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書庫教義、教理についての補足

この書庫はマグダラのマリア聖書論の記事の補足、及び、聖書の教義、教理についての補足記事です。

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アメーバーブログの
マグマリのブログに書いたことに若干、関わるけれど、。

イサクは、、イエス様の予型だというのは、神学での定説、。

でも、、、なぜか、、イサクは助かったのに、、
イエス様の場合は、、、十字架ありき、。で、、
死ぬのが、当たり前になってる、。

なんで?予型が助かったのなら、、その時が来たら、
同じこと、似たことが起こるのが必然となるのが、
当たり前ではなくて?

聖書は、同じことを繰り返しているわよね、。

だから、イサクが助かったのだから、イエスさまも、
十字架にかかること一択だけではなく、
十字架にかからないで済む道も、、本来はあった、。

でも、イスラエルの支配層、律法学者、ファリサイ人らの不信仰、
敵意、、妨害、、、更には、弟子の失敗もあって、
十字架の道を選ばざるを得なくなった、。

その理由はマグマリのブログには書いたけど、。
儀式は、、失敗したら、より大きな犠牲に寄って贖わないといけない、。
3弟子が起きて、、イエス様と心ひとつにして、祈れなかったことで、
3弟子が失敗したから、、

師であるイエス様が、責任を取って、御自身を捧げるしかなくなった、。
3弟子が、イエス様と心ひとつにしてたら、、
サタンの霊的な眠気の誘惑に、負けることはなかった、。

イエス様は、すでにサタンに勝っていたから、。
アブラハム、、鳥は切り裂かないで生贄の儀式を失敗した、、
この生贄の儀式の時、眠気に襲われて眠ったのよね、。

創世記
15:12 日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。

これはサタンが作用した霊的眠り、。
サタンの象徴の禿鷹が、、
神様への捧げ物を奪いに来たことが書かれてある、。

創世記
15:11 禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。

アブラハムは、儀式に失敗して眠気にも負けた、。
天からの火を送られるまで、起きてないと行けなかったのに、。

でも、鳥を割かなかったことで、失敗し
サタンに奪われた儀式だったから、火は、すぐに降らなかった。

闇に覆われた、のが、その証拠の聖句、。
間違えた儀式でなかったら、
神様はすぐにアブラハムの祈りに答えて居ただろうけど、。

鳥の捧げ物の仕方を間違えていたから、、
神様はすぐに受け取りたくても受け取れなかった、。

創世記
15:17 日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。

でも、神様が憐れまれて、
アブラハムの子孫が400年間、苦しむのと引き換えにではあっても、
アブラハムと契約を結び、、生贄の半分を聖別し、
神様が受け取られた、。

サタンの、眠りの誘惑、、は、アブラハムにもあった、。
アブラハムは、祭儀のときに眠ったのよね、。


ノアも祭儀のときに、、、、強いマンドラゴラ入りの媚薬を
末の息子のハムに飲まされて、サタンがした霊的な眠り以外に、
物理的な要因もあって、深く死んだように眠ってしまった、。
                       
ノアは、神様の聖所で、ハムに裸にさせられる、、という
失敗をしてしまったけれど、。

イエス様は、ノアの時の、聖所で眠ってしまった失敗を、
再現して、それを眠らないことで、、
摂理の回復をしようとしたのでした、。

摂理の回復をすることで、、祈りの捧げ物が出来、、
神様が、それを受け取ることで、、
神様が、悪魔に奪われたものを取り返せるわけですから、。

十字架以外の別の道が開けたからです、。

悪魔は、摂理が正され、正しい方に進むことで、
負けて、立ち去るしかなくなりますからね、。
悪魔が、民を扇動しなければ、、
イエス様は、少なくても死なないで済みました、。

アブラハム、、、狂おしいほどの想いで、自分が、イサクを手に掛けたあと、
自分も死ぬ覚悟をして、その上でイサクを捧げようとし信仰を立てた、。

弟子たちが、本気で、イエス様のためなら、
死んでも良いと思って、、死にものぐるいで、
祈り願って、イエス様への愛という心の絆を結んでたら、、
悪魔は、、どうやって、イエス様を取り去れたでしょうか?
弟子たちから、、奪えたでしょうか、。

真実の愛の前には、、悪魔は無力なのです、。
悪魔と言えど、、彼はもと天使、。
真実の愛の前には、、悪魔は、、逃げ去るしか無い。
その美しい輝きに、、闇に住まう彼は耐えられないのだから、。

十字架は、、最善ではなく、次善のものでした、。

イエス様は、本当なら、あの最後の晩餐の日の夜に、マグダラのマリアと、、
結婚するおつもりでいたのですから、。
民が不信し、3弟子が起きていれずに
祈りを失敗して、出来なかったけど、、、。

3弟子が失敗しなかったら、、民が、弟子が、、信仰を立てれてたら、
天使が、きて、、イサクを助けたように、、
イエス様を、、助けることが何か、起きたのです、。

十字架のとき、、イエス様のそばには、、人には見えなくても、
天使は居たのです、。イエス様を慕い、、励まし、
イエス様の、苦しみを辛さを、、嘆き、もう、、やめてほしいと、
サタンに向かい叫び、、、

