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メシアであるイエス様のひな型となった信仰者達
第6章 サムソン

サムソンの物語が書かれた意味  
聖書参照箇所 士師記13:1 から

サムソンは神様に捧げられ聖別され祝福されるべき人だった。
しかしサムソンは非業の死を遂げた、獅子の死骸に蜜を取る為に触れるという罪、その蜜を自分の父母に食べさせる罪を犯さなかったなら、、、
あと何かする時、、ダビデのように祈って答えを求めてから行っていたら、、良かった。

モーセにはアロンが居て、ダビデにはヨナタンが居て、イエス様にもバプテスマのヨハネが居たけれど、、バプテスマのヨハネは、貴方はエリヤか?と聞かれた時に、エリヤではないと答えてしまいました、。

救い主、メシアが現れる前にエリヤが現れると人々は信じていましたからバプテスマのヨハネが自分はエリヤでないと言った事は、イエス様はメシアではないと言っているのと同じでした、。

後から悔い改めて、自分の命を救おうとはしないで死する事を選び、神様へ自分の命を捧げてイスラエルの民を捧げる準備をしたけれども、一度はイエス様を救い主ではないと遠まわしに否定していた訳です。

サムソンには、共に付き添ってくれる人が居なかった、友であった人はサムソンの妻を奪い取りあげてしまい裏切ってしまっている、。
誰か彼の心の支えとなり助言するアロンのような、、サムソンと行動を共にする助け手が最後までいたら、獅子の死骸に触る事は罪だと注意したかもしれない、、。

サムソンが蜜を食べようと言っても気味が悪いから嫌だと言ったかもしれない、、。
何よりも誰かが常に傍に居るならサムソンは軽はずみな行動は避けてたでしょうから、違う展開になっていたかもしれない、。

サムソンはペリシテ人の女性と結婚したけれど、イスラエル解放の誓願を果たす前で、誓いを果たすまで清さを保つべきナジル人のままでいないといけない事と異邦の民ペリシテ人が相手であっても、

イスラエルの女性に対するように、婚約期間を守っていた為に結婚式をして妻とした女性に対してでも手を触れなかった事、それが、愛してくれないとペリシテ人の女性に誤解された原因。

何日も何カ月も独りで先に休まれてしまって、、それが続いたら、愛してるって嘘でしょ、となる訳です。

昔は、特に結婚したら、子供を作り産む事が当たり前でしたから余計にサムソンの妻となった女性は夫サムソンに対して悲しみや怒りを覚えた事でしょう。

何らかの愛情行動があれば、ここまで、愛してくれないと悲しむ事はなかった筈なのでサムソンは自分の妻に指一本自分からは触れなかったのでしょう。

サムソンが敵としていたペリシテ人の女性と結婚した事はイスラエルの指導者である自分とペリシテ人が婚姻することにより、神様の民イスラエルと悪魔側の象徴であったペリシテ人の和解させ、悪魔側を神の民に加え救いだす、それがサムソンの時、神様がなさろうとしていた民族ぐるみの救い。

その神様の計画をサムソンを滅ぼす事で阻止しようとした獅子は悪魔側の働き、その獅子をやっつけれたのは悪魔が敗れたということ。

エバが自分が禁断の木の実を食べ、夫アダムに食べさせたように、サムソンは獅子の死骸に蜜蜂の群れがわいて蜜があるのを見て、自分が死骸に触り穢れただけではなく死骸から蜜を取り、自分も蜜を食べ自分の父母にもその蜜を食べさせ穢れさせた事。

神さまから御覧になって大きな罪。

士師記14:9で自分の父母に死骸から集めた物だと言わなかった事から、サムソンは死骸に自分から触れる事は罪だと知っていた筈。
レビ記 5:2に
汚れた野獣、家畜、爬虫類の死骸など汚れたものに気づかずに触れるならば、その人は汚れ、略、、。
11:24 では 
以下の場合にはあなたたちは汚れる。死骸に触れる者はすべて夕方まで汚れる。
とあるからです。

死骸に触れた事だけが罪ではなく蜜を食べた事も罪だったのです。蜜は触ってはいけない死骸に触らせようとしたサタンの甘い罠。

気づかずに触れるなら気づいた時に罪を告白して悔い改めれます。ただ死骸に触っただけで夕方まで穢れるのです。知っていて罪を犯したなら悔い改めれないです、。

死骸から集めたものだとは言わなかった。のですから、。
知らずに食べたサムソンの父母も気付かずに穢れて罪を犯しました。
しかも、知らないので、悔い改めれない、罪は消えないままとなってしまいます。

サムソンは、死骸の肉を食べなければ夕方まで穢れるだけで済む。夕方を過ぎ、次の日になったなら、禊をして、服を洗えばそれで良いと思ったのかもしれません。

レビ記 7:20
しかし汚れた状態にある者が、主にささげられた和解の献げ物の肉を食べるならば、その人は自分が属する民から断たれる。
と規定があるので、サムソンは悔い改めず罪が消えないまま自分が神様に捧げたものを、いつものように食べたでしょうから、彼の死の運命は決まりました。

悪魔に負け神様の言葉に背けば大罪を犯す事になります。

「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。」この謎を婚礼の宴の間、七日目の夕方までに解け、出来なかったら亜麻布の着物三十着と替えの着物三十着を下さいとサムソンは言いました。

招かれた人は30人、1人、亜麻布の着物1枚、替えの晴れ着1枚。彼らは解らずサムソンの妻に夫サムソンから答えを聞きださせました。

彼らは約束の七日目に日が沈む前にサムソンに言いました。
「蜂蜜より甘いものは何か/獅子より強いものは何か。」
するとサムソンは言った。「わたしの雌牛(自分の妻の意)で耕さなかった(答えを聞きださない)なら/わたしのなぞは解けなかっただろう。」

士師 14:19 そのとき主の霊が激しく彼に降り、彼はアシュケロンに下って、そこで三十人を打ち殺し、彼らの衣をはぎ取って、着替えの衣として謎を解いた者たちに与えた。
とあるので、1人1枚、着物を与えた。

