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聖書論 預言は警告
第3章 カインとアベル物語
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カインとアベル 創世記
4:1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
4:4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
4:5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
4:6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
4:8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
4:9 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
4:10 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。
4:11 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。
4:12 土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
4:13 カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。
4:14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
4:15 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。


カインの事を神様は、とても信じて、愛していました、。
長子(人としての)アダムの最初の子。
アダムとエバの犯した罪を無かったことにするために、、、。

父さまは罪を償う実行者として、、カインを選ばれていました、。
アベルが選ばれたように見えますが、、信仰を示し信仰を捧げる実行者はカインでした。

父さまは、カインなら試練に耐えてくれると信頼をしていました、。
カインは初めて作物を作って育てた人です。
羊に草を食べさせて放牧して居たアベルより、作物を育てる事はとても苦労が伴なった事でしょう、。水のやり方、肥料探し、。雑草取り、、害虫を取ること、原種は大概、弱くて、育てにくいもの。
現在でさえ、品種改良を重ねて、農家の方は、苦労されています、。

アベルよりもある意味、大変な困難を乗り越えて食べられる作物を作っていたのがカインでした、。だから、、忍耐強くないと出来ないことを頑張ったカインなら、、忍耐してくれる、、と信じ切っておられたのです、。

アベルを選んだように見えても、、自分が見捨てられたように見えても耐えてくれる、、と、。

アダムとエバは、、神様を見捨てたのです、。
彼らは、、見た目に騙されて、、偽りの愛を持つサタンを愛した、。

見た目は美しい天使の姿、、中身は蛇のように狡猾な元智慧の天使であったサタンを信じ愛すべきものとして選んでしまった、、、、。

だから、、その罪の償いの為に、カインは、一旦見捨てられても、それでも父さまを信じ抜いて父さまへの信仰を現わさなければならなかった、。カインは、、一旦何を捧げても顧みられなかったのです。
どんなに傷の無い良い物を捧げていても、、、。

カインは兄弟愛と言う真実の愛によってサタンがそそのかす怒りや憎しみに打ち勝って、アダムとエバのように偽りの愛を選ぶのではなく、真実の愛、兄弟愛で、弟アベルを赦し受け入れ、父さまの選ばれたアベルを亡き者にしようとするサタンを真実の愛を持って退け、神の子としてのカイン自身の愛でサタンを負かして欲しかったのです、。

父さまは忍耐強いカインなら、、きっと成し遂げてくれると信じていました、。

カインが怒っていた時、。父さまは、カインに言葉をかけています。
「どうして(私に)怒るのか。どうして(私の顔を見ずに)顔を伏せるのか。
4:7 もしお前が正しい(想いを持っている)のなら、顔を上げられるはずではないか。正しくない(事を考えている)なら、罪(サタン)は戸口で待ち伏せており、お前を求める。(だから)お前はそれ(サタン)を(正しい想いで)支配せねばならない。」

最後の最後まで父さまは、、カインに、そのままだと罪を犯すよ、サタンの手に落ちるよ、、と教えているのですね、。
自分のしようとしていることが間違いだと気づいて欲しいと、、。
でも、、カインは我慢できなかった、。
父さまに喜んで欲しくて、一生懸命作って捧げた作物を顧みて貰えなかったことが悲しくて、。

深い悲しみで、、正しいことが何か見えなくなってしまっていたのです、。失敗してしまったカイン、、、。彼は、父さまに、自分は人殺しの大罪人だから誰かに出合ったら殺されてしまいます。と訴えました、。
父さまは、カインが罪を犯し失敗してしまっても、、カインを深く憐れんで、彼の殺される、、と言う畏れを取り除くために殺されることはない、、と言葉と徴とをお与えになっています。

カインは、神様から、はじめから粗野で、適当な捧げものをしたからうとまれていた、、と考える人が居ます、。
最初からうとまれていたなら、罪を犯さないようにとどめようとしたり、殺されても、当然の報いなのだから放置する筈です、。

父さまは、、カインに兄弟愛でサタンに勝利して貰いたい、、という大きな理由があったからカインを顧みる事をせずアベルを選んだのです。

もし、、カインが怒りに任せて失敗しなかったら、、カインとアベルが心を併せて捧げものを捧げれたなら、カインもアベルと同じように聖別された者とされていた、、、。

カインとアベルは象徴的に善悪の状態、2つに分けられた存在なのです。悪側に分けられたのが兄カインであり、善側に分けられたのが弟アベルです。最初の罪人となったアダムは長子でしたから、長子であるカインが親の罪を贖う側となりました。