イエス様のことを、、思いながら、、、イエス様の側に居た、。
イエス様を助けたくて、、助けたくて、、歯噛みをしながら、。

イエス様が、死ぬために生まれたのなら、
33まで生きたりしないで、
もっと幼いうちに死んだほうがイエス様も楽でしょ、。

イサクだって、アブラハムによって生贄にされようとしたのは、、
7,8歳ころだったと思うし、。

アブラハムとイサクに信仰がなかったなら、、
逆にアブラハムも
イサクも 死ぬことになっただろうから。
アブラハムの兄弟ナホルに、神様の祝福は移動した、。

もし、生き延びたとしても、ヤコブの時代に、、、
ヤコブの苦しんだ10倍の困難が待っていたでしょうね、。

小さな失敗でも、失敗したら、最低でも等価で、、
下手したら、割増しで贖わないといけなくなる、。
その代ではなく、次の世代で贖う場合は、10倍、。

イサクが、救われ生きたように、、
イエス様も、生きる術はあったのです、。
民が不信し、3弟子が失敗しなかったら、、。

十字架ありき、、ということは、、
弟子の失敗が、イスラエルの民の不信が、必然ということなのですか?

違うでしょう?
神様は、人が、従順に従うことを喜ばれますよね!
イスラエルが不信しないで、いたことが、最善だったのですから、
イスラエルが、不信しなければ、
イエス様は十字架にはかかってはいないのです、。

背いてなければ、イエス様は打ち砕かれる必要はなかった、。

イザヤ
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

十字架ありきの神学は、悪魔の喜ぶ神学です!!

父さまも、天使も、マグダラのマリアも、御母マリアも、
女の弟子たちは全員、ひとり残らず、、
イエス様が十字架にかかることは望んでなかった、。

私自身も、、
イエス様の十字架は、、あってほしくなかった、。
生きて、マグダラのマリアと結婚して、御子をもうけて、
御子から、、無原罪の血筋が増えて、、、世界中に広がって、

人類すべてが、無原罪になる方が良かった、。
今となっては、、すでに過去のことで、、
変えようはないのだけど、、心だけ、、想うだけは、
良いでしょう?

イエス様の幸せを、願っても、、。
大好きな御方には、、最高に、、幸せでいて欲しいと
私は強く願うのです、。


イエス様は、、我主、私の救い主。
永遠におそばにいて、、仕えまつる、。

命かけても、、魂ごと、、霊も心も、全部、
あなたに、捧げて、惜しくない、。
地獄の苦しみから、、お救いいただいた御恩は、、
忘れません、。

私のような、いやしき者を、憐れまれて、、
あなたこそ、、私の永遠の主です、。
おそばに、、いれる、、そう思うだけで、、
幸せで、ありがたくて涙が溢れます、。

天地の生まれる前から、、、
私が人となる前から、私は、、あなただけを、求めて、
探していたのです、。

会いたくて、、逢いたくて、あいたくて、、
探しにさがして、、求めにもとめて、、
やっと、見つけた、、。
やっと、、逢えた、、。

私の父さま、、、私のイエス様、、愛しています、、永遠に、。

マグダラのマリア

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マタイ
22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

人の死には、2つ在る、。
霊的な死と肉体的な死と、。
人の肉体は、長く生きたとしても、
いつかは死を迎え塵に還る、。
本来、霊の命は、永遠であり、死なない。
サタンは、霊であり、永遠に存在するもの、。

霊の自分が罪を犯し堕落して霊的に死んでも、
彼は、見た目は天使の姿のまま、存在死しなかった。
彼は霊的に死しても存在自体はしていた。

神様の仰った死は、、肉体的な死ではなく、
霊的な死だった、。

だから、神様と話せて、霊の目が開いていたのに、
霊的に死んで霊の目が閉じたから、
目が開け、、裸であることを知った、。

この裸というのも、肉体的な裸のことではなく、
神様の目からご覧になれば筒抜けという意味での裸で、、
神様は、そこに居なかったけど、
彼らがサタンと罪を犯したことが筒抜けで、
サタンと通じたことが、一切合切、神様に隠せない、、ということが、
二人に理解できたこと、。

霊の目は、一時的に開けたもの、、
神様が、彼らに罪を犯したことの
重大さ、恥、、というものを気づかせるために、。

隠したいことは、気づかれたと思えば、恥ずかしいでしょ、。

サタンがエバに言った死なないと言った死は、、
肉体的な死のこと。だから、サタンは、嘘は言っていない。
霊が死ぬと言う神様の御言葉を、
肉体は)死なないと打ち消して、誘惑した、。

永遠に生きる霊でありながら死んだものとなったサタンは、、、
霊的な死があることを、知ったときに、びっくりしたでしょうね、。
死なないはずの霊が、、死んだのだから、。

そして死んでるにも関わらず、存在死せずに存在し続けていて、
自分の醜い内面を見続けないといけないなんて、。
サタンだとて、、アダムとエバと同じ、、
自分の罪を指摘し暴かれたら、苦しむ、火で焼かれた如くに、。

