られたことに傷ついていることを悟り神と一体になったのだ。こういう預言者の体当たりの犠牲の下に私たちの「今」があることを知ろう。ホセアは言う。
ホセ
10:12 あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、【主】を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。



牧師 進藤 龍也
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2014年05月20日(火)
THEME:デボーションシェアリング
人のパンをただで食べることもしませんでした。かえってあなた方のだれにも負担をかけまいとして昼も夜も労苦しながら働きました。それは私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見習うようにと身を以て模範を示すためでした。
(2テサロニケ3:8〜9)

①パウロの「労苦しながら働き続けた」この意味は「牧会しながら働き続けた」という意味である。私も開拓伝道の創の5年間はアルバイトをしながら伝道し少ない人数でしたが牧会して来た。今は多くのものを教会からサポートをしてもらえるようになったが自宅家賃や食費、生活費は巡回伝道や講演会、ニュースレターで切り抜けている。パウロの苦労が忍ばれる。

②私たちを見習うようにと身を以て模範を示すためでした。
アルバイトをしながら開拓伝道して来たのはまさにこのためでした!今も止むことのない教会住み込みやり直したちに身を以て指導できる。働かざるものくうべからずと。そして今もだれよりも多く働いていると自覚できるくらいに働いている。本書では「働かないことは締まりのない人生」ということだ。

③パウロの権利とは専門的な伝道活動者、牧会者としての給金、謝儀のことである。その権利を放棄したのだ。ペテロはユダヤ人伝道。ユダヤ人は信仰がある。献金の意味を知っている民族である。しかしパウロは異邦人伝道をしているから献金を教えルコとから始めるのは時間がかかったろう。私も献金については多いに苦しんだ。
現代においても、給料が欲しくて牧師になる人と、給料がなくても牧師になる人との差が出てくる。

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2014年05月23日(金)
THEME:デボーションシェアリング
ロマ
2:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。

裁くを①悪口、②不満を撒き散らす、③断罪し赦さない、この3つに限定して考察する。
結局、誰かに悪口を言うとき、誰かの不満を他者に言うときは「赦さない」あるいは「赦せない」とサタンに同調しているのであるからサタンに漬け込まれる。そして人間関係が壊され喜ぶのは結局サタンである。
人への裁き、悪口は自分自身をも傷つける。そして自分が赦せない人間であることを証明している。だから弁解の余地はないと聖書は教えている。
悪口を聞く人にも悪い影響を与えてしまう。
唇は燃える火であると聖書は警告する。
同じ口から賛美と呪いが出ると聖書は教えてくれる。
主イエスは言われた。
口から入るものが人を汚すのではない。口から出るものが人を汚す」のだと。

祈り
主よ。この唇をあなたのものとして下さい。

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2014年05月30日(金)
THEME:デボーションシェアリング
ロマ
 9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
 9:32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

選民として神から選ばれ使命を持っていたイスラエル民族に与えられた律法。その律法は神を知る大いなるものであった。しかし到達でなかった。律法が悪いのではない。律法主義に陥ってしまったのがいけなかった。信仰によって追い求めなった結果として律法主義になったのだ。
愛の律法のはずなのにできるできないのデッドラインンになってしまった。捕囚帰りにとっての律法に帰ることはリバイバルであったのだが・・・人間のおろかさでもある。

私たちの刑務所伝道の働きも、進藤龍也が赦される為に行なっているのであれば、とっくのとうにやめている。こんな大変で得をすることはない、傷つくことも多い働きを・・・しかしなぜ続けられるのだろう?値なしに神に赦されたからだ。赦されたものとしての人生を全うしたい。これが神の赦しの力なのだ。

主よ。今日も用いたまえ。

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今週の祝大:箴言にみる刑務所伝道

2014年06月03日(火)NEW !
THEME:デボーションシェアリング
新改訳改訂第3版 箴
3:27 あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな。