サムソンの物語はイエス様が来られた時、人がどう対処したら良いかを示していました。

サムソンは神様の御使いのお告げで宿って神様が彼の出生に関与していた事。
イエス様の時のように現わされた事。
サムソンもバプテスマのヨハネのように生まれながらにナジル人として聖別され葡萄から作られる物を食べなかった事。

イエス様がお生まれになられたローマの支配下にあったイスラエルの時のようにペリシテ人の支配下にあったイスラエルの中でのサムソンの誕生。

2000年前のイスラエルの人はイエス様がサムソンの誕生の時と似ていると気づくべきでした、。

主の霊がイエス様に降ったように、サムソンにも降りていました。怪力で、町の門をヘブロンの見える山の上まで肩に担いで担ぎあげた、イエス様も十字架を肩に担がされました。

ヘブロンはヘブライ語で友だち、、イエス様は、どんな人をも愛し友よと呼びかけられました。

サムソンが自らの意思で無抵抗でユダの人々に捕らえられ縛られたようにイエス様も自ら捕えられました。

イエス様はデリラが銀の報酬でサムソンを裏切ったようにユダに銀貨三十枚で売られました、。

イエス様の上着は4つに裂き1人1枚づつ分け、下着は1枚布であったので、兵卒が籤(くじ)を引いて当たった者が裂かずに受け取りました。

サムソンはイエス様が死んで復活した如く、、
最後にもう一度だけ、力を取り戻し神様が彼の祈りに答えられました。
サムソンは、十字架に掛けられたイエス様のように両手を広げて最後を迎えました。

蜂蜜より甘いものは何か/獅子(悪魔)より強いものは何か。この問いの答えは、、

悪魔の囁く甘い言葉、誘惑、。

自分だけが正しいと、へりくだれない頑なな心。
自分以外の他者の意思の存在を認めない、自分勝手な想い。

サムソンは3度のデリラの誘惑、しつこく泣かれて負けて、話してはいけないことを話してしまった。

イエス様は、3度の悪魔の誘惑に御言葉で勝利されました。
このサムソンの物語が何故書かれたかの謎はイエス様には解けていた訳です。

解けなかったのはイエス様が産まれていた時、生きていた人々の方、イエス様の語る神様からの御言葉が何一つ理解できなかった。

もし彼らがサムソンの物語が描かれた意味を理解出来ていたら、、人は、イエス様を厭うことなく、、イエス様は、、バプテスマのヨハネが立会人になって、サムソンが婚礼を挙げたように、、ご自分の親族の女性と婚礼をした筈。

そして、その女性と御子を得て無原罪の血筋をこの世に残し、人の肉体の聖化をしたでしょう。

人々が頑なで、バプテスマのヨハネも獄死してしまったから、イエス様は十字架にかけられ自らの命をかけてでも人を救わんとなさった、。

神様はメシアが現れたら、こうしなさいとサムソンの物語で示されていらした、。

同じように、、再臨主イエス様をを迎える方法を、イエス様は2000年前、言葉にして残されておいでだけれども、今の人は、その謎を解けているのでしょうか、、。

解けているなら、戸が叩かれている事に気づける。
謎が解けないなら、戸が叩かれている事すら気づかない。

婚礼の宴の期間七日の間に、神様の完成数は7です、終わりの時までに謎を解き明かせと言う事です。

もし解けなければ亜麻布で象徴されているキリストの花嫁たるべき者はサタンに奪われる。
解ければ亜麻布をまとった花嫁として再臨主イエス様とであって婚礼が催される。

イエス様は神様の国がくるまで、葡萄酒を飲まないとメシアとしての使命以外にナジル人のように請願を立て、お父さまの元に戻られました、。

それは、、神の国を、この世界に来たらせるまで、つまりは人が独り残らず原罪が無くなり、本当の意味で神さまの子となるまでは、、イエス様は、、神さまの御子としての栄光はお受けにならない、働き続ける、、と意思表示されていることです。

イエス様は人が全て救い出されるまで、玉座に座って休んでなどいないと仰っておいでなのです。


でもイエス様は、、御自分の使命、、人をサタンと罪から救う事、、は果たされておいでです。

聖書参照 ヨハネ  19:28〜30
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

イエス様は、十字架に掛る前は、サタンに勝利する前であったので、苦痛を和らげさせようと、出された、今でいう麻酔の代わり、もつやく入りの酸い葡萄酒さえ拒否されました。

でも十字架後、、十字架上でサタンとの霊的戦いに勝利し、人をサタンのくびきから取り戻し、使命を果たされた後は、、同じ酸い葡萄酒を今度は受けてます。

意思が強くないと出来ない事、人なら少しでも苦痛から逃れたいと想い、酸い葡萄酒を十字架に掛ってすぐにでも求め、差し出されたら受けていた筈です。

イエス様は神様への誓願を果たす為なら苦痛さえ恐れる事なく受けた心強きお方です。


サムソンは、ダビデと同じくイエス様の雛型の一つ。
サムソンは自分が神様に捧げられたナジル人である事、髪を切ると力が無くなる、と自分の正体を明かしてしまい、それも罪の元となり失敗しました。

だから、イエス様は2000年前、自分は神さまの御子であるとは最後の最後まで言わなかったのです。

言う時は、サムソンの時のように殺される時、十字架に掛けられる時、、、。

事実、、神様に父と呼びかけ、私は在る存在だと大祭司に応えてそう言った時、、祭司長らは、イエス様に冒涜の罪を着せて十字架に追いやりました、。


マグダラのマリア

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メシアであるイエス様のひな型となった信仰者達
第5章 預言者サムエル

サムエル上
1:1 エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。

よってサムエルの父はエフライム族のエルカナ
母はハンナ。父がエフライム族ならサムエルもエフライム族でなければいけません

↓ところが歴代誌Ⅰ 6:23では
歴代誌Ⅰ 6:18b〜
父はヨエル、祖父はサムエル、
6:19 更にエルカナ、エロハム、エリエル、トア、
6:20 ツフ、エルカナ、マハト、アマサイ、
6:21 エルカナ、ヨエル、アザルヤ、ツェファンヤ、
6:22 タハト、アシル、エブヤサフ、コラ、
6:23 イツハル、ケハト、レビ、イスラエルとさかのぼる。

サムエルはエフライム族ではなくレビ族として書かれています。
サムエルに対しエフライムとレビの2つの血統がなぜ書かれたのか?

