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聖書論 再臨主について
第2章 メシヤ再降臨はいつあるか?

イエス様の再臨について予兆はあるが、それがいつになるのかはイエス様は判らない、ただ父なる神様しかご存知でなく、父なる神様以外、誰も知らないと聖書に記録されています。予兆があるという事は神様がある程度、メシアが生まれてくる準備はされるという事。

ではイエス様がはっきりした時期が判らないと仰った事、これは不確定という意味になるのですが神様がある程度準備なさっていても不確定という事は?イエス様の仰った予兆があった後、その再臨主となるべくして来るお方は人として生まれる事だけは確定しています。

しかし、その方がキリスト・メシアとなるべき人として生まれてはいても、、、100%神であるが、100%人としても生まれておられるので、自由選択意志を持っていらっしゃる。

その方が御自分の使命がわかっても、その方自身がメシア・キリストとしての道を歩むか、退いて、普通の人として生きることを選ぶか、、
その部分で、そのお方の自発的意思と信仰に神様が委ねて任されていらっしゃるので、、不確定と言う事になっているのです。

イエス様の雛形であるモーセは、エジプトへ戻ってイスラエルの民を導くことを、当初、神様に何度も、出来ませんと断っていました。
モーセの時は、モーセだけしかイスラエルの民を救い出せる人がいなかったので、神様は何度もモーセに語りかけられモーセを説き伏せました。
そうでなかったら、神様は無理強いはなさらないお方です。
幾度か仰って駄目なら、、次の人へ使命の受け渡しをする準備をし始められるでしょう。

自分の使命に気づいた時、メシアとなるべくして生まれて来られた方は、とても悩み苦しまれるでしょう。
メシア・キリストの道を歩むのは容易な事ではない事です。
常に父なる神さまの御意志に添って生きるとは何か、、と、神さまにお聞きしながら、考えることも、、行いも全てにおいて、、。
普通の人なら、、自分の人生だけ考えればよいのですもの、、、

イエス様は、、無垢な人、罪が無いお方だと聖書に記録されました、。
だから再臨されるお方も、イエス様と同じでなければならないから、罪を犯さない生き方をしないといけない、。
簡単に言うと、、神さまとして無垢に生きる為に、人として些細な事であっても、、間違った想いを持っても、してもいけないという事なのでしょう。

それを考えただけでも重たい使命です、。
今は、間違えた事を認めて、、神さま、イエス様にごめんなさいと心から謝る事で、罪が無いイエス様の赦しにより、人は罪を赦して頂ける、。
でも、、イエス様以前は、、ごめんなさいだけでは赦されないから、、無垢で居ないといけない人は、いつも人一倍、罪を犯さないように気を付けていたのでしょうね。

イエス様は、いつも祈られて父なる神様と心を一つにし合わせていらした、。叱る時も、怒る時も憎しみからではなく、愛の想いで慈しむ想いでおられた、。どんなに貧しくても、人にお金や物を自分自身の喜びのために求める事はなさらなかった。大きな霊力を使えば、、身体もお辛かったでしょうに、無私の御愛で、、求める人の病を癒されていらした、。人として産まれてしまっていながら、人としての弱さを良しとせず、、強い意思で罪を退けていらした、。

再臨主となる人は、そんなイエス様のように生きる、。

それを、、神様を愛するがゆえと、受け入れるか、退くか、。
とても悩む事。簡単な生き方ではないから、。人には計り知れないほど大きな責任と使命の重さとがある、。

もし、たとえ、今、現在、その人がメシアとなるべく無原罪の状態で、すでに地上に生まれていたとしても、メシア・キリストとなる使命を帯びたその人がモーセのように出来ませんと神様に向かって拒否したなら、神様にも人にとってもキリストが現れた(生まれた)事にはならない。

また最初から、、メシアになるべき人が無原罪で生まれてくる為の状態を造り、用意する事から神さまはやり直し。

イエス様の再臨のご意思と使命を継ぐ決意をするお方が現れる時を、、。
イエス様の時も、、モーセの時と同じで、イエス様しか、人を赦せるお方がいなかった、。
再臨主の時は、、モーセの時と違って、イエス様によりすでに勝利し、人の救いは成就していますから、神様は、次の時をお待ちになられるのです。それでイエス様は次のメシア出現は、いつになるかは、判らないと仰ったのです。