アダムとエバの犯した罪がぬぐわれたなら、アベルはキリストの雛形としての仲保者となる事が出来、カインとアベルは兄弟として同じ血を持つ者なので一体となれました。

カインとアベルの世代では肉による原罪はまだあるので、完全な贖罪の為にキリストの使命を持つ子がカインの家系から生まれた筈。

彼らの子の世代はサタンを退け勝利した為、罪が清くされ罪が無いと見なされた子が産まれて、、アベルの子とカインの子、清いと見なされた子同士が結婚し、罪が無いと見なされた者同士の婚姻により生まれてくる無原罪のキリストの使命を持つお方、、が現れれた筈でした。

候補者、、としてはカインの子孫のエノクがそうなる筈の予定の人、、であったのではと想っています。

セトの家系から、神様と共に歩いた最初の義人の名としてエノクがいますから。

今のキリスト教はイエス様が人類の当初から世に来臨して木にかかることが必然的な大前提の教理ですが、、

もしカインが失敗していなくて、カインとアベルの子らの子、孫の代にイエス様がメシアとしておいでになっていらしたら、。既にアダムとエバの罪は拭われているし、アベルとカインの子孫らは罪が無い者と神様から直に見なされているので、その場合にはメシアであるイエス様御自身が選ばれた娘に霊肉共に罪の赦しを与え、彼女と結婚して無原罪の子を産んで貰うことで、人の身体から罪の因子を取り除く事が出来ていました。その場合に来られたイエス様は、、十字架に掛かる必要はなく、御自身の妻として選んだ娘に罪の赦しを与えるだけで良かったです。

この時点では、人の救いの為に、十字架は必然的な物ではありませんでした。
人が背いて不信仰を重ねた結果が、、、
イエス様御自身が人の身代りに人として信仰を現わさないといけなくなってしまった、。
人が従順であったなら、、、イエス様は身代りではなく、祭司として人が捧げた物をとりなして清め、父さまに捧げるだけで良かったのです、。
最初の仲保者アベルのように、。

残念ながらカインは不信して失敗し神様の救いの摂理は、弟のセトへと移りました。
カインはサタンの間違った愛、ねたみの心に負け、アベルを亡き者にしてしまいます。
これでアダムとエバ、そしてカインとアベルの4人を神様は失いました。この4が聖別の数40のもとです。4の数を聖別することは最初の家族4人を清めるという意味が込められていました、。
サタンの物になった人を、、4の数を成就し捧げ清めて神様の物に取り戻すと言う事が聖別の元々の意味です。

こののち、エサウとヤコブの時、、。
この時のカインが弟を赦し愛する事ができなかった事をエサウにしてもらうため、父さまはエサウとヤコブを生まれさせ、リベカの願いの通り、ヤコブを祝福することを認め、エサウを退けたのです。

エサウは、弟ヤコブをカインと同じように憎み殺そうとしましたが、。何年も経ってから、、弟ヤコブを赦しています。

ヤコブは21年も、おじであるラバンのところで苦労して、成功して帰ってきて兄エサウと和解出来ました。

エソウもね、、苦労したでしょう、。
自分の母である筈のリベカから、疎まれても、、愛されなくても、、
財産を築くまでなっていましたから。

エサウはヤコブと異母兄弟であると思っています。
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リベカとヤコブ

エサウとヤコブ、、、二人ともずっと苦労したのです。
エサウも苦労して、、人としても成長したのでしょう。
自分を二度も騙したから、憎み殺そうとまで思いつめた弟ヤコブを赦したのですから、、。

創世記   33:4 
エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、
共に泣いた。

エサウは、カインの出来なかった兄弟愛を持って弟ヤコブを赦し、父さまの御心に背きませんでした。
それで、彼も、選ばれたヤコブと同じように大きな祝福を得ています。

もし、カインが失敗しなかったらカインは長子として弟を赦して祝福されたエサウのようにアベル以上の祝福を得れていたでしょう。


カインとアベルの物語は、、兄弟愛で偽りの愛の持ち主サタンに勝利し、人が罪と死の産みの親サタンに勝つことで、神様の子としての本当の姿を取り戻すために起きたことでした、。単にカインの失敗を書いただけの物ではないのです。

