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全国各地の焼き物

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壺屋焼

壺屋焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋地区及び読谷村その他で焼かれる陶器。
[編集]歴史

琉球王朝時代
琉球王朝は古くから交易が盛んで、東南アジア方面との交流が活発だった。そのとき、流入してきたのが南蛮焼と呼ばれる焼き締め陶器であり、琉球では主に酒器などを自足するため技術を学び、自国で焼き始めたといわれる。
しかし、1609年に薩摩の島津藩が琉球に侵攻、薩摩藩に占領されるとともに、交易でも様々な制約を受ける羽目になった。そこで、17世紀に琉球王朝の尚貞王が産業振興目的で、地方に分散していた幾つもの窯場を市街の一角に固め、ヤチムンと呼ばれる焼き物街を作った。これが壺屋焼の草創である。そして薩摩で技術指導していた朝鮮陶工らを招き、焼き物の発展指導を促した。1671年には平田典通を中国に派遣、赤絵の技術を学ばせた。こうして壺屋焼は琉球随一の窯場として国内消費は勿論、外国との交易に一役買ったのである。なお、壺屋はヤチムンをそのまま日本語に訳した地名であり、沖縄が日本に支配された時名付けられた地名である。
明治〜昭和初期
明治に入ると壺屋焼は危機を迎える。本土、特に有田から安価な焼き物が大量に流入することになったからである。だが、そこに民芸運動の第一人者であった柳宗悦、浜田庄司らが来訪し、郷土の陶工、後に県下初の人間国宝にもなった金城次郎や新垣栄三郎らを指導し、技術を研磨させた。また、美を追究した民芸陶器として壺屋焼を東京や京阪神などに情報発信したことにより、壺屋焼は人気を仰ぎ、廃絶を免れた。今日、壺屋焼があるのはこの民芸運動家らに因るところが大きい。彼らは「用の美」と呼ばれる実用性と芸術性を兼ねた日用雑器に光を照らした者たちであるが、とりわけこの壺屋焼には、本土にない鮮やかな彩色が目を惹く。民芸運動家らは庶民の日用品でこれほどまで装飾性を兼ね揃えたものは珍しいと強調した。
戦後
壺屋地区は幸い、大戦で沖縄全土が焦土と化す中、比較的軽微な被害で澄んだ。再興に従って、壺屋焼も徐々に勢いを取り戻す。しかし、窯は市街地に集中しているため、今度は薪窯による煙害が深刻な問題となった。後に市は公害対策のため薪による窯使用を禁止、窯場はガス窯への転換を余儀なくされ、伝統的な技法を失った壺屋焼は岐路に立たされた。
折しも、基地返還による広大な土地転用を模索していた読谷村が窯元の積極的な誘致を行っていた。読谷村は元々、ミンサー、花織など文化が根付いた地で、文化奨励に積極的だったこともあり、加えて読谷周辺は原料となる良質の陶土が豊富であった。そして薪窯の設置にも柔軟に対応したことで金城次郎初め、多くの陶芸家たちが壺屋を離れ、読谷村に集まり、陶芸村を作ったのである。これが読谷村が第二の壺屋焼の故郷と呼ばれる所以で、現在も40ほどの窯元が集まっており、「読谷やちむんの里」として観光ルートにもなっている。また、読谷で作られた壺屋焼を読谷壺屋焼と呼んでいる。抑も、壺屋焼のルーツを辿る窯元のいくつかは、元々読谷の地にあったこともいわれ、300年ぶりに故郷に回帰した、と考えることもできる。今日では壺屋地区と読谷村以外にも窯元が分散しており、およそ100ほどの窯元がある。
[編集]作品の特徴