人は神様の言いなりになるような存在、ロボットではないので、自己選択権が与えられています。それは神様が人を我が子と想われておいでだからです。親と子、神様と対等の存在とみなされています。

自分の意思で、神様の示された道を進むと強い意志で自己決断しなければ、、堕ちた人々を救う権利を神様は、そのお方に与えれないのです。

無原罪のアダムとエバは神様の戒めを守る事で生まれながら神の子としての権利がありサタンも讒訴できない筈でした。でも、彼らは自分の意思で罪を犯して背き、サタンに讒訴される者となってしまった、。

同じように生まれながら神さまだから、、と無条件でキリストとしての権威を渡してしまうと、、神さまに信仰を立てれないような弱い意志しかなかったなら、その人は人の持つ弱さに負けて、、サタンに讒訴されるようになってしまうかもしれません、。

それでは、、罪を犯さず総てを捧げる生き方を貫かれたイエス様の努力が報われません、。

イエス様は十字架につけられ血を流し人に殺されても、人の救いの為になるならと御自身を捧げても何も惜しむ事も無かったお方です。
人を救う為なら、死も本望だと死を乗り越えられたのは、強い愛の意志力によるものです。そんな強い愛の意志力を持ったお方が2000年前のイエス様です。

父なる神様の御心を行う事が自分自身を愛する事と等しく、いえ、、それ以上の大切な事として、強い意志でイエス様のように自己決断出来ること、この位の強い信仰がなければ、再臨主であっても到底サタンの誘惑には打ち勝てません。


必ず、私は、来る、、とイエス様は仰いましたから、。
私は、、必ず、イエス様の再臨はあると思っています。
今の時代に再臨の可能性は、一切あり得ないことだと全否定し、、再臨主を待ち望む信仰は異端だ、と言う考えこそ異端です。
イエス様の約束の御言葉を否定しているのですから。

人は軽く考えます。神様は三位一体で、御父も御子も聖霊も同じ考え、、人を救いたいと思う筈なのだから、再臨してくると言うなら、、当然キリストとして生まれた者はキリストとしての道を歩むだろうと。

でも、神としては御父と御子として一体でも、人としては別のペルソナがあって、人としての意志があるので、モーセの時と同じように、出来ませんと言う自由も、再臨主とはいえ持っているのです。

本物の再臨主たるメシアとなるお方は2000年前のイエス様と同じように、この使命を自分の事と出来える強い愛と意志力を持ったお方である筈です。このような強い愛との意志力を持てる人は、そうはいない。

だからイエス様は言っていらした。偽キリストに気をつけなさい。ここにメシアがいる。あそこにメシアがいる。と言っても信じてはいけないと。
本物の再臨主は、、自分からメシアだとは言わない筈。イエス様は神さまの子だと言わず黙っていなさい、と人に弟子に悪霊にさえ命じていらした、。


再臨されるイエス様とは、
誰かが気づき、誰かが気づけない、といった性質のものではありません、と言う人もいるでしょう、。
イエス様御自身が、、どういう形で再臨するかを、詳しく仰っていないからといって、自分自身の考えで、イエス様が霊のまま、雲に乗って再臨なさってくると考える事も早計です。

「その時、人々は、人の子が、その大いなる栄光のうちに、
多くの天使をひきつれて、雲にのって来るのを見るだろう」と聖書に書かれてあるから、と言って。

ヨハネ
5:31 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。
とイエス様御自身が仰っています。

この御言葉から、、自分から自分が自分自身を指してメシア、、キリスト、再臨主であると、おおっぴらに名乗るようなら大かたは偽物ということです。
それに、そう名乗っていて、その時、サタンも受肉しているでしょうから、本物か否か調べにいくでしょう。
そして本物だという可能性があるなら滅ぼそうとするでしょう。

サタンにとって再臨主イエス様がおいでになられたら邪魔なので、赤子の内に滅ぼしてしまおうと考える、。
だから再臨主も2000年前のようにひっそりと産まれる、、と私は言っています。


イエス様が実際生きていらした2000年前、イエス様がそれだと気づけた人は、、世界中のうちほんの一握りの人だけ、。
後は、、怪しんだり、疑ったり、違う、と退けたり、自分に都合の悪い事を皮肉のように言われたからと殺そうと企んだり。

2000年前と同じように、再臨主が、ひっそりと人として再臨されたなら気付けるのでしょうか???2000年前、、あれだけ派手に奇跡を起こしていたのに、信じなかったのが、今の私達と同じ人間なのですが?

