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聖霊の働き
第2章 2.聖霊による清め

バプテスマのヨハネのイエス様についての証し。

ルカ 
3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。


水の洗礼は、母親の羊水に入って産まれ直す事の象徴、。
なので、、肉体が羊水に浸ることと、
女性格である聖霊に満たされ浸ることで成される霊的新生は、
産まれ直すと言う意味合いにおいて繋がりがある、。

つまり、真剣な想いで、イエス様を求める者には、
霊的新生と言う産みの苦しみが罪を示される時に在る、、という事、。

罪を知らされた時、それを認めて救いが必要です、、
とへりくだるのか、、。

それとも、自分は悪くない、自分は努力しているけれど、
周りの人が非協力的なんです、、
と、自分には罪が無い、、と神様に言いわけをするのか、、。

いくら言いわけをしようとも、、
自分自身の清らかな神様からの命、魂と、、神様とは、、
その言葉が正しいか否かを知っていて、騙すことは出来ない、。

死んでからのち、魂は、、その人の心のままの姿へと
霊体を変容させる、。

醜い心の者は醜く、。
清らかな心の者は光輝き、神様の子としての栄光の姿へ、、

どちらも半々の者は、生きていた時の姿のままで、、
でも、彼らは聞く耳があるので、、
自己反省ののち罪赦されて清くされ栄光の姿へ、。

これが、、、霊的に視た、、人の受ける最後の審判、。
自己の魂により、山羊と羊とに分けられる。
その時、人にした事は、、自分自身に戻り帰る、。


民数記
31:23 すべて火に耐えるものは、火の中を通すと清くなる。それ以外のものは、清めの水で汚れを清める。火に耐えないものは、すべて水を通さねばならない。

民数記31:23により、バプテスマのヨハネは水による清め、
洗礼を人々に施していた、。
これは、人の手による代替え的な洗礼、。

しかし、いくら体を清くしても、、
人の霊から生まれながらの罪である原罪が
祓われ清くならなければ、、
人は人自身の意思の弱さ故に
原罪以外に犯す生きて行く中で犯す罪を犯す。

嘘、偽善、悪意、そねみ、憎しみ、怒り、陥れること、、。
人の心からわき起こる、さまざまな悪意がそれです。

人はなかなか、自力では罪のくびきから逃れる事が出来ない、。

イエス様は、己自身の罪を認め、悔い改めた人に、、
罪を悔いて赦され救われた証しとして、、
神様からの洗礼である聖霊と火のバプテスマを授け、、、、
聖霊を授けられた人は霊的新生をする事が出来る。

イエス様から、聖霊と火のバプテスマを授けられ霊的新生をした人は、、
自分の中に在る悪の心と善の心を正しく見極められるようになり、
自分の中から起こる悪の想いや行いから離れ去ろうとする、。

もし、誤って罪を犯したとしても聖霊の示しにより、
自分の罪に気付き悔い改めて、
すぐに神様の御許に立ち戻ることが出来る、。


聖霊は、清めるもの、、火の性質を持つ、。
人の霊は火で焼かれても滅びる事が無い故に、
聖霊と言う火で焼き清められることとなった。

霊は霊に作用する。
聖霊は、、人の霊から罪を清め、
罪の中から人を清い者として新生させ、罪を退け、
人として生くべき正しい道を気付かせ示す。

そして神様の御愛、
無償の愛を行おうと努力する者と共にあって、、、、
その人を守り導く、。

神様は愛なるお方、。
そのお方から使わされる聖なる御霊、、

聖霊は、クリスチャンではなくても、、、
誰であれ、無償愛を行おうと努力する者とともに居て下さる。


そしていつか、、、
罪からの解放者、、人の救い主であるイエス様と出会って、
罪を知り、悔い改めて、聖霊を受け、
霊的新生をし霊肉共に救いへと至らせるようにと導き助けて下さる、。


いずれは、、、すべての人が、、
直接的にしろ、間接的にしろ
聖霊を受け霊的に新生し救われていく、。

父さまの御心は全ての人の救いだから、、、。

生きてある間に、イエス様に出会えなかった人、
イエス様を知る機会が無かった人は、
肉体の死後、現世に産まれてくる人と合わさり、
生きている人と共に、あたかも人としても復活し蘇ったように