サムエルの誕生の詳細について

エルカナには二人の妻があって、一人はハンナ、もう一人はペニナ。
ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。

当時、祭司エリの二人の息子ホフニとピネハスが祭司として主に仕えていた。
エルカナはハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。

ハンナはペニナのことで悩み苦しんだ。ハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。

ハンナは誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」

ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見ていた。

ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかったので、祭司エリは彼女が酒に酔っているのだと思って言った。
「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」

ハンナは
「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。
はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」
と答えた。

そこでエリは、
「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。

ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。

それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。

エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。

さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。
そこに、この子をいつまでもとどまらせましょう。」

夫エルカナは妻に言った。「あなたがよいと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待つがよい。主がそのことを成就してくださるように。」
ハンナはとどまって子に乳を与え、乳離れするまで育てた。
乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った。この子は幼子にすぎなかったが、
人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。

ハンナは言った。
「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」
彼らはそこで主を礼拝した。



ハンナは祭司エリと出会って、祭司エリは、ハンナに
「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことを(この行いによって)かなえてくださるように」
と言い、ハンナは、
「はしためが(祭司エリの行った)御厚意(から子供)を得(れ)ますように」と答えて、それから、食事をしたが、彼女の表情はもはや前のよう(に悲しそう)ではなかった。

なぜハンナは悲しむことを止めれたのでしょうか?
彼女は祭司エリによって、これで懐妊出来ると確信を得れたからではないでしょうか。

エルカナが自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、、、と書かれていますから、、
祭司エリの元へ、自分の妻を差し向けたのは、、夫エルカナ自身であったのでしょう、。

妻が不妊で苦しんでいる事をみかねたエルカナが、妻ハンナに何としても子を与えたくて、祭司エリに自分の代理になって欲しいと、妻ハンナを通して願ったのでしょう。

自分の妻が不妊の時、夫が選んだ相手によって自分の妻を身ごもらせるということはまま、あることでした、。
通常は、、産まれた子は自分の子とするのですが、、

サムエル記 上
1:4 いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、

と書かれているように、既にペニナによって娘も後継ぎの長子である息子も与えられていたので、、自分のものとしないで、祭司エリの子として、神殿に捧げてレビ人、神様のものとしてエリの手元に返すから妻に子を与えて欲しい、、と言うことで、祭司エリの元へ妻を差し出した。と言う事でしょう。

サムエル記 上
3:1 少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、(エリに)主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。

文脈的に、、こうとしか読めないです。
この後、サムエルに主の言葉が臨んでいますから。
なぜ祭司のエリに主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであったのかは、

サムエル記 上
2:14 釜や鍋であれ、鉢や皿であれ、そこに突き入れた。肉刺しが突き上げたものはすべて、祭司のものとした。彼らは、シロに詣でるイスラエルの人々すべてに対して、このように行った。

このように、祭司エリの子らが祭司としてはあるまじきことをして神様をないがしろにしていたにも関わらず、それを祭司エリは知っていながら、自らの肉の想いを優先し、彼の息子らの悪行を放置して、神様を軽んじていたため神様がお怒りになられました。

サムエル記 上
2:33 わたしは、あなたの家の一人だけは、わたしの祭壇から断ち切らないでおく。それはあなたの目をくらまし、命を尽きさせるためだ。あなたの家の男子がどれほど多くとも、壮年のうちに死ぬ。

ここで、エリの子は全て裁かれると神様は仰っておいでなのに、一人だけは祭壇から断ち切らずに残すと矛盾したことも仰っています。不思議ですね。

さて、祭司エリがサムエルに私の子と言っている聖句があります。
ユダヤでは常套句で、親しい人や友とかに呼びかけとして『わたしの子』という言葉を用います。
でも普段に自分の子以外の者に 『わたしの子よ』 と何度も言うでしょうか?

エリが私の子よとサムエルに言っている聖句は
サムエル記 上
3:6 主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。
3:16 エリはサムエルを呼んで言った。「わが子、サムエルよ。」サムエルは答えた。「ここにいます。」

サムエルが祭司エリの子ならば、エリの子で残されると神様が仰った一人がサムエルなのです。
サムエルが祭司エリの子ならば、本当に全ての祭司エリの子が裁かれるとサムエルも壮年の内に死なないといけなくなります。

それで一人だけ残すと神様は仰っていらしたのだと考えると、エリの子は全て裁かれると神様は仰っておいでだったのに、一人だけは残すと矛盾したことを仰っていた謎が解けます。

これらはイエス様の時の雛型、、、、。。
麦粉一エファは、イエス様がご自身のお体の象徴として仰ったパンのこと。
ぶどう酒の革袋は、イエス様がご自身の流された血の象徴として仰ったぶどう酒のことです。

祭司ザカリアが祭司エリにあたります。
御母マリアがハンナにあたります。

神様の御霊を宿し肉的なイエス様の父となった祭司ザカリアと御母マリアとの関係でイエス様はお生まれになられていました。 

サムエルの時、、人々はサムエルが祭司エリとハンナの子だと知っていたはずです。

父エルカナやハンナが何も言わないうちから、
サムエルは幼子にすぎなかったのに、人々は雄牛を屠って、その子を、エリのもとに連れて行った。と書かれているからです。
エルカナはイエス様の養父ヨセフのようにサムエルの養父。

本当のサムエルの肉の父は、、、。
神様の御霊を宿し肉的なイエス様の父となった祭司ザカリアと同じ祭司であった祭司エリ。

エルカナは妻ハンナを知った。のー文は後世の書き足しか、肉的なイエス様の代理父となった祭司ザカリアが秘されたように、サムエルの本当の父を分からなくするためのものであったと思われます。

人々はイエス様が祭司ザカリアの子だと口に出さないまでも知っていたのでイエス様がラビとして会堂で教えることには異議をとなえられなかったのです。

祭司ザカリアの長子バプテスマのヨハネが捕らえられ牢屋に入れられ、さらに亡くなってしまったことで祭司ザカリアの実質的な長子はイエス様であったから。

バプテスマのヨハネが亡くなった時、ヨハネの弟子たちが、ヨハネを葬ったことをイエス様のもとへ報告に行きました、。それはイエス様が、実質的なザカリア家の家長であったからです。