2000年前、気付けなかったのに、、受け入れなかったのに、、現代の人だからと言って、気付ける、受け入れれるのでしょうか??

その方の話す事が、、自分の想い描く再臨主イエス様の概念から外れていたら、そのお方が目の前にいても、人は2000年前と同じように信じようとはしないでしょう?
再度、、2000年前のように悪魔だとか、異端だとか再臨主に向かってでも平気で言うでしょう。

2000年前、イエス様は、それまでの常識とは違う事を教えました。
そしてファリサイ人、律法学者らは、イエス様の教えをそれは違うと言って受け入れませんでした。

イエス様は与えた人が命の食物を食べないなら、食べようとする人へ、、与えました。ユダヤ人が食べないなら異邦人に、知識人が食べなかったら、無学の人に食べさせました。分かる人だけ、判ればよいと、。

再臨主もね、、同じように、今の人の歪めた教義の間違いを正そうとするでしょう、。
だから間違いを指摘された人とその人に従う人は、再度、敵のように再臨主を憎まないとは言い切れない、。


ヤコブからモーセのカナン到着まで470年、
そしてサウルまでの400年、東西分裂までの120年、
バビロン捕囚までの400年、そしてマラキまでの210年、
そしてイエス様までの400年。

簡単に言うと、、
アブラハムからダビデまで1000年です。
ダビデからイエス様まで1000年です。
イエス様出現までの時間、、合計2000年。


西暦2000年前後に再臨主は産まれていたはず、。
再び来るその時が2000年かかると言う理由は

イエス様の時、アブラハムからダビデまでが1000年。
ダビデが最後に不信仰に落ちサタンに負けた為、アブラハムからダビデまでの1000年の月日を悪魔が取る事になった。
それで、償いの期間が必要となってダビデから1000年経たないとイエス様はこれなかった。

イエス様の時、ファリサイ人ら、ユダヤの民の不信で、再度、償いの期間が必要となった、。
アブラハムからイエス様までの2000年の月日を再び悪魔が取る事になったため、イエス様から現代まで2000年分が、、償いの期間。
それは奪われた2000年の月日を一気に神様が取る事ができるようになるためには、イエス様から2000年の月日が必要となるから。

今、、西暦2011年、だから、ダビデの時のイエス様の現れ方の故事に倣って、イエス様までの2000年時間を一気に取り戻すなら、、イエス様から現代は2000年をとうに過ぎているから、、いつ再臨主が産まれてもおかしくない、。

でも、、モーセの時、イスラエルの民が不信しなければ2000年でなく、荒れ野にいた40年を引いた1960年が本当の数字となる。
その荒れ野にいた40年の期間を差し引くなら、、1960年ころに再臨主が産まれていてもおかしくはないけれど、、西暦はユダヤ歴とも1〜2年くらいは誤差があるでしょうから、、詳しい時期は、やはり謎のままです。

マグダラのマリア




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聖書論 再臨主について

第1章 再臨主の条件
人を救う存在の名前には、弥勒菩薩と呼ばれたり、観世音菩薩と呼ばれたり阿弥陀如来と呼ばれたり、色々あります。

でも、これらの人を救うという働きと本質は他者愛による同じ一つの大きな愛の働きから起きている事です。

仏教で言うところの弥勒や菩薩としての働きが、再臨主イエス様という別名によって、、、ちょうど弥勒や菩薩のような救いの姿、慈悲深い愛、他者愛を顕現して現れるお方がキリスト教におけるメシアや再臨主であると考えると理解しやすいしょう。

人の救いの働きの本質は完全なる他者愛に基づくものであり、愛によらない救いは本当の救いではありません。

真実の愛の無い救いとは、、お金儲け主義が信仰の下地にある、下等な信仰、、。
信じた代わりに御利益を与えられるから信じろと、ただ延々というだけのもので、口先だけの救いしかありません。救いの教えが形骸化してしまっているのです。