19:17 寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。
...
22:2 富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは【主】である。
刑務所伝道のみことばはマタイ25:36
25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
まさに刑務所伝道は実践である。愛のゆえに突き動かされているからである。自分が通ってきた暗闇の世界がいかに困難か。いかに希望がないかを知っているからだ。
愛は自発である。頼まれごとや義務感では到底続かない。
使命感と神からの愛による。それが原動力なのだ。それが油そそぎ。
毎年の通読でいつもこの聖句に励まされ慰められている。
何かを得るためのミニストリーではない。ミニストリーとは逆である。
人を助けるため、人を立てあげるためのものだ。
リスクばかりがめだつような刑務所伝道ではあるが神が味方であることが実感できる。多くの支援者(まだまだすくないけれど)に感謝している。
ロマ
13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。


牧師 進藤 龍也
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2014年04月02日(水)
THEME:デボーションシェアリング
【新改訳改訂第3版】士
11:1 さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。エフタの父親はギルアデであった。
11:2 ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。「あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない。」
11:3 そこで、エフタは兄弟たちのところから逃げて行き、トブの地に住んだ。すると、エフタのところに、ごろつきが集まって来て、彼といっしょに出歩いた。
11:4 それからしばらくたって、アモン人がイスラエルに戦争をしかけてきた。


神の深いご計画と憐れみを知らなければならないのが信仰であり説教。
神の視点、神のご意思を知り行うのが信仰。
それを宣言するのが説教。

①私たちが救われたのは民族を救うためである。そのための出生の出所は関係がない。遊女の子であろがやくざの子であろうが社長の子であろうが関係なく神の前に等しい存在。万民祭司。神の御心を行なうのが神の家族。
エフタは遊女の子で家を追い出された子であった。

②リーダーに従うものは祝福を受ける。
遊女の子であるがゆえに家を追い出されたエフタであった。そこにごろつきどもが集まった。このごろつきのリーダーとなるが神のご計画を担う人物としても用いられていく。
そしてこのごろつきのものたちはエフタに従って戦争に行きアモン人と戦う。
従うものも居れば中には「戦争はいやだ」といって脱落して行く人もいたと思う。
神に用いられる法則として神に用いられる人の近くで従っていくことだ。
ロトもアブラハムと別れてから散々な目にあう・・・
時が下ってダビデの時代、ダビデは羊飼いの末っ子から豊臣秀吉のように統一国家樹立を果たしていくがダビデの勇士たちといって聖書で讃えられているのはダビデの不遇時代に集まってきた「ならずもの」たちである。しかしダビデの辛苦を一緒に過ごしてきた「ならずもの」がその中でダビデとともに成長して勇士となるまでになった。

時にはリーダーから叱責もあったろう。(進藤もされてきた)
時には訓戒や助言もあったろう。(進藤もされてきた)
それを信仰をもって愛を持って受け止めてきた。そして今がある。だから同情できる。その中で指導者と聖徒との関係は築かれる。私自身が遊び人だったので欠けの多いものだった。それを良く忍耐して導いてくれたと思う。そして私も忍耐してついてきた。だから今がある。感謝。

結果としてエフタは民族を救うが自分の娘を全焼のいけにえとしてささげてしまう。
アモン人の神ケモシュの憎むべき慣わし人身供養!
この悪魔的行為との霊的戦いであるのに、同じことをしてしまう。
これは、御ことばを知らない悲劇としか言いようがない。
また、カナン地方において庶民の間に浸透していた風習であることも見逃してはならない。
ダビデは、御言葉を良く調べ実行した。
神のご意思は貫徹しなければならない。そのための十字架である。自我に十字架に死ぬときに必ず復活があるのだから!!自我に死んでいこう。



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2014年04月22日(火)
THEME:デボーションシェアリング
イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先頭に立って行動していたからである。(1サムエル18:16)

観察
ゴリヤテとの一騎打ちで名を馳せ、千人隊長にまでのし上がっていくダビデ。同時にその人気と実力からサウルに疎まれ始めていく18章。なぜか源義経を思い出す。

適応
ダビデの人気はまさに先頭に立つ行動力。
おさなき頃より羊飼いとして、かよわい羊を守ってきた行動力、日々の鍛錬が結実していく。
我々牧師は羊飼いに例えられる。
ダビデのように先頭に立って霊的戦いに勝利して行かなければならない。

サウルがペリシテ人の手によってダビデを殺そうとしたように、晩年のダビデは忠実な部下ウリヤに対して行い、殺人と妻強奪をしてしまう。苦難がさって忍耐が結実した後、ここからもトップリーダーとして気を引き締めなければならなかった。