サタンは神様に背き捨てて霊的に死んで、
神様が、人、アダムに仰った死は、、霊が死ぬことだと知った、。

だから、エバに、決して死なないと言ったし、
善でしかなかった天使が、堕天して悪の天使になって、、
善と悪、両方を知るものとなったように、、、
人も、善でしか無い無垢な状態から、
善と悪との両方を知るもの、となる、と言った、。

善だけではなく、悪を知る、それは、、、
知恵が増え賢くなることではなく、、、
神様に背く、悪知恵が思いつくようになっただけ、。

ぜーんぜん賢くない、。
ただのアホ、。
神様につながってればこそ、、人は生きていけるし
活けるものとなれてるのに、。
神様捨てたら、、だめでしょ、。

神様は、、霊が生きてる人と、、心が活きてる人の神様、。
なんらかの正しい信仰を持って、、
自分の心を見つめて、、悪にも、善にも偏りすぎず、

心がこだわりに縛られずに、心に翼と自由がある人、、が、
心が活きてる人、。
自分らしく、活きれてる人、。

モーセの時代に、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、
肉体的には居ない、。
でも、神様は、生きてたときに与えた彼らの名を呼んで
彼らの神だと、仰った、。

神様が、名付けること、、、は、
親と同じとなると、、いうこと、。
神様が、、御親となって下さる、、、。
なんと、ありがたいことだろうか、。

肉体が無くなっても、、
神様によって生き、神様に心つながって、
活きるものとなった彼らの霊は、、
永遠の命を得て、永遠に活きたものとなった、。

人間は、、死んで終わりではなく、、肉体が死んでも、
人の霊(魂)は、、永遠に活きることが出来る、。

霊的に死んでも、存在死はしない、。
それは、神様が、すべての人の霊が活きるものとなって
すべての人が、一人も漏れることなく、神様と共に、、、
永遠に活きることを願われておいでだから、、。

自己愛しか無い人は、信仰心も、神様も必要とはしない、。
自分しか見てない、のだから、。
それでも、いつかは、間違いに気づき救いを得る。
それは父の御心だから、、。

神様への、、、いや、神様へという自覚がなくても、
見えざる大いなる存在への畏怖、、信仰心があれば、、
神様は、、その心の想いを汲んで、、憐れんで下さる、。

神様は、、クリスチャンだけの神様ではなくて、、
全人類の父となって下さった御方だから、。
依怙贔屓はないのよ、。

人同士、仲良くしよう、助け合おうと、する人、
正しく生きようと努力する人、、は、、
神様は、、共に居てくださるから、。

神様から、、自分の名前と、存在を、
永遠に忘れ去られることがないのって、
嬉しいよね、。


加筆
霊的な死は、神様に背いた瞬間に、そうなる、、わけで、、
肉体的な死は、普通は病気して、とか、年を重ねて、とか、
時間的猶予が在るけれど、、猶予がないってことと、
本人には霊的な死というものは、自覚がないってとこが、、
物騒、、というか、恐ろしい、。

神様に霊の目が開かれなかったら、霊的に死んでることが
理解できないし、罪を犯した瞬間=霊的死なんだから、、
待ったなし、、なのよね、。

これ、、イエス様に洗礼と聖餐を受けて
救われたはずの人でも、、、悪いと、、わかってる上で、
自分の欲に負けて、自分から選んで罪を犯したら、、
霊的に死んでいくのよね、。
霊的な死に霊が蝕まれて、、どんどん、穢れて、神様から離れ去って
罪に鈍感になっていく、。
怖くない?

特に、、へーきで、罪を犯してるカトリックの司祭、、
あなた方は、肉体は生きているけど、霊は死んでるわよ、。
悔い改めて、、神様に立ち返らないと、
いつかバチカンごと消えるかもね、。

イスラエル、イエス様に背いて、十字架にかけて、、
決定打を出したし、猶予期限も終わったから、、
国ごと滅びたでしょ、。
同じことが起きる、。

神様の忍耐と猶予期間は、無限ではないのよ、。
有限、、何らかの42の数が、満たされるまでの期間、。

地球の真裏に、地球と同じ速度で、回ってる
コードネームヤハウェとか呼ばれてる太陽系第12番惑星、、
天変地異を地球に起こした天体があるそうな、。

ホピ族は、その星を、蒼き星サクアソフーと呼ぶそうな、。
「青い星のカチーナ(霊の力)」、そのカチーナが広場で踊って、そして仮面をはずしたとき、浄化の日も訪れるのだ。 そして、この青い星(カチーナ)が現れたとき「天界の居住施設が大音声とともに落下して地表に激突」する。
そのときに私たちの儀式も終わる、。という伝承がある。

天界の居住施設、天界だから、
心が善き人のみ、招かれるのではないの??

この世の、、この地上の富や、欲望を追い求めて、どうするの?
地球規模の天変地異が起きたら、、神様にすがる以外、
どうして生き残れる?

黙示録、、は、なんでもあり、の予言の書だから、、、
何が起きても、おかしくないのにね、。
今すぐでも、、じゃなきゃ、、危機感、感じないの?