人生経験を
自分自身の体験として積む。

もし、、生きている人がイエス様と出会って救いを得たなら、、、
合わさっている霊の人も、、
生きている人自身の霊と共にイエス様に救われ
聖霊を受け原罪が赦されて、救いの喜びに満たされる、。

神様からお赦しを得て、現世に戻り、
生きている人の霊に合わさっている霊の人は、、、
自分自身では何も生きている人に働きかけることは出来ない、。

どんな選択であろうとも、生きている人の選択が優先される、。

だから、、、死んで霊となった者は、、生きている人が羨ましいと想い、、生きてある内に救いを得たかったと死後、切望する霊なる人も多い、。

死んでから、、人に作用し憑いて苦しめたり、危害を加える霊は、、
死んでも死んだことを認めれず、
自分の欲心ゆえに神様の御許へ戻らず、
この現世に留まってしまった未浄化の霊であり、
聖書で言うところの汚れた霊、悪霊と書かれている存在。

悪霊は人の悪心、欲心、、罪の想いを正当化する形で増幅させ、
それを満たすことで満足感を与える。
そうして罪を犯させ知らず知らず、
巧妙な手口で人を
神様から離れさす。

人は、、自分の中の悪霊に気付きにくい、。
悪霊はサタンからの知恵により
いかにも最もらしいことを人にささやき誘惑する存在であるから。

自己の罪に気付き悔い改めた時に、、
聖霊に照らされて気付かせて頂くか、、、、、、
視えたり感じたりする人から言われて気付くしかない、。

イエス様は、、ファリサイ人らに蝮の子、サタンの子と仰って、
彼らの中にサタンが入り込んでいたことを教えられた、。
しかし彼らは、自分を省みることをしなかったので、、
悪霊に支配されたままとなり、、
主イエス様を十字架に掛けることになった、。

彼らが、、、心を低くして、イエス様の
言葉を聞こうと、
へりくだっていたなら、、

彼らこそが、、真っ先にイエス様に出会えていた筈でした、。
聞く耳を持たなかったばかりに、、

彼らは、、、救いを得るのが
罪人よ、、。と彼らが蔑んでいた人々より後になってしまった、。

人の内なる聖霊は、、、
神様御自身が与えて下さった人の魂として、
元から在るのです。

天から聖霊が下る前から、、。
でも、、人の肉に在る原罪の徴に影響された人間の、
犯す罪の数々で穢れて、、
聖霊は、、次第に輝きを失い死んだように眠ってしまう、。

イエス様が下さる聖霊の命は、、
この
死んだように眠った魂を新生させ活きた命として蘇らせ
新しい霊の命により活かされた人は、
人の原罪に関わり悪を行わせようとする悪霊のささやきも、
自分自身の悪の想いも、、
自分自身の内なる罪として自覚し、犯そうとしそうな罪から離れ去る、。

イザヤ
57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。

自分に与えられている清らかな命、魂を、、悪の心、欲の心で穢し、死んだようにさせ滅ぼすことが無いようにしましょう。

神様の性質である、無償の愛を行うことで、
内なる命、魂を養い育て、
愛を実践する者として生きる努力を僅かでもいいのでしましょう。

そうすれば、聖霊を手放さずに清い想いで生きて行けて、
天の国に多くの愛の富を積むことが出来るでしょう。

天に愛の宝を多く積む者は幸いです。
あなたがたは天の国で、、神さまの愛の家族と呼ばれるでしょう。

マグダラのマリア

第2章 聖霊
1.聖霊とは何を意味するか 

聖霊は知恵の霊のこと。人を教え導く聖なる霊は、、と知恵の書に書かれている。

知恵の書(旧約続編)
1:4 知恵は悪を行う魂には入らず、/罪のとりこになっている体には住み着かない。
1:5 人を教え導く聖なる霊は、偽りを避け、/愚かな考えからは遠ざかり、/不正に出会えばそれを嫌う。

エゼキエル書 
28:17 お前の心は美しさのゆえに高慢となり/栄華のゆえに知恵を堕落させた。わたしはお前を地の上に投げ落とし/王たちの前で見せ物とした。

ここでのお前とはティルスの王の中にいた堕天使ルシフェル、サタンの事。そのサタンに対して神様が語られた言葉。
知恵を堕落させたとは、全ての生きた命の源、女性挌である聖霊の実体としての役目を担う筈だった女性エバをサタンが堕落させた事を意味している。

