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未来の神学その6。

「神様は、なぜ人間を創造されたのでしょうか?」

これは人間存在として根本問題です。

前提として創造主である人の父なる神様とは、
どういう存在でしょう・・?

「神様は霊的存在で、在って在る者と
自ら言われており、 更には唯一の存在です。」

これに関係する聖書を読んでみましょう。
 
ヨハネによる福音書 / 4章 24節
神は霊である。
だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

出エジプト記 / 3章 14節 口語訳
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」

私は在って在りつづける存在との訳が良いと思いますが、、。
これは神様ご自身が、、ご自身を
自存している者であると証ししていることなのです、。

他者によらず、自分自身のゆえに
存在していると言う事です。 
   
申命記 / 6章 4節
聞け、イスラエルよ。我らの神、
主は唯一の主である。    

神様が唯一なる御方である事と、人を創造した動機に、その答えの鍵があるのです。

神様がどれほど人を大切に思い、
愛しているかは、神様ご自身の一人子イエス様を人の罪の救いのために、この世に賜ったことでわかります。

ヨハネによる福音書 / 3章 16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
    
神様は愛の発露から人を創造しています。
が、神様は三位一体ながら唯一ですから、
単独の御存在です。

三者居るなら一体、唯一と言うのは
おかしいと仰る方もおいででしょうから
分かりやすい例えで説明しますと、

本から一つの完全愛という
大きな存在である御方、創造主なる神様が、
三つの働き、父性、母性、
その両方を有する者と、
三者に別れて働かれているということで

愛という一つの括りで見れば
父性愛も母性愛も愛です。
神様は完全善であって完全愛なる御方でもあるので、

その完全性ゆえに一つであり、
唯一無二であられます。

創世記に人が生まれた直後、
生めよ増やせよ地に満ちよといわれました。
そしてすべてのものを治めよとも。

これは人への祝福であり、
人の幸せを願っている言葉です。

神様は
人が幸せになることで
自分も幸せになるのです。

愛を注ぐ対象のしあわせな姿をご覧になることが、神様の大きな喜びとなるのです。

しかし神様ご自身、単独の存在では愛を注ぎ
喜びを感じれる対象が無いので神様も喜べず、
しあわせにはなりません。

単独の存在では幸福感はありません。

愛とは、愛を注ぐ対象となる存在があって、
初めて沸き起こる感情なのです。
万が一単独で愛による幸福感が
幻想の様に有ったとしてもそれは継続できません。
長く続かないのです。

それで、神様は人を幸せ(愛を注ぐ)の
対象としたのです。

ですから、神様御自身が、
人を愛を注ぐ対象とし必要としたのと同様に、
「人はひとりでいるのは良くない」という言葉を発し、アダムにエバを創られました。

以下は人が神様の喜びの対象であるとの聖句です。

ヘブライ人への手紙 / 11章 5節
信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。
移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。

ヘブライ人への手紙 / 11章 6節
信仰がなければ、神様に喜ばれることはできません。神様に近づく者は、神様が存在しておられること、また、神様は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。    

そうです。
単独では愛の受け渡しもできません。

人が存在する前、、神様はむなしく、
寂しかったのです。

愛の存在であれらる神様には、、
その愛を注ぐ対象が無かったこと、、それが
人の創造の衝動的動機です。

溢れでるほどの愛情があるのに、
その愛を注ぐ対象が無いことはとても
寂しいことです。

愛の発露とは理屈なしの衝動的思いです。

神様の愛は無条件です。
それは「アガペー」の愛であり無限で無償の愛です。

でも、それだけでは人が霊だけではなく肉体を持つ理由になりません。

神様は何でも創造できるお方です。
創造とは創り出すことですが、

人については、
神様は創ったという意識では無く、
生み出した。と思っているでしょう。

神様は愛を注ぐ喜びの対象として最高の存在を願いました。
神様にとって最高の存在とは自分自身です。

そうです、だから自分に似た存在を創ろうと
されたのです。

創世記 / 1章 27節
神様は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。
男と女に創造された。  
  
御自分に似た存在なら最高の喜びが得られます。
似るとは、顔かたちではなく、神様の聖質(性質なのでしょうが、この記事内での造語)が似るということです。

愛に於いても、知に於いても、創造に於いても、、、神様のすべてを含む、ただひとつを除いて。
ただひとつの違いは神様のself-identityのことです。

神様は自分と同等の存在、
それ以上の存在を願っていました。
同等の存在なら神様と同じような能力を持たさなければなりません。

神様には自由意志があり、創造ができる、愛があり、知・情・意がある、、 、、、、。

そしてまた、その対象は自分のように愛の対象を持つことができること。

そうです、それで人は自分で自分に似た
(遺伝子などの要素を持つ)子を、、
生むことができる肉体を神様によって
持たせられているのです。

魂と霊体だけでは、人は命を生み出せません。
単独で命を生み出せる神様と人は、
そこが違うのです。

また、神様はアブラハムに我が友と言われていますから
人は肉体をもち、それぞれが個体となるとで
友を持ち大切に思い合うことも神様の願いであり
それは神様の喜びとなります。

霊の体では直接の子孫を人は残すことができません。

イエス様は天使を例にして人の
霊のことを言われています。

マルコによる福音書 / 12章 25節
死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 
   
霊ではめとることも嫁ぐこともないので、
霊の体では子孫を産み増やせません。

当然のことですが、人は霊の息を吹き入れられて
生きる者となるのですが
それだけは、神様にしかできない御業です。

それができませんので、
人が神自身になることはできませんし
永遠の命を人が人に与えることは
できません。

神様だけがお出来になるゆえに
天地創造の神様は総ての命の与え主である神様なのです。

上記を除いて、先に書いたように神様は
自分と同様または御自身以上の愛を顕現出来る存在に、人がなれたなら、最極の喜びが得られます。

そのため人の成長に干渉することはしないことと
されました。
すべて設計図どおりに、ロボットのように操って成長させても、その対象からは、
最上の喜びは得られないからです。

ですから人には自由意志が与えられたのです。

エデンの園の堕落の物語は人に
自由意志を与えられていたため
戒めを守るも守らないも人の自由意志にゆだねられていました。

長い長い時を経て、やっと誕生(創造)した人
(アダムとエバ)でした。

その時の神様の喜びはいかばかりだったでしょう。
やっと愛する対象が存在した時、、。

しかし人はサタンの言葉に聞き従い堕落し、生みの親なる神様をふたたびむなしく
悲しみの存在とさせてしまった。

しかし、それから時を経てイエス様が現れました。

イエス様は人を救い、
父なる創造の神様をも、
その悲しみから解放させる御業を
この世で行なわれました。

最後に、誤解されないように。
神様の喜びのため、とは言いましても
自己満足的な行為ではありません。

溢れるほどの無限の愛の衝動は、
自己愛を捨てての行為ですから、
他者、、すなわち人のためのものです。

ですから、神様の愛は人に於いてしか
完結し得ないのです。

神様は、人が存在する前から、
人を愛そうとされていました。

神様は、創世記にも書かれているように、
天地万物を創造して、
「善かった」と言われました。

そのことに加え、
神様は唯一の存在であったため、
人を愛と喜びの対象として創造されたのでした。

ここ以降、世界初の内容を含んでいます。

えー、
もう少し厳密に神様の
創造直前の御心を考えてみましょうか、。
神様は人を自分に似せて造ったと
聖書に書かれていますね。

これが全ての謎を解く鍵となるのです。

神様を知るには神様に似せて造られた人を
よく知ることで解明されます。
人は罪びととなりましたが、
罪ある前からも愛情という情を有していました。

愛とはなんでしょう?
考えてください、。

愛情はどこから来たのでしょう。
人自身で造ったものでしょうか。。
愛は人が造ったものでは無いのです。

第一、単独で愛を造れる人はいないのですね。
単独で、始めから愛を所有している存在は神様だけしか居ないのです。

ですから、、
・・
ですから、始めの人が注がれ持たされた愛は、
神様から人に与えられたもの、と理解できます。

愛とは、理屈では無い、衝動的な感情です。

たとえば、女性が子を生んだとしましょう。
生まれた子を愛らしく思わない親はいない。

それは無条件にかわいく思う感情である、
それが愛です。
生まれてばかりの子は、客観的に美しいわけではない、また秀でた能力がまだあるわけではない。
理論的に考えたら、まだ愛の対象となりえない。

それなのに、人は我が子を愛します。
本来、、愛情は理屈ではないのです。

また親は、子が生まれると、
本能的、衝動的に抱きかかえ、守ろうとします。

愛は衝動的で
本能的感情なのです!

