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書庫聖書論 キリスト・メシアについて

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キリスト・メシアについて
第1章 キリスト、メシアの必要性

神様が創造された最初の世界は、
完全善の世界で完全愛の世界だった。

そこにアダムとエバが神様から離反したことにより
罪が入ってきた。
罪の遺伝は、、
厳密には人の遺伝子によるものではない。


サタンは本質は霊、、
最初の人の内にあった清らかな聖霊のような霊の命を穢し、最初の人の霊が穢れた事により、穢れた霊をまとうがゆえに、彼らの生み出した子孫の肉体は穢され、穢れた霊と肉を持つ者同士の婚姻関係により産まれた子孫は必然的に穢れた霊と肉を持つ事になる。


つまり、
最初の人の霊が穢されたことから、
その子孫の肉も罪で穢れてしまった。
肉の器が穢れていれば、神様の元から送りだされて、
そこへ入る人の霊も穢れた肉を纏った途端、罪穢れに冒されてしまう。


このようにして、
罪は人祖アダム一人から全人類へ広まった。

肉を介して霊が穢れ霊が穢されて、
その子孫も穢れた者となってしまう、。

厳密に言うと、、
原罪は霊的な原罪(霊的な原罪の徴)と
肉的な原罪(肉体にある原罪の徴)と二種類ある。


イエス様の救いは、
この人の穢れてしまった霊を、
イエス様からの聖霊、罪なき命と入れ変えること、。


接ぎ木で例えるなら、
原罪という罪で腐り弱った病気の木の根を切り取り棄てて、
上の幹と枝葉の部分だけを健康な木であるイエス様に接ぎ木する事。


接ぎ木された木は
健康なイエス様と言う木の根から栄養を取り入れて
元気に健康になることが出来る。
健康な木に戻った人は、良い実を実らせるようになる。


現時点では、、原罪、罪の説明はある程度されている。
でも神様からの愛の説明がほとんどされていない。

原罪だけではなく、
愛も親から子へ、子から孫へ伝えられている事を知らない人が多い。


もし、最初の人アダムが罪を犯さず、
神様に繋がったままでいれば
神様の無私で善の完全愛をいつまでも受け続けれただろう。


神様の御愛はアダムが堕落するまでは、
アダムは神様と繋がっており、神様と共にあった。

だから堕落するまでの間の分、
僅かな期間であっても神様の
無私で善の完全愛
アダムは受け取れていた事になる。


ところが堕落後はサタンからの偽りの愛を受け入れてしまったので、
偽りの愛(神の愛に似ては居ても不完全で自己中心的な愛)をも
アダムは持つ事になった。


アダムはこの二つの愛、、
神様からの愛と、偽りの愛とをもって
カインとアベル、この二人に二つの愛を注ぎ育てていた事になる。


従ってカインとアベル達も
アダムと同じように二つの相反する愛を持つ事になってしまう。


カインは、、弟アベルを愛して居ながら、
自分(カイン)を愛さず、
神様から遠ざけたと怒り恨んで苦悩している。
自分をより愛して欲しいと求めるものがサタンからの偽りの愛。


もしカインが弟アベルを全然愛して居なかったのなら、
アベルをあやめた後、罪の重さに嘆く事はない。

愛して居ればこそ、
見返りとして愛されたいと望むものが
サタンの偽りの愛なのだから。


続いて産まれてきたセトや
その子孫らも同様に、
二つの相反する愛を持つ事になって、
それは、、延々と続いていく。


どこかで偽りの愛に繋がる、人の偽りの父サタンにではなく、
真実な父である神様の愛を持つ存在に人は繋がらなかったら、、
罪あるままの人は、、
この二つの愛の矛盾を自力では克服できないままとなる。


人の持つ、この矛盾した二つの愛ゆえに産まれる罪の実に、
苦しみ悩む魂の救いを、、
いったい誰が出来るだろうか?