エバは、知恵の木に象徴された美しい知恵の天使ルシフェルへの偽りの愛、見かけの美しさに騙されてしまった愛ゆえに触れて死んでも構わないという覚悟で、死んでしまうから、触っても食べてもいけないと仰っていた神様の御言葉に背き、サタンに触れて罪を犯し堕落した。
アダムもエバに言われるままに堕天使ルシフェルの見た目の美しさに酔って従ってしまい堕落してしまった。彼らは死んでも構わないという覚悟で、、死ぬと仰っていた神様の御言葉を信じず、死なないと言ったサタンの言葉の方を信じて神様に背き、罪を犯して堕落した。

人が、、命がけで不信した為に、イエス様を送りだす為に、、御母マリアは、姦淫の罪に問われて石で打たれて殺されるかもしれないのに、神様の御心に従って、婚約者のヨセフと一緒になる前にイエス様を宿された。

御母マリアの信仰は、、殺される可能性があると、十分に理解して居ても神様の御心だから、と自分自身の想いを捧げて従った、尊い命がけの信仰。口先だけの従順では無かった。
人は、祭司ザカリアと御母マリアからイエス様が産まれたと書いたら、、2000年前の人々のようにイエス様は不倫関係から生まれた子では無いか、。それならば、イエスは罪の子ではないか、、どうしてそのような者が人の救い主たりえよう、断じてそんな事がある訳が無い!と言う。

エバは、自分の夫アダムを第一の夫とし神様に従わなければならなかった。
それなのに、サタンを自分の従うべき者、自分の夫として選び神様に背いた、。本来エバの第一の夫であったアダムは、第二の夫とされてしまった。

これをなかった事にする為、御母マリアの婚約者、第一の夫であるヨセフをエバを誘惑し奪ったサタンの立場と見なし一旦退け、第二の夫に退けられたアダムの立場に置かれた、御母マリアの婚約者ではない祭司ザカリアを、御母マリアは第一の夫として命をかけて受け入れる必要があった。
御母マリアは、エバの出来なかった事、神様への従順を信仰により成し遂げたのです。

原罪の過ちをなかった事にする為に、、命がけで。
人が姦淫とみなそうとも、神様の御言葉だからと疑わずに従い
御母マリアは祭司ザカリアの家に行き、3ヶ月滞在したのち身ごもった。

御母マリアは、ヨセフと婚約中なので、およそ約1年間、身を清める為に実家に居ないとならなくて、男性には会っても話してもいけないという決まりがあった。
ユダヤでは、娘が12、3歳頃になると、父親が夫となるべき男性と婚約させるのが、しきたりで夫となる者が結納金を花嫁となる娘の両親に渡し、受け取れば婚約成立となった。
しかし婚約中でも法律上では、すでに結婚しているとみなされていた。

この婚約中に不貞を犯すと離婚の正当な理由とされた。不貞を働いた場合、石打ち刑にされた。もし婚約期間中に夫が死んだ場合には妻はやもめの処女と呼ばれた。婚約期間が終わってから婚礼の式。角笛の合図で歌って踊ってお祭りのような雰囲気の中で二人の結婚を祝う。

余談として
クムランで発見された死海文書などによって当時の生活が明らかになった。当時の主要なグループの一つユダヤ教エッセネ派では、男女は仮の結婚式の後初めて性的関係が許され、女性が妊娠三ヶ月になった時点で正式な結婚式を挙げるという慣習をとったそう。
つまり、正式な結婚式のときには花嫁は妊婦だったという事に、、。仮の結婚式の前に数年間の婚約期間が設けられており、その間は性的関係が禁じられたが、ときに禁を破り、妊娠に至ってしまうカップルもあって、、その場合、体面上、処女が身ごもった。という言い方をしたらしい。

参照先 http://okwave.jp/qa/q1482950_7.html

バプテスマのヨハネがエッセネ派に属していたという説がある。

エッセネ派は、俗世間から離れて自分たちだけの集団を作る事により自らの宗教的清浄さを徹底しようとした集団だから、。
バプテスマのヨハネと弟子が荒れ野で集団生活をしていたという聖句箇所がある為、。

もし、御母マリアとヨセフが、エッセネ派に属していたなら、御母マリアと祭司ザカリアの事は夫であるヨセフさえ黙って受け入れたなら、周りには新婚故の失敗ですんだ事だったのかもしれない。
しかし、ヨセフがマリアの事が公になる事を好まず、密かに離縁しようとしたと書かれているので、エッセネ派では無かったと思われる。ヨセフはマリアを殺されないように守ろうとして密かに離縁しようとしたのだから、。