ただお金を運んで、集会に来て形だけでも見た目だけでも信仰しているように努力していればいいと、。

信仰の本質、、愛を行う事、感謝する事、救いを信じること、、この想いや心を置き去りにして、、行いだけを求める信仰になってしまっていて、、。
真心、、本当の心を捧げることが出来なくなって、、見た目の清さ、、行いだけが重要視されてしまっています、。


再臨なさるイエス様のことを、
再臨主イエス様という仮称でお呼びしますが、

2000年前のイエス様の命を宿した再臨主として産まれるお方を信じることは、2000年前のイエス様を信じることにも繋がって行くこととなります。
それは、、再臨主イエス様がイエス様御自身のお命、御霊を自身の霊と合わせて自分自身の霊として宿しておいでだからです。

下に書いているように、聖書に真理の霊が来る時、、と書かれています。
真理の霊とは、、聖霊を指すこともありますが、、私は真理であると仰ったイエス様のことでもあります。

再臨主の後から産まれてくる全ての人は、、
新しく産まれて来られる再臨主となるお方の内においでのイエス様の聖なる霊の命を、、再臨主イエス様の御子として産まれる御子方との婚姻により、誰かれの区別なく分け与えられて、婚姻により一つとなることで無原罪とみなされるようになるでしょう、。

再臨主イエス様が婚姻し、また再臨主イエス様の御子方も、人の子と婚姻するでしょうと私が言っている理由は、、、。

神様が、、2000年前、イエス様によって成し遂げたかった事が、、神様の血筋によって、人の原罪に穢れた血筋を清めて、人の肉体、人の肉の命から原罪を取りのけることなのです。

でも、、人の不信のために、、イエス様は人の娘と婚姻し御子を得ることは出来ないままとなりました。
それでも、、不信するような人の救いを成し遂げる為に、、イエス様は御自身の霊の命を捨てて、十字架にお掛かりになり人の救いの為に全てを捧げました。

人の霊の命は、、そのイエス様の全てを捨てて成し遂げられた十字架の贖いによって、、イエス様以降の全ての人は先んじて贖われています。

人がそれを信じ感謝し求めることで、人の霊の内に宿る原罪はイエス様の下される聖霊により清めて頂けるので、、霊の清めに関してはイエス様により完了しています。

人は本来、霊の命が本当の命ですから、霊が清められるなら、、人の救いは成就します。
でも、、それは、、救いを信じれるようになった人だけなので、、人がそう信じれるまでの期間は、、人にとっては救いがあってもないと同じような状態です、。

でも、、この婚姻による罪からの救いは、、イエス様の事を知らない人でも、受け入れることが出来ない人でも、、。

誰であれ再臨主イエス様、、神の血筋として産まれるお方に繋がる人は、、、肉体の原罪が清められ、聖霊も働き、無原罪と見なされるのです、、。

そして、、婚姻により繋がった人から産まれた人の子孫に婚姻により繋がる人も同じように、、無原罪と見なされていく、。

1人の人から罪がこの世に入って人知れず拡がったように、、1人の人に繋がって、、この世の原罪は人知れず消え去っていく、。
アダムが犯したことと逆のことを行うことで、、。

偽りの愛、サタンの自己中心の愛に人は繋がって神様の愛を現わせなくなってしまった、。
だから、、真実の愛を持って産まれて来られる再臨主イエス様に繋がって、人は、、真実の愛を取り戻さないといけない、。

罪の根、、原罪を取りのけるという事は、、
人の内なる「神性」が、今のように罪を半分宿した状態では無くなって、、完全な「神性」とすることで、本当の意味で神の子として人が罪のない者となって生きれるようにすることです。


再臨されるお方は、。
体は人であっても身に宿す御霊は、、、
神様であるイエス様御自身の御霊なので生まれながら、、神の権能を持つ者、神としてお生れになる。

イエス様のお命、御意志、記憶、御霊、、イエス様の全てを身に宿したお方。

再臨主イエス様は、、新たなエバとして選ばれた信仰深い女性を母として、、敬虔な信仰を持つ男性を肉の父として、、
無原罪であるイエス様の御霊を宿すことで、聖霊に満たされ、、、
再度、イエス様のように無原罪のお方として生まれて来られる、。


再臨主イエス様の出生の最低必要条件とは次の通り。
再臨のキリストの母親になる方には姉がいなければいけません。
そして、その母親になる方とその姉は、どちらも信仰心のある純真さを持っていること。