星は、、神様の言葉一つで、地上に向けて落ちるのよね、。
星は、、人とは違い、神様の御手のなかにあるまま、、だもの、。

追記

出エジプト記
3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

であった、、ではなく、
である、。なので、、過去ではなく、
今も、、という意味になる、。
肉体はないので、上で書いたとおりに、
生きているのは、霊の状態で、在る、ということ、。

現在形だから、、霊の存在を否定していたサドカイ人らは、
聖書が、霊の存在を証しているので、驚き、
また、イエス様に言い返せなくなって、議論に負けた、。

聖句が過去形ではないことが、重要事項、。


マグダラのマリア

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赦しが先に、、あって
摂理では赦しが先に用意されているけど、、
赦しは、、無条件ではなく、、悔い改めることで罪が赦される。

神様側の心情的想いからすれば、、
神様は赦したい御方で、人が悔いる前から赦しを与えんとして、
御子イエス様をお送り下さり、イエス様は、、
人が悔いる前から赦しの御業である十字架を先んじて担って下さって、、

悔いたものに憐れみを与え罪を赦して下さいます。

裁きも必要だけれど、それは罪を指摘しても悔いない者にたいしてだし、わからずに過失で、罪を犯したものにまで、神様は厳しく裁かない。 

聖書に照らせば、、人を憎み、死ねばよいのにと
思った私は、、死罪だ、、と気づいたとき、
自分の罪の重さで心が潰れました。

苦しくて、、このまま死んで行くんだろうな、、って思いました。
それが当然だと思ったし、愛を持つのではなく、
憎しみに心囚われて、、神様の御心に背いたのだから、、
肉体の死があっても、、しょうがないって思いました。

厳格に、神様が天の法にてらして、、
人を裁くだけの御方であるならば、、、、
この地上の人間は誰一人生きることが出来やしないでしょう、。
ノアの方舟のときのように、、ほぼ人類が絶滅するしか無いです、。

今、私が生きていれるのは神様に赦され愛されてるから、、。
だから、私は、神様の愛を感じ幸せのままでいれてる。

自分の罪の自覚をさせられたとき、、私は肉体の死を覚悟しました、。
罪の重さは、、、軽くはなかったです、。

イエス様の生きておられた時代は、、律法破りは死で、、
生きるために、どうしても守れなかった者は、
人に見つからないように、細心の注意を払っていたし、
バレたときは、潔く死を覚悟した、。

姦淫の女性が、、そう、。
十字架上のイエス様にパラダイスに居ると言われた強盗も、そう、。

彼らは、、死を覚悟した時点で、己の罪を認めて、、
死の裁きを、当然とし、受け入れました、。
それは、心においては、すでに罰を受けて死んだと同じ、、
だから、、赦しが与えられた、。


現代は、罪の自覚が、昔ほど出来難い、。
私のように、実際に死ぬという、、
シチュエーションに出会う人はあまり居ないでしょうから、。

現代でも、、イエス様に多くを赦されているとは言え、、
実際的には、天の法では人を殺めたら死罪です。
この世でも、死罪になる場合がありますし
心の中で、殺したとしても天法では、、死罪です、。

心に悪意を持って人を憎み罵れば、
イエス様の仰った最高法院に引き渡されるとは、、
裁きの座に連れて行かれるよ。。という意味ですから、、
神様が、、、お裁きになられる、、と言うことです、。

人の過ちを赦さないならば、、
神様は、、赦さない人の罪を同じように赦さないでしょう、。
人への悪意ある裁き、憎む想いなどは、自分自身に因果応報で戻ります、。

なぜなら、、人を裁ける権威ある御方は、、
造り主なる神様だけだからです、。

嫌なんだよね、、と教えたり、気をつけたほうが良いよ、、と
注意は出来ても、お前は間違いだから、消えろとかね、、
お前の信仰は間違ってるから、、異端だとか、カルトだとか、
悪意を込めて罵って、それを、いつまでも続けるのは、、
お門違い、、というレベル、。

神様御自身が、気付きや、間違いを正されることをなさるのだから、、
罪ある人は、ただそれを受け入れるだけでいい、。
人が、、まるで神様の立場で、、
権威あるもののように語るのは、大間違い、。

語る権威を、父から受けたと言うのなら、、その証拠を提示するべきです、。

父は、聖書中で、、使命を与える人に名付けて、、改名させた。
神様が、その人の名付け親となられたこと、。

名付け親は、、実の親と同じくらいに重要な存在です。
古代、名前は、その人の本質を、そうあれ、、と
親が願ってつける一種の呪なのですね、。

だから、侍は、人から本名で、呪詛されないように、
本名をあざな、、といって家族以外には隠し、、
通り名で、名を呼び合っていた、。

神様が名を与えるということは、、その人の本質、魂の本質を
神様御自身が授けて、肉の親が与えたのとは違う、
新しい名を、、人に与えたのです、。

父が、名を与えてもおらず、
何の権威や徴を与えても居ないのに、、
自分が神様の代理者のように、
聖書はこう読むべき、と語るのは、、、すこぶる傲慢でしょう。

仮に名を受けれたとしても、その責任の重さを知るなら、、
普通は嫌だけどね、。
私はもともと、神様のために命差し出しますと言ってた口だから、、
何を言われても、聞いても、、平気だったけど、。