また愛は単独ではむなしいのです。
愛は対象を欲します。

愛は永遠性があるため
永遠の性質のある対象を欲します。

神様に創られた人が、
そうであるなら、神様も
人を衝動的な愛で人を創造したことが
わかるのです。

(ここでの衝動的という言葉は良いとか悪いとかを超えた意味で受け止めてください。)

では、神様はいつの時点で
人の創造を開始したのでしょうか?

神自身、在って在るものと自覚した瞬間、
神様は愛で人の創造を開始した。
それが答えです。

ここで、賢い人は気づくでしょう。
神様が唯一で自存し愛を元々持たれていたお方なら、神様の存在時点と人の創造は
ほぼ同時であるはずの事を、、。

神様が存在した時点と言う、説明は、
おかしな表現ですが、文字で言い表すとき、
このようにしか書けないのです。

時空を超え、どんな、はかり、でも計る事ができない存在である神様であるが、、、
計れない神様が存在したと同時に、、
人も創造が開始されていたのです。

もっと厳密には神様の愛の衝動が起きたのも
神様ご自身が存在したと同時であるから、
人も同時に創造開始されていた、

目にみえる形になるまでは長い年月がかかったが、神様のいわば創造の設計書は神様の中で瞬時に完成型が創られていたので、神様の愛の衝動が発したと同時に創造は完成していたともいえます。

ですから、進化論はまちがいです。

この世、三次元の世界での形(かたち)としては
まだ存在してはいなかったけれど。
人の霊的創造は、その時に、瞬間で完了していました。

だから人は神様とほとんど同時に存在していたとも
いえなくも無いです。

ただし神様が思い描いた人は穢れの無い、
イエス様のような存在であった
ことは間違いないです。

神様の想いとは違う存在になった人、、、
父なる神様はどう思っていることでしょうね。

人の御親なる神さまです。
人がどうなろうと決して恨むことなく、
救いたい、そして、一刻も早く
自分の元へ帰ってきてほしいと
切に願っているに違いないです。

あの聖書にかかれている。
放蕩息子の物語のように、帰ってきたら、
かいがいしくもてなし、喜んで何でも与え、
祝福してくださるに違いないのです。 

  
リレギオ神学書庫、
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著作権は、放棄しておりません。

内容等、もし引用される場合は、
内緒でも構わないので
コメントなどでお知らせ下さい。

引用元を明示して下さいますよう
よろしくお願い致します。

マグダラのマリア



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未来の神学、その5 
マタイによる福音書12章31〜32 
聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。 

聖書には、理解しがたい聖句がいくつもあります。
その中でもどうしても理解しにくい聖句が有ります。

超難解な聖句のひとつ、
イエス様が言われた御言葉にこうあります。

『聖霊に言い逆らう者は、
この世でも後の世でも赦されることがない。』

この聖句の前後の聖書の記述は、

あなたがたに言っておく。
人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。
しかし、聖霊を汚す言葉は、赦されることはない。
また人の子に対して言い逆らう者は、
ゆるされるであろう。
しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、
この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

木が良ければ、その実も良いとし、
木が悪ければ、その実も悪いとせよ。
木はその実でわかるからである。(悪い木に連なる) まむしの子らよ。

あなたがたは悪い者であるのに
どうして良いことを語ることができようか。

おおよそ、心からあふれることを、
口が語るものである。
善人はよい倉から良い物を取りだし、
悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。
あなたがたに言うが、審判の日には、
人はその語る無益な言葉に対して、
言い開きをしなければならないであろう。

あなたは、
自分の言葉によって正しいとされ、
自分の言葉によって
罪ありとされるからである。

イエス様は、人に対しては、、
その犯す、すべての罪も神を汚す言葉も、
すべてが赦されると仰いましたが、

但し、聖霊に対して言い逆らう者は、
この世でも、きたるべき世でも、赦されることは無い。と仰いました。

これは普通に考えれば理解不可能な聖句です。
全ての罪が赦されるはずなのに、。
唯一、、聖霊に言い逆らうと、、、、

赦す権威がおありのイエス様でも、、、
赦すことができないと仰る。不思議ですよね?

今回はこのことを書くことにしました。

イエス様は人でありながら神様であって、
人々の罪を赦す権限を持って、この地上に現れました、

でも聖霊に関する(対する)罪に関しては、
その赦す権能は持っていないと、、
この聖句部分で、イエス様は宣言されておいでなのです。

イエス様もその権限が無いこと、
それは何なのでしょう?
そんなことがあるのでしょうか。
不思議であり、謎ですね。

聖句を読み返しましょう。
登場人物?に気をつけて読みましょう、。

まず、良い木と悪い木が出てきます、。
良い木は生命の木であり、良い葡萄の木の例えがありますから
言わずと知れたイエス様御自身のことです。

次の悪い木とは、後から出てくるマムシの話でわかります。
マムシは蛇の一種で毒蛇です。

聖書の冒頭で、蛇が出てきますね、。
ここまで言えば皆様も、お分かりでしょう、。

イエス様だけではなく、
バプテスマのヨハネもマムシの子ら、と
人々に厳しく言っていますね。
マムシ、毒蛇は悪魔のことを指しています。つまり悪い木は悪魔サタンのことなのです。

良い木の実を結ぶ者はイエス様を信じて
イエス様につながる者と言う意味です。
神様であるイエス様につながる者は
聖霊を汚すことはありませんね。

そして悪い木の実を結ぶ者とは、、
悪い木であるサタン、蛇につながる者のことで、
悪魔につながる者、と言う意味です。

悪魔につながった者が、聖霊を冒涜し汚すわけです、。

しかし、そのように
人に言い逆らわせている者は、、
悪魔なのです。

つまり、聖霊に言い逆らう者の本性(本体)は人自身ではなく、
その人がつながっている悪の木である
悪魔自身です。

イエス様がお生まれになられても、、
現代になっても、、
未だに悔い改めることをしない悪魔に対しての、いわば裁きの言葉が、、

この『聖霊に言い逆らう者は、
この世でも後の世でも赦されることがない。』なのですね。


神様の発する、御言葉にサタンが対象になる
それはあり得ないのでは?ですか??

ヨブ記 1章 6節
ある日、主の前に神の使いたちが集まり、
サタンも来た。

と記されていますから、
サタンも対象になりうるのですね。

神様に言い逆らった霊的存在はサタンです。
ヨブ記/ 1章 8節〜9節を 読んでみましょう。

主はサタンに言われた。
「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。
地上に彼ほどの者はいまい。
無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
サタンは答えた。

「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。

と、サタンは神様の言葉に対し、
はい。と肯定しませんでした。
違う、、と言い逆らっています!

悪魔はイエス様にも、いくつもの
冒涜する言葉で試みたりしています。
ですから、この言葉は
人間に対して仰った言葉ではなく
悪魔に対して言った御言葉です。

このことで、やはり、、人は
良い木であるイエス様につながることで、
全てを赦され救われることが分かるのです。

でも悪い木、すなわち悪魔につながったままでは救われないことも意味しています。

イエス様でさえ、
悪の木につながったままの人は、、
その人自身が犯していない罪である
原罪は赦せても、罪を悔いて
悪の木から離れ去らなければ、
聖霊を冒涜する罪を犯す事になり、、
救えない(天国に入れることが出来ない。)ということなのです。

イスラエルがメシアに直につながる幹ならば、他の民族は、それに接ぎ木された枝のようになるのです。

人はイエス様によって全ての罪が赦されます。

イエス様は人と、悪の本体サタンへと、別々に御言葉を語ったのです。

そこは、、ご理解いただけますか?

私は他の記事で最終的には悪魔さえも
神様はお救いになると書いています。
その理由はサタンも御言葉を聴く対象、
神様の被造物であるからです。

では聖霊に関する(対する)罪とは?
またなぜこの罪に悪魔が関係しているのか?