律法学者もファリサイ人も祭司レビ人より格が下です。
だから、イエス様が罪を犯していると証を立てれるまでは、彼らは公ではイエス様に逆らえませんでした。

それで影に隠れて悪事を企みましたが、ことごとくイエス様に見抜かれて勝てませんでした。

三歳の雄牛、、サムエルが捧げられた時、3歳であった事を意味します。3歳は、、3年間の事です、。イエス様の公生涯は約3年でした、。
三歳の雄牛はサムエル自身を示しています。

後の世の律法学者とファリサイ人たちは雄牛を屠ったように、イエス様を十字架で屠りました。彼らはイエス様が敗残者のような姿で十字架に掛けられたことで勝ったと思ったことでしょう。

ところがイエス様は十字架に掛けられても、人々を愛し救うことを望まれ、愛の力、受け入れる赦しの力で十字架に掛けた人々とサタンの悪意に打ち勝ちました。
そして罪による霊の死から、霊の復活を成し得たことで、この世の人のすべての霊を、罪による霊の死から救い出されました。


マグダラのマリア


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第4章 エリヤ(のちのバプテスマのヨハネが本当はエリヤとなる筈でしたが)

エリヤはイエス様の預言者としての雛型でした、。
モーセは、彼の要素、預言者の部分と祭司の部分と両方を兼任していました。

預言者は霊的指導者であり、神様の代理者
イエス様とヨハネの関係はモーセとアロン、ダビデとヨナタンの関係に似た関係でした、。異母兄と異母弟の関係でしたから、。

ダビデ王とモーセはイエス様の雛形、アロン、エリヤはバプテスマのヨハネの雛形そしてモーセの姉のミリヤムはマリアと本来同じ語源の名前。

イエス様の時、神様がヨハネを預言者エリヤの霊を持つ者としていましたが、
ヨハネが倒れた後、イエス様はエリヤとメシアの2つの役割を担っていました。

だから、、、、、
バプテスマのヨハネが言った。天国は近づいた悔い改めよの叫びを、、
イエス様はヨハネと同じように叫んだのです、。
ヨハネが言った言葉そのままを、わざわざイエス様が仰ったのは、、
ヨハネが倒れたからです。
イエス様は、、倒れたバプテスマのヨハネの身代わりをなさっていました。

もし、、バプテスマのヨハネがヘロディアの謀略にはまり、死ななければ、、モーセとアロン、ダビデとヨナタンの時のように、、イエス様と共に歩んだ事でしょう。

ヨハネは牢屋から弟子を遣わして、イエス様にあなたは来たるべき方なのですか?それとも他の人を待たないといけませんか?と聞いていました。 

ヨハネは、それまで身近にいた自分の異母弟がキリスト、、メシアだとは、、なかなか確信がもてなかったのでしょう。
自分が牢屋に入るまで、、納得がいかず、、思い悩んでいた、。
イエス様の証し人、、自分はエリヤだと言えなかった、。

ヨハネが自分を指して荒野で呼ばわる声であると答えた事、、
それは、、イエス様に不信した事となった、。
それで、、イエス様に不信したために、姦計にはまり、牢へ入ることとなった、。
もし、、ヨハネがイエス様に不信したりせず、自分はエリヤであると証ししていたら、、。
ヨハネが牢屋に行くことはなかったかもしれません、。

そのようなことが起きた、、ということは、。
ヨハネから、神様の守りが失われていた事を意味するからです。
ヘロデ王が、、2歳以下の男の子を殺せと命じた時、、
イエス様だけではなくヨハネも、、、2歳以下だったわけです、。

イエス様だけではなく、、ヨハネにも、、神様の守りが有ったということです、。
だから、、姦計にはまり、命を落とすような状況になっていくということは、、
神様の御心に背いていて守りが失われていた、、事を意味するのですね、。


ヨハネの所には大勢の人が洗礼を受けに来ていたことから、ヨハネは民衆から尊敬されていた。
そのように尊敬されている自分が衰えて、イエス様に自分の弟子が離れて付いて行くこと、が悲しかったのかもしれません。

だから、、イエス様の証し人であると、、、、
自分はエリヤだと言う事が出来なかった、。

それだけではなく、、ヨハネは、アロンの雛型、、身代り、、、。
アロンが神様とモーセとに逆らって金の子牛の像を作った時、彼は、火の中に金を投げ入れたら自然に金の子牛の像になった、、と嘘をついていました。

それでも、神様はモーセの兄アロンを祭司としてたてる為に聖別し、アロンは神様から処罰されなかった、、、、。
処罰されなかったアロンの代わりに彼の子孫であるヨハネが、、神様の御心に背いたために、罪があると、言われの無いことで陥れられて牢に入ることとなりました。

でも、バプテスマのヨハネは来るべきキリストの到来が近いと言うことだけはわかっていました。
エリヤの霊を持つ自分が地上に居ると言う事は、、。
来るべきメシア、、キリストの到来が近い、、という事なのですから、。

それで、、一旦はイエス様に不信したものの、牢屋のなかで、考えに考えて、、自分の異母弟であるイエス様がやっぱりメシアではないか、、と考え、それの確信を得る為に、ヨハネは弟子を介して、
イエス様に、あなたは来たるべき方、キリストなのですか?と質問をしたのです。

イエス様は
ルカ 
7:22 それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
とお答えになりました。


バプテスマのヨハネに、、多くの徴を行っている、、(だから、、自分はキリストである)と、遠まわしにお答えになられていました、。ハッキリとメシアだとお答えにならなかったのは、人々は、、イエス様が徴を見せても信じず受け入れなかったために、、ヨハネ自身にも信じるか信じないかの選択を任せたのでしょう、。

本来、バプテスマのヨハネは王の王であるイエス様の為に、12人の弟子を用意しないといけませんでした、。
王が現れる前に士師が12人いました、。12はイスラエルの民を表す数字、。ヨハネは王であるイエス様が世に現れる前に12人の使徒となるべき人を集めてイエス様に受け渡しをしないといけなかった、。
でも、ヨハネが、それを出来ていなかったので、、イエス様は御自身で12使徒を集められたのです。

イエス様は、まず聖別されたイスラエルの民を表す12人を求め、次に出エジプトの時、神様の祝福された人数である70人+2人の弟子を遣わすことから始められました。
70人ではなく72人だった理由は、↓こちらの記事にも書いてあります。

なぜイエス様は72人の弟子たちを町々にお遣わしになられたのか?