サタンが知恵を示す知恵の木、知恵の天使であったという事は、、
知恵の霊である聖霊の働きを、本来なら、全てのものの命の母となったエバと共に、彼も行う筈であったという事、。

元は大天使長であり、堕天使になってしまったサタンは、イエス様に仕え助ける存在、聖霊のような働きの補助をする者として光りの天使でいる筈だった。

堕天使となったサタンが、本来、イエス様を助け支え人を清める聖霊のような聖霊のような働きの補助をするはずであった事を考えるなら、人と最も深い関わりのある元天使だった事を知らなければならない。

彼は、、最初の人アダムとエバの身近に常にいたからこそ、神様は触ってもいけない、食べると死んでしまうから、とアダムとエバに仰ったのだから、。
神様は、、サタンが天使の心から、既に堕落していた事を御存じだったから、、今までのように近寄るな、とアダムとエバに仰った。

アダムとエバに死んでしまうから、、と、そう注意さえしておけば、、人は言いつけを守って、サタンの言いなりになる事もなく、サタンが人を罪を犯させて穢そうとしている事も防げるだろうと、、アダムとエバを信じ切っておられた。
でも、、人は神様の信頼を裏切って、見た目が美しいからとサタンに騙され、サタンの言う言葉の方を神様の御言葉より上に置いてしまった、。

マグダラのマリア

追記
イエス生誕の頃のユダヤの状況は、サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派の三つの宗派(あと、ごく少数派の熱心党)があった。エッセネ派は他のパリサイ派、サドカイ派に比べ、熱烈にメシア(救世主)を待望していた。エッセネという名は、「医師」を意味する古代シリア語に由来。
彼らは人々の肉体・魂・精神を治療することが、自分たちの存在の目的であると考えていた。彼らは12人の信徒と3人の祭司からなる議決機関を持ち、10人ごとのグループに分かれて、 堕落したエルサレム神殿を嫌い、都を去り体制に背を向け、死海北西の荒野に住み、 厳しい戒律、礼拝、 聖書研究に没頭した。

律法を学び、厳格な戒律を守り、生活の細部にわたり清浄さを保ちながら修行に明け暮れていた。エッセネ派の人たちは自給自足で個人の財産を持たない共同財産制の生活をしていた。


彼らエッセネ派ユダヤ人たちは、紀元前100年頃にパリサイ派ユダヤ人から迫害を受けた際、人里離れた地クムランへ移住したが、紀元66年の第1次ユダヤ戦争以後、歴史の表舞台から姿を消してしまった。


聖霊の働き
第1章 無原罪の御宿り

プロテスタントで認められていないカトリックの教義に無原罪の御(おん)宿(やど)りの要理があります、

御母マリアは原罪の穢れなしにイエス様を受胎なさったというものなのですが、、
乙女である御母マリアが乙女のまま受胎したと考えられています、、。

それは、、御母マリアの母アンナが聖霊に満たされて御母マリアを産んだことから、御母マリアには原罪が無いけれども、誰か他の者が受胎に関わると、、原罪が遺伝する性質を持つために原罪の穢れが生じて、イエス様が無原罪でなくなってしまうと考えたことからきています。

絶対に神様であるイエス様に普通の肉の父母が、、在ってはならないと、。言う考えが、、この教理の根底にはあります。
御母が乙女でないと、直に肉に於いてのイエス様の母、、
御母マリアの受胎に男性が関わると、、直に肉に於いてのイエス様の父となって、、原罪が無い、、無原罪であるという証明が出来なくなるためです。

なぜ、イエス様が無原罪であったのかが理解できていなかったために、このような教義は、イエス様が無原罪であるということを証明するためにカトリックでは必要としたのだと思われます。

プロテスタントではイエス様の無原罪は聖書にイエス様は罪なき方と書かれている事から信じはするけれども、御母マリアを神の母として崇敬することは偶像礼拝にあたるとして、イエス様の生母であり、信仰深い女性であるとは認めても神の母と言う称号は与えない、つまり認めないこととしています。