アダムの堕落の時、失われた神様との親子愛、
そしてアダムとエバの夫婦愛、。
これらは、、サタンの偽りの愛に負けて神様の物ではなくなってしまったのです、。

人の持つ真実の愛の一つ、、、失われていなかった兄弟愛でサタンを退け、、勝利して貰いたかったのです、。父さまは、。

失ってしまった兄弟愛を取り戻すことは、、エサウとヤコブの兄弟によって成し遂げられ兄弟愛により勝利できました。
こののち、神様の救いの摂理は、、神様の物に取り戻された兄弟愛によりなされて行くことになります。

実兄弟、モーセとアロン、
異父兄弟、ダビデとヨナタン、
異母兄弟、イエス様とバプテスマのヨハネ、。


マグダラのマリア


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聖書論 預言は警告
第2章 十字架は予定論ではない

イエス様の十字架が、予定論か否か?
この話の前に、ひとつお話しておきたい事があります。
知恵の木の実を食べてはいけないと言われた時の事、
神様は言いつけに従わなかった場合の事もアダムとエバに仰っています。
従わなかったら、食べたら死んでしまうからと。

これは警告です。
そのような事をしたらこうなるから、してはいけないよ、と言う意味ですから。

神様は全知全能のお方ですから、予知予測した事で御心に叶わない事に関しては、人に警告を与え、そうさせないようにしようとなさいました。。

実際サタンは、人より先に心は堕落して人を騙して陥れてやろうと人と神様への悪意満々でエバを待ち構えていたのですから、、。
勿論、それを御存じではない神様ではないですよね。

だからこそ、知恵の天使を意味していた知恵の木の実には触れてもいけない、つまりは知恵の天使の側にいくな。とアダムとエバに仰ったのですから。

知恵の天使の堕落と彼の人への悪意を神様が御存じであった以上、
もし、神様が人を信じ切っていなかった状態で、人が堕落したサタンにそそのかされてしまって、人がそうするかも、堕落するかも、と前もって予測した上で放置していらしたのだとしたら、。

それは、神様御自身が人の堕落を予測して居ながら、その上で、更にサタンの人への悪意を黙認なさった事となり、人が堕落する事は予定されていたことになります。

堕落が予定であったなら、人に救いを備える必要性も失われます。

つまり、十字架も不要な事となります。
神様が人が最初から堕落しても良いとお考えだったと言うなら、堕落から救い出す必要はないのですから。


人の創造、それは物の創造の場合とは違います。
物体に対しては、信頼と言う想いは湧かないですが、、
愛している存在には、信頼の想いが湧きます。

神様は人が、警告、つまり注意だけ与えていたら、
御自分が与えた戒めを確実に守ってくれると信頼し堅く信じていたのです。


もし、、人が堕落することが起こり得る予定として、あらかじめ神様が予測なさっていたら、創世記で記録された、母親が子供を失って取りみだしたような深い悲しみを見せる事はしなかったでしょう。

信じ切っているのなら、戒めを守らなかったならなどとは考えたりしないです。
それは信じていない事になりますから。

「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」食べたのか?とアダムに尋ねています。食べただろう、、と断言ではないのですね。神様が想ってもみなかった事だったから、食べたのか?と疑問形になったのです。

新共同訳では「何ということをしたのか。」
口語訳では「あなたは、なんということをしたのです」
と強く驚き嘆いた表現です。


人の堕落と同時点から神様は救いの摂理を始められ、
どんなことをしてでも人を救うと言う愛の御心をもって、

人の堕落以降からは、あらゆる事を想定し、あらゆる予定を考えておいでです。
人が従った場合と、、背いた場合の両方を想定した上で、全ての預言は与えられています。

予定論とは、あらかじめ仮定し想定して考える事です。
人の堕落が神様の予定(方針)変更の分岐点であったというだけで、それまでは、人の堕落も、人の救いも、、両方とも存在しなかった訳です。