民数記
11:25 主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。

とあるので、聖霊を受けた七十人の長老とモーセ(後のイエス様の立場)とアロン(後のヨハネの立場)とナダブ、アビフ(後のヨハネから来た弟子の立場??)それだと、、全員足すと、、74人のはずなのですが、、
多分、ナダブとアビブは、、罪を犯して神様に打たれているので、、72人なのかな?と考えています。

申命記
10:22 あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。

エジプトに下ったヤコブの時の70人が、、神の民イスラエルの象徴として、再度、今度は異邦の地エジプトからカナンへ呼び出された、、ということになるのですね、、。

モーセの時、、、最初は74、。裁かれたナダブ、アビフの2人を除いて72、さらに率いた側、既に祝福されてるモーセとアロンを除いた数は70、それで70人の長老に祝福があり、、イエス様の時はモーセの時、74から裁かれた2人ナダブ、アビフの数を引いて72、、現代なら、、イエス様が成就された72に、、再臨されるイエス様と再臨するであろうエリヤの霊を身に宿し使命を与えられた人を足せば本来の数74となります。


ヨハネが獄死した後、だれもエリヤになる者は現れませんでした。
それは、ヨハネの他には、、エリヤのような使命を受け継いで果たせるような信仰者は、、誰も存在していなかったということ、。

ヨハネは、、牢の中で、、神様の不信した事を悔いて、牢屋から抜け出すことも可能であったのに、あえて抜けだすことをせず、総てを神様の御手に委ねました、。

ヨハネは逃げようと思えば逃げられた筈です。
ヘロデ王が耳を傾けようとしたくらい自他ともに清い生き方を貫いていたからです。敵陣のへロデ王の部下の中にもにも沢山、ヨハネの信奉者がいた筈です。
いつでも助けてくれと、
へロデ王の部下を通して頼めた筈であるのに頼みもせず逃げなかったのです。

いつでも助けてくれと頼めた相手はへロデ王の部下の中にいた信奉者だけではなかったのですが…とある権力者の妻の邪な願いを叶えてあげれば良かったのです。
でも、それは清い生き方を貫いていたヨハネにとって選べないことでした。

エジプトの宰相となったヨセフは、ポティファルの妻に言い寄られて、それを拒否したことで、濡れ衣を着せられて牢獄へ入れられました。
ヨハネにも同じような事が起きていたのです。

バプテスマのヨハネに言い寄っていたのは、、ヘロデ王の妻ヘロデヤです。ヘロデの妻の邪な願いを叶えてあげれば、、ヨハネは牢屋から出る事が出来たでしょう。

でも、身の清さを保つ為に、ガンとして受け入れず、、最後は怒ったヘロデヤの卑劣な策略に掛かり、命を失う事になりました、。

ヨハネは、エリヤであると証しすることを拒んだために、イスラエルの民を導き聖別する預言者エリヤとしての使命は果たせませんでした、。

でも、、ヨハネは神様を信じて、何があっても自らの清さを命をかけてでも守り通すということでの聖別と、、自分自身の命を捧げ、犠牲にすることによって、自分自身が清さを貫くことで、、清められた備えの民の身代りとなり、身を清く保つ祭司としての使命をすべてではないにしても全うしたのです。

ヨハネは、主の道を真っ直ぐする者、荒野で呼ばわる声、また預言者エリヤであると聖書に記されています。

預言者エリヤとは救い主のキリストが現れる前に現れる者のことです。
再臨主イエス様が世に現れる前には、、
証し人として現れるべきエリヤ(ヨハネ)の再臨者が現れ、、、
その人が、自分はエリヤだと明かさなければなりません。

イエス様の時と同じことが起こらないといけません。
なので、、イエス様の再臨がある時は、、
再臨者ヨハネの使命を持った人が先に現れるでしょう、。

2000年前は、、 証し人となる筈のヨハネが獄死した為、、、
イエス様の12使徒、、そしてその他の弟子たちが
ヨハネの身代りとなってイエス様の証しを始めました。

12使徒は、、ヨハネの代理者として洗礼を悔いた人に授けました、。
現代では、、神父、牧師が洗礼者ヨハネの立場であり、三位の神様の御名によって洗礼を授けています。

マグダラのマリア

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メシアであるイエス様のひな型となった信仰者達
第3章 ダビデ

ダビデはユダ族で羊飼いだった、。それでも、神様の祝福を受けて、不信仰を犯したベニヤミン族のサウル王を退け、民から望まれてユダから王笏は離れずのヤコブの預言の通りにイスラエルの王となった。

ダビデは王として生きるという大きな使命を持った人だった。
それは、、イエス様の先祖となるからという事ばかりではなく、イエス様のメシアの職の一つ、王の王としての雛型であったから。
だから、不足なら、何であれ加えたであろう。と父さまが仰ったほどに恵まれて多くを与えられていた。

それほど羊飼いの時代に比べたら、、大きな祝福を受け、多くを与えられていたのは、苦しみの時に神様に信頼した信仰もありましたが、人々の信仰を導く手本であるべき祭司でもある王であるのに、、一般人のように不足の想いを持つ事から、神様に対して軽々しく罪を犯さないようにするため。

どうしてか、、というと、神様に選ばれ召された人は信仰を僅かでも失敗すると、失敗した罪を償わなければならない。罪を犯した償いは、、最初小さいもので行い、それも失敗すると大きな償いをしなければならないようになる。それで足らないような時は、更に自分の子孫が再び同じような償いをすることとなる。
でもその代わりに、、信仰を立てる事が出来、勝利したなら、先祖と同じような祝福を子孫は苦労も無く受ける事が出来る。