私は、間違っていることを語り、それを指摘されても、
訂正したりして聞き従わないのなら、滅ぼす、と言われた、、。

ほろぼされて、殺されても構いません。
神様、あなたになら殺されても文句ないです。
背いたなら、、聞き従わないのなら、滅ぼして下さい、。
と即答で答えた、。

自分の語ることが、間違ってたら、、
父から名を受けた者は、、、死を覚悟すべき、、、。
名を受けてない者は、肉体の死後、、、
間違いを人に教えた罪を問われ、贖わされることを覚悟すべき、。

とある金儲け団体の教祖、、神様のように祀られてるけど、、
ま、地獄で、、待ち構えてた信者に八つ裂きにされてるでしょうね、。
嘘を教えて、お金巻き上げてもいたし、、
絶え間ない苦痛を受けているでしょう、。

地獄では、火が消えることもなく、、うじが尽きることがない、、
火で焼かれ、、虫に生きながら喰われて、、死ぬことも、眠ることも出来ない、。

自分の裁き主は、、自分自身の魂だから、、ごまかしが効かない、。
神様に赦されたと、、いう体験をするまで、、永遠に近い時間、、
火で焼かれ、、虫に喰われ続ける、。

安息の時間なんて、、1秒すらもないし、、。
どんなに苦痛でも、、避け場もなく、
熱くてのどが渇いても水の一滴すらもない、。
自分の中に活ける水がないから、、、。


生きている間に、、罪の重さを知り、
神様からの赦しの体感を受けた人は、、、
人を憎しみから裁いたりしなくなる、、、。

自分に、人を裁くだけの資格が無いことを深く知るからです。

私の赦しの実感は、、
地獄のような精神状態と世界の中で、、
自分の罪の重さに気づいて、悔いて自己裁きしたときに、
イエス様がおいでになって、与えて下さったのでした。
重荷を下ろしなさいと仰って、、。

そのときに、、それまで簡単にというか、軽い気持ちで、
罪のゆるしを、イエス様に乞うていた自分を恥じました、。

イエス様に、、なんてひどいことしてたのかと、、、
イエス様を、何度、踏んづけていたのだろう、、と自覚して、
自分って最低の悪党だなって、そのときに思いました。

罪を、、赦されてしまいまして、ただただ有り難く泣きました。
それでもお前を愛していると言われても、、
私は、赦されて良いのですか、としか、、思えませんでした。

神様は、、裁く権威を持つ御方ですけれど、、
悔いたものには惜しみなく赦しを与える御方です、。

イエス様に、多く赦された者は、、多くを愛するようになる、。
それは、イエス様を、、というだけでなく、、
自分以外の人を、、ゆるすとか、憎まない、とか
受け入れる、、ということを含むのだと想います、。

神様だけを愛しても、隣人を憎み続け赦さず愛さないのなら、、
父は、同じように愛さないでしょう、。

生理的に嫌いなものは、、好きになれと言うのは無理な相談、。
人に上下はなくても、性格、品格、という人格に於いては、
上下はあり、嫌な人はいます、。

イエス様に、どーしても生理的に嫌いです、。
ごめんなさい、。と、、つぶやいた事があります、。
どうしても、、、の場合は、、
世の中 不完全だから 半分はきらいな人がいても、、、。

ようは、、無理に愛しているふりはしなくても良いよ、、ということね。
だからといって、批判という名の攻撃しても、良いわけじゃない、。

神様に自分の奥深い罪を赦された経験がない者は、、
神様の愛と赦しを理解できない者、、
そういう人間は、神様の代わりに、
自分自身が裁きの座に座るのでしょう、。

かつてのファリサイ人らのように、。

そして気づかないままに、、
イエス様にも神様にも牙をむき、御言葉にも楯突いて背く、。
本当に、人間には何もわからない、へりくだれ、というのなら、、
黙っておればよいのだ、。

わからないと言いながらわかった如くに語るのは、
自己矛盾してることにも気づかない愚か者のやること、。

何の権威もなく、間違っていることを語り、肉体の死後、
負いきれないほどの罪を負わねばならぬよりは、
黙って、余計な罪を犯さないほうが、、はるかにマシ、。

言っておくが、、私は自称で、、、
自分からマリアと名乗っているのではない、。
自称と想いたければ思っていれば良い、。

神様に与えられた名がマグダラのマリアであるから、
マグダラのマリアと名乗っている、。
私は、マリアの名を受ける前に、
自分で開いた個人的ブログがあった、。
今は、ほぼ休止中だけどね、。

神様にマリアと名乗りなさいと言われたので、、此処を開いた、。
マリアと名乗りなさいと言われなかったら、
もともとのブログを10年間、書き続けてたでしょうね、。

ブログをいくつも持ってもね、。
そんなに聖書の記事、、書けないから、。
摂理や聖書の記事は、、難しいのだもの、。

思い込みや、、乏しい知識で聖書の記事を書くのは、無理、。

私は、色々な聖書の翻訳サイトを読んでいる、。
原典のヘブル語やギリシャ語とか、を見て、
原語の意味を調べたりしてる。

聖書の聖句を何度も読み返したり、、
削除されすに残された言葉の欠片を見つけたくて、、、
何度も何度も、、読む、。

疑問が解けてないこと、まだまだ沢山あるし、、、。
1アダム、2 セト、3 エノシュ、4 ケナン、 5マハラルエル 、6 イエレド  、7エノク、8 メトシェラ、 9 レメク 、10ノア 、 11セム、12 アルパクシャド、 13 カイナム、14 シェラ、。

