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聖書中での輪廻観
第2章 サマリアの女性

ヨハネによる福音書4:6〜
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。

すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。

イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。

イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」

イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。

女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。

イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。

イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

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この時代は、男性の女性に対する扱いは遊び女か、妻として娶るか。
遊び女とするなら、続けて通う事はしないです。代償を払って1度きり。

婦人よと主イエス様が呼びかけておられる事からして、サマリア人女性は結婚している筈。
結婚していなかったなら長血を患った女性に言われたように娘よとイエス様は呼びかけた筈。
寡婦(かふ、又はやもめ)なら寡婦と聖書に書かれた筈。

だからサマリアの女性が結婚し連れ添っているなら夫でなければ不可解。

もし寡婦ならばルツの故事のように落ち穂を拾うか働くことをしていて日中に水をくみに来れている筈がない。食べる為に落ち穂を拾いに行ったり何らかの働く事をしなかったら食べれなくなる。

イエス様が生きているサマリアの女性と話をしておられたなら
『結婚もしくは婚約している筈なのに、夫はいなくて、寡婦でもないとはー体どういう事なのでしょうか?このサマリアの女性は何者?』
このような疑問を持ち弟子達はイエス様に尋ねた筈。

イエス様は聖書中での輪廻観の書庫の記事で書いたように、すでに死んで霊となって生きているサマリアの女性と合わさって彼女と共に居る別の霊存在の、もう一人の彼女と、人には聞こえない霊の言葉、心の言葉、テレパシーみたいなものでお話をしておられた。

弟子達は霊の女性の姿が見えなかったし、イエス様は霊の言葉で話されておられたので、弟子達にはイエス様も彼女と何を話しているか分からなかった、
弟子達が帰って来てイエス様が生きている方のサマリアの女性と何か話しておられる様子を見て不思議に思い驚いても、何を話しているか分からなかったので
「(彼女が)何を求めておられますか」とも
「何を彼女と話しておられるのですか」
とも尋ねる弟子は一人もいなかったとなるのです。

イエス様がサマリア人女性と話をしておられる様子でも、ユダヤ人は犬と呼んでサマリア人を避けて付き合わなかったので弟子達はイエス様の傍に来て生きている女性にに話しかける事はしなかった。

霊の彼女には肉なる夫はいない。

霊存在の彼女のように人として一度生きて死んでいる者は、生きている人に合わさって第二(何度でも)の人生を体験をする為に復活する時は
「(生きている人に合わさって人として復活する第二の人の状態である)復活の時には 娶ることも嫁ぐこともなく 天使のようになるのだ。」マタイ 22:30と書かれている通り、
霊の彼女は生きていた時に嫁いでおらず、死んで天使のような霊の状態であるので夫はいない。

強いて言うなら天の父様が彼女の連れ添っている夫であり父でもある。
霊の彼女は原罪から救われたいと願う霊となって、生きている女性と共に、ずっと現われるの人の救い主を待ち焦がれていました。

幾度も幾度も、新しく生まれてくる人と共に、霊の彼女はキリストと呼ばれるメシアが来られる、救い主に逢い、逢って救いを得たい切望していた。

そんな霊の彼女を憐れまれてイエス様は弟子達には、イエス様の事を決してキリストと呼ばれるメシア救い主だと言ってはならないと厳命されていたのに、私はキリストと呼ばれるメシアであると、霊の彼女には身を明かした。
彼女は霊ですから誰か生きている人にそれを言う事はないから。

どうしてイエス様は霊の彼女にだけは御身分を明かしたのか、彼女が死んでからもずっと救い主メシアに逢いたくて待ち焦がれていたので。

幾度も幾度も真剣に願い求めれば与えられるの御言葉の通りに、イエス様がメシア救い主であると仰ったのは霊の彼女にだけです。
霊の言葉で霊の彼女にだけはお隠しになる事なく、私がメシア、キリストだとハッキリと仰いました。

生きている方の彼女には仰っていません。
4:29で 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」とありますから。