神様からしたら、人の堕落自体が絶対にありえないこと、考えもしていない事です。


ですから、神様の救いの摂理である十字架を必然であったと仮定すると、人が堕落する事は予定されていた事だと言っているのと同じ事になるのです。

堕落がなければ救いも必要無いですから、逆説的にいうと、十字架の救いを必然なら人の堕落も必然となるのです。

堕落が必然という事は神様が人の堕落を良しとされたという事を意味する事であり、それは人が堕落した故に負った原罪を救う為にイエス様をお遣わしになられた神様の御意志と相反する考えとなります。


神様の創造の原初では、
神様の愛を注ぐ最高の存在としての人を創造するという創造の目的だけはあったけれど、罪からの救済の摂理は当初からのものではなかった。

人が創造された時点では人は罪なき者であり無垢であったのだから、。
もし救済の摂理が予定されたものであったなら、
人は創造された時点で罪を負っている必要を生じる。

さらに、、堕落する事が神様の予定であったというなら、創造時点で負っていた罪を
救済する必要性も無いという意味となる為、人は罪を負ったまま救われる事が無いという意味合いとなる、。

聖書には、人が創造された時点で罪を負って居たとは書かれていない、。罪を犯し堕落したのは、、サタンの手に落ちた後。
ゆえに救済の摂理は神様の最初からの予定であったとは言えない。
人の堕落した瞬間から救済の摂理は始められた。.

予定論というのは、、例えて言うと、、
自分の子供が犯罪者になるだろうと神様に言われて、未来の悪行を予測し知りながら、手の掛かる赤子の時から子供を育てる事と同じです、、。

そんな親いないでしょう?私だって厭です。
親は、、自分の子を、良い子に育てよう、そして必ず良い子になると、信じて愛を注いで育てます。

もし、神様が人は堕落するような愚かな存在だと予測していらしたなら、同じように人を創造する事は取りやめていたでしょう。

人の堕落が分岐点となり、それ以降は、神様の摂理が創造の摂理から、救いの摂理へと神様の摂理が向かう方向性が変わったのです。

人が救うべき堕落した存在にならなければ、イエス様は、わざわざ人となって、産まれてくる必要は元からないのです。

十字架を予定論とすることは、人の救いの必要性が失われるのと同時に、
イエス様に私の救いの為にサッサと十字架に掛かって死んでください、と言うことと同じですから。2000年前のイスラエルの人々の不信仰を肯定する事になります。自分が十字架に付けよ、と聖書中で叫んだ一人となるのです。

イスラエルが神様に不信する事が前提なら、幾度も手を差し伸べる必要もなく、わざわざ悔い改めさせて赦すと言う手間のかかる作業も必要ないです。

イザヤ
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

背かなかったらイエス様が差し貫かれなかったという事です。

イエス様が十字架上で言われた、総てが終わったの言葉の意味は、、、
イエス様のなすべき事、人の救いが完了したという事になります。


人が不信仰に留まり、不従順であるなら裁かれるべきものです。
イエス様の十字架は、人がイエス様に不従順であったから起こった事です。

現にイスラエルは、イエス様に対する不信の罰を受けました。

国を守ろうとした祭司長らの思惑とは逆に、イスラエルは滅ぼされました。
イエス様を十字架に掛けたイスラエルの背きが正しかったなら、イスラエルの国が滅ぶ事は無かった筈です。

国が滅びたという事は

民数記
32:15 もし、あなたたちが主に背くならば、主はまたもや、この民を荒れ野に置き去りになさり、あなたたちがこの民全体を滅ぼすことになるであろう。

ネヘミヤ
1:8 どうか、あなたの僕モーセにこう戒められたことを思い起こしてください。『もしも背くならば、お前たちを諸国の民の中に散らす。

の御言葉の通りに、イスラエルの国。。ユダヤが滅びた史実によりイスラエルが神様の御心に背いていたという証しとなります。

列王記 上
2:4 また主は、わたしについて告げてくださったこと、『あなたの子孫が自分の歩む道に留意し、まことをもって、心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩むなら、イスラエルの王座につく者が断たれることはない』という約束を守ってくださるであろう。

彼らは自分達が王として戴く筈の霊的王であるイエス様を拒んだのですから、イエス様が受け継ぐ筈であったこの世的ダビデの王国、ユダヤの国が滅ぼされたのは、神様がダビデに語った言葉の故です。

ダビデの子孫、ユダ族、、当時のイスラエルの民が自分の歩む道に留意し、まことをもって、心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩まないなら、イスラエルの王座につく者が断たれ国は滅びると言う事なのですから。