イエス様が何故無原罪なのか、、それは、、
イエス様はもともと、無原罪である天地創造の御子なる神様であるからです。ヨハネ福音書にこう書かれています。

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

イエス様は人として肉の器に入る以前は、、始めの時から存在されていらした神様なのでわざわざ聖霊によって清める事は不必要です。

そして、御母マリアも、母アンナから聖霊を受けて産まれた生まれながら無原罪の女性であり、無原罪の胎を持つ者です。
なので、、本当に御母マリアのみでイエス様を受胎するのなら
聖霊による清めは不必要です。

イエス様御自身は聖霊によって清くされて世に降ったのではありません。
イエス様は、父さまから遣わされて、
御自分の意思で使命を果たすべくこの世においでになられていました。

イエス様は人となられる前は父さまと等しい御子なる神様だったのですから、元々、その御霊は清い無原罪のお方です。
イエス様は、産まれながら、聖霊によらなくても清らかな無原罪のお方なのです、。元々から神様なのですから。

イエス様は、その霊自身が神様なのですから完全無欠で清いのです。例え御母マリアが乙女でなくても、その聖性と神性は穢れることなど決してありません、。人の原罪程度で穢れてしまうような聖性とか神性なら、到底、人を原罪から救う事など出来ません。

なにか条件がないと清らかでなくなるという不完全な清らかさを
神様であるイエス様に押し付ける教義は間違いです。

ただ、、乙女から産まれたという信じがたい事を信じる信仰によって父さまは救われるということを約束なさっておいでです。だから、教義内容がどうであれ信じると言う事自体が信仰の中で、、最重要事項となるので、、人が信じがたい事でも心から信じれるというなら、、今の協議でも構わないのですが。

イエス様の受胎の時、、聖霊が降って、、御母マリアのもとへ遣わされたわけです、。本来何の必要性が無いのに、、。

つまり、なにか、必要性があったから、
聖霊は、父さまから遣わされたのです。

ルカによる福音書1:35〜40
35 ויען המלאך ויאמר אליה רוח הקדש תבוא עליך וגבורת עליון תצל עליך על כן גם לקדוש הילוד יקרא בן אלהים׃
36 והנה אלישבע קרובתך אשר קראו לה עקרה גם היא הרתה בן בזקנתה וזה לה החדש הששי׃
37 כי לא יפלא מאלהים כל דבר׃
38 ותאמר מרים הנני שפחת יהוה יהי לי כדברך ויצא מאתה המלאך׃
39 ותקם מרים בימים ההם ותמהר ללכת ההרה אל עיר יהודה׃
40 ותבא בית זכריה ותברך את אלישבע׃


ギリシャ語からのヘブライ原語邦訳
35そして 天使は 答えた と 彼女に 言った、聖霊が あなたがたに 来ると 最高のパワーは 日陰(覆って)で 自分自身(人)を 提供するため、また、神の 聖 新生児(御子)と 呼ばれる息子に しなければならない
36の彼女 と呼ばれる エリザベス Krovtcは(קרובתךヘブル語 Krovtcギリシャ語ともに意味不明) 彼女は また 彼女の老後と 不毛(実のならないと言う意味で不妊の意味)と呼ばれる (息子を)持っていた(妊娠した) 新しい6
37神から 何千もの それではない すべてのもの:
38とメアリーは、私が 主の お手伝いさんは それが 汝の  言葉にしたがって 私を わたしと 天使に しておくことです 言った
39そして 彼女は、当時と ユダの街に 急いで 立ち上がった(起こったの意味もあり、山里の山の 街に登ったという意味では??)
40そして、彼女は 家に 帰ってきた(出迎える)、、ゼカリヤ、および Elisheva(エリサベト) 祝福

新共同訳
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
1:39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1:40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した

ギリシャ語の原文テキスト:ルカ1:35ギリシャ語NT:公認本文(1894年)より

35και αποκριθεις ο αγγελος ειπεν αυτη πνευμα αγιον επελευσεται επι σε και δυναμις υψιστου επισκιασει σοι διο και το γεννωμενον εκ σου αγιον(αὐτοῦ 英語ではof himで彼に属する) κληθησεται υιος θεου

35 そして 天使は答えた、 これは同じ いと高き 曇らせる(包みこむ)の 汝の 聖霊と 強さ(もしくは これ、一つ、彼、彼女、それ
οは定冠詞、この、その、一つ、彼(時には英語イディオムで、省略された他の人、供給される女性の彼、を含む)で 発生し、神 klithisetai(呼び寄せる、招く)の あなたの聖なる 息子が 生まれた と述べた。