たとえば、↑12代目アルパクシャドの子、はシェラなのに、
居ないはずのカイナム(アダムから4代目のケナンと同じ意味の名前)が13代目として系図に挿入されたことの意味とか、。

まだ、、、なんで、、と考えてる、。
前に、人の名前に込められた意味から、思考したけど、
わからなかった、、。

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ルカによる福音書
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベト、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

2:21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。


マタイによる福音書
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。


主があなたと共におられる。
この聖句は、御霊である神様としてのイエス様が、
御母マリアと共においでであること、を意味してます。
インマヌエル、、なる御方、、イエス様を指しているのですから、。

御霊としてのイエス様は、人となられる前の、、神様御自身としての御霊です。
その神様であるイエス様が、御母マリアと共においでだったのですから、
御母マリアは、、イエス様の受胎と同時に、、
イエス様御自身の聖性、神性により、聖霊による清めと同様、
無原罪となれるわけですが、、、。

なぜか、、イエス様の聖性や神性は、、処女である御母マリアからの
出生の有無により、左右されるが如く、、
無原罪の御宿り、という教理が、後付けで、生み出されたのですけど、。

最初から、その無原罪の御宿り教理があったわけじゃないです、。
御母マリアの処女性にこだわったのは、、
イエス様に肉の父があると思わせないためでしょう、。

エリザベトも、マリアも、、と
同列で懐妊していると書かれているので、
エリザベトの夫は祭司ザカリアで、ザカリアの子であるから、
同列に書かれた御母マリアも、ザカリアによって身ごもったと
わかる人にはわかったでしょうね、。

イエス様に肉の父があれば、原罪があるわけだから、、
イエス様は神様の御子であると、言い張れない、、と考えた人が居た。
それじゃ、困る、、ということで、、
苦肉の策として、、考え出された教理が無原罪の御宿り、。

ルカによる福音書では
幼子はイエスと名付けられた。
これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
と書かれているけど、、

マタイ福音書では
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。
マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。
この子は自分の民を罪から救うからである。」
と宿った後で、、、イエスと名付けるよう天使に言われて居ますから、
聖書の記述に矛盾があります、。

つまり、
これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
この1文は後からの書き足し、、の可能性が高い、。

マルコが先でマタイとルカの成立は同時期くらいだったと思うから、、
マタイで、、宿った、と過去形になってるし、、
受胎より先に、、受胎告知があったことにしないと、、
御母マリアの子は、許嫁のヨセフの子じゃないなら、誰の子?となるから?

通常、初めて、聖書を普通に読んだら、そう想いますので、、。
昔であっても、処女懐妊は信じなかった人はいたけど、、
下手なこと言うと異端や悪魔の手下とされて火あぶりで処刑されたからね、。
黙るしかなかった、。

昔は、なんとか脅したりして言いくるめれたけど、、
現代は、もう、言いくるめるより、真実を明かされ、
それらを知った上で、神様やイエス様を信じれる時代、。

イエス様は神様です、。
処女降誕での出生ではなくてもね、、。

↓御母マリアが、受胎の時点で無原罪でないと、おかしいと言う人も居て、
そうだとしても、、じゃ御母マリアだけは、
キリストとそのあがないを必要としないのか?と論争が起き、、
無原罪の御宿りという教理を考え出した、、。

色々と都合が悪いから、、
清い処女からイエス様が生まれたから清いということにして、
肉の父は、居ないことにした、。

教皇ベネディクト十六世の231回目の一般謁見演説
↑こちらでは、御母マリアの無原罪の御宿りについて、、
前もっての贖いと、書かれています。

もっては、御母マリアの受胎前もしくは、
懐妊と同時に無原罪であったとなり、
イエス様は無原罪のお方から産まれたという事になりますが。

この教理は、極論するなら御母マリアを聖化することで、
イエス様を神様の御子であるとしたわけです、。
イエス様が神様だから、イエス様が母マリアに宿ったことで、
御母マリアは罪が赦されたのではないの?
なんで、逆なのかね?