マグダラのマリア

追記

創世記
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」


人の持つ生殖機能によって、霊的罪の因子、霊的原罪がアダムとエバの子孫にまで、罪故に死んでしまった聖霊の命と共に受け継がれていきました。
簡単に言えば、霊の命が死んでいる状態を霊的原罪を持っているということです。肉体に原罪の徴がある限り、この肉体に入る新しい命でも、生まれながら原罪を負い、原罪故に本人が何の罪を犯さなくても生まれながらの罪人なのです。

知恵の木の美を取って食べるなは、知恵の天使であったサタンとの関係を持つなという事で、サタンと繋がり神様以上の存在として従うという関係を持ったら、神様に背く罪、原罪となる、、と原罪は、サタンと繋がる事と限定されていた事になります。

創世記  3:15の他の原罪が何であったかを示す聖句。

イザヤ書 57章 3節
お前たち、女まじない師の子ら
(背信した者の子らという意味)よ/姦淫する男と淫行の女との子孫よ/ここに近づくがよい。

イザヤ書 / 57章 4節

お前たちは(今度は)誰を
快楽の相手とするのか。誰に向かって大口を開き、舌を出すのか。お前たちは背きの罪が産んだ子ら/偽りの子孫ではないか

シラ書(旧約続編)
23:22 夫を顧みず、よその男によって/世継ぎをもうける女も、同様である。
23:23 第一に、こういう女はいと高き方の律法に背き、/第二に、夫を裏切り、/第三に、みだらにも姦淫を行い、/よその男によって子をもうけたからである。

シラ書(旧約続編)に書かれている言葉はエバとルシフェル(サタン)と行った霊的姦淫の状態に酷似している。
みだらな女、姦淫の女とは、エバのような事をした者のことであり、それは、聖書中では、偶像礼拝を意味している事から、サタンを拝する偶像礼拝、サタンとの霊的姦淫が、人の原罪であると言える。

人が堕落しなければ、このような霊的姦淫である原罪が自然に生じたのでしょうか?
人がサタンを礼拝する事を選択しなかったら罪なき者のままであれた筈です。罪なき者に救いは必要ない事です。

蛇足ですが
マタイ
4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
の足が石に打ち当たることのないように、の聖句は創世記3:15の、お前は彼のかかとを砕く。の聖句と関連があります。

神殿から飛び降りるなら、これは神殿に仕える大祭司である事を捨てる事、、そうしたなら、、イエス様の足のかかとを砕く事はしない、つまり十字架にかけたりしない、自分(サタン)が天使であった頃の、、元のように仕えて悪いようにはしないから、言うことを聞いて、神殿から飛び下りろとサタンは誘惑していたのです。

イエス様の戦いは、、天地創造まで遡った霊的戦いでした。

他の誘惑、石をパンに変えよは、石板はモーセの律法を意味し、神様の与えた律法は失敗だから造り変えろ、つまり神様を失敗者と認めて、自分自身(イエス様自身)が創造神の立場となって父なる神様の御言葉を預かるのをやめろと、、即ち大預言者としての地位を捨てよ、という事、。

自分(サタン)を拝せ、というのは、イエス様が神の子としての地位を降り、自分(サタン)を人の創造主神として認めるなら、今のように貧しく苦しい想いをしないように、予言通りに、この世の王にしてあげる。と、霊的に王の王である事を捨てさせ、この世的な王の王である事を求めさせようと誘惑したのです、。

つまり、サタンはメシアの三つの職、王の王、大預言者、大祭司、、のどれか一つでも良いから失わせ、メシアとしての資格を無くさせようとしていました。
イエス様は聖書を熟知されていたのでサタンの罠に引っ掛かりませんでした、。

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第1章 イエス様についての預言
1.メシア預言 詩篇22編

詩篇22編
22:1 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
22:4 だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。
22:5 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。
22:6 助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」
22:10 わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
22:11 母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
22:12 わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
22:13 雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。
22:14 餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
22:15 わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。
22:16 口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
22:17 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
22:18 骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
22:19 わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。
22:20 主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。
22:21 わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。
22:22 獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。
22:23 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。
22:24 主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
22:25 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。
22:26 それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
22:27 貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
22:28 地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。
22:29 王権は主にあり、主は国々を治められます。
22:30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
22:31‐32 子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。


