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聖書論 再臨の目的
第1章 イエス様が再臨なさると仰った理由


2000年前のイエス様が、
そのまま空から来臨するという方がおいでです、。
しかし、同一人物であるなら復活なさって、一度、天に帰る必要も無く、、
わざわざ私はすぐ来ると、再臨の約束もする必要もないです、。
そのまま地上に留まっていれば良かった筈です。

一度死んで蘇られて、、肉体も以前とは違う姿と書かれていて、
あちこちに姿を消したり現わされたり、、変幻自在であったのだし、、。
そのまま、大地にとどまって不死の肉体を持ったまま生き続けたら、
良かっただけでしょう?

その方が、噂を聞いて、周り中ビビりまくって、。
イエス様に従いますと、自分から頭下げてきたことでしょう、。
そんな不思議な人間が居ると知ったら、、。


イエス様は十字架上で神様から使わされた目的、人の救いに関しては成就し、サタンに勝利なさって神様の御許へ戻られました。

勝利し、目的を成就したイエス様が、、もうこの地上に来る必然性は何もありません。それは、、神様からの使命と責任を達成されたからです。

それなのに、イエス様はまた再臨する、私は来ると仰った。
それは、、イエス様の深い御愛ゆえからなのです。

旧約聖書に2度、メシアが来るとは書れていません。
だから、、再臨は、、イエス様御自身の意思なのです、、、。

父なる神様も、深い御愛の持ち主であられるのですけれども、。
イエス様は、、、父さま以上に、、、、もっと、もっと、人を愛し憐れんだのです。

それはイエス様は肉体を持って、、、
この世に来られて、人と共に過ごし、、人の苦しみを直に見て、聞いて、人として実体験したからです。

元々、神様なので、、人の全てを知っているのに、、人として生まれて、
さらにもっと人の悲しみ、苦痛、嘆きを深く知ってしまったから、、。

イエス様は、、直に、それらの人の苦しみ嘆きを見て聴いて、、自分自身の事のように受け止めて、共に嘆いて、共に苦しんで、、そして思い悩んでいる人を深く憐れんで下さったのです。

だから、、自分のなすべきこととして、、、1人も救いからこぼれ落とすことなく、、人の救いを、、なるべく早くに完了する、、と、自ら誓って、必ず、、、人の救いを少しでも早くする為に、、『再臨する、、』と仰って、、父さまの御許にお帰りになられたのです

救いを少しでも早めようとすること、、
そこまでイエス様はなさらなくても良いのです、。
イエス様の使命は人の救いを成し遂げること。
それの完了が早くなっても、遅くなっても、それは人自身の不信心のせいであって、、、イエス様御自身のせいではないのですもの、。

それに、、、、償うべき期間を短くするためには、、、それ相応の信仰を現わすという代償、償いも必要となるから、、、楽な人生ではないでしょう、。
再臨主に従う聖徒達も、、、同じように信仰を全うするために、、多くの苦しみを受けることになるでしょう、、。

それでも、、、イエス様は、、、、、自分自身の決意として、、
人を救うために再度、再臨する、、と約束して下さったのです、。
使命と重荷を再び負うと、。

ただ、、再臨は、、俗に言う最後の審判をする為ではないです。
最後の審判は、、、全ての人が、肉を離れて逝く時に、、人の中に宿る神様のお命である魂によって、、自分自身の行い想い、などにより裁かれる、、という事です。


イエス様が、、この世に来られる時は、、2000年前と同じです。
こっそりと人知れず再臨なさることでしょう、。
そうでなく、、いかにも神様の子というように華々しい産まれ方、現れ方なんかしたら、、未だ、この世の君であるサタンは、、黙ってないです、。

再臨主の可能性あり、やっつけろ〜と、滅ぼそうとしてすっ飛んでいきます、。
やっと手に入れてる自分の王国を早く終わらせるようなことをされたらいやでしょうから、。

それに、、空から大人の姿で現れたり、、とか、、(まぁ、父さまにそう出来ないとは私は思えないですけれども。その位は簡単に出来そう、、と今は思っています。昔は、、まじ、あり得ないけど、でも信じると言う考えでした。)