壺屋焼は大きく分けて「荒焼」と呼ばれる南蛮焼の系統を汲むものと「上焼」と呼ばれる朝鮮系の絵付がある。
荒焼(アラヤチ)
14世紀〜16世紀頃、ベトナム方面から伝わった焼き物。釉薬を掛けずに、1000度の温度で焼き締める。鉄分を含んだ陶土の風合いをそのまま生かしたもので、かなり見た目は荒っぽい。当初は水や酒を貯蔵する甕が中心であったが、近年は日用食器も多く焼かれる。また、魔除けで知られるシーサーもこの荒焼の一種である。
上焼(ジョウヤチ)
17世紀に入ってから、国の殖産のため薩摩から朝鮮陶工を呼び寄せ焼かせた絵付陶器。陶土に白土をかぶせて化粧し、それから色彩鮮やかな絵付や彫刻紋様を施し、釉薬を掛けて焼成したもの。用途は抱瓶(携帯用の酒器)、カラカラ(沖縄独特の注ぎ口のついた酒器)、茶碗、皿、鉢など日用品が焼かれた。前述の荒焼に対して装飾性が強いが、決して上流階級だけの代物でもなく、庶民向けの民芸品だった所に民芸運動家らは驚き、絶賛したという。
カテゴリ: 伝統的工芸品 (経済産業大臣指定品) | 日本の陶芸 | 沖縄県の文化 | 那覇市

薩摩焼

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絢爛豪華な薩摩焼は観る人を魅了します。欧米諸国の人たちが魅了される色彩感覚だと思います。
歴史も古く、今も世界中から愛される伝統工芸だと思います。

現代調の洋食器などにも幅広く利用されそうです。技術も進化し、saSATSUMAが世界に轟いているのも、これらの素晴しい作品から伺えます。

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薩摩焼は、文禄・慶長の役の頃、当時の藩主島津氏が朝鮮から連れ帰った李朝の陶工たちによってはじめられました。以来400年以上に及ぶ長い歴史の中で、薩摩焼は鹿児島の豊かな風土に育まれるとともに、陶工たちの弛まぬ努力によって独自の発展をとげ、堅野系、龍門司系、苗代川系という異なる作風の系統を生みだし今に伝えています。1867年(慶応3年)には、島津藩が単独で出品したパリ万博において、薩摩焼はヨーロッパの人々を魅了し、世界に「SATSUMA」の名を轟かせました。
現在では県内全域に窯元が存在し、さまざまな技法を凝らした作品を製造しています。
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薩摩焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

薩摩焼(さつまやき)は、鹿児島県内で焼かれる陶磁器で、竪野系、龍門司系、苗代川系がある。主な窯場は加治木町の龍門司窯、日置市(旧東市来町)の苗代川窯、鹿児島市の長太郎窯など。「白もん」と呼ばれる豪華絢爛な色絵錦手の磁器と「黒もん」と呼ばれる大衆向けの雑器に分かれる。豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に、捕虜として連行されてきた朝鮮人陶工たちが、島津義弘の保護の下に発展させた。1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会に初出展され、欧米で流行したジャポニズム(日本趣味)に影響を与えた。2002年(平成14年)1月に国の伝統的工芸品に指定された。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@朝鮮出兵と薩摩焼

豊臣秀吉の起こした文禄・慶長の役に,島津氏は義弘を総大将とし1万の兵を送った。足かけ7年に及んだこの戦いは,朝鮮の名将李舜臣や明将李如松等に苦戦を強いられた。
とくに全軍引きあげの時に戦われた泗川の戦いは熾烈を極めたといわれている。
義弘は,帰国に際して多くの朝鮮陶工を薩摩に連行し各地に窯を開かせた。
薩摩焼と呼ばれる鹿児島の伝統陶芸は彼らの手によって作り上げられたものである。

有田焼

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焼き物の王道と言えば、有田焼、伊万里というのが、真っ先に浮かびます。
全国趣のある焼き物探訪をしましたが、有田焼は上品で、技巧的にも素晴しく、多岐に渡る技術様式があります。

素朴で無骨な味わいの焼き物ももちろん、素晴しいのですが、上品で繊細な味わいは、やはり有田焼は格別だと思います。

海外の陶芸品と負けず劣らず、むしろ技巧によっては、また絵の繊細さでは、日本の焼き物の方が、数段に素晴しいといえるでしょう。

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有田焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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18世紀に作られたと見られる有田焼(伊万里焼)
18世紀に作られたと見られる有田焼(伊万里焼)

有田焼(ありたやき)は、「伊万里(いまり)」とも呼ばれる佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器である。伊万里の名称は、有田焼積み出しの際、伊万里港からなされていたことによる。泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などに大別される。また、これらとは別系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり藩窯で鍋島藩のものを「鍋島様式」、天皇家に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいる。江戸時代後期に各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたって磁器の生産を続けていた。1977年(昭和52年)10月14日に経済産業大臣指定伝統工芸品に指定。