堕落に関することでした。

イエス様は父なる神様から遣わされて、、
罪ある私たち人間の罪を赦し罪の苦しみから解放なさるために
この地上にこられました。

ところが、
その赦すために来られたイエス様でも
赦すことができない罪がある、、という御言葉でした、、。
でも、上記に記したように、そんなことは無いのです。

聖霊を冒涜し汚すことは罪ですが、
その全てを赦さないわけではないでしょう。

聖霊を冒涜し汚す罪の中に、、
絶対に赦し難い罪があると考えられます。
まずは、、聖霊とはいったいどういう存在なのでしょう?

神様とイエス様と聖霊の関係は??

この関係・三位一体の関係を、アウグスチィヌスは
「言葉を出すもの」父、「言葉」子、
「言葉によって伝えられる愛」聖霊という
類比によって説明しました。

働きが異なるが、本質は同じで、三者は一体なのです。
父とはイエス様を送り出したお方、御子はイエス様、
では、、聖霊は?

イエス様は神様の御子ですね、。

世界を創造する前、人を創造する前から、
このようになるべきとした人の完成の型、、命の木である御方。
後のアダム、、です。

逆に言えば人としてのアダムは命の木であるイエス様をお手本として
創造されたと言えます。

しかしアダムは堕落し罪を負ってしまった。

アダムに神様はエバをお与えになりました。
人がひとりでいるのは良くないと言われて、、。

イエス様のようになるべきアダムに神様は、、当然のごとくエバを与えたこと、、ここに、注目します。

まず、神様は人を御自分の形に似せて造られました。
そうであるなら、神様はアダムとエバの関係のようであるはずです。

父と子と聖霊とは真理であり創造の神様と神性を元々持った
父なる神様と、アダムの元となったイエス様と、
アダムに与えたエバのような女性的な神様であると考えれます、

イエス様と対を成す女性的な神様、、それが聖霊です。
ヘブライ語では、聖霊は女性格で扱われています、。

アダムにエバがいたように女性的な神様が、イエス様と対なる神様である、、
御聖霊なのです。

聖霊は神様のあるべき姿、
また神性をもったエバの型、
女性の完成すべき手本のようなものと考えます。

聖霊は、神様の神性をもって、、
命あるもののすべての母となる、
生命を育み生み出す御存在、。
聖書もそう書いています。

母になるには夫が無ければ子供ができませんね。
エバは生けるものの母と呼ばれましたが、聖霊も生命ある全てのものの母です。
神様において三者は別々のものではなく一体です。

それでは、本題、聖霊に対しての赦されない罪とは。
また冒涜、言い逆らうとは?

創世記に神の園の話が寓話的に書かれています。
主なる神様は人を連れて来て、
エデンの園に住まわせ、
人がそこを耕し、守るようにされた。

主なる神は人に命じて言われた。 
「園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪を知る木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまうから。」

神様は全ての木の実は食べてよい、。
しかし善悪を知る木は、触れても食べてもいけない、、と、禁止しています。
ここにも、全ては良いが、これはいけないと、、、
聖霊への罪の話の時のような仰い方をしています。

その後で、世界で最初に神様に言い逆らい、、、
冒涜する者、、サタンが蛇の姿でエバの前に出てきます。

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。
蛇は女に言った。 
「園のどの木からも食べてはいけない、と神は言われたのですか。」
女は蛇に答えた。
 「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、
死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

ここで、女は、神様が死んでしまうから食べてはいけない、と仰ったから、、この木の実は食べられない。と蛇に言っています。
しかし蛇は食べでも死なない言い返します。

モーセの権能を分霊したように、
またエリヤの権能をエリシャに分け与えたように、
聖霊の権能を分け与えられるはずだったエバにサタンは違うと言い逆らうのです。

蛇は、、上で書いたようにサタンを暗喩した言葉なのでした。

蛇は女に言った。 
「決して死ぬことはない。
それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
蛇の、、言った、
これらの言葉は神様を冒涜しています。
神様は嘘をついていると言っているのです。

そして女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、
目を引き付けます。
ついに女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、
二人はいちじくの葉をつづり合わせ、
腰を覆うものとした。
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
アダムと女が、
主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
主なる神はアダムを呼ばれた。
 「どこにいるのか。」
彼は答えた。 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。
わたしは裸ですから。」
神は言われた。 
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。 
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。
 「何ということをしたのか。」 
女は答えた。 
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
主なる神は、蛇に向かって言われた。
 「このようなことをしたお前は あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で 呪われるものとなった。 
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。 
彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」

この部分は神様が蛇に言っているところです。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。とは、

蛇はサタンですよね、。
サタンと女との子孫に敵意、、を置くと、、。

この女の子孫はエバ以降の人間のことを指しています。
イエス様はマムシの子よと、
その当時の人々を呼びました。

マムシは蛇です。
蛇はサタンですから、、
イエス様は、サタンの子よ、と呼んだのです。

エバの罪は、、この蛇、すなわち
サタンの言葉の誘惑に負けたことから始まります。

神様の御言葉を信じず、
サタンの言った偽りの方の言葉を信じたことです。

そして女は男にも、この禁じられた木の実を食べさせました。
アダムとエバ、、二人とも、
サタンの言葉の方を信じてしまったのです。
ここからが罪の始まり、原罪です。

食べる前までは無原罪であったのに、です。

ここで、さっきの神様の御言葉を思い返しましょう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に 
わたしは敵意を置くです。

これは、サタンと女そして、その子孫に敵意を持つと神様は仰っています。

これはサタンと女との間に子孫が存在すると言うことです。
存在といいますか、、生まれるということです。
霊的な存在のサタンと人との間の霊的な子供?子孫ということでしょう。

これは、心をサタンに奪われるとゆう親の悪の要素、、罪の因子(罪を犯しやすくする霊的な遺伝子のようなものとお考え下さい。)を、その子孫が引き継ぐという事で、この要素、、罪の因子が子孫に
残リ続けると言うことなのです。 

イエス様の時、、その時、ユダに悪魔が入ったとの記述は、、この証拠です。

神は女に向かって言われた。 
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。 お前は、苦しんで子を産む。 お前は男を求め 彼はお前を支配する。」

神様はなぜ女に出産の苦しみを
大きなものとしてこのとき与えたのか?
なぜわざわざ人の子が生まれてくることに苦を抱かせるのか?

やはりそれは、性に関係することを犯したからと考えることが自然でしょう。

神様はサタンにも、その子孫のこと、、お前と女との子孫に敵意を置く、、。

女にも子供のこと、産みの苦しみを増す、、。と裁きの言葉を仰っています。

罪のための裁きの言葉は、、性に関する罪を断罪している。
原罪は性の罪が根本であるとしか思えません。

木の喩えはよくイエス様もお使いになられています。
良い木、悪い木、ぶどうの木、等々。
木は人を比喩しています。

善悪を知る木も、木ではなく或るものの比喩か例えなのでしょう。

実際、この木の実を食べて、
罪を犯したことをはじめて知り、アダムは神様から隠れようとしました。
自分が裸であることにも気づきました。 

悪魔の誘惑に女が陥り、そして女はアダムにもその罪を伝えた。

そして神様はこの三者に裁きを与えるのですが、驚くことに、、罪の因子は一代で終わらず、その子孫にまでも残り、
子孫まで罪ありとして裁くと仰っている。

子孫にまで引き継がれる罪とは。
原罪の元は、サタンと人との、、性的な罪ということなのでしょう。
性的関係なしでは子孫は存在しないからです。

霊的存在のサタンと、肉体を持つ人とで、
子孫が生まれる訳がないとの反論があるかもしれませんが、

サタンは、当時、受肉して地上に降りる事が出来て居たのです、。
ネフィリムのことが書かれている聖句を思い出して下さい、。

創世記
6:4 当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。

ユダ
1:6 一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。
1:7 ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。

神の子ら、、御使いが人の娘たちに産ませた、、
不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、と、、、
はっきり書かれています。