悔い改めてイエス様に赦されて救われる、、、
それはそれで正しいこと。

神様とサタンへの罪なき者であると証しする証人は
無原罪のイエス様。

犯した罪の弁護人もイエス様が立って下さる。

でも、、実は、、、
本当に心から悪かった、自分は間違いを犯していた
と心底悔やむ事なしには、、、自分では自分を赦せない。


人の本体である魂は元々が神様の一部分だから、
汚れなきものである神魂。

本体である魂が自分自身を偽りの行いをしている、、
と自分自身を赦せなければ永遠に苦しむ事になる。


赦されているのに、、苦しみから抜けられない。
死後、、魂が、、自分自身の行いを、言葉を、心を、
全て神様と自分自身の前に露わにする。

いわゆる最後の審判。
最後の審判は、、
死んでいく時の自己裁きを意味している。


自分の想った事、行った事、言った事、。
総てを神様の命である自分自身の魂により、
人であった時の生き方、考え方、総てが
自己の魂により善悪の計りに掛けられて行く。


良い行いの時は、、心安らぎ、
悪しき行いの時は相手の苦痛まで
自分自身が受け感じて
生きていた時以上に苦痛を感じる事になる。

つまり、自分勝手に人を思いやることなく、生きていると、死んでいく時、自分の持つその悪しき心に自分自身の魂が苦痛を感じて苦しむ事になる。

もし、、そこで、涙を流し嘆いて悔いるなら、、
赦しを受けれて、自分の愛の無さを修復するために、
この世に戻り、生きている人と合わさって
愛を体験して積むことを神様に願って、許可を頂き、
生きている人に合わさって産まれてくる。


自分の未熟な愛を育てる為に戻ってくる。
イエス様に出会っていなかったら、
イエス様と出会いたいと願って生まれてくる。


自己裁き、、、これは恐ろしいこと。

たとえば、この世で殺人の罪を犯し、
判決を受け刑務所で刑期を終え、
刑務所をでて一応、罪の償いをなした人が居たとする。

この人の心は罪を償ったとはいえ晴れやかだろうか?

死ぬまで苦しむ。いや死んでも苦しむ。

自分の犯した悪行を、、
心から悔いて生き直したいと願ったとき、
罪を赦し代わりに負ってくれる存在が誰か居ないと、、

人は自分を赦す事が出来ず苦しみ続ける。

罪が重ければ重い程にその苦痛は大きくなる。

そういう存在、、
救い主がいると言う事自体を否定している人がいたなら、、、
誰がその人を救えるのか?誰も居ない。


だから、キリスト、救い主イエス様を正当な理由も無く
貶めて否定するものは
永遠の火と硫黄の世界に比喩された、、
自分自身で作った永遠の地獄に落ちていく。


投げ込まれると言うより自分で行く。  
      
自分自身で人の世界で罰を受けても、、
自分が自分を赦せなければ、
永遠に自分の魂に裁かれたままとなる。


自己裁きはもっとも怖ろしい霊界の法則。
逃げれないですから、
人は自分では自分の罪を赦せない、、、

自己の魂は言う、、。悔い改めないお前は悪だと、、、、。

心頑なな人をも救うためには、
人となって視える姿となられた神様が、
直に視える形で現れ、
神様の事を証しし、赦しを与える必要があった、、。


完全愛ゆえにこの方は人ではなく神様だと言う事を
理解できず視えないままでは、
人は神様の完全愛を信じ切ることが出来ずに救われないまま、。


だから、神様は時が来た時に、
キリスト、、メシアを人として生まれさせ、
この世にお送りになった。

罪を犯す故に、自己裁きから抜けれない人類の為、
目に視える神、罪からの確実なる救い主、、
イエス様をお送り下さった、、、。  


人が、、心から悪を悔い自らを恥じて神様の元へ立ち帰った時、、
新しい霊と肉の命を与え赦しと平安を与え
生まれ変わった如くにして下さる為に、。


キリスト、メシアの必要性は、、
人が罪を犯す限り失われることがない。

人は、自分自身で罪を犯してしまった自分を赦すことは不可能。
自分自身のうちに在る清らかな魂は、、
悔い改めない限り、、責め続け打ち続け、裁き続けるのだから、、、。


赦す神威を持ったお方が、人にはいつか必要となる。

イエス様の赦しの権威は、クリスチャンだけの物ではない。
イエス様の赦しは万民の為にあるもの。

イエス様を神様の御子だと否定したり
救い主ではないと否定しないなら、

罪に気付いて苦しむ時、

悔い改めます、。お赦し下さい、、イエス様、、。
と真剣に心から求める人、、全てに、、、
平等に赦しと平安は与えられる。


マグダラのマリア

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