ところが、、ダビデは罪を犯してしまう、。
ダビデ王が家来ウリヤの妻を手に入れる為にウリヤが不当な方法で戦死するように仕向けた罪、。
この時の罪は、自分の子が死ぬことと、自分の子アブサロムに離反され、自分の妻を穢された事で償いを求められましたが、、

もう一つの罪はサタンの甘言に乗って、イスラエルの民の人数を数えて人頭税を取ろうとした罪を犯した事、。
この時は、前の罪以上に大きな背きであったので、、
ダビデが犯した罪の罰を、ダビデの子や自分自身だけで留まらず、イスラエルの民も負わされた、。


この神様の裁きはダビデ本人自身が裁かれ苦しむことよりも、一段階苦しく厳しい裁き。
王として善くない事を行ったために、自分自身が裁かれる以上の苦しみを受けた。

【自分のせい】で罪なき者、自分の民が自分の代わりに苦しむ、と言う事を観させられ、、
自分の冒した罪故に招いたことを、死ぬことをが許されずに観させられて、
自分が嘆いて心を痛めて苦しまないといけないという罰を受けた。


預言者であり先見者であるガドに
サムエル記 下
24:12 「行ってダビデに告げよ。主はこう言われる。『わたしはあなたに三つの事を示す。その一つを選ぶがよい。わたしはそれを実行する』と。」
24:13 ガドはダビデのもとに来て告げた。「七年間の飢饉があなたの国を襲うことか、あなたが三か月間敵に追われて逃げることか、三日間あなたの国に疫病が起こることか。よく考えて、わたしを遣わされた方にどうお答えすべきか、決めてください。」
と言われて、、

大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。と答えている、。

もし、自分が敵に追われて逃げる事を選べば、、民だけは無事だったのだろうが、、自分が逃げ切れなくなる可能性があるので、人の手にかかりたくない。と答えているのだろう。
7年間の飢饉は、、期間が長すぎて、自分も民も死ぬこと以上に苦しい、、、。
だから、、、3日間の疫病を選んだ、、のだろう、、、。

サムエル記 下
24:17 ダビデは、御使いが民を打つのを見て、主に言った。「御覧ください、罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように。」

ダビデは、、肉の目の他に霊の目を与えられていた。

だから、、天の御使いがイスラエルの民を打つのを見ることが出来た。
でも、、その打たれる裁きが視えているからこそ、、自分のせいで、、、、と、心がとても苦しくなった、、。
ダビデが霊が視えない人であったら、、もう少し心の痛みも軽かったでしょうが、、
視える人だったために、、天の御使いが裁きの剣を持って行う厳しい天の裁きを全て視れてしまった訳で、。

とても辛かった、。ダビデは神様に必死に懇願する。

わたしとわたしの父の家に下りますように。は、、自分と自分の子孫は神様に捧げます。滅ぼされても何をされても良いですと言う信仰告白。
だから、、神様に捧げられたダビデの子孫は、、イスラエルの不信が幾度もあってもユダの地に残され、イエス様まで受け継がれていった、。

ダビデが失敗すると、、肉においての子孫として産まれる予定のイエス様にまで影響がある。
だから、なんとしても、、子孫には何も起きないように、、、。
ダビデの罪は、、ダビデの民とダビデの子によって償われ、ダビデはそれを観させられるという苦しみを受けることで裁きを受けた。

神様は、、自分と子孫を捧げます、、と告白したダビデを省みて、ガドを遣わします。
裁く側の神様にとっても罪なき者を裁くことはとても心が痛んで辛かったのです、。
 
サムエル記 下
24:15 主は、その朝から定められた日数の間、イスラエルに疫病をもたらされた。ダンからベエル・シェバまでの民のうち七万人が死んだ。

24:16 御使いはその手をエルサレムに伸ばして、これを滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言われた。「もう十分だ。その手を下ろせ。」主の御使いはエブス人アラウナの麦打ち場の傍らにいた。

裁きの御使いが、、7万人打っても、なおも人を裁き、打とうとするのを御覧になられて、「もう十分だ。その手を下ろせ。」と命じられておいでですから、。神様は、、裁くことを望まれているお方ではないのです、。裁きは、、あくまで、罪に気付かせる為のものであって、滅ぼし苦しめる事が目的ではない。

人は、、裁きと言うと、、、滅ぼし苦しめる事だと、、考えるけれども、。
違う、。正しく生かすために、、裁きはある。
ここで、打たれ肉的には死んだ人々も滅ぼされて終わりではなく、霊となってからでも、救われる道は用意されていた、。それでも、、、神様は、、人が生きて幸せをつかむことを望まれておいでなので、
肉を滅ぼすことを、、とても深く悲しまれていた、。

申命記
10:22 あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。

70人で神の民イスラエルは、異邦のエジプトの地から救い出されたこと、、神様の数、完全数を示す数字は、、7。
殺人を犯したモーセに続くダビデのサタンに負かされた罪のせいで、償いは、1万倍の7万となった。

もし、モーセの時、罪を犯す失敗が無かったなら10倍の70人どころか、7の千倍の7000人、。
失敗しているのに、7の10倍の70、、だから、、殺人を犯して失敗しなかったら、、償いの数は10/1になるので、、10倍の10倍で本来は100倍 結果の数70*100で7000。

ダビデのときは7の1万倍、、70000人に神様の祝福があった筈。70000の死者はそれを示唆していた。
人が信仰を立てる事に失敗すると神様の摂理の数は元の状態、イスラエルの出エジプトの時の数70に戻る。

だから、イエス様は、まずイスラエルの民を表す12人を求め、次に出エジプトの時の神様の祝福された人数である70人+2人の弟子を遣わすことから始められた。70人ではなく72人だった理由は、↓こちらの記事に書いてあります。


なぜイエス様は72人の弟子たちを町々にお遣わしになられたのか?