聖霊を冒涜するものは永遠に赦されない。
この聖句で聖霊がエバの本来の愛を完成された型であるならば、
聖霊に対する赦されざる罪とは、、性に関する罪となる。

なぜならエバを汚したのは、、神様の御言葉を否定してエバに木の実を食べさせたサタンであったから。

それは聖霊を汚すことと、同等の行いなのです。 

イエス様がお生まれになられたのは、神様の御業であり聖霊の御力が働いて生まれることができました。

聖霊の御力なしでは、、
原罪の無い御方、イエス様は、肉体をも清い完全無垢な状態で生まれてくることはできなかった。

イエス様は霊的には神様であり罪がないのですけれど、、入れ物である肉体を用意するためのうちの1人、、

御母マリアは、生まれながら、、
その母アンナの胎内にいるときから聖霊に満たされ無垢で生まれた乙女でしたが、、

聖霊に満たされ選ばれイエス様の肉の父となった祭司ザカリアは生まれながら聖霊に満たされた者ではなかったので、、

イエス様の宿る肉体に原罪の罪の因子が在るままとなっていたので、、
イエス様の宿る肉体を御母マリアごと、聖霊が包み清めて、清くなった肉体にイエス様の清い御霊を迎え入れたわけです、。

本来なら、そんな必要は無いのですが、
サタンに罪の因子があるから神様の御子ではないと屁理屈を言わせないためです。

このように、、全ての穢れを清める御聖霊への冒涜は、、赦しがたい罪なのです。

ところが、、イエス様と対を成し父なる神様と一体であられる聖霊にサタンは冒涜を働こうとした。

それによってサタンが天使からサタンになり下がり天から落ちた。
冒涜を犯さなければ落ちなかったはずでしょう。
サタンの救いは、サタン自身が罪を認め悔い改めて三位一体の神様に赦しを願い、神様の聖霊による新生でしか救われない。

サタンも救われる?救われます、。
聖霊はすべての者(物)の母なので、全てとは、すべての被造物です。
被造物にはサタンも含まれると聖書は示唆しています。

したがって、悪魔の救いは、、聖霊が必ず関与する必要があるし、イエス様だけでは救うことができないのです。

そのことの本質は、、人のことではなく、
「聖霊を冒涜する者は、この世でも後の世でも赦されることがない」
この御言葉は、、悪魔自身を裁く御言葉であったということです。

天の国に入るには、新生しなければならない、。
そのことに関与するのは聖霊であるので、
聖霊を否定し冒涜していては新生は不可能となり、、
その状態では永遠に救いは無いのだから。

神はアダムに向かって言われた。 「お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。 お前のゆえに、土は呪われるものとなった。 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して 土は茨とあざみを生えいでさせる 野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。 お前がそこから取られた土に。 
塵にすぎないお前は塵に返る。」 アダムは女をエバと
名付けた。
彼女がすべて命あるものの母となったからである。


聖霊は神霊であり、霊を認識し返答できるのは、霊的存在でしか不可能、。

人も霊と魂と肉で創造されましたが、
この世では通常は肉的存在です。
常時霊的存在でいる者、、?

それは 天使であり、堕落した天使、
すなわちサタンとか悪魔とかと称される存在も常時霊的存在です。

聖霊に言い逆らうことができるのは、通常、霊的存在でしか不可能。

だから、、聖霊に言い逆らうものとは、、落ちた天使、、サタンのことなのです。
あなたは、これが信じられますか?


ニコデモはサンヘドリンの議員でニコデモ自身もラビの身分です。
この自分自身がラビでありながら
イエス様をラビ(宗教的ユダヤの先生)と呼んで、イエス様を自分より上位に見ていたのでした。

そしてニコデモの同僚も、、イエス様を
上位のラビだと認めているというような言葉があります。
私ども、、と複数形ですから、。

複数の代表としてニコデモはイエス様の元に来て質問をしたのでした、。

当時の、知的な人はイエス様を優れたラビだと認めていた、ということ、
隠れ信者みたいに少数派であっても、イエス様を信じていました、。

イエス様は、、質問した ニコデモに、
新しく生まれなければ神様の国を見れないと仰いました、、。

それは聖霊によって新生しないと天の国には入れないという意味です。

ニコデモは、もう一度母の胎内には戻れないとイエス様に答えましたけれど、。
水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。の

水は、神様が与えて下さる生命の水、御言葉のこと、霊は、聖霊のことです、。

人は、、神様の活ける御言葉と聖霊によって新生し、イエス様に繋がることが出来、活きた霊を持てるようになるのです。

御言葉を受け入れて、、神様のご命令に従順に従い、言い逆らわない、、
それが、、悪の木、、サタンから離れ去ることです、。

洗礼を受けても、自己都合で神様のご命令や御言葉に言い逆らい、
従おうとせず、悔い改めもしないならば、
良い木であるイエス様ではなくてサタンである悪の木に繋がっているのです。

人は、、洗礼を受けただけでは新生はできない、。

洗礼を受け、、イエス様に真に繋がりたいと願うならば、、
自分の中に宿って下さっている聖霊を冒涜しないことです、、。

もし間違えて罪を犯してしまったら、、真摯に悔い改めるべきです。
そうすれば、、聖霊から離れずに済みます、。

人には、、真摯に悔い改めることで、、赦しが与えられる、。
逆を返せば、、真剣に悔い改めないと、
罪は、、些細な罪であろうと、、赦されないのです、。

御聖霊は、、嘘も本気も、、みんな分かります、神様ですから、。

マグダラのマリア

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未来の神学、その4
「列王記 下 2章23節〜25節」

永遠のなぞと言われた聖句です。
エリシャが、ハゲと、子供達に罵られて、怒って呪ったというお話。

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列王記 下 2章23節〜25節
「エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と言った。
 エリシャが振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。
 エリシャはそこからカルメル山に行き、そこからサマリアに帰った。」

謎の聖句ですね、。
今まで、いろんな解説、注解があります。

預言者を罵った罰で殺されたとか。。
或る教団はエリヤの服を着ていたのがエリシャだったので、
それがいやだったから、子供が非難したとか
禿だったからとか?そうでなかったとか。

42人のこどもだけ、に意味ありだ、とか、、。

聖書では、子供と訳されているが
原語はもっと年長の青年だったから、、とか、、。

このエリシャの業は、罪だとか。。 

ここを引用して、
聖職者である預言者をののしってはいけない、。
聖職者をののしると、厳罰が与えられる、とか、、。 
これらの解釈は意味不明です。
核心から外れています。

今まで誰も、真実の意味がわかっていなかった。
わからないから、わからないまま、

この聖句を引用して、
牧師など聖職者を批評したり
非難したりしてはいけない、もし批判したら、
罰がくだる、と言い放つ牧者がいたりします。

それは、大間違いの解釈です。
それが原因で、躓いて教会を離れたという
人がいるそうです。  
悲劇ですね、。

そのおろかな牧者は天法において、
罪に定められます。

牧師である自分に背いたから、お前には罰が当たるぞ!!ではね、。
長い信仰歴がある信徒であっても、
え?ハァ(゚Д゚)ハァ?ってなるし、第一、そういう、
恐ろしいカルトじみたこというような牧師?の
そばには、居るのが怖くなるのが普通です。

そのような不幸が今後、
無いようにしたいので、正しい解釈を、、
多くの牧師だけではなく信徒にも認識して頂きたいです

さて、エリシャ、、です。
エリシャの生きた時代は紀元前9世紀ぐらいで、
アハズヤ王やヨラム王たちの時代です。

エリシャはエリヤの弟子で、
エリヤのすべてを受け継いでいます。

すべてとはエリヤの時代をも受け継いだのです。
ここわかりますでしょうか。
そうです、あの二つの霊を望んだ故事です。

かいつまんで言いますと、、
本来、人が帰天する姿は、
霊の目が開かないと見えないのです。

神様はエリシャの目を開き、
エリヤの帰天をエリシャに見せて、、
エリヤの権能を相続することをエリシャに許しました。

それだけではなく、
エリヤの子、実子と同等の立場をも許したのです。
親の最期を看取るのは、子の役目ですね。

だから、
エリヤの預言者としての権能の相続で一つと、
実子、エリヤの長子と同等の資格の相続とで一つ、
で、それが二つ分の霊の意味なのでした、、。

さて、本題にもどります。
当時は古代イスラエルの時代です。
古代に統一されたイスラエルはのちに、、
ソロモンの子供の時代から分裂しました。
ソロモンは多くの妻をめとり、
その妻たちの持つ異教を容認したのです。
それは神さまに背く行為でした。