これはメシア預言とされています、
でも、絶対にそうならなければならないと言う預言では無いです、。

これは、、、ダビデの詩とされています。
ダビデは幻のようにして、情景を霊的に観たのでしょう。

そして、自分の今の状況と重ね合わせて、詩と言う形で、、
将来生まれてくる未来の自分の子孫であり、
メシアであるイエス様に宛てて手紙として遺したもの。

この詩がメシア預言だったとわかるのは、、、
イエス様の十字架の後でしかない、、、。

イエス様の十字架の時が過ぎるまでは、、、
ダビデの子孫であるイエス様御自身と、、
幻を視たダビデと、、それをダビデに視せられた神様しか知らない、、

いえ、、
それが十字架を指していることだとは、、誰にも分からない、。

十字架の後では、事が起こった後なので、
ああ、、詩篇22編はイエス様の事だったと、人が読んでわかるようになった。

だから、、人は、、
イエス様の十字架が予定だったと考えるようになった、。
その後、生まれてきた神学は、その予定論を下地にして構築されていった、。

十字架の時が過ぎるまでは、、
イエス様だけしか、それが十字架を指していることだと

分かっていた人は誰もいなかった。


もし分かっていたら、、
律法学者らはイエス様を十字架に掛けたりはしない、。

そういう亡くなり方をする者はメシアであるという逆証となるから。
律法学者らは、イエス様を十字架に付けたくても出来なくなっていた筈。

イエス様が十字架で、そういう亡くなり方をさせられるような状況なら、イエス様こそ絶対的にメシアだとイエス様を十字架で滅ぼしたら、神様の御子をあやめた罰を受ける。イエス様を十字架にかけてはいけないと弟子たちが民衆に対して言うことに気付かない程、律法学者らは愚かでは無い。


神様がエリヤの再臨としてバプテスマのヨハネを送ってくれたことで、
神様の道は整えられ、、神の国を造ることができるとイエス様は思っていらした。

良い預言の例。
マラキ書4:5〜6
イザヤ書7:14 9:1
ゼカリヤ書9:9
サムエル記下7:12〜7:16
詩篇89:4 89:5 


悪い預言の例。
詩篇22編の他に申命記31:17

エリヤ、、バプテスマのヨハネが
イエス様を来たるべきお方だと明確に証し、
自分はエリヤであると証しし言っていたら、、、
父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる事が出来ていたでしょうね、。

でも、、バプテスマのヨハネは、、
私はエリヤではなく、荒れ野で呼ばわる声である、、
と言ってイエス様が、、
彼をエリヤだと証ししているのにイエス様の言葉を否定してしまった、。

バプテスマのヨハネがエリヤではないと言った事、。
それはイエス様の証し人となる筈の者
エリヤが居なくなった事を意味する。


イスラエルが信仰によってイエス様に従うか、
それとも不信仰で背くかどうかで、、
良い預言、悪い預言どちらの預言が成就するかが決まった、。
成就するべきものが預言。

でも、全てが、、最初から決められた予定通りと言う事はない。

人の救いの為の神様の救いの摂理には、、
要所要所で信仰的を明らかにすることを人は求められている、。
ノアも、、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、、ヨセフも、、ダビデも、。試練や誘惑、迫害を受けてきた。

選ばれし人が不信仰を犯した時は、、救いの摂理はその人から離れ
更に償うべき規模が大きくなって、、
次に選ばれた者が課されたものを負った、。

バプテスマのヨハネが獄死した時、、
ヨハネの代わりに使命を負える者は誰もいなかった、。
だから、、イエス様は、ヨハネの分の使命も背負われた。

ヨハネの語った言葉を再度語ることで、、ヨハネの身代りであったから、
御自身から、自分はキリストであると仰ることをしなかった、。
本来なら、、それはバプテスマのヨハネが証しするべき事であったから、。
イエス様は、、、人の救いの成就の為に、御自分の使命だけではなく、
バプテスマのヨハネの分の使命をも負われていた、。

バプテスマのヨハネがするべきであったこと、
イスラエル民族を意味する12使徒を集めることも、、、
彼らに神様のことを教えて諭し教育する事も、、
イエス様が自分自身でなさった。