九州旅客鉄道(JR九州)佐世保線有田駅-上有田駅間の沿線から煙突の立ち並ぶ風景がみられる。


[編集] 「有田焼」と「伊万里焼」

有田、三川内、波佐見(長崎県)などで焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里」と呼ばれていた。現代でも、美術史方面では「伊万里」の呼称が多く使われている。また英語での呼称も "Imari" が一般的である。「有田焼」と「伊万里焼」とはほぼ同義と考えられるが、「有田焼」は佐賀県有田町で生産される磁器を指し、「伊万里焼」はやや範囲を広げて肥前磁器全般を指すという考え方もある。


[編集] 磁器生産の開始

肥前磁器の焼造は17世紀初頭から始まった。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多くの藩が陶工を日本へと連れ帰った。肥前国鍋島藩主・鍋島直茂が連れ帰った、その中の一人が李参平(りさんぺい、イ・サムピョン、一説には韓国の忠清南道金江出身)である。彼は1616年(元和2年)(1604年説あり)に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いた有田焼の祖と言われていた。

李参平は日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている実在の人物である。広く信じられているように日本で最初に磁器を焼いたかどうかまでは別としても、肥前磁器の発展に大いに貢献したことは確かであり、有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社もある。

近年の学術調査の進展によって、有田東部の天狗谷窯の開窯よりも早い1610年代前半から、西部の天神森、小溝窯で磁器製造が始まっていたことが明かになっている。 この頃の有田では当時日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器(藍九谷)を作っていた。「染付」は中国の「青花」と同義で、白地に藍色一色で図柄を表わした磁器である。磁器の生地にコバルト系の絵具である「呉須」(焼成後は藍色に発色する)で図柄を描き、釉薬を掛けて焼造する。 当時の有田では窯の中で生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じ砂を用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うことから焼成技術は朝鮮系のものとされる。一方で17世紀の朝鮮では白磁しか製造されておらず色絵の技法がなかったため、絵具の知識は中国人に学んだと考えられる。

1637年(寛永14年)に鍋島藩が伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し現在の皿山を形作った。この頃までの有田焼を骨董界ではしばしば初期伊万里と称する。陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ3対1の、いわゆる三分の一高台が多いことが特徴である。

[編集] 色絵磁器の登場・発展

その後1640年代に中国人によって技術革新が行われ、1次焼成の後に上絵付けを行なう色絵磁器が生産されるようになった。伝世品の「古九谷様式」と呼ばれる青・黄・緑などを基調とした作品群は、この時期の有田で焼かれた初期色絵がほとんどを占める事が近年の調査でわかっている。ただし従来言われていた加賀国(石川県南部)での生産も、1650年代から20年間程ごく小規模に行なわれていた(この産地問題については、別項「九谷焼」を参照)。なお、ほぼ同時期には有田の技術を基に備後福山藩で姫谷焼の磁器が20年間ほど生産されていた。

17世紀後半に生産が始まったいわゆる柿右衛門様式の磁器は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたものである。この種の磁器は初代酒井田柿右衛門が発明したものとされているが、窯跡の発掘調査の結果によれば、この種の磁器は柿右衛門窯だけでなく、有田のあちこちの窯で焼かれたことがわかっており、様式の差は生産地の違いではなく、製造時期の違いであることがわかっている。17世紀後半には、技術の進歩により純白に近い生地が作れるようになり、余白を生かした柿右衛門様式の磁器は輸出用の最高級品として製造された。

17世紀末頃からは、金彩をまじえた豪華絢爛な「金襴手」も製造されるようになった。有田の金襴手は中国明代後期の嘉靖・萬暦期の金襴手をモデルにしている関係から、皿底の銘に「大明嘉靖年製」「大明萬暦年製」とあるものが多いが、これは中国製のイミテーションを試みたとするより、デザインの一部として取り入れたものであると考えられている。

また、17世紀末頃から波佐見を中心に、焼きの歩掛かりをよくするための厚手の素地にコストを安く上げるために簡略化された同じ紋様を描き込んだ碗類を大量に生産した。安価で流通したこれらの碗は、当時出現して人気を得た屋台でも食器として使用された。当時の屋台が「喰らわんか」と客引きをしていたことから、波佐見窯で焼かれた安価な庶民向けの磁器を「くらわんか碗」と呼ぶ。