ダビデを裁いたのは、、神様御自身だった、。
よってダビデに向かう筈のサタンの讒訴権はダビデ自身には行使されなかった、。

そのサタンの讒訴権は、ダビデの子孫であるイエス様の時、誘惑をするという形で行使された、。

そして、、ダビデが悪魔の誘惑に負けて神様の律法に背き失敗したためにイエス様の変容の時、、預言者としての雛型であるエリヤと祭司としての雛型であるモーセは、霊となって現れる事ができたが、、王としての雛型であったダビデは現れる事が出来なかった、。

ダビデが、失敗しなかったら、、その時ダビデの霊も現れて、霊的においてメシアの三つの職である王の王、大預言者、大祭司の信仰の勝利を継承出来て、、イエス様は、イスカリオテのユダが理想していたような、実際的な王の王として、、世に現れることが出来ていた、、。
この世的な権威もお持ちであったなら、イスラエル人は背くことはなく十字架にかかることがなくても人を指導し、全ての民の象徴であるイスラエルを聖別し救う事で全ての人を救い出せていた、。

ヨハネ
13:27 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

ここの彼、、とはユダの中に入ったサタンに対して言っている、、。
最終手段であった十字架への道を自ら決心なさって。

サタンは、落ちたりと言えども、元は光の天使、愛を持つ者。
完全愛の前には打ち勝つことは出来ない、。また、不信したサタンより、なにがあっても神様を愛し慕い信じ切ったイエス様の方が、サタンの愛よりも神様への信頼と愛は上位である証しをサタンに対し立て、サタンはイエス様の方が神様を愛して居ると認めるしかなかった、。

サタンは入ったイスカリオテのユダの口を通して、、
罪の無い人の血を売り渡し罪を犯した、、と言って、敗北を認めている。
だから、、イエス様の身体を天使が天へ運ぶ為に墓に引き取りに来た時、、、
モーセの時のように、サタンは讒訴しイエス様の身体を奪うことができなかった、。

王の王としての雛型であったダビデが誘惑に負けたことはイエス様にとり、大きな痛手では有ったけれど、イエス様は、、、神様と共に有ってサタンの誘惑を退け、十字架に掛けられてまでも、、人を赦し切り誰をも裁かず、愛をもって人の罪の元であるサタンまでも赦し、裁かないという完全愛で打ち負かし、神様に絶対に不信せず神様を信じ切って勝利なさった。

ダビデが、3日間、死の裁きの御使いに国を委ねたので、、イエス様も3日間、死して黄泉に降る事になった、。

マグダラのマリア

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メシアであるイエス様のひな型となった信仰者達
第2章 モーセ

王の王となられる筈のイエス様が、
何故、時のイスラエルの王家と関係出来なかったのでしょうか。

それはエジプトの王女の子として育てられモーセが、自分の雛型であるエジプトの事実上の王、宰相となったヨセフの信仰の勝利の象徴、エジプトの王位を継承せずに、王位継承の権利を捨ててしまった事が原因でした。

もしモーセが殺人を犯すことなく何も問題なくエジプトの王家で過ごし、エジプトの宰相となったヨセフのようにエジプトの王になっていれる状態であったならば聖書の出エジプトは必要なかった事です。

なぜならエジプトを捨てた事は、過ちを犯してエジプトにいられなくなったモーセの命を守る為に成された事だったからです。
モーセの命を守り、モーセの次の後継者となるべきヨシュアが育つまでの間、神様はエジプトから離れるという形でモーセとイスラエルとをお守りになられたからです。

神様の最初の御心とは違うエジプトを去るという形で、イスラエルの解放と救いを行なった神様と神様の僕モーセ。
本当ならモーセはエジプト王となるべき者としてエジプト王家に留まり、イスラエル人のモーセがエジプトの王となることで、エジプト人の奴隷となったイスラエルを自然な形で救い解放しなければならなかったのです。

それが神様のなさりたかったイスラエルの救いと解放でした。

古代エジプトでは、王位継承権は王自身ではなく王の后と王女が持つものでした。
たとえ王の子、王子として生まれても、王位継承権を持つ先代の王妃か姉妹の中の誰かと結婚しなければ完全なる王位継承者とは認められませんでした。

でも、モーセはその王位継承権を持つ王女の子として育てられましたから、人は、、彼を王位継承権を生まれながら持つ者として見ていました。
エジプト王パロも、そのつもりで居た筈です。
もし、そうでなかったら、エジプト王家に生きたまま留まらせる事はしません。自分の王位を脅かす者として滅ぼそうとします。

でも結果的には残念ながらモーセはエジプト王家から出てしまいました。


そのモーセが選んだ後継者がヨシュア、。その為モーセの霊的後継者、新しい恵みの地カナン、、地上天国、エデンへの導き手としてのメシアの名前は、、、ヨシュア(日本語ではイエス)でなければいけませんでした。
その為に、、イエス様はインマヌエル、ヨシュアと呼ばれると預言されたのです。

モーセの役目はカナンまで、イスラエルを導くこと、、。
それが達成まじかになるまで、、モーセへの裁きは留保されていました、。

それは、、、イスラエルの民を導けるような者は、当時モーセしかいなかったから、。

それで、、役目が終わった時、、120歳で、元気だったけれど、カナンに入る直前、モーセは山で取り去られることになりました、。約束の地カナンは見ることを許そう、でも入ることは出来ない、。とモーセは神様に言われて、、、。

約束の地を目の前にして入れないのは辛かったでしょう。
でも、、モーセは人をあやめていたので、自分の命で贖わないといけなかったのです。

自分の口で、、、

出エジプト記
21:23 もし、その他の損傷があるならば、命には命、
21:24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、
21:25 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。
とイスラエルの民に命じた通りに、、、
自分自身も同じ法により天の神様から裁かれることになりました。

岩に命じて水を湧き位で刺せないといけなかったのに、、岩を二度叩いたことは、、、、イエス様をたたく、それはイエス様を十字架にかけるという人の背きの元を呼び寄せる要因、、、。
霊的にみるとモーセは岩であるイエス様を叩いた事になるから、それの背きとも併せて裁かれることとなりました、。

でも岩を叩いたこと自体は、、イエス様がモーセを赦せば良いことです。
だから、、モーセの一番の大罪はエジプトでの、怒りに任せてモーセが行った殺人の罪、、。

そして神様が用意されていた妻とするべき人を娶らなかったこと、。
本来、レビ人はレビ人と結婚しないといけなかった、、モーセはクシュ人の妻チッポラを妻としていた、、。
アロンとミリアムの反対を押し切ってまで、。