ところで、統一イスラエル王国の始まりは
ベニヤミン族のサウル王です。
いいでしょうか?
統一国はサウルが初めなのです。

しばらくして、大預言者エリヤ、、
そしてその弟子エリシャが出現します。
古代統一イスラエルの第2番目の王はダビデです。

3番目は、その子、ソロモンです。
これらは有名ですので皆さんご存知ですね。
ソロモンの死後、その子供の時代になって、
国は分裂したのです。

分裂したことは、
不信仰のために下された、神さまの罰です。
しかし、ふたつに分裂したのみで、
まだ、、滅びはしませんでした。

神さまはイスラエルの信仰の回復を待っていました。
イスラエルは猶予が与えられていたのです。

しかし、、、、。
ここで歴代の王を見てみましょう。   
↓系図テキスト版だと、表示後は違って、
どうしてもレイアウトが崩れるので、画像に入れ替えました。
見難いですが、ご容赦下さい。
          
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ここまでで、何か、
わかった人がいるでしょうか?
何か気づいたでしょうか?

ヨシア王は善王といわれましたが、、。
他はほとんど悪王でした、。
ヨシア王は善王とはいえ、結果的に失敗をしています。ここでは割愛します。

この聖句の正しい意味は、、

熊とは?一頭はアッシリアです。
もう一頭は新バビロニアです。
または、サルゴン2世とネブカドネザル2世です。

歴史上の事実として、北イスラエル王国は
アッシリアに陥落させられました。
南ユダ王国は新バビロニアのネブカドネザルに
よって滅亡させられました。

42の数とは?なんだったか、

統一王と北イスラエル王とユダの王とを、
全部合わせた数です。
3+19+20で、42となります。

42人の子供とは、
42人の歴代王たちを意味していました。

この42人がすべて即位したあと、、
不信仰なら国が滅びると、
エリシャによって預言されていた、、のです。
警告的預言であり、その表現は寓話形式でした。

聖書では獣や動物を比喩、暗喩、象徴として使うことがあります。 熊もそうです、あるものの暗喩です。

ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」

ダビデの言う熊は動物の熊だとは限らないのです。
敵に見立てているのです!

ダニエル書/ 07章 05節
第二の獣は熊のようで、横ざまに寝て、三本の肋骨を口にくわえていた。これに向かって、「立て、多くの肉を食らえ」という声がした。

この熊に例えられた獣とは敵となる国のことでした。

ヨハネの黙示録/ 13章 02節
わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。

この足が熊の足と例えられたのは、神さまに敵対する
存在を指すのでした。。


「子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。」とは。
神様にとって、子供たちとは王に成るに値する子供たちののことです、。
その子供たちの中から選ばれたのが四十二人です。

四十二は選びにそった数です。
結果は不信仰の王が多かったけれど。
預言者も油を注ぐため王を選びます。


四十二、、なぜ四十二数なのか?は、
猶予数であり忍耐の数です。


神様が摂理において人を罰するまでの猶予数です。
罰を受けながら忍耐することもあります。

実際聖書の例としては以下があります。

民数記/ 35章 6節
あなたたちは、人を殺した者が逃れるための逃れの町を六つレビ人に与え、それに加えて四十二の町を与えなさい

ヨハネの黙示録/ 11章 2節

しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。

ヨハネの黙示録/ 13章 5節
この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。 

ここまで、どうでしたでしょうか?

理解できたでしょうか?
理解できた人は幸いです、、

でも、それだけですか、、?

理解したのは、聖句の意味のみ、
で終わっている人が大半ではないのか?

意味がわかっただけで終わってはいけません。

古代統一イスラエル、それから分裂した北イスラエル国と南ユダ国は滅んだのです。

神様が育てはぐくんだ、
選ばれた民の国が滅んだのを他人事と思っていては
聖書の意味を理解した甲斐がありません。

遠い昔の出来事だから、、
現在と無関係などと思っていてはいけないのです。

ユダヤの民を以て世界を救おうとしていた神様です。

当初はアダムから出発しました、。
アダムの罪による不幸は子に引き継がれ、
子が償おうとしました、、アベルとカイン、、
それもだめでした、ので10代後ノアに託された、。

でも、、ノアの子ハムが、
ノアに強い媚薬入り葡萄酒を飲ませて、
あわよくば殺して、長子権を兄たちから
奪い取ろうとして、、ノアを裏切り、とん挫、、

その後はアブラハム イサク ヤコブ、、、
12子が12部族の始めになり 
ヨセフが出、ダビデが出現し、ます、、。
王国ができました、、。
その間多くの預言者も出現しました。
でも、滅んだのですね!

原因は? 考えてください。

イエス様をも、排斥したのでした。
ユダヤにメシアを出現させたのに、そのイエス様を
排斥したので祝福はイスラエルから移動します。

メシアを信ずる者が、神様の与える
祝福を引き継ぐのは当然といえば当然です。

ユダヤの受けるはずだった祝福は、
クリスチャンに受け継がれています。

受け継いだということは義務があります、。
多く祝福をうけるなら、その分多く義務が生じます。

では、ユダヤの失敗は、やり直さなくてはいけない?
繰り返すことになる可能性があったということです。
それは絶対ではありませんでした、。
良い信仰が、たもたれていればなかったことです。

何が言いたいのか?ですか?

カトリック、教皇制度ができました、、。
この制度でいつからか対立教皇が出現しました。
不信仰ゆえです。

それが治まったころ、宗教改革がはじまりました、
プロテスタントの出現です。
カトリックは残念なことに、堕落したのです、。

堕落していなかったら分裂や分派はない。

プロテスタントの出現については
イエス様の魚を取る聖句に書かれた行動で予見できました、。


カトリックは、、二つに分裂したのですね。
よく考えてください。
エリシャのあの寓話は一時の教訓話で終わりません。
歴史は繰り返す事があるのです。

聖書は単なる教訓の書ではないのです。
救いと摂理の書です。

といいますか、
すでにイスラエルが北と南に分裂した状態が、
現代のキリスト教において繰り返されているのです!!

現実が今です、今なのです!
継続中なのを自覚してください。

歴代の教皇の数がいくつになるとか?
については聖書は書いていません。

しかし不信仰なら、、
途絶える、、つまりは滅びる可能性があるということを
エリシャの寓話から悟っているべきです。

プロテスタントも同じです、信仰が腐敗し、
それがずっと続くとどうなるか? 

聖書はすでに、型を示していました。
不信仰を行えば、分裂、分派、最後は滅びる。

プロテスタントのクリスチャンの一部の人は、
自分達の解釈こそが真理で、他は間違いとか、
批判してますけど、。
謙遜のけの字もなく、他者排斥思考の、あなた方から
滅びていくことになるでしょう。

父さまの御心から一番遠いから、、。

聖書を理解するとは、なんなのでしょうか。
それは、他人事と思わず、
ひとりひとり自分自身の問題としてとらえておくことです。

42数の元はなんなのか?
42数は忍耐数と前にかいていました。
この元は、、21が元です、、。

これはヤコブが家を出て叔父ラバンの
ところで苦労した年です。
ヤコブは死ぬほどの苦労を21年間、
忍耐して成功を治めるのです。

分裂は、、21の2倍となった。。のです。
21足す21。

21数が7年と7年と7年、7足す7足す7、、
だったのは承知のことです。
自分の霊をくもらせないようにしておきましょう。

当時イスラエルの切迫し、常に隣国との緊張感のある
状況において預言者の役割は国の安泰のためにありました。

神様のみことばを預かる預言者は為政者にも民にも警告を発しています。

当時の人に、暗に、獣である熊とか獅子と言ったら、
だれでも敵国だとわかるのです。
平和に安住している現代人は なにもわからない、、。
心霊が鈍くなっています。

彼らは、、死んでいるのです。
 
生きてはいるが死んでいる。
霊と真実の祈りで神様に祈りたずねたなら、
神様の霊、、証しの霊が来て
教えるのです。

そうした霊が来ることをイエスさまは
既に約2000年も前に預言していました、。

ヨハネによる福音書/ 14章 16節
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 

ヨハネによる福音書/ 14章 17節
この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。
この霊があなたがたと共におり、これからも、
あなたがたの内にいるからである。 


著作権は、放棄しておりません。有ります。

引用する場合、連絡が必要です、、
などとは、言いませんが、^^
引用アドレスのみ記載してください。

それから、、教師または司祭で、この記事を
読んだ人は、何らかの既読のしるしを残してください。
聖書でしばしば、このような寓話的物語や象徴的な挿話が記録されています。

後年、読む人は何のことだかさっぱりわからないという事があります。
どうしてそのように聖書は記録された
のでしょうか?