わざわざ、ワンクッション挟まなくても、、、
イエス様は、神様だと聖書が証ししてるのだから、、
イエス様は神様です、、。
だから生まれながら無原罪の御方です!の一言で済ませましょう、。

そのほうが、イエス様は、、処女降誕したから神様です、。
と、うんちく言うより、スッキリです、。

ヨセフが、、なんで、恐れたか、。
自分が、律法破りをして婚約中に、自分が身は潔白なのに、
御母マリアと同衾したと思われるからです、。

自分がそうしたと疑われる、、それは冤罪、。

ヨセフは生真面目だから、そんなの耐えられない、。

ヨセフが、マリアに相手は誰?と聞いても、、
マリアは私は知らないとしか言えないし、
答えれなかったでしょう、。

普通、裏切られた、
不義密通したとマリアを問い詰めて怒るでしょ、。
こんな冷静でいられない、。

ヨセフには思い当たることがあったから、、
マリアを、そっと離縁しようとしたのです。

マリアと、ヨセフを説き伏せてまで婚約させたのは、、
祭司ザカリアで、マリアは、
ザカリアの養女でもあったわけだから、。

常識的に考えて、ヨセフは、だいぶ年配で、
先妻との大きな子も何人もいて、、、
親子ほど年が離れた女性に、一目惚れでもしなきゃ、、
求婚しない、。

ザカリアがヨセフを説き伏せて、
神様に従わない気か、、と脅しに近い形で、、、
ユダ族の御母マリアのユダ族の婚約者候補に、
ヨセフも名乗りをあげさせられたのです、。

だから、そんなに強行に、それをするよう言われたから、、、
後から、、マリア側の事情を、、ヨセフは察した、、。
ザカリアが、、自分を半ば脅し気味にしてでも、、
マリアの婚約相手に選んだ理由も、その時、理解した、。

若い男性が婚約者であったら、、こんなことが起きた場合、
御母マリアが無事で済まなかったかも知れないと、。
自分なら、、悟って穏便に済ませてくれる、。
わかってくれる、自分に託されたマリアを守ってくれる、
と、ザカリアの自分への信頼を、、。

マリアが懐妊していたことを、
ザカリアが知らなかったのかも知れないから、、
だから、、ひそかに離縁してザカリアの元に返そうとした、。

でも、天使がお告げで、、
マリアを妻に迎えるよう言ったので、、
素直なヨセフは、それに従順に従った、。

聖書には書かれて無くても、、
当時は、、律法破りには煩い時代、、。
無事に済むわけがなく、、。

ヨセフもマリアも、律法を破って、婚約中に同衾したと、
祭司に訴えられて、呪いの水を飲まされたことが、
聖書の偽典に書かれています。

御母マリアは自分の親族エリザベトに願われて、であり、
ヨセフとの婚約もザカリアの指示に従ったことで、、
何もやましいことはなく、、。

ヨセフも、心やましいことがなかったので、、
二人共、ためらいもせずに、呪いの水を飲んで、、
当たり前だけど、何も起きなかったので、、無罪放免になった。

心やましい者は、、呪いの水を飲むよう、
祭司に言われた時点で怖気づく、、。

神様の御霊が現代より強く働いていた時代だから、、
神様の御前に、ごまかしがきかないことを、
民も祭司もよく知っていた、。

でも二人共、、呪いの水を飲んでも、
何もなかったので、無罪、。

ヨセフの子でないなら、、、じゃ、ザカリアの、、と
密かに噂にはなったでしょうが、、。

神様の下された判定は、、御母マリアは無罪、、、
ヨセフも、無罪、、なので、ヨセフの子ではない、、。
ザカリアの子とも公には言えない、。

暗黙の了解ということで、誰も公言はしなかったというか、、
神様の罰が怖いから下手なことを言うことは出来なかった、。
せいぜい言えて、、マリアの子、、父なし子、、と、
マリアとイエス様とを蔑んだ、。

ヘロデがベツレヘムとその周辺一帯にいた
二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。わけだから
エジプトに逃げて、、それが起きたの二年間は、、間が空いている、。

母子が離れるのは、、乳離れしてからが普通なので、
イエス様が三歳くらいになったころ、、、
たぶん、エジプトから、ナザレに戻って来るときかな、、、。

その時に、イエス様だけが、
祭司ザカリアの元に、戻ったと考えています、。

ルカ福音書
2:39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。
2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。

>幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
どこで、誰と暮らした、と書かれてない、。最低限のことのみ、。

親子は、、と途中から書かれず、両親は、、になっています、。
これは、マリアとヨセフだけで、、イエス様は共に居なかった、、ということです。
親子ではなく、両親だけ、、であったということ、、。

サムエル記
2:18 サムエルは、亜麻布のエフォドを着て、下働きとして主の御前に仕えていた。
2:19 母は彼のために小さな上着を縫い、毎年、夫と一緒に年ごとのいけにえをささげに上って来るとき、それを届けた。

サムエル記の、この聖句箇所の再現ですね、。

聖書には記録はされていないけれど、、
イエス様は3歳前後位からバルミツバの儀式をする
12歳になるまでは、、祭司ザカリアの子として、
ザカリアのもとに居て聖書や祭儀のこと、
高等教育を受け学んでいて、聖書も読んでいた、。

荒れ野にいた、バプテスマのヨハネの代わりに、。
本来、バプテスマのヨハネが、
ザカリアのもとに居るべきでしたけど、。

ヘロデが、2歳以下の子を殺した時、、
ヨハネも、それに含まれていた、、
でも、ヨハネは生き残っていたから、、
ザカリアと、エリザベトが、隠しかくまったので
死なないで済んだのですね、。

ルカ
1:80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

でも、戸籍上は死んだことにして、
ヨハネは人里離れた荒れ野でひっそりと暮らすようになった、。
ヨハネがザカリアの子でありながら
ザカリアの家に、居なかった理由は、、、