モーセの妻はミディアンの祭司の娘チッポラ、、祭司の娘ということでは良かった。でも、、正式なレビ人ではなかった。遠い血筋においてはレビと同じではあっても、。

アロンとミリアムがモーセに妻の事で反対した時、アロンは何も罰を受けず、ミリアムだけが打たれて皮膚病になっていたことから、モーセに訴えた首謀者はアロンではなくミリアム、、。

つまり、、ミリアムが、、モーセの妻候補であったのです。
だから、モーセの妻がクシュ人なのはおかしいといってアロンと共にモーセの妻の座から追い出そうとしたのです。

でもモーセは、、自分の妻チッポラを捨て去ることが出来なかった、。

神様は支配することは望まれません。
モーセがチッポラを選んだことは御心ではなかったし、アロンとミリアムが言っていたことは正しかったけれど、モーセの意思を尊重されました、。


でも、、モーセは、自分が間違った妻を娶っていた事はアロンやミリアムに言われなくても理解していました、。
モーセが自分の血族ではないヨシュアを指名した理由、それは、自分が罪を犯して居たためと、妻の事が間違って居た為でした。
間違った妻が産んだ子であったためにモーセの子孫はモーセの後継者とはなれなかったのです。


これらのことによってモーセはカナンの地に入れなかったのです、。
メリバの水の事と聖書では書かれていますが、。

でもモーセはそうなることは気付いていた事でしょう、。
誰に言われなくても、、
自分がいくら崇められても、、、
人を殺した事は取り消しがきかない。

そして神様の御意志に背いて神様との道を捨てて人の道を選び、人の情で妻を選んでしまったことも、。

自分のした悪しきことは神様に赦されても、、、
自分で償うべきことは何らかの行為で償わないと自分の心は安らぎを得られません。

クリスチャンは赦されたからそれで平気だとして、そこから自分なりでもよいけれど償おうと努力することを怠けてしまいがちです。

でも、自分が人を愛さないで過ちを犯した分、
今度は出来るだけ自分が愛することはしないといけないのです。
赦されてるから何もしないでいいと勘違いしてしまっているのです。

天国に入るにはイエス様に原罪を赦されただけでは入れないです。

モーセがイエス様の雛型であったとしてもイエス様に赦されないと天国の門に入る資格はなく、
モーセは殺人の罪を犯した罪を、、人のために自分を捨てるような生き方をする使命を持つ人に合わさって、、助ける霊となって輪廻し、人を助ける人を助け支える人(モーセ自体は死んだままの霊)として生き直すことで償わないといけない、。

もし、モーセがエジプトの王となって、信仰によりイスラエルの救いと解放を自然な形で成し遂げていたら、イエス様が、その勝利を相続なさる事が出来得て、イエス様は、旧約の預言書の通り、イスラエルの時の王に近い所にお産まれになられて、イスラエルの時の王となられ、イスラエルの人々を救い導かれた事でしょう。

そして、イスラエル人は王となられたイエス様に不信し、イエス様を十字架にかけ殺す事も無かったでしょう。
時のイスラエルの人々は、メシアとは、大祭司か、王の王か、大預言者の三つの内のどれかとして来て、メシアの役割(イスラエルを救い解放する使命)を果たすものだと思っていました。

それで、表向きは貧しい大工の息子とされていたイエス様がいくら奇跡を見せても、神様よりも、イエス様よりも、時の権力の力の方を、、強いもの頼れるもの信じれるものとして選びました。

ですから、イエス様がイスラエルの時の王であったなら不信しなかったでしょう。いえ、したくても権力を恐れて何も出来なかったでしょう。

イエス様はそんな権力を恐れる程度の信仰しかない頑なな心を持った人達を相手に、神様の摂理を遡って、、、
もし、人が信仰を示すことを失敗した場合、、とりなす大祭司として捧げる側ではなく、アブラハムの子、イサクのように捧げられる側、、にならないといけませんでした、、。
イエス様御自身が人の身代りとなって、、。


イエス様は穴、牢屋に投げ込まれ、奴隷にまでなっても神様を信じ抜いたヨセフのように、イエス様御自身が神様の位置から降り、人として、、悪魔の誘惑や苦難や試練に打ち勝って信仰を示し、、悪魔に勝利しなければなりませんでした。

それでイエス様は、ヨセフが勝利する前のように貧しい人の子とされてお産まれになられました。イエス様はモーセやヨセフの失敗も償い、どんな苦難の中でも信仰を捨てず、神様を信じ切る信仰によって勝利しなければならなかったのです。


イエス様にとって最後の手段であった十字架で、イエス様は最も辛い苦難の中でも神様を愛して信じ切る信仰を、現実的証拠としてサタンにお見せになりました。

神様を信じ切れなかったサタンは、イエス様のなした愛の証拠の前には言い返しは出来ず、負けて、ユダの口を通して、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」イエス様が罪のない方(神様の御子)である事、サタンが罪を犯している者(間違いをしている)である事を、認めています。

イエス様が勝利なさった為、サタンに捕らわれ罪人となっていた人は、人の主人だったサタンが負けた事で神様のものとして霊的に取り戻されました。

モーセが王となって人を救う道があったようにイエス様にも十字架以外の人を救う道がありました。
もしバプテスマのヨハネが殺されなかったら、イエス様は御結婚という形で救いを成されたことでしょう。
モーセにはバプテスマのヨハネのようなアロンがいました。女預言者ミリアムもいました。

イエス様にもミリアムのような存在がいたはずです。
イエス様が女預言者ミリアムのような人と結婚なさる予定だったとしてもおかしくありません。

祭司の娘であった女性。もしイエス様が、その女性と結婚なさっていたら、無原罪の神様(イエス様)の血筋が罪人である人の内に少しづつ広がって無原罪の神様(イエス様)の血が罪の血筋を清め罪を祓い救いを成されていたでしょう。


基本的に、、イスラエルの人々が不信さえしなければ、、
イエス様を霊的指導者として受け入れていたら、、。

神様のことばを語るモーセが死んで蘇らなくてもイスラエルはモーセの示した多くの徴を視て信じ従ってエジプトから知らない荒野へとアブラハムのように神様の言葉に従って出ていけていたのですから。
その指導者モーセのように、、イエス様は生きてイスラエルを指導なさったことでしょう。

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