それは、歴史上その時々の権力者が読むことを
想定しているからです。

時に権力者の益にならないことも預言者は
語らねばなりません、預言者の時代から進んで
近未来の権力者も読みます。

彼らは読むのです!

権力者は自分の都合の悪い記述があれば、、
聖書を焚書とするでしょう、焼き尽くし無いものと
するかもしれません。

それを防ぐため、寓話や象徴的記述の手法を
用いざるを得なかったのです。

おかげで、現代まで聖書は残っています。
或る程度、削除編纂はされてはいると思いますが、、。



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未来の神学、、、その3 「わたしの時、そしてバラバと十字架」

聖書の記録上でイエス様が仰った
「私の時」、、、と聖句が記録されたのは全部で4カ所あります。

①ヨハネによる福音書 / 2章 4節
イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

②マタイによる福音書 / 26章 18節
イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」

③ヨハネによる福音書 / 7章 6節
そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。

④ヨハネによる福音書 / 7章 8節
あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」

上の①の聖句と、、
下の3つの②〜④の聖句の「私の時」は、意味が違います。

①の聖句、ヨハネによる福音書 / 2章 4節は婚姻についての時のことでした。
②〜④の聖句は、十字架への道の時、のことです。

現在では、、
クリスチャンならイエス様のおっしゃった、
最後の私の時とは何だったのかは、、誰でもわかる事です。

それは言うまでもなく全人類の罪の贖いのため、
身代わりに十字架につく時のことでした。

それは今だから、、簡単に解るのですね。
救いが明らかになった今だからです。

しかし、今となっては、悲しむべきことなのですが、

本来はイエスさまの生きている時に、、イエス様の、、
その御言葉の意味が解るべきだったのです。

どうして、彼らはわからなかったのでしょうか??

それは、、メシアを望んで、、聖書を読んではいたけれど、
メシア来臨の言い伝えを、本気で信じていなかったからです。

当時、学者たちは、、
聖書の巻物がすり切れるくらい暗記するほど、何度も何度も読んでいました、
でもイエス様のことが、メシアだと、、誰もわからなかった。

それは、聖書を読んではいけれど、
本気で、、メシアが現れる、、と信じておらず、
心を留めて、、読んでいなかったからです。

イエス様のご降臨ですら、、他国の3賢人に、、
ユダヤの王となる御方が現れた、、と指摘されるまで、
わからなかった、。自国のメシアなのに、。

さて、、
イエス様の言われた、「私の時」とは元々の根拠があるのです。

イエス様の天来(てんらい)の身分は何ですか?
イエス様は、神様の御子であり、人としてお生まれになり、
この世の王の王であり大預言者であり、大祭司でした。

イエス様は、当時の聖書学者に聖書の意味を教えるくらい
聖書を熟知していました。
年若い時、まだ30歳くらい、でさえ、、
当時の学者たちが、、イエス様を先生とまで言っていたのです。

さて、旧約聖書の雲に関する聖句、、。
この聖句を、、覚えておきましょう。

レビ記 / 16章 2節
主はモーセに言われた。あなたの兄アロンに告げなさい。決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。わたしは贖いの座の上に、雲のうちに現れるからである


モーセの兄アロンは、神様の選びにより大祭司として任職されていました。
その大祭司でさえ決められた時以外は至聖所に入れなかったのです。
その決められた、、日時には神様は雲のうちに現れる、、と。

神様はここで、【決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。】
と、人に掟を与え、そして【その時がきたら神様が贖いの座の上に、雲のうちに現れる】という約束をしています。

つまりは、贖いの座に近づく時は、決まっており、
その時が来たら神様が雲の中に現れるという事です、、。

これはイエス様から約1200年前のモーセの時代に、、
神様が人に言い渡した掟と約束事でした。
その事をイエス様が知らないはずはないのですね。

だから、イエス様はいつ十字架に、かかっても良いわけではなかったのです。
定められた時でないと、神様の御子であるイエス様でも、大祭司として贖いの座には近づけないのです。

贖いの座とはなんでしょうか?

動物たち、、捧げられたものは、
神殿が造られたあとは神殿で祭司によって規定通りに、、
レビ記に書かれてあるようにささげられました。

モーセとアロンの時以来、贖いの座では何をしたのでしょうか?
それは年に一度だけ、大祭司のみが至聖所に入り、、、。

そこで、、イスラエルの罪を清めるために、
犠牲の雄牛と山羊の血を振りまいていたのです。(レビ記16章)

イエス様の時、イエス様御自身が、、
ついに私の時が来たと、おっしゃいました。
それは贖いの座に就くその日その時の事でした。
贖いの座に近づくのは、大祭司しかできないのでしたね。

イエス様の時代、真の神様が定めた大祭司はイエス様です。

神様が定めた根拠は
マルコによる福音書 / 9章 7節
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

ルカによる福音書 / 9章 35節
すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が
雲の中から聞こえた。


これだけでも十分な根拠ですが、。

イエス様の時ユダヤでの大祭司が、、、形式上ですが、、
存在していました。

マタイによる福音書 / 26章 3節
そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、

ルカによる福音書 / 3章 2節
アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。

アンナスとカイアファの二人大祭司がいたことが記録されています、この二人の関係。アンナスはカイァファの舅(しゅうと)でした。

ヨハネによる福音書 / 18章 13節
まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。


既に世俗的な大祭司であったのですが、、、
大祭司は大祭司の、王は王の権威を尊重すべきです、。

なぜならダビデの時、油そそぎを受け、
神様の霊が降ったあとでも、前の王サウルをダビデは尊重しました。

まだイエス様の時、大祭司の権威を持つ人はいた、、、、。

でも、、、イエス様の時、、
すなわち、イエス様が「私の時」とおっしゃった後、には、、
それらの形式上の世俗的大祭司の、、、その権威は、無になります。
この世の大祭司、は、大祭司がしてはならない罪を犯したのです。

マルコによる福音書 / 14章 63節
大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。

これは律法違反です。
この罪を犯した瞬間、この大祭司の権限は、、消滅しました。
大祭司は衣を引き裂いてはいけないのです。

レビ記 / 21章 10節
その兄弟のうち、頭に注ぎ油を注がれ、職に任ぜられて、その衣服をつけ、大祭司となった者は、その髪の毛を乱してはならない。またその衣服を裂いてはならない。

イエス様が贖いの座つまり十字架につく前に、この世の世俗的、
大祭司は居なくなったのです。

民衆はまだ大祭司と思ってはいましたけれども、。
でも、この世の大祭司が、、あの、、衣を裂いた瞬間から、、
イエス様しか、まことの大祭司は居ないのです。

イエス様のみが真の大祭司です。

ですから、イエス様しか贖いの座に行けないのです。
雲の約束がありました、。

神様はモーセとアロンに雲の約束をしていました。
レビ記 / 16章 2節で、贖いの座で死なないように、神様は雲の内に現れると。

イエス様の十字架の時、、神様の雲は現れたのでしょうか?

マタイによる福音書 / 27章 45節
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

マルコによる福音書 / 15章 33節
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
(他聖句ルカによる福音書 / 23章 44節)

暗いというのは、雲が有って太陽光をさえぎっていたという事です。
神様は雲のしるしで来ていたのです。

イエス様はおっしゃていましたね。
天候の話のことです。
神様が現れるときは、、天にしるしがあると、暗に言っていたのです。

あとお墓の中で脱ぎ捨てられた亜麻布のこと。
イエス様は葬られる時に亜麻布で包まれました、。
しかし、復活されたとき、、それを脱ぎ捨てていなくなりました。
なぜ一旦、亜麻布で包まれ、後に脱ぎ去ったのでしょうか?