ヘブル語の תבוא עליך は あなたがたと言う意味で複数形です。
どうして複数形なのでしょう?あなたがたに来ると、。新共同訳では単数形になおされていますね。

グーグル翻訳を使ってのヘブル語文邦訳
そして天使 答えた と 彼女に言った、聖霊が あなたがたに 来ると 最高の力が 陰で(上に来て)身を提供する(覆っての意味)には、それゆえまた、神の 新生児聖者 と呼ばれる 必要があります。

聖霊は霊であるので身を提供と言う表現がヘブル語の原典にあるのは謎ですね??
ギリシャ語訳には彼と言う表現もありますし、、聖霊は女性名詞なので、聖霊を指す言葉なら、、彼女でないといけないのですが、、。

私は、聖霊に満たされた祭司ザカリアがイエス様の代理父になっていたと、記事を書いています。

御母マリアが乙女でないといけなかったのは、
祭司ザカリアが祭司の規定により乙女しか触れることが出来なかったからです。祭司は処女しか妻に出来ない。
つまりは乙女でない女性には触れないので御母マリアは乙女である必要性がありました。

彼がイエス様の肉における父ならば、彼は御母マリアと違って、生まれながら罪が無い者、無原罪ではないので、聖霊による清めが無いなら、、多くの人が考えた通りに、イエス様が宿る筈の肉体には原罪の徴、罪の傷が付いてしまいます。

肉体に原罪の傷が付くというだけ、霊は神様なので清らかなままです。

普通の人は原罪の徴のせいで、霊が穢れて罪を犯してしまいますが、イエス様の御霊は天地創造の神様なので、肉体に原罪の徴があっても霊が穢される事は無く、無原罪のままです。

従って聖霊による清めが無かった場合でも普通の人のように罪を犯す事もありません。原罪の徴だけが肉体に在ると言う状態になります。この原罪の徴があると、サタンはいくらイエス様が生きてある間にイエス様御自身が何も罪を犯していなくても、原罪の徴を盾にして神様の御子じゃない 罪の徴がある故に自分の子だと神様に言い張りますので、原罪の徴は肉体からも取り払う必要がありました。


ギリシャ語訳οの意味する 彼、、が、男性である祭司ザカリアを指す言葉であるなら、、聖霊により、イエス様の宿る肉体の原罪の徴を清め、無原罪の状態にする必要性も生じます。

もし、御母マリアがカトリックの教義にあるように本当にお一人で、誰にもよらずに神様からイエス様のお命を宿されて懐妊したのなら、、元から無原罪同士の親子の結びつきなのですから、
罪を清める聖霊が関わること自体が不必要なことです。

御母マリアが、、無原罪で罪が無いまま、無原罪のイエス様を御一人で宿したなら、、あなた方と複数で書かれる必要はないし、聖霊の清めも必要が無い。

なぜなら、、御母マリアは生まれながら無原罪の女性なので、無原罪の胎を持つ女性、、無原罪の女性から、、人を介さずイエス様が産まれるなら、その胎内の実であるイエス様は無原罪で当たり前です。

イエス様も御母マリアもどちらも聖霊による清めは不要だったのですから。

イエス様を無原罪の肉体に宿らせるために、、聖霊が必要であった理由はイエス様の受胎に祭司ザカリアが関わったためと、、サタンに肉体に原罪の徴があるから神の子として認めないと言わせないためであって、イエス様御自身の霊が無原罪で無かったという事ではありません。肉体だけのことです。

神様が神様を清めると言う事はあり得ないことです。
聖霊が降っていなくてもイエス様御自身は清らかなのです。

イエス様の父が祭司ザカリアである根拠聖句。
ルカ
1:67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
1:69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家(イエス様の事)から起こされた。
1:74 敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、
1:75 生涯、主の御前に清く正しく。

預言された、内容は、、、イエス様の事とヨハネの事です。
父ザカリアはヨハネの事だけでなく、どうしてイエス様の事を先に預言したのでしょう、。我が子ヨハネよりも先に、、
ヨハネの事を最後に証ししているから、誰も、その不自然さ気付かない、。
私も、、聞くまで気付かなかった、。


ルカ
1:64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。

とルカ1:64 で、既にザカリアと書いてある以上、父ザカリアと書き改める必要は何も無いのに、、わざわざ、記者はそう書いた、。
それは
真実を伝える為に、。分かる人にだけ分かるように、。

マグダラのマリア

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