もし生きている方の彼女にもメシアだと仰っていたなら
「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。この方こそがメシアです。」と言った筈。

人は死んでしまったらそれで終わりではない。
人として生きている内にイエス様に出会って救われる事が出来なくても霊となってからも生まれてくる人と合わさり人としての体験を積み直しの出来る復活の日は与えられる。

このサマリア人女性の内にいた霊の彼女のように生きている人と共にイエス様と出会い救われる事が出来る。

こうして人は一人たりとも神様の救いから漏れる事なく救われる。

霊の彼女は自分が死んでいる事を自覚していた。
死んで終わりではなく、人は死んでも霊となって生き、救われると生前から神様を信じていた。

見えないけれど霊があると信じる事は、同じように見えなくても存在しておいでの神様を信じている事。
神様は霊であって、人に御自身の霊(心)を命の息としてお与えになられた。
だから霊としての自分自身の存在を信じる事は神様の存在を信じる事になる、と。

生きている女性は井戸に水を汲みに来ていた。
最初、生きている女性はユダヤ人は自分達サマリア人を異教徒だから相手になどしないと思っていた。それで自分にユダヤ人のイエス様がお声を掛けてきたのを不審に思っていた。

でも人に視えない筈の霊がイエス様に視えた事で、生きている女性はイエス様に言いました。
「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と。


そしてイエス様と話して自分も神様から生ける水を与えられ救われたいと願った。

だからイエス様は彼女が一番求めていた事をお与えになられた。

神様の民ユダヤ人ではなくとも、霊と真理をもって父を礼拝する者を神様が求めている事、そして、そのように礼拝する者は、ユダヤ人でなくても誰でも神様を愛する者とされるのだと教えられました。

そしてイエス様御自身がメシアである事を理解させる為に、私の与える水を飲むなら渇く事は無いのだと、、生きている彼女に仰いました。

水は霊を意味する。
イエス様はイエス様の与える永遠の命に至る霊の水を汲んで飲みなさい。と仰った。


4:28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、とあります。
生きている彼女はそう信じたから自分が救いの拠り所にしていた井戸の水を置いてイエス様が与える永遠の命に至る霊の水を受け入れ救われました。


イエス様が仰った私を信じる者は死んでも生きる。の[生きるもの]とは神様が人に与えて下さった【霊】の事。人は死んで終わりではなく父なる神様と連れ添って、神様と共に永遠に存在し続ける事が出来る。

マグダラのマリア


聖書中での輪廻観
第1章 イエス様の仰った霊の新生、復活とは


現代、過去霊能者と自称してる類の者が人は輪廻転生して居ると語っている為に、輪廻転生が当たり前の事と皆さまは思いはじめた、、。
しかし、、これは半分正しく半分間違い。

人は神様によって、、
神様が創られていない、元々存在したものである命の息、神様の御霊を肉体に魂として吹き入れられ、、その時に、初めて霊的に生きるものとなった。

アダムの時、、肉の器である体は先に創造されてあり、その肉に霊、、、
正しくは神様の霊の無限分の1を魂として与えられて生きる者となった。

時折、選ばれた人で前世を語る人がいる。
それは現世のその人自身ではなく現世の人間の霊体に合わさった霊が、、、自分の肉体が滅びた時の事を、その生きている人の口を借りて語っているのだ。

それを知らない人は、、あたかも自分がその語っている霊の生まれ代わりであり、現世に生きている人自身が過去に死したその人自身だと思っている。

でも、それは間違い。

もしそうなら神様は無慈悲であり、愛の無い創造主になってしまう、、、。

どうしてか、、
もし、幾度も人自身が輪廻転生してしまうなら

前世の人の家族への愛はどこに行くのだろう?
さらに現世の人の愛は死後どこにいくのだろう?