マタイによる福音書 / 27章 59節
ヨセフはイエス様の遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、

マルコによる福音書 / 15章 46節
ヨセフは亜麻布を買い、イエス様を十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。

ルカによる福音書 / 23章 53節
遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。

ルカによる福音書 / 24章 12節
しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

それはイエス様が大祭司だったからで、、、
大祭司が至聖所で贖いの座での祭儀を終えて出たら亜麻布は脱ぐのです。
それはレビ記にある大祭司の作法に、のっとってのことです。

レビ記 / 16章 4節
彼は聖別した亜麻布の長い服を着け、その下に亜麻布のズボンをはいて肌を隠し、亜麻布の飾り帯を締め、頭に亜麻布のターバンを巻く。これらは聖なる衣服であり、彼は水で体を洗ってこれを着る。

レビ記 / 16章 23節
アロンは臨在の幕屋に戻り、至聖所に入るときに身に着けていた亜麻布の衣服を脱いでそこに置き、

イエス様はアロン以来の掟と作法どおりに行っていたのです。
イエス様の十字架の時、、ひとりの囚人バラバイエスが釈放されました。

マタイによる福音書 / 27章 15節〜17節
ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」

マタイによる福音書 / 27章 20節〜21節
しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエス様を死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
その後、イエス様の十字架の時二人の囚人が右と左に架けられていた。

マルコによる福音書 / 15章 27節
また、イエス様と一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。

マタイによる福音書 / 27章 38節
折から、イエス様と一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。

ルカによる福音書 / 23章 32節・33節
ほかにも、二人の犯罪人が、イエス様と一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエス様を十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
両端の犯罪人の内ひとりは十字架刑の後、楽園にいるとイエス様はおっしゃった。

ルカによる福音書 / 23章 39節〜43節
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

このイエス様の十字架の場面、読むだけでも胸が痛みます。

バラバはその時のユダヤの審判での慣習によって釈放されました、、。
この出来事には、別の意味がありました。

罪なきキリスト・イエス様が釈放とならず、、
罪人バラバがその時居て釈放された意味、、。
そして、イエス様の両端に、、
それぞれ囚人がイエス様と共に十字架に架けられていた意味。

バラバと別の罪人ふたりが、真の大祭司イエス様の贖いの座である十字架と共に居た事。ただの偶然でしょうかね?
イエス様は私の時が来たと言われ、、十字架に付かれました。

私はかねがね、十字架は救いの次善の策だったとは主張していますが、
時が備えられたのなら、、それが次善であっても完全勝利である、。
それは確実な事でした、、。

さて、時が備えられたと書きました、、。
備えられたのなら、、何かの意志が働いていたはずです。
この場合の意思とは摂理であり、人の自由意志も加味された神様の救いの摂理を意味します。

イエス様の「私の時」に偶然はありえないからです。
時が備えられたのなら、そして上で書いていますが、祭儀にのっとっていたのですから、、またイエス様はご自身が律法の成就者でもあります、から、、
十字架でも祭儀どおりだったのです。

バラバの釈放もと、他にふたりの囚人がいたこと、、
その場面に彼らがいた事も備えられた事、それが、、私の時です。

どうして慣習だったとはいえバラバ・イエスという、、
本来、刑を受けるはずの人間が、その日、その時に、そこにいたのか?

それに別の罪人 、二人も、その日、その時にいたのか?
更にいうなら、その罪人のうちの一人は楽園に居る事になるのか?
楽園にいるとは神さまが取るということです、。

そういう、、いわば劇に例えるならキャスティング(配役設定)のような事がイエスさまの時にどうして有ったのか?です。

イエス様は王の王であり大預言者であり、大祭司です。
大祭司は律法の規定を守ります、守らないと死ですから。
イエス様は死んだけれど生きました。

さぁ、何でしょうか?
イエス様は十字架で人の罪の贖いを、御自身の身体と霊を捧げて行いました。

レビ記の規定は以下です。
レビ記 / 16章 2節
主はモーセに言われた。あなたの兄アロンに告げなさい。
決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。

わたしは贖いの座の上に、雲のうちに現れるからである。
アロンが至聖所に入るときは次のようにしなさい。
まず、贖罪の献げ物として若い雄牛一頭、焼き尽くす献げ物として雄羊一匹を用意する。

彼は聖別した亜麻布の長い服を着け、その下に亜麻布のズボンをはいて肌を隠し、亜麻布の飾り帯を締め、頭に亜麻布のターバンを巻く。これらは聖なる衣服であり、彼は水で体を洗ってこれを着る。

次に、イスラエルの人々の共同体から贖罪の献げ物として雄山羊二匹、焼き尽くす献げ物として雄羊一匹を受け取る。アロンは、自分の贖罪の献げ物のために雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行う。次いで、雄山羊二匹を受け取り、臨在の幕屋の入り口の主の御前に引いて来る。

アロンは二匹の雄山羊についてくじを引き、一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決める。アロンはくじで主のものに決まった雄山羊を贖罪の献げ物に用いる。くじでアザゼルのものに決まった雄山羊は、生きたまま主の御前に留めておき、贖いの儀式を行い、荒れ野のアザゼルのもとへ追いやるためのものとする。

アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。

至聖所での儀式では大祭司の他に上記のような動物たちが必要でした。

生贄の動物たちは人の象徴だったのです。
本来は罪を犯した人自身が贖わねばなりませんが、神様は憐みによって動物他などで善しとしてくれていたのです。

イエス様の時は、罪の重大さゆえ、人になってしまいました。
アブラハムの動物の献祭儀式でアブラハムは鳥を裂かなかったため動物と言う人の身代わりの儀式を失敗したため我が子イサクを捧げる事になったように、、。

バラバは釈放されました、、。
雄山羊二匹、、山羊の1匹は屠殺されず活かしたままアザゼルの所に、とき放されました。
バラバは、、荒れ野のアザゼルの所にとき放されたサタン側の捧げ物、。

もう1匹の山羊は神様が取る捧げ物となった、。
これは神様側のものになる捧げ物です。

十字架の罪人の一人について、、
イエス様は私と一緒に楽園に居るであろうと言われました。
楽園に居る、とは、神様のものとなるという意味です、。

焼き尽くす献げ物として、、雄羊一匹、、
雄羊はイエス様の象徴ですね?
これはすぐわかるでしょう?
イエス様は、、祭儀を行う大祭司でありながら、供えものにもなられた。

若い雄牛一頭、この雄牛はこの場合、
大祭司自身の贖罪のためであるけれど、、、
イエス様は無垢なる御方なので、御自分のための贖罪は必要ないのです。
だから、、それに対応する人物はここでは不必要だった。

つまり、大祭司の祭儀に見事に対応したキャスト、、といってはいけませんが、実際そうなっていた。
逆に言いますならそうなっていなければ、、
イエス様の「私の時」ではなかったのです。 

ここの所はうまい言葉が見つからないです、
実際そうなったのですから、血が流れたのですから残酷ではあります。

それを回避するため、、できる限り血を流さないで済むように、
イエス様は、、最後まで切実に努力はしました、。

3人の弟子を連れてのゲッセマネの祈りの事です。

ゲッセマネの園に三人の弟子を連れて行きましたね。
それは祈りをイエス様と眠らずにいて共にすればよかっただけなのです、。
必死で祈ればよかった、、でも弟子三人は、できなかった、、。

そのため、神様に捧げるはずの祈りを、
悪魔にそれ、、つまり一種の儀式、祭儀だったこと、を奪い取られることになった。
三弟子は十字架の道の三人の罪人に、対応しており、
それらはレビ記既定の三頭の動物に対応(相当)していたのです。