一方、「鍋島焼」は日本国内向けに、幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみをもっぱら焼いていた藩窯である。鍋島藩の藩命を懸けた贈答品であるだけに、採算を度外視し、最高の職人の最高の作品しか出回っていないが、時代を下るにつれて質はやや下がる。作品の大部分は木杯形の皿で、日本風の図柄が完璧な技法で描かれている。高台外部に櫛高台と呼ばれる縦縞があるのが特徴。開始の時期は定かでないが、延宝年間(1673年頃)には大川内山(伊万里市南部)に藩窯が築かれている。

当初、日本唯一の磁器生産地であったこれらの窯には、鍋島藩が皿役所と呼ばれた役所を設置し、職人の保護、育成にあたった。生産された磁器は藩が専売制により全て買い取り、職人の生活は保障されていたが、技術が外部に漏れることを怖れた藩により完全に外界から隔離され、職人は一生外部出ることはなく、外部から人が入ることも極めて希であるという極めて閉鎖的な社会が形成された。しかし、磁器生産は全国窯業地の憧れであり、ついに1806年に瀬戸の陶工加藤民吉が潜入に成功し、技術が漏洩する。以降、瀬戸でも磁器生産が開始され、東日本の市場を徐々に奪われていく。江戸末期には全国の地方窯でも瀬戸から得た技術により磁器の生産が広まっていく。しかし、日本の磁器生産トップブランドとしての有田の名は現在に至るまで色褪せていない。また、江戸時代の有田焼を一般的に古伊万里と称する。

[編集] 海外への輸出

磁器生産の先進国であった中国では明から清への交替期の1656年に海禁令が出され、磁器の輸出が停止した。このような情勢を背景に日本製の磁器が注目され、1647年には中国商人によってカンボジアに伊万里磁器が輸出され、1650年には初めてオランダ東インド会社が伊万里焼(有田焼)を購入し、ハノイに納めた。これによって品質水準が確認され、1659年(万治2年)より大量に中東やヨーロッパへ輸出されるようになった。これら輸出品の中には、オランダ東インド会社の略号VOCをそのままデザイン化したもの、17世紀末ヨーロッパで普及・流行が始まった茶、コーヒー、チョコレートのためのセット物までもあった。

こうして17世紀後半から18世紀初頭にかけて最盛期を迎えた有田の磁器生産であるが、1684年の展海令などで景徳鎮窯の生産・輸出が再開され軌道に乗るにつれて厳しい価格競争に晒されることとなる。また、江戸幕府が1715年に海舶互市新例を制定し貿易の総量規制を行なった事から、重量・体積の大きい陶磁器は交易品として魅力を失う。最終的には1757年にオランダ東インド会社に対する輸出は停止され、以降は日本国内向けの量産品に生産の主力をおくこととなる。今日の我々が骨董品店などで多く目にするのは、こうした18世紀の生産品であることが多い。

(伊万里)

* 色絵花鳥文八角大壷(出光美術館)
* 色絵花鳥文八角大壷(サントリー美術館)
* 色絵五艘船図大平鉢(サントリー美術館)
* 染付花卉文徳利(箱根美術館)
* 染付山水図大鉢(大和文華館)
* 色絵花卉(かき)文輪花鉢(広島県立美術館)
* 染付山水図輪花大鉢(佐賀県立九州陶磁文化館)

(鍋島)

* 色絵藤棚文大皿(九州国立博物館)
* 色絵岩牡丹文大皿(栗田美術館)
* 染付松樹文三脚皿(サントリー美術館)
* 色絵芙蓉菊文皿(サンリツ服部美術館)
* 色絵桃文大皿(MOA美術館)
* 染付白鷺図三脚皿(佐賀県立九州陶磁文化館)
* 色絵松竹梅文瓶子(個人蔵)