再臨主の父親になる方は、その再臨主の母親になる方の妹と姉のどちらをも娶ること、またはそれと同質の状態となること。

つまり、祭司ザカリアが御母マリアの長姉(血筋的にはマリアから見たら伯母)エリザベトを娶り、更にエリザベトの末妹マリアによってイエス様を生誕させたことと、同じ状態にならなくてはならないということ。

そして再臨主の父は、ヤコブのように、幼い時から苦労をして、それを乗り超えて来ていること、、それゆえ、彼の妻となる姉妹たちと同様に彼も信仰心が篤いことが必要となる、。

それから再臨主の父または母方の親族が、由緒正しい祭司アロンのような祭司の家系、最低1000年以上は続いている神職の家系、、つまり宮司(神父、牧師は世襲ではないので1000年以上家系として続いているのは、まず無理なので考慮内に入れれません。)の家系であること。

イスラエルにもラビ(ユダヤ教の教師)は今もいます。でも、彼らは2000年前、自らイエス様を排斥し十字架にかけたのですから、その自分達が排除したイエス様のご霊を宿す再臨主の降誕を受ける権利は喪失しています。

なので、、再臨主イエス様が、、この日本の国に産まれるということだけは決定事項ということになります。

再臨主の御名前はバプテスマのヨハネやイエス様の時と同じように、その父母以外の者で、神様から遣わされた存在、御使いのような存在から名付けられること。

再臨主の母親になる方はイエス様の御母マリアのように信仰深く、、心も身も穢れのー切無いままで再臨主の父親になる方に嫁ぐこと。

再臨主の母親は自分の意思で再臨主の父親に嫁ぐのではなく、御母マリアのように神様の御命令に従って再臨主の父親となる方に嫁ぐこと。

再臨主たる方は無原罪であるイエス様御自身の御神霊を自分の御霊として宿しておいでなので生まれながら無原罪です。

なので、、御自身が神様の子であると誰にも言われたりしなくても、最初から知っているはずで、、イエス様の御臨在と、、その神霊がイエス様であった時の記憶や思考、想いなども、全て、お持ちの筈です。

そうでなければ、、わたし はすぐ来る とはイエス様は仰れなかったでしょうから。
私、と言えるからには、、、全てを知らせ受け渡しているということです。もし、イエス様御自身のことで尋ねられたら、、、再臨主である方が、答えれないことは一つもない筈です。

イエス様御本人の神霊を宿しておいでなのですから、聞いていなかったことならば、、イエス様御本人に聞くことができますので。
そして聖書の隠された意味を全て解き明かし、意味を聞かれたら、下のヨハネの福音書に書かれているように、、意味を明らかにし答えれないといけません。
イエス様は、、聖書の意味を全て知るお方です。だから、、再臨主も、、、そうでなかったら、、、本物とは言えません。
世の誤りを明らかにする、、のですから、、その時代のキリスト教の教義とは違う事を仰るかもしれませんね。今のキリスト教の教義は人が考えたものですから、。

ヨハネ
16:8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
真理の霊、、つまりイエス様の神霊が、この世に再度、肉を纏って来る時、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを正し、真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げると、あなたがたに告げると、

また黙示録19:10にイエスの証しは預言の霊なのだ。とあるので、、聖書に書かれてある通りになるでしょう。

神なるお方に、人が洗礼を授けるわけにはいかないですから、、御父御自身がそれを行うことでしょう。

何千年も先を見通された預言の霊を持つイエス様の御霊を宿しているお方ですから、、再臨主イエス様も、、先見のお力を持たれておいででしょう。

再臨されるお方は、、
人の手によらず洗礼を受け、、、そして御結婚し、御子をもうけ、、
その清らかな神様の血筋が人の中に増え続け、
神様の御血で、、人の中にある肉の原罪を消し去るようになさる、、。

再臨主には神様と御使いが、、その再臨主たる方が産まれた時から臨在していて離れずにいる。

再臨主も、、イエス様のように、、悪魔に対し霊力ではなく信仰の力によって勝利出来る。

メシアの人としての出生には、実は、こんなに沢山の最低必要条件があります。総てが当てはまらないなら偽物、、ということになります。

マグダラのマリア



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