再臨主があまりに人離れして居ると、、人は恐怖しか覚えないです、。
いくら口先で再臨して下さいと空を仰いでいようと、、実際に、それ見たらね、、、祭司ザカリアが天使を見て驚いたように、、驚いて腰ぬかします。

イエス様は、一旦、天へお帰りになって、
御自身の霊を持ち、別の肉を纏って、新たに人として生まれて来られるのです、。
再臨主のお命を守る為にも、、ひっそりと産まれてくる、、と考える方が普通です。全ては人が受け入れやすいように、との父さまの愛有る配慮。

人の救いの道はすでにイエス様が、贖い主イエス様を信じる信仰により誰にでも与える万民の救いとして成就してあるので、、後は世界の復元?再創造だけです、、。

再創造、、、原罪のない人を創造すること、。

罪を犯したのは、、人だけなので、、人の原罪だけ清め再創造すれば良いのです。
全ての人の身体と霊から原罪の徴が全て消え去った時、この世の全ての再創造は完成します。

霊は霊にしか作用出来ないです、、それでイエス様は、人の肉に作用する為に、再度、肉を纏って、人としておいでになるのです。
人の肉体にある原罪の徴を取り去る為に、人として、、。



過去に、ヨハネの黙示録を、、
聖書の聖典に入れるか入れないか、、多くの議論がありました。

それは、、黙示録の中に、、
黙示録
22:2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。


命の木が川の両岸にあり、と書かれている聖書箇所があるから、。
川の岸の両側に命の木があると書かれているので、、

聖書の編者たちが、、命の木が2本あるということに気づいて驚き、そして、どうしよう、、と困ったのです、、。

もしその2本別々の命の木が川の
下で竹のように根が同じーつのもので上の幹が2本に枝別れたものだと仮定しても、そういう木は夫婦木と呼ばれ、それぞれ雌木と雄木の特性を持っている木のことであり、この2本の別々の命の木が、人としての再臨主と再臨主の妻を示したものだとしても、夫婦は2人でー人とされるのですから、夫と妻とはーつとみなされても人格としては別々のものであるので、2本別々に人格として存在するとするのは当たり前のことです。

エデンの園にあった命の木は命の木からも取って食べ”の記述からして雌雄同体のー本の木であり、この川の両側に2本別々に夫婦木として存在する命の木とは別種のものであるということになります。

このように聖書的に考えると、どうしても命の木(イエス様)はエデンのものと黙示録に書かれたものとの二種あるという結論になります。

命の木はイエス様を表す象徴です、、、。
それが2本、あるいは2種あるということは、、、2000年前のイエス様の他に
別のイエス様が現れると言うことになります。


この2本(2種)の命の木に内在するお命は同じ命の木(イエス様)が別の命の木(人)として、木の体(つまり肉の器)を違うものに置き換えただけ。


雲に乗って来るのを見るの御言葉について、、、

イエス様は雲に乗っておいでにはなられません。
雲は御使いを示し、イエス様の選ばれる聖徒らを示す言葉です。

空からイエス様が来られると思って空ばかりみていると、別の御言葉のように、、盗人のようにイエス様が来られてビックリ!どうしょう、ということになるでしょう。

イエス様が雲に乗って来られないということ、、
黙示録での雲がイエス様に従う聖徒らを意味すること、、
私は記事にして書いてあります。
イエス様は雲に乗っては来られない

聖書中の「雲」の解釈について

メシアは、、御自身の意思で世に現れるものです。
人が期待しようが、しまいが、人に必要だとメシアが思われたなら現れて、必要でないと思われたなら現れないでしょう。

メシアとして来られる方はイエス様ご自身の命を宿したお方です。
だから、、地上の誰よりも神様を愛されるお方です。

イエス様と父さまの望み、、
御自身の婚姻により、無原罪の御子をこの世に送り出すこと、、きっと、、サタンから守られて、降りかかる苦難を乗り越えて、成し遂げて下さるでしょう、。
イエス様の、私は来る、、の預言を成就する為に、そして人の救いの為に、、。


マグダラのマリア



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