[編集] その他

* 色絵狛犬(佐賀県重要文化財)17世紀後半
* 染付有田皿山職人尽し絵図大皿(佐賀県重要文化財)19世紀

[編集] 雑記

* 佐賀県有田町とドイツ連邦共和国のマイセン市は陶磁器の町のつながりから姉妹都市である。

[編集] 関連項目

* エコポーセリン

陶磁器を作る際に出る廃棄物(規格外品や陶石から陶土を作る際に出る滓など)を配合し製造した陶磁器。

* 有田陶器市

毎年ゴールデンウィークごろに佐賀県有田町で開かれる焼き物の市。値段の高い一級品に比べて格段に値段が安い陶磁器が大量に販売される。同時に多くのイベントも催される。

* 有田陶磁美術館

有田町にある町立美術館。

* 佐賀県立九州陶磁文化館

有田町にある県立の陶磁器博物館。コレクションは全国有数。

* 碗琴

有田焼が使われている楽器。

* 唐津焼
* 姫谷焼
* 瀬戸焼

唐津焼

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多種多様な唐津焼は、素人が取っ付き易い焼き物に感じます。
絵唐津は味わい深いし、親近感が湧きます。
二色に焼き色が分断される物等は、色の調和が食べ物を引き立たせます。上品な焼き物だと思いました。

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唐津焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
唐津焼(からつやき)は佐賀県唐津市で焼かれる陶器。古くから一楽二萩三唐津として茶器として名高い。分派の武雄古唐津焼と共に、日本の伝統的工芸品に指定されている。


唐津は古くから対外交易拠点であったため、安土桃山時代から陶器の技術が伝えられていたといわれ、現在も佐賀県の岸岳諸窯など至る所に窯場跡が点在する。唐津焼の名称は、唐津焼積み出しの際、唐津港からなされていたことによる。だが、唐津焼が本格的に始まったのは、文禄・慶長の役の頃からといわれ、この時に朝鮮から大量に連行してきた陶工らが技術を伝えたのが契機である。彼らは藩の保護の下、技術を研鑽、スタイルを確立させた。草創期は食器や甕など日用雑器が中心であったが、この頃になると唐津焼の特徴であった質朴さと侘びの精神が相俟って茶の湯道具、皿、鉢、向付(むこうづけ)などが好まれるようになった。また、唐津の焼き物は京都、大坂などに販路を拡げたため、西日本では一般に「からつもの」と言えば、焼き物のことを指すまでになった。とりわけ桃山時代には茶の湯の名品として知られ、一井戸二楽三唐津(又は一楽二萩三唐津)などと格付けされた。
だが江戸時代に入って窯場が林立したために、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となった。それ故に鍋島藩は藩内の窯場の整理、統合を断行、それによって窯場は有田に集約されたため、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊された。しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続した。その間の焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津と呼ばれる。 
明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭もあって、多くの窯元が廃窯となった。だが後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興に成功させた。現在は約50の窯元があり、伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みたりと、時代の移り変わりの中で、着実な歩みを遂げている。
[編集]唐津焼の特徴

唐津焼の特徴は李氏朝鮮(一説に、華南)から伝わったとされる伝統的な技法が今に根付いているところである。特に蹴轆轤、叩き作りといった技法は古唐津から伝わる技法で、現在もこの製法を行っている窯がある。窯は連房式登り窯という大がかりな窯を用い、そこで1300度の高温で一気に焼き締める。意匠は茶器として名声を馳せただけあって、非常に素朴で、それでいながら独特の渋みがある。
[編集]唐津焼の種類

唐津焼は時代によって様々な焼き物が焼かれた。大きく分けて次のようなものがある。
絵唐津
器に鬼板と呼ばれる鉄溶液を使って花鳥、草木といった意匠を描き込んで、灰色釉など透明な釉薬を流し込み、焼成したもの。土色の器肌と単純でありながら伸びやかな意匠が相俟って、独特のわびしさを生み出す。
朝鮮唐津
李氏朝鮮の陶工から伝わった伝統的なスタイル。黒色を付ける鉄釉を上から流し、白色を付ける藁灰釉を下から掛けたもので、二つを交わらせて風景を表すもの。上下逆の物もある。
斑唐津
長石に藁灰を混ぜて焼成する事で粘土に含まれる鉄分が青や黒などの斑になったもの。独特のざんぐりとした風合いは茶器に好まれる。
三島唐津
朝鮮の陶器、三島手の技法を受け継ぎ、日本風にアレンジしたもの。象嵌の一種で、器が生乾きのうちに雲鶴や印花紋などの紋様を施し、化粧土を塗って、仕上げ作業を施し、その上に長石釉、木炭釉を掛けて焼成したもの。
粉引(こびき)唐津
褐色の粘土を使用、生乾きのうちに化粧土を全面に掛け、乾燥させた後に釉薬を掛けたもの。
奥高麗(おくごうらい)
高麗茶碗の井戸、呉器、熊川風の造形の茶碗で、通常、無地である。和物茶碗として極めて評価が高い。
瀬戸唐津
青唐津
黄唐津
彫唐津
刷毛目唐津
櫛目唐津
蛇蝎(じゃかつ)唐津
二彩唐津
など