戸籍上では、ヨハネは死んだことにしたので、
ザカリアの家の家督を継げなくなった、。
それで、代わりにイエス様が、ザカリアの子として
呼び帰された、。

12歳の時に、バルミツバ成人式のために
一旦 祭司ザカリアの家からイエス様を連れ帰って。
その後、何年かたってイエス様は荒野にあったヨハネ教団に入った。

それから独立、また再会、、公生涯はじめ、、。

マグダラのマリア

関連記事です。 良かったらお読み下さい、。
御母マリアとエリザベト再考察 最新版 副題 御母マリアの懐妊時期




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カトリック、ミサの度に聖体拝領してるけど、
聖体拝領のミサの回数が多いせいで、、
葡萄酒の配餐を出来ないのよね、。

葡萄酒とセットにしたら、、大幅出費になるから、、
だから、御体に御血が含まれてるとして、
ホスチアしか配餐しない、。

でも、そういう未完成のミサを、捧げれば捧げるほど
サタンが、霊的儀式を、横から奪い取っていくのに、。
カトリック教会のサタン化に拍車がかかるだけ、。

創世記
15:11 禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。
アブラハムが、正式な儀式で規定を守らず鳥を割かなかった、。
裂かないまま捧げたという僅かなミスでも、、正式な儀式であるのに規定通りでないためサタンの象徴の禿鷹が降りてきて、儀式をかすめ取っていった、。

半分は神様のものにはならなかった、。
半分は、先に、、サタンが奪い去った、。

だから、、

創世記
15:17 日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。

神様は、半分を聖別して、生贄の動物の半分だけを受け取られた、。
本当は、アブラハムの儀式の捧げ方が、、
正しい方法、鳥を裂いていたのであったら、、

列王記上
18:38 すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。
天から火が降ったとき、アブラハムの捧げたもの、、
すべてを、、焼き尽くして、神様のものとして
受け取られて居たでしょう、。

間違った儀式は、、
すればするほど、サタンの霊的な食べ物になる、。
サタンに力を与えるだけよ、。
だから、、カトリックは早急にホスチアと共に葡萄酒も配餐すべき、。

なんで、、規定通りにしないの、。
葡萄酒ケチるわけ?
ミサの度に聖体拝領をするのは、、、献金を促すためなの?

本来、一度で良い聖餐式、、。
イエス様は、御自身の神様と人としての命と、引き換えにして
救われたから、、イエス様の定めた規定通りにしたら、
それで完全無欠な救いの儀式。

何度も聖体拝領をするのは、イエス様を、動物の生贄と、同一視して
血を流されたことしか、理解してない、。
何によってサタンに勝利したかわかってない、。と思っていたけど、

そうじゃなくて、単なる金儲け、、献金を集めるため、、なんじゃ、、と
思えてしょうがない、。

神様と人との 血の契約は、、
一度契約が成立したら、 人側がどうであっても、、
神様は絶対に永遠に契約を守りつづける。

アブラハム契約が、永遠の契約として、
彼の子々孫々に至るまで祝福を受けたように、。

イエス様の十字架の贖いが一度で良かったように、
神様とのパンと葡萄酒の契約も一度で良い。 
人がどんな状態になったとしても、契約は永遠に、子孫へと継続される、、。

なぜなら 神様は永遠に存在される御方で、
一度された契約を守る御方でもあるからです!

だからこそ、不完全な儀式では、、、
神様の守りは永遠になくなる可能性が高くなる、。

契約の儀式が正式な方法で出来てない以上、
その人の信仰心が高かったら、、、
聖霊が降って助け支えて下さるけど、原罪の清めは、、
完全ではないので、、新生輪廻してくるしかない、。

信仰心が無い、もしくは神様を利用しようという思考で信仰心が低かったら、なお低く、、堕落へと堕ちていく、。

もし子孫があれば、代を重ねるごとに誰かが、正しい信仰心を持って
回心せねば、、神様からどんどん離れ去っていく。
血筋というもの、、肉体の中の遺伝子により、
霊的なものも一緒に受け継がれてしまう、。

原罪が、、性的な罪であったゆえに、
罪の因子は一代限りでは消えず、、、
遺伝的な要素も含まれてしまうことになった、。

神様の守護を拒否したままで良いのだろうか、、、。
カトリック、聖餐式のあり方を考え直して欲しい、。、

追記
カトリックの神父、、司祭さま、
なんで、週に何度も聖体拝領の儀式を行い続けるのか、、
葡萄酒の配餐をしないのか、
御回答いただけると、ありがたいです、。

カトリックの信徒の方は、葡萄酒の配餐がないのは、
当たり前と思っておいでなのでしょうか、。
聖書の規定通りではないのに、、なぜ疑問に思わないのですか?

再追記
現状、お金儲けに、シフトしてますよね、。
カトリックは、
なんとかの聖人を、多く作って、御絵、カード、メダイ、
ロザリオやらを売って、聖人に着せた衣は聖遺物として売り払って、。
信徒から献金を集めて、事実上のお金儲けしてる、、、。御母マリアと聖人をお金儲けの道具にしてる。


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