本来なら、、バプテスマのヨハネがそれをして、、
証し人であるバプテスマのヨハネを含めて、
十分に準備された人が他に12人、、イエス様に従うべきであったのに、。

ヨハネ1:35〜1:37に書かれているように、
最初 二人のヨハネの弟子がイエスに従った。
シモン・ペトロの兄弟アンデレとシモン・ペトロ。
次に漁師のゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ。

ダビデが幻で、、イエス様の十字架の痛ましい姿を見た時、、
ダビデは、、自分の子孫が最も辛い刑罰で見せしめとされて、
飢えと渇きで苦しみ
十字架に掛かって殺されるのを視たのだから、
悲しかったでしょうね。

自分の子孫が、、
十字架にかけられ殺されるかもしれないと知ったから、、、
悲しい想いの歌を歌った、、。確定ではないけれど、、
起こる可能性がある事を悲しんで、ダビデは悲しい賛歌を歌った、。

もし予定として完全に確定していたら、、、
もっと絶望と悲哀の籠った苦しみに満ちた歌を歌ったでしょう、。

千年後の自分の子孫に向けて、、、
気をつけなさい。最悪の場合こうなるから、、
と悲しみのメッセージとして遺し、
イエス様はそれを自分へのものであると御存じでした、。

結果として、人々の不信仰故に、
その最悪の状況、十字架をイエス様は自ら進まれる事をなさった、、。

サタンに敗北かという状況で、逆に勝利をする方法を
イエスさまはダビデの歌で知っていたから、、。
そして、、そして、、、イエス様は強い意志で、、それを実行なされた。

十字架以外にも人を救う事の出来る
いくつもの策があったけれど、、、
その、すべて、、ひとつたりとも
人の不信仰で実現できなかったから、、。

最後の最後に残された最終手段が十字架で、、
どんなに苦しくても神様を信じ抜いて亡くなること、、、、。

預言が、、成就した、、。全ての預言は成就しないといけない、、
と人はいう、、でもそれは事が起こった後のことだから言えるのです。

神様は、予知においては完全、。
だから、先んじて人に預言者により警告を与えられる。
警告に従うか、警告を無視して、その警告通りとなるか、。
そこの部分で人に選択権を与えて下さっておいでです、。

それは、この世の主人となるべく創造された人にも
救いの摂理の成就に間接的にしろ関わらせることで、
この世の主人としての位置を、、
少し筒、人へ取り戻させようとして下さっているのです。

預言は、、言葉が与えられた時に、
神様がそれ(預言の言葉)を与えた深い愛の御心を、踏みにじらないで

そう語られた深い意味を知って、不信せずに従う道を選らばなければ
与えられた預言は何の価値も無かったものとして貶められていく、。

知って下さい、。
主イエスキリストは、人をどんなことをしても救いたいが為に、
悲愴な御覚悟で、、強いサタンへの勝利と使命の完遂の為に、。
自ら十字架を選ばれたのだと言う事を、、

それは、、全て、堕落した人を救う事で、、、
神様の子として創造した 人 を失った父さまの御心を癒し、
また、、人の子を罪あり、と断罪し讒訴するサタンに、、
裁かない完全愛をイエス様ご自身が成し遂げることで教え、
敗北を認めさせ、裁きではなく愛で勝利する為に、、。

強い強い御意志を持って、
愛による勝利を成し遂げて下さったのです、。

十字架は、、サタンへの勝利だと、クリスチャンは知っています。
でもね、、ただの善悪の霊力による勝利とかではないのです、、。
完全愛による勝利であった事を知って下さい、。

アダムとエバは、間違った愛、偽りの愛で、
サタンを選び、彼を愛しました、。


だから、、それを無かった事にするには、、
逆のこと、、完全愛でサタンを打ち負かし退けることが必要でした、。

イエス様は、、誰をも裁かず愛し、受け入れられて、人ばかりでなく
サタンまでも裁かず受け入れ赦す完全愛で負かして退け、

愛によってサタンに完全勝利なさいました、。

剣で滅ぼす者は剣で滅びます、。

愛は全てに勝って尊い。
天の父さまの御本質(性質)も愛ですから、
愛なる神様が永遠の御存在で有るように愛は滅びることがありません。

従って愛で勝利されたイエス様は、、永遠の勝利者、、。
この世の君が未だサタンであろうともイエス様が、
サタンにより負けて滅ぼされる事は永遠に有りません。


マグダラのマリア



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