祈り
5作目の原稿のゲラを読み返して涙が出ました。それは出所からの私への神の恩寵が思い出されて泣けたのです。こうして牧師となって神にある涙を流しておりますがこれも成長と信じます。また、たかぶりませんように!これからのへりくだりの心を送ってください。アーメン。


明日は万座温泉ホテル日進館で11時からのチャペルタイムです。



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2014年04月28日(月)
THEME:デボーションシェアリング
Ⅰ歴代
10:13 このように、サウルは【主】に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。【主】のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、
10:14 【主】に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。


観察
1歴代誌10章と1サムエル記31章の並列記事はサウル王とヨナタンの死の出来事である。1歴代誌のみにサウルの死の原因が記されている。テキスト聖書箇所

適応
サウルがおかしくなり、ねたみの霊に燃えてダビデを殺そうとし始めたのは神からの災いの霊であることは私を驚かせた。人を悪くさせることもするのだと。しかし、ここにも神の計画が立ったのだ。
サウル王は神に対して不信の罪、不従順を犯してしまう。それゆえ神から災いの霊を送られてしまう。また、王位を神から奪われてしまった。
ここのとはダビデに油注がれてからであることに注目したい。
ダビデにとって散々な存在に成ってしまったサウル王。
逃げに逃げて暮らすしかない若き日のダビデ。
しかし、行く末は王になるという神の約束のダビデはサウル王に苦しみながら忠誠を尽くしていく。この苦難こそダビデがやがて王になる訓練であった。

今、自分を苦しめるもの、その対応がまさに訓練である。
サウル王が死んだときに喜ぶはずだがダビデは心から悲しんだ。
完全な赦しを会得していたからだ。
また、千人隊長にまでしてくれた恩を忘れなかったからだ。
ヨナタンという兄弟分の父であることを思い敬っていたからだ。
私自身、私を苦しめるものこそ神様を身近に感じられるための神からの使者であることを心得よう。苦難のときこそ、訓練である。

祈り
みことば、観察、適応、祈りと簡単で見本のようなデボーションにして祝大を書くようにあえてしています。というのはデボーションを教会員の皆さんに徹底してもらいたいからです。祈りで重要なのは神の言葉を聴くことです。この聖書通読のなかでデボーションをすることは神の言葉をきくことですから。聖霊様、働いて下さい。赦せない人を赦せますように。



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2014年05月10日(土)
THEME:デボーションシェアリング
マタ
 8:30 ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。
 8:31 それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」
 8:32 イエスは彼らに「行け」と言われた。すると、彼らは出て行って豚に入った。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。
 8:33 飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。
 8:34 すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。


観察
この物語はマルコ5章のゲラサ地方の狂人のレギオンの話。
多くの悪霊に取り付かれた人の解放の話。

適応
なぜ、狂人2人もの人を正気にさせたのに追い出してしまったのだろう。
人は神と富の両方に仕えることができない。
この街の資金源であった豚2000匹もおぼれさせ殺す羽目になったことに、、、狂人の正気はありがたいことだ傍迷惑な話だったのかもしれない。
また、どうせ豚はおまえらユダヤ人はくわねー穢れた家畜なんだろうよ!と、よそ者扱いしたのかもしれない。いずれにせよ、キリストを受け入れなかった。
この世の富は、この世の神なのだ。

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2014年05月12日(月)
THEME:デボーションシェアリング
【新改訳改訂第3版】Ⅰテサ
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

テサロニケ信者の人々は多くの苦難の中で救われたとある。
今の世も安定を欠いてしまった人々が困り果て教会に来て救われるケースが多い。

しかし、このパウロの時代の苦難はキリスト信仰は「死」であった。
「あなたもあなたの家族も救われます」という、みことばは「死」なのである。
しかし、永遠の命!死後にある世界を知ったものが命がけでキリスト信仰を告白していく。

命をかける者を本来プロフェッショナルという。
プロフェッショナルの語源はギリシャ語のプロフェソンであり、その意味は
「公に宣言し続けるもの」である。
命をかけて公にキリスト信者であると宣言し続けるものがプロフェッショナルである。

私は伝道者として、クリスチャンとして、牧師として、一人の人間としてキリスト信仰に命をかけている。



牧師 進藤 龍也
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