大祭司の贖罪の分の若い雄牛一頭を抜かした、雄山羊二頭、雄羊一頭、。
この場合も、イエス様は清い御方なので大祭司の贖罪の分は不要でした。

イエス様と
心を合わせて、共に寝ないくらいに必死に祈ることで、
その真摯な祈りを、血を流すことの代わりに出来ていたのでした、。

なぜイエス様は三人の弟子のみを、
ともなって(連れて)園へ行って祈ったか?が理解できたでしょう。。

でも、弟子が起きていられず、サタンの誘惑に負け、神様に捧げるべき時間が、サタンのものに奪われ、それが失敗したので、、血を流さざるを得なくなったのでした。

動物の身代わりとなった三人の弟子が失敗したため、、、
動物以上の捧げ物が必要となり、、
イエス様も、、自分自身を投げ出す事に、、なった、。

そして本当の、
この世的な罪人バラバ・イエスと二人の囚人が、
レビ記の動物の生贄の代わりに、、準備されました。
重要な事柄であればあるほど、それに失敗すれば、大きな代償で償うのです。
それは聖書のいたるところに書かれている原則でした。

私の時・・・・であっても、
大祭司の身分になっていないと贖いの場の主人にはなれません。
既定の条件がととのっていないと、
その時がきても使命は果たせないのです、。
それは、イエス様でも例外ではありません。

この世の原則を作ったのは神様であるので、神様の子イエス様もこの原則を守るのです、。イエス様の贖いの座は、十字架でした。
この世の大祭司がその地位がら落ちたのち、イエスさまは贖いの座、、十字架へ付きました。

大祭司の身分に立って、悲しくもつらいけれど、、自らを捧げものとして、。


今、イエス様が、目の前に来られたら、どうしますか?
泣いて泣いて、足元にすがって、、
涙でその姿さえ見えないくらい、泣き、、そして再会の喜びを爆発させる、、人が何人がいるでしょうか、。
私なら、、そうします、。そうせざるを得ません、。

もしかしたら、、数えれる程度、、数人しかいないのかもしれない、、。
はっきり言います。
これを読み、理解できた人は、幸いです。

必死で何十年も聖書を読み、、何千回も、考え、読んでも過去の
神学者はわからなかった、知ろうとしてもわからなかった。
これは、、天の秘密のひとつ、、。

マグダラのマリア



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未来の神学、、その2
「エバ・・すべて命あるものの母」

創世記 3章 20節
アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。


エバは、、蛇に喩えられた悪魔によって 罪の人になったけれど、神さまの創造の当初の計画通り、すべて命あるものの母となった。

しかし、それによってエバより生まれ、その子孫より生まれ継いできた人類は罪(原罪)を負って生まれてきた。
エバは、罪を持つ偽りの生命の母の立場に堕ちてしまった。

初めはエバは、無垢な生命を持つ女性であり、無垢な生命を生み出すことが出来る筈であったのに、。

本当の生命の母とはいったいどういう人なのだろうか?
イエスさまは、、明確におっしゃっていた。

マタイによる福音書/ 12章 50節
だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」


天の父とは、天地創造の神様の事であり、、
神様の御心に従う、、とは神様の御命令や教えに従い守ること、
他に、してはならないと言われた戒めを守ることも、、含んでいます、。

神様から与えられたご命令や戒めを守り行う人が、イエス様の母であり家族なのです、。

エバはそれができなかった、。
たったひとつの戒め、知恵の木の実に触れても食べてもいけない、。
これ、、たった一つだったのに、、。

神さまの本当の計画とは、罪なきままの世界を造ることでした。

ノアの時、神様に従うノアとノアの家族以外のすべてを清算して、
新しい世界を造ろうとした、、。

しかし、それも人側の間違い、背きにより出来なかった。
ハムが、葡萄酒に強い睡眠作用のある眠り薬を沢山入れて、、
父親のノアに飲ませて、ノアを殺そうとしたから、。
親子愛が、達成できなくて、、摂理は、またやり直しになった、。

関連記事  ノアが裸でいたこと

このノアとノアの子ハムとの、、親子関係での信頼がなかったために失敗した事の償いは、、ノアから10代めのアブラハムが神様に信仰をみせなければならなくなりました。

アブラハムの求められた捧げものの意味は、。
三歳の雌牛と、三歳の雌山羊はエバの二つの罪をあがなうために捧げられた物(雌です、エバは女性ですから)

エバは2回、罪を犯したので2頭で贖うこととなりました、。
蛇、つまり悪魔の誘惑に負けて離反の罪を犯した事とアダムにも食べるよう誘惑したことの2つの罪。

次の三歳の雄羊(雄です、アダムは男性、イエス様は捧げ物の羊にも例えられ、第2のアダムとも呼ばれます)はアダムの罪の償いのため。

山鳩と、鳩の雛は、カインが山鳩、アベルは鳩の雛。

関連記事
アブラハムのイサク奉献は、なぜしないといけなくなったか

全部、、聖書で起きた出来事は、理由や意味がつながっていて、起きなくて良買ったことは一つもないです、。ノアの時の失敗が、アブラハムにまで続いていたのです、。

さて、、イエス様は第2のアダムです。
最初のアダムは、罪を犯して堕ちました。

だから、、堕ちる前のアダムとしてイエス様は来られました。

聖霊という神霊があります、。
聖霊は女性的な性質があり、受胎に関与していました。

マタイによる福音書/ 01章 18節
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

洗礼によって、新生するときも、、聖霊が関与する。

マタイによる福音書/ 03章 11節
・・・・・・・・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

聖霊と、、火(御言葉)により新しく生まれる。

聖霊は、、人の生死にさえ関与する。
ルカによる福音書/ 02章 26節
そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。

他に同じ趣旨の聖句、。

ルカによる福音書/ 12章 10節
人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。

申命記/ 5章 16節
あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。

マルコによる福音書/ 7章 10節
モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている

こういうことで、聖霊は母としての性質をも持っている。

イエス様が、第2のアダムであるなら、第2のエバが存在しても
おかしくない。

私個人では、、マグダラのマリアが、、そうであると思っていますが、。
色々諸説、ございますので、、、皆さまも、ご自分で色々お考えください。

ただ、結果的にはイエス様は妻は持たなかった、。
持てなかったと言っておきます。
第2のエバ、、すべての命あるものの真の生命の母となるはずだった女性の事は、、。

物質的肉体をもたない聖霊は、その性質と
すべての権能を分け与えるはずの女性(エバ)をサタンに奪われて失った。
イエス様も、、サタンに邪魔されて、人の不信仰により婚姻できず、第二のエバとなるべき女性を妻と出来なかった。

だから、
三位一体は父と子と聖霊ということにしか理解できなくなっている。

本来は、、アダムの対なるものがエバであるのだから、、

父、アダム、エバ、、だったように、。
父、第二のアダムとして生まれ、実体となられた御子イエス様、御子イエス様の妻となる女性(無垢な生命の
)になるはずでした、。

御父、御子、聖霊、、この一度確立された神学を変えることは、困難ですが、
理の通ったことであるなら、いつか変わるでしょう。


位格について。
当初、、この三位一体の位格=ペルソナという語句は異端と認定された
サベリウス主義者が最初に使った語句でした。
しかし、なぜか、それを現代正統と称す神学が使用しています。

たぶん、意味が解らない人が多いかもしれませんので、、
父、、御子、聖霊のそれぞれの一つの位格を、教会は最初から神は唯一であると同時に、父と子と聖霊をそれぞれ神位として信じたのです(聖パウロ、ペトロ、ヨハネの手紙などを参照のこと)。

しかし、単純思考するなら、
父が神、子が神、聖霊が神ならば、神様が御三方おられることになるわけで、唯一の神様は??あらら???になるんですよね、。

で、神学者たちは「ペルソナ」という概念を使いました。
「ペルソナ」とは、もともとギリシアの演劇で使った「お面」のことです、。
中身が同じ役者さんでも、お面を替えて、服も替えたら、違う役をするように、表面(呼び名)が違っていても、本質(神性聖性)は同じ一つである、、という考えです、。

聖霊は、、
母でありとなり、、妻となり、、、、
無垢な生命の母エバと一体化し、実体となるはずでした、。
人が原罪を犯したこと、、また、イエス様に不信し背いたことにより、、
聖霊は、、無垢な生命の母となる機会を、、2度も失ったのでした、。

マグダラのマリア

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