そうであるなら現世でいくら家族の絆を深めても、、
死んで又違う者と家族になるのなら、、現世で心から家族を愛したことが、むなしいことになってしまう、。

家族の絆が、家族愛が、現世だけのものに成り下がってしまう、。

人が、、自分の親や子を想う想いは相手が死してしまったからと言って消えるようなものだろうか?
いや、、決してそうではない、。

心から愛した家族であれば、、永遠に、、肉体が死した後でも共に居たいと望むのは、、当たり前の事なのである。


人の言う輪廻転生論は、、その永遠にあるべき愛の絆を、次の生で、良い人に巡り会う事を期待しようとか、、
次の生では、この人を選んだりしない、、今生だけは仕方ないから我慢するけれど、、というような感じで、、愛し合おうとする想いを阻害してしまう危険がある、。

人があたかも生まれ変わったように(転生しているように)見える事が起きているのは、現世の人の霊体と死んで霊となった者の霊と合わさり重なる事によって、現世の人が創造の神様に繋がってイエス様に救われ原罪が赦されたなら、死んで霊となった者である自分も創造の神様とイエス様に繋がって救われた事になると言う理由からで。

そのセカンドチャンス的な救いを得ることを目的として、、
死者の霊魂は、、神様のもとより許可を頂いて霊界から、この現世に来臨してきいる。

洗礼は自分の犯している罪を認めて悔い改めますという意思表示。肉体を水に浸し赤ちゃんのように羊水の中に戻って霊的に新生する事で、生きている間に犯している罪が悔い改めた事により赦される。

生きている人が洗礼より霊的に赤ちゃんのように羊水の中に戻って霊的に新生しているのなら、死んだ人(霊)も赤ちゃんのように人の羊水の中に戻ってきて新生し復活してもおかしくはない。

生きていた時、イエス様と出会えないまま、救われないまま、また人としてやりたい事を残したまま死んでいった、全ての霊がイエス様と出会い全員が神様の愛に包まれて救われるようにと神様は望まれている。

もし死んだ霊が人に合わさる形で、この現世に新生復活せずイエス様と出会えないままなら、、生きていた時イエス様を頑なに嫌い、または退けた人、イエス様を知らないまま死んでいった人、とくに幼いまま死んでいった子供は、、死んでしまった以上イエス様と永遠に出会えず受け入れれずのままとなり、イエス様を知らないまま、受け入れないまま死んだ霊には誰にも救いのチャンスがなくなってしまう。

つまり、、生きている人しか、、救われないと言っている事になる。
簡単に言うと、救われない人が居ても当然という考えになる、。
生きている人だけ救われたなら、、死んでしまった人はどうでもよいと、、、言う考えになる、。

愛なる神様は、、そんな無慈悲ことを願ったりはしない、。
全ての人、、全ての霊は、、父なる神様にとって、愛しい我が子、、、。
どの子もどの子も、愛し人として送り出した子、、、戻り来る事を信じて、、いえ、、信じ切って、永い時を、、ひたすら御許に戻る時を待ち続けておられる、。

仏教の輪廻転生論では、人が死した後、現世に来臨して来ることは理解していた、しかし、産まれてくる人が、その人自身なのか、別存在なのかの判定が正しく理解出来なかったため、また、どうして来臨する必要があるかがわからなかった。

仏教では人の悪の心、想いなどを理解していても、それらの悪がどうして起こるか、、の原因である原罪、、罪の根源が人の内にあることが理解できなかった、。
そのため、輪廻しているように見える事柄が死者の霊魂のセカンドチャンスのためだとは理解が出来なかった、。それで、産まれてくる人自身が未熟さを克服するために修業を繰り返す必要があり輪廻転生をしていると考えた。

ただ、最終的に行きつく先である仏教で言うところの悟り、解脱というものは、、この六道輪廻のくびきから解き放たれる事だとは理解していた、。

神様の許から遣わされて、人に合わさる霊は、生きている人の意思を尊重し、阻害する事はしない、。

詩編 
115:17 主を賛美するのは死者ではない/沈黙の国へ去った人々ではない。

イザヤ
26:14 死者が再び(生きた人となって)生きることはなく/死霊が再び生きた人となって)立ち上がることはありません。それゆえ、あなたは逆らう者を罰し、(肉体を)滅ぼし/彼らの(人である)記憶をすべて無に帰されました。