丹波焼

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此の焼き物も、今回調べてみて初めて知りました。全国至る所に窯元が有りますが、陶芸家によって、又土や、釉薬によって、出来上がりが異なります。

日本の焼き物は、素朴な味わいと品があります。侘び、寂びの極地を焼き物に見いだすような思いです。
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丹波立杭焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(丹波焼 から転送)


丹波立杭焼登り窯
丹波立杭焼(たんばたちくいやき)は兵庫県篠山市今田町付近で焼かれる陶器、?堯器。主に生活雑器を焼いてきた。丹波焼、または立杭焼ともいう。起源は平安時代にまで遡るといわれ、信楽焼、備前焼、瀬戸焼、常滑焼、越前焼と並び六古窯の一つに数えられる。
目次 [非表示]
1 概要
2 陶器まつり
3 周辺観光
4 関連項目
5 外部リンク
[編集]概要

平安時代末期から鎌倉時代が発祥といわれ、登り窯により最高温度約1300度で50〜70時間も焼かれるため器の上に降りかかった松の薪の灰が、釉薬と化合して窯変、「灰被り」と呼ばれる独特な模様と色が現出し、また炎の当たり方によって一品づつ異なった表情を生み出すのが丹波立杭焼の最大の特徴である。ただし、高級品は登り窯によって作られるが、廉価の多くの陶器はたいていはガス窯で焼かれたものであり、見た目も品質も全く別物である。


登り窯全体像
中世には轆轤を用いない紐作りという手法で形を整え、窖窯と呼ばれる独特の窯で釉薬を用いず、焼き締めて作られた。初期には壺や甕、すり鉢などを主に作っていた。江戸時代に入ると登り窯が用いられるようになり、大量生産品としてのすり鉢が堅牢であったため、17世紀には、中部、関東以北に急速に普及し、堺産のすり鉢が18世紀中盤以降に普及するまでは東日本で瀬戸と二分するシェアを誇った。一方で、小堀遠州等の影響により、茶碗、茶入、水指といった茶器の分野においても数多くの銘器を生み、京都や美濃焼に影響され、釉薬を用いた陶器が誕生した。江戸時代後期には篠山藩の保護育成などもあり、直作、一房、花遊、一此、市作など世に名を轟かせる陶芸家を輩出した。
窖窯時代には小野原焼と呼ばれていたが、登り窯時代に至って、現在の呼び名である丹波焼あるいは立杭焼の呼称が確立し、1978年(昭和53年)には丹波立杭焼の名称で国の伝統的工芸品指定を受けた。現在、今田町上立杭、下立杭、釜屋地区の窯元は約60軒あり、今田以外にも丹波立杭焼を名乗る窯元が多数ある。
東京ドームで毎年開催される陶器展であるテーブルウェア・フェスティバル(読売新聞社、株式会社東京ドーム主催、経済産業省、東京都後援)に毎年のように出展している。
[編集]陶器まつり

毎年10月の第3土曜、日曜日には「陶器まつり」が開催され、普段は人通りもまばらな窯元の立ち並ぶ小路まで多くの人々が繰り出し終日賑わう。
[編集]周辺観光

画像:丹波立杭焼陶の郷展示もみじA217541.jpg
陶の郷展示場
立杭陶の郷
それぞれの窯元にも展示室が設けられているが、敷居が高く入りにくい雰囲気があった。丹波立杭陶磁器協同組合が運営する「立杭陶の郷」には近代的な建物に56の窯元の作品がそれぞれの窯元別に展示販売されており、作風の違いを確かめながら自由に選ぶことができ、年間十数万人の集客がある。
崑の村[1]
お笑い芸人である大村崑が別荘を観光地としても解放しており、昭和の雰囲気を味わうことができる。立杭陶の郷のすぐ側にある。
[編集]関連項目

兵庫陶芸美術館
丹波伝統工芸公園
立杭陶の郷
出石焼
出石磁器トリエンナーレ
日本の陶磁器産地一覧
市野重義
登り窯
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