生きている人の意思を阻害し支配しようとする霊は、、死んで、一旦、神様の御許へは戻っていない霊、もしくはサタンの手先となっている悪霊、。

彼らは、自分が死んだという事を認めれない、。もしくは意図して人への悪意を以ってこの世にとどまっている悪意ある霊。

人を呪って死んだ自殺者、誰かれ構わず祟る怨霊、生きている間にサタンに心を売り渡した墜ちた人の霊などの類がこれに当たる。


聖書では、霊がどう言う存在であると書かれているか、、

列王記 上 
22:21 ある霊が進み出て主の御前に立ち、『わたしが彼を唆します』と申し出ました。主が、『どのようにそうするのか』とただされると、
22:22その霊は、『わたしは行って、彼のすべての預言者たちの口を通して偽りを言う霊となります』と答えました。主は、『あなたは彼を唆して、必ず目的を達することができるにちがいない。行って、そのとおりにせよ』と言われました。

コヘレト
12:7 塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。

神様の元に在る霊は、、
主なる神様の御前に立ち、言葉を交わし、神様の御心を行う、清い心を持つ霊。

 
今、あなたは五体満足に生まれている、、でも、そうでなかった人はどうか?
もし出来る事なら、、もう一度、人並みに生まれて普通の人生でも良いから生き直してみたいと誰よりも切実に思うものではないのか?

神様はちゃんと人が人らしく生まれ生きる別の道を、、霊となってからであっても、生きている人と合わさることで生きる体験が出来る道を用意していらした。

見かけ上の輪廻転生、見かけ上の人の復活。

生きている人は、、娶り嫁ぐ、、死んでいる霊は、、自分自身では嫁いだり娶ったりが出来ない、。彼らは、生きている人を介して、娶り嫁ぐ体験をする。

もし、生きている人同士で、生きていた時に結婚したことが無い者同士の霊が合わさっている時、彼らは、生きている人を介して巡り合い、彼らが望むなら生きている者同士と共に彼らも夫婦となって一体となり、自分の永遠の伴侶を見つける。

これによって人は様々な体験を死んでからであっても積む事が出来、深く神様の愛を知り、イエス様の救いを知り、自分の望む人生体験を生きている人を通して得て満足し、人としての幸せを望む限り体験できる。


第二 マカバイ記
12:44 もし彼が、戦死者の復活することを期待していなかったなら、死者のために祈るということは、余計なことであり、愚かしい行為であったろう。
12:45 だが彼は、敬虔な心を抱いて眠りについた人々のために備えられているすばらしい恵みに目を留めていた。その思いはまことに宗教的、かつ敬虔なものであった。そういうわけで、彼は死者が罪から解かれるよう彼らのために贖いのいけにえを献げたのである。

霊の新生と言う転生、、人に合わさることでの復活によるセカンドチャンスは、敬虔な心を抱いて眠りについた人々のために備えられているすばらしい恵みであり、何度でも、、与えられる。

人は、、現世で人と人との関係の中で、、真実の愛を育み、愛を通して神様のお姿を霊で感じ霊で視る。

神様は愛そのものであるから、、、真実の愛が有る所に、、神様も在る。  
      

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死んだ霊の救いである霊の新生について、

加筆
創世記以外で他に
神様の御霊を受けていると書かれている御言葉は、、、、、。

ヨハネの手紙一  4章 13節
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。


こう言う記事を書くと、、次のような質問をよく受けます。


人が霊で何回も合わさり救われるのなら、
人は霊と魂だけの存在として最初から創造されたら良かったのでは?
それなのにどうして、わざわざ、霊にくらべて格段に、
苦しみや制限の多い、肉体を与えられたのですか?と、。
答えとなるような記事を以前書いていますので、、良かったらお読みください、。


人が肉体をもって生まれてくるのには

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マグダラのマリア

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